無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月15日(月) 西手新九郎は「心の遊び」に留めておこうね/『アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(安彦良和)

 ここ数日で訃報が伝えられた外国の有名人、ジョン・リッター(俳優。『ノース』など見たことある映画も何本かあるみたいだけど記憶にない)ジョニー・キャッシュ(カントリー歌手。『刑事コロンボ/白鳥の歌』の犯人、トニー・ブラウン役も演じていた)、ジュールズ・エンゲル(アニメ作家。『ローンレンジャー』が代表作)、ジャック・スマイト(映画監督。『動く標的』など)と、イニシャルが全員J。よくある偶然ではあろうが、「次にまたJの人が?」とつい思ってしまうのが心のさもしいことである。
 昔、「アメリカの大統領は、当選年が20年置きの者は事故にあうか暗殺されて任期を全うできない」というジンクス(つか俗説)があって(リンカーンは1860年、ケネディは1960年の当選)、それを初めて聞いた時には、素直に「そういう『呪い』ってあるんだなあ」とか思っていた。恥ずかしいことに、1980年にレーガンが当選した時も、「ああ、この人、途中で事故か暗殺にあっちゃうんだ」、とか半ば信じていたのである。レーガンは暗殺未遂にこそあったが(この犯人もこの俗説を信じてたのではないかな)、無事任期を終了した。そこでようやく「ただの偶然」という言葉が私の脳に浮かんできたのであるが、世間でのこの「運命の偶然」を信じたがる傾向は、「暗殺“未遂”も可」という方向にスライドしてきているようである(~ー~;)。これなら2000年当選のブッシュさんも、任期満了できても、例の9.11を挙げて「暗殺未遂」と強弁できるわけだ。人の命を弄びたがる心理というのは、不謹慎の謗りをかわすかのごとく、こういう「軽い」形で現れるものなのだね。
 こういう「偶然」をいろいろ挙げていったら、「トリビア」がまたひとつできそうではあるな。もっとも限りなく「でっちあげ」に近いトリビアではあるが。


 しげとよしひと嬢、今朝は6時半に朝帰り。打ち上げからそのままカラオケに雪崩れこんで朝まで歌っていたのである。そこまでの体力は私にはもうない。大台とか言ってるが二人とも全然若いよ。
 今日仕事があることを考えれば、打ち上げに行かなかったのは正解だったろう。


 本日は休日出勤、アキレス腱を切った上司も「今日は用事のあった人も多いだろうにねえ」と愚痴をこぼすが、台風のせいでの出勤振替だから仕方がない。
 それより困っちゃうのが、今日がしげの誕生日だということだ。祝日が誕生日というのは、学生のころには友達から忘れられてしまうという弊害があるが、家庭を持てば一緒にゆっくり過ごせるというメリットの方が大きい。入籍を大晦日にしたのも、まさかこんな日にまで出勤を強要する会社もそうはなかろうと考えたのだが、現実は全く違っていたので、全く日本人のワーカホリックもここに極まってるなと感じたものだった。
 よっぽど仕事を休もうかと思ったが、そうもいかない。事情を上司に話すと「家庭の危機ですねえ」と言われた。いやマジでな(-_-;)。しかも仕事が長引いて、早く帰宅できるはずが結局残業。七時過ぎに帰ってみると、しげはよしひと嬢を送って出かけていた。全くのすれ違いの誕生日である。このままだと今年の年末もいったいどうなることやら。


