無責任賛歌
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| 2005年04月01日(金) |
暢気な初日と思ったら/『失踪日記』(吾妻ひでお) |
転勤初日。 これまでの支社は通勤に1時間半かかっていたのが、今度の職場は徒歩20分にJRで23分、駅から歩いて5分、概ね50分弱で着く。しげに車で駅まで送ってもらえれば15分短縮されて30分強だ。ただ、それは行きの話で、帰りは電車の本数が極端に減って30分に一本しかない。でもそれでも七時前には帰りつけそうで、ずいぶん気が楽になる。 久しぶりにJRに乗るが、思ったほど通勤ラッシュは激しくない。駅から職場まで、道がやや上り坂になってはいるがさほどだらだら坂というわけでもないので、明日に疲れを残さずにすみそうである。 仕事はまだ初日なもので、会議が少々あった程度で、たいしたことなし。退社も定時。まずはゆるりと参ろうぞ、てな感じである。
夜、震度3ほどの余震。隣の春日市では震度4を記録したとか。 揺れ具合は前回と同様で、ゆらっと来て、ドン、と来る感じ。背後の棚の上の何かが落ちる音がしたが、何が落ちたかは確認できず。寝ているしげの部屋のほうでもまた雪崩の起きる音。揺れは10何秒ほどで収まるが、一瞬の恐怖は本震のときに近い。 しげに「大丈夫か?」と声をかけると「うん、大丈夫」と答えが返る。起きてるなら大丈夫か、と思ったのだが、あとで分かったことだがこれはしげの寝言であった。どうやら時計だか本だかがしっかりしげのおでこにぶつかっていて、こぶができていたのだが、それでも目を覚まさなかったのである。こいつ、絶対寝ながら死ぬ運命にあるな。 『報道ステーション』を見ていた最中で、古館伊知郎が深刻な顔で「詳しい情報があり次第お伝えします」と言ってたのに、後は何の報告もなし。なこの人が真面目くさってモノを言えば言うほど嘘っぽく聞こえてしまうのはどうしたもんかな。
吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス)。 発売から長いことかかったけれど、ようやく入手。 友人から「まだ手に入れてないのか」とせっつかれたり、日記の読者さんからネット通販を勧められたりもして、なんだかあちらこちらにえらいこと心配をかけてしまいましたが、待ち望んだだけのことはありました。いやもうおもしろいったらない。 この15年ほど、何度か復活しつつも、鬱で失踪、ホームレス生活、ガテンな仕事、アル中で強制入院と、一時期は完全に「消えたマンガ家」となっていた吾妻さんの私小説ならぬ「私マンガ」であるが、本職の私小説作家の作品よりもはるかに面白い。解説対談でとり・みきさんが仰ってる通り、実情は相当悲惨であったろうに、それをクールに見つめている姿勢が、作品をエンタテインメントとして成立させているのである。島崎藤村も田山花袋も嘉村磯多も徳田秋声もみんな自分に酔ってばかりいないで吾妻さんを見習え。みんな死んでるけど。 何より嬉しいのは、「作者の出ないマンガなんてマンガと言えるか!」と言って、『やけくそ天使』や『スクラップ学園』『不条理日記』などなど、ほとんどの自作に自分を登場させてきたころとイメージがほとんど変化しないまま、本作でもマンガキャラクターとしての「吾妻ひでお」が主役を張っていることだ。史上最強のインランSFキャラクター阿素湖素子とタメを張り、隙あらば憧れのアグネス・チャンや林寛子に襲いかかり、妄想の中で妄想を紡ぎ出してきた「吾妻ひでお」なのである。だから「気が狂う気が狂う」とアル中による幻覚に苛まれていても、まるで悲惨に感じられないどころか「うん、ムカシから吾妻さんはそうだったものな」と微笑ましくすら見えるのだ。だって、「大好きな女子高生までが恐ろしい」なんて台詞、昔からの吾妻さんを知ってたら、同情しつつも爆笑するしかない。一読し終わって、帯に「自殺未遂」と書いてあるのに気づいて、「あれ? そんな描写があったかいな?」と思って読み返してみたら、「酔っ払っているうちに山の斜面を利用して首吊りしようとしたが眠ってしまった」というシーンがあった。あまりに暢気な描かれ方であったので、これを自殺未遂と認識できなかったのである。 読んでいる最中、私はこれを学習マンガのように読んでいた。