無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年03月30日(火) ポエムは人生を語る。

 昨日、アクロスとかでも回転扉の事故が起こってたんじゃないかと書いたけど、やっぱりその通りだった。平成9年からこっち、“少なくとも”4件の事故があったとか。……絶対、そんなもんじゃ済んでないよな。挟まれたり転んだり、被害者はたいてい子供か老人らしいが、そういう事故が起こってもずっと放置してたってことが、この社会の「子供と老人は邪魔者」感覚が蔓延してることの証拠なわけである。どこがバリアフリーだ。
 若いことやカラダが頑健なことを絶対の価値のように思ってる人間って多いけど、それってただの傲慢だし、健康なことがそんなにえらいんかい、と文句の一つくらいつけたくなる。人間みんなトシ取るし、一生健康でいられる人間なんて稀だろう。その程度の想像力もケツラクしてる人間がモノ作ってるってのが腹立たしいんだけど、「そういう人間しかいない」んじゃ、どうしようもないのである。
 シーホークはもっと被害者が出てたらしい。多分、今後しばらくは回転扉は激減して行くと思うけれども、こういう時こそ「回転扉を発明したのは誰か」みたいなトリビアを誰かが披露してくれないものかな。どんな理由であんなイカレたものを開発したのか、知りたいものである。


 文部科学省が、来春から使用する小学校教科書の検定結果を発表。
 前回の改訂では「ゆとり教育」の一環として、その内容が大巾に削減されて物議を呼んだのだが、「学力が低下する」との批判を受けて今回はそれらの内容が「発展的内容」として掲載されることになった。具体的には、「台形の面積を求める公式」(5年算数)などが復活、「食物連鎖」(6年理科)、「縄文時代」(6年社会)などの中学レベルの内容も許容されている。
 受験競争華やかなりし頃は「もっとゆとりを」と文部省の「積めこみ教育」を批判してたくせに、いざ、ゆとり教育が実施されると「学力低下」を訴える世間の身勝手さには呆れ返るしかないが、実際、昔も今も親バカのレベルに変化はない。学校に教育を依存してる時点で自分がダメ親であることを自覚したほうがいいと思う。
 だいたい、「ゆとり教育」の目的は生徒をのんびりさせることが目的なんじゃなくて、空いた時間を使って勉強したいヤツは自分でどんどん勉強するように、という意図で導入されたものだ。ところがフタを開けてみたら殆どの生徒が土曜の休業日に勉強なんかしなかった。結局、教育なんて押しつけられ、強制されなきゃ大多数の人間がやらんということが分かったのである。リベラリストはすぐに自由にさせりゃ人は自分から知識を求めるようになると主張するけれども、そんなのは幻想にすぎない。子供の90%はただのバカで、いくら時間を与えたって、遊ぶことしか考えないものだ。そんなことにも気づかなかったバカ親が世の中に蔓延してるから、教育改革がいつまで経っても進まないのである。
 文科省もせっかく批判されてるんだから堂々と「積めこみ教育を復活させる」と言い切っちゃえばいいのだ。でもって、勉強に付いてけない「落ちこぼれ」は切り捨てて、どんどん落第、退学させる。世の中は中学浪人、高校浪人やプータロウで溢れかえるだろうが、無視すりゃいい。「自分たちが主張してること」がどんな意味を持っているのか、ちっとは世間のバカ親どもに思い知らせてやればいいのである。いいじゃん子供が遊び呆けたって。
「積めこみ教育」をしようが「ゆとり教育」をしようが、自分のバカガキはバカガキのままで勉強なんかしないって事実を思い知らせてやればよろしい。


