無責任賛歌
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| 2002年07月26日(金) |
親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか |
『北の国から』がようやく終わるそうである。 そのことを知ったのが、内田有紀と吉岡秀隆の熱愛発覚のニュースなんだけど、もしかして話題作りのためのガセか? でもこの二人なら何となくありそうだよなあ。 10年ほど前のアイドル人気のピークが過ぎて、内田有紀は本気で「役者」になろうと舞台出演などを繰り返している(テレビでは未だにどーでもいー役ばかり振られてるしな)。その意欲は買うけれど、選んだのがつかこうへいの舞台って時点でなんか外してたよな。そして今回が倉本聰である。でもって、吉岡秀隆コースに流れるというのは、演技者としても「転落」っぽいんだけど。なんとなく永瀬正敏と結婚した小泉今日子のラインに乗っちゃった気がしませんか。 これが渡部篤郎と結婚した村上里佳子(RIKACOになってるのか戻ってるのか覚えてねー)だと出世したってイメージなんだけどね。いや、あくまでだのイメージでホントに出世してるかどうかはこれも定かではない。 それはそれとして、シリーズ最終回『北の国から 2002 遺言』である。「遺言」とはまたいかにもクラモトなハッタリかましたタイトルやなあ、と思うが、田中邦衛死ぬのか。ラストが、五郎が静かに息を引き取るシーンで終わったりしたら、倉本版『ゴッドファーザー』って雰囲気になりそうだよな。根は同じだし。 とか言いながら、実は私は『北の国から』シリーズをまともに通して見たことがないのである。初期の作品は児童文学としても評価されてるし、チラチラと見てはいたのだけれど、世間の人ほどハマれはしなかった。まずさだまさしのテーマソングで引いたし(^^)。都会の生活に疲れたからって富良野へってのも短絡的だなあ、と思ったが、倉本さんの作品ってどれもこれも苦悩とか情念とかそんな心のマイナス要因をムリヤリ美化してるような胡散臭さを感じるんでねえ。っつーか、『前略おふくろ様』以降、どれもこれもなんか田舎臭くて。 ああ、でもマトモに見てないのに断定しちゃいかんな。『浮遊雲』は好きでしたね、渡哲也版の。時代考証無視したり、歴史上の人物が素通りするだけのギャグとか。ギャグもっと書いてよ倉本さん。 で、私は今度の『遺言』を見るだろうか。内田有紀の役は人妻だそうだが、全く純っつーか吉岡秀隆は不幸な恋が似合う男だ。
宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(rockin'on/1680円)。 1990年から2002年まで、渋谷陽一による宮崎駿のインタビューを集めたもの。 ……すごいなあ、表紙。タイトルより「宮崎駿」の名前の方が大きいよ。 宮崎さん本人がいくら「宮崎ブランドなんてものはない」と言い張っても、そりゃ通らんリクツだってことだよな。 なんだかなあ、ナウシカ以前から「宮崎駿はいいぞ!」といくら主張しても「ふ〜ん」ですまされてた身にしてみれば隔世の感があるな。今は「『クレヨンしんちゃん』はいいぞ!」と言いまくっててて相手にされてないが。 DVD『名探偵ホームズ』の特典解説で鈴木敏夫プロデューサーが語ってたが、ナウシカ以後でも、『アニメージュ』で宮崎駿を特集すると売り上げが落ちたそうである(←実話)。 1980年代のアニメファンの人気は『ガンダム』『銀河鉄道999』に集中していて、宮崎駿っ誰? ってのが当時の一般常識であった。アニメファンと言っても、『カリオストロの城』の追っかけアクションに驚嘆していた連中はごく少数で、総体として『ヤマト』以降の俄かファンばかり、たいしてオタクとは言えない連中が多かったのだ。……思い返すに、私の周りの人間が濃いドオタクばかりだったというのは僥倖だったのかもしれない(不幸という説もある)。 宮崎駿の名前が本当の意味で「ブランド」となったのは、『となりのトトロ』がキネ旬ベストテンなどで評論家からの評価を得て後のことである(『トトロ』自体の興行はコケた)。具体的には『魔女の宅急便』以降ということになろう。情けない話で、大半の日本人は未だにアニメに対して偏見を持っており、誰かおエラいさんが誉めてくれないと、それが自分の眼で本当に面白いかどうかを確かめようとはしないのである。 そのことを一番身を持って感じているのが宮崎駿だろう。自分が売れない映画を数々作ってきたことも実感しているし、今、売れているからと言って天狗になっているわけでもない。渋谷陽一のヨイショ気味なインタビューにも、宮崎さんは自らの傲慢を(ないわけはないと思うが)戒め、注意深くかわし、それでいて言いたいことは好き放題言っている。全く食えない爺さんだ(^_^;)。 だから、一部の言を切り取って、宮崎駿を批判することは簡単だが、「子供は毎日『トトロ』ばかり見てないで外で遊べ」等のセリフが決して自尊心の裏返しでなく、本気で言ってるんだということもインタビューを通して見えてくる。そりゃ、そんなガキがいたらフツーの親なら少しは外に出ろって言うだろうに。オタクのマイナス面までフォローしてやるのは甘やかしってものである。 宮崎さんはただのエコジジイではない。もっと性根の腐ったクソジジイなんである(←これ、誉め言葉だからね。平凡な人間に傑作は作れないよ)。
仕事帰りの車の中で、しげの職場の裏話を聞く。 いやあ、面白いなあ、これはここに書いておきたいのだが、さすがに個人のプライバシーに関わりすぎるからちょっと憚られるなあ。 と言っても、相手の身を配慮して、なんて殊勝な感覚から遠慮しているわけではないのが私の人間性が腐っているところである(^o^)。
ネットでほかの人の日記を覗いていると、職業からプライバシーからもう曝け出し、なんてものもザラにあって、ハンドルネーム使ってりゃもう何書いてもいいと思ってるんだろうなあ、と感嘆することもしばしばである。 その基本姿勢には大いに共感するが、不思議なもので、自分の内面を思い切り書いときながら、読者から内容について批判的な感想が寄せられたら、今度は自分の殻に閉じこもっちゃってサイトを閉じちゃう人も未だに多い。いったい何を考えてサイト開いたんだろうね。「もう日記を書くのやめようと思います」なんて簡単に書いてたりするけど、初めから何も考えてなかったんじゃないか。 ……こういうこと書くとまた、「人がみんなあなたみたいに強いとは限らないんですよ、救いを求めてサイトを開く人もいるんですから」とか批判を受けたりもするのだが、私ゃ別に強くなんかない。だいたい「トモダチの輪」とか「憩いの場所」を求めてサイトを開くって発想自体、ネットってものの性格が全く理解できてないのではないか。 基本的に、ネットにプライバシーはないのである。 ネット自体が一つの大きなフォークロアの温床であり、そこに「プライバシーを暴くな」なんてキレイゴトを持ちこんだって、そりゃ逆にバカにされるだけの話だ。現実の世界だって人の口に戸は立てられないんだから、真実もデマも含めてウワサが一人歩きするのがネットの特性である。 ネットにだってマナーは必要だろう、という反論もあろうが、「ネットマナー」と言うのは、たとえどんなウワサが流れようが、情報の受け手がそれを鵜呑みにしない姿勢を持つことなんであって、他人に「ウワサを流すな」とか発言の規制をすることではない。掲示板に「中傷の書きこみはご遠慮下さい」と書いてあるサイトは多いが、そんなん本気の荒らしにあったら屁の役にも立ちゃしないでしょ。 要は荒らしにあったらどう対処するかって覚悟が管理人にあるかどうかってことになるんだが、どうもそのへん甘く考えてる人が相変わらず多いみたいなんだよねえ。だからすぐにサイトを閉じてしまう。サイト開くんだったら、自分と合わない意見の書きこみがあることぐらい覚悟しとかないとねえ。 ……山本弘さんとこのSF会議室、定期便のようにトンデモさんが来てるけれど、ホントによく頑張ってるよなあ(^_^;)。
だからまあ、本来日記には何書いたっていいとは思うんだけれど、それでも日記にプライバシーを書きにくいのは、たとえそれがどんなに面白いものであっても、論争になれば、論点が「プライバシーを晒すことの是非」ってことだけに集中してしまうからである。そんなん論議したって、晒す人は晒すんだからしょうがないじゃんかよ。 それに、書き手はどんなにプライバシーを書きたててるように見えていても、それは文章化した時点でそれが自分のものでも他人のものでも客体化してしまっている場合が多い(そうでないやつも確かにいるが、文章に一家言のある者なら、そこはキチンとしているものである)。面白いのはあくまで出来事そのものなのであって、個人の人格まで面白がってるわけではないのだ。人のドジ話を笑ったりするのはたいていそんなものであろう。「アイツもバカだよな」と口にはするが、相手を個人的に嫌っているわけではない。それは文章を読めば見当がつくことだ。 他人のプライバシーを傷つけるべきではない、というのは確かに正論ではある。しかし、これを声高に言う人って、公的な部分までプライバシーに入れちゃう人、多いんだよねえ。『脱ゴーマニズム』の作者もそうだったけれど、小説や映画の批評や、役者の好き嫌い、時事評についてまで「悪口言うな」って文句つける人がいるのだ。自分が正論言ってるって思いこんでるから、現実的には頗る常軌を逸してることを言ってるってことに全く気がついてない。自意識過剰だから、まるで自分が責められているように錯覚してしまって、誰かが誰かを批判するという状況自体が許せなくなってるんだろう。 だいたい外国のプライバシーの感覚と、日本人の考えるそれとでは相当にその内容に差があるのである。日本人はやっぱりウチソトの意識で個人情報を判断してるんで、同じ情報でもウチの人間が語ると許されて、ソトの人間が語ると弾劾するのだ。自分勝手っつーか、サベツなんだけどな、それって。ウチの人の情報だからと思って面白がって喋ったら「親しき仲にも礼儀ありじゃないか」と言われたことないかね。もちろんそれはソトの人間として阻害されたってことなのである。 ま、そんなわけで、しげの職場の話はしげ自身が語らないと、私が語るとソトの人間が介入するってことになるから今回は遠慮しておく。……なんだかすっかり思わせぶりですまないねえ。