ホームレスになったらどうやって食料を入手するか、どこで寝泊りすればよいか、ガテンな仕事はどうこなしていけばいいか。特に体が丈夫なわけでもない吾妻さんがこの境遇を乗り越えて生きてこれたことが、いずれ似たような運命に遭遇するであろう予感に襲われている私にとっては福音のように見えるのである。 増刷がかなりかかったようで、博多駅の紀伊国屋では平積みで二列。その山も随分低くなっているから、もしかしたらベストセラーに近くなってるんじゃなかろうか。吾妻さん、一年間くらいは印税生活でやっていけないかな。 あー、あと、この本買った人はカバー裏までちゃんと読んでね。
2004年04月01日(木) 四月馬鹿さ。 2003年04月01日(火) K嬢のえっちな絵/『戦国秘帖 黒の獅子』vol.1(永井豪)/『20世紀少年』12巻(浦沢直樹) 2002年04月01日(月) 心機一転?/映画『ビューティフル・マインド』ほか 2001年04月01日(日) 四月バカ/『ブンカザツロン』(唐沢俊一・鶴岡法斎)ほか
| 2005年03月31日(木) |
お勤め最後の日。内容は特にない/能楽座福岡公演『能狂言』 |
最後の出勤、と言ってもたいしてすることがない。 女の子何人かとお喋りをするが、「せっかくお話できるようになったのに」と残念がられる。でも顔はそんなに寂しそうではない。しげとも知り合いの子なので、何かの折にまた会う約束をする。「しげさんと会うとコケたらはたかれるから怖い」とか言ってたが、確かに何もないところでコケることにかけては、天下一品な子であった。 同僚何人かと挨拶をして別れるが、玄関を出がけにトンガリさんとすれ違ってしまった。相変わらず目がイッていて不気味である。当然、挨拶はナシであるが、この人ともう関わらなくてすむかと思うと、こんなに心が軽くなることはない。
大濠公園能楽堂にて、能楽座福岡公演『能狂言』。 なんかむっちゃストレートなタイトルである。まあわかりやすいっちゃ分かりやすいけどな。演目は、梅若六郎・大槻文蔵による福岡初上演の能『泰山木(たいさんぼく)』、野村万作・萬斎親子による親子による狂言『川上』、梅若六郎・観世榮夫による能『竹』。 桟敷自由席なので、開演の一時間前に入場する。舞台から間に指定席を挟んでかなり距離があるが、一応、ほぼ真正面の席に座れた。もっとも開演後にのこのこ入ってくるおばさんだの家族連れが多くて、やたら視界を遮られたが。 歌舞伎も能も好きで、時間と財布に余裕があるならもっとあれこれ見てみたいのだが、1万2万は当たり前なんて料金では、ビンボー人は諦めるよりほかはない。ところが今回の公演は、これだけの一流の演者を集めていながら、わずか二千円(実はツテがあったのでさらに安かった)。どうしてこんなに安く公演できたのか、協賛がやたら入ったおかげなのか、事情はよく分からないのだが、こりゃもう見るっきゃないと何週間も前からウキウキして待っていたのだ。 お客さんはたいていが能好きの老夫婦、という感じで、中には若い女性や親子連れもいるけれども、普通のカップルなんてのはあまり多くない。隣に座っていた女性二人連れも、ちらちら聞こえてくる話によると、萬斎さんの『間違いの狂言』(シェイクスピアの『間違いの悲劇』の翻案)を見て、興味を持ったものらしい。あれは異端で、今日のは普通の狂言だから、感じがかなり違うと思うんだが、つまんないとか思われやしないかなあと心配になる。他人のこと心配したってしょうがないんだけど、つい、ねえ。 歌舞伎や能を古臭いもの、あるいは小難しいものだと考えて敬遠しがちな若い人もたくさんいるだろうが(いやもう私と同年輩でもそんなこと言うやつがいて悲しいのだが)、確かに詞章は古文だし謳い方も聞き取りにくかろうとは思うが、演者の仕草でどういう話なのか、見当はつくものである。それにたいていの能公演では詳細な解説や謡曲そのものがパンフレットとして配布されることも多いので、初心者でも鑑賞にたいした苦労は要らない。狂言はさらに解説要らずで、小学校の芸術鑑賞で狂言を見た経験のある人も多いと思う。 ただ、能を楽しむためには、「微妙な仕草」を注意深く見ることが要求されるので、漫然とテレビを見るのに慣れたような人にとっては面白く感じられないかもしれない。それに、下手な演者がやると退屈なものにしかならない能も多い。「能ってよくわかんない」と仰る方にもお勧めなのは「薪能」(たきぎのう)で、これは篝火の下で夜間に行われる能である。本来はこれが能の普通の上演形式であった。揺らめく火に照らされた能面が、動かないはずなのにさまざまな表情を見せて一種凄絶ですらある。機会があったらぜひ見てみてくださいな。