 今日明日は仕事休み。またすぐに忙しくなるからちょっとしたひと休憩にしかならないのだが、その間に少しでもホームページを更新させようとするのだけれど、資料をちょいと見返したりするだけで時間が怒涛のごとく過ぎ去って行く。つか資料を本の山の中から探し出し、引っ張り出すだけで時間かかってる気がする。
 本棚に納まりきれない本や荷物はダンボールにぶちこんでいるのだけれど、それを開けたり、その奥にある本を取ろうとしてどけたりしているうちに、いつのまにか部屋の奥地へと入りこんで今度は自分が出られなくなってしまうのである。自分ちで遭難してんじゃねーよって。
 けど、押入れやクローゼットの中をあさっていると、こんなところにこんなモノが、とビックリするモノを見つけてしまう。例えばそれは学生時代に書いた昔の原稿だったりするのだが、まあ、読み返してこんなに恥ずかしいものはない。もっと恥ずかしいのは、文章技術のレベルが当時と今と見比べてみてもあまり向上してないことなのだな。この二十年、何やってたんだ、オレ。

 今、若い人たちがこぞって個人ホームページを開いて、小説だの詩だのを披露している状況は実に楽しい。そういうのを十年後二十年後に本人が見たら、果たしてどんな気持ちになるものだろうかと今からワクワクしてしまうのである。
 劇団の連中も自分でホームページを開いてるやつが結構いるのだが、これがまあ、何つ〜かどいつもこいつも若さ大爆発、オジサンの感覚で理解可能なものが一つとしてないのが素晴らしい。
 らぶきっつぁんこと、桜雅充さんとこのサイトなど、テニプリ小説もさることながら、脳天に鉄槌食らわされたような衝撃を与えてくれたのが「ポエム」のコーナーであった。これはもう、ぜひともみなさんにご紹介せざるをえまいということで、勝手に引用させていただくが、一つめの「ポエム」がいきなりこうである(行間もそのまま)。


> わたしはただ・・・・

> あなたをあいしていただけ・・・・。



> 愛してほしいの。


 注目すべきは、最初の「あい」がひらがなで、次の「愛」が漢字だってとこですね(^o^)。桜雅さんの限りない優しさが前者には込められているし、後者には相手への抑えきれない情熱がほとばしってます。プロの技法ですね。最後が句点で留められてるとこもポイント高いです。
 次はこれ。


> 涙は、あなたの優しさの証

> 笑顔は強さの証


 合い言葉は勇気! いやあ、小田和正か山下達郎が書いた詩かと思っちゃいました(^o^)。これを裏読みなんかしちゃいけません。相手への絶対的な信頼が二人の愛を築き上げるのですよ。


> 疑うよりも

> 信じることのほうが難しい


 人生の真理です。頭脳明晰であるがゆえに相手のウソを見破ってしまう人は等しくこう感じているでしょうね。


> 恋することは

> 自らを成長させる


 どんどん成長してください!


> あなたは

> 誰かを本気で好きになることができますか?


 できなきゃ、人間じゃないですよね!


> 人は時として

> 悪魔にも天使にもなりうる


 いや、あなたは天使だ!
 ……いやもう、読んでてクラクラしました。目くるめく体験って、こういうのを言うんでしょうかね(^.^;)。続きはもっとあるんですが、今日はこのくらいで。もっと読みたい方はウチの劇団のホームページからリンク貼ってますんで、よろしゅうに。
 桜雅さん、次作を期待していますよ♪☆\(^0^\) ♪(/^−^)/☆♪


 今日も飯はうどん……の予定だったが、2人前作って一杯のどんぶりに入れ、しげに渡したら、全部ペロリと平らげた。
 「二人で一杯って言ったろ!? 何で全部食うんだよ!」
 「あ、ごめん、気がつかんやった」
 昼またうどんを作る。やっぱり2人前作って一杯のどんぶりに入れ、しげに渡したら、また全部ペロリと平らげられた。
 「今朝も二人で一杯って言ったろ!? 何で全部食うんだよ!」
 「あ、ごめん、気がつかんやった」
 しげの記憶力がない原因の一つに、「食欲の前には全ての理性がすっ飛ぶ」ということがあるのかもしれない。