晩飯はまた「びっくりドンキー」。 しげのルンバルンバはもう定番である。 「あ、ここのハンバーグ、トッピングもできるんだ」 初めてそのことに気がついたので、目玉焼きとパイナップルを乗せてもらう。 しげ、「ハンバーグに果物って合うと?」と胡散臭そうに言う。 「合うも何も、たいていのソース類に果物は入ってるじゃん」 少なくとも、昔、牛乳とレモンを混ぜて「ヨーグルト」と称して飲ませようとした味覚音痴のしげに言われたくはないな。
金曜ロードショー、アニメ『ルパン三世 episode:0 ファーストコンタクト』。 毎年恒例のスペシャルだけれど、もうそろそろテレビシリーズのパート4を作ってくれないものかねえ。キャストの老齢化も激しいし、掉尾を飾る意味でも「最後の」テレビシリーズを望みたい。今回わざわざ「エピソード0」とまで銘打ったのは「仕切り直し」の意味が強いんだろう。これがテレビシリーズの布石、と考えるのは穿ち過ぎかな。 ルパンと次元、そしてもちろん不二子や五右衛門、銭形のとっつぁんとの出会いを描くという発想そのものは悪くはない。 なんだかルパン一味が馴れ合いのような関係になってる最近のシリーズのマンネリ化を打破するために、かつての緊張感溢れる関係を描くことは、一人一人のキャラクターにスポットを当てて掘り下げることになる。それは確かにある程度成功してはいる。 原作や旧シリーズとの違いには目をつぶろう。あくまで旧作に固執しては「エピソード0」自体が作れない(だってこの五人が同時に出会うなんてありえないから)。 ルパンを殺そうと狙い続ける次元、ハードなムードは一応出せている。ただ、なぜルパンに心酔するに至ったかの描写が弱い。それは不二子、五右衛門も同じで、敵がヨワっちぃせいで、彼らが結束しなければならない理由付け自体が弱くなってしまっているのだ。危機一髪を切り抜ける時の脚本、演出のアイデアが決定的に欠如している。 何より、銭形のとっつぁんがどうしてあそこまでルパンを追い続けることに固執するのか、その理由がほとんど描けていない。毎回思うんだけれど、どうして脚本が欠点になるかなあ。いっそのこと次回作品は一般公募してみたらどうかとまで思う。
マンガ、倉田真由美『どっちが委員会!? 世の中の小問題を考える毒舌バトル▽』(講談社・KCデラックス・900円)。 今がチャンスだ、稼げよくらたまって感じで新刊出しまくってるなあ。 でも、マンガとして面白いかどうかってことになると、普通の常識を持ってる人なら、これはちょっとねえ、と、ためらうところだろう。しげは「これまでの倉田さんのマンガの中で一番つまらない」と言い切ったが、そこまで言わんでもとは思うが、納得はする。 というのもねえ、「世の中の小問題を考える」とあるけどねえ、扱ってるネタがねえ、ど〜いうんかっちゅ〜とねえ。 「彼にするなら、年上の彼と年下の彼、どちら?」 「女友達にするなら、美人? 不美人?」 「水着を着るなら、ビキニ? ワンピース?」 「長くてかっこいい足と放漫な色っぽい胸、どっちがほしい?」 「ダイエットするなら、食事制限? それともスポーツ?」 「ブランド派? ノーブランド派?」 「フォーリンラブするなら、渋い中年? さわやか美少年?」 あ、そこの一般常識持ち合わせてる男性諸君、脱力しない(^_^;)。私もあまりにもバカバカしくって、とても目次の全項目、引用する気になれんのよ。 「世の中にくだらないものなんてない」が私のモットーではあるが、これは本気でくだらない。女から見た価値基準、という点を割り引いても、目次の項目の価値基準で、なるほどと首肯できるものがただの一つとしてないのだ。っつーかよ、男でよ、「年上の彼女と年下の彼女のどっちがいい?」なんて話題するやつって、まずいないし、そんなん気にしてるやつがいたら、まず確実にバカ扱いされるよ。 こんなどーでもいいことにだけ拘れるくらたまさんという人は何者なのか。 もちろんバカなのである。 でもしげから見てもバカに見えるみたいだから、これはもう本気で究極のバカなのではあるまいか。 私も世の中のバカに対しては比較的寛大な方ではないかと思うが、ここまでバカの烙印押して構わないと思えるような女性って、そうはいないよなあ。 男から見たら、こういうことに拘るバカ女は、どう扱っても痛痒を一切感じないのである。弄んで捨てても全然平気なのである。くらたまさんがだめんずうぉ〜か〜になるのも自業自得だなあ、という気がしてくる。 しげが一番ハラを立てていたのは、くらたまさんが何本かの原稿を収録しなかったことだ。後書きで「この頃描いた新婚ネタ、痛くてよう載せませんでした……作家としてはどうかと思いますが、カンベンしてください」とか言ってるけどさ、そりゃプライバシー切り売りをウリにしてる作家としては間違いなく失格でしょう。カンベンしません。 でもここまでバカだと、かえって同情して仕事くれる人も現れるんではなかろうか。現われてるから仕事が続いてるんじゃないかね。私もくらたまさんってバカだなあとは思うが、やっぱりどこか憎めない。バカでもひがみっぽくて性格歪んでて根性なしでも、それが必ずしも本人のせいじゃなくて、この日本に生まれたせい、つまり男に甘えてればいいだけの女として生まれてきたせいだということを思うと、同情を禁じ得ないのである。……まあ、同情も女に対するサベツだからさ、素直にバカにするほうが一番妥当な判断かもね。
マンガ、なかいま強『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(小学館文庫・各670円)。 連載当時は全く注目してなかったんだけれども、何年か経って近所のラーメン屋で通読したら、滅法面白かった。けれど現物は既に店頭には見当たらず、文庫化されるのを待っていたのである。 もともと私はスポーツマンガはあまり読まず(っつーか梶原一騎嫌いだったのだが)、例外的に『野球狂の詩』とか、『1、2の三四郎』、『すすめ、パイレーツ!』などを、これ、スポーツマンガじゃないよな、とか思いながら読んでたのである。『五所瓦』は完璧な相撲マンガだった(と思っていた)ので、まるで興味を抱かなかった。不明と言えばこれほど不明なこともない。 あちこち、ちばてつや・ちばあきおの諸作や『1・2の三四郎』の影響を受けているのはわかるけれども(ちばさんとこでアシストしてたんだから当然だろうが)、ギャグで間を繋ぎながらシリアスな展開に持ちこんで感動を作り出す技術は『わたるがぴゅん!』で経験を積んで、本作で結実した印象だ。 廃部寸前の武蔵山高校相撲部に残った、たった一人の部員、五所瓦角は、実は全国でも有数の実力の持ち主。運悪く高校チャンピオンの黒島高校の田門に毎回初戦でぶち当たって敗退しているために、世間的には未だにその実力を評価されてはいない。 高校最後の大会、ぜひとも「団体戦優勝」を目指す五所瓦は、柔道部主将の清川薫を部員にと勧誘するがケンもホロロに断られる(当たり前である)。しかし、五所瓦の男気に打たれた清川は、五所瓦に柔道対相撲の勝負を挑む。自分が敗れれば、相撲部に入ることを条件として。勝負は五所瓦のぶちかましに押されながらも起死回生の一本背負いを仕掛けた清川の勝利で決まるが、清川はその前にこれが土俵の上でなら自分が押し出しで負けていたことを認め、部員となることを決意する。 五所瓦と清川の熱意に打たれて、次々と部員が集まるが、使えるのはレスリング部のハミダシ者、関内孝之のみ。あとはノリだけはいいもののただのヒキョー者の難野一平とただのデブの雷電五郎。五人のうち三人が勝てば勝利できるとはいうものの、無敗を誇る黒島高校相手に果たして勝機はあるのか? 展開がいやに映画『シコふんじゃった』に似ているが、アレは1992年、本作は1988年。パクったな周防正行(^^)。 五所瓦は実直過ぎるほど実直、しかもドモリで、少年マンガの主人公として考えるとあまりにも華がない。今だったらサベツ問題にも引っかかるし、こういう主人公は編集者からボツを食らわせられるかもしれない。しかし、スルメが噛めば噛むほど味があるように(^o^)、この地味なキャラが巻を追うに連れ、なぜか見栄えがしてくるのである。 もちろん、脇を締めるキャラクターがいてこそ主役は映える。ギャグメーカーとして、挑発、けたぐり、塩で相手の足を滑らせるなど、ズル手を駆使する難野のキャラは、ルーツは『おれは鉄兵』あたりにあるとしても、個性的なキャラ揃いの本作の中でも特に光っている。もちろんそれで勝てるわけもなくメンバーの足を引っ張りまくっているのだが、それでも次にどんなワザを披露してくれるかと読んでるほうは期待してしまうのだ。普通、物語がシリアスに展開していくと、こういうキャラは後ろに回されていくのだが、難野は最後の最後までドラマに絡んでくる。そこがなかいまさんがキャラを大事にしていることの証明だろう。 少年マンガの「王道」ってのは、こういう作品を指して言ってもらいたいものだ。