 マンガ、安彦良和・NHK「文明の道」プロジェクト『COMIC Version NHKスペシャル文明の道1 アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(NHK出版・1680円)。
 安彦さんの『ジャンヌ』『イエス』に続く歴史ファンタジーの第3弾。もっとも『ナムジ』や『蚤の王』なんかも含めたらもっと数は増えるから、もうこのシリーズは『ガンダム』で語られることの多い安彦さんの、もう一方のライフワークと言っていいだろう。
 もとになったNHKの番組の方は見てないのだけれど、ドキュメンタリーとは言え、後世の人間の「解釈」が入る以上、歴史は所詮「物語」である。まるのままの虚構だとまで断言する気はないが、こうして「マンガ化」された「歴史」を見ていると、真実とか事実とか人間は本当は必要としていないのだなあ、とつくづく思う。
 以前、故池田満寿夫が「写楽」の正体を歌舞伎役者・中村此蔵だと推理した時に、故吉行淳之介が「真実がどうあろうと、私の『写楽』はこれで決まり」と断言したが、「歴史認識」とかたいそうなことを言う人は多いが、結局はそういうものである。その点、歴史を物語として綴ろうとしている『戦争論』の小林よしのりの基本姿勢には賛成している。ただその内容には賛同していない。そこで語られている「物語」が杜撰で面白くないからだ(『戦争論』は全シリーズ読んだけど、感想を書かないのはそういうワケ)。
 アレクサンドロスと言うかアレキサンダーと言うか歴山と言うかイスカンダル(^o^)については、以前、なんだかなあ、な、角川アニメがありましたが、その伝で行けば実像とどんなに違っていても、安彦さんの描く彼は実に「面白い」。
 たった1巻であるために、最大の敵であるペルシャ王ダレイオス三世との対決のドラマがいささか薄く感じられるキライはあるが、夢多き少年が疑心暗鬼に躍らせられ、かつての忠臣を粛清していく暴君と化していく過程は、安彦さんの「王もまた人間」という視点がハッキリしていて、安彦さんの「歴史家」としての思想基盤もここにあるのだろうと察せられる。
 それを象徴しているのが、やはりその粛清の対象者となった従軍歴史家、カッリステネスであろう。安彦さんはこの人物に随分思い入れがあるようで、そのキャラクターデザインもどこか安彦さんの自画像に似ている。
 哲学者アリストテレスの甥にして、アレクサンドロスにとってのホメロス(もちろん『イリアス』『オデュッセイア』の作者ですね)たらんとするカッリステネスは、堂々と「見てきたようなウソを書く」と断言し、アレクサンドロスを美化した「歴史」を書き、「アレクサンドロスの名声は後世にボクの書いた歴史として伝えられるはずサ」と嘯く。しかしその彼が、途中でアレクサンドロスの歴史を書くことをやめてしまうのだ。 
 物語は常にそれを支えるテーマたる「思想」を必要とする。わかりやすいのは日本軍における「大東亜共栄圏」であろう。あれを単純に「幻想」と呼ぶのは簡単であるが、適切なことではない。そう断定してしまえば、人間の思考は全て「幻想」にすぎないとしか言えなくなる。アレクサンドロスの「東征」には、初め「蛮族ペルシャの侵略を打倒するギリシャの聖なる戦い」という「思想」があった。しかし、エクバタナの地をダレイオスが逃亡し、コリントス同盟が解散されても、アレクサンドロスは執拗なペルシャへの「報復」を続けた。そしてその時点でカッリステネスは「歴史」を書くことを止めたのである。
 ダレイオスをついに倒したアレクサンドロスは、その後継者としての地位を喧伝するためにペルシャ式の礼拝を自分に行うよう、家臣たちに求めた。それを唯一拒絶したのがカッリステネスである。既にそのとき、忠臣たちの粛清は始まっており、自らもまた処刑されることを彼は覚悟していただろう。アレクサンドロスはペルシャ式儀礼を行うことを廃止したが、カッリステネスは「王暗殺計画」の嫌疑をかけられ、逮捕され、行軍の最中に衰弱死する。
 彼は最後に、この物語のもう一人の語り手、後のトラキア王リュシマコスにこう語る。「アレクサンドロス。思っていたよりも不可解な男だったが、所詮人間だ。あれもいずれ死ぬ。だが歴史を作った。それは間違いない。すべて書き残すつもりだったが手に余った。残念だ」。
 このセリフはもちろん、安彦さんの「創作」だろう。そういう思想でカッリステネスがアレクサンドロスの歴史を描いていたとは限らない。しかし、「所詮人間」と言うその脆弱さ、「歴史を作った」「手に余る」ほどの強靭さと壮大さ、その二律背反した性質こそが、人の持つ「謎」の本質であり、だから我々は人と歴史とに「夢」を抱いて行けるのだろう。
 安彦さんの思想自体には充分に「真実」と「普遍性」があると思う。虚構と真実とは決して相反するものではなく、人間の、歴史の、表裏一体となったアニメーションうちわの両面のようなものだ。死者は常に「神」に祭り上げられる。しかしカッリステネスの跡を継いでアレクサンドロスの偉業を語り継ぐリュシマコスもまた断言するのだ。
 「あの人は決して神ではなかった。人間だ! たとえ半分といえども神なんかではなかった! 欠点の多い、大酒呑みの、自惚れやで傷つきやすい、愛情が豊かで酷薄な、誇り高い、そして誰よりも勇敢な、マケドニア生まれのよい青年だった!」
 このセリフもまた安彦さんの創作だろう。しかし、これが虚構であるか真実であるかはどうでもいいのだ。安彦さんがどういうアレクサンドロスを語りたいのか、そしてそれを我々読者がどう受け取るのか。歴史ものを読むポイントは、実はそこにしかない。