で、こんな前置きばかりダラダラ書くから日記が無駄に長くなる(苦笑)。 『泰山木』はもともと世阿弥の作。現在は金剛流の『泰山府君』としてしか残されていなかったものを、観世流の地謡の形式で復元したもの。散りゆく花の延命の儀式の最中に花を手折った天女を、泰山府君が諌める話。 「泰山府君」とは人間の寿命を司る山神であるが、名前の通り、ルーツは中国である。伝説によれば吉備真備によって賀茂家、続いて安倍家に伝えられ、陰陽道の祖神として祀られるようになったという。普通、「たいさんふくん」と読むが、舞台では「たいざんぶくん」と発音されていた。通常、二項対立で描かれることの多い天女と人間という関係の中に、裁定者としての泰山府君という「神」が介入してくる図式が面白い。ここでは天女も人間と等しく、花の美しさに惑わされて一枝盗んでいく。「花折」は能狂言の重要なモチーフの一つであるが、たいてい犯人は世俗の数寄者であるのが、ここでは天女。天女も魅了されるほどの花の美しさ、という逆説的な表現でもあろのだろう。 「羽衣」でもそうだが、天女は決して至高の存在ではない。自身の煩悩に惑わされている点では怨霊に一脈通じてさえいる。天女が至高の存在でないのと同様、天上もまた地上を統べる万能の空間ではない。泰山府君の「天井にてこそ栄華の桜」との言葉とは裏腹に、手折られた花の命を永らえさせる力とてないのである(これはつまり天女の邪な心故にであろう)。しおれた花を持って泰山府君に声もなく差し出す天女の嘆き。もはやそれはただの「女」の姿である。 能が多く現世ならざるものを扱うのは、現代人がファンタジーを好む感覚に通じるものがある。日常と非日常の交錯、異界の住人はマンガや小説中にゴロゴロしている。しかも「人間臭い」ところまで同じだ。『ああっ女神さまっ』の原点として楽しめば、能の世界も面白く鑑賞できまいか。……ってこんなこといつたら真面目な能のファンから怒られちゃうかなあ。
狂言『川上』はもちろん万作・萬斎親子の絶妙な芸で客席の笑いを取っていたのだけれども、物語自体、みょうちくりんなものである。めくらの夫が川上地蔵の霊験で目が見えるようになる。ところが地蔵は夫に「妻とは悪縁だから別れよ」と告げる。妻がそんなムチャクチャなことを言う地蔵がどうして仏なものかと夫をなじるので、夫はつい「分かった、別れない」と答えてしまう。途端に夫の目は元通りのめくらに。 昔の人が信心深かった、というのはまあ半分は本当で半分は嘘だろう。現代人も結構たくさんの人が占いだのシューキョーだのに引っかかっちゃってるのを見れば、人間のメンタリティなんて時代が進歩しようがたいして変わりゃしないのだということがよく分かる。昔の人にだって、現代人に通じる合理的精神の持ち主はいたわけで、人間を勝手気ままに幸せにしたり不幸せにしたり、そんなもんが「神だ仏だと言えるか」と憤慨していた人は当然いたのだ。手を取り合って橋掛かりを歩いていく夫婦の姿を見ながら、『川上』はまさしく「信仰の否定」の物語なのだなあと感嘆した。であって、しかもそれは「たとえ仏に本当に神通力があろうとも、そんなものは拒絶する」という強い意志がそこにあるのである。 『竹』を見てるときはかなり体調が悪くなっていたので、印象が薄い。萩原朔太郎の詩を謡曲に仕立てたということだが、どういう趣向がよく分からなかった。やっぱ能波田一様が万全のときでないと集中しては見られんわ。
観劇中に小さな余震が二度ほど。体感では震度1くらいか。しげが後で「揺れた?」と聞いてきたので「もちろん揺れたとも」と答える。別に威張っていうこたない。 もうそろそろ余震も終わるんじゃないかと思ってたところにこれだから、断層野郎も相当しつこいのである。公演が中止にならなかったのが不幸中の幸い。
2004年03月31日(水) 人の噂は何十年。 2003年03月31日(月) メモ日記�� 2001年03月31日(土) 藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか
| 2005年03月30日(水) |
地震話はこのへんでオワリ/映画『ニューヨークの王様』 |
しつこいくらいに福岡県西方沖地震関連のニュースを取り上げていますが、こりゃもう前にも書いたとおり、地震直後からネット上の日記などを見回ってみて、「被災者である福岡市民自身が『たいしたことない』と感じてる状況じゃ、あっという間に風化しちゃうなあ」と思ったからでして。そりゃ人の意識の変遷なんてものは止めようもないものなんでしょうが、なんかその「忘れ方」があまりにも能天気なもんでねえ。
地震も火事も台風も水害も「なんちゃない(=何ほどのことでもない)」ってのが福岡人・博多人気質であって、ちょっとやそっとの不幸なんざ平気の平左、逆境に負けない打たれ強さを持っているのだ、と、好意的に解釈できないわけではない。しかし、市民も行政もそう思って「オワリ」なら、今後の災害対策なんてマトモに立つはずがないのだ。「何事も前向きに考える」ことは別に問題ないが、だからと言って何についても「無自覚で無神経」であっていいわけではない。 何日か前の日記ではかなり悲観的に、どうせ市民の防災意識なんて上がりゃしないだろう、と予測したのだったが、早くもそのことが証明されてしまった。 昨日までに読売新聞が福岡市民に対して行った地震についてのアンケートによると(サンプルは150人)、「地震発生後も何の対策も取っていない」と回答した人が45.3%にも上っている。 その理由をさらに質問したところ、曰く、 「もう地震は起きないと思う(44.1%)」 「何をしたらいいのか分からない(17.6%)」 「被害がなかった(11.8%)」 「これからやろうと思う(10.3%)」 「必要性感じない(4.4%)」 「とりあえず避難所に行けばいい(4.4%)」。 というテイタラクである。 「なんだ? この危機意識のなさは? 本当にこれが被災地の人の感想か?」と疑問に思われた他地方の人も多かろう。このアンケート、決して地震の被害の少なかった郊外で取っているわけではない。今もなお危険地帯だと言っていい、警固断層、宇美断層のある福岡市東区、博多区、中央区、早良区、西区で行っているのである。言わば、目の前に倒壊しかけたビルのある前で質問した結果がこれなのだ。 多分、他地方の人から「嘘つけ」と言われることを承知の上で「真実」を語らせていただくが、福岡・博多の人間のポジティブシンキング・前向き思考は、マンガのキャラクター並にファンタジック・非現実的なのである。さながら金田一蓮十郎の『チキンパーティー』の「トリさん」のように無意味に明るく、映画『ブルース・ブラザース』で、ブルース兄弟がロケットランチャー食らって瓦礫の下に沈んだにもかかわらず、何事もなかったかのように立ち上がってくるようなもので、どんな災害が来ても「今、何かあった?」ってなものである。 これは比喩でもなんでもない。地震直後にこれを地震だと認識できなかった人はアンケート結果では21.3%に上り、福岡人の鈍感ぶりを示している(予め言っとくが、いくら福岡で地震が少ないといっても皆無なわけではなく、気がつかなかったというのは相当な鈍感なのである)。 じゃあ、何だと思ったかというと、これがまあ、なんと言うか、コメントに困るような回答が多々寄せられているのである。……ちょっと代表的なものを羅列してみよう。 「外で車がぶつかったと思った」 「家に車が突っ込んだ」 「飛行機が墜落した」 まあ、この辺はまだ、「何かの事故だ」と判断したということで、錯覚こそしているが危機意識があったと言えなくもないが、問題はこれからである。 「人がたくさん走っていると思った」 どれだけの人が走ったら地面がそんなに揺れるのだ。マラソン大会どころの話じゃないぞ。誰か「トリビアの種」に送って実験してもらってくれ。仮にそうだったとして、そんなに大量の人間がなぜ走ってるのかも謎である。 「誰かに後ろから押された」 揺れてるのが自分だけならそうだろうけど、周囲は見えてなかったのか? この人、家の中にいたのか外にいたのか。外ならまだしも、家の中でいきなり人を突き飛ばされるって、誰がやったのだ。 「2階で弟が暴れ出した」 あんたの弟は何者だ。デビルマンか。 こんなふうに答えた人、別にお年寄りでボケてるわけではなくて、二十代の女性だったりするのである。