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか
| 2002年07月25日(木) |
本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか |
もちっとしたら北九州に出張する予定がある。 しげに仕事の休みを取って一緒に行かないかと相談する。 「なんで? 仕事で行くっちゃろうもん」 「仕事は仕事だけど、夜にはカラダ空くしさ、二日間だから一泊したっていいし」 「もったいないやん。JR使った方が安かろ?」 「そりゃそうだろうけど、帰りが遅くなったら淋しがるやん、お前」 「昼は一緒におられんやん」 「小倉で何か見てまわっときゃいいやん」 「……北九で何を見るん」 問題発言が出るなあ(^_^;)。 「よしひとさんや塩浦さんにも連絡とってみてさ、一緒に食事でもしようかって思ってるんだけど」 「……すれば?」 ああ、またこいつ、ヤキモチ妬いてやがる。 なんでオレが人と会おうとするとすぐジェラしるかなあ。しかも男も女も関係ないし。いや、ジェラシられたらイヤだからしげも一緒にって考えたんだけれど、自分がその場にいるいないは関係ないのね。私が誰かと語ること自体、しげにとっては気に入らないってこと、何度も経験してるけど、こういう悪いクセはいい加減で治してもらわないとマジで困る。しげに一日の行動について何一つ相談ができなくなる。 そのことが理解できる程度のアタマは持てよな。 ともかく、出張については私の方からはちゃんと相談したのだ。その返事が「すれば?」なら勝手にさせてもらおう。たとえ当日ほったらかされたとしてもそんなのは知らん。自業自得だ。しげが休みを取るかどうかについても、しげから相談されない限り私の方からはもう、声をかけまい。 ホント、つまらん言葉で人生損してるよな、しげは。
いつものごとく、迎えの車の助手席に座って『新耳袋』を読んでいると、しげが「やめり」と文句を付けてくる。 ボソボソ音読してるからしげが嫌がるのだが、怪談はもともと口伝えを基本としたものだ。黙読するだけでなく、音読することで、その空気を自ら味わうことの何がいけないというのか。 「そんなに怖がらせるなら、オレも怖い話するよ」 自信満々にそんなことを言うので、「できるならやってみろ」と私もしげを挑発する。 「昔、こたつん中に入って寝とったと」 「ふんふん」 「起きて、ふとフトンを捲ったら、そこに白ヘビがトグロ巻いておったと」 「ふんふん」 「……怖いやろ」 「別に噛むようなヘビやないやろ」 「怖いやん! ずっと一緒に寝とったとよ」 「追い出しゃいいやん。実際、追い出したっちゃろ?」 「隣りのおばさんに追い出してもらった」 「よかったやん」 「よくない! だっておばさん、『それは死んだ母ちゃんよ』とか言うとよ!」 「母ちゃん追い出したんかおのれは!」 確かにしげが怖いやつだということはわかったな。私が死んでもコオロギとかカメムシには絶対化けてでて来れんな。殺虫剤かけられてコロリである。
晩飯は「マルちゃん」でうどん。 この店はトッピングが豪華だが、一番美味いのがコロッケである。私もしげも注文したが、売り切れていた。確かこないだ来たときも売り切れてたし、ここのコロッケを賞味するのはなかなか難しい。やっぱり人気メニューなのだろうなあ。仕方なく、テーブルの上に置いてあるネギと掻揚げを山ほど入れてコロッケを食った気分になる。ならんか。 その足でマルキョウで買い物。 いつも食材はいろいろ買いこむのだが、しげにメシを作ってやっても、片付けを全くしないので、段々バカバカしくなってくる。結局、私は自分で作った物をあまりしげに分けないまま食べちゃってるのだが、そんな目にあって淋しくはないのか、しげは。 スパゲティもカレーもカニたまも麻婆豆腐もサバの煮付けも、今日買ったやつも結局、全部私の胃に収まってしまうのだろうな。いや、一気には食べないけど。
町田康『くっすん大黒』(文春文庫・410円)。 なんだこれは、面白いのか面白くないのか、自分にはすぐさま判断がつくことではないが、面白いと言うてる人間が多いことも知っているし、それは実は『おごってジャンケン隊』で泉谷しげるがそう言っていたと記憶するのであるが、何しろ記憶力にはこのところとんと欠けているのでそれが泉谷しげるであったか、それともそんな記事は全くなくて自分の妄想に過ぎないのか、自信はない。自信はないが町田康自身は『おごってジャンケン隊』に登場しているのである。実はこの人、町田町蔵で、その名前をどこかで聞いたこともあるし俳優としても『黒い家』なんかに出てたということであるから、当然顔は見覚えがあるはずであるが、とんと記憶力に欠けているので見覚えがないのだ。野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞をこの『くっすん大黒』で受賞したということであるが、ほかにも『きれぎれ』で芥川賞、『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞を受賞しているのである、この町田は。この中で三つは人の名前が冠されているが、耳慣れなくて珍しいのはドゥマゴである。もしかしたらこれも人の名前で、ドゥマゴさんとかいう外国人であるかも知れぬが、そんな名前の人間に会ったことはもちろんないので、デマかもしれない。なぜなら実はドゥマゴとデマとは似ているからである。ではなぜこのような厄介な文体を試み、何が言いたいのかはっきりせぬ、というのも、筒井康隆を読んだ人間が筒井康隆の文体をまねてみたくなるように、町田康の文体はさながら水の如く油の如く、付かず離れずこのような文が長々と書き重ねられ短く切られ、やっぱり批評家もこの文体には魅力を感じるらしく、解説の三浦雅士もこんな厄介な書き方をしているのはそういうわけなのであった。わかったかわからんか。わかれよもう。
普通に戻そう。 『くっすん大黒』とは妙なタイトルだが、なぜか主人公の男の部屋に転がっていた金の大黒、これが泣きそうな顔をしているので、くっすん大黒。この物語は、男がその大黒を見ているだけで腹立たしいので捨てに行く、というだけの話である。舞台が大阪というだけで、明確なストーリーラインはなにもない。 ストーリーが明確にない物語は別に目新しくはないが、映画が映像のみで純粋芸術として成立する如く、小説もまたストーリーやドラマを排した純粋な文体のみで成立し得る。ドラマがない以上、どれだけ読ませられるかってのは、まさに文体技術にかかっている。 そういう文体に関わる実験小説は、筒井康隆編による『実験小説傑作選』に詳しいが、町田康、確実にこの本読んでるね。あるいは石川淳(マンガ家じゃないぞ)。ダラダラと長いのに読点の使い方がうまくて心地よいリズムを生み出す文体は石川さんの特徴だけれど、長文のあと、「というのは」という接続のさせ方をするあたりが町田さんの文章はそっくりだ。これが偶然の一致だとしたら、町田さん、この文体をどうやって創造したのか気になるところである。
アル中の男の一人称、という設定だから、こんなメチャクチャな文体で書いてるのかと思ったらそうではなく、同時収録の『河原のアパラ』の主人公は普通の若者だがやっぱりこんな文体なのである。やはり町田氏、意図的だ。そしてその試みは充分に成功していると思う。 『大黒』にも『アパラ』にも、主人公以上にエキセントリックな人物が登場する。自分の勤める職場の売り物を着服する吉田のおばはんや、外国帰りのおばはん・チャアミイのキャラなどは最強最悪である。 「ぅあたしのビャアーグはどこかしら」なんてチャアミイのセリフ、最初はどういう意味だか全く分らなかった。「ビャアーグ」は「バッグ」のことだったのだ。どこの何人がそんな発音するってんだ。「ゥベッドルームは、まっっっっっっ白なのぉー」と絶叫するチャアミイに主人公はこっそり「医者へ行け、医者へ」と突っ込む(これがシェイクスピアの『ハムレット』の「尼寺へ行け、尼寺へ」のパロディであることに気づいた人間がどれだけいるだろうか。いないだろう。そりゃそうだ、これは私の妄想だし)。 そうやって突っ込んでる主人公自身、イカレているし、そのイカレた頭で見ても、世の中にはもっとイカレたやつらが横行していて、しかもその象徴が捨てるに捨てられないくっすん大黒なのである。つまり、みんな狂いたがっているのだ。それが町田さんがやってたパンクの意味なのかもしれない。 それにしても、この本読んだあとは大阪人のメンタリティって、実はみんなこいつらみたいなんじゃないかという気がしてきて、ちょっと大阪人と付き合うのが怖くなってきたりもするのである。確かに大阪芸人見てるとこいつら基本的にイカレてるなって印象、強いものなあ。 ……で「アパラ」って何よ?
