無責任賛歌
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| 2005年04月29日(金) |
昭和の日。/映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』 |
えーっと、天皇誕生日……ってんじゃなくて、みどりの日? おクニのほうでは「昭和の日」って変えようって動きがあるようだけれど、その伝でこれからも「平成の日」とかどんどん休日を増やしてくれるつもりなのかね。「Yahoo」の投票でも「みどりの日のままでいいじゃん」という意見が圧倒的に多いようだけれども、こういうことをするから、日本は右傾化してるとか誤解を招くんである。右傾化してるように見えるけれども右傾化してないよというアプローチのつもりかもしれないが、やり方がヘタだ。なんか「なしくずしにやる」って形が多いようだけれども、根回し足りないんじゃないか。まあ私は昭和天皇の誕生日なんだから、昭和の日以外の名称をつけてる現在のほうが欺瞞だよなあとは思うけれども。ついでに「○○節」も復活させたらいかがかな?(笑) 連休の始まりであるが、昨日一日走り回っていたおかげで、今日は体の節々が痛い。一日ほとんど寝てDVD見て本を読んですごす。
DVD『80デイズ』。 ジャッキー・チェンのDVDは出るたび買わなければならない宿命になっているので、映画としてはどうか、という批判も多い本作も購入。でも往年のデヴィッド・ニーヴン主演版『80日間世界一周』のような大作を期待するから批判も出るわけで、B級エンタテインメントとして割り切ってみれば、決してつまんなくはない。それにこれ、LIMBのタダ券で購入したから、お金は一銭もかけてないのよ。特典映像と吹き替え音声が付いているだけで満足である。 未公開シーンの中には、映画冒頭でのジョン・クリーズの出演シーンもあり。これがなけりゃ、ラストでどうしてクリーズが再登場してくるのかが分からないので、このカットは腑に落ちないところである。 吹き替えは声優陣と、ゲスト役者との演技の落差が激しく、こういう吹き替えがまかり通るのなら「客寄せパンダの役者起用は止めろ!」の声が高まっても仕方がないと思える。フォッグに扮し原田泰造がともかく聞いていられないくらい下手糞。今や封印されて幻となった『スター・ウォーズ』テレビ版初吹き替えに匹敵するくらいの棒読みである。ジャッキー・チェンの石丸博也さん、合わせるのが大変だったろうなあと涙もちょちょぎれる。 逆に言えば、宮崎駿の役者起用が決して「客寄せ」のためではないということが、まんま客寄せなこういう映画との対比で理解できるのである。世の宮崎駿バッシング、やっぱり「やっかみ」が入りすぎてるよなあ。
DVD『ゴジラ ファイナルボックス』を買ってしまったので、もう何十回見たか分からない『ゴジラ』シリーズを、一作目から順番に見ていくことにする。何度見返しても新しい発見があるのが「名作」たるゆえんだろう。 とは言え、「第一作以外のゴジラをゴジラとは認めない」というコアなファンの付いている映画『ゴジラ』にも、欠点はいくらでも見受けられる。映画が神格化されてしまうと、良きにつけ悪しきに付け、批判自体がしにくくなるもので、半可通なオタクのちょっとした底の浅い批判などは一蹴されてしまう。「新作のゴジラ映画に比べてテンポが遅い」なんていうのは馬鹿もはなはだしく、若い役者には演技の密度が薄く、観客も演技を見抜く力が衰えているので、早いカット割りで誤魔化すしかなくなっているのである。コメンタリーでは宝田明が「志村喬や平田昭彦の演技プランがいかに綿密であったか」を語っているので、参照していただきたいものである。 そういう感覚的な批判(印象批評は批評の出発点でしかないのだが、そういう基本も今の評論家やオタクは体得していないのである)ではなくて、映画の構造上のミスを挙げれば、例えば大戸島の「ゴジラ」伝説がネーミング以外にドラマにまるで関わっていないとか、志村喬の語る「ゴジラ保護論」も、言葉で語られるだけで、同じくドラマを盛り上げる葛藤としての役割を果たしていないとか、いろいろあるのである。私がこれまで読んだ『ゴジラ』批判の中で少しは納得できたのは、富野由悠季の「本編の演出が特撮シーンのことを全く考慮していない」というものであった。これは単純に「ゴジラとの目線が合っていない」「怪獣と人間との比率がおかしい」ということだけではなくて、普段の芝居を演出する際に、背景に「怪獣が本当に存在している」という実感を持って演出することができていない、ことを指しているのだろう。もっともそれが出来ている怪獣映画なんて、皆無に等しいのだが。 瑕瑾はあれども、第一作『ゴジラ』がシリーズ中、唯一の傑作であり、オリジナルとしての価値があることは間違いないことで、「今見るとつまらないですよねえ」なんて言っていっぱしの批評家気取りになっているエセオタクとはもう私は話をしたくもないのである。 ……とか言いながら、私も今回コメンタリーを聞いていて初めて気づいたことも多く、例えば電車の中でゴジラのニュースを知って、「いやねえ、また疎開しなくちゃいけないのかしら」とか暢気なことを言っていた女性(東静子)、ゴジラが初上陸するときに東京湾の遊覧船上で暢気に踊っていたのである。これはゴジラなどという荒唐無稽なものに対して、一般民衆が実はたいして気にも留めていなかった、という具体的な描写であり、だからこそいざゴジラが上陸してきたときに電車は動いているわ民衆は今更のように逃げ惑うわ、という「何でみんな逃げてないんだよ」という批判に対する答えにもなっているのだ。この第一作に限って言うなら、民衆が逃げ惑う描写は決して不自然ではない。 あと、クレジットされてないので気がつかなかったが、冒頭の通信室のシーンで、藤木悠がチョイ役出演していた。こんなん気づかんわ(笑)。
