無責任賛歌
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| 2005年04月10日(日) |
当人には悲劇、他人には喜劇/『夢幻紳士【幻想篇】』(高橋葉介) |
昨9日、鹿児島市武岡の防空壕跡と見られる洞窟内で、焚き火をした市立武岡中学校2年生の男子生徒4人が一酸化炭素中毒を起こして死亡。 最初にこのニュースを聞いたときには、あんな狭い空間で焚き火なんかしたらそりゃ窒息だってするだろう、中学生にもなって、その程度の科学知識もなかったのか、と、ご遺族の方には申し訳ないが、またぞろ「学力低下」の四文字がアタマの上に浮かんでしまった。無遠慮でデリカシーのかけらもない感想であるが、そう思っちゃったのは事実なので、人非人との批判は甘んじて受けたい。 今日になって、4人のうちの2人は、以前もこの洞窟内で火を焚いて遊んでいたことが判明したとか。その時点で別に何も異状がなかったのなら、洞窟とは言っても比較的通気性はよかったのかもしれない。少年たちは恐らくは「前も大丈夫だったから」と「油断」してしまったのだろうが、前だって多少は煙いとか何とか、異状はあっただろうから、これはやはり子供たちの不注意であったと言うしかない。今回は火種にした段ボールなどが充分に燃えなかったせいで、一酸化炭素濃度が急激に高まったということである。気づいたときには煙に巻かれて、身動きできなくなってしまったのだろう。 亡くなられた4人には気の毒だが、結局これはただの不幸な事故である。昔から「探検ごっこ」に興じる子供はいくらでもいて、それこそ崖から落ちたり川で流されたり猪に襲われたり火に巻かれたり遭難したり神隠しに遭ったり、命を落とした子供たちも決して少なくはなかった。悲しむべきこと、痛ましい事故ではあるが、危険を承知の「探検」である以上、全ては少年たちの自業自得でしかなく、誰かに責を求めることもできない。 ところがこの「ありふれた事故」が、今朝の新聞では一面のトップを飾っているのである。あたら若い命が失われたことを悼む気持ちが加味されているのかもしれないが、だからと言って、大見出しで報道しなければならない意義が奈辺にあるのか、私にはそれがよく分からない。最初にこのニュースを知ったのは昨日の夜、yahooのニュースで見たのだったが、ネット上での記事は全てベタ記事なので、三面記事程度のものだと思って読み流してしまったくらいなのである。 新聞が未だに「公器」であるのなら、私の個人的な感覚と世間の常識とがそこまで乖離してしまったということになるのだろうか。それともこの事件にも子供たちが死に至った社会的な道義というものが存在しているのだろうか。購読者の「公憤」を喚起する何かしらの要素があるというのだろうか。想像するにそれは、「子供たちが危険地域に立ち入っていたことに気づかなかった、あるいは気づいていても放置していた親や教師など大人たちの責任」とか、「防空壕跡を埋め立てもせずに放置していた土地管理者の責任」とか、そんなところにあるのかもしれない。けれどいくら「危ないから止めろ」と注意したところで、子供は大人の目を盗んで「冒険」してしまうものだし、子供にとっての危険地帯なんて、その辺にいくらでも転がっているのである。この事件を大々的に報道するのなら、子供が道路へ飛び出して一人車にはねられるたびに一面トップに持ってこなければ、“釣り合いが取れない”のではなかろうか。 私がどうにも気に入らないのは、実のところ新聞などのメディアは、社会的な義憤とかそういったものにこの事故の報道価値を見ているわけではないのではないか、という点なのである。つまりは、殺人とか強盗とか誘拐とか、まさしくワイドショー的な扇情的事件のひとつとして、もっとハッキリ言ってしまえば、死んだ子供たちの愚かさ加減を笑い者にする感覚が無意識的に報道の背景にあって、面白おかしく報道しているように思えてならないのである。 いや、確かに子供たちが愚かであるのは事実であるし、親がお茶の間で子供に向かって「あんな馬鹿なことしちゃダメですよ」と戒めるきっかけとして使えるかもしれない。けれどもだからといって被害者をここまで晒し者にするほどの事件なのか? これは、という疑問がどうしても脳裏から排除できないのである。 もちろん我々人間は本質的にドス黒いものを常に内部に宿している存在ではある。馬鹿を見てあざ笑う心理は醜くはあるが、だからと言って、これを全面的かつ無条件に否定することは、人間の存在自体を否定することになりかねない。だから我々は日常を維持するために、時にそういった「心の暗部」が外部に流出しようとするのを抑制し、なだめすかし、飼いならしつつ何とか過ごしている。しかし今回の報道姿勢は、その醜さがあまりにも露骨に流出してしまっているとは言えまいか。これは「社会」自体が人間の欲望や恨みや妬みや狂気を「飼いならす方法」を既に見失っている証拠ではないのか。 ……と、ちょっと不安に駆られたような書き方をしてしまったが、過剰報道をしているのは一部の新聞くらいのもので、世間的には「そんな事件があったの。ふーん」で終わっているような気配ではある。なるほど、それが「普通」だ。「よくある事件のひとつ」として新聞報道なんか気にせずに流すのが、この場合の「世間知」ってものだよねえと、私の「古い感覚」ではそう思っちゃうんですけど、もしかしたら若い人は、こういう事件を見たり聞いたりするのは何よりも楽しいんですかね。