DVD『ミニパト』。 しげが仕事に出かけながら「一人だけ先に見て」と不満そうなジト目を私に向けるが、待ってても一緒に見る時間がないじゃないのよ。 劇場公開時は第3話しか見られなかったので、ようやく1話から通しで見る。 けれどこれ、ビデオ版もテレビ版も劇場版もコミカライズも、旧シリーズをほぼ全作見てないと全然面白くないんじゃないか。 というか、更に制作の裏事情、例えば、「原作のヘッドギアのメンバー内で、当初、押井さんはパトレイバーをあんなカッコイイデザインにではなく、いかにも土木作業用の流用、みたいなゴテゴテしたデザインにしようと企んだけれども却下された」なんて事実を知ってないと、どうして後藤さんやシゲさんや南雲さんがあんなに皮肉っぽい語りを行っているのか、意味が分らないのではなかろうか。 後藤さんの「何せ尺が短いんでね、波瀾万丈の物語とか、手に汗握るサスペンスとか、息を飲むアクションとか、そんなのはすっぱり諦めてくださいよ、ねぇ」というセリフがいかにも人を食っていて後藤さんらしいんだけれど、もちろん彼は脚本家たる押井守氏の分身である。ゆうきまさみ・出渕裕両氏が作りたかったのがまさにその「波瀾万丈」以下の物語であり、押井さんの意向とはハナから水と油だったのである。ゆえに、このたった3話のミニシリーズは、押井さんの『パト』シリーズに対するリベンジになっているのだ。 ……ラストにこんなタチの悪い作品持ってくるって、まるで宮崎駿の『さらば愛しきルパン』だねえ(←もうこれについても説明が必要な若い衆が増えちゃったね)。
第1話『吼えろリボルバーカノン!』。 銃に関するウンチクを後藤隊長が語る。 昔見たLD『GUN百科』を思い出したなあ。私は銃器に全くと言っていいほど魅力を感じないのだが、後藤さんに説明されると、おお、こんなにもタクミの技が、と感心してしまう。ターゲットを粉砕しつつもその周辺に被害を及ぼさないように弾丸は開発それてるとは、よく考えられてるものだね。でもそれを持たされてるのが結局は太田だったりするので何の意味もないのだが(^o^)。これも押井さんの皮肉か。 太田役の池水通洋さんのキレた演技が隠し味の一編。
第2話『あゝ栄光の98式AV』。 あはは、『パト』シリーズがロボットアニメのエポックメーキングになりそこなったってこと、シゲさんの言葉を借りて断言しちゃったぞ。もう変形、合体、超合金とオモチャを売るための発想でしかロボットアニメが作られないんだったらこの路線に未来はないって思ってるんだろうなあ、押井さん。もっともまさしく「レイバー」なデザインで客が付くかどうかは分らないけれど。 声優の千葉繁さん、コメンタリーで喋ってたけど、このアフレコのせいで口の中が4ヶ所出血しちゃったそうである。いやもう、怒涛のマシンガントークですがね。おトシを考えると、もしかしてこれが千葉さんの最高最後の傑作になるかも。
第3話『特車二課の秘密!』。 映画見たときに一応感想を書きはしたけれど、再度見て気になったこと。 公務員がハゼの干物作って売ったら、これ犯罪になるんじゃないか(^o^)。 そんなこと、押井さんが知らないはずはないのでこれは間違いなく確信犯だろう。管理社会と言うか、組織に対する押井さんのルサンチマンの深さが垣間見えるなあ。
押井さん、一応スタッフロールは脚本及び音響プロデュースのみの担当になっているけれど、メイキングを見る限り、このパタパタアニメの手法のアイデアと言い、主題歌を『迷宮物件FILE538』『御先祖様万々歳!』の児島由美さんに頼んでいることと言い、本作の押井色は相当強い(ついでだけど、この児島由美さん、あの『ひらけポンキッキ!』の名曲『ほえろ!マンモスくん』を作った人だ。私はこの人と谷山浩子が組んで作った『ネコじゃないモン!』のLPを持っているぞ。これは名曲揃いだからぜひCDで復刻してほしい)。 実際の監督は神山健治さんなのだが、カワイソウなくらいに影が薄い。DVDのパンフのとり・みきさんのマンガに「たくもー1人で全部やったよーなことばかりしゃべってあの人は」とニコニコしながら愚痴っている神山さんが描かれているが、「あの人」が誰を指すかは言わずもがなだろう。実際、CMのキャッチコピーも全部「押井守最新作」で、どうしてもそのように見てしまうのは如何ともしがたい。『ミニパト』は押井守の呪縛の上に成り立っているアニメなのだ。
いったい、映画における脚本の位置は奈辺にあるか。 映画構成の要であることに間違いはないが、ともすれば演出と役者がもとの脚本を原形を留めぬまでに改竄を加えることは珍しいことではない。脚本はあくまで映画の叩き台であり、最終的に映画の完成の決定権を持つのは監督(欧米じゃプロデューサーの場合が多いみたいね)というのが通り相場である。 しかし、中にはそう簡単にいかない場合もある。脚本が演出をも縛る、というか、既に脚本段階で演出が施されていて、下手に演出家が自らのささやかな個性とやらを主張しようとしてイジろうものなら、どうしようもないことになりかねない、そういう脚本もあるのである。 ……的確な表現とは言いがたいが、“巨匠”と呼ばれる方々の脚本はそうですね。アナタが映画監督だとして、『七人の侍』や『2001年宇宙の旅』のシナリオを「改稿」して再映画化する自信あります? 私はありますが(←すげえ思い上がり)。 押井守もいつのまにか巨匠になってしまった(西尾鉄也さんは「アニメ界の尊師」と呼んでいるが)。『パト』映画版のころはまだそんな呼ばれ方してなかったと思うんで、やっぱ、『攻殻機動隊』がアメリカでビデオ売り上げ1位取ったのがきっかけだろうか。おかげで『うる星やつら』テレビシリーズのころのすちゃらかギャグ作品のファンだったこちらの身にしたならば、新作が作られるたびに毎回毎回「ここはどこ私は誰」テーマが繰り返されることに、それ自体が押井さんの悪い冗談ではないかと勘繰りつつ、何か物足りないものを感じないではいられなかった。 本作は神山演出によって毒が随分薄められてはいるが、紛れもなくルサンチマンに満ちた押井作品である。銃の乱射、HOSの暴走、後藤隊長の不気味な笑みで幕を閉じる各話のラストに、ようやく懐かしさを感じた押井ファンも多かろう。 さあ、果たしてこれがホントにホント、パトシリーズの最終作になるのか。 押井さん、パンフではそう書いてるけど、コメンタリーでは千葉さんも神山監督も「ネタはいくらでもあるって言ってる」と暴露してるぞ。ちょっとくらいは期待したいなあ。 やっぱりパトシリーズは押井監督でないとね。
マンガ、『パタリロ!』74巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。 猫間天狗にサンダース部長が復活。使い勝手が悪くなると主要キャラでも出番がなくなる魔夜マンガにあって、これはなんと珍しいこと。 こうなるとプラズマXとか警察署長も復活してほしいなあ。タランテラやピョートル大帝は、作者がもうどう展開させたらいいかわからなくなって、そのままほったらかしちゃったらしいけど。
2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
| 2002年07月24日(水) |
ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか |
日に日にアホ度が増してくるしげであるが、口数だけはやたら多くなっているのである。もちろん、その分、手は動かない。もはやウチは人の住める状況ではなくなりつつある。 これはもう、しげがどれだけ口先三寸で何一つウチに寄与していないかを知らしめようと思って、野崎昭弘の『詭弁論理学』を貸す。 「これ読んで、自分がどれだけウソついてるか自覚しろよな」 「なん、これ読んで詭弁の使い方もっとうまくなれってこと?」 「誰もそんなこと言っとらんだろーが! 自分の言い訳がただの詭弁だってこと、分れって言ってんの!」 「だから、もっとうまく使えればいいわけじゃん」 ……ダメだ。こいつの根性は根っから腐っている(-_-;)。
晩飯は国道3号線沿いの「しーじゃっく」で安い寿司。 しげはまたアイスクリームを食べたそうな顔をしていたけれど、値段のわりに量が少ないことがもうわかっているので頼まない。 頼まないけれど欲しいことは欲しいのである。未練がましくアイスクリーム製造機の方をチラチラ見ているのがなんともイジマシイ。 「『すし大臣』よりこっちのほうが種類が多いから好き」 としげは言うが、品数で言えばそうたいして違いがあるとも思えない。むしろすし大臣の方が多いくらいだ。値段が安い分、遠慮せずに食べられるのでそんな錯覚を起こすのだろう。 どうせウナギとアナゴと卵とエビくらいしか食べないんだから種類に拘ることなんかないと思う。
