心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年12月31日(土) 大晦日

今年は市内にある県立の青年の家が閉じました。
理由は老朽化と利用者減だそうであります。いつかそこでAAのイベントをやりたいという漠然とした願いを持っていたのですが、それも叶わずに終わりそうです。
市内といっても山奥だし、バスで行ける場所でもなく、利便性という点では「何でこんなところに建てたんだ」と疑問が残るものでありました。もしAAのイベントをやったとしても、駅との間の輸送手段に頭を悩ませることになったでしょう。
青年の家という公共施設がなくなってしまうのは残念ですが、あまりに不採算で利用の少ない施設が閉じられてしまうのは、税金を使っている限りやむを得ないとは思います。税金ではないが年金を使って保養施設をたくさんつくり、赤字を垂れ流していたのよりはマシかと思うのであります。

さて今日は大晦日でありますが、妻が寝臥せっていることもあって(というのは言い訳にすぎないのですが)掃除は行われません(毎年のことだ)。
「心の家路」的に今年を振り返ると、最大のトピックはサーバーの移転でありました。訪れていただく方にはほとんど違いがわからない(多少レスポンスが良くなったぐらい?)でしょうが、舞台裏ではPerlスクリプトの書き直しなど、なかなか面倒でありました。
年間6千円のレンタル費用は安くはないと思うものの、自宅にサーバーを設置したら、維持費用は月500円ではすまないでしょう。
テキストブラウザ対応や、携帯電話対応など、やりたいことはたくさんあったけれど、実現しないままに年を越します。ぐずぐずしている間に、携帯電話のほうでフルブラウザが一般化してしまうかも知れませんね。

さて、今年はメールで年賀状を出すという計画を企てています。
今までメールでの年賀状にはかなり否定的な僕でありました。
郵便での年賀状は、受付も1ヶ月ほど前から行われるし、仕分けや配送などもアルバイトを大量に雇ってインフラストラクチャーも整備されて行われます。だから、郵便システムかかる大量の負荷に耐えられる仕組みになっています。
10年以上前にインターネットメールを使い出した頃には、年賀メールを出すというのはまったくの非常識でありました。相手のメールボックスはフロッピーディスクの容量より少ないのが普通でしたから、皆が年賀メールを出せば、メールボックスが簡単にあふれました。年末年始だからといってインターネットのインフラが増強されるわけでもなく(これは今も変わらないか)負荷がかかりすぎれば、人々が休みを取っている間にシステムはダウンし続けるということにもなりかねませんでした。
しかし今やギガビットの通信網が張り巡らされ、サーバーは高機能で大容量になり、たかだか数十キロバイトのメールについて気にしなくてもよさそうな環境が整ったと判断しました。
一方で、住所は知らないがメールアドレスだけは知っている人の数は増える一方です。
というわけで、メールアドレスのリストアップもすまして、年明けを待っている状態です。

一年が過ぎ去っていきいますが、今日一日の生き方に境界はありません。
それでもひとつの区切りとして、皆様の来年が、良い一年であることをお祈りしております。
メールが届く人にも、届かない人にも、感謝をこめて。


2005年12月30日(金) No due or fee

「JSOの財政を支援する会」という組織からお手紙が届きました。
以前からその存在は噂として知っていたものの、入会の勧誘を受けるとは光栄なかぎり(?)であります。しかし義務的に毎月千円ずつ集めるという手法は、長いこと慣れ親しんできたAAのお金の集め方に慣れた人間にとっては違和感があるので、入会はご遠慮することにしようと思います。

今年はバースディ献金もしなかったし、個人献金も多分していないと思う。まあ所得税非課税の状態なので今年は勘弁していただこうと思った次第であります。
僕は買い物をするときに、意識的に500円玉が財布に残るようにしています。それはミーティング場の献金箱に入れるためであります。500円玉がないときは100円玉を三つ入れることにしています。三つないときはあるだけの100円玉と50円玉。献金を入れるのを忘れていることもあるので、「最近献金していないな」と思ったら千円札を入れることもあるぐらいです。
これがAAメンバーの平均より多いのか少ないのかは分かりません。