日曜の朝は『仮面ライダー響鬼』、今回は十一之巻 「呑み込む壁」。 一話も欠かさずよく見てるなあ、オレ。こうなるとDVDすら発売されたら買いたくなってしまいそうだが、考えてみたら『仮面ライダー』シリーズは一番好きな旧本郷ライダーですらLD、DVDは持っていないのである(エアチェックのビデオテープだけ)。気に入らないところもないわけではないのにこんなに入れ込んでるのはなぜなのかまだ自分でもよく分かってないのだが、それを自己確認するためにもついつい見ちゃうのである。 ついに明日夢も高校生。制服を今一つ着慣れていない様子なのが初々しくてよい。新学期に合わせるかのように、「猛士」側も「魔化魍」側も、急激と言っていいくらいの新展開があったのが今回の話。ダブルライダー揃い踏みのワリに、ドラマ展開自体はまったりしていた前回までとは打って変わったようである。 ディスクアニマル開発者である滝澤みどり(梅宮万紗子)と明日夢との出会いはまさしく「出会いがしら」でいささか強引だけれども、明日夢がいよいよ「猛士」と深く関わっていくためには必要な展開であろうか。ただこのみどりさん、キャラクターとして香須実とカブってる部分があって、初登場のワリにはちょっと印象が薄い。今後の展開でもう少し突っ込んだ扱いをしないと無駄キャラになりそうな心配があるけれど、まあ私は日菜佳の方が好みなのでどっちゃでもよろし(笑)。 敵方では「幹部」っぽい黒づくめの男が登場。なんだこいつはブラック司令(『ウルトラマンレオ』)か、と思っちゃったが、いつまでも単発的な戦いばかりじゃドラマが続かないし、敵さんにもやはり組織的な行動が必要だろう。ただこれもデザイン的にはありきたりで、もしかしたらあの黒服の中に斬新な衣装が隠されているのかもしれないが、今のところは「変なやつが出てきたな」程度のインパクトしかない。これも「面白くしてくれよ、頼むよ」という期待で見ていきたいところだ。……それはそうと、今回の魔化魍、食虫植物っぽいけど、「塗り壁」なのかね? ラストで明日夢が「たちばな」の秘密の壁に呑み込まれて落ちていくカットと、響鬼がヨロイを纏った童子たちになすすべもなくやられて崖を転落していくカットがシンクロする演出は秀逸。響鬼の危機感が相殺されてるんで、また「ライダーっぽくない」と怒るファンもいるかもしれないけれど、もう響鬼ってどんなにやられても悲壮感のカケラもないキャラとして認知されてると思うぞ。細川茂樹さんと栩原楽人くんの脱力した「あ〜〜〜〜〜」という悲鳴がかぶるのがGood(笑)。 もう一つ、さりげない台詞だけれど今回のお気に入りは、松山さんの息子に「おにいちゃん」と呼ばれてヒビキが「おじさんでいいよ」と答えるシーン。日常普通に見られるシーンだけれど、ドラマでこういうやり取りを描いた例は意外に少ない。たいていは逆パターンの、「おじさん」と呼ばれて「おじさんじゃない、おにいちゃんと呼べ」と「若さ」を強要する陳腐なシーンが描かれることが多いのである。つまりはヒビキが自ら「おじさん」であることを引き受けていることを端的に示した台詞であって、当然これは将来的に明日夢との師弟関係も暗示しているのであろう。なにより、子供にとっての「大人」が今の世に必要だと訴えるスタッフの姿勢も表しているように思える。ドラマだけじゃなくて、、現実の「おじさん」たちも、堂々と「おじさん」であることを引き受けてほしいものだけれどもね。
夜、8時半ごろ、またまた大き目の余震。 さすがに少しは雪崩れた家具や本類を片付けないと、と、床を片付けた矢先にこれである。今度もパソコンの前に座っていたしげの手の上に棚からDVDが落ちてきて直撃。でもしげは「いてぇぇぇぇ!」と大仰に騒ぐので、かえって悲壮感に欠けている。よけろよそれくらい。 それにしてもこの余震の数の頻繁さは何なのだ。今度の余震もかなり大きくて、マグニチュードは4.8、余震としては3月22日のM5.4に次ぐ2番目の規模、余震で震度4が観測されたのはこれで4回目だということである。西方沖の断層が活性化しているだけでなくて、福岡の地盤自体にあちこちガタが来てるんじゃないかね、これ。 そんな風に心配し始めると、余震以上の本震が来ることもあるかなあという疑惑をどうしても捨てられなくなる。地震以前から計画していた引越し、本気で考えなきゃならんかとも思うが、いかんせん夏場まではどうにも動けない。その間にデカイのが来ないことを祈るしかないのだ。
