無責任賛歌
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| 2005年06月01日(水) |
いいんだぜ/映画『オペレッタ狸御殿』 |
あまり何やらの会員になったりするのは好きではないのだが、演劇関係となると話は別で、実はここ数年すっかり気に入ってしまった劇作家兼演出家の「G2」さんの(「さん」を付けないと、とても人の名前だとは気がつかれないね)「G2プロデュース」のホームページに会員登録をしている。 月変わりのDVD販売も楽しみなのだが、毎月の特集記事が充実していて、更新が待ち遠しいのである。
今月は何と中島らも一周忌特集。 G2さんの語る「らもさんの思い出」が、語ってるG2さん自身がらもさんの優しさを思い出しながら泣いていて、それを読んでるこちらも自然と泣けてくる。
>(G2)らもさんはメチャクチャをするので、わかりにくいけれど、根はものすごくいい人でね。たとえば劇団の打ち上げでアンケートの読み合いっこをしたときに、誰かの失敗に突っ込んだのは、おもしろいから読まれるんです。でも、誰かが落ち込むようなのが読まれると、らもさんは、その人をほめるようなアンケートを探して、さりげなく読む。それもちゃんと笑いもとったりしながらね。そういうふうにして、人が傷つくことを、すごく避ける人でした。 >それが「いいんだぜ」というその曲に出てるんです。「いいんだぜ、いいんだぜ」の繰り返しのあとに、「君がめくらでも、君がびっこでも」と放送できないような言葉ばかりがずーっと続いて、最後に「いいんだぜ」で終わる。それだけの歌だけど、ものすごい深い愛を、ものすごい汚い言葉を並べて表現している。それを聴いて、一緒に行ったキッチュも泣いてました。
どんなに大らかに生きているように見える人でも、心のどこかに何かの「傷」を持っているものだ。だから人はその「傷」を人前にさらすまいと、身の周りに幾重もの「盾」を「構えて」生きようとする。そうするしか仕方がないのだが、そうやって傷を守るために構えた「盾」だって、決して傷つかないわけではない。構えれば構えるほど、外界からの攻撃が増すことだってあるのだ。 いつかその「盾」はボロボロになり、剥き出しになった心は、深く、これ以上はないというほどにズタズタにされてしまう。そうなってしまった人をどうしたら救えるだろうか。「頑張れ」とか「大丈夫」とか、生半可な言葉は絶対に届かない。「癒し」なんて流行語は屁の役にも立たない。けれど、らもさんの言葉は、そういう人たちにもちゃんと届いていたと思う。 『いいんだぜ』の歌詞はこんなだ。
>いいんだぜ いいんだぜ >いいんだぜ いいんだぜ
>君がドメクラでも ドチンバでも >小児マヒでも どんなカタワでも >いいんだぜ
>君が鬱病で 分裂で >脅迫観念症で どんなキチガイでも
>いいんだぜ
>君がクラミジアで ヘルペスで >梅毒で エイズでも おれはやってやるぜ >なでてあげる なめてあげる ブチ込んでやるぜ >君がいいヤツで だからダメなヤツで >自分が何をしたいのか 全然わからなくても
>いいんだぜ
>君が黒んぼでも 北朝鮮でも >イラク人でも 宇宙人でも >いいんだぜ おれはいいんだぜ >HEY’BROTHER&SISTER >君はどうだい
>いいんだぜ
いちいちどこがどう泣けると説明しだしたらキリがなさそうなのでやめるが、一つだけ言わせてもらえるなら、「いいんだぜ」、であって、「いいじゃないか」ではない点が、とてもいい。 「いいじゃないか」と主張する歌はいくらでもある。本人は差別も偏見もない態度のつもりで悦に入っているのだろうが、それはとんだ間違いで、本気で自分に「傷」があっても「それでいいのだ」と肯定しているわけではない。単に開き直って、自己弁護の自己陶酔に陥っているだけである。 それに対して、らもさんの「いいんだぜ」は、本気で人間を等しく全肯定している。