2003年03月30日(日) メモ日記��
2001年03月30日(金) シラフでも酔える夜/『怪奇探偵小説傑作選2 横溝正史集/面影双紙』


2004年03月29日(月) また訃報。立て続けだとちょっとツライ。

 六本木ヒルズの回転扉による児童死亡事故を受けて、アクロス福岡でも回転扉を畳んで停止したとか。畳めるものだったのか、あれ。
 誰か死者が出ない限り、何の対策も取らないというのは、一般常識から考えれば無責任極まりないわけだけれども、費用のことを考えれば、「事故が起きない限り何もしない」というのは企業でも官公庁でも変わらないもう一つの「一般常識」であるわけである。ためしにどこぞの会社に「おたくの会社のここのドアの建付けが悪くなってて危険だから新品と取り替えなさい」とクレームつけてごらんなさい。馬鹿正直にそんなことする会社はほぼ皆無でしょう。
 「常識」の怖さというのは、我々の本能を鈍らせるというか、分析と総合の力、もっと簡単に言えば、「考える力」を奪ってしまう点にある。全ての物事についていちいち考えなきゃならんというのも面倒臭くて仕方がないから、我々はそれを放棄し、代わりに「常識」を身に付けることで雑事にアタマを悩ますことから解放されているわけである。だから一概に「常識」の存在を否定するわけにもいかない。けれど、「そんなの常識でしょ!?」と主張する人間に、「どこが?」と問い質すと、たいてい絶句して答えられなくなるのは、それだけモノを考える習慣を人が嫌っていることの何よりの証拠でもある。
 そういう状況に人はみな慣れきっているから、一方の「常識」と、もう一方の「常識」がぶつかり合うということも世間にはよくあることである。そういう場合、片方、あるいは双方に「常識の再構築」が強いられることになるのだけれど、そこでモノワカレになって、結局「考えなしの常識」が放置されたまま、という事態に陥ることもしばしばだ。
 今回の回転扉の事故はまさにそれで、「回転扉は危険じゃない」という「常識」が極めて強固で、ちょっとやそっとの怪我人が出た程度じゃビクともしなかったということだ。これまでにも事故があるたびに、森ビル側には回転扉の問題点の指摘はされていたらしいが、結局撤去はなされなかった。「どうしてなのか?」という疑問は我々の常識であって、彼らの常識ではない。常識に理屈はないのだから、疑問を抱いてもムダである。彼らは「何も考えていなかった」のだから。
 マスコミが今回の事故をあれだけ大々的に報道しなけりゃ、「ヨソはヨソ」で、アクロスだって撤去しようとはしなかっただろう。詳しく報道されちゃいないが、アクロスでも絶対事故は起こってたと思う。悲しいのは、人は、「人死に」が出るくらいのことがないと自分の常識を疑えない、ということだろう。「常識」というか、「自分の作り上げた虚構の物語」にしがみつかないと生きていけない人間のサガの悲しさというやつである。
 ……ま、「人死に」が出たって自分の「常識」の方を優先するやからだって世の中にはいるので、今回の件は「まだマシだった」と言えるのかもしれないけれどね。


 最近、とみに外人さんからのメールが増えて、日に三十通、四十通来ることも珍しくなくなった。半年前は一ヶ月でその程度の量だったから、30倍くらいに増えた計算になる。最初のころはどんな外人さんが来るものやらと面白がってはいたけれども、こう増えるといちいちチェックするわけにもいかない。ウィルス含まれてるやつだってあるだろうと思ってウィルスチェックにかけると、ドンピシャで「感染してる可能性があります」と出る。もう面倒臭くなったので、開きもせずに片っ端から削除してたのだが、つい先日、「迷惑メールフォルダー」というサービスがあることに気がついた。細かい仕組みは分らないけれど、「ユーザーの承諾を得ずに一方的に送信される電子メールであって、その内容が出会い系サイトの広告やアダルトコンテンツサービスの利用料金の架空請求等のように、一般に受領者に不快感ないし、不安感を抱かせることが多いもの(迷惑メール)を、その時点で妥当と判断する基準に基づいて自動的にフィルタリングし、ユーザーへの配送を防止する」んだそうな。早速ためしにやってみると、見事に外人さんからのメールが全てフィルターの中に寄せられてしまった。うーん、やっぱり個人的にお近づきになりたいという外人さんはいなかったのだなあ。もしいたとしても日本語でメールくれるものだろうけどね。
 そういうわけで、もし本気で私に挨拶したい外人さんがいたら、今後はアルファベットじゃなくて、カタカナでメール下さいな。あと、「メールを送ったのに、受信拒否された」という人は、迷惑メールと解釈された可能性がありますから、自分のメールアドレスに問題がなかったかどうか、チェックしてみてください。