マンガ、高橋葉介『夢幻紳士【幻想篇】』(早川書房)。 『マンガ少年版』『リュウ版(冒険編)』『怪奇編』『外伝』(更には『帝都大戦』『学校怪談』のゲスト出演も)と続いてきた『夢幻紳士』シリーズの最新作。掲載紙は「ミステリマガジン」で、ついにミステリとしてきちんと評価されるところにまで来たか、と、第一作のころからのファンとしては感慨無量である。 「幅広の黒帽子、全身も黒服の男」というイメージだけが共通していて、作品ごとにひょうきんだったり純情だったりと変化して、作者自身からも「夢幻魔実也氏はそれぞれ別人」と言われてしまってはいるが、『怪奇編』の中盤あたりから、ジト目で煙草吸いで女たらしなイメージはだいたい固まっている(笑)。全く、何でこんな外道が女性にモテまくるのか、作者ならずとも、こんな陰険で卑劣でそのくせ妖しいくらいに美形なんてやつが現実に存在していたら背中から蹴り倒してやりたいくらいだ。 けれど今回の魔実也氏の最大の特徴は、彼が「実在していない」という点だろう。すなわち魔実也氏は主人公の“僕”の心の中にしか存在していない。事件が起これば“僕”の心の中から「出てきて」解決するのだが、それは“僕”がそのように思い込んでいるだけであって、現実には“僕”自身が行っているのである。 つまりこれはいわゆる「脳内探偵」ものなのであるが、本格ミステリとしてこれが秀逸なのは、やはりその「オチ」のつけ方だろう(もちろんネタばらしはしない)。 何と言うか、実に複雑な気分なのは、このネタ、そしてオチに至るまで、私ゃ昔から考えていたんだわ。つか、実際に戯曲にも書いた。その戯曲を元にして、もうちょっと洗練された形で書きなおしたいなあと思っていたら、「そのラストシーンに至るまで」そっくりそのまま、高橋さんにやられてしまったのである。いやもう、悔しいというかなんというか。 こういうことはしょっちゅうあって(先日見た芝居もそうだ)、人間の想像力なんて似通っちゃうものだなあとタメイキをつくしかないのだが、だからこそ「更にもう一歩先の物語がつむげないものか」という意欲にもつながるのである。私の脳もそろそろボケがひどくなっているようで、いさささか心許なくはあるのだが、シロウトなりにもうちょっとは面白いよと言っていただけるものを書いていきたいと思っちゃいるのである。
2004年04月10日(土) 勇気を持って言おう。 2003年04月10日(木) 最近教育テレビづいてるかも/『名探偵コナン』41巻(青山剛昌) 2002年04月10日(水) ヒミツ、ヒミツ、ヒミツのしげ/『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男) 2001年04月10日(火) 大江山枕酒呑草子/『カエル屋敷のベンジャミン』(玖保キリコ)ほか
| 2005年04月09日(土) |
若さゆえの過ち/『ななこSOS』2巻(吾妻ひでお) |
夜、七時から、天神西鉄ホールで、E−1グランプリ番外編、マニアック先生シアターの『ロジウラ*ラジオ』と非・売れ線系ビーナス×万能グローブガラパゴスダイナモス『況わんや、百年振りの粗捜し』の二本立て。 「E−1グランプリ」というのは、要するに地方劇団同士の全国大会で、北海道・東京・名古屋・中国四国・九州の各地区大会を行い、それぞれの劇団が25分の短編演劇を上演して、お客さんに審査投票してもらい、上位入賞者による全国決勝戦を年一回行うというもの。うちの劇団にはやる気あるやついないから参加したことがない(苦笑)。 今回の「番外編」というのは、つまりグランプリに参加した劇団の凱旋公演のことで、素人劇団とは言え、そんなに外れはなかろうとちょっとは期待して見に行く(つか、知り合いのスタッフの女の子からチケット売りつけられたんだが)。 基本的に私は若い人ががんばってる舞台はそれだけで微笑ましく見ることにしているので、一応は満足。歌って踊って走り回って笑わせて、見ながらつい「若いっていいなあ」とトシヨリの感慨が脳裏をよぎる。今後の活躍も充分期待できそうだ、と評価してあげたいと思う。 ……でもまあそれはこちらも演劇やってる人間としての共感・同情・連帯感が背景にあるからで、そういうものを一切排除した一観客として芝居を見た場合、どちらの芝居もあれやこれやと不満が出てこざるを得ない。そもそも作り手の「若さ=底の浅さ」がドラマを薄っぺらなものにしてしまっているのが、両作品ともに共通しているのである。