 伝えられるアレクサンドロスの臨終の言葉は、側近の「後継者は?」の問に答えた「クラティロス(最も強き者を)」である。この言葉が原因となり、ほぼ半世紀に渡る「ディアドコイ(後継者)戦争」が起こることになる。
 安彦さんの描くアレクサンドロスは、「夢が全てだった」と呟いて死ぬ。
 前者が真実で、後者がウソなのではない。どちらも「物語」なのだ。どちらの物語の方を我々がより面白いと感じるのか、「こんなのアレクサンドロスじゃない!」と憤る読者もいるだろうが、「物語」は常に虚実皮膜の境にあるという近松門左衛門の言葉を噛みしめてもらいたいと思う。

 そういやこのマンガ、あの「ゴルディアスの結び目」のエピソードも描いてないな(^o^)。

2001年09月15日(土) オタクなばーすでぃ/映画?『スペースカッタ2001』in「山口きらら博」ほか
2000年09月15日(金) ネパールとサウスパークとおだてブタと/『ブタもおだてりゃ木にのぼる』(笹川ひろし)ほか


2003年09月14日(日) タイトルを付ける元気もね〜や(;´_`;)。

 樋口真嗣監督の次回作が『終戦のローレライ』になるそうな。「モー娘。映画」で実写監督の実績があるとは言え、随分と大作を依頼されたなあという印象で、喜ばしいことである。
 もっとも原作の福井晴敏作品は未読で、どんな内容だかはよく知らないんだが。『亡国のイージス』も途中まで読んで放り出してるからなあ。さっさと日記の更新片付けて、溜まってる本や映画を見なきゃな。
 『ローレライ』の単行本の装丁をやってるのも実は樋口さんなのだが、デザインに凝り過ぎて大きなポカをやっちゃってるのが気になっている。背表紙のタイトル、普通は上の位置にあるのを奇を衒ってか一番下に三行分けにして書いてるんだけど、これ、図書館なんかだとラベルに隠れて見えなくなるんだよね。ラベルを貼る位置は規則で定められてるから、ズラして貼る訳にはいかない。
 まあ、自分が装丁した本が図書館に並ぶ可能性、ケロッと忘れてたんだろうなあ。こういうことしたの、樋口さんが初めてじゃなかったと思うから、出版社の編集者とかおエライさんとか先例を覚えてたら注意してあげときゃよかったのに。図書館によっては、「タイトルが分らないから」その上に「手書きで」タイトル書いたりすることがあるんだぞ。
 ちなみに私は古本屋で『世界ミステリ全集』及び『世界SF全集』を手に入れているのだが、これの背表紙には全部ワープロでタイトルと作家名のシールが“歪んで”貼られている。嗚呼(T∇T)。