ただざっくり計算することはできます。JSOを含むゼネラルサービスの予算が四千数百万円。これを全国のざっくり四千人のメンバーの献金で支えているので、一人あたりおよそ年間一万円です。関東甲信越のセントラルオフィスの予算規模が二千万円弱。これをこの地域の二千人弱のメンバーで支えているとすると、やっぱり一人一万円ぐらいです。これに各地域・地区のレベルの活動があり、そして何よりグループのレベルではコーヒー代やらハンドブック代やら、会場費・暖房費などが必要です。地域性もあるし、グループの人数にもよるでしょうから、あとは自分の財布の中身と、霊的進歩というものと、いろいろバランスを考えて自己決定すべきものが献金だと思っています。

さて話は変わって、今日は「心の家路」のリンク集のチェックをしておりました。
たまにチェックをしないと、リンク先が 404 Not Found になっていたりするところがあるからです(案の定ACODAのアドレスが変わっていました)。

今年を振り返って思うのは、アルコホーリクの人のブログがとても増えてきたなという感慨です。ブログというのは新聞の用語によれば「日記式簡易型ホームページ」だそうですが、まあそんなものなのかもしれません。タリウムで母親を毒殺しようとした女子高生がブログを維持していたということがニュースになっていたのが印象に残ります。
HTMLだとか、FTPだとか、そういううざったい話抜きで情報を発信できるブログというのは、一過性のブームでは終わらないかもしれません。
僕の手元にも、AAメンバーやアルコホーリクの家族の人のブログが10以上リストアップされていて、精読が済んだらリンク集に加えようと思っているのですが、なかなか集中力が沸いてこないために、どんどん先送りになっていっています。
「心の家路」を始めた頃は、依存症関係のページを探すこと自体が大変だったので、どんどん情報発信者が増えてくるというのは、隔世の感があります。

この雑記の一年を振り返ってみると、10年前を振り返ってという企画を始めたものの、なんだか尻すぼみになってしまいました。多少遅れ気味でも、来年もなんとか続けていきたいです。


2005年12月27日(火) 薮から棒

「心の家路」へのアクセス数も年末に向かって減り始めました。
まず大学がお休みの期間はアクセスが減ります。これは大学生のアル中さんが読んでいるというわけではなくて、見当はずれのキーワード検索で「心の家路」にたどり着いてしまうのでありましょう。僕が学生の頃はインターネットなどというものは存在していなかったので、いまの学生のキャンパス・コンピューティングライフがどんなものかは想像するしかありませんが、きっと学内LANは光ファイバーで、無線LANの電波が飛びまくっているのではないかと思われます。そういった環境で思うさまnyをしたり、怪しげなキーワードでGoogleったりして、あげくに「心の家路」にたどり着いて、薄気味悪い予言にでも出合ったような気分になっているのかもしれません。
話が変な方に行きました。

今日か明日あたりが仕事納めという会社が多いのではないでしょうか。
僕の会社も明日は大掃除だけで、お昼に寿司くっておしまいであります。ということは、普段は午後出社の僕も、明日は朝一番から出社しないといけないというわけです。明日の朝はチーズトーストをコーヒーで流し込んで出かけることでしょう。
今年は僕は休職をしてしまったわけですが、順調に仕事を続けていた(同じうつ持ちの)同僚の一人は、満足すべき成果を出して先週からリフレッシュ休暇に入っている人もいます。(この一年の間にすっかり差がついてしまったな)と思うとちょっと悲しくなりますが、周回遅れになっても気にしないでペースを守っていくことが大切なんでしょう。
一方、この年末にきて客先でトラブルを発生させている同僚もいて、ひょっとしたらこの時間もまだ会社にいるのかもしれません(いま夜半すぎです)。