『ロジウラ*ラジオ』、街角の占い師のところにやってきたホームレス風の中年男。「私の探している『ドア』がどこかにあるはずだ」と妙なことを言う。占い師はその「ドア」がすぐそこにあると答える。そのドアから現れたのは、三人の男女。彼らはみな、自分は「ヤスシ」であると名乗り、中年男を「父親」だと呼んだ……。 「同一人物が何人も現れる」というネタは私も昔書いたことがあるので、ちょっとした台詞回しも含めてやたら既視感がしてしようがなかったのだが、自分で苦労した経験があるだけに、この芝居もどこがどうマズいのかが細かく見えてしまってかえって困った。無理にドラマを先に進めようとするあまり、設定も台詞がやたら無理っぽいというか、不自然なものになってしまっている。中年男が「ドア」を探して回るという導入自体、物語を不条理劇にするつもりがないのなら無意味で観客の感情移入を阻むものでしかないし、役者も何の心理的葛藤もなくだらりと演じているだけである。しかもオチは浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』の複数化なわけで、ラストをしんみりとさせたいのなら、「ありえたかもしれない子供たち」はロッカーのバカガキや性転換したダンス教師やあやしげな鯉の養殖屋じゃギャグにしかならない。つか、なぜギャグにしないのか? 小劇場演劇の隆盛は、芝居にはともかく「小出しのギャグ」と「ラストのしんみり」を入れなきゃならないという悪弊を生んでいる。それが決まる芝居ならばともかくも、この「本物は誰だ」ネタは、基本的にスラップスティックにしかなりえない(私は自分の脚本では当然そうした)。ドタバタギャグが日本人に通じにくいというのは分かるが、かと言って、木に竹を接いだような形でアットホームなオチを持ち込まれても、心情的に納得できるものではないのである。途中途中で差し挟まれるラジオDJのシーンも、家出した男が捨ててきた妻の消息を伝えるためだという作者の意図は分かるが、効果としては今ひとつ、それどころか話の流れを中断させることにしかなっていない。結果、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのはやはり「若書き」でしかない。
『況わんや、百年振りの粗捜し』、再演だそうだが、意味不明でしかもキャッチーでもないタイトルは改題したほうがよかった。 雨の日、段ボール箱に捨てられていた青年を拾ったハジメ。彼女は青年にテンノと名前をつけ、ペットにする。放送局のあるタレントの付き人になったテンノは、突然起きた大地震で混乱した民衆に的確な誘導を呼びかけてパニックを収めたことをきっかけに、プロデューサー・鍵屋に救国のカリスマとして利用され、「王のない国」の象徴的存在として擁立されていく。そして鍵屋の魔の手はテンノの出自を知るハジメにも伸びていた……。 再演されたということは、初演は大受けだったのだろうか? 一部で笑いはあったが、劇場内は概ね落ち着いている、というよりは白けた雰囲気が漂っている。「みんなで唱和するからショーワ・テンノ」とか、場内はシーンとしている。一言で言ってしまえば、天皇制を揶揄するその視点が、ちょっとだけ政治にかぶれたガクセイの何となくな“軽い”反発の域を出ず、見ていて「もうちょっと世間知持とうよ」とタメイキしか出ないのである。 天皇が所詮は時の政治の傀儡に過ぎないこと、なし崩し的に天皇制が継続していることが、いつかは「時代」によって利用される危険を秘めていること、そういった作者の「不安」は確かに物語を構成する重要なモチーフになってはいるが、結局物語はそれを指摘するところで終わりであり、その先の主人公たちの懊悩もなければ打開策の模索もない。挫折し、開き直って無頼に生きる度胸もない。テンノも鍵屋も仲間たちもみな死に、婆あとなったハジメだけが生き残って何となく空を見つめて終わるという投げやりなラストはいつたい何なのか。 作者としてはこの程度の「からかい」で充分笑いを取れた気になっているのかもしれないが、客の目からは重いテーマから逃げているようにしか見えない。キツイ言い方にはなるが、芝居をなめているんじゃないか、とすら言いたくなる。あまり芝居を見慣れぬ若い客なら簡単に騙されるだろうが、天皇制に対する破壊的なギャグなら、場末の寄席でだってしょっちゅう行われていたのだ。軽いのではなく、ぬるい。結局、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのは『ロジウラ*ラジオ』同様である。これもやはりただの「若書き」なのであろう。 ああ、でも、NGOの連中が、鍵屋に「テンノ制に協力しろ」と言われて拒絶していたのが、「金は何ぼでも出す」と言われた途端に「何でも協力します」と豹変するギャグは笑った。何かを本気でからかうなら、「モジリ」に逃げずに堂々と実名を出さなきゃ意味はない。誤解を恐れずにあえて言うなら、演劇は本質的にテロリズムなのである。
