無責任賛歌
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2002年10月17日(木) フェチじゃないモン!/『東京少年物語』(羅川真里茂)/『冷暗所保管』(ナンシー関)ほか

 仕事が連日ムチャクチャ重なっている。
 〆切ギリギリまでかかってた私が悪いと言えば悪いのだが、別に〆切破ってる訳じゃないんだがなあ。神経質な人間が多いよ、ウチの職場……と愚痴っても仕方がないので必死で仕事を片付ける。でもメシ食う時間くらいはくれ。


 父に電話をして、例のアラーキーの写真撮影のことをどうするか聞いてみたが、撮影日が平日なのでやめた、と言う。六十過ぎてまだそこまで仕事に拘るかなあ、と思ったが、多分それは表向きで、自分の老いを写真で確認したくはなかったのだろう。老化を受け入れるほどには父のメンタリティは強くはない。無理強いは出来ないなあ、と思ったので、諦める。
 しげに「おまえは写してもらいたくない?」と聞いたが「興味ない」とこれもニベもなく断られた。まあ、福岡嫌いのしげに「福岡の顔」の写真集に載ることには忸怩たるものがあると思うが、それがかえって面白いと思ったんだがなあ。どちらにしろ応募するのは諦めた。父かしげのどちらかがその気になってくれれば、私も一緒に、と思っていたのだけれど。


 山本弘さんとこのホームページ『SF秘密基地』、ようやく荒らしがひと段落したようである。昨日の日記には「某掲示板」と書いたが、これであまり遠慮して書かなくてもよくなったかな。
 ほぼ同一人物と見られる某氏、以前は単に中傷の書きこみを続けていただけだったのが、名前を変えて他人のフリをしたり、また実際に他人のHNを使って書きこんだり、ここんとこやりたい放題をしていた。ただの感情的な書きこみだけではバレると思ったのか、いかにも冷静な法律家、というフリをして「法律に詳しい者です」とか言って「山本弘さんの行為は名誉毀損に当たります」とか批判してたのだが、フツー、自分で自分のことを「法律に詳しい」とか言ったりしないよな。弁護士なら弁護士とちゃんと肩書き言うし。これだけでも当人が権威主義者だってことがバレバレ。こういう「自分は冷静だ」と主張する人間が冷静だったためしは100%ないんだけどね。
 サーバーに連絡して、警告してもらったそうだけれど、さて、かなり有名な荒らしさんであるらしいから、これで引き下がったりはすまい。あくまで今回の件は「ひと段落」に過ぎないのであって、多分荒らしはもっと悪質化してくると思われる。イヤなタトエではあるが、こういう事件は相手が小さな罪を犯してる段階ではどうにもできないんであって、エスカレートしていった末にホントに大事件でも起こしてくれないと取り締まれないんである。寸借詐欺が実際には咎められないのと同じで法の抜け穴ってやつですな。その点、確かにこの人、「法に詳しい」のかもしれない。
 けど、荒らしを横行させた責任、ここに集ってた常連さんの何人かにもあると思うんだけど、あまりそのこと認識してる様子がなかった。何度も「荒らしは放置で」と警告されてたのに、まずそれが荒らしかどうかの判断すらついてない人が結構いたのである。文章力もない人間に手もなく踊らされてるのだから、そのレベルの低さは荒らしさんとどっこいどっこいなんだけれど、そのことを自覚してなかったので、荒らしさんをやたら図に乗らせていたのである。
 さすがに今回の件で反省したのか、何人か荒らしを煽ってた常連さんたちは、掲示板に顔を出さなくなってきた。でも、気付くの遅いよな。人間、やはり失敗しないと自分を顧みられないものらしい。常連さんでまだ若干名、荒らしにレスつけたがるオッチョコチョイさんが残ってるみたいなので、似たようなトラブルが起こる可能性は残ってるが、おそらくはもう大々的なことにはなるまい。っつーか、ならないようにしろよ、常連さん。

 掲示板も新しくなって、「原作とアニメ、どっちが上か」とか、まったりとした話題が続いている。なんかもー、学生の頃を思い出すなあ。平和でいいこっちゃ。もっとも、こういうたわいのない会話に参加しにくくなっちゃったのはそれだけこちらがトシを取ったということでもあるのだが(この日記でできるだけ「たわいのないこと」をさも「重大なこと」のように針小棒大に語っているのは、実は私の心のリハビリの意味もあったのである)。

 山本さんの掲示板に書きこむつもりはないけれど、原作が小説で、それが映像化された場合、その表現方法が違っている以上、本来「どちらが上か」というのは比較しても詮無いことである。カレーライスとラーメンのどっちが好きかってのは同じ食料だから比較できるけれど、カレーライスとテレビアニメのどっちが好きかなんて比較、したって意味はないってことなんで。同じ芸術だからって視点で比較できるんじゃないかって思われる向きもあろうが、「音楽と絵画とどちらの芸術性が上か?」ってのも比較できないのと同じである。
 にもかかわらず、原作が映像化された時に「ストーリーを改変している」「声のイメージが合わない」「作画がボロボロ」とか原作と比較してモノを言うことができるように錯覚するのは、あくまで原作を「素材」としているからなので、言ってみれば食材の調理法を云々しているに過ぎない。アニメ化された作品が原作より面白く感じたからと言って、それは原作とアニメの目指すベクトルが違っていて、見る者の主観がアニメのベクトルに引かれたってだけのことに過ぎないんで、原作の完成度が低いってことにはならないのである。逆に原作をアニメより面白いと考える場合も同様。
 『カリオストロの城』が映画としては面白くても、「『ルパン三世』としてはつまらない」と言われるのもそのためである。だから、私は、あるときは「『カリオストロ』最高! 原作はつまんない」と言うときもあるし、「あれ、『ルパン三世』じゃなくて『コナン三世』じゃん」と言うときもあるのである。視点を変えりゃ批評なんてどうとでもなるということなので、私のこの日記の批評を読んで、「私の好きな作品を貶したな!」とご立腹されることがあっても、あまり気にしないで下さい。誉めろといわれれば、昨日貶した作品でも誉めます。いやあ、『GMK』は今世紀最高のゴジラ映画だ!
 ……何を怖がってんのかな、おれ(^_^;)。


 マンガ、羅川真里茂『東京少年物語』(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。
 表題作のシリーズ2編ほか、『がんばってや』を収録。
 どれも「都会と地方」をモチーフにした作品になっているが、ありがちな「都会は人情が薄く、地方は厚い」的な発想で描かれているのはやや頂けない。単に他国の文化に馴染めないってだけのことでしょうに。物語としてのまとまりがいだけに浅薄な感情で描かれてる部分が目立つところが惜しまれる。

 『東京少年物語・1』が描かれたのが平成3年、『2』が平成6年、『がんばってや』が平成13年と、収録作の制作に10年の開きがあるのだが、ご本人は「絵が変わってない(進歩してない)」と卑下されてるが、どうしてどうして、着実に進歩なさっておられる。確かに丸顔の大きな瞳の、マンガチックなキャラクターであることに違いはないのだが、初期はもうともかく「絵を描いてる」という雰囲気でしかなかったものが、後期にはちゃんと「人間」を描けるようになっている。……わかりやすく言えば、人物の区別がつくようになってるんだな(^o^)。人物の表情が初期はみんな同じで、泣こうが笑おうが記号にしかすぎなかったものが、最新作では「この表情はこの子にしか出来ないよなあ」という絵がたくさん描かれている。こりゃ大進歩ってもんでしょう。『ニューヨーク・ニューヨーク』のようなハードな作品を読んだあとだと、ストーリー的にはどうしてもたわいのない印象を持ってしまうのだが、絵で見せてくれるというのは立派な力量だと思う。
 特に『がんばってや』の丸山舞子の関西女キャラクターは秀逸。東京人が関西女をマンガに登場させると、どうしてもうるさい、がさつ、男勝り、といったステロタイプで描かれることが多いのだが、実際に大阪女の全てがそうであったら、大阪は喋くりの騒音で道も歩けまい。もちろん舞子にもそういう特徴はあるのだが、ちょっとした表情や仕草で、繊細で微妙なときめきや切なさを表現している。青森出身で、方言コンプレックスから他人とうまく喋れない岸本寛治を、抱きかかえるようにして(っつーか、押さえつけて)泣きそうな顔で「人を……嫌いにならんといて……」なんて言うのだよ、この子は。いや、現実にこういう女の子がいたら惚れるで(^o^)。
 羅川さんは青森出身なのだろうか、一般的に東北出身者は関西より西の人たちと違って言語コンプレックスが強いようである。寛治のように、必死で訛りを直そうとする傾向が強いのではないか。それに比べて関西人は東京でもあくまで関西弁で通そうとしているように見受けられて、傲岸不遜に見える。九州人はたいてい共通語を話そうとするが、それは東北人のようなコンプレックスゆえではなくて、外国で外国語を喋るのは当たり前、という感覚であろう。その点、鹿児島出身という設定の幹悟が「他の人と話すとき相手に通じる言葉言うのは当たり前じゃっど」と語るのはいかにも九州人。羅川さん、よく観察してるなあ。
 いろいろな地方の出身者が交流する物語はそれこそ漱石の『三四郎』の昔から数限りなく書かれているわけだが、その地方性をおさえつつも決してステロタイプに陥らないように描くというのはなかなか簡単ではない。『がんばってや』は成功作の部類に入るのではないか。
 