 今日は仕事を休んで病院のハシゴ。
 久しぶりにかかりつけの主治医と面談、検査の結果、「糖も蛋白も出てませんね」と言われて誉められる。糖尿になって以来、医者に誉められたのは初めてじゃないか。これで油断しちゃしょうがないんだよなと思いながらも、やはり安堵感で気分は晴れやかになる。
 「やっぱり一番の原因はストレスでしょう。どうも相当ストレスが溜まるご職業のようですから、それを緩和するようにされては」と言われたが、それができりゃ苦労はしない。第一、ストレスの原因は職場ばかりじゃないからなあ。
 こういうことをチラッとでも言うとしげはすぐに「私がいなけりゃいいんでしょ」と拗ねるが、そんなのは当たり前のことである。人は出会わなければ無関係な他人のままなんだから。出会った以上は「どのように関わるか」ということを考えるのが人間なんであって、それをしげがまるで考えてないところがヒトデナシと誹謗される理由なんである。飯食らうだけ食らって、片付けしようって気をまるで起こさない、それどころか一切家事を拒否してるってのはいったいどういう神経をしてるんだか。無いのか神経。
 だから私は「自分がいなけりゃいいなんて絶対に言うな、バカをやめる努力をしろ」と百万回言ってるのだが、しげは翌日にはそれを忘れて百万回バカを繰り返しているのである。これでストレス溜めるなというのは無理なんだって(-_-;)。

 その足で眼科に回る。最近とみに右眼がかすんできているので、視力が落ちて来てるか白内障にでもなりかけてるんじゃないかと心配してたんだけれど、医者の見立ては特に変化はないとのこと。でも以前もこの医者、写真撮影で網膜裂傷が起こりかけてたのを見逃してるから、あまり当てにはならないのである。別の病院に変わった方がいいかなと感じちゃいるんだが、近くで通いやすい眼科がないんだよねえ。


 博多駅に回って、5月に北九州で公演のある『バナナがすきな人』のチケットを買う。今のところ月に一本は舞台を見にいっているが、本当は2、3本は見たいところなのだ。十年前に比べると、福岡で公演される芝居の数も格段に増えているし。ただ映画に比べて5倍は高額だし、当たり外れがデカいのがなかなか本数を増やせない恨みになっているのである。『バナナ』も近藤芳正演出というただ一点でチケット買いしたのだが、果たして吉と出るか凶と出るか。
 しげは今日もダイソーでダン・エイクロイドのシールを貼るプレートを探しているが、手頃なのが見つからない様子。プレート求めて○○里の遍歴、いったいいつまで続くやら。
 帰りに立ち食いうどんでコロッケうどんを食べる。ふと気づいたけれど、二人で立ち食いしたのって初めてじゃないかな。