テレビ民放で、平成3年月曜ドラマスペシャル、古谷一行主演の『八つ墓村』再放送を見る。これは本放映時に見逃していたもので、多治見辰也が鶴見辰吾、要蔵がジョニー大倉、春代が浅田美代子、久野医師が戸浦六宏、森美也子を夏木マリが演じているもの。 もう何度となく原作の出来の悪さには言及しているので、どう映像化したって面白いものにはならないと分かった上で見てみたのだが、ちょっとびっくりしたのは、他の映像化の際には無視されることの多かった辰也の実父の行く末、それと犯人の最期が原作通りだったことである。これと市川崑版の『八つ墓村』を程よくブレンドすれば、原作の忠実な映像化になるのだが。どっちにしろ、真面目に映像化したら、どうしても四、五時間の大作にはなっちゃうので、今後もそんな映画が生まれることはありえないだろうけれどもね。
リニューアルになってから第三回目の『ドラえもん』、前後編30分ぶっ通しでの「どくさいスイッチ」のアニメ化というのは、「『ドラえもん』はのび太の言うままに道具を与えてばかりで教育上よくない」という批判をかわすためか、リニューアルで視聴率を落とすまいという判断から原作の名作をつるべ打ちで行こうという判断からか。来週放送予定作品が「成長した星野スミレ」が登場する「オールマイティーカード」だってことからも、後者じゃないかという気がする。 職場でも「新声優はだめだ」とか騒いでる若い子がいて、独りよがりなオタクは少しは言葉を慎めよ、とも思うのだが、スタッフはどうせそんな雑音なんぞ気にもしてないだろう。『ドラえもん』も含めて、声優陣に対する「合ってる合ってない」論議に参加する気に私が全くならないのも、そういう雑音は番組が継続さえすれば自然に消えるからである。だいたい、「印象」だけで言うなら、石田国松、初代磯野カツオ、のらくろ、神勝平と大山のぶ代の声に親しんできた身にしてみれば、「ドラえもん=大山のぶ代」というイメージは私には(恐らくは私と同世代の『ドラえもん』第一世代の殆どにも)全くないのである。特に初期の大山のぶ代は、「ドラえもんの皮をかぶった国松」にしか聞こえなかった。 正直、これまでさほど代表作のない(失礼)水田わさびさんのほうが、「機械だけれども親しみやすい声」という点で、よっぽどドラえもんに合っているように聞こえる。藤子・F・不二雄まんがの主人公は、旧『オバケのQ太郎』の曽我町子以来、代々「ちょっとダミ声」な人が演じるのが伝統になっているが、水田さんの声は新『オバQ』や『チンプイ』を演じた堀絢子さんの声質に近く、ちゃんと伝統を踏まえていると言える。「新声優許せん」の声は、ただの思い込みでしかない。個々人の印象批評がいかにアテにならないか、ということなのである。 これはもう藤子Fファンとしてはっきり言っておいたほうがいいと思うので言うが、キャラデザイン、脚本、演出を含めて、今回のリニューアル版『ドラえもん』が、原作に最も近い『ドラえもん』であると言える。いや、藤子作品の映像化としても、格段にいい。みんな、新『ドラえもん』を“本気で”応援しよう。
夜、キャナルシティAMC13で、映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』。 周防正行監督によるオリジナル版『Shall we ダンス?』が公開されたのは1996年。もう9年も前になる。ダンス好きのしげと当然のごとくに劇場まで足を運んだのだが、そのときは「俺たちも社交ダンス習おうか?」と二人して盛り上がるほどに感動した。けれど、今回のハリウッドリメイク版では、そこまでの感動は持ち得なかった。これは映画の出来が云々というより、やはり文化の違いであろうと思う。 もうこれもハッキリ言っちゃうが、オリジナル『Shall we ダンス?』は、社交ダンスにハマッた「オタク映画」であったのだ。確かに役所広司もリチャード・ギアも、ダンスを始めたきっかけはダンス教師であるヒロインの憂い顔であった。しかし、いったんダンスにはまってしまったら、家庭もダンス教師もどうでもよくなって、「自分の趣味に走る」のが役所広司のサラリーマンであったのだ。これを「オタク」と呼ばずして何と言おう。今思うに、オリジナル版は、「全ての日本人の男のオトナにはオタク要素がある」と喝破した作品でもあった。だから女性が「オタクなんて嫌い」と思うことは、「一生、男なんて要らない」というに等しいのである。 断言しよう、日本人の男は全てオタクかオタク予備陣である。 『オトナ帝国』のチャコとケンに感情移入する人間は確実にオタクであろうが、それと同じ感覚で、我々は杉山正平を応援していたのである。杉山は、「やっぱりおうちが一番」と、薔薇持ってスーザン・サランドンに再プロポーズするような軟弱なナンパ男ではないのだ。 まあ、リメイク版もそう悪い映画ではないと思う。けれど、オリジナル版を見ずに今度のリメイク版から見ようと仰る方には、「日本映画のほうが面白いよ」と言っておきたいのである。客に言えば、オタク嫌いで表面的なロマンスにだけ惹かれる人は、リメイク版のほうが面白く見えるかもね。