 ナンシー関『テレビ消灯時間�ぁ[箘貼衒欖鼻戞癖現嬖幻法�440円)。
 もう四ヶ月である。
 その間もテレビではどうでもいい番組を垂れ流し続けているわけだが、ふと気付いたら、ナンシーさんだったらなんて言うかなあ、と考えてたりするのだ。その人の不在をこれだけ意識してしまうというのも、やはりナンシーさんが「今」を生きていたことの証明なのだろう。
 今巻でナンシーさんの俎上に上げられた芸能人たちも50人を越える。彼ら彼女らについての文章を読むたびに思うことは、「そいつ誰?」である。いや、これは別に私が芸能人のことに疎くて、聞いたこともない人についてクビを捻っている、ということではない。その人の名前は知っている、テレビで姿を見たこともある。けれど、その人が「誰」であるかは分らない、そういう状況が生まれてしまっているのが今のテレビ界ではなかろうか。
 一例を挙げよう。磯野貴理子という人がいる。彼女は『ごきげんよう』というトーク番組に出ている。他にもいくつかのバラエティに出てたと思うが、ともかくナンシーさんが語るのは、彼女が同番組でどのような位置に立っているかだ。
 ナンシーさんは「貴理子はサイコロトークの『象徴』である」と説く。で、ナンシーさんにそう断言されたら、確かに彼女はそれ以上のものでもそれ以下でもないなあ、と我々は認識する。考えてみたら、彼女が何者であるかを、番組内で全く提示していないことに気付く。そして思うのだ。「磯野貴理子って、誰?」。
 ナンシーさんの批評は、「彼ら彼女らが何であるか?」という分析ではなく、ひたすら「彼ら彼女らがどう見えるか?」を指摘するものだ。だから「こいつら何者?」という疑問が常に前面に押し出されることになる。結果として、我々はその対象となるバラエティやトレンディドラマに興味を抱くことになる。貶しがかえって番組の「格」を「底上げ」することになっていたのだ。
 しかし、そういう効果も、悪口を表面的にしか捉えられない人には理解の範疇の外だろう。ナンシーさんがいなくなったことで、テレビ番組が本当にただのつまらないものに成り下がってしまった。生きておられたら『逮捕しちゃうぞ!』や『アルジャーノン』や『天才柳沢教授』をどう貶してくれるか楽しみだったのだが。
 え? おまえはその三本、どう見たかって? 見てませんとも。見てどうしろっていうのですか? 「批評は見て言え」というのは私のモットーではありますが、事前に批評したくなる情報がなきゃ、私は見ません。全ての番組を見ることなんて不可能ですから。

 
 しげがバイト先の同僚の人からドラマ『ビューティフルライフ』のビデオを全話分、借りてくる。こりゃまたいったいどういう風の吹きまわしかと聞いてみたら、「渡部が出てるし」。
 そう言えばしげ、渡部篤郎のファンだったな。聞いてみればなるほどであるが、ちょうど今し方、ナンシーさんの本の中で、「『ビューティフルライフ』のキムタクはどうしてハナをすするのか」って記事を読んだばかりだったから、そのシンクロニシティには驚いた。
 トレンディドラマの類は全くと言っていいくらい見ないので、『ビューティフルライフ』も今回初めて見たのだが、昔ながらの難病悲恋モノだったのね。常盤貴子が車椅子の難病さんで最終回で死んじゃうのである。つまり『愛と死を見つめて』の現代版ってわけだね。イマドキこんな古臭いテーマの話をやるのかとは思ったが、どの世代の人間も、この手の話を自分の世代の物語として持っていたいものなのかもしれないな。私の世代の場合はやっぱり山口百恵、三浦友和の『風立ちぬ』あたりかね。大映制作のドラマにも似たようなのあった気はするが、あの手の番組に私はあまりハマらなかったんで。
 木村拓也と常盤貴子の絡み、案外悪くはない。もっともそれはたわいのない会話のシーンに限ってであって、シリアスなシーンになるとてんでダメである。セリフに全くと言っていいほど説得力がない。しかし、これは必ずしも役者の演技力ばかりを責められる問題ではないかもしれない。と言うのも、北川吏枝子の脚本、普通の会話のときは「超マジ?」みたいな若者言葉を多用していてこれはこれで自然な印象を与えるのだが、ラブシーンなんかになると途端にセリフが臭くなってしまうのだ。「この世に生まれてきてアナタと出会えて幸せだった」とかなんとか、もう大時代的でねえ。キムタクのナレーションの「これが彼女がナニナニした最初で最後だった」みたいな言い回しも、劇中のセリフに比べると全然上滑りで真剣味がない。
 でもなあ、じゃあ、ラブシーンをイマドキの若者言葉で情感こめて言えるかって言ったら、やっぱりムリだわなあ。「アタシィ、ナンカァ、アンタのことって好きになったみたいナァ?」……こんな喋り方で告白する女がいたら殺して埋めたくなると思うが、それともイマドキの若者はこんな喋り方でも気持ちが伝わり合うものなのだろうか。
 どちらにせよ、ドラマのセリフとして、シリアスシーンに若者言葉は使えない。結果的に三文芝居のようなセリフが横行することになる。トレンディドラマというやつがどうしようもないのは、たとえどんなに脚本家が心血を注いでドラマを書いたところで、主人公を演じているのがもともとシリアスな恋愛言葉を持たない若者世代であるという時点で、アウトになっちゃってるのではないか。
 それが証拠に、『ビューティフルライフ』で一番ドラマとしておもしろかったのは、コメディリリーフである渡部篤郎と水野美紀の絡みだったのである。渡部はこのドラマでは徹底的に恋愛音痴な純情バカ(でもえっちはする)を演じていて、女心のカケラもわからぬドジを見せまくるのだが、ここまでバカだと女は惚れるしかない、という様子が実にリアルに伝わってくるのである。ハッキリ言わせてもらえば、このドラマの渡部に惚れない女は女としての価値がない。「だってバカじゃん」なんて嘯く女は簀巻きにして海にたたっこめ。キムタクより渡部のほうがよっぽど「男」だぞ。
 しげも「渡部いい!」と言いつつ、ひと晩徹夜で全話見切りやがった。……熱入ってんなあ。私は途中で仮眠取ったってのに。


 さて、もはや最近の恒例となりつつある私としげのノロケ話のことである。
 と言っても、私としげはそんなこと話してる意識は全くなかったりする。たんにしげのアホを私がたしなめているだけなのだが、どうも世間的にはこれがラブラブな関係に映って見えるらしい。人によっては「パソコンのディスプレイを蹴たくりたくなった」とのたまわれた方もおられるが、そんなことをしたらパソコンが壊れちゃいませんか。
 で、そういう方にはもしかしたら以下のやりとりも「ノロケ」に聞こえるのかもしれない。私はただのバカ話だと思うのだが。
 しげは全く唐突に脈絡もなく私に「ちゅー」を求めてくるクセがある。もちろんこれはネズミの声真似ではない。私はたいていの場合それを拒絶する。何しろしげの「ちゅー」は風情と言うものがカケラもないのだ。唇とんがらせてタコのように突出されたからって、誰がそんなもんに口を付けるか。
 しげは「何で? 夫婦やん!」と文句をつけるが、夫婦だからって、やっていいことといけないことの区別はあろう。セクハラ(あるいはドメスティックバイオレンスか)に対抗して何が悪い。
 「だってアンタからしてくれんやん!」
 とブスブス言うので、
 「してるよ、寝顔に」
 と答えると、
 「オレ、認識してないやん! そんなん死体に『ちゅー』してるのと同じやん! あんた死体フェチか!」
 とヒドイことを言う。
 「だって動いてるお前より動いてないお前のほうがかわいいんだからしかたないやん。イヤなら動いてる時もかわいくなれば?」
 と突き放す。夫婦と言えば家族、家族で「ちゅー」しあうなんて、外人じゃあるまいし、そんな変態行為ができるわけがない。第一、しげはいったん私の口に吸い付いたら、スッポンのごとく離れようとしない。私の肺から酸素を吸い尽くさんばかりに「ふん! ふん! ふん! ふん!」と吸いまくるので、マジで呼吸困難に陥るのである。なぜたかが「ちゅー」で命を賭けねばならないのか。
 そんなに酸素がほしいなら酸素ボンベ買え。
 ……どうでしたか? 全然ノロケじゃないでしょ?

2001年10月17日(水) 踊る私と寝る私/映画『十兵衛暗殺剣』/『ザッツ・ハリウッド』ほか
2000年10月17日(火) 博多弁とベターハーフと女好きな女と/映画『知らなすぎた男』


2002年10月16日(水) 合宿落穂拾い・その他盛り沢山/『ナジカ電撃作戦』2巻(田代琢也)

 今日も残業、しげはまたもや駐車場待ちである。予め残業になるとわかってりゃ連絡も出来るが、たいてい突発的なのでしげには堪えてもらうしかない。でもしげのストレス、確実にたまってきているようで、無意味に「あんたのせいやけんね」と絡んでくるのが最近のしげの日課になってるのである。
 車に乗り込むなり、しげ、「腹が痛い、あんたのせいやけんね」と訴えてきた。
 「何でおまえの腹痛がオレのせいなんだよ」
 「だってあんたの妻やん。『一心童貞』やろ?」
 意味不明だ。もう今さら突っ込む気にもなれない。脱力したまま相手にしないでいると、シツコク話を続けてくる。
 「便に不純物が混じっとったとよ」
 なんだか汚い話になりそうだったので聞きたくもなかったが、もちろんしげは私の困惑になど頓着するはずもない。
 「細長いのがあるなあと思って見たら、昨日食べた糸コンニャクやった」
 糸コンが消化されないなんて、どういう消化器官をしているのか。
 「……噛まずに食ってんじゃないのか? 食うの早いし」
 「そんなことないよ」
 「噛まずに早食いして、そのまま寝こけて腹出して寝てるから腹コワすんだよ」
 「腹出してないよ、オレ」
 「出してんの! オレいつも見てんだから。自分がどれだけ寝相悪いか知らんめえ?」
 「でも、オレが朝起きたとき、ちゃんとフトンの中にいるよ?」
 「オレがフトンかけてやってるからだよ!」
 ああ、またアホの相手をしてしまった。体力消耗するだけなのになあ。


 晩飯はまたもや「めしや丼」。変わり映えのしないメニューだが、今日は珍しく、秋の限定メニューとして、カキフライ定食がある。カキフライのほかにミニ鯖と冷奴もついてくるので、これに納豆をプラスして食べる。
 しげはここではチキン南蛮しか食わないので書くのも面倒臭くて省略しているのだが、「なんでチキン南蛮しか食わないんだよ」と聞いたら、「好きなんだもん」とヒトコト。「だってあと目玉焼きと冷奴もついてきたりするんだよ?」。
 いや、そういうことが聞きたいわけじゃなくて、自分で自分の栄養バランスとか考えないかって意味だったんだが。しげに人間の会話を求めたのが間違いだった(-_-;)。それがわかってて、どうして私も聞くかな。

