心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2006年11月28日(火) 自己主張

自己主張とは、「自分の水差しをワインで一杯に満たす」ことだといいます。

アル中には、あまり良い例えじゃありませんね。水で満たしても、ジュースでもいいと思います。炊飯ジャーをご飯で一杯に満たしてもいいかもしれません(別の意味で問題ある?)。

みんなのグラスに、ワインを注いであげて、挙句に「ああ、私の水差しは空っぽになってしまった」と嘆くのは、自己主張とは対極なんだそうです。

どうしてそうなるのか考えています。
例えば、

見返りを求めないで親切をしていると、自分では思っていても、実は(感謝されるとか一目置かれるとか)見返りを求めている気持ちを抑圧しているだけなのかもしれません。
あるいは、その気持ちに気が付いていても、それを外に表すことができないのかもしれません。
愛していると言いながら、実は相手に見捨てられないことを求めているのかも知れません。

どうすれば、ワインを皆に分けながら、水差しを満たし続けることができるのか。
感謝することは、役に立ちそうな気がします。
自分の気持ちを言葉で表現することも大切だと思います。
人生はギブ・アンド・テイクであることを思い出すのもいいかもしれません。もらっているものの多さは、表に書き出すとわかりますな。

嫌々仕事をやっている人は、仕事をサボる人や仕事をしない人が、たいそう気に食わないのだと言います。自分が嫌々やっていることを、他の人がサボったり、免除されているのは、不公平だというわけです。自分を不幸であると感じていて、なのに他の人が幸福になるのは許せないという状態。
たまたま自分が働いていないと、自分もそのように嫌われていると不安になるでしょうね。

仕事に喜びを感じている人は、その喜びを感じられない人や、感じる機会を与えられない人を、少しかわいそうだと思っても、憎んだりしないと思うのです。だから、働けなくなっても、人にどう思われるかはそれほど気にならないんじゃないかと。

霊的に健康でありたいと思います。
まあ、水差しが空っぽになっちゃったときは、休むしかないんじゃないかと、人生を休み休みやっている僕は思うのであります。


2006年11月26日(日) 過去

5年日記の話は、ミーティングでもたまにしています。

ソブラエティ1年後から、実家の近くの病院で、院内のAAミーティングが始まりました(病院メッセージともちょっと違いました)。
それで僕も、それまで通っていたミーティングを一個減らして、そちらに出席するようになりました。
すると、母が近くまで来ているのなら、帰りに顔を出せと言ってきたのです。

最初は、他のAAメンバーと一緒に行っていたので、本当に必要があって寄る時にしか実家には顔を出しませんでした。でも、そのうち一人で行くようになって、ミーティング後に実家に寄るのが当たり前になり、夕食と風呂にあずかるようになりました。

当時、母は5年日記というのを付けていました。それは各ページに毎日の日付が振ってあって、ページの中が5段に別れていて、毎年同じ日は同じページに書き足していく仕組みです。
僕が飯を食ったり、テレビを見たりしている間、母は日記を付けていることもありました。

すると、母が今日の日記を書いているページには、2年前、3年前に僕がやらかした所業と母の苦悩が書き記されているのであります。それを見て母が、「一昨年の今日、お前はこんなことをやった、あんなことをやった」と言うわけです。
例えば、車庫の柱に車をぶつけて屋根を落としたとか、自転車で酒を買いに行って(川に落ちたのか)ずぶ濡れになって帰ってきたとか。

聞いている方としては、心中穏やかではありません。というか、いたたまれません。
自分でも忘れていた所業が白日の下に晒されるのですから。逃げ出したい気分でした。
僕の態度も穏やかでなかったのか、最初のうちは母も遠慮して言っていましたが、そのうちその遠慮もなくなっていきました。

そしてそれは、5年日記が尽きるまで続きました。

僕らは、AAミーティングで、ステップ4・5、8・9で自分の過去と正直に向き合うべきだとされています。でも僕は、自分の自己洞察ってやつが、どんなに甘っちょろいものかは良く理解しました。自分の過去の記憶は、酷いなら酷いなりに美化されていて、事実とはかなり違うんだってことを。
だから、AAミーティングに家族がやってきて本人の話を聞けば、「おいおい、思い出を良い方に改変すんなよ」って気持ちになるんではないか、そう考えています。

昔のことを言われるたびに、表面に出して(あるいは内心で)感情的になっていた自分ですが、だんだん諦めにも似た気持ちで、他者の視点から見た事実と向き合えるようになりました(ちょっとはね)。
そういうチャンスを与えてくれた、母の5年日記には感謝しています(今ようやく)。