2004年04月29日(木) 旅行前でも駆け込み映画鑑賞&ポエムの日々。 2003年04月29日(火) メモ日記/メモ日記な夜。 2001年04月29日(日) 涙涸れるまで語ろう/DVD『新しき土』
| 2005年04月28日(木) |
カリスマヒロインは生まれるか?(追加アリ)/『PLUTO(プルートウ) 02』豪華版 |
懐具合がマジでヤバイ。 原因は以前も日記に書いたことだが、しげがいきなり仕事を辞めてしまったことで、それまでは月々の車のローンはしげが自分で払っていたのだが、それが立ち行かなくなってしまったのである。車検だの何だの、そういうのも全て私の負担。そこに旅行だの何だの、以前から予定していた出金が重なったものだから、たまらない。「聞いてねえよ」と叫びたいくらいである。 かてて加えて、「またかよ」と文句を言う気も失せてきたのだが、長引く不況で会社の経営が逼迫、この夏、またまた社員の給料がカットされることになってしまったのである。これで8年間昇給無し、どころか減給までされているのだから、昇給を当てにして考えていたあれやこれやの買い物を先送りにしまくっている。本当ならノートパソコンや5.1チャンネルオーディオは完備し、引越しだってしていたはずなのだが(いや、そこまでの給料は貰ってません。これは妄想です)。 一応は私も「遊びにばかりお金使いまくってもなあ」と考えて、先月は一枚もDVDを買っていなかったのだが、それでも月末の収支決算では赤字が出るのである。いやまあ、その分芝居に行きまくってたから、金はやっぱり使っちゃってるのだけれども。無計画だとか金銭感覚が甘いと非難されても反論ができないのである。 それにしてもローンを背負った状態がこれから先、一年以上も続くのであれば、ことは「苦しい」どころではなくなってくる。どうせ私が払うものならば、いちいちしげの口座に金を振り込んでいくのも面倒くさい。この際、車のローンは完納し、しげの通帳はまっさらにして、私の通帳のほうで金利の安いローンを会社に組んでもらうように切り替えることにする。要するに給料の前借りなんだが。 その手続きで、今日はずっとあっちの銀行こっちの銀行と東奔西走である。転勤早々、仕事を同僚に頼み込む羽目になってしまったので、いささか心苦しかった。いや、この手続きだってしげに頼めなくはなかったのだが、またぞろ「やり方がわからん」である。全く、誰のために駆けずり回ってると思ってやがるんだ。
角川映画が、久しぶりに新人オーディションを再開するって。 「ソニー・ミュージック」と組んで大規模オーディション「ミス・フェニックス」を開催、グランプリ受賞者には主演映画&CDの同時デビューが約束されるという。 思えば角川映画第三弾『野性の証明』で、やはりオーディションに受かった当時13歳の薬師丸ひろ子がデビューしたのが1978年のこと。それからもう27年が経っているわけで、所謂「角川三人娘」も揃って四十路に入ろうとしている。この三人(特に薬師丸ひろ子一人)が、どれだけ絶大な人気を誇っていたか、若い人たちにこれを説明することはなかなか難しい。なんたって薬師丸ひろ子は『Wの悲劇』(1985)『野蛮人のように』(1986)あたりまでは、「日本映画で唯一客を名前で呼べる女優」とまで言われていたのである。さながら松竹が『寅さん』だけでその屋台骨を支えていたように、角川映画は確実に、いや、日本映画全体が三人娘(特に薬師丸ひろ子)に牽引されていた時代があったのだ(「そうかあ?」なんて言ってスカすやつはブッコロス)。 それが証拠に、1986年に三人娘が相次いで角川春樹事務所を離れると、角川映画自体がろくな企画を出せなくなってアニメに走るようになり、興行収入も激減、凋落していった(言っちゃなんだが、『サイレントメビウス』で宮崎アニメに対抗しようってのは無茶である)。角川が発行していた映画雑誌『バラエティ』は殆ど三人娘の宣伝誌と化していたが、あっという間に廃刊になった。逆に言えば一つの雑誌がスター数人によって支えられていたのだから、その人気たるや何と表現すればいいものか。 大金かけた大作も当たらなくなり(『天と地と』は興行収入の額面ではヒットしていたように見えるが、協賛会社へのノルマチケットの売り付けが激しく、劇場は閑散としているという事態が生じて問題になった)、『ぼくらの七日間戦争』で宮沢りえを映画デビューさせたものの、製作と監督との間で確執を起こして次が続かず、それやこれやで新しいスターを模索しているうちに、既に子役として有名になっていた安達祐実に白羽の矢を立てて育てていこうとしたら(『恐竜物語 REX』)、角川春樹社長が麻薬取締法違反で逮捕である。 