「いいんだぜ」という言葉は、上の立場から見下ろしているわけじゃない。同じ立場の人間として、いや、“人間はみなダメだからいいんだ”という人間観で、“みんなを愛している”のだ。だから、らもさんの言葉が心に届かないことはない。 正直に告白すれば、私は「君が鬱病で 分裂で 脅迫観念症で どんなキチガイでも」のところで、しげのことを思い浮かべて泣いてしまったのである。私がしげのことを「イカレてる」とか書くと、「自分の奥さんのことをそんなに悪く書くなんて」と文句を付けてくる人がたまにいるが、私はしげがイカレてることを隠さなきゃならないことだとは考えていないからこそ「イカレてる」とはっきり書くのである。しげがイカレていることが私たち夫婦の間で何の障碍にもなっていないのに、どうしてそれを秘匿したり「言い換え」たりする必要があるのだろうか?(まあ、しげが家事をしないのは困ったことなんだけど、それが原因で我々が別れたりするようなことにはならないので)
常日頃、酔っ払いの悪口ばかり書いてるのに、アル中だったらもさんを賞賛するのは矛盾じゃないか、と仰る方もおられるかもしれないが、私ゃ確かに酒や酒飲みはキライだが、「人」が嫌いなわけではない。 らもさんという人の何に感激しているかと言うと、普通、人は、立派になりたいとかマトモでありたいとか、言葉としての聞こえはいいが、つまりは人よりも頭一つだけでも「上」でありたいと思っているものなのに、そういう衒いが全くないどころか、“できるだけ人よりも低くありたい”と考え、かつ実行していたからなのだ。 マトモな人にはこういうリクツは理解しがたいかもしれないが、らもさんは、「世の中のダメな人々を愛するために、自分が率先してダメになった」人である。酒もやった、薬もやった、人としてはどんどんダメになっていって、だからこそあれだけ人を好きになれた。馬鹿とののしる人はいるだろうが、そんな「上からものを言う人」には決して人を愛することの真実は見えてこないだろう。 こんな豊かな人格をお持ちの人に、魅力を感じないではいられないのだ。
もう一つ、特報で、後藤ひろひと作・松尾貴史主演、『BIG BIZ』『BIGGER BIZ』に続く第三弾完結編『BIGGEST BIZ 〜最後の決戦! ハドソン川を越えろ〜』の製作発表も。 松尾貴史のモノマネとトリック・スターぶりを存分に発揮した、日本には珍しい「ギャグ」だけで「涙」や「感動」の要素がカケラもないこのシリーズ、1作ごとに設定も構成も展開もどんどんエスカレートしてきているので、これで完結となればいったいどんなことになるやら期待は大。 これまでのキャストに加え、篠原ともえが初参加とか。この人が結構な「役者」であることは先刻承知なので、ナマで見られるとなればもう、女房を質に入れてでも見に行かずばなるまい(いや、ちゃんと一緒に行きますよ。言葉のアヤですって)。 けれど、会場を見ると、これまでは一作目、二作目とも西鉄ホール、福岡での公演だったのが、北九州芸術劇場に変更されている。ああ、また北九州に「取られた」(泣)。もう、地方公演のある芝居で、見たいやつの大半はリバーウォークにばかり来やがるし。そりゃ、舞台の造りが違うから仕方がないんだけど。こないだの『シティーボーイズ』の舞台を見ても比較できるんだが、音響効果を考えた設計と言い、客席の傾斜と言い、東京公演の天王州アイルよりも北九州芸術劇嬢の方が頭一つ分くらい上なのである。 福岡・博多は何してるんだ、という苛立ちの声を挙げるのもだんだん空しくなるくらい、九州演劇の中心地は確実に北九州に移ってしまっている。「演劇振興」を掲げた末吉北九州市長の努力が実ったと言えるんだろうなあ、儲かってはいないと思うけど。北九州演劇祭もすっかり定着しているし、これでまた旅費を少ない家計から捻り出してかなきゃならないのである。