 午前中は炎天下でお仕事、そのあとバスと地下鉄を乗り継いで天神のアクロスへ。一応名前だけ代表の自分の劇団の撮影班に駆り出されてるのである。

 演劇集団 P.P.Produceの公演もこれで五回目になるが(番外公演を入れれば六回目)、シロウトながら少しは進歩してるかというと、まあ、あまり進歩はしてないのである。
 劇団のみんな、回数を重ねるのは構いはしないんだけど、いったい何をやりたいんだかが全然見えてこない。いやね、実際、何だって構わないのよ。単純に「いろんな役柄になれるのが嬉しい」とか、「お客さんを笑わせたい」「泣かせたい」とかでもいいし、「スポットライト浴びたいの!」ってだけでもいい。私の好みではないが、ガッチガチの思想劇やって、メッセージを発したいってんでも構わないのだ。「オレたちが芝居やってるのはこのためだ!」ってのがなきゃあなあ。
 それがまあ、毎回面白いくらいに誰かが阿呆なトラブルを起こしてくれるんだよなあ。具体的なことは書けないけど、「何のためにここにいるんだ、芝居作る気ないなら出てけ」と怒鳴りたくなるような、こっちの胃がキリキリ痛むようなマネばかりさらしてくれるもんで、いい加減、こりゃこのまま付き合ってても自分のカラダが持ちゃしねえと思い切って、何回か前から、「やる気のないやつと組んだって仕方ねえ、もうオレは脚本でしか参加はしねえぞ」と宣言してケツをまくったのだ。
 いや、今回は「脚本も自分たちで作れよ」と、最初はそう言ったのである。ところが脚本書こうってやつが全然出て来ない。結局、依頼がこちらに来る。しかもやっぱり何がやりたいか、各人の意見がまとまらないまま、ネタだけがバラバラで提供された。しょうがないから、そのネタを全てぶちこんで、初稿だけは書いた。
 各メンバーの考えたネタを思い付くままに適当に繋げただけのシロモノで、まあ、そのまま舞台にかけられるものでは全然ない。無駄なセリフは多いわ、口調が変わっちまってる部分はあるわ、誰が誰のセリフなんだか、混乱して間違えている部分まである。何より話そのものに整合性がなく、ドラマツルギーを無視している。いつもはそこから推敲して、完成稿に仕上げていくのだが、今回は「あとは自分たちでなんとかせえ」と投げ渡した。少しは自分たちでアタマ使わないと、このままだとトンデモナイものになるぞ、ちゃんと使える脚本に仕立てなおせよと伝えて、手に余るようなら脚本差し戻せ、推敲するからとも言っておいた。
 私はそこで「期待」はしていたのだ。ここまで適当なモノを出しておけば、少しはみんなでアタマを捻ってなんとかするだろうと。
 一応、一度だけ手なおしは頼まれた。「意味がよく分らないから説明を加えてほしい」と。芝居は説明じゃない。それを加えたら更に台本が壊れるとは思ったが、それが総意ならば仕方がない。話をムリヤリ繋げてみれば、いくらなんでもかえってそれがジャマになることにみんな気が付くだろうと思ったのだ。ともかく「頼まれたこと以上の口出しはしない」と決めていたので、あとはみんなを信頼したのだ。
 ……まさか、まんまやるたあ思わなかった。
 なぜあのまま小屋にかけられると思ったのだ。舞台を撮影しながら、私は背中に5トンの重りが乗っかってるような気になってきた。
 脚本の解釈を間違えてるところがやたらあるのは仕方がない。脚本自体に乱れがあるのだから、まんまやれば解釈に乱れが出るのは当然だ。だけど、なぜキャラクターが「みな同じ」なのだ。なぜみんな同じセリフを喋り、同じ演技をするのだ。芝居をすることを「放棄」しなければそれはできないことだぞ。
 「期待」をしたことが間違っていたのだ。追いつめられれば、いくらなんでもみんな「出来る」と思っていたのはとんだ見込み違いだったのだ。
 今日聞いたが、頼まれた台本の手なおしも、みんなの「総意」などではなかったのである。誰かの言った意見を何の検証もせず、私にそのまま伝えただけだったのだ。その時点での演出は(今回のトラブルの最大のモノは、演出が3回変わったことだろう)、「何も考えていなかった」のである。
 お客さんのアンケートをあとで見たけど、あれでも誉めてくださった方のほうが多いのは不思議なくらいである。同情票なのだろうか。しかしあそこまでひどいものをお客さんに見せてしまった以上、いくら形だけの代表とは言え、責任を感じないではいられない。私の名前が「脚本」としてクレジットされている以上、出来あがったものに対するそれは、どうあろうと引き受けざるをえない。
 正直な話、私はもう彼らとの演劇作りに関わりたくはない。役者がどんなにヘタだって、私は怒りはしないのだ。私が大嫌いなのは、芝居を好きでもないくせに好きなフリをしている連中である。
 なあ、芝居で表現したいものなんて、ホントはないんだろう? 「自分」があるフリをしているだけだろう? もしあるというならそれを表現してみろよ。少なくとも私にはみんなが全く同じ顔にしか見えなかったぞ。