院内ミーティングが病院メッセージに衣替えした後も、あいかわらず通っているのは、母が月に一回は来いと言うのも理由のひとつです。

2冊目の5年日記を書き終えた母は、もう日記を書くことに興味を失ったようで、少し安心しています。


2006年11月23日(木) 好きになれない

人間関係の悩みって、突き詰めると「相手に好意が持てない」ってことに尽きると思います。

好意が持てない理由として、相手の行動を挙げるってことはできます。
でも、それで悩みが消えるかと言えば、消えてくれません。

嫌いな相手とは距離を置くのが正常だと思います。僕は連続飲酒の中で、相手をしてくれる友人をすべて失いましたが、それは彼らが全員マトモな人間だったからでしょう。

けれども、社会の中で生きていれば、嫌いな相手を避けてばかりもいられません。そういう時に、少なくとも「好意を持っているふり」は無理にしないほうがいいと思います。もちろん、敬意を持って相手を尊重することは必要なことですけどね。
自分で自分に強いた好意は、必ず相手にばれてしまうのではないでしょうか。

「これからも一緒にやっていかなければいけない以上、あなたのことを好きになりたいのだが、どうにも好きになれない」

それが偽らざる自分の感情なら、それに正直になるべきだし、それを相手に伝えてもいいと思います。

好きになれないと言われれば傷つきます(少なくとも僕はそうです)。
好きだ、尊敬していると言われるよりは、確実に傷つきます。
でも、無理矢理作った好意は、やはり不自然でばれてしまい、その方が深く人を傷つけると思うのです。

世の中には、どのような痛みにも耐えられない(好きと言われる以外は耐えられない)人がいるのは確かです。でも、それはその人の問題です。

仕事の悩みは、実は人間関係の悩みだったりします。この人間関係から抜け出して、別の場所に行けば、楽になれるかも知れないと思うこともあります。ところが、仕事を変えてみても、どこの職場でも「嫌なヤツ」が必ず一人はいたりします。それは「世の中が腐っている」のではなく、自分の側に問題があるんだと思います。


2006年11月21日(火) かぜで一回休み

かぜで一日休みました。
医者には行きませんでした。いつも行っている内科医では、こちらが依存症で、かつうつ病治療中ということは伝えてあるので、たいした薬は出してもらえません。点滴もなるべくしない主義らしいので、診察を受けても「風邪であること」を確認しに行くぐらいの意味しかありません。

風邪を引くと、誰でも多少うつ傾向になるらしく、抗うつ剤とか効き目の弱い精神安定剤を一緒に処方してくれる医者もあります(あと胃薬とか)。でも、そういう変動要因を加えると、かぜが治った後に、今度は気分の変調に悩まされることになります。飲まなければいいんですが、薬代の無駄ですし、新しい医者にかかるたびに依存症やうつの説明をするのも面倒です。

関係ない話ですが、最近書店に行っていません。
まず第一に、本を読んでいる時間が取れません(貧しい生活だ)。
次に、それでも欲しい本があれば amazon.co.jp で買ってしまいます。

たまにリアルな書店に行っても、うろうろした挙句、何も買わずに出てくるのがオチです。それに、長居をするとトイレに行きたくなります。これは「青木まりこ現象」と呼ばれるもので、本屋に行くと不思議とトイレに行きたくなります(大きいほう)。
この生理現象の原因には諸説があります。が、僕の説はこうです。

だいたい本屋に行くような人間は、肉体労働に従事していることが少ないです。どちらかというと、一日中机に座りっぱなしで、運動不足になっていることが多いでしょう。すると便秘がちになります。毎朝ちゃんとお通じがあるんだったら、本屋でしたくなるほうがおかしいです。
普段運動不足の人間が、本屋で立ちっぱなしという(運動というにはちょっと情けない)運動をすると、腸の働きが活発になるのでありましょう。そしてトイレに行きたくなる・・・。

違うかなぁ。


2006年11月19日(日) 大事なこと

大事なことは、自分の考えを使わないってことなんですよ。

いままで、自分の頭で考えて、自分で判断して生きてきたんでしょ。
それで結果はどうなったの? 精神病院に入院でしょ。
精神病院に入院したくてしたのかな? 違うよね。初めてじゃないんだから、あそこが楽しい場所じゃないってことぐらい知っているはずだよ。
仕事だって、お金や家族のことだって、トラブル起こしたくて、起こしているわけじゃないでしょう。

肝に銘じて、今度こそまじめに生きていくって・・・そう言ったって、じゃあいままで不真面目に生きてきたの?
不幸せになろうとして生きてきたの?
真面目に、幸せになろうと生きてきたんじゃないの?
でも、幸せになれなかったんじゃないのさ。
今度こそって、今度と前までと、どこが違うのさ。相変わらず、自分の考えに頼って生きていけば、結果は今度だって同じだよ。

毎晩ミーティングに通っても、なんの役に立つんだろうって思うんだろう?
それが「自分の考え」を使っているって言うんだよ。
だって、自分が納得できることはやるけど、納得できないことはしたくないんでしょ。
でもなあ、あなたの「自分の考え」ってのは狂ってるんだよ。だから今こうなってるんじゃん。その「狂った考え」に納得できるように説明してあげるのは無理なの。