AMCキャナルシティで、映画『オペレッタ狸御殿』。 脚本が『はれときどきぶた』ほかの浦沢義雄、監督が『ピストルオペラ』ほかの鈴木清順ということで、主演のちょっとオタクが入ってるオダギリジョーは「『ルパン三世』のコンビだ!」と狂喜したそうだが、別に『ルパン』を引き合いに出さなくても、この二人、もともと師匠と弟子の間柄なのである(兄弟子にやはり『ルパン』の脚本家・大和屋竺がいるね)。 物語の筋は往年の『狸御殿』シリーズを踏襲しているから、極めて単純で、人間の若君と狸姫の種族を越えた(笑)恋を描き、命を落とした姫を救うために、若君が秘薬を求めて決死の冒険を……というものだが、単純なだけに、あまりクセのある脚本家・監督に任せちゃうととんでもない映画になりかねないのだが、やっぱりそうなった(笑)。 定番の筋ではあっても、浦沢脚本のことだから、若君の雨千代(オダギリジョー)が実の父の安土桃山(平幹二朗)に命を狙われる理由が「ワシより美しいから」だったり、狸姫の命を救う秘薬が「極楽かえるの鳴き声」だったり、こういうナンセンスを書かせたら浦沢さんの右に出る人はいないのだが、いかんせん、そういうシュールなギャグを生かすためのテンポが、既に老齢の鈴木清順には生み出せない。 そういうテンポを作るためにも、「オペレッタ」なんだから、ミュージカルシーンが大いに盛り上がってくれないことには困るのだが、これがまるでうまくいっていない。浦沢さんの作詞はもうハチャメチャで楽しいのだ(由紀さおりの「生まれ変わってもびるぜん婆あに生まれたい」って、アンタ生まれた時から婆あなのか、と大爆笑)。けれど、肝心の大島ミチルと白井良明が作ったメロディーが、もう作曲家として恥ずかしくないのかと言いたくなるくらいのクズ曲ばかりなんである。記憶に残るメロディーってのがどんなものなのか、ちったあ『サウスパーク』を見習ってくれ。オダギリジョーとチャン・ツィイーのダンスシーンも退屈なだけだぞ。 といっても、ミュージカルのツボを外しまくった金子修介監督の『恋に唄えば』に比べればはるかにマシではあるのだが。薬師丸ひろ子の美声がこんなにいっぱい聞けるとは! 実際、この映画は平幹二朗・由紀さおり・薬師丸ひろ子の三人で“持っている”のである。 正直な話、私は鈴木清順の熱心なファンとは言いがたい。一応、『ツィゴイネルワイゼン』以降の作品なら全て見ているけれども、日活時代の作品をせいぜい四、五本しか見ていないからだ。 芸術とか映像美とか、そんな小賢しいホメ言葉が陳腐に聞こえるくらい清順監督の映画は「ヘン」なので、これはもう、私の感性としては当然「大好き」なんだけれども、どういうわけか見るチャンスを「外して」しまっていて、見損なってる映画が多いのである。エアポケットみたいな感じね。 そのうちのいくつか、例えば『けんかえれじい』や『殺しの烙印』を見ただけでも「このカントクはイカレてるわ」ということはすぐ分かる。……と言っても、若い人は全然わかんないんだろうなあ。ヘタすりゃ、『ルパン三世(新)』の監修してたり、『美少女仮面ポワトリン』に神様役で出演してたことすら知らないかも知れない(何かのクイズ番組のレギュラー解答者として出演していて、いつもトンチンカンな答えばかり言ってたこともあったなあ。印象に残っているのは、「デブな俳優」というヒントに「岸井明」と答えてたこと。司会の紳助は目を白黒させていたが、無理もない話である)。 だから、と言い訳するつもりはないのだが、私には鈴木清順という人があまりよく分かっていないのであって、面白いなあと感じている部分も、つまんないと感じている部分も、双方ともに印象批評の域を出ないのである。 今回はそういうわけなんであまり突っ込んだ分析ができてないのですが、どうかご勘弁。
2004年06月01日(火) まだ眼が痛いのよ(+_;)。 2003年06月01日(日) 再開シンクロ日記(^o^)/映画『あずみ』 2002年06月01日(土) マトンウォーズエピソード0(^o^)/『ボンバーガール』1・2巻(にわのまこと)ほか 2001年06月01日(金) あえて美人殺しの汚名をきて/『「彼女たち」の連合赤軍』(大塚英志)