 昨日読んだ『辣韮の皮』に、「ジョー」と聞いて、アニメ・特撮キャラの誰を思い浮かべるか、というネタがあった。オタクなら一度は会話した経験のあるものだが、そこに紹介されてたのが、「あしたのジョー(矢吹丈)」「ジョー東」「ジョー(若草物語)」「島村ジョー」「東丈」「G.I.ジョー」「コンドルのジョー」。答え方によって、その人の好みだけでなく、「世代」も浮かび上がってしまうというちょっと怖い質問である。今時の若い人はもう、『幻魔大戦』や『ガッチャマン』は知らないらしいぞ。(T-T) グスッ。
 ためしに、しげに「お前はなにを思い浮かべる?」と聞いてみたら、「先にマンガ読んじゃったから、もうそれ以外の思いつかないよ」と言う。
 「でも、最初マンガ読んだとき、ひとコマ目で自分はこれだなって、パッと思い浮かべるやん」
 「思い浮かべる前に次のコマ読んでるよう」
 「……おまえ、そんなに頭の回転速度遅いんかい」
 「(`´)あんたはなにか思い浮かべたん?」
 「オレはやっぱり島村ジョーだよ」
 「ふうん」
 「でも二番目はダイナマイトジョーだな」
 ……ここで受けてくれた人は私の同志です♪


 帰宅してパソコンを覗くと、しげが先日の合宿の様子を劇団ホームページにアップしている。
 しかし、これがまた状況がよくわからず、説明不足のところが多い。「どういうことか?」としげに突っ込みを入れる。以下はしげの原文のまま。*( )内が解説である。



今回は10月12〜14のPPP初合宿の模様を報告。

12日12時に集合。まずは買出し。主に酒。酒、酒。
高速に乗る前にご飯。そこで飯炊き係のハカセより衝撃の報告!


 *(「ハカセ」とは穂稀嬢のこと。三平方の定理もコロンブスの大陸発見も知らないくせに、なぜか高校を卒業出来たが、本人曰く、「成績なんて悪くても先生を○○○て、○○○○しちゃったら簡単ですよお」。日本の教育の未来は暗い)


2日目夜は飲み会の予定。だが、つまみを「本当の」おつまみしか用意してないとのこと(例:ちくわ、きゅうり・・・)!!
全員(主に私と姉さん)怒り狂う。
「酒飲むのにつまみだけだと!?」
「やっぱバーベキューでしょう!!」
「俺たちゃ食うよ!?」
急遽スーパーへ。肉を買う。
そして出発。


 *(「姉さん」というのはよしひと嬢のこと。メンバー中、一番のオ・ト・ナである。全く、彼女がいなかったら、ウチの劇団どうなってることか。
 今回、メンバーは山間のコテージみたいなところでキャンプしたのである。つまり、予め食材を買っておいて、そこで調理をすることになってるのだが、その買い出しを脳味噌にシワのない穂稀嬢一人に任せたのだ。無謀である。穂稀嬢、「一人頭、八百円ですみましたよ〜」とか脳天気なコト言ってたらしいが、二日間、酒とツマミだけで過ごせると思ってたのだろうか。これが男に貢がせて自分は働かない女の感性と言うものであろう)


高速を1時間くらい走って現場へ。
山道ではひと山越えるまでいっこも信号がありませんでした。
目的のキャンプ場へつく。
簡単に片付けとかしてさっそく台本読み。
不穏な台詞に隣のコテージの人が何事かと時々こっちを覗いてたらしい。


 *(「不穏な台詞」というのは私の書いた第一稿のこと。「殺す」の「殺さない」のっていろいろ書いたからなあ。いきなり山間でそんなこと喋ってたら、確かに通りがかりの人には「不穏」に聞こえるだろう。隣のコテージとは結構距離も離れてたそうだが、芝居の練習なので、声が響いていたと思われる。窓からこちらを覗く人々を目撃していたのは円谷くん。彼は今回出番がないにもかかわらず合宿に参加した。いろいろあって、今は寂しがりやさんらしい)


よるめし。やきそば。
大変なことが発覚。油がない・・・。何とかして食った・・・。


 *(私「油買い忘れてたのかよ」。しげ「うん」。どうやら水で食ったらしいが食えないわけじゃあるまい。表現が大袈裟なのである。)


夜。練習してから就寝。
寝つけねぇ・・・。
姉さんはいつもの通り即寝。


 *(しげのメンタリティは小学生でストップしているので、旅行になると興奮して眠れなくなる。結局合宿中は殆ど寝てないそうだ。逆に「どこでも寝れる」がよしひと嬢の特技だが、こちらはこちらで無防備過ぎると思う)


明け方ハカセとごろちゃんのイチャつき声がうるさくて目覚める。が、根性で寝る。
ハカセ、見境無しはやめろ。


 *(「ごろちゃん」というのは円谷くんの愛称。野口五郎に似ているからである。ここだけ読むと、円谷くんと穂稀嬢がいかにも仲がよくて、朝っぱらからナニしているように見えるが、実際はこの二人、恋人同士でもなんでもない。単に無駄話をしていただけだそうだが、二人とも口調がイマドキの若者言葉で、しげは聞いててイライラしたのでこんな書き方をしたのだそうな。故意に悪意で書いてるのである。これはいくらなんでも誤解を招くぞ、ということで注釈。でも穂稀嬢が見境無しなのは半分事実だ)


れんすう。
走ったり腹筋したりする。
あさめし食ってまたれんしゅ。そのうち、『自分はなぜ芝居をするのか』なんてまじめな話とかする。あんまウチらしくないか?


 *(劇団ホームページの方、最近閑古鳥が鳴いているので、掲示板に、塩浦嬢が「みんな芝居する気あるの?」と書きこんだのがきっかけと思われる。私もたびたびしげたちには苦言を呈してはいるのだが、どうも反応が無い。それぞれに「やる気」はあるのだろうが、それが学芸会レベルじゃあ、お客さんは増えていかないと思うが。別にイデオロギー云々を言いたい訳ではなく、客を呼べる芝居を作るってどういうことかを考えなきゃ、というレベルの問題なのである)


ひるめし食ってれんすうしてるところにラクーンドッグさん合流。
今回の客演快く受けてくださる。助かった・・・。
なんで、本物キャストで初読み合わせ。
いろいろ意見交換。


 *(ラクーンさんはネットで知り合った演劇仲間。前回の公演にも下働きして頂いた。脚本は当初、「女三人で」という依頼であったが、とてもじゃないが今の彼女たちの演技力ではメリハリのつくものになりそうもなかったので、「男がほしい」とムリヤリ脚本にねじ込んだのである。ラクーンさんが引き受けてくれなかったら、最悪の場合、東京のこうたろうくんに台本送って、公演当日ライブでやってもらおうかとまで考えていた。一応台本の検討はマジメにして、女性陣の配役なんかを相談した模様である。)


夜めしは待ちに待った飲み会&バーベキュー。
焼き、食い、ひたすら飲む。
バーベーキューが終わっても室内に入りまだ飲む。
結局6時間くらいはやってました。
眠い人から順次風呂入って寝ました。
布団入ってからもまだ語ってたけどね。


 *(体重また増えたろうなあ。演技に響かないのか)


3日目朝。残った食材をとにかくチャーハンにして食う。
そして出発。
いったん基山パーキングで落ち合い、次回の再会を約束して別れた我々であった。


 *(私「材料余ったんなら持ち帰ればよかったじゃん」。しげ「とにかく食うことしか頭になかった」。やっぱり食欲魔人である。でもこういう「合宿」を通じてメンバーの結束が固まるのならええこっちゃ)




 文化庁が、昨日15日、日本の現代文学を海外に普及させようと、今年度から始める翻訳事業の対象として、作家27人の作品を選定。選考に当たった委員は、田辺聖子氏、福田和也氏ら5人。「外国人に一定の評価が見込まれる」という選考基準で選んだそうだけれど、さて、その「外国人」というのがいったいナニジンを想定してるんだかね。それに外国人に「評価してもらう」ために翻訳するんじゃ意味ないでしょ、とも思うのだが、とりあえず、そのラインナップは面白い。

 ▽芥川龍之介(作品未定)
 ▽石原慎太郎 わが人生の時の時
 ▽内田百�痢〔重咫ξ構臚�城式
 ▽岡本綺堂 半七捕物帳(第一巻)
 ▽獅子文六 自由学校
 ▽島田荘司 占星術殺人事件
 ▽曽野綾子 天上の青
 ▽樋口一葉 たけくらべ・にごりえ・十三夜
 ▽宮本輝 錦繍
 ▽山田詠美 ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨
 ▽逢坂剛 斜影はるかな国
 ▽大岡昇平 武蔵野夫人
 ▽大佛次郎 赤穂浪士
 ▽梶井基次郎(作品未定)
 ▽川口松太郎 しぐれ茶屋おりく
 ▽北方謙三 檻
 ▽小島信夫 抱擁家族
 ▽末永直海 百円シンガー極楽天使
 ▽永井荷風 腕くらべ、または「ボク東綺譚」(ボクはサンズイに「墨」)
 ▽夏目漱石 坊っちゃん
 ▽長谷川伸 日本捕虜志
 ▽林芙美子 浮雲
 ▽藤沢周平(作品未定)
 ▽山田太一 異人たちとの夏
 ▽夢野久作 ドグラ・マグラ
 ▽横森理香 ぼぎちん バブル純愛物語
 ▽吉行淳之介 夕暮まで