そのあと、しげは仕事の時間が迫っているので先に帰り、私だけ天神・博多駅を回って本やDVDを買いこむ。 一人で回るとしげと一緒の時に比べてやはり時間がかかる。ついつい目移りがして、買い忘れてる本がないかと2、3軒回ってしまうせいだが、そうするとやっぱりホントに目当ての本が見つかるものなのである。 『ウォーターボーイズ』のDVDがないかと2、3軒回って見たのだが、初回限定版のボックス仕様のものはほぼ売り切れ。こうなると「BOOK OFF」に出回るのを待つしかないかなあ。
角川文庫が夏の文庫フェアでブックカバーを配布している。 「2002夏のリラックス 冷やし文庫、はじめました。」というやつなんだが、コンセプトは表紙にイラストやアルファベットのシールを貼って、自分だけの文庫の表紙を作れるってこと。でも、あまりいい出来ではないんだなあ。 まず、フローネとかいうオリジナルキャラクターのデザインがなんだかバーバパパのできそこないみたいで、おもしろくない。1年経てば忘れ去られてるのが確実って感じだし、そんなもん表紙に貼ったって楽しくもないぞ。 更に色が薄い青でいかにも安っぽい。こういうのに惹かれる客っているのかなあ。シールなんて剥がれりゃ汚くなるだけだし、素直にブックカバーのデザイン自体をもっと工夫した方がよかったんじゃないか。 ブックカバーに凝る本屋とそうでない本屋があるが、最近出色だなあ、と思ったのは福家書店の手塚治虫カバー。文庫が鉄腕アトムCGイラストで(講談社の愛蔵版で使ったやつだな)、単行本が赤地にブラックジャックのコマをあしらったもの。世の中にはカバー嫌いの人も結構いるけれど、これなんかはちょっとコレクションしたくなるんじゃないかって感じで、いい出来だった。
それはそれとして、角川のシールカバーだけれど、こういうのって案外しげが好きかも、と思って何部かもらってきたら、「貼る貼る!」と喜んでぺたぺた貼り始める。 ……センスねー(-_-;)。 レイアウトの仕方ってものが全くできてない。美術の評定、いくつだったんだ。 それだけならまだしも、書名のスペルが間違いだらけだ。 フィリップ・K・ディックの『マイノリティ・リポート』、しげが貼ったスペルは「MAINOLITY RIPOAT」。作者名は「P・K・DIKK」。 もちろん本の本体にスペルはちゃんと書いてあるのにここまで間違えるのである。しげの脳の構造はいったいどうなっているのか(正確なスペルを念のために書いとくと、“The Minority Report”“Philip K.Dick”である)。
嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮文庫・860円)。 作家の追悼文、弔辞から、生前の作家の実態を浮き彫りにしようという試み。前作の『文人悪食』も面白かったけれど、これはそれを更に上回る名著だろう。 『お葬式』という映画がある。故・伊丹十三の監督デビュー作だが、伊丹氏が「葬式」を題材に選んだのは、それが死者を悼むために行われるのではなく、生者同士がお互いの人間関係を再確認するための場であるからだと喝破したからだということである。まさしく「死」はその人自身のみならず、残された人々の生き方まで確定するのだ。その意味で、「追悼文」に着目した嵐山氏の慧眼は称賛に値する。 人が死んで、その人を悪く書くことは普通はできることではない。けれど死んだのはただの人ではなく作家、画家、編集者といった著名人だ。残された人間にしてみれば「惜しい人を亡くしました」程度の通り一遍のコメントではすまされない。 ある者は自らの作家技術の粋を集めて褒め称え、またある者は全く逆に全身全霊を込めて扱き下ろす。必然、それは作家論となり、かつ残された人々のもう一つの私小説となる。 いやもう、彼を語りつつ、つい自らを曝け出してしまっている追悼の多いことったら。考えてみれば、この日記でも私は「誰それが死んだ〜」とやたら喚いているが、やっぱりこれも自分語りなんだよね。太宰治萌え〜のノールス女子大生を笑えんわ。
追悼文を調べていく過程での新発見も多々ある。 田山花袋の死に際に、島崎藤村が「死ぬ時の気分はどんなものかね」と聞いたというのは俗説で、実際には藤村が何も聞かないうちから花袋自らどんどん喋ったというのである。藤村は逆に「そんなに話したら疲れてしようがないだろう」と押し留めたくらいであったそうだ。 この俗説も、家族を省みず、愛欲のままに自分の姪に手をつけた藤村の汚れたイメージが作り上げたものだろう。事実、藤村は人非人であり、周囲からは蛇蝎の如く嫌われまくっていた。人間としての底の浅さが(『破戒』だって部落差別を告発した小説としてはキレイゴトで終わっている)実は藤村の人間らしさであったことが、嵐山さんの筆によって微細に分析されていく。 この過程を読み辿ることの心地よさをどう表現すればいいものか。
この本で紹介されている作家の中で、私がその著書を読んだことのない人が三人いた。 川上眉山、内田魯庵、岡本かの子である。 ……そりゃイマドキは全集をあたらないとこの人たちの作品、とても読めないものなあ。 岡本かの子はもちろんあの「芸術は爆発だ」の岡本太郎の母親であり、漫画家岡本一平の妻である。小説よりも本人がなかなか奇異な人だったことは唐沢俊一氏の『すごいけどヘンな人』にも詳しい。夫と二人の愛人と暮らす生活は、本人は無邪気なつもりでも世間からはただの不道徳、異常生活としか映らない。それをかの子の死後、一平と太郎は神秘化し美化した。そのおかげだろうか、確かに、唐沢氏や嵐山氏の著書を読む以前は岡本家についての私のイメージも「芸術一家」の域を一歩も出るものではなかった。 さて、ではかの子女史はいったいどんな小説を書いていたのかと思って、ちくま日本文学全集の『岡本かの子集』中の『鯉魚』という短編を読んでみたが、これがもう、芥川龍之介の露骨なエピゴーネンである。 平家の落武者の娘を匿った寺の侍童の恋物語なのだが、彼はその事実が寺にバレてもあくまで「私は鯉を飼っているのです」と言い張る。住職の仏法問答に対して「鯉魚」とのみ答える少年の描写は静謐でひたすら美しいが、そこにあるのは純愛に対する盲目的な賛美のみで、芥川ほどの冷徹な視点はなく、やはりセンチメンタリズムに流されている。少女マンガにしたら、すごく美しい絵になりそうだが、私のような中年のオヤジには読んでてちと面映い。 その芥川との交流を描いた『鶴は病みき』も読んでみたいものだが、今は残念ながら入手し難い。批評等を読むとやはり独善的な作品らしいのだが、客観的で冷静な小説が面白いとは限らない。かえって事実をもとにしていても、作者の思いこみと妄想が事実を捻じ曲げていた方が断然面白くなっているものなのである。モデルにされた人間にはえらい迷惑であろうが。
岡本かの子の、いや、藤村も、花袋も、そして戦後の太宰も、その作品が巷間読み継がれる原因となっているのはそのスキャンダル性にある。その意味で、日本文学の正当な後継者は山田詠美だったり柳美里だったりするのかもしれない。 さて、彼女たちが死んだ時には誰がどんな追悼を寄せるだろうか。
2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか
| 2002年07月23日(火) |
夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか |
タイトルは『ウルトラファイト!』のもじりです。 いや、チープなケンカってことで(^_^;)。
どうもみなさま、おばんです。有久幸次郎でございます。 相変わらずしげとは埒もない喧嘩ばかりしております。 夫婦喧嘩は犬をも食わないとやら、書けば書くほど、人様からは「仲いいね」などと言われて恐縮しておりますが、かと言って、あったことを書かないわけにもいきません。これが喧嘩の果てに夫婦ベッキョ、リコンなどということに発展して行けばとても楽しいのでしょうが、何しろ一日経てば何もなかったかのように元通りになってしまいますので、スリルもサスペンスもありません。 これはもう、読者のみなさまには「またかい」と溜め息混じりではありましょうが、嗤って見逃していただくほかございません。 昨日の日記で「バカップルのルーツは何か?」とか書いちゃいましたが、読んでたアナタ、「オノレらがそのバカップルじゃ」とか心の中で突っ込んだでしょ? 隠さなくても分かってますよ。 ええええ、もう開き直ってますとも。我々は充分バカップルです。 私の知性のおかげで「ちょっとだけバカップル」レベルで踏み止まってはおりますが、所詮は五十歩百歩、バカは死んでも治りますまい。 てなワケで今日も夫婦ドツキ漫才から始まります。