| 2005年05月31日(火) |
出た出た糖が♪/映画『コーラス』 |
先月の健康診断の結果が届く。 通院もここんとこずっとサボってるし、薬も飲むのやめちゃってるから、あまりよくはなかろうなと思ってはいたが、やっぱり尿糖が+1。肝脂肪も相変わらずたっぷりこんと付いている。 普通なら再度の精密検査が促されるところで、実際診断書には病院への紹介状も付いてはいたのだ。けれども、病気がひどい時には尿糖が+3、血糖値も主治医から「いつ死んだっておかしくないですよ」とまで脅されていた時期に比べれば、遥かに病状は“安定”しているように思えるのである。「なんだあ、プラス1じゃん」ってなもんで。ホントはそう言って放っといとくのがよくないってこと、分かっちゃいるのだが。 それより気になるのは、もう四年連続で身長が縮み始めていることで、一年に1ミリから2ミリ、確実に縮んでいっているのだ。このままのペースで行くならば、850年もすれば私の身長はなくなってしまう計算になるが大丈夫だろうか。
二子山親方(元大関貴ノ花)が、昨30日、口腔底がんのため死去。享年55。 早過ぎる死、とは誰もが口にするだろうが、それを一番痛感しているのは兄の花田勝治氏(先代二子山親方・元横綱初代若乃花)だろう。 私はこの十年ほどの花田家のゴタゴタについては全く興味がない。ワカノハナ・タカノハナと言われて連想するのは平成のボケ兄弟の方ではなく、親子ほども歳の離れた勝治・満兄弟の愛憎渦巻く相撲人生の方である。兄の鬼のようなシゴキに耐え、大関昇進を果たすまでの経緯は、小学館の学習雑誌に絵物語で紹介されるほど、我々の世代にはポピュラーな「偉人伝」の一つであった。 しかし、貴ノ花が結局は横綱にはなれなかったことが、この兄弟の「物語」を、「未消化」のままで残すことになった。相撲ファンの中には、その物語の結末を「息子たち」に託したがっていた人も多かったようであるが、私に言わせるなら、貴ノ花と貴乃花は全くの「ベツモノ」である。親子の世代の違いとか、時代の違いとか、その程度の言葉では言い表せないくらいに「相撲」の概念自体が変わってしまった、そんな印象なのだ。陳腐な表現で申し訳がないが、「相撲からロマンが消えてしまった」のである。 たとえ前時代的で封建的であろうとも、先代二子山親方の「シゴキ」と、それに耐えた貴ノ花の「我慢」や「辛抱」が、そのロマンを支えていた重要な要素であったことは否めない。別にシゴキが正しいとか言いたいわけではないが、「心・技・体」の一致が伝統として関取に求められる角界において、「辛抱」の精神は、実に保守的で、伝統に相応しいものであったのだ。先代の花田兄弟の「人間、辛抱だ」のCMは流行語にまでなったが、この台詞を堂々と言える相撲取りが、今、角界にいると言えるだろうか。相撲は死んだ、と感じているのはそのせいなのである。
ダイヤモンドシティで、映画『コーラス』。 不良、落ちこぼれだらけの学校を、一人の教師が音楽を通して更正させていく――という、どこかで聞いたことがあるようなオハナシであるが、これが日本映画なら主役の先生は若い熱血先生、なるところだろうが、そこは何と言ってもフランス映画である。主役の教師にハゲデブの冴えない中年を持ってくるという意外性。これがリアルかつユーモラスで実にいいセンスである。 子供たちに音楽を教え始めるのも、自分が作曲家崩れの落ちこぼれなもんだから、「こいつらを利用して、俺の作った曲を歌わせてやろう!」という自分の欲望に忠実なだけで、教育の理念がどうのとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない俗物なのである。意外や意外、この「音楽教育」が功を奏して、生徒を更正させることができるのだが、その手柄をやはり俗物な校長に奪われて、この先生、おおいにムカつくのである。どっちもどっちだわな(笑)。 生徒たちも、一応、コーラス自体が楽しくなって先生の言うこと聞くようになるのだが、決して先生をソンケイするようにならないのがよい。こういう映画を見ると、スーパーマンモドキのキャラしか出て来ないハリウッド映画よりも、フランス映画の方がよっぽど日本人の感性にしっくり来ると思うんだけど、どうしてみんなアメリカ〜ンなウス味にばかり群れ集うかね。