 もう一度だけ、連中につきあってみようと思う。ただし、彼らに「期待」しているからではない。「見切り」を付けてもなお、「演劇」というものが成立するものなのかどうか、試してみるためだ。少なくとも彼らは「やる気はある」と口では言っているのだ。だとしたら、私がどんな罵詈雑言を浴びせようと、「逃げ」はしないはずである。

 本日の公演情報を以下に記しておく。

 『rainbow flyer』
  日時・2003年 9月14日(日)
   開場 13:30  開演 14:00
   開場 17:30  開演 18:00
  場所・アクロス福岡円形ホール
  料金・入場無料(完全カンパ制)

  キャスト
   荒巻和子………勘 よしひと
   門倉美佐子……桜 穂稀
   森奈奈絵………嶋田 悠
   祖父江達朗……ラクーンドッグ(エコロジーな缶詰ワールド)

  スタッフ   
   脚 本…………藤原敬之
   演 出…………円谷きざし・鈴邑郁人・鴉丸 誠
   舞台監督………鴉丸 誠
   照 明…………其ノ他大勢・加藤八十六
   音 響…………其ノ他大勢・桜雅 充
   道 具…………鴉丸 誠
   衣 装…………鴉丸 誠
   メイク…………鴉丸 誠
   制 作…………嶋田 悠
   チラシ…………勘 よしひと
  あと、お手伝い人が3人。一人はラクーンさんの、あと二人は鴉丸嬢のお友達である。


 みんなはそのまま打ち上げ宴会に雪崩れて行ったが、私は明日の仕事があるので一足先に帰宅。就寝。

2001年09月14日(金) カリメンしげ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』1巻(森雅裕・有栖川るい)
2000年09月14日(木) 通院と残暑と誕生日プレゼントと/『世紀末アニメ熱論』(氷川竜介)ほか