朝、職場に行く途中で、しげがいきなり「食べる?」と言って差し出したのは、なんとカステラ。しかも切ってあるやつとかじゃなくて、丸のまま&しげの食いかけ(っつーか齧り残し)である。 車の中で、運転席からカステラの箱を差し出されるというのもなかなかシュールな光景である。しかし、私は食いものを差し出されて「いらねー」と答えられる世代の人間ではない。それにこれを放置しておいたら、しげはそのままカステラの存在を忘れて、車の中で腐らせかねない。……だいたいどうしてカステラなんかを車の中に持ちこんでるのだ。誰もこいつに「行儀」の二文字を教えなかったのか。教えられてもしげには脳細胞が常人の3%しかないから覚えられなかっただろうが。 朝っぱらから甘ったるいものを食わにゃならんのか、とは思ったが、仕方なく押し頂く。 予想はしていたが、手はべたつくわ口の中はざらざらするわ、エラい状態になる。しげに、「途中でミニストップ寄ってくれ、飲みもの買うから」と頼む。 すると、しげ、脇からまた飲みかけの(っつーか、底に1センチも残ってない余りの)コカコーラを差し出してくる。 甘いの飲んだところに甘いの差し出されたって、何の役にも立つものではないが、これも差し出されたら飲まないわけにはいかない。飲むというより舐めるが、口の中はかえって甘ったるくなった。なんで朝からこんな目にあわなきゃならんのか。 ミニストップが近づいてきたころ、しげが突然「ねえ、ミニストップ寄ると?」と呟いた。 起き抜けは私も冷静ではない。このセリフを私は「コンビニに寄るのなんてめんどくさい、飲み物なんか買うな」という意味だと受け取った。 声を荒げて「寄れってさっき言ったじゃないか!」と怒鳴る。 しげも怒鳴られてムッとしたのか「何しに寄るん」と言い返す。 「飲み物とか買うんだよ!」 「『とか』って何!」 「仕事に使うもんとかだよ!」 「だから『とか』って何!」 「ウェットティッシュとかだよ!」 「だから『とか』って……!」 「なんで『とか』とか気にするんだよ!」 「『とか』でごまかすとか、なんかヒミツにしてるみたいやん!」 「『とか』がいつもいつも何か具体的なものを差すとは限らんだろうが! だいたいそんなクダランことをなんでいちいち気にして聞くんだよ! そのどーでもいいことを根掘り葉掘り聞くイヤらしい性格を治せ!」 ……そのどーでもいー質問にいちいち反応して怒ってる私自身が大人気ないんだよなあ(-_-;)。既に喧嘩の中身はどんどんズレまくっているのだが、それを認識するアタマも働いてないな。まあ、寝起きはこんなものである。 そうこうしているうちにミニストップに着いたので、お茶「とか」、ウェットティッシュ「とか」を買う。職場が近いので、しげとの第1戦はこのへんで終わったが、第2戦っつーか再試合は夕方に持ちこされたのであった(おいおい)。 でも、ホントにど〜でもい〜ことで喧嘩してるよなあ。「とか」がどうだってんだ(^_^;)。
マンガ、李元馥(著)/松田和夫・申明浩(訳)『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(朝日出版・1575円)。 去年出た本だけれど、人気があるらしく、今年に入っても増刷が続いているようである。日韓併合の記憶は六十年を経た今もなお暗く重い影を両国の関係に落としてしまっているので、この手の「韓国での日本紹介本」は、たいてい激しい「日本バッシング本」になっていることが多い。まあねー、気持ちは分るけどねー、でもつまり韓国は今でも日本と喧嘩がしたいのかって逆に聞きたくなるくらいで。 そういう本に比べれば、このマンガ、激しい「偏向」はない。 序章で作者の李さんが、文化相対主義的観点を標榜して、「韓国と日本、こんなに違う! けれどその違いをお互いに認めよう!」なんて書いてるのを読むと、ああ、このヒトとは話せるかなあ、という気になる。 でもやっぱり「韓国が兄で弟が日本」的発想から抜け出せてないんだよねえ。 日本人の「和」の思想が、島国という狭い世界での安寧を保つのには最適でも、国際社会では通用しない、という李さんの指摘については、誰もが首肯しているところだろう。日本人がその「和」の「輪」からなかなか抜け出せないせいで、国際社会におけるコミュニケーション不全を起こしていることは紛れもない事実だ。 しかし、韓国の儒教的倫理観だって、国際社会で通用するものでもない。 要するに「文化相対主義」ってのは、どの国の文化もスタンダードではないということを認めることであるし、だからこそ、それぞれの国の文化に優劣をつけたり、一方が一方に文化の押し付けをしたりしちゃならない、ということになるのである。 だから、日韓併合による皇民化政策は明らかに誤りであり、大東亜共栄圏構想もアジアにとっては余計なお世話でしかなかったと言えるのである。「ロシアの脅威からアジアを守るため」といかにもリクツが通ってるような言い訳を主張する日本人多いけどさ、じゃあ、日本が負けたあと、中国や朝鮮はロシアの属国になったかね。「杞憂」でもって民衆を洗脳し踊らせるのは今でもマスコミがよく使う手だ。中国・朝鮮を「三等国」と見なし「善導」しようとした戦前の日本の傲慢さは否定できるものではない。 その戦前の日本と同じ行為を、今になって日本に対してやりたがっている韓国人は多いのである。この本でも初めは緩やかだが、章を重ねるに連れて「韓国に倣え」式の発想が少しずつ、じわじわと頭をもたげてくるのだ。 豊臣秀吉の日本統一を例に挙げて、「韓国より何百年も統一が遅れた」とかいちいち書いてるのもヘンな話で、国の統一に文化の優劣を持ちこんでいるのは差別じゃないのかな? 歴史が古いことに価値を見出す発想自体、文化相対主義を否定しているんだけど、李さん、自己矛盾を起こしてることに気づいていないね。 論理の破綻は更に続き、やっぱり「日本の文化はオリジナルではない」「朝鮮文化の換骨奪胎(いいとこどり)に過ぎない」ってな感じの結論に集約されていく。それ言い出したら朝鮮だって中国のコピーなんだけど、その辺を李さん、どう考えているのかね。 だから、どこの国の歴史が古いとかどっちが先だとかいうことを言い出すこと自体、相手の国を侮蔑することになるんだってば。アメリカは歴史が200年しかないから「弟」だって言える? 儒教の「長幼の序」って、そこまで差別意識の強いものじゃなかったはずなんだけどなあ。中国から朝鮮に輸入されて「いいとこどり」されたんだろうね(^^)。 皮肉めいた書きかたをしたけれど、それぞれの国が、お互いの歴史と文化をもっと学べって李さんの主張は間違ってない。なのにねー、本当はあくまで、その基本を崩さずに書いてくれてたらよかったんだけれどねー、やっぱり「自分の国に都合の悪いことは隠そうとする」心理は、比較的バランスの取れている李さんに関しても働いちゃってるんだよねー。悲しいことに。 つまり、「元寇」についての記述は、ほかの韓国人の書いた本と同様、この本には全くないのである。そりゃ日本を侵略はしたけれども、あくまでモンゴルの尖兵として使われただけだって主張したいんだろうね。自分たちも被害者であると。 もちろん、その主張も認めますよ。モンゴルには逆らえなかったんだと。けれど、事実そのものを書かないのはやはり歴史の隠蔽だよ。戦時中の日本人の大半が軍部の命令に逆らえなかった事実をちゃんと書いてくれた李さんになら、これは理解できるリクツなはずなんだけど。 歴史はたいてい「どっちもどっち」だ。 絶対の正義なんてないし、絶対の悪もない。 だから、かつて罪を犯した歴史を認めたなら、そのときは「お互いに」反省し、許しあうしか方法はないのだ。 その姿勢が李さんにないわけではないのだが、惜しいところで認識の甘さが現れちゃったね。それとも、理性的に書いちゃうと韓国の過激な日本人嫌いの人たちに狙われるから、あえて迎合したのかな? もしそうだったら、かえってこんな中途半端な本は、出さないでくれてたほうが両国関係のためにはよかったかも、という気にもなってしまう。……単に李さんの勉強不足だったと思いたいなあ。
さて、この日記読んでる人の中にも色々なご意見をお持ちの方もありましょうが、もし、私のことを「日本人として過去の罪を反省していない」人間だと受け取るのであれば、文化の違いがどうのこうのと言う以前に、文章の理解能力自体に著しく欠けているヒトだと断定しちゃいますよ。 私ゃもういい加減、この手の問題について議論するなら、未来志向の話がしたいんですって。