毎日知恵熱が出そうなぐらい勉強しても、7年前のCOM技術の本を30ページほど読み進むのが限界です。

正月に実家に帰ったら、親子でイチゴ狩りに行こうと思い、観光農園に電話をかけてみたのですが、「イチゴの収穫は一月下旬から」だと断られてしまいました。

11年前に僕が2回目の精神病院への入院をしたときに、同じ入院患者のとある人物と知り合いました。僕としては大して親しいつもりはなかったのですが、相手が年賀状をくれるので、こちらも毎年出していました。しばらくは比較的近くに住んでいたのですが、(アル中ではないけど)病状悪化して独居できず、実家に帰ったと聞きました。
それっきり縁もなくなったと思っていたころ、EメールのCCで借金の申し込みを受けました。もしくはノートPCを無料で譲って欲しいという趣旨でした。そのうち何回か電話で借金の申し込みを受けたので、つきあいはこれっきりにしようと、賀状を出すのもやめました。

その人物から今日は3回電話があり、用件はつまるところ借金の申し込みでありました。こちらも今年は親から金を借りて暮らしている状態であること、所得税を納める必要のないほどしか収入がないことを伝えて、丁重にお断りしました。

僕は何回かアルコホーリクに金を貸したことがあります。返ってきたこともあるし、返ってこなかったこともあります。でも相手にとって役に立ったと確信できたのは、今年自分も苦しい中から(献金するつもりで)送金した一回だけです。

「良くなりたいという意欲があるアルコホーリクには、俗に言う施しのようなことは必要ないし、本人も望まないだろう」
「しかし、まさにそれが必要だという場合には、私たちはかなりの無理を背負ってでもお互いに助け合う。これは矛盾しているように思えるかもしれないが、私たちはそうは思わない」

もう少し経験を積まなければ分からないこともあるのだと思うのであります。


2005年12月26日(月) 近況報告

妻が退院してから2週間余りが経ちました。
入院生活が長かったせいか、腰の筋肉が弱って退院当日に腰痛を患い、ブロック注射をして母屋で寝込んでしまいました。最近は腰痛のほうは良くなりましたが、うつのほうは改善していないみたいで、「なんにもする気がしない」が口癖であります。
母屋の座敷に布団を敷いて、昼も寝て、夜も寝るという生活を続けています。

僕が休職した今年初めごろから3月まで保健室登校をした長女ですが、妻が入院を待っている9月ごろに再び保健室登校になりました。その後、妻の入院でどたばたして、実はそのことはすっかり忘れていたのですが、先日尋ねてみたら「9割以上は教室で授業を受けている」そうであります。親が必要以上に心配して、おたおたしなかったのが良かったのかもしれません。
でも、精神科通いも服薬も続いています。

次女はストレスが原因の難聴は治ったようですが、こんどは肩こりがひどくなったようで、パパに肩を揉んでもらうのを、お姉ちゃん以上に楽しみにしているようです。

義父は相変わらず「ぶつぶつ」と小言が絶えない人であります。義母は僕が洗濯を自分でするようになってから機嫌が良いです。

僕はといえば、相変わらず「午後から」勤務を続けていますが、仕事をまかされる量が増えるようになると、さすがにそれでは不都合が多くなってきました。年明けには午前中の勤務もある程度するようになるでしょう。

お正月は子供と3人で実家に二泊三日の帰省をしてくる予定です。例によって、(年賀状連動企画)三が日特別ホームページも準備ができております。


2005年12月25日(日) 寝る連休

3連休は「寝て、寝て、また寝て」しまいました。
12月初めごろから、仕事に行くために、ドリンク剤(ウコンの力というやつと、ショコラBB)を毎日常飲していました。僕の考えでは、ドリンク剤というのは、エネルギーを発生させる道具ではなく、枯渇しつつある体のエネルギーを搾り取る道具のような気がします。
飲んでいるときは体が動いて良いのですが、限界まで酷使された肉体と頭脳は、後で必ずそのぶんの休みを要求します。
飲み続けるのを止めれば体が動かなくなるのが怖いので、飲み続けるわけです。いつまでもドリンク剤に頼ってはいられないと分かっていながら飲み続けるのは、一種の依存なのかもしれません。なるべくマイルドなものを選ぶ努力をしているのですが、もっと基礎体力をつける努力をしたほうが正気なのかもしれません。