 また淋しい訃報が連続して二つ。
 漫画家で、もとPプロダクションのプロデューサーうしおそうじ氏が、28日に急性心不全のため死去、享年82。喪主は長男で作曲家の鷺巣詩郎氏。
 漫画家として見開きのモブシーンを細密に描いていたのは手塚治虫と鷺巣富雄(うしお氏の本名。漫画家としてこの名前を使っていたこともある)だけだと指摘していたのはみなもと太郎だったか、本人だったか。
 インタビュー記事や自伝の漫画などを読むと、ラッパ吹きと言うか、相当に自己宣伝色の強い人で、そのあたりが後年の不遇にも繋がっていったのだろうと思われる。未だに『マグマ大使』のギャラを岡田眞澄ほか出演者に払ってないというのはどうもデマではないようだが、悪意からではなく、ラッパ吹いてるうちについ次の仕事の資金に使っちゃったのだろう。仕事にルーズな人ではあったが、その大らかな人柄は結構好かれていたように思う。三船敏郎、円谷英二、手塚治虫らとの交友を限りない憧憬をもって嬉々として語る様子を見ていると、この人は基本的に「モノを作る人」ではなく、どこまでもファンの延長線上でプロデューサーになっただけなのだろうなあと感じられる。その意味でうしお氏に一番近い存在は、エド・ウッドだろう。氏のことを「日本のエド・ウッド」と呼んでも怒る人は、うしお氏のファンにはいないと思う。
 Pプロダクションの製作作品群は、お世辞にも一級とは言いきれない。後年に至るほどその出来はどんどんひどくなっていくが、それでもリアルタイムでその殆どを見ていた。見るものがなくて仕方なくではない。本気で好きで見続けていたのだ(見損なってるのは多分福岡では放映が遅れた『鉄人タイガーセブン』くらいのものだ)。でなきゃ当時のコミックスで『宇宙猿人ゴリ』や『快傑ライオン丸』『風雲ライオン丸』まで集めたりするか(復刻版まで買っちまったよ)。円谷の『ウルトラ』シリーズですら当時はあまり買っていなかったと言うのに。
 特撮やセットがチャチだの、脚本がいい加減だの、パクリが多いだの、テコ入れのたびに設定が変わるだの、欠点をあげつらい、チープと呼ぶのは簡単だが、それはうしお氏にとっては決して手抜きではなかったと思う。ほかに表現のしようもないので言い切ってしまうが、うしお氏ほど、当時「愛」をもって特撮ドラマを送り出していた人はいないのだ。
 『ゴリ』も『ライオン丸』も『電人ザボーガー』ですら、今見返すと、私は涙ぐみそうになる。困難に立ち向かう勇気を、逆境に負けない根性を、悪に打ち勝つ正義を、愛を、うしお氏は語った。若い人にとって、それらのものはただのきれいごとにしか見えないかもしれない。けれど、うしお氏の稀有なところは、それを語る時、決して自分に酔ってはいなかったということだ。
 うしお氏の主人公たちはよく涙を流す。蒲生譲二も獅子丸も大門豊も泣いた。けれど彼らは泣いて終わったわけではない。彼らは決して涙に流されることはなかった。感情を越えた強い意志がそこに流れていたからこそ、涙の先に道があることが訴えられていたからこそ、我々はうしお氏の作品群に魅せられていたのではないか。
 うしお氏のそういった思想の背景には、やはり一兵卒として敗戦を迎えた戦争体験が大きく影響しているように思う。こういう形で語り継がれる「戦争」もあるのだ。説教するばかりが能ではないことを知るためにも、今一度、うしお氏の作品が復活してもいいと思うのだが、往年の特撮・アニメのリメイクが流行る今日、『マグマ大使』以外のリメイクがないというのは淋しいことである。