さて、第2ラウンド開始(~_~;)。 すっかりふてくされたのか、しげ、仕事帰りに迎えに来ていない。 こういう子供みたいな態度を取るから私もハラを立てるのだが、朝に比べたら、私も落ちついている。 いったん、タクシーで帰って、不貞寝しているしげを叩き起こし(落ちついてるのかね)、博多駅に向かう。 食事でもしながら少し話し合おうと思ったのだが、しげがグズるので、駅前の駐車場に車を停めたまま、蒸し暑い車中で今朝の出来事を反芻する。 「だからあのとき、おまえがさあ」 「あのときって、どのとき?」 「今、言ったじゃん!」 しげ、文脈の中での指示語が何を差すのかが把握できないので、会話が堂々巡りを繰り返す。 「だから『仕事に使うものとか買う』って言ったろ? それでおまえが『とかって何?』って聞くから、『ウェットティッシュとか』って……」 「違うよ、それ逆だよ。『ウェットティッシュとか買う』って言うから『とかって何?』って聞いたら『仕事に使うもんだ』って答えたんだよ」 「逆だよ」 「逆じゃないよ」 「逆だって。だって、職場でウェットティッシュが要るなあと思ったからそう言ったんだから間違いないし」 「オレだって確実だよ。ウェットティッシュとかの『とか』が気になったから聞いたんだし」 「だからなんでそんなに『とか』を気にするんだよ!」 「『とか』って使い方がヘンだからだよ!」 「どこがヘンなんだよ! オレの言葉遣いがヘンだって言うなら、おまえは何で俺が飲み物買うと分かってて『何しに寄るん』なんて解りきったこと聞いたんだよ!」 「だって、もう飲み物飲んだのにまだ要るのかと思って」 「あれだけで足りるわけないじゃん!」 「うん、そう思ったから、『まだ何か買うと?』って聞いたら『とか』って言うから」 「だから『とか』とか気にするなあ!」 いかん。 朝の会話以上にどーでもいいことを何度も何度も何度も喋っている(-_-;)。 しげもいい加減疲れてきたのか、涙声になって愚痴を言い始める。 「オレも間違ってるかもしれないけれど、アンタは自分が間違ってるかもしれないって思わんの?」 「誰もそんなこと話してないだろうがあ! それが詭弁だってんだよ!」 結局、これ以上話しても不毛なだけなので(っつーかケンカの原因自体が不毛)、「しげは指示語が何を差すのかわからないくらいバカだから、これからは指示語をできるだけ使わずに、幼稚園の子供を相手に話すつもりで丁寧に説明するようにします」と約束して決着。 気がついたらしげは仕事の時間が迫っていて食事どころではなくなっていたのだった。とほほほほ(T∇T)。
DVD『千と千尋の神隠し』の画像が赤味がかっているという苦情がスタジオジブリに殺到しているそうである。 えええ? そんな不良品、つかまされたのか? 私が見たときには全く気がつかなかったぞ、と思って改めて再生して見たが、特に赤っぽいという気はしない。パソコン画面で見ると違うのかと思って見てみたが、やっぱりそんな印象はない。 もっとも私は色弱なので、色の濃い薄いの区別はあまりつかない(この「色弱」ってのも差別用語で、今や「色覚異常」と言わねばならないそうだ。でもそれだと「色盲」との区別がつかないし、「異常」なんて言い方のほうがよっぽど差別だと思うから、あえて従来通りの言葉を使わせてもらう。色弱の人間に断りもせず勝手に差別語にするな。わしゃ「色弱」と言われたって全く傷つかんわい)。 濃いと言われりゃそうなのかもしれないが、気にするほどのものなのかなあ。世の中の人って、そんなに色に拘ってるのかなあ。赤と青の区別さえつけば信号は渡れるぞ、それじゃいけないのかなあ。 でも「色の分らんやつは黙っとれ」とか誰かさんから言われたらヤだから、このへんで言うのやめとこ。現物がどんな感じなのか気になる「正常」な方々は、以下のURLを覗いてみなっせ。
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/jul/o20020723_40.htm
柊あおい『ロングテイル オブ バロン 絵本とムックで紡ぐ猫の男爵のもう一つの物語』(こだま出版・1800円)。 映画『猫の恩返し』のムック『バロンの手帖』と、柊あおい自身によるサイドストーリー『空の駅』の二冊をセットにしたもの。 映画のムックはいろんな出版社から出されているけれど、絵本をつけたことで得点は高い。ムックの方も柊さんのカラーイラストが豊富で、映画以上に猫猫した(ど〜ゆ〜形容じゃ)不思議なムードの猫たちに溢れている。 柊さんのインタビューを読む限り、作者としては『耳をすませば』のアニメ化について不満な点もあったようだ。「ムーンは私には黒猫ですから」なんて発言には、『耳すま』でムーンをあんなブタ猫にされてしまったウラミもあるのだろう。 でも、柊さんがオトナであるのは、アニメのイメージに重なるデブ猫を新たに「ムタ」として案出したこと。なかなかできるこっちゃないな。そして『猫の恩返し』が、『耳すま』の雫が創作した物語であると設定したことで、原作からもアニメからもリンクできるようにしたのは実にうまいアイデアだ。 そして絵本、『空の駅』の出来。 これもまた雫の描いた絵本、ということなのだろうか、孤独な少女が闇の列車に乗ろうとする、ちょっと『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせる物語。バロンは彼女の心が「光」を取り戻すきっかけを与える役割だ。 柊さんが宮澤賢治に創作の源泉を求めていることは見当がつくが、賢治の世界にバロンのようなキャラクターはいない。人を「光」に導くものは、賢治にしてみれば自らの犠牲的精神そのものである。 しかし人は弱いものだ。自らを鼓舞してもなお、立ち上がれぬときがある。バロンは、そういう人々に「声」をかける。それが彼に与えられた役割である。 バロンは預言者か? それともただの狂言回しか? 恐らくどちらでもない。バロンは知っているのだ、少女たちが本当は自らの力で立ち上がれることを。ほんの少し、勇気を出すことをためらっているだけであることを。 「少女」とは日本においてはネオテニーの象徴である。幼形のまま成長することを拒絶された存在である。しかし、彼女たち自身はそのように扱われることを望んでいるか? 自ら歩む道を閉ざして、それで満足しているか? そんなことはない。少女はまた天使の寓意でもあるが、天使もまた性を持ち生を育む存在であるのだ。 彼女たちを導くバロンが「猫」であることはいかにも象徴的だ。 月島雫が天沢聖司と出会う前にバロンに出会っていたように、少女たちはあるものに出会って後、自らの殻を破り、現実の生を生きるのだ。 「猫」とは何か? 何の象徴なのか? 「待ちつづけるもの」「異界のもの」。 それが何かを答えられるのも、少女だけに与えられた特権なのである。 うーん、『耳すま』の原作読んだ時にはちょっと少女マンガとしてもありきたりかなあ、と思っていたけれども(失礼)、この方の才能、見直さなきゃいけないかも(^_^;)。
2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか
| 2002年07月22日(月) |
角川+大映=…?/『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2(伊藤伸平)/『スレイヤーズすぺしゃる�魁,襪覆討�・へすてばる』(神坂一)ほか |
だだだだだ、大映が、かかかかか、角川に買収されちゃったぞ。 角川歴彦社長、『ガメラ』や『大魔神』をリメイクする、と嘯いてるが、マジか。 一度潰れた大映が、大映として映画製作を続けて来れたのは、何だかんだ言って徳間康快社長のあの豪放磊落と言うか、大雑把と言うか、いい加減と言うか、まるで永田ラッパを引き継いだかのような、しかし永田雅一以上に映画に対しての愛情と情熱に満ちた性格があったればこそだと思う。 もちろんその情熱は時として眼鏡違いを起こして、『敦煌』や『おろしや国酔夢譚』のようなスケールはデカイが中身はスカスカって映画を作ったり、『となりの山田くん』のような大コケ作品を作ったりもしたのだが、徳間社長の偉いところはどんな悪評も興行的惨敗も全く気にしなかったところである。フツー、『山田くん』くらい製作費かけててコケたら、『千と千尋』作らせたりしないよ。 徳間氏が亡くなった後の徳間書店じゃ、大映映画の後を引き継ぐのは荷が重くないかと思ってたんだけど、まさかカドカワとはなあ。 あまりに春彦元社長のイメージが強くって今の歴彦社長、知名度が低いように見えるけれど、この人も相当やり手である。お家騒動でいったん角川を追い出されたのに、メディアワークスを立ち上げて日本製ファンタジーを春彦氏以上のメディアミックスを駆使して定着させた。映画に関してはあの『エヴァンゲリオン』が公開に間に合わなかったにもかかわらず、製作を打ち切らなかった。そういう経緯を考えれば、確かに、徳間社長の後を継ぐ人として、歴彦氏以上の適任者はいないかもしれない。 しかし、しかしである。 「角川大映映画」はないだろう。 そりゃ、角川は角川、大映は大映でそれぞれのレーベルの映画を作ってきた歴史があるわけだから、どちらか一つに統一もできないってリクツも分りはするんだが、そこは角川が一つオトナになって、「大映映画」としてスッキリ行くわけにはいかなかったのか。角川は確かに映画を百本以上製作はしてきたけれど、撮影所までは持っていなかった。大映買収で、念願のそれが手に入るのである。名を捨てて実を取りゃよかったじゃんかよう。徳間氏だって、「徳間大映」にはしなかったんだぞ。 日本の血族の因襲を引きずってきた角川のこれが限界なんだろうなあ。昔ながらの映画ファンからはこれで随分ミソをつけたと思うんだけれど、映画オープニングの会社マークはどうなるんだろう。雲間から鳳凰が大映マーク持って飛んでくるのか。悪い冗談だ。