こんなに分かりやすい転落ぶりもないが、角川映画に魅せられて(つか、薬師丸ひろ子と原田知世に入れ込んで)、出来が悪かろうがなんだろうが殆どの角川映画に足を運んでいた私にしてみれば、悲しささびしさもひとしおだったのである。 角川映画はまさに三人娘とともにあった。それが角川映画のカラーでありブランドであった。角川歴彦社長のもと、大映も合併吸収し、再びヒット作も制作しつつある現在、新しい「角川アイドル」を発掘しようというのは当然の成り行きだろう。 ちょいと気になるのは、「主演映画が『野性の証明』から『ぼくらの七日間戦争』までのヒット作からリメイクする」というくだりである。つまりは新しい企画が立てられないということで、新人抜擢の企画としては弱いんじゃないか。たとえば『野性の証明2007』なんてのに今更魅力を感じる客がいるのかどうか。ましてやもう、何度リメイクされたか知れない『ねらわれた学園』や『時をかける少女』を望むファンもいないんじゃないかと思うが。 可能性があるのは、今度こそ赤川次郎の原作に忠実な形で、『セーラー服と機関銃』をライトにリメイクするとか、バックステージものに改変された『Wの悲劇』を原作通りミステリーにってとこか。『悪魔が来りて笛を吹く』や『悪霊島』とか、横溝ミステリーはヒロインものには向きそうにない。どれも一長一短というか、ちょいと地味だ。 意表を突いて『幻魔大戦』実写映画化というのはどうだ。これならルナ姫という絶好のヒロインがいるわけだし、今度こそSFファンが長く待ち望んでいた「お月見」のシーンを映像化することができるのである。……つかさー、ほかにリメイクに値するようなヒット映画って、殆どないと思うんだけど。 『金田一耕助の冒険』は無理だろうなあ。
マンガ、浦沢直樹×手塚治虫『PLUTO(プルートウ) 02』豪華版(小学館)。 あのおまけはないだろう、という不満はあるが、待望の第二巻がようやく発売。 プルートウと対決する七人のロボットは今巻でヘラクレスが登場したのでほぼ揃い踏みである。やっぱりヘラクレスはマッチョになるのだなあ(笑)(エプシロンもチラッと登場)。 原作レギュラーのお茶の水博士、田鷲警部、中村捜査課長、そしてついに登場のアトムの妹・ウランと、なんかもうファンとしてはワクワクを通り越してドキドキが喉までせりあがってくる感じ。お茶の水博士のデザインなんて、こりゃもう絶対この人勝田久の声で喋ってるよって言いたいくらいドンピシャなアレンジだ。 その完成度の高さゆえに、最近はあえて批判する人々もいるようだけれども、そこまでヒネクレなくてもいいんじゃないかねえ。確かに漫画史上における最高傑作とまで言われりゃ、そりゃ持ちあげ過ぎってもんだろうとは思うけれども、これを越えるほどに面白いマンガが今どれだけあるのかって考えると、今現在、このマンガと出会えた至福を素直に感じてもよかろうと思うのである。 確かに、浦沢直樹の絵の上手さを賞賛する人に対しては、私も「そんなに上手いか? 浦沢直樹」とちょっと皮肉の一つも言ってみたくはなる。一見、リアルで表情が豊かに見えはするが、実のところさほど微妙な表情を描写する技術に長けているわけではない。その表情パターンは意外なほどに幅が狭いのだ。だから、『YAWARA!』や『Happy!』のようなラブコメに徹したような作品だと、コメディ・リリーフを演じるキャラクターをうまく動かせず、いや、派手な表情をさせて無理に動かそうとして、かえって「浮く」状態を作ることになっていた。ジゴローも富士子も桃子もはしゃげばはしゃぐほどにストーリーを停滞させることが多く、鬱陶しくてかなわなかった。『パイナップルARMY』『MASTERキートン』『MONSTER』と続くシリアス路線が成功しているのは、「表情が少ないほうが物語にマッチして効果的だからである。『PLUTO』も当然その延長線上にあり、ゲジヒト刑事が常に暗く悲痛な表情をしているからこそ、ミステリアスなムードが保たれていると言えるのだ。 だから、さほどマンガ好きでもない人が、「マンガを特に好きでもない自分がハマるくらいだから、これはマンガの中でも特に上質のマンガなのだ」と、マンガを誉めているように見えて実は蔑んでいる発言をするのを聞いたりすると、いささか胸糞が悪くなる思いとてするのである。 “語り口”に関して言えば、同じSFミステリーである『デスノート』よりもかなり洗練されている。「外堀」はかなり埋められているが、肝心要のプルートウは未だに登場しない。フセインそっくりのダリウス14世は原作のチョチ・チョチ・アババ三世に当たるのか、いや、そもそも黒幕はなんとなくトリシア大統領のようにも見えるのだが、どうなのか、「ゴジ博士」とミスター・ルーズベルトは同一人物なのか、謎は尽きない。一番気になるのは、エプシロンはやっぱり女性ロボット? ってところなのだが、その謎が解明されるためにはまた半年待たねばならないのである。ああ、待ち遠しい。
マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』32巻(完結/小学館)。 表紙は無精ヒゲでやつれたくわえタバコの藤田玲司。悪徳商売のツケなのか、ついに藤田もホームレス? と勘ぐりたくなるくらい、最終巻にはおよそふさわしくないみっともなさだけれど、正真正銘、これが紛うことなき完結編である。 何だかずいぶん分厚いなあと思ったら、318ページと、いつもより60ページくらい超過のボリュームだった。けれど中身がそれに見合うだけのものかというと、ややネタ切れ気味。ビザの書き換えに帰国したサラとの連絡が付かなくなり、それと呼応するように藤田はアルカイダの資金調達に関与していたという容疑で逮捕されてしまう。果たして、藤田をハメたのはサラなのか? ……ってな展開なんだけど、これまでの付かず離れずの藤田とサラの関係を見てりゃあよ、そんなバカなことは万が一にもありえないんで、サスペンスにも何にもならないのである。ネタもまた幻のモナ・リザで、二番煎じの印象をぬぐえない。これまでの登場キャラクターの再登場もサービスのつもりなのかもしれないが、三田村小夜子館長(冒頭では茶髪で登場するが、すぐに黒髪に戻した)、トレジャーハンターのラモス(結局、こいつの彼女はどうなったんだ?)、スコットランド・ヤードのロジャー・ワーナー警部(残念ながら、今回、変装はなし)、国際美術品窃盗団リーダーのカルロス(以前より顔がさらにコワくなってる)、サラの従兄弟・カジム(未だにサラに未練タラタラ)、調香師・ジャン・ボール・香本(キャラ的にDr.WHOOと区別が付かん)など、“無理やり出してる”印象は否めない。 で、結局、藤田とサラの二人の関係がどうなったかというと、「実はまだギャラリーフェイクは続いているのです」で、何の変化もないのであった。何じゃそりゃ。連載開始年月日を考えればサラだってもう30歳を過ぎてるだろう、いい加減、結婚しろよ、エッチがタブーな少年マンガじゃあるまいし、と思っていたら、作中に「あの戦火から5年」なんて台詞が出てきた。つまり二人が出会った1991年の「傷ついた『ひまわり』」事件から実は数年しか経っていないということなのである。歴史的な事件も何度も扱ってるから、作中の時制が21世紀になってないはずはないんだけど、そこはもう、あまり突っ込まないように、ということなんだろう。このラストはもしかして何年か経ったときに「特別完結編」とか出すための伏線かなあとも思うのである。 9話にわたるラスト・エピソードよりも、私は「生キタ、カイタ」で、夭折した天才画家にして詩人、探偵作家である村山槐多(むらやま・かいた)を取り上げてくれたのが嬉しかった。マンガの中でも紹介されているが、槐多の絵はまさしく情熱のほとばしるままに描かれており、「汗だくのリビドーにまみれている」のである。 「槐多の絵に触れた人間はなぜか魅入られる」の言葉どおり、高校時代に槐多にハマった私は、部活の会誌に稚拙な「村山槐多論」まで書いてしまった。まさしく「若気の至り」である。 マンガでは紹介されていなかったが、合掌し放尿する僧侶の絵などは、自制できない情念のほとばしりをストレートすぎるほどに描いていて、この絵も私は大好きだ。槐多が描いた僧侶の陰茎は中途半端に勃起してさえいるのである。 全集が絶版になって久しかったが、「美少年サライノの首」「悪魔の舌」「魔童子伝」「魔猿伝」「殺人行者」など、その代表作は、『村山槐多 耽美怪奇全集』(学研M文庫)として一昨年再版された。近年のふにゃふにゃなボーイズラブ小説に飽き足らない方には、槐多のねっとりとした耽美を一度味わっていただきたいものである。 槐多の詩や小説を偏愛し、彼同様、「美少年趣味」であった江戸川乱歩の書斎には、生前、槐多の『二少年図』が飾られていた。今、その絵は世田谷文学館に寄贈されているそうである。
2004年04月28日(水) 出張の中身はヒ・ミ・ツ。 2003年04月28日(月) メモ日記/インモラルな夜。 2001年04月28日(土) 掲示板開設!/映画『バンパイアハンターD』ほか。
| 2005年04月27日(水) |
楽しんでなきゃデマなんて流れるわきゃないのだ。/『物情騒然。人生は五十一から�ぁ戞幣�林信彦) |
昨夜は11時を過ぎても周囲はピクとも揺れず、ほら見ろやっぱり地震が来るなんてデマじゃねえかと意気揚々としていたのだが、朝方出勤して、同僚から「今日、午後二時に震度七の地震が来るそうですよ」と言われてまた脱力した。外れた予言の定番、「予言の延長」である。しかも天気の挨拶をするみたいに会う人会う人「地震」「地震」「地震」で、全くなんでみんなこんなに地震が好きかとタメイキしか出て来ない。もちろん、二時を過ぎたって何の揺れも起こらなかったのだが、そしたらまた「今晩11時という説もあるそうですよ」と言い出すやつが。そりゃ、いつか地震は来るってば。こないだの余震のときも事前に騒いだやつはいないんだから、予言なんてものはみんな迷信なのである。 ウワサについては新聞でも取り上げられていて、福岡管区気象台には、連日約百件の問い合わせが続いていて、ホテルに“避難”する住民もいるそうな。