しげは以前も「非・売れ線」の舞台を見ていて、そのときも「今どきなんでこんな芝居を打つのか」と疑問に思ったそうだが、どの時代でも学生気分の純粋真っ直ぐ君はいるものである。そんなに不思議に思うこたない、と言ったら、「作者は絶対そこまで考えてないよ」と断言した。そこまで言い切るのも容赦がなさ過ぎると思うが、確かに「何も考えていない」可能性も大なのだよなあ。
マンガ、吾妻ひでお『ななこSOS』2巻(ハヤカワコミック文庫)。 とりあえず『ななこ』の感想は後回しにして(笑)、『失踪日記』は既に四刷りまで行ったそうである。今日、天神の福家書店でもカウンター横に平積みで何十冊も置かれていて、新聞の書評が紹介されていた。「吾妻ファンは10冊購入しなさい」とまで書かれていたが、実際、お金に余裕があるなら、10冊でも20冊でも買って、知り合い連中に「読め」と言って配りたいくらいである。 『コミック新現実vol.3』掲載の『うつうつひでお日記』をお読みの方はご承知だろうが、吾妻さんの病気は現在進行形で、今も抗鬱剤を服用している。『失踪日記』だけを読んでいたら、「ああ、もうアル中も治って、マンガを描けるようになったのだろうなあ」と勘違いしそうだが、そうではないのだ。構成、下書きは確かに吾妻さんだが、仕上げは奥さんがされている状態。いつ再び、いや三度、「失踪」してしまうか分からない。せっかくヒットしているのだから、ぜひ平穏に暮らしてほしい。『失踪日記』の内容についていろいろ言いたい人もいるだろうが、ともかくファンとしては暖かく見守っていただけたらというのが願いなのである(最初の失踪もファンの「最近の吾妻マンガはつまらない」などの中傷が原因の一つだった)。いや、公的に発表されたマンガである以上、感想は何を言ったって構わないのだけれど、吾妻さんの目に触れ耳に届く形ではやってほしくないということなのだ。 吾妻さんの公式ホームページ(http://azumahideo.nobody.jp/)では、日記代わりのスケジュール報告で、吾妻さんが「今更遅いけど、仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなのでもうナンセンス漫画はやめる。これからは暗い漫画を描くつもり。どこも使ってくれないかも知れんけど」と言ったことに対して、いしかわじゅんが「暗い漫画でも、日記漫画でも、何でも俺たち吾妻ファンは読むよ。好きな物を描いてくれ」と激励し、感動したことが書かれている。吾妻ファンはみんな等しく、同じことを思っているのだ(『ななこ』の描き下ろしマンガで、Dr.石川が昔よりも「優しく」なってるのはこのせいかな?)。 『ななこ』の解説では、竹本泉が、「少年まんが家の93%は吾妻ひでおの影響を受けてるんだぞ」と力説し、「この『ななこSOS』には吾妻さんの基本要素が全てつまっています。美少女とSFとちょっと不条理と。吾妻ひでお初心者の人にもぴったりです」と薦めている。吾妻マンガを読んだことがないという若い人、けれどあなたの好きな最近のマンガ、そのルーツを辿れは必ず吾妻マンガに行き着くのだ。 『ななこ』や『オリンポスのポロン』、『アズマニア』はハヤカワ文庫で入手可能だ。売れてないらしいので絶版が近いかもしれないが、『やけくそ天使』も秋田文庫でまだ買える。これも残部僅少だとは思うが、マガジンハウスからは『幕の内デスマッチ!!』『メチル・メタフィジーク』『贋作ひでお八犬伝』『格闘ファミリー』『銀河放浪』が出ている。あなたがマンガを本当に愛しているなら、ぜひ一読を乞う。
2004年04月09日(金) うどん談義と『新選組!』低迷 2003年04月09日(水) 最近日記に書けないことが多いなあ/『エンジェル・ハート』6巻(北条司) 2002年04月09日(火) 正義なんて要らない/DVD『指輪物語』/『UAライブラリー10 すごいけどヘタな人』 2001年04月09日(月) ハートブレイカー/『DRAMATIC IRONY』(藤崎竜)ほか
| 2005年04月08日(金) |
訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦) |
出張で一日ばたばた。そのためか、買ったばかりの定期をどこかに落としたらしい。 「もしかしてスラレたかなあ」とつぶやいたら、しげ、「あんたが落としたにきまっとるやん! どうして他人のせいにするとね!」と烈火のごとく怒る。別に他人のせいにしてるわけじゃなくて、どこでどう落としたかが皆目見当がつかないので(ポケットに入ってたほかのもの、鍵とかは無事で定期だけが落ちているのだ)、そう言っただけのことなのだが、しげは怒りのぶつけどころがなくて、私に当たっているのである。 でも、落として損したのは私であってしげではないのだが。私が悔しがる前にしげが半狂乱になってたんじゃ、私はどうしたらいいのやら。