もうこうなってくると、笑いの対象にしかならない(新聞記者は明らかにここで「笑い」を取りにいっているが、冷静かつ客観的であるはずの新聞記事ですら「オチ」に使われてしまう福岡人っていったい……)。いや、それどころか、ネットで地震当日に日記を散策してみたと書いたが、その中には「いつ地震があったんですか?」と書いていた「福岡市民」が、本当に何人もいたのである。 無謀を無謀と自覚してないやつ、一般的な常識とあまりにも乖離しているやつ、そもそも鈍感で何も考えてないやつ、やっぱりどう贔屓目に見てもただの「ばか」なのだが、その「ばか」が大量にいれば、そっちのほうが博多では「常識人」になるのである。 博多弁では、こういう人たちのことを「おおまん」とか「おおまんたくり」とか言うのだが(古い人は擬人化して「大野万太郎」とか「大野万次郎」などとも言う)、何事も大雑把で適当、けれどそれを欠点だと責めるのではなく、「あん人はおおまんやけん、しょんなかたい」と許してしまうのが博多人気質なのである(ちなみに「おおまんさん」がさらに度を越してしょっちゅうぼーっとして心ここにあらずな状態になると、「夢野久作さんのごたる」と呼ばれることになります。幻想作家の夢野久作はここから名前を取ったのですね。この名前は俳優の嶋田久作にも受け継がれています)。ある意味、そういう「非常識人」のほうが多ければ、細かいことで人と人が衝突することもなく、トラブルが起きにくいとも言えるのだが、普通の人間がそこに混じれば逆にイライラさせられることも多かろう。なんたって、仕事が全然進まない、ということもしょっちゅうなのである。 先ほども書いたとおり、こういう博多人の鈍感さも、ちょっとした困難にぶち当たっても全然めげないんだなあ、と好意的に見ることもできないではないのだが、「おおまん」ぶりが、実際の行政にまで蔓延してしまっていては、許せる範囲にも限度がある、と言わざるを得ないのである。福岡という都市の一大欠点は、そういった公的な仕事まで何度司直の手を煩わせても改善される気配がない、という点にあるのだ。「日本のゴッサム・シティ」と言われても、確かに反論できない面があるのである。 細かい仕事、きちんと積み上げなければならない仕事まで「うだんしか(=鬱陶しい)」「しろしか(=面倒くさい)」「せからしか(=うるさい)」と言って放棄する癖が、福岡人・博多人の多くにある。公金横領とかカラ出張とか、警察、教育庁ほか、官公庁の不正がやたら摘発されるのも、「これくらいよかろうもん」といういい加減さが身に染み付いているのだ。警察の仕事も穴だらけで(警察関係者に反論はさせんぞ。ホモオタさんからストーカーされるのを私ゃ警察から「どうにもできませんねえ」と言われているのだ)、ちょっと悪知恵を働かせれば、博多でなら完全犯罪はいくらでも可能なんじゃないかとすら思える。 いや、昔ながらの博多人、商売人や職人は、ここまで「自分のことについて」面倒くさがってはいなかったはずなのだが。自分の好きな仕事には熱中するが、他人からの命令は極力嫌うという反骨的な博多人の気質を考えると、もしかして「サラリーマン」くらい合わない仕事はないんじゃないか、だから自然に仕事がいい加減になってくるのではなかろうか。案外この憶測、当たっているかもしれない。仕事しながら愚痴言う人、うちの職場にもやたらいるんだわ(私はこの日記では散々職場の悪口言っとりますが、実際の職場では黙々と与えられた仕事をこなしとります)。 なんか福岡人・博多人がいかにダメかを縷々語っているようではあるが、もちろん、回答の中には「防災用品の充実」「家具止め」「高い場所のものを低いところに置く」「タンスの側から寝所を移した」「外出前にガスの元栓を確認する」と、対策を取るようになった人もいるのである。しかし、逆に「この程度のこともしてなかったのか」と考えると、やはり福岡人はあきれた連中なんだな、と捉えることもできてしまう。どうしてそこまで安楽でいられるかと問われれば、「だって福岡の人間ってそうだから」と答えるしかない。夜郎自大というか、「根拠のない自信」が博多人の心の根底にあるのである。 そう考えると、私は先祖代々の博多っ子ではあるが、通常の「おおまん」な博多人からはいささか“離れて”いる面がなくもない(それでも他県人から見ればかなりいい加減に見えるだろうが)。