避難って、ホテルに行くくらいのことで避難になるのか? どうせ避難するなら福岡自体離れたらどうなんかねえ。こういう人たちはとても本当に神経過敏になってるとは思えず、地震を口実にホテル住まいをちょっとやってみたかっただけなんじゃないかと勘繰りたくなる。 気象台は当然「デマに惑わされず冷静に対応を」と呼び掛けているということだが、こういうウワサが留まらないあたり(私ゃ、職場で話題にする気にもならなかったけどよ)、世間から「常識」が失われているってことなんであろう。 噂の内容として新聞に紹介されていたのはつぎのようなもの。 「二十七日午前二時ごろに震度7の大地震がくる」 日にち、時間をここまで設定できる科学的予知は未だに開発されていない。しかも震度は震源の中心がどこにあるか、また地形などにによっても変わるので、「震度7の地震が来る」という表現は成り立たない。強いて言うならマグネチュードのほうだろう。ウワサを広めてるやつに小学生程度の科学的知識もないことがこれで明らかである。 「自衛隊が地震に備えて緊急態勢を敷いた」 春日基地じゃ特に目立った準備はしてなかったみたいだが? つか、予測できる事態に対して敷くのが「緊急態勢」なので、この伝で行くなら自衛隊は「市民に何も知らせないで緊急態勢を敷きながら、その情報は世間にダダ漏れだった」ってことになるのだが、そんな間抜けな自衛隊が何の役に立つか。 「大学の先生が講義で地震を予知した」 「予知ができる講義」ってどんな講義じゃ。一生懸命それらしい根拠を作ろうとしてやっきになっている様子が見えて、哀れですらある。 入院患者から「同室の患者が『大地震が来る』と言って、実家に帰る手続きをしている。本当なのか」との電話もあったということだが、こんなのは別の病院に変わったほうがよかないか。
演劇関係の仕事をしていると、ちょくちょく芝居やコンサート、イベントなどの安売りチケットを入手するチャンスにも恵まれるのであるが、春先にはその案内がまとめてうちに届く。だいたい十公演から二十公演くらいまとめて来るので、見たい芝居が二本や三本は確実にあるのが嬉しい。 こないだ一緒に芝居を見に行ったときに、細川嬢とお友達から、今度芝居の安売り案内が来たら紹介してほしいと頼まれていたので、仕事帰りに、鴉丸嬢、細川嬢のバイト先を訪ねて資料を手渡す。細川嬢には、一応喜んでいただけたようではあるが、果たしてお気に召す舞台があったかどうかは分からない。 割引と言っても舞台は元値が五千円とか一万円とかバカ高いから、二、三割安くなっても四千円とか八千円とかするのである。場所が北九州だったりすると、交通費も二、三千円かかる。なかなかちょっと暇つぶしに映画でも、と気軽に行ける類のものではないのだが、二十公演くらいある中には、二千円程度の安い公演もある。せっかくの機会だから、友達誘って行ってみたいものがあればいいのだが。 公演の中には、「ボリショイサーカス」なんてのもあったのだが、これなんかは定期的に来日していて、協賛がやたらあるせいか、えらく安い。もっとも、今時の若い人にサーカスに対する“郷愁”はそうそう求められないような気がする。既に私がチケットを定額で買ってしまったシティボーイズの『メンタル三兄弟の恋』もしっかり割引きチケットが案内されていて、これなどはそんなにハズレることはないからお勧めではあるのだが、安売りでも四千円ちょっとして、やっぱり会場は「リバーウォーク」の「北九州芸術劇場」なのである。全く、どうして「これぞ」って芝居、北九州にばかり来るようになっちゃったのかねえ。
世の中に趣味娯楽の類は数あれど、「芝居にハマる」というのは、劇団の地方巡業が当たり前だった昔(っても戦前です)ならばいざ知らず、今ではかなり特殊な部類に属すると思う。やはり若いときに本当に「よい芝居」に出会って、心揺さぶられる思いを実感しない限りは、そうそう定期的に芝居を見ようなんて気にはなれないものである。 舞台はどうやったって記録には残せない。演劇関係者の誰もが口にする通り、ビデオで録画しておいても、それはナマの舞台とは似て非なるもので、舞台の魅力の十分の一、百分の一も伝えてはいない。まさしく「そこにいる」ことで誰もが共有する「空気」が、ビデオ画像からは決して感じられないのである。 だから舞台とは、いささかの誇張もない一期一会の「夢」の体験なのであり、はかなく消えるしかない運命を「観客が舞台を見た直後から」担わされているものである。すなわちそこにある「滅びの美」とでも言うべきもの――を見出す感性を持った人でないと、本来、舞台には関われないものなのではなかろうか。思うに、若いころは私以上に舞台の面白さにとり憑かれ(主にヅカだったけど)、その魅力を得々として私に語っていた亡母の職業は「床屋」だったのであり、生前、何かにつけ自分の仕事を「形の残らぬ芸術」だと主張していた。私の芝居好きは、やはり母の血なのかもしれない、と多少のため息もつきつつ、物思いにふける昨今なのである。 私は、映画を人に勧めることはあっても、舞台は、滅多なことがない限り、殆ど勧めることはない。理由はもうお分かりだろうが、「感性」のない人に芝居の面白さを語ることくらい、むなしいことはないのである。