映画監督の野村芳太郎氏が、8日、肺炎のため死去。享年85。 遺作が1985年の『危険な女たち』(原作はアガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』。エルキュール・ポアロにあたる探偵役は石坂浩二!)つまり、十代、二十代の若い人は、リアルタイムで野村芳太郎の映画を見たことはないということになる。だからこその「誤解」が、この人に関してはかなり付きまとっている気がしてならない。 例えばその「代表作」のように思われている松本清張原作による『砂の器』である。以前もこの日記やコンテンツ(現在再アップ中ですが)で書いたことがあるが、お涙頂戴好きの日本人には痛く受けていても、これは映画としてもミステリーとしても何ら評価すべき点のない駄作である。あんなハンセン病を「利用」した映画に価値を認めるというのは、いったいどういう神経の人間かと憤りを覚えるほどだ(詳しくは都筑道夫の『サタデーナイト・ムービー』を参照のこと)。 公開当時も、知り合い連中で(もちろんコアな映画ファン、ミステリファンばかりなのだが)あれを誉めている人というのは皆無に等しく、「ヒットしてるって言うから見に行ったのに、何だあれは」と憤慨すらしていた。つくづく作品の出来と大衆受けとは別物なのだと実感せざるを得ない代表例が『砂の器』であった。 今やその「大衆受け」でしかなかった虚名が定着し、後追いでこの映画を見た若い人はこれが本物の名作であると大きな誤解をしているように思える。まさしく「歴史の風化」と言うか、「古いものはみなよい」症候群に罹ってんじゃなかろうか。 基本的に野村芳太郎という人は、特に個性的な演出家というわけでもなく、やはり松竹大船の人情路線の伝統上にあってペーソスは解せてもナンセンスギャグは不得手、社会派としてもごく小市民的で床屋政談的な思想しか持ち得なかった人で、だからこそ逆に一般大衆にはわかりやすい庶民感情に根ざした娯楽作品を作ることのできた職人監督であったと思う。70年代、80年代の「大作志向」の映画以前は、小品だけれどもたまにしんみりした文芸映画、コメディ、ミステリーなど、ジャンルを問わない映画を数多く撮っていた。原作知ってりゃ誰が見たってミス・キャストだろうって印象の、美空ひばり主演の『伊豆の踊子』とか三波伸介主演の『ダメオヤジ』とか、一連のコント55号シリーズとか、いくらプログラム・ピクチャーだからとは言え、映画の出来云々以前に、企画段階で誰か止めるやついなかったのかって言いたくなるような珍品の数々が目白押しなのだが、これは恐らく、「タレント人気」に乗っかりゃいいんだからと軽い気持ちで(つか何も考えずに)作っていたと思しいのである。 だからこそ初期作品でたまに光って見える『張込み』とか『拝啓天皇陛下様』とか『五瓣の椿』も、脚本もそんなに上手いわけではないのでやはり役者の力に起因するところが大きいのだろう、と演出家としての野村さんの腕は割り引いて考えてしまいたくなるのである。 それにしても不思議でならないのは、野村さんは本人の資質的にはおよそ合っているようには見えないミステリー・推理映画に、どうしてあそこまで拘ったのかということだ。全部で88本ある監督作の中から、広義のミステリー・推理映画に当たるものを抜粋してみる。
1953 鞍馬天狗 青面夜叉(原作 大仏次郎) 1958 張込み (原作 松本清張) 1961 ゼロの焦点 (原作 松本清張) 1961 背徳のメス (原作 黒岩重吾) 1964 五辧の椿 (原作 山本周五郎) 1968 白昼堂々(原作 結城昌治) 1970 影の車 (原作 松本清張) 1974 砂の器 (原作 松本清張) 1977 八つ墓村(原作 横溝正史) 1978 事件(原作 大岡昇平) 1979 鬼畜(原作 松本清張) 1979 配達されない三通の手紙(原作 エラリー・クイーン『災厄の町』) 1980 わるいやつら(原作 松本清張) 1981 真夜中の招待状 (原作 遠藤周作『闇の呼ぶ声』) 1982 疑惑(原作 松本清張) 1983 迷走地図(原作 松本清張) 1985 危険な女たち(原作 アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』)