 ははは、この中で読んでるの、作品未定を除けば、岡本綺堂、島田荘司、樋口一葉、大仏次郎、永井荷風、夏目漱石、夢野久作、吉行淳之介と、これだけしかないや。林芙美子と山田太一は映画版ですませてる。小島信夫は確か大学の課題にあって読んだ気もするが記憶にない。いかに私の知識が偏っているかかが丸わかりなのだが、偏見を省みずにものを言うと、やっぱりどうしたって注釈つけなきゃピンと来ない作品が圧倒的に多いんじゃないかってことだ。
 誰の小説だったか、海外で紹介された時に、本文中の女性の形容で「浅丘ルリ子のような」という表現が、「ブリジット・バルドーのような」と翻案されたことがあった。この場合の浅丘ルリ子は、もちろん日活時代の純情可憐な時期のイメージである。それがまたなにをトチ狂ってBBになっちゃうかね。まだしもオードリー・ヘップバーンに比定してくれたほうがマシだった。
 ことほどさように日本人の感覚の翻訳は一通りではないのだが、まあやらないよりやったほうが面白いし、個人的には島田荘司と夢野久作が海外でどんな評価を受けるのか気になるところだ。『占星術殺人事件』は、ミステリとして評価してもらうなら、アレはちょっとなあって出来なんだけど。『ドグラマグラ』の「スチャラカチャカポコ」なんて擬音、そのまんま訳すんだろうなあ。


 マンガ、スタジオファンタジア原作・田代琢也作画『ナジカ電撃作戦』2巻(メディアファクトリー/MFコミックスフラッパーシリーズ・540円。
 アニメの方は終わっちゃったけれど、マンガはちゃんと続いているのは嬉しい。絵はそんなに上手くないし、パンチラもマンガだとたいしてインパクトはないのだけれど、リラがやっぱりかわいいからいいのだ。
 この「人の手によって作られたがために人間的感情に乏しいロボット(あるいはそれに類するもの)が、トンチンカンな行動をしつつも次第に感情を手に入れて行く」というパターンは、もちろんSF作品には随所に見られていてルーツをたどることすら難しいのだが(ピグマリオンにまで行っちゃうしね)、この手の話を特に好んだのは日本人であるように思う。
 『撰集抄』「西行於高野奥造人事」に、高野山に篭った西行法師が、孤独に堪えかねて、反魂の秘術を用いて人間を作ったが、それは心のない人間だったために置き捨てた、というエピソードがある。私はこの話を最初、諸星大二郎の『妖怪ハンター』最終回「死人帰り」で知ったのだが(作者本人が気に入らなかったらしく、現在は同シリーズから削除されていて読めない)、その話を聞いてすぐに思い浮かべたのは言わずと知れた手塚治虫の『鉄腕アトム』であった。
 天馬博士がトビオを作ったのも息子を亡くした「孤独」ゆえであったし、成長しないトビオをサーカスに叩き売ったのもヒドイ話だったが(昭和初期まではサーカスにいる少年少女はみんな売られてきたのだという都市伝説があったんですよ)、もとネタをこの西行のエピソードにおいていることはまず間違いのないところだ(『フランケンシュタイン』はもっと後だしね)。
 この、人造人間が一旦人間に捨てられる、という過程を辿ることは意外に重要ではないかと思う。西行の作った人間モドキは打ち捨てられたままであったが、日本のテレビアニメに登場するロボットたちは実際「道具に使われる」「捨てられる」「壊される」とやたら悲惨な目にあっているのだ。そして、その行き付く先は「造物主への反乱」である。アトムの『青騎士』における「人間め!!」という涙の絶叫を覚えておられる方も多かろう。例が古いってんなら『エヴァ』の綾波の「私はあなたの人形じゃない」はどうだ。
 思うに、日本において「親子」の関係というのは、はるか昔から極めて希薄なものであったのだ。聖書における最初の殺人がカインとアベルの兄弟間の嫉妬が原因であったのに対し、日本神話のそれはイザナギ・イザナミによるわが子ヒルコの遺棄である。自らの血を残すのであれば跡継は一人だけで充分であるし、自分の意に染まぬ子であるなら捨て去ることは親の権利ですらあった。
 なんで日本人がそうなっちゃったかってのを分析するのはちょっくら複雑で一言では言えないのだが、閉鎖されたムラ社会が基盤になっていて、貧困との戦いが日常であったかつての日本人にとっては、「オトナになりきれないコドモ」というのは、生活上、やはり厄介者以外のなにものでもなかったからではないかと思う。外敵と戦うためには親子の絆を強める必要があった西洋人と違って、日本人の戦う相手は「自然」だけでよかった。そのため、子への情愛、なんてあやふやなものはたいして顧みられることもなく、ただひたすら自分が生きて行くことだけを優先させて来たのである。
 その結果、西洋では「親子の絆」というものが無条件に保証されるようになったが(おそらくは中国・朝鮮などのアジアもそうだ)、日本では、親は親として範を示し、子は子として自らが「役に立つ」存在であることを明確な形で提示せねば簡単に廃嫡の対象となった。日本人の親子間には、そういう冷徹な現実が常に日常的な問題としてあったのである。親による子の「勘当」という概念が、その縁切りの理由を「子としての不行跡」に求められていたのも、その顕著な例であるだろう。
 親子が血で血を争う物語は、日本では特に珍しいものではない。
 親が子を虐待するニュースが頻繁に流れるようになって、マスコミはさも昔の親子が温かい家庭を築いていたような幻想を撒き散らしているが、そんなのはウソである。昔の親は自分の意に染まなければ簡単に子供を虐待していたし、それが子供の命の危険に至ることも決して少なくはなかった。私だって、酔った親に殴られ蹴られ、鉄板を投げつけられ、殺されかけたことは数えきれないほどある。でもそれが当時の「フツー」であったのだ(そうでないと思ってる4、50代の親は、過去の記憶を忘れているか、その意味を理解していないのである)。これで親子の間に通常の意味での「愛情」が生まれると考えるのは脳天気に過ぎるというものだ。たとえ親が自分を不必要としていても、そこに絆を求めなければならないところに、子の苦しみが常に存在していたのである。
 日本のアニメーション作品にはどうしてロボットものが多いのか、しかもそのロボットが心を獲得して行くパターンがなぜ多いのか(巨大ロボットものにすらその特徴が随所に見られる)、さらには心を持ったロボットが自らの存在異議について悩むパターンがいかに多いか、これは日本人の持つ「子殺し」の記憶に対する贖罪の意味が強いのではないか、と思うのだ。
 『アトム』しかり、『ジャイアント・ロボ』しかり、『キカイダー』しかり。もしかしたら我々は、たとえそれが本当のわが子であったとしても、作ってはいけない子供を作ってしまった罪悪感から子供を育てているめんがあるのではないか。
 リラもまた、アニメ版ではナジカに反逆し、物語を終えるのだが(おお、やっと『ナジカ』の話に戻った♪)、初めリラを拒絶していたナジカが少しずつリラに人間らしさを認めていくのに反比例するように、ナジカを慕っていたリラはやがてナジカに対立するようになる。リラを初め、ヒューマリットが「愛玩用」として開発された側面があることはそれとなく暗示されているが(今巻ではリラがまさしく「アイドル」になる話もあるぞ)、自らが人間の「オモチャ」であったことを自覚したとき、「作られた子供たち」は今度は生みの親である人間たちを殺す物語を自らの道として選択するようになるのである。まあ、マンガの中のリラはまだひたすらボケててかわいいだけだけど。
 この血塗られた伝承を断ち切るのには「子をなさない」ことしかありえないようにも思うが、もしかしたら現在の少子化現象は、日本人の遺伝子がこれ以上の殺伐とした親子関係を抑制しようと考えた結果なのかも。……なわけないけど、これ、そのモチーフで小説書いたら結構面白いSFになりそうだな(^^)。


 あ、あと今日見た『ヒカルの碁』はまたもや作画レベルが落ちてました。総集編やった意味ないぞ。

2001年10月16日(火) ココロを濡らす雨……詩人だなあ(どこが)/『エンジェル・ハート』1巻(北条司)ほか
2000年10月16日(月) ファジー理論とエスパーとサイボーグと/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第一話ほか


2002年10月15日(火) トンデモ傷つきブリッコの世界/ドラマ『鬼畜』/『辣韮の皮』2巻(阿部川キネコ)/『ななか6/17』8巻(八神健)

 仕事が忙しくなってきて、残業が続く。
 しげを6時過ぎまで駐車場で待たせてしまっているので、頗る機嫌が悪い。
 「遅れると分ってたら、『レッド・プラネット』、全部見てくるんだった」
 「テレビでやってたんかい」
 「うん、WOWOW。どのチャンネル見ても『5人の帰国』しかやってなかったから」
 ああ、そう言えば今日が帰国日だったっけ。なんだか興味が薄れてきているので、新聞記事もあまり注目してなかった。
 「ずっと生中継で『今どこそこに移動してます』とか実況中継してても、そんなの面白くもなんともないし」
 確かにハイジャック事件とかあさま山荘事件とか(映画になったから、あまり古い話題でもないよな)、「次に何が起こるか分らない」事態と違うからなあ。拉致自体は事件でも、帰国は事件じゃないじゃん。見てて何か面白いのか?
 何年か前のバスジャック事件だって、映像自体は退屈なんである。あんな、なんの変哲もない映像がニュースとしての価値を持つのは、ひとえに視聴者の想像力に依拠しているからにほかならない。でも別に想像なんてしたくないしな、こっちは。
 しげは脳天気に「どいつがアイドルになるかな?」なんて言っている。
 「アイドルってどういう意味だよ?」
 「5人の中にカッコイイ人がいたら、その人がみんなのアイドルになるかと思って」
 全く、事件の重大さなんて何も考えてない発言だな(^_^;)。人によっては人非人の発想だと非難する者もいようが、庶民の関心なんて実はこんなものだ。でも政治的な発言をすることでいかにも一家言があるように見せかける薄っぺらなメンタリティの持ち主に比べりゃ、よっぽどマシと言うものである。
 ついでに、「おまえが北朝鮮に拉致られたらどうする? 自分が生きるために国を売るか、自殺するか」と聞いてみる。
 「別に北朝鮮が住みよかったらそこに住むよ。でも相手がイヤなヤツだったら自殺するかな」
 拉致するヤツがいいヤツってこたないような気もするが。韓国の拉致被害者の家族も、北朝鮮に対して抗議行動を行っているらしいが、早晩、こちらも拉致を認めなければならなくなるのだろう。金正日、本気で引退後(あるいは統合後)の身の安全を考えてるんじゃないかって気がしてきたなあ。こうも路線変更し始めたの、もしかしたら跡継に国を任すのが不安になってきたからかも。だってアレ、ただのオタクだし(^o^)。ネクストジェネレーションになった途端に国が滅ぶと踏んでる人間、北朝鮮内にも多かったりしてな。
 となると、拉致被害者を帰国させた遠因は日本アニメの隆盛にありと言えなくもないかも。言えんかな(^_^;)。