父の店でしげと合流、三人で連れ立って、「焼肉のさかい」。 メニューは任せる、と父が言うので、ファミリーセット(ロース、カルビ、骨付きカルビ、牛ホルモン、上タン、鶏肉、ソーセージ、焼き野菜など)に上ロースとハラミを追加。ともかくしげの「赤み肉」好きに合わせたのだが、それでもしげには物足りなかったらしく、さらにロースを二人前頼んだ。いくら父の驕りだからと言っても、ちょっと食いすぎとちゃうか。父は相変わらず医者に逆らって酒飲んでるので、食はそう進んでいないし、私も野菜中心で肉は一人前程度しか食べていない。どう少なく見積もっても、しげ一人で五人前くらいは食っているのである。これで栄養のバランスが保てるわきゃあない。
先般の父と姉との決定的な衝突以来、話題はどうしても今後の店の扱いとか身の振り方のことになってしまう。往年の腕ほどではなくなっているとは言え、まだ父でなければと仰ってくださるお客さんは多く、姉が辞めても細々ながら店は続けて行きたい由を再度繰り返す。となれば単純に私の扶養家族として職場から手当てを貰えるかどうかも分からないし、同居するかどうかで支給額も変わってくる。 「そんなこと言われても、先がどうなるかオレだって分からん」と父は言うのだが、それじゃあ申請のしようだってない。私としては姉も交えて一度きちんと話をしてみたい、と思っているのだが、それも父は「せんでいい」と苦々しげに言うのである。全く、どれほど感情的な諍いをしたもんだか。 話題を変えて、時機を見て愛知万博に行かないか、と誘ってみたが、「大阪の万博で懲りたからなあ」と気乗り薄である。 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』で、子供時代のひろしが体験したのと全く同じく、私もアメリカ館の月の石が見たくて長い行列に並んだのだが、一時間経っても二時間経っても微動だにしない行列に父は痺れを切らせて、「自分ひとりでも並ぶ」と嫌がる私を無理やり連れて行列を離れたのだ。 「で、何を見に連れて行かされたかって、住友館の“未来の床屋の椅子”だもんね」と悪態をついたら、「そやったかな? もう覚えとらん」と首をひねっている。自分の都合の悪いことはことほどさように忘れ去るものなのである。
小林信彦『物情騒然。人生は五十一から�ぁ戞癖現嬖幻法法� 「週間文春」連載エッセイの2001年度版の文庫化。 タイトルの「物情騒然」は「世間の騒々しいさま。不穏なさま」という意味で、これを省略して「物騒」と使うのが一般的なのだが、落語の枕にもよく使われていた「何やら物騒な世の中になって参りましたな」、という言い回し、最近はとんと聞かなくなってしまった。今や「物騒」がすっかり日常化してしまったせいだろう。“ちょっとした”事故や殺人事件では、もう新聞の片隅の囲み記事にもならない。 それでも2001年と言えば真っ先にあの「9.11」同時多発テロが想起される年であり、いかにもさようなタイトルネーミングであるのだが、小林さんはあえて「ぼくにとって、今年最大の事件は<9.11>ならぬ<10.11>であった」と述べる。もちろん、古今亭志ん朝師匠の死去である。 恐らくは「全世界を震撼させた大事件と、一個人の死を同列に扱うとは何事か」と憤懣を覚えた人もいたのではないかと思われるが、歴史は国際政治や経済のみで語られていいものではない。志ん朝師匠の死は、日本文化の最も重要な底流の一つが“完全に”消滅してしまったことを示しているのであり、同時多発テロよりもより我々庶民の日常に肉薄している。日本人としてのアイデンティティー、心の拠りどころを失ったに等しいのだ。 だからこそ私には、小林さんの言が、自己の趣味の世界を偏愛しているだけのオタク的感性の産物ではないことが“分かる”。地方出身者である私にも、志ん朝師匠の使う江戸弁と、それ以降の噺家の江戸弁もどきが「違う」ことは一“聞”瞭然であった。しかし、そのことを“肌で感じられる”世代は、多分、我々四十代が最後なのであろう。悪口ではなく、一つの「事実」として理解してもらいたいのだが、今の若い人たちが、私から見ればとても日本人だとは思えないのも、そういう感覚が“分からなく”なっているからである。実際、「物を知らない」なんてレベルではないんだからねえ。
もちろん、一つ一つのエッセイを読んでいくと、小林さんの言にも違和感を覚えることも少なくないのだが(最近の「血液型性格診断」に関する肯定的意見(?)などはその例だ)、概ね「そうだよなあ」と納得するのは、人間同士の共感や理解、絆と言ったものが、文化的背景の共有なしではありえない、という視点を七十の坂を越えた小林さんが忘れてはいないからだ。若い人たちがどんなに「自分たちにだって“心”はある」と力説しようが、裏打ちされた文化なくして「心」は育つものではない。『セカチュー』以降、我々から見れば幼稚で安っぽい擬似純愛ドラマでしかないバカ話が流行るのも、その程度で満足してしまえるほどに若い人たちの心が「薄く」なっているからである。小説も、映画も、舞台も、明治のころ(あるいはギリギリ戦前まで)に作られた作品は伝統的文化に裏打ちされていて、現代のそれよりももっと濃密で、それでいて重苦しくはなく、粋だったものなのだが。