晩年の作は殆どミステリーばかりと言ってよいが、そこそこの秀作はあっても文句なしに傑作と言えるのは『張込み』『事件』『鬼畜』くらいのものであろう。しかもこれらの作品の面白さはあくまで映画としての面白さであって、ミステリーとしてのそれではないのである。『張込み』『鬼畜』は犯罪を題材にはしているが、ミステリーとしての興味はかなり薄く、『事件』も原作が本来目指したものは裁判の集中審理方式に関する是非であり、推理小説のそれではない。これだけ松本清張作品を映像化していながら、最も本格ミステリとしての体裁を整えている『ゼロの焦点』が一番つまらない出来なのである。横溝正史、遠藤周作、クイーン、クリスティーの映像化に至っては、ミステリーとしてはトホホなものばかりであった。「ミステリ映画を作る才能がない」と断定しても構わないと思う。 「いったい何が野村芳太郎に欠けていたのか」という点を考えたとき、比較の対象として黒澤明や岡本喜八を挙げれば、納得していただける方も多いと思う。黒澤明の場合はブレーンにミステリマニアの脚本家・菊島隆三がいたことも大きいと思うが、実際、野村芳太郎以上にミステリに対する造詣は深かったと思われる。純粋にミステリーを原作にしたものはエド・マクベイン原作の『天国と地獄』くらいだが、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』などにはミステリーの要素が横溢している。岡本喜八も、出世作『独立愚連隊』は完全に本格ミステリの体裁を取っていたし、大藪春彦原作の『暗黒街の対決』『顔役暁に死す』、ウールリッチ原作の『ああ爆弾』、都筑道夫原作の『殺人狂時代』、天堂真原作の『大誘拐』のほか、やはりミステリ趣味満載の映画が数多くある。黒澤・岡本両監督のミステリ趣味は、常に「粋」だということだ。 まさしくその「粋さ」こそが、ミステリ映画をミステリ映画たらしめる重要なファクターなのである。例えばそれはどんなところに現れているかというと、『用心棒』『椿三十郎』で三船敏郎が敵を欺くために見せた数々の機知、『天国と地獄』のあのパートカラーの煙、『殺人狂時代』での仲代達矢のとぼけぶり(あまり具体的に書くとトリックをばらしちゃうので書けない)などなど、それらは映画、映像表現であるがゆえに効果的なものばかりであった。まさしく黒澤・岡本監督は「映画作家」であったのである。 それに対して、野村作品のミステリ描写はことごとく芸がない。ただカメラで写しているだけで演出というものがない。『砂の器』の「カメダ」ほか、謎解きの高揚感のなさはどうしたことだ。「allcinema online」などのユーザーコメントを見ても、「親子の情愛」云々について語るばかりで、一般観客の感動がミステリ部分には全く関わっていないことがよく分かる。 「ミステリ映画の第一人者」というイメージが、いかに野村芳太郎の本質とかけ離れているか、それは例えば野村さんの映画を見て原作者に興味を持ち、他の作品を読んでいけば、野村さんがいかに原作者の代表作を“外して”映像化しているかもよく分かる。横溝正史、クイーン、クリスティーについてはどうしてそれを選んだのか、理解に苦しむほどで、これはもうミステリに対する感度が著しく低いと言うしかない。別にミステリとして面白くなくてもいいじゃないか、と仰る向きにはミステリをミステリとして映画化しないのは羊頭狗肉であると反論しておこう。 監督としての評価も『事件』『鬼畜』を最後に、作る映画作る映画、酷評を受けヒットもしなくなっていく。結局は『砂の器』や『八つ墓村』が予想を超えて記録的に大当たりしてしまったことが、野村さんを「勘違い」させ不幸にしてしまったのではなかろうか。その結果、「大作」を「ヒット作」を作らなければならない、という思い込みが、野村さんを、そして松竹を支配し、そのために「ミステリー映画で当たったのだから、次もミステリーを」という安易な選択に走らせてしまったのではなかろうか。 そうでさえなければ、あともう少し、小粒ながらもしっとりした映画を作り続けられたのではないか、そんな気がしてならないのである。
訃報がもう一つ。 こちらは野村監督に比べて扱いが格段に小さいが、マンガファンにとっては絶対に忘れられない、忘れちゃならない名前である。 かつて伝説のマンガ雑誌『COM』(手塚治虫責任編集だったんだよ)誌に珠玉の短編マンガを発表し、「天才」の名を恣にしていた岡田史子さんが、3日、心不全のため死去していたことが判明。享年55。つい何年か前に旧作の短編集が編まれていたし、『消えたマンガ家3』でもインタビューに答えていらっしゃったので、お元気なものと信じていた(「消えた」と称するが、もともと寡作家で、数年作品の発表がなくてもファンは気長に待っていた)。 作品数は限られていたが、24年組の人たちに強く影響を与え、少女マンガが少年マンガを凌駕するほどの深遠なテーマを扱うようになるきっかけを作った人であった。……こういう「常識」も、知っている人間の“誰もが”記しておかないと、忘れられてしまうのである。 多分に60年代、70年代の世界に対する逼塞感を感じさせる作風であるが、少年の、少女の、壊れ行く精神を、切り絵が人形のようなキャラクターに託して象徴的に描いた作風は、現代でもあるいは未来でも充分に通じるだろう普遍性を持ちえていたと思う。代表作の『ガラス玉』『ピグマリオン』などは、飛鳥新社から発行されている『ODESSEY1966〜2003 岡田史子作品集』で読むことができる。