 しげ、仕事までに時間がないというので、夕食はマクドナルドでハンバーガーをテイクアウト。なんでもいいから買ってくれ、としげに頼んだら、ビッグマックセットを頼まれた。以前、こればっか食ってたからなあ(^_^;)。でも実は最近のマイブームは59円バーガーだったりするんだけど。これ三つ買った方が安いよな。『わしズム』で小林よしのりが「非衛生的な肉」と扱き下ろしてたが、さて、今ドキ健康な食品なんてどれだけあるものか。おキレイ好きが高じて、ちょっとでも汚いものを見ると毛嫌いするようになるのは差別意識の始まりだと思うけどね。そっちのほうがよっぽど非衛生的じゃん。


 夕方、『火曜サスペンス劇場1000回突破記念作品 松本清張スペシャル 鬼畜』、CMカットしながら録画。
 仕事に出かけるしげから、「絶対録っとってね!」とクギを刺されていたので、片時も気が抜けない。2時間24分の放送枠だが、CMカットすればピッタリ2時間に収まるのである。
 初め、ステレオにし損なって、1分ほど石丸博也の副音声を録りそこなったが、なんとか録り損ねずにすんだ。失敗してたらしげからどれだけ恨まれたことか。
 というのも、しげは数ある日本映画の中でも、野村芳太郎監督版の『鬼畜』(昭和53<1978>年)が一番好きなのである(今回の監督は田中登)。私も松本清張の映画化作品の中ではこれが最高傑作だと思うから、結婚前、お互いに『鬼畜』が好きだと言うことで意気統合したのであった。そのころしげはまだ女子高生。いいトシしたオトナが女子高生と「あの子供を崖から落とすところがいいよねー」とか喋りあってる風景って、あまりゾッとしないよな(^_^;)。

 『鬼畜』をご存知ない方のために、簡単に説明しておくと、この映画・ドラマの原作は、松本清張が知り合いの検事から聞いた実話をもとに脚色した犯罪小説である。愛人に産ませた三人の子供の始末に困った男が、子供を次々に崖から落として殺した、という事件。今でこそ親が子供を虐待して殺すケースは頻繁にニュースになってはいるものの、原作発表時の昭和32<1957>年には、相当ショッキングだと考えられたのだろう、下の赤ん坊こそ事故死に見せかけて殺したものの、長男と長女は命が助かる形に変更された。
 最初の映画化では、緒形拳、岩下志麻、小川真由美の三人が好演し、三者三様の「鬼畜ぶり」を披露してくれた。あれだけの傑作に仕上がっていれば、再映像化はなかなかに困難である。その困難に挑戦した結果は如何、と、期待と不安が入り混じった形で今回のドラマ化を見てみたのだが……。
 ……驚いたね。出来がいいか悪いかって以前に、これ、「盗作」じゃないの? いや、そこまで言うのは言いすぎかもしれないが、映画版の『鬼畜』をそのままなぞった描写があまりにも多すぎるのだ。少なくとも脚本家の「節度」を疑う作りになっているのは確か。
 もちろん原作が同じだから似るのは当たり前、という面はあろう。しかし、先の映画版には、脚本の井出雅人がオリジナルで付け加えたシークエンスが結構あるのだが、それを今回の脚本家の佐伯俊道、ほとんどそのまま流用しているのである。一番顕著なのはラストシーンである。犯人の父親が逮捕されて、殺そうとした子供と対面するシーンは、実は原作にはない。セリフが一字一句同じというわけではないのだが、子供が父親を父親と認めないところ、父親が泣き崩れる状況、その展開はそっくりそのままだ。……こりゃ、やっちゃいけないよなあ。
 映画版を見ていなければ、そんなことには普通、気がつかない。しかし、『鬼畜』は清張作品の代表作の一つでもあるのだ。原作と映画とドラマと、その三つを全部見ている人も結構いるはずだ。なのに、こんなパクリがバレないとでも思ったのだろうか。もしかしたら佐伯俊道、老人ボケが始まってるのかもしれない。
 この老人ボケ説、案外当たっているかもしれない。というのも、今回のドラマ化でのオリジナルシーン、例えば前回の映画では初めの30分ほどで姿を消す愛人が、今回は二度再登場するのである。しかし、一度目はともかく、二度目の登場は、はっきり言ってドラマ的には全く意味がない。男が逮捕され、呆けて留守をしている妻のところに愛人がやってくる。
 「あの子たちを返して!」
 「もう遅いのよ!」
 妻はヒステリックに叫ぶが、このシーンはこれで終わり。自分の産んだ子が殺されたってのに、そのあとのリアクションを全く描かないというのはいったいどうしたわけか。ともかく、意味不明な原作の改変が多過ぎる。
 原作からの変更、という点では、登場人物の名前もそうだ。前回の映画化は原作のとおりだったが、今回は主人公の印刷工、竹中宗吉は竹中保夫に、妻のお梅は春江に、長男の利一は保に、愛人の菊代は昌代に変更されている。……要するに名前の語感が古臭いからってことかね。名前だけ変えたって、キャストがみんなどヘタくそじゃなあ。保夫のビートたけしはビートたけしの演技しかできないし、昌代の室井滋と春江の黒木瞳は、まだキャストを逆にしたほうがマシである。そして、三人が三人とも、鬼畜ぶりが甘い。先の映画版の足元にも及ばぬ薄さ、貧弱さである。
 ……火サスは所詮、火サスなのかね。なんだか口直しに野村版『鬼畜』を見たくなっちゃったなあ。


 そのままダラダラとテレビを見てたら、『踊るさんま御殿』に三船美佳が出演していた。結婚してもうしばらく経つけど、ようやくハタチになったようだ。けど、さんまの「もうリコンしたんかいな?」というボケにマジギレ。瀬川瑛子のツッコミでなんとか笑いに落とせていたが、精神年齢はやはりオトナになりきれていないようである。『友情』に出たころには本格的な女優を目指すのかとちょっと期待してたんだけど、こんな堪え性のない性格じゃちょっとねえ。
 しかしこの人、父親の三船敏郎にも母親の喜多川美佳にも似てないが、隔世遺伝なのか?
 実は三船美佳はどうでもよくて、今回大変だったのは千石規子さんである。もうトシはいくつだ、大正11(1922)年生まれってことはちょうど80歳か、これがまあ、ちょっとどころでなくて危ないのである(・・;)。
 本番中にいきなり寝るのもなんだかなあ、なんだが、何を聞かれても受け答えが「何十年女優やってると思ってんの〜?」「私は私〜」である。でも何となく会話が繋がってるように聞こえなくもないのは、誰かブレーンがいて、何を聞かれてもこう答えなさい、ってレクチャーしてるんじゃないか。ここはさんまに「ボケとるがな!」と突っ込んで欲しかったのだが、さんまは形式的にコケて見せるばかり。あのコケ、「この人には何も突っ込めません」という記号なんで、じつはフォローにもなんにもなってない。三船美佳に対してひたすら謝ってたのと同じで、これって、かえって千石さんを「神棚」に隔絶して置いてきぼりにしちゃうことになってんだよね。たとえ相手が話がマトモに通じる相手でないとわかっても、怒るなり笑うなり、積極的な働きかけをしなきゃ、そこに人間関係は生まれないと思うんだが。
 いつのころからか、お年寄りをバラエティで使うのに(というか弄るのに)、そのトンチンカンな返事にコケて見せる、お手上げして見せる、というパターンができあがっちゃってる感がある。まあ、ヘタに「ボケたんかオマエは!」とかやっちゃうと、視聴者から「お年よりをバカにするとはケシカラン!」と抗議がくるからやれないんだろうけど、昔は吉本新喜劇の平参平を弄る時のように(まあ、あの人は芸でボケてたのか本当にボケてたのかあまり区別のつかない人だったが)、本気でそのボケにハラを立てて振りまわすドツキ倒す、ということをしていたものだ。それでいて別に舞台上の出来事が現実の差別に繋がると考えるほど、昔の観客はアホではなかったのである。
 なんだか、コメディとバラエティの区別がつかなくなってからこっち、「差別ギャグ」が対象の存在肯定になってるって仕組みが理解されなくなってきてる気がするなあ。キレイゴト言ってる連中ほど、自分の差別性に気付いてないよな。
 ……なんか今日、差別のことについてばかり考えてるなあ。それくらい無自覚な差別者が世間に横溢してるってことなんだけどね。
 でも、さんまに「あなたの出演者に対する気遣いはかえって差別です。もっと相手を罵倒しコケにしなさい」と言っても聞きゃしないのはわかる。仮にさんまが認めても、三船美佳が許さない(^_^;)。自分が被害者だと思いこんでる人間に何を言ったって無駄だもんな。私も腐るほどそういう経験してきましたです、はい(-_-;)。
 こないだ島田伸介が『行列のできる法律事務所』で「アシスタントを罵倒する発言が名誉毀損」と非難されてたけど、その根拠は、パネラーの弁護士の全員、見事にバラバラだった。言い替えればどんなにテキトーな理由でも被害者ぶれば相手を名誉毀損に持ちこむことが可能だってことだ。犯罪的だよな。どこぞの掲示板で「名誉毀損で訴えてやる!」みたいなことを叫んでる○○○○がいるが、管理人さんも困ってることだろう。
 罵倒や悪口が本当に相手を傷つけるものかどうか、キッチリ線引きなんてできるものではない。いい加減、「バラエティは人をバカにして笑いを取るから不快」なんて幼稚な意見を吐くのやめようよ。誰に言ってんだ、俺。