自分で何かを決める前に、誰にでも相談すりゃいいの。
家族がいれば、家族に聞きゃいい。AAにきたら、仲間に聞けばいい。職場だったら、だれでもとっ捕まえて相談すりゃいい。誰にも聞かなくて、自分の考えだけで決めてさ、それで結果が悪くても、反省なんてしないだろ。どうせどこかの誰かが悪いって、人のせいにした挙句、「俺は傷ついた」なんて言ってるに決まってるんだよ。

ともかく今は納得できなくても、言われたことをやるんだよ。続けていれば、「良い考え」と「自分の考え」の区別が付くようにだんだんなってくるからさ。ミーティングに出るんだよ。


2006年11月18日(土) オフ会

今ごろ、二郎さんの掲示板のオフ会が盛り上がっているところでしょうか。
実は行こうか行くまいか悩んでいて、いざ高速バスの予約をしようとしたときには、帰りの便が全滅で諦めたのでした。
それよりも、10月末までという期限で引き受けた仕事(?)を、まだ引っ張っていて、それが昨日までに終わる見通しがなかったからです。そしてもちろん、今日も作業中です。

オフ会というと思い出すのが、インターネット以前の掲示板のオフ会です。
NIFTYとかPC-VANのような大手ではなく、個人が自宅でやっているBBSホスト局がたくさんありました。オープンに参加者を募集しているところもあれば、一見さんお断りでスポンサー(紹介者)が要るところもありました。

実名で参加する人もいましたけれど、ニックネームを使う人がほとんどでした。その名前のことは、CB(市民無線)用語の転用で「ハンドル・ネーム」といいました。
そういった掲示板のオフ会にはたまに行きました。
例えば、あるホスト局のオフ会は、毎週決まった曜日に秋葉原の飲食店で行われていました。僕もときどき参加していましたが、いつも酔っぱらって身なりの汚い僕の評判は、芳しいものではありませんでした。

オフ会で恥ずかしかったのは、ハンドルネームで呼び合うことです。いい大人がオタッキーな単語で呼び合う世界。他の客もいる場所なのに。
ある焼き肉屋でオフ会をやった時には、遅刻者から連絡が入り、店内放送で幹事が呼び出されました。「ひろひろネットワークのフレイヤ様。アムロ様よりお電話が入っております・・・」(すべて仮名)。どんなヤツが立っていくのか、店内注目でありました。

まあ何にでも慣れますけど。同様のことは伝言ダイヤルやパーティラインのオフ会でもあったと聞いています。コンピューターネットワークや携帯電話の発展もあって、変な名前で呼び合っているコミュニティも、珍しくはなくなりましたが。

「心の家路」はオフ会やらないのか? と聞かれることもありますが。「やらない」と答えています。みんな自分にあった自助グループに行って、そこの人と会えばいいと思っています。オンラインの仲間同士、顔を直接合わせなくても、霊的な交わりの中で一緒にいられると言って、ごまかしています。
それでも、AAイベントでお会いした時には、お話をしたりしています。

実は「掲示板の○○さん」は「AAメンバーの○○さん」、という対応付けを人にバラしてしまうと、せっかくその人が掲示板で別の名前を使っている意味がなくなったりします。本音を語るためには、別の名前が必要な時もあるでしょう。

実名を名乗らなくても、それが誰かを識別する(ハンドル)名前、それがハンドル・ネームです。


2006年11月17日(金) 献金

先週車をぶつけてしまいました。
スーパーマーケットの駐車場で、バックさせている時に、下げすぎて後ろの車にボコリとぶつけてしまいました。相手の車には、買い物中の奥さんを待っていたとおぼしき男性が乗っていて、さっそくバンパーの傷の確認などをしました。
ともかくこちらとしては謝るほかありません。なにせ、相手には何の非もないのですから。再塗装の請求書をこちらに送ってもらうことにして、連絡先を交換して別れました。
相手のバンパーはすでに傷だらけで、そこに新しい傷が加わっても大したことはなさそうだったのですが、そこでごちゃごちゃ言っても始まりません。
数日後、ディーラーから3万5千円+消費税という連絡がありました。
大きな事故は別にして、自動車に乗っている限りは、細かな事故は避けられないものだとしか言いようがありません。こういう話をすると、「私はぶつけたことがない」と言う人が出てきますが、そう言う人に限って、何かの力に守られていることに、感謝しようという気持ちを感じられないのは、気のせいでしょうか。

毎日AAミーティングに出ている人は、毎日100円の献金という人が多いと聞いています。もちろん、献金は義務ではありませんし、どれぐらいすればいいと言う目安があるわけでもありません。けれど、毎日出席派の人は100円という人が多いような気がします。一日100円でも、一ヶ月で3千円。十分立派な額だと思いますね。もちろん、少ない人もいれば、もっとたくさんしている人もいて、それは自由なことです。