マンガ、大橋志吉脚本・石川森彦まんが『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(NHK出版)。 マンガやアニメからクリスティーに入ろうという人には「原作を読んでくれ」と言いたいところだが、ともかく活字離れの進んでいる現代では、若い人にミステリーを読んでもらおうと思ったら、「学習マンガ」的な、マンガとしての面白みに欠けるマンガであってもないよりはマシ、ということになるのかもしれない。 と、好意的に評価しても、原作の選択に『雲をつかむ死』というのはちょっと納得がいかない。クリスティーの長編の中では犯人の動機、トリックにかなり無理があり、せいぜい中の下、程度の評価しか与えられないのだが、やっぱり「空中の密室」である飛行機の中での殺人という設定に、つい魅力を感じちゃうんだろうね。犯人が限定される状況でなぜあえて殺人を犯さなければならなかったのか? という疑問に明確に答えられていないのが難点なのだが、この疑問に納得のいく解答を出しているミステリーって、実はすごく少ないのである(去年の『名探偵コナン 銀翼の奇術師』も、そのあたりの矛盾が全く考慮されてなかったものなあ)。しかも前作の『パディントン発4時50分』と、内容的にちょっと「かぶっている」部分もあり、その点でも原作選択においてもう少し検討はされなかったのかと疑問が生じるのである。 アニメに準拠しているので、今巻もメイベル・ウエストが登場しているのだが、『パディントン』のように「置き換える」キャラがいなかったため、出番も少なく、いてもいなくてもいいテイタラク。ポワロがやたら「解けない謎はない。真実は私に微笑む」と決め台詞を口にするのもうるさい。これはもう『金田一少年』と『名探偵コナン』の明らかな悪影響だ。原作ファンには宣告ご承知と思うが、ポアロは確かに「名探偵、みんな集めてさてと言い」という状況を作るのは好きだが、巷間言われているほどのハッタリ屋ではない。マンガもアニメもキャラクター造詣が雑なのである。 アニメもじきにめでたく放送終了だと思うが、いくらクリスティーファンとは言え(デヴィッド・スーシェ主演版のDVDボックスはしっかり買っているのである)、あれはDVDが出ても買う気になれないのである。
マンガ、和月伸宏『武装錬金』7巻(集英社)。 黒い核鉄のために、人類を滅ぼすモンスター・ヴィクター�靴伐修恒震燭砲△襯�ズキの逃避行編。斗貴子がくっついていくのは当然としても、もう一人の仲間、前巻より新登場の中村剛太のキャラクターが弱いのが難点。つかねー、もう中堅どころと言っていいキャリアがあるのにねー、和月さんが脚本・キャラ作りともに一向に進歩・上達しないこと自体、将来が心配になるんだけどねー。なんつーか、あれやこれやの先行作品からの流用が多すぎるよ。しかもそれを正直に後書きで告白して、「反省」したりするから、かえって評判を落とすのである。技術が上達しなきゃ、反省なんて有名無実だとしか思われないって。 「いずれ化物になるかもしれない恐怖」ってモチーフもまあ昔からいくらでもあるんだけれど、ちょうどサンデーで夏目義徳の『クロザクロ』が全く同じ展開になってて、こっちのほうがはるかに面白いものだから、比較されるとどうしても和月さんのほうがワリを食ってしまう。何がよくないって、カズキに宿命を背負った悲壮感がまるで感じられない点なので、これはどう言い訳したって和月さんの演出力不足に原因があるのだ。「カズキはあくまで明るく振る舞うキャラだ」と弁護したいファンの人もいるかもしれないが、「明るく振舞うからこそその運命の重さが際立つ」演出がまるでなされていないのである。 和月さんの実力を考えると、これから先、このマンガが面白くなるとは思えない。なのにファンとして和月さんを見捨てられないのは、前にも書いたと思うが、マンガそのものはつまらなくても、和月さん本人に「人間としての誠実さ」を感じるからだ。誠実でなければ誰が自作の欠点をあそこまで堂々と後書きで書きまくるものか。ほんの少しでも面白くなってくれれば、という淡い期待で、8巻、9巻と続いてほしいのだが、10巻越えての伸びがどこまでか、苦しいところだろうなあと思うのである。
2004年04月08日(木) もう好きなだけトンガッちゃってください(-_-;)。 2003年04月08日(火) 新番組攻勢始まる。/『アニメ『キノの旅』1話「人の痛みが分かる国」/カレイドスター』1話「突然で! 初めての! ステージ」 2002年04月08日(月) ゲイは身を助く/『光の島』2巻(尾瀬あきら)ほか 2001年04月08日(日) デイ・アフター/『漫画 巷説百物語』(京極夏彦・森野達弥)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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