 マンガ、阿部川キネコ『辣韮の皮 萌えろ!杜の宮高校漫画研究部』2巻(ワニブックス/GUM COMICS・819円)。
 おお、無事に2巻が出たか。オタク以外に誰が読むんだって気はするが、掲載誌の『コミック・ガム』もオタク雑誌だからいいのか。
 今巻の新登場キャラは仮面ライダーオタクの漫研部顧問、ジャスティス(^o^)と、新寺部長の姉、同人作家の花京院艶子。後者は明らかに作者本人がモデルだな。同人女って意外とオタク男を毛嫌いするものだけれど(同族嫌悪か?)、阿部川さんは結構、心が広いような気がする。何しろこのマンガ、一般社会にはちょっと溶け込めなさそうなオタクを何人も登場させてはいるのだけれど、その中で一番マトモな人格者が、デブでメガネの少女マンガマニアなのである。そうだ! デブでメガネで汗っかきで石森章太郎や大島弓子のファンに悪人はいないのだ!(自分に向かって言うなよ)
 ジャスティス(自称。本名が「正義」だからである)みたいなオタクな教師って、意外と多そうな気はするが、生物のテストで「ライダー1号からアマゾンまでのそれぞれのもとになったと思われる生物を答えよ」なんて問題出してたらクビになるんじゃないか。まあ、そこまででなくても、校長から叱責くらいはくらいそうな気はするが(けど、この問題、1号・2号=バッタ、アマゾン=トカゲ、ストロンガー=カブトムシは知ってたが、V3とXはなんだったっけ? ……とかなんとか言ってたら、山本弘さんとこの掲示板に全部紹介されていた。結構アバウトだったんだね)。
 「『龍騎』なぞ我々に言わせればライダーではないね!! あれはガンダムで言うトコロのGガンダムなのだよ!!」……熱いなあ、この教師。徳光康之の濃爆オタク先生はガンダムからサクラ大戦に転んでオタクとしてのステイタスを自ら放棄してしまったが、ジャスティスは大丈夫そうだ(^_^;)。
 だいたい、このタトエ自体、「ガンダムシリーズにおけるGガンの位置」を知らないと理解できまいにねえ。主人公でオタクだけれど美少女系な滝沢くんは、これに「ガンダムじゃないですかー」と返してしまうのだ。あまつさえ、「ハカイダーって何代目のライダーなんですか?」と来たもんだ。こういうヤカラ。現実にいるしな。そういうヤツはたとえどんな美少女であろうと、いな、美少女であればなおのこと○○して○○○して○○○○○○○○○○○○、どうか。

 今回は巻末に昨年のSF大会のレポートもあり。昔から吾妻ひでおとか、SF大会のリポートマンガを描いてる人は多いけど、そろそろ1冊にまとめたらどうかなあ。けど、一人のマンガ家さんじゃとてもその全貌は窺い知れまい。同大会のレポートはエロの冒険者さんも書かれているが、全くと言っていいほど内容が重なっていない。それくらいイベントの数が多いのだ。
 エロさんが『クレヨンしんちゃん部屋』に行ってる時に阿部川さんは『さいとうちほ&幾原邦彦が語るウテナから最新作まで』を覗いている。私がもし行ってたらやっぱり『ウテナ』の方に行くだろうな。それは別に『クレヨンしんちゃん』より『ウテナ』が上、と考えているわけではなく、唐沢さんたちが何を語るかはだいたい見当がつくからである。
 『トゥーン大好き!』コーナーには阿部川さんも参加してたはずだが、例の大川周明……じゃなくて○○り○○○おの唐沢さん帽子トバし事件の顛末は一切描いていない。まあ、『ガム』の読者に「SF大会は怖い」イメージを抱かれちゃ困るだろうから、そりゃ当然なんだけれども。……それはそれとして阿部川さん、少し似顔絵の練習した方がいいと思うぞ。松本零士も武田康廣も庵野秀明も樋口真嗣もみな同じ顔というのはちょっとなあ。


 マンガ、八神健『ななか6/17』8巻(秋田書店・410円)。
 アニメ化も決定したそうで、まずはめでたい。
 前巻までは新キャラをやたら出しまくって、ちょっとテコ入れ気味の話も多かったが、やっぱりこのシリーズは稔二と二人の七華、そして雨宮さんの三人(四人?)で成り立っているのである。
 16歳の七華と6歳のななかという「二重人格」の設定は、初め三角関係のドロドロになりかねない三人の関係をオブラートに包む働きをしていた。その機能はまだ働いてはいるが、この「二人の七華」の対立が、ここに来て一気に急展開を見せはじめる。
 16歳の七華は、自分の中から6歳のななかを消そうとする。しかも、まずは雨宮さんを利用しようとし、次には自ら6歳のななかを演じて稔二を騙し……。
 二人の七華は同じ七華であってやはり別の人格。それを「同じ七華じゃねーか」と叫ぶ稔二は、やはり七華の苦しみを理解しきれてはいなかった。そして6歳のななかは、稔二に嫌われたと思い込み姿を消す。しかし、そのとき稔二が流した涙は、16歳の七華が望んだ自分のための涙ではなかった……。
 いやあ、いいなあ、16歳の七華の悪辣さ。嫉妬に狂ったオンナの恐ろしさを少年マンガで堂々とやっちゃう潔さにも感心。こういう描写は、手加減しちゃうとかえってつまんなくなっちゃうからね。やはり「一旦は」6歳のななかに消えてもらわねば収まりがつくまい。そしてこの展開は、「二人の七華のどちらかが生き残るのか?(あるいは統合されるのか?)」という疑問を、久しぶりに読者に突きつける形になった(ここしばらくナアナアなラブコメ的展開が多かったからなあ)。うん、『ななか』って、結構ハードな物語だったんだよ。
 でも、まだ最終回じゃない(^o^)。次巻予告に出てきたキャラは男か女か?

2001年10月15日(月) カチカチ山の……/ドラマ『着ながし奉行』
2000年10月15日(日) ステーキとモーレツとSFミステリと/『海底密室』(三雲岳斗)ほか


2002年10月14日(月) 若本規夫賛江/映画『サイン』/『エドワード・ゴーリーの世界』(濱中利信編・柴田元幸・江國香織)

 三連休最後の日。
 せっかくの三連休、ただ無為に過ごすのもなんだよなあ、と思ったので、ちょこちょこと部屋を片付ける。
 とりあえず新聞を片付けて、本を積み上げてケモノ道を作る。
 休みの間、何もしてなかったとしげに言われたかないしな。仕事がなくてしげに甲斐性があれば本気で主夫してーよ。


 昼間、ヨナさんとこのチャットを覗いてたら、ちょうどユースケさんに出会う。チャットの経験もそれなりに重ねてきたつもりではあったが、やはり顔を知ってる方と違って、語りかけ方に気を遣う。話題が合わないんじゃないかとか、オタクだとバレると嫌われるんじゃないかとか(^_^;)。
 差し触りのないところで、カラオケ話でお茶を濁したが、やはりチャットに参加しようと思うなら、趣味は幅広く持っておかねばならんよなあ、と思うのである。入りはしたが、語ることが何もないではなぜそこにいるかが解らない。人の顔色を見て空気を読みつつ、ということもできないので、ともかく話題だけが頼りってとこがある。
 最低限の一般常識も持った上で、さらに自分の個性を訴えることのいかに難しいことか。いつもいつも思うことだが、みなさんと語っていると、自分自身の無個性ぶりがコンプレックスになって胸がズキズキしてくるのだ。
 ユースケさんが落ちたあと、ヨナさんとちょっと会話。「女の子はどうしてお互いにチチを揉みたがるのか」とセクハラで不遜な話題。男は絶対、○○でない限り、○○○○揉みあったりしないもんな。
 ふざけてるようだが、これは突き詰めて考えていけば結構マトモなSEX論になりそうだ、と思ったのだが、そろそろしげが合宿から帰ってくるので、中途で退出。ちょっと思ったが、実は女性とはもともとユニ・セックスなのではなかろうか。「男」という性自体が実は存在自体、アブノーマルなのである。いや、根拠はあまり考えてないので、そのうち資料なんかも調べて考えてみようかな。


 昼過ぎになって、しげ、合宿から帰ってくる。どんな様子だったか聞いてみたかったが、よっぽどぶっくたびれてたらしく、「眠い」と言ってそのままフトンに倒れこむ。
 「合宿の間、眠ってなかったのかよ」
 旅行に行くときはいつもそうだが、緊張して寝付けなかったらしい。
 「よしひと姉様はすごいよ、どこでも寝れるから。夜もすぐ寝たし、車の中でも寝てたし」
 人生の半分を寝て暮らしてるしげには言われたくないセリフだな。
 帰ってきたら一緒に映画に行くとか言ってたけど、こりゃ今日もダメかな、と思ってたら、7時を過ぎたころに、トイレに起きてきた。ちゃんと起きるためには寝る前に水分をたくさん取っておく、というのも一つの手であろう。これだと私の場合、睡眠が2時間でもなんとか起きられる。ただ、これが続けられるのは私のトシでは二日が限度だ。
 掲示板にレスなど付けたあと、キャナルシティに向かう。

 ラーメン食いたいとしげが言うので、久しぶりにキャナルシティのラーメンスタジアムに行く。
 若本規夫のナレーション、相変わらず「ラーアアアアアメン者たちよ!」と全開バリバリである。マジでスカールが演じてるように聞こえるぞ。これ、CD出してくれんかなあ。この日記見てる人でキャナルシティの関係者いないか。こそっとテープ廻してくれ(^^)。
 「ちよ父」もいいけど、若本さんの代表作はこのナレーションであると断言しよう(^o^)。
 しげは餃子のある店にしか入りたがらないので、「むつみ屋」か東京ラーメン「香月」かで迷うが、ジャンケンで香月に決める。と言っても、勝った方の好きな店に入ろう、と決めといたのに、勝ったしげがどっちか決められなかったので手近なところに入ったただけなのだが。ジャンケンした意味ねーな。
 二人で豚の角煮醤油ラーメン。別に相談して一緒にしたわけでなく、気が合っただけなのだが、案外しげはこういうのを喜ばない。同じメニューだとこちらの具をピンハネできないからである。とことん実利的なやっちゃ。
 醤油ラーメンのわりにえらく油が浮いている。スープを飲んでみると見た目ほどしつこくはないが、もう少しあっさりした味を期待していたので、ちょっと首を傾げる。もしかしたら東京で出してるものと違って、豚骨ベースにしてるのではないか。これがもし、福岡の人間は豚骨、という摺り込みでされたことだとしたらマジでゆゆしき事態である。全国各地のラーメンが食えるというラーメンスタジアムのコンセプトが崩れちゃうではないか。それどころか、福岡の人間はともかく豚骨しか食わない舌バカ、と思われてるんじゃないかと心配になってくる。……もう遅いのかなあ。