綿矢りさの『蹴りたい背中』も、その「擬似恋愛」ぶりが若い人たちの(特にオタクの)イマドキな「現象」として面白くは感じられても、小説としては「それから先」を描かなければ意味ないじゃん、としか私には感じられないのである。 映画『シックス・センス』について、小林さんは、あの「意外性のあるラスト」について「映画のルールに従えば」推測は充分可能であり、「この程度のシナリオが珍重されるハリウッドはかなり荒れている」と批判する。もちろん、その指摘は全く「正しい」のだが(私も伏線まるでなしの『アンブレイカブル』を除けば、M・ナイト・シャマランの映画のトリックはその「へたくそさ」ゆえに開巻五分で見破ってまえている)、本来、あの映画は、そんな「意外性」を強調する方向にではなくて、ハーレイ・ジョエル・オスメント少年が、霊界お助け人として目覚めていく過程を描くことをもっとキモにすべきだったと思う(『花田少年史』みたいなシリーズものにすればよかったのにねえ)。妙にこの「どんでん返し」だけが巷間の話題に上ってしまったために、その後のミステリー映画は、ただ物語をひっくり返せばいいだろう、という安易な模倣に堕するものが増えることになってしまった。『愛してる、愛してない』『アイデンティティー』『箪笥』などはまあ出来がいいほうであったが、『シークレット・ウィンドウ』や『ハイド・アンド・シーク』などは全く無残な有様であった。 「二匹目、三匹目の泥鰌」を狙うのは映画界の昔からの悪弊であるが、もちろんこの「どんでん返しがあればいい」物語の流行の責任が、脚本のバランスをうまく取れなかった「新人監督」のM・ナイト・シャマランにあることには疑う余地がない。しかし、映画を見慣れていない若くて未熟な客が増えすぎていることにそもそもの問題はあるのだし、ましてや小林さんを初めとして、トリックを見破っただけでそれを嬉々として語る評論家たちの「野暮ったさ」が、かえって客の反発を煽っていることも感じないではいられない。ハリウッド映画が「荒れた」のはここ最近の出来事ではない。乱雑な脚本がまるで名作であるかのように喧伝されて堂々とまかり通るようになったのは『スター・ウォーズ』のころからそうだった。字数に制限のあるエッセイでは無理なことは承知の上で言うのだが、映画を本気で批評しようと思ったら、「自分が気付いたこと」だけではなくて、「このように作るべき」という点にまで踏み込まないと、ただの揚げ足取りになりかねないのである。
小林さんが今巻で取り上げている人々の中で、もう一人忘れてはならないのは(毎年取り上げてはいらっしゃるのだが)、映画評論家の双葉十三郎氏である。 私も氏の『ぼくの採点表』シリーズは、映画をどういう切り口で“読んで”いけばよいかの教科書として参考にさせてもらっている。つか、たとえシロウトでもね、これ読んでない人間が映画の批評を書こうって、そりゃおこがましいって言うか、出発点から間違ってるんだわ。“斬人斬馬剣”の辛口批評家として著名な氏は、この年、菊池寛賞を受賞している。それだけでも氏が“ただの映画評論家だけの人ではない”ことが分かるが、ともかく、A級、B級、C級と、映画に貴賤を付けずに批評する氏の姿勢は、いずれかの分野に偏りがちな昨今の映画評論家モドキは襟を正して範とすべきであろう。双葉さんは、海外の推理小説に通暁し、翻訳家でもあり、アメリカのジャズも戦前から熱心に聴いていた。そんな八面六臂の活躍ぶりの動機が全て、「勉強しよう」とか「既成の権威に対する抵抗」とか、そんな辛気臭いものではなくて、ただ「面白いから」、というのだから、これを「粋」と呼ばずして、何を「粋」と言おう。 1932年生まれの小林さんが、1931年公開のゲーリー・クーパー主演の『市街』を見ていないことに、1910年生まれの双葉さんは驚く。「そんなの見られるわけないじゃないか」と、若い人ならいかにも自分が正しい、といった口調で主張するだろうが、作品を批評するということは、そんな言い訳などが通用するものではない。双葉さんとて超人ではないのだから、“全ての映画を見ることなど不可能”だろうが、“それでも見ている”ことが映画評論の前提となるのである。映画を「好き」になるというのはそういうことだ。屈託なく「あ、それ、見てないっスね」なんて言ってるやつは、映画が実は嫌いなのである。そんなヤカラはもう、厚顔無恥としか言いようがないのだが、私も実は『市街』は未見で、これはもう「すいません」と謝るしかないのであった。
2004年04月27日(火) お客さまに感謝。してるんだって、ほんとに。 2003年04月27日(日) メモ日記/アニメとマンガな一日。 2002年04月27日(土) 東京再訪� 浸安襪凌好献屮衄�術館/アニメ『くじらとり』ほか……“NEW”! 2001年04月27日(金) 祝、2000ヒット/映画『チキンラン』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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