僕は週に二回なので、500円玉にしています。ミーティングに行く前には、なるべく500円玉が財布に残るように努めていますが、ない時は100円玉三つで(自分に)勘弁してもらっています。もちろん、忘れてしないときもあります。

献金て何なのか? と問われれば、それは「感謝」でしょう。
感謝とは気持ちでするものではなく、行動でするものだと思うのであります。
「金銭と霊性(スピリチャリティ)が結びつくところが、この世の中にひとつだけある。それが献金箱の中だ」と本にもありました。
献金箱にお金を入れるのは、そのお金で自分に何か買ってあげるのを諦めることです。それから、誰か他の人が責任を負えばいいことではなく、それが自分の責任だということでもあります。

そうやって何かを手放し、何かをもらっていると、いざお金が必要になった時(たとえば車の修理費が必要になったとき)そのお金は不思議と都合が付くのであります。まあ、裕福にはならんですが。
ところが、献金を節約していると、金回りも心も苦しくなってきます。
どういう理屈かはしりませんが、それが僕の経験です。
結局自分の利益のために献金しているのであります。


2006年11月15日(水) テーマ

AAミーティングにはテーマがあります。
もっとも最近の僕はあまりテーマ・ミーティングには出ていません。ホームグループの週二回のミーティングは、片方はビッグブックを読んでの分かち合い。もうひとつは12ステップです。
たまに行く会場では、『今日を新たに』の今日の日付のところが対象のところもあります。あと、『スツールと酒ビン』をやっているところもありました。

でも、読むのは薄いミーティングハンドブックだけで、後は司会者(進行役)が決めたテーマで分かち合いをする「テーマ・ミーティング」に出ることもあります。僕がつながった頃のグループでは、そのテーマミーティングがとても多かったです。

どんなテーマを選んでも、それは司会者の自由(というか司会者の権限)ではあるのですが、AAらしいテーマを選ぶかどうかは、その人の力量(という言葉がふさわしいかはともかく)もあると思います。たとえば、提案されているテーマの中には「無条件降伏」というものがありますが、わざわざこのテーマを選ぶには、ステップ1・2・3が強く意識されていないとできないような気がします。
なにしろ、たいていの会場では、司会進行役は、最初に経験を話す役割でもあり、最初にテーマに沿って話をするのは、結構難しいものであります。

もちろん、個人的悩みを抱えた司会者が、その悩みについて皆の考えや経験を聞きたいと思い、「家族」とか「お金」とかいうテーマにした結果、素晴らしい分かち合いになる場合もあります。テーマを決めた司会者が、テーマとぜんぜん関係ない話をするのもOKだと思います。それは他の参加者も同じことです。

AAらしいテーマにはステップの精神が反映されていて、わざわざそれを選ぶためにはステップ3の「やる気」が求められると考えています。

スポンサーからは、「テーマに沿わない話をするのまったくの自由だが、テーマに沿った話ができないのも(依存症という)病気である」と言われました。

そうは言っても、昨夜はビッグブックの巻末付録の「AAに連絡を取るには」を読んでの分かち合いでありました。それに絡めて何を話せばいいというのか? しかも司会の次に順番が回ってくるし。まあ、テーマが自分の能力を超えていることを素直に認めればいいだけの話かもしれません。

提案されているミーティングテーマ
Suggested Topics For Discussion Meetings
魚拓
日本語訳は、『ようこそAAへ』という100円のパンフレットの巻末にあります。


2006年11月14日(火) スルー力

どうも調子が悪いです。
とりたてて熱があるとか、痛みがあるとかじゃありませんが。

あれもやらねば、これもやらねば、と思いながら、一つ一つのことにとても手間がかかり、時間だけがどんどん過ぎていきます。するとやはり「焦り」が顔を出し、こんなことではダメなのではないかという「不安」が頭をもたげてきます。

要するに「うつ」なので、休むのが一番なんですが、休むという決断ができないままに、ずるずる毎日過ぎていってしまいます。

何をやっても面白くなく、雑記も書きかけてみるのですが、途中でとてもつまんなく思えてしまいます。こんなつまらん文章を書き上げたところで、何の意味もないとばかりに捨ててしまいます。もともと、書いても捨てる文章も多いんですが。

さて「スルー力」。「するうか」ではなく「するうりょく」です。
一部では「するうちから」と読ませている人もいるみたいですが。

スルーする力です。え? through は動詞じゃないですか? まあ日本語ですから。
サッカーでスルーパスってのがありますね。パスしてよこされたボールにタッチせずに、自分の後ろの選手にそのまま渡す行為です(合ってる?)。
だからスルー力は、「物事を自分の中に引っ掛けずに、そのまま通過させる能力」とでも言いましょうか。無視する能力と言ってしまうと、拒絶する意味合いが強すぎる気がします。

物事に積極的にかかわっていくべきだという考えの人には、スルー力という言葉は似合わないかもしれません。自嘲気味に捕らえる点では、以前流行った「老人力」に似ているでしょうか。