 福家書店を回ってコミックスの新刊を何冊か買ったあと、AMCで映画『サイン』。
 相変わらずしげは、M・ナイト・シャマラン監督の“M”を「ミッド」だと主張する。ミッドナイト・シャマランって、そりゃナニジンだよ。
 しげにはほかにもこの手のアホ話がやたらとあって、「ねえ、エドガー・アラン・ポーって、エドガーとアランとポーなの?」って意味不明のものもある。そんなこと言ってたら、パブロ・ピカソは何人いるんだ(本名がすげー長いんである)。多分、しげの脳構造は人間のものと違ってるんだろうな、あれ、エイリアンだから。
 シャマラン監督がどうしてMをイニシャルのままにしているのか、理由はよく知らないが、多分インド系の人だから発音が難しいとか、あるいは宗教上の理由があるとかそんなんじゃないかね。
 それはそれとして、今回、批評が殆ど書けないのである。ヒッチコックの『サイコ』あたりが嚆矢だと思うが、いわゆる「この結末は誰にも話さないで下さい」ってやつだね。『シックス・センス』でも『アンブレイカブル』でもそうだったけれど、それに触れずに感想を述べることがそもそも不可能な映画なんである。
 予告編で仰々しく紹介されてたミステリーサークル、これが果たして大掛かりなイタズラなのか宇宙人のシワザなのか、それとも全く別のものなのか、この謎の答えをヒミツにしてくれと言われちゃ、もう話自体が進められない。もちろんネットを散策すりゃあ、ネタバレ思いっきりしてるとこだってゴマンとあるだろうが、一応ミステリファンのハシクレとしては、まあ、三年は秘密にしておきたい(『影武者』かよ)。
 というわけでストーリーも一切言わないで、感想だけ述べれば、限りなくフツー。堅実と言えばこれほど堅実な演出もない。シャマラン監督、今回は『シックス・センス』や『アンブレイカブル』のときのような無意味などんでん返しは全く行わなかった。伏線は全てラストに向かって有機的に築き上げられているから、素直に見ていけば、ラストもまあ、物語としては納得できるのである。もっとも、あの作品やあの作品にインスパイアされたんじゃないかなってのは今回も強く思った。ただ、それは欠点とまでは言えない。
 でも、だからって面白いとは限らないんだよねー。映画としての欠点はないが、ツッコミどころは腐るほどある。そのツッコミどころも全て謎に絡んでるからやっぱり書けないのだが。
 しょうがないからもう、演技的なことを書くくらいしかないが、メル・ギブソン、最初から最後まで同じ表情。『身代金』の時もそうだったから、この人の演技ってやつがパターン化されてきてるってことじゃないのかね。今回の映画にこの人の重々しすぎる演技が合ってたかどうかってのは賛否が分れるところだろう。
 どっちかって言うと、今回はオトナより子役二人の名演が光るな。カルキンくんは目にクマのできたマコーレー(^^)。いやあ、あの暗さがいいねえ。特にあそこんとことかあそこんとことか。アビゲイルちゃんは、角度によってはなんかデクノボーに見えるが、真正面から表情をしっかり撮ると映える。アチラは子役もしっかり演技指導されてるんだろうなあ。アレがアレした時のあの仕草はすげーかわいかったな(^o^)。
 何が言いたいんだか、具体的なことを書かないでは全く分らないだろうが、仕方がない。まあ、リピーターが出るのも分るなあ、とは思うのである。かと言って、ホントにありふれた映画なんで、さほどお奨めはしませんが。


 濱中利信編・柴田元幸・江國香織ほか『エドワード・ゴーリーの世界』(河出書房新社・1575円)。
 ネットで『The Wonderful World of Edward Gorey』というホームページを開設している濱中さんによる、日本初のゴーリー解説本。ゴーリーの作品紹介など、ホームページからの流用も多いが、やはり本として手に取って読めるというのは嬉しい。カラーページで様々なゴーリー・グッズを見られる楽しさ。Tシャツほしいなあ。
 ゴーリー作品の魅力をヒトコトで伝えるのは難しい。
 その諧謔、皮肉、悪意、狂気と混乱、嗜虐と被虐、暗さ、奇怪さ、ブラックユーモア、いくら言葉を尽くしても、ほんの一端しか語れていないように思う。しかし、その一端を分析し、集めて行くことで成り立っているのがこの本だ。そこにはこれまで見えてこなかったゴーリーの魅力が横溢している。
 ともかく、ゴーリーに関する情報なんて、ついこの間までは皆無に等しかったから、ともかくページを捲るたびに新情報が次々に飛びこんできて、ワクワクしてくるのだ。
 日本で最初にエドワード・ゴーリーを紹介したのは、かの植草甚一氏で。1976年12月、『ミステリマガジン』誌上に『オードリー・ゴアの遺産』が載ったのが最初だったとか。全っ然知らんかったわ。そうと知ってりゃ、こないだ東京に行ったときにミステリ文学資料館で、『MM』のバックナンバー探してみるんだった。まあ、この手の後悔はしょっちゅうすることではある。
 ゴーリーが日本通であった事実も読んでビックリである。『源氏物語』が愛読書で(サイデンステッカー訳だろうか。十数回読み返したというから本格的である)、成瀬巳喜男のファンって、渋すぎるぞ。今時の日本人でもそんなん、そうそういないって。確かに人間の不幸を冷徹に見つめる視点は、成瀬監督と共通するものがある。考えてみたら、一人の女が全く報われることなく一生を終える林芙美子原作の成瀬監督作『浮雲』などは、ゴーリーの『不幸な子供』そのまんまじゃないか。脳天気なハッピーエンドドラマがキライな向きには(私だが)こたえられない魅力なのだ。
 アメリカの『Mystery!』という番組(NHKで放送してた『シャーロック・ホームズ』や『ポワロ』、『ブラウン神父』や『ジキルとハイド』などのシリーズを放送していた枠だそうな。初期のホストは何とビンセント・プライス!)ではゴーリー氏はオープニング・アニメーションを担当していたとか。見てみてえー! ともかくゴーリーのミステリファンぶりはものすごいものだったらしく、特にアガサ・クリスティーはお気に入りで全作五回は読み返してたとか。「ミステリーは読み捨てるものではない、読み返すものだ」と言う氏の意見には激しく賛同。でも『X‐ファイル』の大ファンだったってのは少々頂けないが(^^)。
 柴田元幸、江國香織両氏との対談で濱中さんが明かしていることだが、ホームページにアクセスしてくる全世界のゴーリーファン、相当濃い人ばかりのようである。アメリカ人で「ゴーリーとガッチャマンのグッズは全部集める」と豪語している人がいるそうだが、どんな人間なんだ(^_^;)。そこまではいかなくとも、少なくとも日本で集められるゴーリー関係のものはこれから集めて行こうと思っている。ああ。またハマっちゃったものが増えて行くなあ……。
 てなこと言いながら、新刊の『敬虔な幼子』(ゴーリーにはときどき別名で作品を発表するクセがあって、これもその一つ。でも「エドワード・ゴーリー」のアナグラムになってるので本人だとすぐわかる。本作は「レジーラ・ダウディ」名義で発表された。このあたりもゴーリーがミステリファンである証拠)、まだ買ってないんだよなあ。っつーか近所の本屋じゃ見かけない。やっぱり天神の福家書店まで行かないとダメか。

2001年10月14日(日) 新番紹介、大トリ!/アニメ『サイボーグ009』第1話「誕生」
2000年10月14日(土) 「野草」刈りと漂泊者と生ベルばらと/『あこがれの遠い土地』(トーベ・ヤンソン)ほか


2002年10月13日(日) 芸のためならって問題でもないんだけど/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』3巻/アニメ『サイボーグ009完結編』

 朝は爆睡。起きたらまた昼の12時である。連休はどうしたって気が抜けるなあ。
 もう最近はハナちゃんがどんなトラブル起こしてるかもわかんなくなっちゃってるよ。ライダーはもう13人分ったのかな。羽田さんまだ下手なトーク続けてるのか。ぴたテン、少しは作画マシになってないかなあ。
 そろそろ朝ちゃんと起きて、午前中のうちに原稿書いたりホームページの準備をしたり、建設的な生活をしたいものだが。