我が家でも、本の増加から高いところにも物を置かざるを得ない状況になっていたのだが、この夏に、部屋を大改造して対策を取ろうと、しげと相談していた矢先だったのだ。決して「地震なんて来るわきゃない」とのんびり構えていたわけではない。 危急を覚えて対策を取ろうとしなかったのは、私が悲観主義的かつ運命主義的な人間で、「建物が倒壊するほどの大地震が起これば、どうせ死ぬしかない。生き残れたとしてもそれは運だ」と考えていたからである。別の意味で(人生そのものに対して)「おおまん」であったと言えようか。私よりも、もともと広島人であるはずのしげの能天気ぶりのほうが現代の博多人の気質に近いかもしれない。 福岡人の目を覚まさせてやるためには、近いうちにもう一度デカイのが来て、それこそ万単位の人が死傷し住居をなくさなければダメじゃないかとも思うが、もちろんそんなことを本気で望んでいるわけではない。地震が来なけりゃ来ないで、福岡人の大半はいつまでも夢を見ていられるのである。そういう人たちはほっといて、せめて行政に携わってる人たちだけは起きててほしいものなんだけどねえ。
しげも私も、体調は昨日よりは回復。 仕事帰りに博多みやげ物センターによって買い物をする程度には動き回れるようになった。けれどせっかく買った「だご汁」を作る元気はなくて、帰宅するなりしばらくは惰眠をむさぼる。明日は能を見に行くというのに、回復できるんだろうか。
BS2で、映画『ニューヨークの王様』。 チャップリン最後の主演作だけれども、公開当時の一般的な評価は他の作品に比べてかなり低かった。アメリカでは「反米的」と評されて(反米映画だから当然なのだが)配給拒否までされたので、酷評も当然だとは思うが、チャップリン大絶賛の日本でまで不評だったというのはどういうわけかなあとちょっと疑問に思う。アメリカのコマーシャリズム、赤狩りに対する批判が直接的過ぎて今ひとつ笑いに繋がらない、ということなのかもしれないが、日本もまた商業主義の道を歩んでいたわけで、それを揶揄されるのは気に入らなかったということもあるのだろう。 小林信彦も「冒頭の『現代人の小さな悩みの一つに革命がある』というテロップも意味不明だ」とかなり手厳しくこき下ろしていたが、亡命した王族が共産主義者と間違われるというおよそありえない状況を描いた本作が、「民主主義」「自由主義」の名の下に行われる圧政に対する明確な批判として製作されたことは明らかなので、「革命」とは単にシャドフ王の亡命の原因となったそれだけを指しているわけではあるまい。「革命熱」は世界各国に吹き荒れ、王政を次々と廃止させていったが、その結果、人民が本当に自由になったか、そのあたりを「小さく」皮肉っているのである。もともとチャップリンが「立憲君主国」であるイギリスからの移民であったことを忘れてはなるまいし、本作はアメリカ追放後、イギリスで撮影されているのである。もちろん小林さんはそんなことは分かった上であえて「意味不明」といっていたのだろうから、よっぽど本作が嫌いだったようだ。しかし、その後のアメリカの傍若無人な歴史を考えたとき、ストレートすぎる批判も笑えないギャグも必要だったのかもしれないとも思えてくる。 放送ではメイキングでジム・ジャームッシュが本作を絶賛する様子が紹介されていた。製作後50年が経過しているが、再評価はこれからなのかもしれない。
『TBSテレビ50周年 あなたも歌わずにはいられない!! 昭和〜平成にっぽん歌謡50年全史』を謳わずにはいられなくなりながら見る。 私の歌謡曲追っかけ歴史は80年代半ばまででストップしているが、逆にそれまでの主要か結う曲はほとんど歌えてしまうのが自分でも驚きであった。およそ柄ではない世良公則とツイストの『あんたのバラード』とか、もんた&ブラザーズ『Dancing All Night』までフルで歌えてしまうのだから(上手い下手は別)、ムカシの人間がどれだけ「歌は世に連れ世は歌に連れ」な生活を送っていたかが実感できるのである。もちろん山口百恵もピンク・レディーも堀ちえみも。松坂慶子の『愛の水中花』なんて、思いっきり切なげに歌えちゃうのだ。いや、そのケがあるわけではなくて、ヒット曲というものは老若男女を問わず歌えていた時代が、80年ごろまでには確実に続いていたのである。