 イギリスの俳優、ピーター・ユスティノフが28日、スイスで死去。こちらも享年82。
 役者としてのピークはアカデミー助演賞を受賞した『スパルタカス』(1960)、『トプカピ』(1964)のころだったのだろうが、我々の世代だと、アルバート・フィニーの跡を継いで、『ナイル殺人事件』(1978)以降、映画で三本、テレビスペシャルで三本、計6本で私立探偵エルキュール・ポアロを演じていたのが印象深い(ロイター通信、「『名探偵ポワロ』シリーズでエルキュール・ポワロ役を演じた」って紹介してるけど、これ翻訳ミスだろうな。デヴィッド・スーシェととっちがえているのである)。
 もっとも原作のポアロのイメージ(小男)とは似ても似つかぬ大兵肥満ぶりに、原作ファンは「あんなのポアロじゃない!」と怒っていたのだが。テレビ版『エッジウェア卿殺人事件』(1985)でワトソン役のヘイスティングスを演じたジョナサン・セシルが痩せた小男だったために、ユスティノフの太りぶりは一層強調されていた。
 ユスティノフがポアロに起用されたのは、語学に堪能であった点が買われたのだろう。フランス語訛りの英語を喋るポアロを演じられる役者自体がそもそも少なかったのだと思われる。もともとユスティノフはロシア人を両親に持っているが、ベルギー人といっても通用する風貌だとあちらのプロデューサーたちには考えられたのだろう。日本人である我々には西洋人はみんな一緒に見えるのだけれど。
 しかし、いくら名優とは言え、明らかに体形の違うミスキャストを続けられてもファンは困惑するばかりであった。デヴィッド・スーシェのポアロが登場すると、当然のようにユスティノフにポアロの声はかからなくなった。そうなるとあのイヤミったらしかったユスティノフ・ポアロももう一度見てみたくなる気持ちも湧いてくるのであるから、ファンとはつくづく勝手なものだ。
 名探偵、ということであれば、ユスティノフはもう一本、高名な探偵に扮している。『オリエンタル探偵殺人事件』(1981)でのチャーリー・チャンだ。中国人に扮するのはいくらなんでもムリがあったが、もともとワーナー・オーランドにチャーリー・チャンを演じさせて平然としていたクニだから、「同じ外人ならオッケー」くらいの感覚でいるのだろう。このあたりのどうしようもない出来の映画にもユスティノフは何の衒いもなく出演して、しかも思い切り手抜きの演技をしていたから、果たしてこの人は名優と言っていいのかどうかと首を傾げたくなったものである。
 遺作はマルティン・ルターの伝記映画『Luther』 (2003)。共演者に同じくポアロ役者の一人であるアルフレッド・モリーナがいるのは奇縁であろうか。

2003年03月29日(土) メモ日記��
2001年03月29日(木) 血の収穫/ドラマ『六番目の小夜子』ほか


2004年03月28日(日) 夢の中では生きられない。

 これも書く時間がなくなって省略してたことなんだけれど、昨日、しげと私はちょっとした「実験」をした。
 ともかくしげには記憶力がない。更には目の前にあるものすら見えなくなってしまうこともしょっちゅうだ。日常生活を営む上で、これはかなり困った状況を生んでいるし、私のストレスにもなっているのだが、何しろしげ自身に自覚がないので、改善の余地がないのである。記憶力のない人間に「記憶力がないぞ」と指摘しても、記憶力がないので、そう指摘されたことも忘れてしまうのである。全く、どうどう巡りだ。
 どれくらいしげに記憶力がないか、ものが見えていないかを自覚してもらおうと、こういう実験を思いついたのである。
 まず、本を10冊用意する。その本を、相手の“見ている前で”本棚に戻す。その直後に、相手に本を探させてもう一度取り出させる。これだけだ。本は本棚の裏に隠すようなことはせず、背表紙がちゃんと見えるように置く。
 ウチの中がいくら「本の山」だとは言っても、居間だけなら、それほどたくさん本棚があるわけではない。八段ほどの本棚が壁に五個並んでいるだけである。しかも「ここに置くよ」といちいち示しながら置くのだから、普通の記憶力の持ち主ならば、まず確実に10冊全部を見つけ出すことができるだろう。しげと比較するために最初に私も「実験」してみたが、30秒とかからずに全ての本を取り出すことができた。
 いくらしげの記憶力がないと言っても、こんなバカみたいに簡単な実験なら、全部分かるに違いないとお思いだろうか。私がしげのことを散々貶していたのは文章を面白くするための誇張だろうとお考えだろうか。けれど、私はしげの健忘症についてはこれまで少しも大袈裟なことを書いたことはないのである。
 実験の結果、しげが覚えていたのは、10冊中、わずか4冊だった。私はしげが不利にならないようにと思って、私のときと同じ場所にあえて置いた本もあったのに、それも見つけられなかった。焦ったしげは、当てずっぽうで本棚を探しまくって、なんとか9冊までは「偶然」見つけられたものの、最後の1冊はタイトル自体思い出せなくなって、全く別の本を取り出してしまった。そのときには所用時間も5分近くもかかっていた。
 これで、しげの記憶力が「ちょっと忘れっぽい」程度のものではないことが、一つの数値として証明されたことになる。しげには「人並以下」のレッテルを貼り付けた格好になって、いささか酷ではあったのだが、ともかくこれまでは自分の健忘症がどれくらいひどいものなのか、しげは自覚しようともしなかったし、その場限りの言い訳ばかりしていた。しげが「5秒前に話したことさえ忘れる」のを私は何度も目の当たりにしてきたのだが、その事実を本人に告げても一切信じようとしなかったのだ。
 人は、時として自身の記憶すら操作する。思い出はあるときは美化され、あるときは忘却され、その意味を自分の都合のよいように改変させていく。他者がそのような記憶操作を行うことは客観的に認知できても、自分にもそれが起こっていることはなかなか認めることが困難だし、認めたくもないことである。大なり小なり、人はそういう心の病気を抱えているものだが、程度がひどくなればそれは「妄想」としか呼べないものになる。
 しげはしょっちゅう夢と現実の区別がつかなくなってしまうし、記憶の喪失の度合いは私との生活を脅かすほどに最近とみにひどくなりつつある。しげの妄想に振り回されるのは、私だけではなくなっている。もはや、しげが自分の心の病気から目を逸らすことを、これ以上、許してはおけない状況になっているのだ。
 しげは自分がたった4冊しか本を見つけられなかった事実を、やはり認めたくはないようだった。しかし、事実は事実としてそこに厳然としてある。これはしげが人より劣っているということではない。自分を自分として定着させられない、心の病気なのである。しげ自身が自分の心と対峙する意志を持つようにならなければ、状況の改善はありえない。ここ数ヶ月、病院に通うようになったのも、自分を変えたいと思う意志の表れではあったのだが、この実験に賛同したのも、もし自分が本当に記憶を失いやすいものなら、それがどの程度のものなのか自覚したい、という前向きな姿勢が芽生えて来たのだと言えるだろう。この実験がすぐに「成果」に結びつくかどうかは分からないが、一歩は踏み出したのだと信じたい。