2003年09月13日(土) 言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』

 昨12日の朝、東京都江東区の東京港建材埠頭で、ルポライターの柏原蔵書(かしわばらくらがき/本名・染谷悟)さんが遺体となって発見された。本職はフリーカメラマンなのだが、東京・新宿の犯罪や風俗の実態を紹介した『歌舞伎町アンダーグラウンド』という著作もあり、最近は銃社会の取材を始めようともしていたとか。
 犯人が誰なのかはもちろんまだ調査中なのだが、著書の中に「本を書いたことで歌舞伎町を敵に回してしまったかもしれない」と記し、また、出版後は周囲に「命を狙われている」とも話していたというから、ウラのなんたらの報復措置だとも考えられる。
 いつぞやの『悪魔の詩』事件の時にも思ったことだけど、「表現の自由の保証」だのなんだと言いながら、その実、日本人の殆どがそんなものには関心がないんじゃないかと疑りたくなってんだよね、私ゃ。
 だってさあ、みんな普段はこの言葉を金科玉条みたいに口にしてるけどさあ(特に識者とやら)、それがなぜかって言うと、自分の意見を押しつけるための言い訳に使ってるだけなんだよねえ。それが証拠に、日頃この手の発言してるやつに限って、こういう事件が起こって何か言うかっていうと黙りこむんだよ。トバッチリがくるの、イヤなんかね。アンタラがまず真っ先に怒りを表明して然るべきなんでないの? と言いたいよ。
 そういう口の達者なヤツらって、いつも言い訳だけは用意してるんだよ。
 まだ捜査中の段階ではコメントできないとか(いつもは憶測だけでモノ言うことも多いくせにな)、今はまだ事情があって語るべき段階にないとか(で、あとで語ったってあまり聞かないなあ)、果ては「言論は無力だ」とか(なら最初から黙ってろ)。
 命が惜しいのは当然だろうから、沈黙するのが悪いとまでは言わない。けど、日頃は好き勝手放言しときながら、何かあったら逃げるってことは、そういう事態に自分が置かれるって可能性、考えてなかったってことだろ? 自分にだけは弾圧も攻撃も来ないと甘く見てたってことだよね? そこは突っ込まれたり批判されたりしても仕方ないんじゃないかね。
 私も見た本や映画の感想、こうして好き勝手書いて公開までしてるもんだから、たまに実作者の方から書いたことについて訂正や批判を求められることもある。そこで事実の誤認があれば訂正してるし、拠って立つ立場が違う場合はそれを説明もする。そういうことはないだろう、なんて高を括ってたりはしてない(よくこんなもんまで読んでるなあ、とは思うが)。たとえば『座頭市』について批判してる部分もあるけど、たけしが乱入してきたら謝る覚悟は持ってるぞ(謝るんじゃん)。
 世の「識者」のみなさん、この事件についてはもっと声を大にして真相究明を求めるキャンペーンくらい張ってもいいんじゃないのかね。なにかモノを言って狙われたら即アウト、なんてふざけた状況、許したいわけじゃないだろうに。それこそ自分たちの「死活問題」なんだから、いつも言ってる「法整備」だの何だの、主張すべきことは一杯あると思うんだけどね。


 朝、早起きしてしまったので、しげを誘ってガストで食事。
 最近ここのディスプレイで「二角どり」というゲームをするのが我々夫婦のマイブームである。1回50円で同じマークの麻雀パイをクリックしてめくって行く遊びなんだが、直接隣り合わせになってるか、空間で繋がってないとめくれないのである。
 朝もはよから画面を指でプイプイ押してる怪しい二人組というのも何なんだが、まあ、人に迷惑かけてるわけじゃなし。
 そのあと、合コンゲームをやって画面の中の女の子をナンパ。百円でやれる程度のゲームだからあっという間にキスまで行ってしまう。でもそれから先がない。ファミレスだからそれが限界だよなあ……ってそもそも恋愛シミュレーションゲームがあるだけでもヘンなんだが。
 

 いよいよ明日が公演本番なので、よしひと嬢、今日から二泊三日のお泊り。
 今度の脚本にはモチーフに黒澤明の『羅生門』を使っているのだが、よしひと嬢、未見とのことなので、本棚を猟ってビデオテープを引っ張り出す(DVDは山のどこかに沈んでて見つからなかった)。