しげの仕事、今日は早出で7時からだというので、夕食は早めに食えるものということで「すし大臣」。 今日は控え目にして高いネタを避ける。それでも二人で三千円は掛かるんだから、ここの寿司ネタがどれだけ暴利を貪っているか分ろうというものだ。 最近知ったことであるが、ここのウェイターさん(寿司屋なのにベスト着たウェイターがいるのである)、しげのリンガーハットにも客として来ているらしい。しげ、口をとんがらせて、 「向こうもこっちのこと知ってたらイヤだな」 と言うのだが、そりゃ当然知ってるだろう。しげって妙に目立ってるから。 いや、ホントにあちこちはちきれそうなのよ、リンガーの制服着てるしげってよ。 まあ、目立つ目立たないはともかく、客商売をしていれば、好むと好まざるとに関わらず、人との繋がりは生まれてくるものである。必ずしも会話を交わさなくとも、何となく見知っている相手がいる、ということにもしげには慣れていってもらいたいもんだ。 しげから、今年の盆の予定はどうするのか聞かれたので、父に電話してみる。 「今年の盆の予定はどうなっとうと?」 「盆は13日から15日に決まっとろうもん」 ……ボケ晒すオヤジだ。 「そうじゃなくてどっかで食事するとか」 「おう、してもよかぜ」 「……じゃあ当日電話するけん」 やっぱオヤジギャグって、オヤジがやると本気で凶器になるよなあ。
マンガ、さくらももこ『COJI−COJI コジコジ 完全版』4巻(完結/幻冬舎コミックス・1575円)。 正月くんの結婚話をメインに据えての最終巻。 コジコジがブーケを読者に投げて終わるってラストは、とりあえずはスッキリした終わり方と言えようか。ちょっと偽善的な気もするけどな。もともと何かドラマがある話じゃなし、終わるときはサラリと終わらせるのが粋というものである。 もっとも、私としてはスージーの正体がみんなにバレた後、どんな騒動が起こるかとか、そういう話も読んでみたかったんだけど、描かなきゃならんことでもないし、これっきりで終わっていけないってわけでもない。 今後アニメ版の脚本をマンガ化することもさくらさんは検討してるみたいだけれど、まず、いくら待っても取りかることはなかろうな。一旦、創作したものをもう一度書き直すってのは、よっぽど本人にエネルギーがないとできるものじゃないのである。誰も彼もが手塚治虫になれるわけではない(あの人だって、『バンパイヤ』『ブッキラによろしく』とか、「後で描き直す」って言ったままほったらかしたまんまの作品は多いぞ)。 前巻あたりから見え隠れしていた宗教性は、最終巻でもオブラートに包まれた形で継続されている。半魚鳥だのヤカンくんだの、ヘンなキャラがやたら出てくるから、何となくほのぼのしたメルヘンマンガのように思われているけれど、「神」であるコジコジ以外は、みんな虚飾に塗れた人間の戯画化なんだよね。 結局は「コジコジには無駄がない」の一言で「神」が全肯定される結末。かといって完全な宗教マンガってわけでもなく、だから目くじら立てるほどではないってことも分ってるんだけれど、どうも何かノドに骨が引っかかってるような印象で、今一つ好きになりにくいマンガであった。
マンガ、伊藤伸平『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2/MAICA SIDE(英知出版/トラウママンガブックス・1985円)。 解説と描き下ろし4コマ(カバーを取った表紙に隠してやがんの)が読みたいためだけでまたバカ高いもの買っちゃったよう。 でもまとめて読んでみると、この人のパロディって今一つ薄っぺらだなあ。26話の表紙でミュウとマイカにアヤナミとアスカのコスプレさせてるけど、何か嬉しいのかね。読んでる方は「はあ、そうですか」としか言いようがないんだけど。ミサトは眼鏡外した祥ちゃんか? よく分らんキャラが多いよ。 ほかにもやたら『ガメラ』ネタは出てくるし、こうシツコイと、自分だけ遊んでるって感じが強過ぎて白ける。でも勢いで描いてみたくなるときってあるの分るからね〜。それだけ『ガメラ』とか『エヴァ』、当時は流行ってたんだよね〜。 今、このマンガの続編、『トラマガ』って雑誌で再開されてるんだけれど、ちゃんと今巻のラストでウママンにメシおごらせるところから続いてる。律儀と言えば律儀だけれど、フザケてると言えばフザケてる。編集部が怒るのも無理ないかも。 作者本人が編集部に文句言ってるうちに、マンガの中身がナゲヤリになるとこなんか、まるでたがみよしひさみたいだけれど、影響受けてるのかな。欄外の描きこみの仕方とか似てるし。 さて、まるで一般ウケしそうにないこのマンガ、作品そのものもそうだけど、雑誌自体、潰れずにいられるかねえ。
神坂一『スレイヤーズすぺしゃる�魁,襪覆討�・へすてばる』(富士見ファンタジア文庫・504円)。 スレイヤーズもまたアニメ化されたら「角川大映映画」か。もういいよ。 はい、原作小説の方も、頑張って買ってますよぉ。f(^^;) いつも通り、ただ笑って読んでりゃいいだけの小説だから、特に批評の必要もないようなもんなんだが、ふと気になったことがあった。 『愛は強し』の中に、マーカスとレイチェルってラブラブなバカップルが出て来て、思い切りリナとナーガを疲れさせてしまうのだけれど、このギャグのルーツっていったい何だったろう。『クレヨンしんちゃん』にもミッチーとヨシリンってキャラがいるけど、これだってルーツじゃないしなあ。 私はこれも吉本新喜劇なんじゃないかと思うんだけれどどうだろう。記憶だけで書くから細かいところは違うかもしれないけれど、こんな感じである。 さっきまでケンカしていたカップルが仲直りするシーン(誰かの持ちネタと言うわけでなくたいてい新人の男女に割り振られる)。 「○○ちゃん、ボクが悪かったわ」 「いややわ、ウチのほうが悪かってん」 「そんなことない、ボクの方が悪かったんや」 「ウチや」 「ボクや」 「ウチや」 「ボクや」 回りで聞いてる人々、もだえて胸を揉んだり肌を露わにしているうちにブチ切れて。 「ええ加減に晒せ!」 もだえてたのは桑原和男さんが多かったんじゃないかな。 けれど、これ以前にもルーツがありそうなんだよね。『エノケンの法界坊』のラストでも、若いカップルに幽霊になった法界坊が照れながら「高砂や〜この浦船に帆をあげて〜♪」と歌うシーンもニュアンスはそれに近いが、冷やかされる方がバカップルではないので、やっぱりこれ、感覚的には関西系のギャグではなかろうか。 ……全然『スレイヤーズ』の感想になってないな(^_^;)。 表題の『るなてく・へすてばる』と『うちのジョン知りませんか?』にラギアソーンって魔族が出てくるんだけれど(ゼロスとも関係があるみたいね)、本編でなくて『すぺしゃる』に魔族が出てくるのも珍しいことだ。けど結局、『すぺしゃる』だからね〜、まともな魔族じゃないんだよね〜。 魔族の住むカタート山脈はペット飼育が禁止されているそうである。ところがラギアソーン、魔王竜のジョンをこっそり隠して飼っていた。……ってカタート山脈って近所づきあいの難しいマンションかい。誰がどうして文句つけるって言うんだ。 で、うっかりはぐれてしまったジョンを探してくれと、ラギアソーンが頼んだ相手がよりによってリナとナーガ。その結末は推して知るべしであるが、この二人、よくこれだけあちこちでトラブル起こしまくってるものだと感心する。あれだね、江戸時代にテレビの時代劇並に人が殺されてたら、江戸の人口が半減するとか計算してた人がいたような気がするが、そのことをちょっと思い出した。リナとナーガの二人がいて、よくこの世界、崩壊せずに残っているものである。それくらいいい加減だからこそ、各話の飛びっぷりを楽しめるんだけどね。
2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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