雑誌の編集後記なんかを読んでいると、20才の頃から毎日ハードなドリンク剤を2本飲み続けて十数年なんていうことが書いてあったりします。その職業の大変さはわかっているものの、いくらなんでもそれは頼りすぎなんではないかと思ったりするのであります。

ちなみにこのドリンク剤の味というのは「いかにも薬」という味のほうが売れるのだそうです。昔ある大手製薬メーカーが、バーテンダーに依頼して「美味な」(つまり上等なお酒みたいな味という意味であろうと思われる)ドリンク剤を開発し、発売してみたものの、ちっとも売れなかったそうであります。「酒で元気が出る」と思うのはアル中ぐらいなものでありましょうか。

この3日間は「COMの勉強」にあてるつもりで、380ページの教科書を会社から持って帰ってきました。残念ながら読めたのは38ページだけであります。若い頃はスポンジが水を吸うように知識を(無駄なものもたくさん)吸収できたものでありますが、記憶力は年と共に衰え、新しいことを学ぶのが苦痛になりつつあります。COMはすでに古い技術で、現在は.NETが主流であります。残念なことに自分は2周も遅れています。が、焦らずにゆっくりとやることにしましょう。

年が明けたら このイベント に参加したいと思っているのですが、体調が下降線をたどっているので、自信がだんだんなくなってきました。でもこういうときは例の合い言葉です。

「何事もなるようにしかならない」
そして
「神の配慮におまかせです」


2005年12月23日(金) 寒い一日

23日は頭痛、肩、背中、腰、足の痛みで起きられませんでした。
前日の夜、マッサージ機で揉んだせいで「張りかえし」がきていたのでしょう。それも猛烈な痛さで我慢できず、医者から処方されている鎮痛剤を飲んでまた寝ました。午後4時頃やっと起き出して、アイロンをかけ、たまっていたマンガ雑誌を読みました。
そして風呂に入って、子供たちを寝かしつけて、そしてまた自分も寝たのでした。
なんだか一日損をした気分です。


2005年12月22日(木) 大変な一日

午前中は精神科医へ。夜寝る前の薬を飲んでから10時間〜11時間ぐらいは眠いんですよという話をしました。症状の改善と共に、薬が効きすぎるほうに傾いてしまうのでしょうか。何ヶ月か前にセパゾン(クロキサゾラム)2mgを1mgに減らしたのですが、今度はそれをセパゾンの2/3ぐらいの強さの安定剤に変えてみましょうということになりました。
いつもは出してくれる「お薬情報」の紙をもらえなかったので、新しい安定剤がなんという名前なのか次回年明けの診察までわからないでしょう。
セパゾンの半減期は100時間。比較的代謝のゆっくりした薬ですから、はたしてこれを別の薬に変えることで、眠い時間が長すぎるという症状が改善するかどうかはわかりません。どちらかというと主治医が(アル中に継続投与するにはあまり好ましくない)安定剤を削りにかかったという要素のほうが強いのかもしれません。

ちょっと早いけれど12月の給料が支給され、年末調整の紙もやってきました。今年は休んでばかりいたので、給与支給額が控除額より100万円ほど低い(つまり納税額ゼロ)ということになりました。思わず「わはは」と笑って話題にしていると、年配の社員から「笑い事ではないだろう」とたしなめられてしまいました。
でも、AAにミーティングに出続けていると、どうしようもないことは暗い顔をして悩んでいるよりも、いっそのこと笑い飛ばしてしまった方が楽だということを学ぶのであります。
所得税を払わないのは12年ぶりぐらいでしょうか。確定申告の必要もなしです。