 『アッコにおまかせ』を何気なく見ていたら、水沢アキが17歳当時、森本レオにレイプされたのを激白したとか。30年前ってことだからもう彼女も47歳か……遠い目(いや、若い頃はいろいろおセワに)。一見、清純派に見えるんで、ウチの親父なども隠れファンだったのだが、実は結構若い頃から2時間ドラマなどでレイプされる役など演じてたのである。心にキズ持っててよく演じられたなあ。
 事件の経過は、本人の談によれば、当時、毎日テレビのドラマ『夏に来た娘』で共演していた森本に「演技指導してあげるから」と言われて、自宅へ招かれたところ、フトンが敷いてあって押し倒されたということである。今になってどうして告白したかというと、最近、森本の不倫騒動が報じられて、自分と同じような目に合ってる人がいるのを考えたらガマンできなくなって、ということだ。
 突然30年前の古傷をえぐられた森本レオの方は、「オトナの付き合いでした」とレイプを全面否定。なんだか初めから真相は藪の中って感じだ。
 普通ならレイプの報道ということになれば、加害者である森本レオ、ケシクリカラン、ということになりそうなものだが、和田アキ子も峰竜太もアリとキリギリスも小池栄子も(こうして並べると濃いメンツだよな)、ほぼ一方的に「なんで今さら、水沢アキ」という意見に終始している。……嫌われてるんだなあ、水沢アキ。
 何しろ、「仮にレイプが事実でも時効」「森本レオが名誉毀損で訴えて、売名行為が立証されたら水沢アキのほうが罪になる」とまでフリップを用意して説明してるのだから、念が入っている。
 確かに、これまでレイプの事実を「黙っていた」ということは、本人の体と心の傷がいかに大きかろうと、客観的にはそのレイプの事実を「許容していた」と見なされても仕方がない面がある。言っちゃなんだが、その30年の年月の間に、水沢アキの心の中で合意の行為だったものがレイプにすり返られた可能性だって否定はできないのだ。人間の心って、それくらいの記憶操作は簡単にする。
 ただ、和田アキ子たちが水沢アキに対して怒りを露わにしているのは、必ずしも彼女の告白の信憑性を云々しているわけではないようだ。和田アキ子はいつものかるーい調子で(でもドスは利いた声で)「私なら、レイプされてても30年経って言ったりしないな」と発言していた(もちろん「するほうじゃん」とのツッコミあり)が、そのウラには、大なり小なり、自らの身を犠牲にして今の立場を築いてきた芸能人としての呪詛が篭っているように思える。なんか呪詛なんて言い方をするとえらく重く聞こえるかも知れないが、やはり芸能界、特に役者の世界は「体張ってなんぼ」の世界なのである。法がどうの、女性の権利がどうのと言ったようなキレイゴトなんて通りゃしない。やはり映画版『Wの悲劇』での三田佳子のセリフ、「あなただってカラダ使いませんでした?」ってのは真実であるのだ。「たかがレイプごときでなぜ騒ぐ」、これが口にこそしないが、芸能人たちの一般常識なのだろう。
 これが、告白したのが一般の女性であったなら、たとえそれが売名行為であったとしてもこういった反応は少なかったのではないかと思う。「シロウト女を犯して捨てた悪いヤツ」という、森本レオに対するダメージのほうが大きかったのではないか。なんで被害者である水沢アキのほうが槍玉に上げられるかというと、つまりは彼女が30年間、役者として一歩も進歩してこなかったということが、今回の告白でバレちゃったからなのだ(水沢アキって役者だったの? という声も聞こえてきそうだな)。
 「犯されるのも芸のコヤシ」、というのはムチャクチャな論理ではあるが、それは役者の世界において一面の真実であることは間違いのないことなのだ。彼女の行為はシロウトの行為でこそあれ、役者のソレではない。「これで自分が干されても構わない」とか決意表明のようなことを言ってるらしいが、彼女が干されるとしたら、芸能界のタブーを犯したからではなく、単に「使えねえ」役者だからだろう。今後の経緯がどうなるか知らんが、まあ水沢アキの決意に反して「レイプ? それがどしたの?」ってことで流されちゃうんじゃないかね。
 こんなこと書いてるからって、私がレイプを肯定してる、なんて誤読しないようにね。もともと反道徳的な世界の論理を、杓子定規に一般的な正論で判断しようとしたら、かえって現実から目を背けることになるよって話なんでね。これはまあ、素直に「水沢アキの売名行為(レイプも多分、彼女の被害妄想)」と捉えといて構わないと思うけど、いかがでしょうか。

 続いてもう一つの「今さら」話、荻野目慶子さんがもう十年以上も深作欣二さんの愛人だったんですって。これは水沢アキの場合と違って、著書の中で告白してるからまさしく「女優」としての活動の一環。押し倒されたとたん、思わず「カントク!」と叫んだとか、「これはもしかしたら死んだ河合義隆監督が(荻野目慶子と不倫関係にあって自殺したのである)蘇えったのではないか」と考えたとか、キテますねえ、これは(^_^;)。
 深作監督も、ガンの手術をして男でなくなるくらいなら死んだ方がマシだと、命かSEXかでSEXを選んだってんだからねえ、根性入ってるというか、いかにも深作カントクらしいというか。さすがの和田アキ子たちもこのニュースにはヒトコトもコメントしなかった。そりゃ「さいですか」としか言えんよなあ。
 で、彼女がまさしくレイプ経験を芸のコヤシにしてることは、『高校教師』や『忠臣蔵外伝四谷怪談』の狂気の演技で証明ずみ。全く、『獄門島』のころの可憐な美少女はどこに行っちゃったんだか。
 この二つのニュースが並べられてるってのは、全く妙な偶然もあったものである。役者としての軍配は圧倒的に荻野目慶子に挙げられるだろうが、実際に付き合う相手としてどっちがいいかというと、どっちも泣き寝入りしてくれないって点では同じなのである。
 しげはもちろん荻野目慶子タイプだが、もちろん襲われたのは私の方なのである(じゃあ和田アキ子じゃん)。


 せっかくの休みだし、買ったままでまだ見てないDVDを見ようと、まずは1本、アニメ『アベノ橋魔法☆商店街』3巻。
 CS放映時には見損なってた第七話『回想! 魔法商店街☆誕生』、これはこれだけで青春アニメの一編としてよくできてる。『王立宇宙軍』と言い、『ポケットの中の戦争』と言い、通じ合わない恋を描かせたら山賀博之さん、絶品だね。無駄な描写を極力省くテクニックがうまいのだ。
 どういうところかっていうとさ、夢音が好きな相手の阿倍のために弁当を作ってるわけよ。なのにそれを阿倍のところに届けようともしないで、花に黙々と水を遣っている。それを見て、若き日の雅ジイ、嫉妬してその弁当を「阿倍に届けてやるから」と言って取り上げる。夢音は雅ジイを呼びとめようとするけど、すぐに諦める。もちろん、雅ジイはその弁当を届けないで自分で食っちゃうんだが、ゴマで作ったんだか、弁当のハートマークが切ない。
 説明すると陳腐になっちゃうんだけど、もう、この時点で三人の関係は壊れちゃってるのだ。阿倍は雅ジイが夢音のことを好きだと知ってるから、一旦は関係を持ったものの、もう夢音を避けようと思ってる。夢音はもう阿倍が自分の弁当を食べてくれないと知ってるけど、それでも作らないではいられない。雅ジイは嫉妬はしてるけど、弁当をそのままにしている夢音を見てるのがつらくて仕方がないから、それを持って逃げる。夢音だって、雅ジイが自分のことを気遣ってくれてるのが分るから、呼びとめることができない。お互いに相手のことを思っているのに結局ドツボにはまっている様子を、くどい説明をせず、演技だけで示している。こういうのを「演出」というのだ。
 山賀監督、殆ど映画を見ない人らしいけど、こういう脚本が書けるというのはやはりスバラシイ才能だ。だから早いとこ『蒼きウル』作ってよって。
 

 アニメ『サイボーグ009完結編 Conclusion God's War』第二幕「光の羽音(はねおと)」。
 さて、先週見そこなってたので、果たしてどんな出来になっとるものやら、と思ったけれど、作画がやっばりガタガタ(^_^;)。つーか、「文成動画」って、また外注に出したかよ。ラストの5分だけはなんとかまともな作画に戻ったけれど、絵コンテ段階で既に演出のセンス一つ感じられない雑なもの。これが三十年近く待たされた完結編の序章ってか? やっぱり1話分削られたのは、少々きつかったのかなあ。
 こういう中途半端なとこで終わっちゃって、果たして続編は作られるんだろうか。希望としては1年の間を置いて、テレビシリーズ第2部、映像化されてない『海底ピラミッド編』とか『エッダ編』とか『ディープスペース編』とかもやってほしいものだけど(結構『神々との戦い編』に直結しそうなネタを避けてたことから、スタッフはそういう路線も考えてたんじゃないかって気がする)。もちろん最終回は今回の続き、神々との戦いを描いてもらってね。
 今回の『序章』編、神々とは何か、原作の『天使編』ではまさしく「造物主」として描かれていたものが(半村良の『収穫』だね)、今さらハネのはえた天使でもあるまいって判断だったのか、全世界の神話・伝説を統合したような全く違った設定で描かれる、と聞いてたんで、そんな御大層なことができるのかいな、と危惧してはいたのだ。
 で、やっぱりモアイとかみょうちくりんな神殿とか、神の巫女とか、どうしょうもないアイテムばっかり出てくるし(-_-;)。もう既にトンデモ本等が流行したあとじゃ、そんなの、どうにもニセモノくさく見えちゃってねえ。グレイも出てくるんじゃないかとマジで心配しちゃったよ。あの光の中の神(?)がソレ臭いよな。
 神々の正体、『海底ピラミッド編』みたいに姿を見せないままでやるしかないんじゃないかと思ってたけど、それだと009たちのアクションがなくなっちゃうからねえ。だから代理としての巫女を出すのは分るんだけど、せめて演技の付け方、なんとかならなかったものか。この土壇場でスタジオOX、降りてんじゃないよって。
 まあ戦闘服が青くなってたのもねえ、アイデアはいいんだけど色塗りが徹底的にヘタだったから、なんとも地味に見えちゃってさあ。キャラクター、みんな沈んでるよう。いっそのこと最初の映画版みたく、009だけ白にしてくれたらよかったのに。
 もう一つの疑問。『天使編』のラストでも描かれてた。001がみんなに与えたって新しい力、エスパー能力じゃなかったの? 008の「水を自由に操れる」というのはそれっぽいけど、004なんてスキルアップしたってだけじゃん。それは改造手術でなんとかするものであって、001がどうにかできるものでもないように思うんだがなあ。


 連休の合間ということで、一番ゆったりできたが、日記の更新は遅々として進まず。ネット散策して早々と就眠。明日は少しは部屋を片付けようっと。

2001年10月13日(土) 封印/第三舞台『ファントム・ペイン』(鴻上尚史作)/アニメ『カスミン』第1話
2000年10月13日(金) 病気自慢と白髪三千丈と……ね、眠い/映画『レッド・ブロンクス』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)