今思い返すに、ヒット曲が一部のマニアのものになっていく分岐点は、やはりアイドル全盛の時代、松田聖子、中森明菜あたりのヒットを経てからであった。あのころ父が松田聖子の歌を聞きながらしょっちゅう「どこがいいのかさっぱり分からん」とボヤいていたのを思い出す。 いくらミリオンセラーが出るようになっても、若い人の間だけで流行っていて、オヤジやオバハンはまるで知らない曲なんてのは、本当の意味でのヒット曲とは言えない。そういった意味でのヒット曲は、今や壊滅していると言っていい。世代間のギャップが激しさを増しているのは、「共通の歌を知らない」点も大きいのではないか。いや、オジサンやオバサンはね、その気になれば、あゆだろうがモー娘。だろうがいい曲だと思えば歌えるんだよ。そういうのも「気持ち悪くなかった」時代に生きてたんだから。 だからしげに「やっぱり『ザ・ベストテン』は復活しなきゃダメだ」と熱弁を振るったのだが、どうも今ひとつピンと来ないようである。一つの曲が世代間を越えて流行るためにはやはり媒体というものが必要で、それは『ミュージックステーション』のようなただの歌番組ではダメなのだ、『ザ・ベストテン』の「視聴者投票によるベストテン選出」が、どれだけ歌手と視聴者の距離を卑近にしてくれたことか(好きな歌手でもヒットしてないと出演できないという弊害はあったが)。 あれだけのエネルギーを費やした歌番組はもう作れない、というのが悲しい。それは、一つの歌が一つの時代を象徴することなどなくなってしまったことをも意味するからである。
『BSアニメ夜話』、今晩は『新造人間キャシャーン』であったが、タツノコ作品にはあまり思い入れがないので(でも全部見てたけど)、話を聞いていても「ふーん、そう」ってなもの。アメコミ調のバタ臭いキャラクターデザインだと、女の子が全然かわいく感じられないんだよねえ。まあまあ好きだったのが『タイムボカン』シリーズくらいなもので。そういえば最近タツノコはどんなアニメ作ってるんだ?
四月公開予定のシリーズ第13作、『映画クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』に、波田陽区と坂井真紀がゲスト声優として出演とか。波田陽区は怪獣役ということだけれど、エフェクトかけずにそのまんまの声でやれそうだってことでの起用だろうか。 だいたいどの劇場アニメでも、こういう歌手とかタレント、普通の役者をゲストに呼んだ場合、ちょっとじゃまっけと言うか、はっきり言えばなんでこんなど下手糞なやつを使わなきゃなんないんだよ、という印象が強くて、腹が立つことが多い。もちろん、ちゃんとした「役者」として呼ばれた場合は別なのだけれども、客寄せパンダなのだなあというのがミエミエなのはもう、映画自体を抹殺したくなることもあるのである。誰とは言わんが、政治家兼作家の弟が出演して、それがそいつの映画での遺作になっちまったってやつとかな(笑)。 『クレヨンしんちゃん』もしょっちゅうゲスト声優が出演する。小宮悦子とか雛形あき子とかIZAMとかコサキンとか遠峯ありさ(笑)とか。しかし『クレしん』がすごいのは、そんなタレント声優でも、ちゃんと役者として演技できる人はきちんと優遇して使い、ど下手なやつは、まさに色物として“いじる”ことである。『戦国大合戦』の雨上がり決死隊などは、ちゃんと役者として膨大な量の台詞をこなしていたが、宮迫博之のその後の役者としての活躍を見れば、原恵一監督の先見の明は大絶賛されてしかるべきだろう。 新作映画の監督は、四代目で今回が初監督のムトウユージ氏。勝手な予測だが、波田陽区は色物で、坂井真紀は役者として起用したと見た。いつも“いじる”側の波田さんが、どんなふうにいじられるのかが今から楽しみである。もちろん前売り券はとうに買っておりますとも(笑)。
2004年03月30日(火) ポエムは人生を語る。 2003年03月30日(日) メモ日記�� 2001年03月30日(金) シラフでも酔える夜/『怪奇探偵小説傑作選2 横溝正史集/面影双紙』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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