 私も『羅生門』を初めて見たのは比較的遅かった。『七人の侍』も『用心棒』も『天国と地獄』も高校のころまでに見てはいたが、『羅生門』はテレビ放送を見逃すことも多く、初めて見たのは大学の終わりごろか、最初の職場に就職して間もないころだったと思う。それでももう20年近く昔のことだ。
 当時、天神の西通りに「キノ」という小さな名画座があって、そこで『ちゃんばらグラフイティー斬る!』『素浪人罷り通る』『羅生門』の三本立てで見たのが初見である。小さなスクリーンではあったが、スタンダードサイズのこの映画を見るには充分だった。三船敏郎の躍動、京マチ子の妖艶、それにも増して虚偽を語らねば脆弱な自己の心を守れぬ人間の愚かしさがかえって愛おしく思われた。
 それから何度この映画を見たか知れない。そのたびごとに新しい発見があるのだが、今、私の『羅生門』に対する評価は複雑なものになっている。それはやはり芥川龍之介の原作にない、黒澤明オリジナルの第四の結末に起因していることなのだが。
 この映画を広義のミステリーと解釈すれば、この結末に触れることはネタバレに属することなので喋りにくいのだが、少なくともそれまでの三人の語った相矛盾する物語、盗賊多襄丸が、真砂が、金沢武弘の霊が、なぜウソをつかねばならなかったのかをうまく説明している点では実によくできていると思う。
 ただ、「うまく説明ができている」からと言って、本当に彼らがそのような状況に立ち至ったためにウソをついたのだ、ということを証明することはできない。全ての被疑者がウソをついているなどという状況が非現実的である以上、納得のできる説明などは本来ありえないのである(たとえ現実にそのような状況がありえたとしても、信じがたい出来事であることには変わりがない)。
 芥川の原作はまさしく、「ありえない現実」をあえて具現化して見せたことによって、人間存在自体の虚構性を照射している点にその非凡さがあるのであり、これは本来、「寓話」の手法であって、映画に向く題材ではない。真相が分らないからこそ成立する物語に、第四の物語は本来蛇足なのである。
 もう一つ気になるのは、これが裁判劇というスタイルを取っているために、こんなに三人の証言が違っていたら、判決はどうなったのだろうと、そういうことが気になってしまうのである。これが第四の結末が示されていなければ、「これはまあ、寓話だから」ということでそんな瑣末なことは問題にしようとも思わなかったろうが、映画が一人一人の人物をリアルに追いかけてしまっているために、どうしてもそういった現実的な問題にまで注意が喚起されてしまうのである。
 じゃあ、『羅生門』はつまんない映画なのか、ベネチア映画祭グランプリは内実を伴わない形だけの賞に過ぎないのか、というと、そうではないから複雑なのである。

 『姿三四郎』も含めて、「わかりやすいエンタテインメント」も黒澤明は数多く作っているが、その本質的な部分においては、極めて観念的なものを持ってもいる。黒澤さんの場合、その思索部分についてまで「分りやすく」語ろうとするために、ともすれば映画が説教臭くなってしまうし、黒澤さん自身が「善の人」と錯覚されてしまいもする。
 『夢』の「水車のある村」なんか特にそんな感じでしたね。アンタ夢ん中でまで人に説教してんですかと。けれど、そういう「説教」の要素の少ない「日照り雨」や「桃畑」に比べて「水車のある村」がそんなに遜色のある作品かというと、決してそんなことはないのである。
 黒澤さんの説教は優しい。これを辛気臭いとか古臭いとか、煙たがったりするのはただの鈍感であろう。
 『羅生門』の最後、あの捨て子のエピソードで、杣売りの志村喬が口にする「俺のところには子供が六人居る。しかし、六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ」は最後の最後で「ウソ」をついた杣売りが口にするからこそ説得力があるのだ。黒澤明を単純な善悪二元論の人と見るのは見方が甘い。
 そう言えばゆうきまさみの『パトレイバー』のラストでバドを引き取ったブレディ警部もこれと似たようなセリフ言ってましたね。『羅生門』のファンだったって裏設定があるのかな。

 よしひと嬢、『羅生門』を見終わって「おもしろかったです」とは仰っていたが、『用心棒』や『七人の侍』のようなカタルシスはない映画だからなあ。今度は『野良犬』を見せることにしよう。

2001年09月13日(木) コロニー落としの報復は/『ヘブン』『ヘブン2』(遠藤淑子)ほか
2000年09月13日(水) シゲオと誕生プレゼントと009と/『遊びをせんとや生まれけむ』(石ノ森章太郎)



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