ネットニュースとか、メーリングリストとか、掲示板とか、ブログでもそうですが、ネットのオンラインコミュニティに長くいるためには、この「スルー力」を培う必要があると思います。

自分と反対の意見とか、単に気に食わないだけとか、ともかく何か引っかかりのある投稿に対して、反応せずに自分の中を通過させて外に出してしまう能力は必要なんです。
ひとこと言い返してやりたい気持ちが出ることもありますし、無知や無理解に釘を刺してやりたい気持ちになることもあります。
でも、そのために自分の時間を費やして反論を書くのは、かなりエネルギーの無駄かもしれません。なにせ、時間は有限であって「自分の意思」ばかり実行していると足りなくなってしまいます。

それよりも、自分が表現したいことに集中したほうが、意味があります(たぶん)。それがたまたま相手の投稿によって喚起されたなら、手伝ってもらえたということでしょう。

そうは言っても、無駄に関与してしまうことは止められません。だからこそ「スルー力」なんて言葉を使ってるんでしょう。

調子が悪いときこそ、スルー力を大切にしていきたいところです。
試験とかAAミーティングにスルー力を発揮してしまうこともありますが。


2006年11月12日(日) ニュースなるもの

飲酒運転事故の犠牲者は、毎年一定の数、出続けているものだと思います。
しかし、一時期は飲酒運転による事故の報道が増えていました。
また、自殺者の数は、交通事故の死者の何倍もあり、未成年の死も決して少ないものではありません。が、昨今はそれがニュースとしてたびたび報じられています。

報道メディアが関心を持てば、そのジャンルの記事が集中的に報じられるわけです。というか、メディアが関心を持とうが持つまいが、事象は変わらずに発生し続けているのが本当です。

ではなぜ、とっかえ引き換え、いろんなニュースが「流行」となって報じられるのでしょうか。

それはやっぱり同じようなニュースばっかり見ていると、飽きてくるからでしょう。人間、同じ刺激を受け続けていると、感じる閾値が高くなっていきます。要するに鈍感になるわけです。同じ料理を毎食食べていると飽きてくるのと同じです。

飽きてきた頃を見計らって、別の料理を出すと、美味しいといって食べてもらえるわけです。というわけで、ニュースもメニューを入れ替えていかねばなりません。

ニュースも商品であって、ニュースを配る団体も会社という営利組織であります。営利組織であるからには、利益を上げて会社を維持し、社員に給料を払っていかねばなりません。そのことを忘れてはいけないと思うのです。なまじ商業主義の面をしていないだけに、ついうっかり「社会の公器」という神話を信じてしまいかねません。

NHKは営利組織ではないものの、事情は似たようなものでしょう。つまらない人気のない番組ばかり流していれば、そんな放送は止めてしまえという声が必ず上がってきます。NHKは放送文化維持のために止めるわけにはいかないと言います。それもウソではないのでしょうが、止めたくない別の事情もあるでしょう。
放送を止めてしまえば、それに携わっていた人間は不要になり、ほかに使いまわしがきかなければ解雇するしかありません。でも人員整理は営利組織でないぶん難しかったりして。

日本国民の90%が自衛隊の存在に賛成になったら、朝日新聞は明日にでも自衛隊賛成の記事を載せるだろう、と言った批評家がいました。同じように90%が反対になったら、産経新聞は自衛隊反対に回るでしょう。

ニュースメディアの第一の目的は自己保全であり、流行はニュースの消費者が作っているのであります。


2006年11月11日(土) 自分のハイヤー・パワー

「自分の」ハイヤー・パワーを見つけることが、どれほど大切なことであるかは、あまり伝わっていない気がします。

たまにミーティングで聞く話に、「今の自分は苦しい。でもアルコール依存症でない普通の人も、アルコール無しでこの苦しみに耐えているわけだから、自分だって耐えられるはずだし、耐えなければならない」というのがあります。

それを聞くと、本当にそうなんだろうかという疑問が、僕の心の中に浮かびます。
「みんなが、自分と同じように苦しい」という認識は、はたして正しいのかどうか。

僕は酒を飲んでいるころ、世の中のほとんどの人は(男性の多くと、女性の一部は)、毎日酒を飲むものだと自分に信じ込ませていました。自分もその中の一人であって、何も特別ではないし、異常でもないと、自分を納得させていたのです。
そうした自己欺瞞は、今や完全に崩れ去って、毎日酒を飲む人自体がそもそも少ないのであるという事実を受け入れています。
飲酒運転をするような連中は、どうせ毎日酒を飲んでいるんだろう、と決めつけたいところですが、それは自分の価値基準で判断しているだけの話。現実はたぶん違うのでしょう。

「みんなが、自分と同じように苦しい」という判断は、自分と同じような暮らしをしている人は、今の自分と同じ苦しみを感じているはずだ、という自分の判断によるものです。
同じ状況でも、もっと楽に暮らしている人も多いという事実に目を向けるのは、かえってその人を苦しめるだけなのかも知れません。