Yahooの掲示板で、『Zガンダム』の感想など見る。 案の定、賛否両論で、賛の方はともかく、否の方はかなりヒステリックである。たいていは「なんだあのダイジェスト版は」というものだが、初見の感想でも書いた通り、あれは通常言われるダイジェスト版とはまるで違うのだ。と言うより、「ダイジェスト版だ」と思ってしまった瞬間に、あの映画の本質も面白さも見失う仕掛けになっている。 例えば殆どの批判者は、「あれでは世界設定も人間関係も分からないではないか」という、ムカシのファースト三部作の時にも散々口汚く言われていたことを書きなぐっている。しかし、私が不思議でならないのは、『Z』を見たことがない客に対してもあれだけ「分かりやすい」構成と演出がなされているというのに、どうして「テレビシリーズを見ていないと分からない」と断言する連中がやたらいるのかなあ、ということなのである(実際、初見でも面白かったという意見も多いというのに)。テレビシリーズを見ているファンは、どうしてもカットされている部分を知っているものだから、脳内でその部分を補って、「この描写がないと意味が繋がらないではないか」と考えてしまうのだろうが、逆にカットされた部分を思い出してしまうと、新作部分との整合性が崩れてしまうことになる。だからあれは「ディレクターズカット版」であって、あれ以外の描写は存在してないの。 例えばレコア・ロンドとカイ・シデンの出会いだってカットされているのだけれども、それがテレビシリーズの通りであったとは限らない。というか、あの描写なら、「レコアが捕らえられた牢獄にカイもいた」と解釈して何の問題も生じない(カイが誰だか分からない、という人には唐突に見えるだろうが、だから「ファースト」のストーリーだけは知っておく必要があるのだ。「続編」なのだから、『Z』から見ようってのはさすがに無理である)。また、幽閉されて再び戦うことを逡巡していたアムロが、次のシーンではもうカツと行動を共にしているのは、小気味よくすらある。あの展開の早さゆえに、「アムロの迷いや愚痴はただのポーズで、実はティターンズに反旗を翻す機会を狙っていた」という解釈が成り立つ。あれならアムロはヒネた中年にならずにすむわ(笑)。「新訳」とはそういうことなので、同じ絵とセリフを使いながら、テレビシリーズとはキャラクターの設定も意味も全く別物になっているのである。だからテレビのことは忘れなさいって。 そもそも、そのように怒る人たちは、何をどこまで理解できれば気がすむのであろうか。もともとの『ガンダム』シリーズを全て理解しており、その上で『Z』は説明不足だ、とでも言いたいのであろうか。だとしたらその人はかなり傲慢な人間である。これも有名な話であるが、テレビシリーズでは、「ミノフスキー粒子」の説明すらなされたことはないのである。オタクはすぐにガイドに頼るから、「ミノフスキー粒子が分からない」とヒトコトでも言えば、鼻息吹かしてウンチクを垂れまくるが、そもそも『ガンダム』シリーズの「物語」を楽しむのに、ミノフスキー粒子を理解していることが絶対必要条件であると言えるだろうかね? 『Z』に関して言えば、冒頭のナレーションで示されている「ティターンズとエゥーゴの対立」が理解できていればそれで充分で、キャラクターは全てそのどちらかの陣営に所属するように「分かりやすく」配置されている。