 早朝、4時頃であったか、仕事帰りのしげがいきなり私を叩き起こした。
 「見て見て♪」と喜色満面で差し出したのは、しげの携帯である。「何だいきなり」とまだ視力の戻り切らない眼をこすりこすり見てみると、携帯の表にも裏にも、ブルース・ブラザーズのエルウッド・ブルースこと、ダン・エイクロイドの写真が貼り付けられている。しげがキャナルシティの屋台に注文していたやつだ。
 「あれ? いつ取りに行ったん?」
 「夕べ、仕事行く前。シール貼ってもらうのに1時間くらいかかったんで、仕事に遅刻しそうになって焦ったよ。職場に『もしかしたら1時間くらい遅刻するかもしれません』って連絡も入れて」
 「で、遅刻したの?」
 「ギリギリ間に合った。もしホントに遅刻したら、なんて言い訳しようか悩んだと」
 「お前はあほか。別に昨日やっさ(=無理に)取りに行かんでも、今日でもよかったやろう」
 「だって、あんたから『もう出来てる』って聞いてたから、待ち切れなかったんだもん!」
 そう言ってしげは、別に頼みもしないのに「ホラ、窓にもダン」とか言いながらまた携帯を見せびらかす。屋台のご主人からは「ブルース・ブラザースですね。こんなの世界にただ一つですよ」とか言っておだてられたそうで、すっかり舞い上がっているのである。
 30年くらい前、まだ海外旅行に出かける日本人の数が少なかったころ、クラスに一人くらい「夏休みはパパとハワイに行って来たんだ」なんて言って、鼻を尖んがらせて威張ってたスネオみたいなやつがいたものだったが、今のしげはあれにソックリである。たかが携帯一つでそこまで有頂天になれるのかと思うと、全くみっとも恥ずかしいんだけれども、熱に浮かされてるアホウに何を言ってもムダである。しばらくはしげの周辺で「被害者」が続出すると思うが、犬に噛まれたと思って諦めていただくほかなさそうである。