自分のハイヤー・パワーを見つけ、そのハイヤー・パワーとの間のパイプを掃除することで、とても生きるのが楽になったんですよ、という話を聞いても、「みんな苦しいはず」と信じている人は、楽になった話は単なる強がりであり、自分がそういう強がりを言うようにはなりたくない、と思って、また元の苦しい生活へ戻っていくのでしょう。
何よりも、僕自身がそうでありました。

酒が底つきを体験するまで止まらなかったように、生き方も底をつかないと楽な方へは変わらないんじゃないか、そんな気もします。でも、そうとは限りませんね。

とりあえず、「みんなが苦しいはず」という思いこみを捨て、状況が変わらなくても、自分にだってもっと楽な暮らしができると自分に言い聞かせるところから始めないと。


2006年11月08日(水) 冷たい風呂

めっきり寒くなりました。氷も張りました。
急に寒くなったせいでしょうか、不眠傾向になり、朝までにしばしば目が覚めたりします。
季節の変化に心身がついていけない、というか何事にも変化に弱い自分であります。

AAミーティングに出席してから、はたまた残業してから帰宅すると、たいてい冷たい風呂に入ることになります。家族が風呂に入るのは7時ごろ、僕の帰宅は10時ごろになるからです。すでに妻は寝ていて、子供たちが歯を磨いていたり寝る準備をしているパターンが多いです。

3時間以上前に入れた風呂は、35℃かそれ以下まで冷えています。熱いお湯を足せばと思っても、ボイラーから出るお湯の温度はそれほど高くありません。35℃の風呂水に、50℃のお湯を、重量比で1/4量足したら、いったい何度になるでしょうか?(この場合、外部への熱の漏洩は考慮しない)。
暖かくて気持ちよい風呂と言うには、最低42℃ぐらいは欲しいものです。

風呂水を全部抜いて入れなおそうとすると、背後から寝ていたはずの「もったいないお化け」が出てきて、残り湯を使って洗濯を始めるので、30分ぐらい待たされます。我が家は水道管の末端に近いので、送圧が下がって水の出が悪く、風呂水がたまるまでさらに20分あまり待たねばなりません。

それも面倒なので、冷たい風呂に我慢して入り、熱いシャワーでも浴びてよしとするしかありません。寒さがきつくなってきた昨今、風呂のぬるさも増しております。
それでも毎日体は洗いたいのです。病院は毎日風呂に入れないから嫌いです。

月曜はバースディミーティングで、火曜はスポンシーの関係で、どちらもルーチン以外のミーティングに参加しました。どちらも20人ぐらいの参加者がいました。それでも、話は全員に回ります。人数の少ないミーティングで育って(?)、大人数に慣れていないので、一人2分半で何をしゃべっていいのかわかりません。短い時間でステップの話をするのは、まったく不得手です。
この先も、この人数で推移するなら、時間を延ばしたり、会場を増やしたりするべきでしょうが、人数には波があることも学習しています。

それでも長い目で見れば、確実に人数は増えているのは確かです。


2006年11月07日(火) ナチュラルワイン

ミーティングハンドブックを使っている人は、第3章に「ナチュラルワインしか飲まない」という言葉があるのを憶えているでしょう。
前の翻訳では「生ぶどう酒」でした。

ナチュラルワインて何だろう、と思って調べてみました。
natural wine は、自然発酵の酒精強化していないぶどう酒であります。おフランスでは vin nature。
vin doux naturel (甘口天然ワイン)というものがあり、これは「天然」とは言っても、実はワインにアルコールを添加したもの。これに対してアルコールを加えていないワインを「ナチュラルワイン」というのだそうです。

これは日本酒の本醸造(醸造用アルコール添加)と、純米酒(アルコール無添加)の違いとは意味合いが違って、アルコール度数の大小の違いのほうが強そうです。

ようするに「ナチュラルワイン(のようなアルコール度数の低い酒だけしか)飲まない」ことにしたらどうか? という意味ですね。
もちろん、ビール実験と同じで、度数の低い酒にしても、何も解決しないわけですが。

さて、妻が帰ってきました。

いや、家出してたわけではなくて。
実家に帰っていたのでもありません(ここは妻の実家で、僕は婿養子です)。

風邪をこじらせてぜんそくになり、入院していたのが、退院になりました。子供たちも戻ってきて、ふたたび家族揃った暮らしが始まりました。

うーん、部屋が散らかる。洗濯物が増える。トイレが汚れる。菓子や夜食を勝手に食われる。ゴミが増える。
まあ、猫は喜んでいますが。


2006年11月06日(月) 狂気乱舞

仲間のバースディミーティングでした。
僕はあまりプレゼントを贈るほうじゃありません。せいぜいAAの本とかです(もちろん、いつでも例外はあります)。
たまに気が向くと、バースディミーティングで集合写真を撮影して、額に入れて後から贈っています。最近は六つ切り、四つ切でも数百円で引き伸ばしできますし、額のほうも千円しません。安価でありながら、なんか立派そうなものになります。