シロッコの登場シーンを見て、こいつが「ティターンズ側だ」と気づかない者がいるだろうか? いたらそいつは小学校低学年以下の理解力しか持っていないと判断されても仕方あるまい。 笑っちゃうことに、「映画になってない」という批判をしている人もいたが、これくらい「映画を知らない」発言もない。「映画」の概念なんてそんなに簡単に規定できるわけもないし、富野監督は富野監督自身の映画理論に則ってあの「映画」を作っている.それが自分の映画観と反しているからといって、「映画になってない」と断言することがいかに傲慢な行為か。「映画じゃない」というセリフは、口にした途端に映画ファンの仲間うちから「馬鹿」と断定されてツマハジキにあう運命にあうことを、ちょっとでも映画関係の本を読んだことがあれば感得できることなのであるが、何百本と映画を見続けていてもそのことに気づかない半可通も巷には結構いるのである。こういうやつは決まって自前の「映画論」とやらを得々と語り始めると止まらないので、鬱陶しくて仕方がない。こういうのの意見は一切無視してよいのだ。 「全編新作画でなぜ作らなかったか」という批判については、気持ちは分かるが、そもそも「旧作の作画を使って、新しい物語・映画が作れるか」というのがあの映画のコンセプトなのだから、お門違いの批判だとしか言いようがない。だからあれは「新訳」であって「新作」じゃないんだってば。「あこぎな商売しやがって」という類の批判にもならない下らない批判についてはもう、何をか言わんやである。なんかもう、常識的なことを言わなきゃならないのは気が引けるんだけどさ、あの映画に対する「批判」をしたいのなら、まさにその「新訳」された箇所について、「こういう編集の仕方をした方が面白いぞ」という具体例を出せなきゃ話にならないのよ。それができてる批評がただのひとつもないというのはどういうわけなんだろうかねえ。
2004年05月31日(月) 思い返すことども。 2003年05月31日(土) 追い込み日記/サボっていた男 2002年05月31日(金) 病気はハンデじゃないってば/映画『スパイダーマン』/『ミステリー民俗学者 八雲樹』1巻(金成陽三郎・山口譲司)ほか 2001年05月31日(木) 多分まだ20世紀は終わっていない/DVD『なぞの転校生�供�
| 2005年05月30日(月) |
体調振るわず/『げんしけんDVDボックス』2 |
朝から熱発して出勤できず。
グータロウ君が友達から『押井守DVDボックス』を借りた話を日記に書いている。 押井守ファンでも、アニメは好きだが実写映画はちょっと、と感じている人は多いと思うが、その点で言えば私は「どっちかと言うと実写の方が好きかな」という珍しい押井ファンであると言えよう。いや、そりゃ映画としての完成度で言えば『機動警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』の方が上だろうし、押井守らしさが横溢している点では『天使のたまご』や『御先祖様万々歳』を挙げるのが妥当だろう。それらの傑作群に比べると、実写3作(『紅い眼鏡』『ケルベロス 地獄の番犬』『TALKING HEAD』)は観念的で映像としての魅力にも乏しく、“一般的には”一段劣って見えるのも仕方がないかもしれない。 けれど、アニメでは「絵」というフィルターがかかるために抑制され薄められてしまうが、押井守のナマな人間に対する欲望は、実写版ではかなりストレートな形で反映されていて、それが私なんぞには非常に面白いのだ。少なくとも『紅い眼鏡』の兵頭まこの、目を見張るほどに済み切った美しさを見るだけでもこれは価値があるのよ(笑)。