 昼間はせっせとコンテンツの更新。けれど朝早く叩き起こされたので、急激な睡魔に襲われて、パソコンの前で口開けたまま眠ってしまった。ふと目が覚めるともう夕方。今日は劇団の練習にも顔を出すつもりだったのだが、もう間に合わない。慌てて千代町のパピオまですっ飛んで行ったが、ちょうど其ノ他君、鴉丸嬢、しげが外に出てくるところだった。
 出かける時、あまりに慌てていたので、玄関から飛び出した時、ズボンを履き忘れてトランクス一丁だった、と話すと笑われた。当たり前だが。
 「で、どこまでパンツ一丁だったの?」
 「玄関の外までだよ。エレベーターに乗る前に風で下半身が寒いのに気づいて、引き返したから」
 「じゃあ、風が吹かなかったらそのまま外へ……」
 吹かなくても気づくって。念のために言っておくが、こういうドジはたまにしかないのである。しげじゃないんだから。
 パピヨンプラザのホームセンターで、しげから「キーホルダーにできるプレートを探して」と頼まれる。「普通のキーホルダーじゃいかんの?」と聞いたら、「ダンのシールを貼ると!」と力説される。作ってもらったシールがまだ余っているのだとか。どうやらしげは身の回りの品を全てダン・エイクロイド一色に染めたいらしい。今年は珍しくダン・エイクロイドの出演映画が2本連続して輸入される予定なので、しげのダン熱はますますエスカレートしそうである。残念ながら手頃なプレートは見つからなかった。結構大きめの写真なので、それを貼れるものなんてそうそうないのである。
 結局しげはプレートは諦めて、職場のトイレで使うというブラシだけを買っていたが、なんでそんなものをと聞いてみたところ、店内改装の時に、間違えて掃除道具を全部捨てられてしまっていたのだとか。誰がそんなアホなことしたのかね。でも、てことは今現在、トイレは掃除されないまま放置状態になってると言うことか。ばっちくないのかなと思いはしたが、まあ、一日二日でそうすぐに汚くなるものでもなかろう。でもあまり聞きたくない話ではある。
 其ノ他君たちとはそこで別れて、そのあと「八仙閣」で食事。
 会席料理を頼んだのだが、しげが皿の料理を結構残したので、いつもより多めに食べることになってしまった。でもこれを予想して今朝は食事を抜いておいたので、カロリー的には一日トータルで1200kcalを越すことはないはずである。明日は久しぶりの検査なので、この一ヶ月の成果がどの程度のものか、ちょっとドキドキものである。


 そのあとキャナルシティに回って、しげ、またプレートを探すが、アクセサリーの屋台はやたら出ているのに、やはり手頃な大きさのプレートは売ってない。道すがら、例のダン・エイクロイドシールを作ってもらった屋台に立ち寄って、しげ、そこのご主人と売り子のねーちゃんに、「昨日はありがとうございました」と挨拶をする。「昨日は嬉しくて一睡もできませんでした」とか言ってたが、そこまで嬉しさを強調せんでもよかろうに。相手のねーちゃんも「わざわざご丁寧に」としか言いようがないのである。
 そのあとAMCで映画『ドッグヴィル』を見る。3時間の大作、静かな映画であるにも関わらず、全く時間を感じさせないくらい、ずっとワクワクのし通しだった。コケオドシのCGや空疎なだけのアクションなどなくとも、アイデアに富んだ映画というものは、それだけで人の心をつかんで離さないものなのである。
 しげも満足そうだったので、今日は気分よく帰れるかと思ったら、帰り道でまたしげが無意味な妄想発言を始めたので、一気にぶち壊しになってしまった。「誰とでも寝る女がいて、アンタだけ相手にされなかったら、やっぱりそいつを犯したいって思う?」とか、いったい何が言いたいのか。「別に思わんよ」と言っても、「ウソだウソだ」と言って信じないのである。あまりにしつこいので、「お前は喋るなバカ」と一喝する。自分の亭主をなんでそんなに変態扱いしたいのか、わけがわからないのである。男を見る目が歪んでいるのだろうか。もっとも「歪んでる男」が世間には馬に食わせるほどいるのも事実ではあろうが。

2003年03月28日(金) メモ日記��
2001年03月28日(水) 悪役NO.1/映画『隠密剣士』/『名探偵コナン 科学トリックBOOK』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)