さて、現在使っているディジカメは、バッテリーの持ちが悪いのです。
しかたないから予備のバッテリーを持ち歩いています。
バースディミーティングの前に、車の中でバッテリーを交換しようとしました。
カバンを空け、ケースの中から予備のバッテリーを取り出し、カメラを開けて、そちらのバッテリーを取り出し、入れ替えてそれぞれ格納する・・・何の問題もないはずでした。
が、カメラをワイシャツのポケットにしまおうとした瞬間、カメラの電池ボックスのふたが開いているのに気がつきました。
(あ、いかん。ふたをきっちり閉めなかったから、バッテリーを落としちゃった)
そう思った僕は、落としたバッテリーを車内で探しました。

でも、みつかりません。手元にあるバッテリーは、カバンにしまった1個だけです。

ミーティング前に車内を捜索し、終わった後にも捜索し、自宅へついて懐中電灯をもって捜索し、諦めきれずにもう一度捜索しました。
いますぐこのトラブルを解決しなくては、という衝動から開放されて、明日明るくなれば自然に見つかるだろうと思った頃には、もう寝る時間でした。

交換して手元に残ったバッテリーを充電しておこうと思い、充電器を見ると、ちゃんとそこにバッテリーがあります。「昨日充電し終わったバッテリーをかばんにしまった」「車内でふたつのバッテリーを交換した」。そういう僕の確信はまったく真実ではありませんでした。

バッテリーは、昨日からずっと充電しっぱなしで、車内で交換し終わったと思ったのは勘違い。

うつ状態のときは思考が鈍りますが、知能が落ちているわけじゃないと言います。ただ、注意力が欠如しているので、必要な情報が入って来ず、正しい判断が下せないのだと。
誤った認識を元に、一生懸命から回りして疲れ果てている。まさに「下手な考え」というやつです。

統合失調症も、知能に異常があるのではなく、正しい情報が入力されないので、間違った判断を下してしまうと書いてありました。コンピューターだって入力が間違えば、出力はいつも間違っています。

たとえ知能が正常であっても、行動が狂っていないとは限らない。自戒の言葉であります。


2006年11月05日(日) 低空飛行

今日は午後まで寝ていて、いったん起きた後、また夜まで寝ました。
といっても、ぐーぐー眠れるわけでもなく、布団の中でごろごろしているだけですが。かなりウツであります。

起きて活動したところで、何をやってもとても効率が悪くて、ただ時間が過ぎるだけであります。そのくせ妙に疲れるのです。
そういう時は、頭を使わず、体を使うと良い、と医者に言われたので、アイロンをかけたり、モルモットのケージを掃除したり、滅多に見ないテレビを見たりしました。
バラエティ番組って、ほんとにくだらないなぁ、と思いながらも、あまりのくだらなさに笑ってしまいました。放送作家ってのも大変でしょうね。でも、放送作家は他のスタッフ同様、黒子であり、スクリプトを書く人間が、前へ出ては面白くありません。
アナログ放送が終了した時に、地デジに切り替えるかどうか、まだ5年悩めます。

隣県でAAのイベントが行われていたので、土曜日のミーティングは参加者が少ないだろうと思っていたのですが、初めてだとか、二回目だとか、そういう人がいて、いつもと同じぐらいにぎやかでした。

最近つくづく思うのですが、やっぱりビッグブックはもう一度翻訳し直したほうが良いですね。実際それを回復の道具として使ってみると、結構使いにくいところが多いのです。
あれを一冊の書物と捉えている人は、文章が(また)変わることには、反対なのかも知れません。けれど、回復の道具と捉えている者にとっては、その道具が使いやすいかどうかは、死活問題であります。そして、これからつながる仲間の生命や幸福を左右する問題でもあります。
実際に使ってみないと、使いにくさというのは分からないわけで、そのためにも古い訳から現在の訳に、改まる必要があったことは確かです。次はゆっくりやればいいことだと思います。
AAのメッセージは、難解でもなければ、複雑でもありません。「難しくて理解できない」なんてことは一切なくて、ただ単に自我がそれを受け入れて実行することを拒んでいるだけなんです。
「この簡単なプログラム」「この簡単な霊的道具」という言葉に偽りはありません。

ステップがなければ、ミーティングは成長しない。ミーティングが成長しなければ、AAも成長しない。人が入れ替わるだけのAAのままであります。


2006年11月02日(木) クマが多い

夏に子供たちと博物館に出かけたときに、途中の道でサルをみかけました。
走っている車の前を横切って、民家の屋根へと駆け上っていったので、「ほらあそこにサルがいるよ」と子供に教えてあげると、大はしゃぎでありました。
こっちが車の中にいるからこそ、こんな余裕の態度でいられるんであって、それはサファリパークと同じ原理です。
博物館の庭には、ニュートンが万有引力を発見したリンゴの子孫が植えられていたのですが、厳重に鉄柵で囲ってありました。理由を聞くと、サルに食べられないようにと教えてくれました。