なんだか殆ど毎日酔っ払い批判をやらかしてて、全世界の愛飲家をテキに回しているようであるが、実際、酔っ払いの仕出かしたトラブルを書いていけば、毎日ネタに困ることもなく、立派に事件簿ができ上がっちゃうのである。 映画監督のオリバー・ストーンが、27日夜、酒を飲んで乗用車を運転、ロサンゼルスの路上を走っていたところを取り締まり中の警察官に停められた。その際、車内を調べたところ、薬物が見つかり、逮捕されたという(薬物の種類は未発表)。アチラの話だから、ストーン監督は保釈金1万5000ドル(約162万円)を支払ってすぐに釈放されたそうだけれど、それだけのカネをポンと出せる人間なら、サケをやろうがヤクをやろうがカネ積みゃ何とかなるって発想になってもおかしかないわな。監督の薬物所持での逮捕は、99年に継いで2度目だとか。 名声を馳せてはいるが、私はオリバー・ストーンという人を映画感得としてたいした人だとは思っていない。「社会派監督」という肩書きはクセモノで、題材がセンセーショナルな場合が多いので注目されることが多いが、かといってその演出力まで秀でているとは限らないからである。『プラトーン』を見た時に感じたことは、一般的な世評に反して「大味な描写だなあ」というものであって、監督が意図したらしい「ベトナム反戦」とやらは“映画の中からは”感じられなかった。リアルとか言われてたわりにはメロ入ってたしな。 だもんで、この人も私には「胡散臭い」監督の一人だったのだが、最近はサケやヤクに限らず、本職の映画の方でもいろいろと馬脚を表しつつあるようである。『アレキサンダー』はホモ描写ばかりが話題になって、映画自体は大コケしたようだが、根のない「社会派」が客に媚売ってりゃ、いつかは化けの皮がハゲて見捨てられるのも必然というものだろう。『アレキサンダー』はまだ見てないんだが。
DVDボックス『げんしけん』2。 5〜8話、及び、『くじびきアンバランス』2巻。 本編の方は、原作ベースながらオリジナル描写もかなり付け加えられていて、ドラマとしての厚みを増している。横手美智子脚本に期待してボックス買いまでしてるようなものなので、つまんなかったら涙がちょちょ切れるところだ。 1話限りで消えちゃった新入部員のエピソード、「空気読めねえ」ぶりがリアルでおかしい。いるんだよ、宴会で先輩を無視して一人勝手に食いもの食いまくるやつ。おれもだけどな(もちろん私の場合は空気が読めないのではなくて空気を無視しているのである。飲めねえって言ってるのにムリヤリ酒を押し付けてくる酔っ払いにはこっちだってそれなりに対抗するというものだ)。 予告編のナレーションで、咲姉さんがレイヤーを思いっきり貶しまくって(素で悪気なく言ってるという設定)、それに大野が「全国のレイヤーを敵に回しましたよ」と静かに突っ込むのがナイス。 『くじアン』は「大総集編」という体裁で、過去の対決を千尋が思い返す。もちろんシリーズそのものが存在してないので、総集編もへったくれもないのだが、横手美智子著の小説版『くじアン』とはシリーズ構成もエピソードも違っているらしい。できればそこんとこの整合性も合わせてほしかった気がするが。1巻に引き続き、全体的に作画演出を「イマイチヘタレ」レベルで抑えているのが見事。これ、あくまで本編劇中の「架空アニメ」なんで、斑目とかが「アレックスとの対決シーンはリキ入ってましたなあ」と批評するクライマックスの一部分を除いて、作画レベルをよくできないのである。予め「手抜きでいい」ことが約束されてるアニメなんて、スタッフは気は楽だったかもしれない(笑)。
2004年05月30日(日) 相手を選ぼうよって話と、韓国の『ヒカ碁』 2003年05月30日(金) 追い込み日記/懐かしの男 2002年05月30日(木) タカリ女の言い分/『東亰異聞(とうけいいぶん)』1巻(小野不由美・梶原にき) 2001年05月30日(水) まるでNENNEのように/『帰ってきたハイスクール!奇面組』(新沢基栄)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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