サルと会ったという話を、実家の母にしたら「クマじゃなくてよかったねぇ」という反応でした。

本当に今年はクマが出たという話が多いです。毎週のように新聞記事になっています。学校の回りに危ない人がうろうろしているのも困りますが、腹を空かせたクマがうろうろしているのも困ります。
人里へ出たクマは殺すしかないと言われています。山に食料がないから、里に下りてくるので、里で食料をあさることを憶えたクマは、繰り返し里へ下りるようになるからです。罠を使って生きたまま捕獲し、催涙ガスを浴びせて山へ帰す「学習放獣」も行われていますが、無理解な批判をかわすためのパフォーマンスの類です。

今年は駆除数が多いので、猟友会に対してクマ狩を自粛しろと県から要請がでています。でも、猟友会も高齢化が進んでいて、駆除で疲れ果てて狩猟どころの話ではないとか。

それでもクマが増えているわけじゃなく、個体数を維持するのも難しい数になっているという話もあります。少ないはずのクマが人里に多い理由は、山野の荒廃です。

本来クマは人間の手が及ばない山奥の自然林に住んでいるものです。その下には、人間が手を入れる人工林があり、さらに下に野菜や養蚕用の桑を栽培する畑があり、そして一番下に人の住む領域があります。

山が荒れたのは、輸入材木との価格競争に敗れて、国産材が市場を失ったからです。割り箸も中国からの輸入が大半です。ちなみに割り箸は間伐材を使うので、割り箸を減らしても森林破壊を止められるかは大いに疑問です。。
また畑も、養蚕の衰退や農業の高齢化で荒廃が進みました。人が山に入らなくなって、クマに警戒心を起こさせる中間領域が失われ、人間とクマの生活領域がすぐ隣り合うようになってしまいました。

クマが多いのも、サルが多いのも、これ経済問題であります。

子供の頃は、一人で森の中へ遊びに行ったものでしたが、今やそんなことが望める世の中ではなくなってしまいました。

人間とクマ(あるいはシカやサル)は共存はできず、棲み分けをするしかありません。自然破壊ではなく、人間の山からの撤退が、このような事態を作り出したのは、皮肉な話であります。

ニュースで、中国が割り箸輸出に関税をかけるとやっていました。経済成長で、割り箸の国内消費が増え、日本に売る箸がなくなったんですね。


2006年11月01日(水) 矛盾してないよ

ほとんど加藤諦三の受け売りですが、この雑記にオリジナリティなんて期待されていないでしょうから、気にせずにいきましょう。

「自分を大切にすること」が大事なんであります。
他の人から自分がどう見られているかではなく、自分で自分をどう見ているかが大切なのであります。

同時に「人間は、他の人との人間関係を大切にしなければならない」というのであります。人生の楽しさとか喜びは、人間関係からやってくるんだと。

このふたつのことは矛盾しているか? いやちっとも矛盾していないんであります。

でも、最初この話に接した時、僕はふたつを同時に満たすことなんて、できっこないと思いました。人間関係を大切にしようとすれば、どうしても自分を押し殺して生きなければならない。それでは息が詰るから、自分の意志を押し通そうとすれば、どうしても人間関係は悪くなる。
人間は社会的動物だから、人間関係無しでは生きていけない。だから、自分の意志と、人間関係と、どちらを大切にするか、バランスを取っていくのが人生なんだと。
ところがそのバランスが難しくて、悩み事がまた増える。
そう思っていたわけです。今もそれほど変わってません。
まったく馬鹿なヤツだ。あ、自分か。

だいたい、自分のことが尊敬できないヤツが、自分以外の人間を尊敬できるわけがありません。
あいつはここがダメだ。こいつはあそこがダメだと、あら探しをしているわけです。テレビに出ているヤツを見ては「くだらねぇ」とつぶやき、人の書いた本を読んでは「一面的理解しかしてない」と切り捨て、尊敬できる人間なんていないよね、と自分を納得させるんです。
優しくしてくれる人がいれば「素晴らしい人だ」と誉め称えるけれど、その人が意に沿わないことをすれば、とたんに「裏切られた。あんな人だとは思わなかった」と嘆く。
自分に対する評価はとても甘いんだけど、実は欠点が多いことにも気付いていて、その事実を恐れている。
棚卸し表なんて、怖くて書けっこないわけです。

そういう間違った認識を変えるのは、簡単ではありません。というか、それができるんだったら、今こんなところにはいません。

AAミーティングに行って、60分や90分そこに座っていると、心の中に様々な考えが浮かんでは消えていきます。それを繰り返すなかで、少しずつ矯正されていくということかもしれません。

そういえば、いつも色紙に「偏向矯正」と書いていた仲間がいました。(字が違う?)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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