午後は半日延々と会議。
僕のようなぺーぺーは仕事の時間のうち1/3ぐらいが会議であるのがせいぜいですが、部長クラス以上になると仕事のほとんどが会議か面談であります。

夕方から忘年会。忘年会があるということは公式には一切知らされていません。社内の非公式な情報伝達網を使って広まっていた噂でありました。公式なルートで伝わってくる情報は、全体の3割ぐらいでしょうか。会社というもののやっかいなダイナミズムをこの年になって学びつつあります。

飲み助の多い会社であって、宴会は決して居心地の良い場所ではありません。でも、人的交流のためという名目で、ひとりあたり3000円が補助される(これも非公式で、机の上にいきなり現金がおいてあった)ので、逃げるわけにも行きません。

酔っぱらった年配の社員から、「君はもっと積極的に・・」うんぬんという説教をくらってしまうものの、僕は仕事中毒の面は持っていて、仕事に時間を捧げてしまう傾向はあっても、会社のために人生を捧げるつもりにはとうていなれないのであります。むろんそんなことは相手に悟られないようにと思っているのですが、きっと日頃の態度には出てしまっているのでしょう。

一次会が散会した後、前の会社から一緒の四人でカラオケへ。のどが痛くなるまで歌って解散。帰りに深夜までやっている健康ランドで風呂に入りました。セガトイズ製のマッサージ機とパラマウントベッド製のマッサージベッドで、400円を使って都合20分体を揉みほぐしました。

今週は本社出張があったりして、体が疲れていました。揉みほぐされているのは気持ちの良い者です。が、僕ももう若くはありません。翌日は筋肉の痛みに苦しむことになるのでした。

朝のニュース番組を見ながら睡眠。


2005年12月21日(水) 青春編みー後

どうも先月あたりから「地元じゃ負け知らず」なんていうフレーズが頭の中をリフレインしていて困ります。

まず郵便局で年賀状を出すついでに、書き損じのはがきを交換してもらいました。規定では「印面」(あの切ってみたいなのが印刷されているところ)が汚れているものは交換不可とされています。プリンターの上下逆さまに突っ込んでしまったミスの場合には、印面が汚れることはありませんが、表裏逆の場合はどうしたってそこが汚れてしまいます。8枚のうち2枚は交換してもらえないかなと思っていたのですが、全部交換してもらえました。
「手書きの場合にはだめなんですが、プリンターの場合にはどこに印刷しちゃうかコントロールできないので、印面が汚れているのもいいのです」と親切に教えてくれました。
「当選発表まで待たなくていいんですか?」とも聞かれました。そうか、ひょっとしたら書き損じのはがきでハワイ旅行があたる可能性もあるんだ。1月下旬にまた来るのも面倒なので、50円切手に交換してもらいました。

GoogleのサービスにGmailというのがあって、容量が2.5Gバイト与えてくれます。これはどれぐらいの容量かというと、メールをパソコンにダウンロードした後も削除しなくて放っておいても(当面のところは)メールボックスが一杯になったりしないということです。
いままでハードディスク・ディザスタで、受け取ったメールを何回かごそっと失っている身としては魅力的なサービスです(無料だし)。
が、これ実は「すでにGmailを使っている人から招待を受けないと加入できない」仕組みであります。いわゆるsponsorがいないとだめってやつです。
いままで、このスポンサー探しを延々としていたのですが、実は会社で隣に座っているやつがGmail使いだと判明し、さっそく招待メールを送らせました。

使いたい人には招待メールを送りますので、申しつけください。


2005年12月20日(火) 長野は寒いぞ

本社の近くのビジネスホテルが満室だったので、ちょっと離れているけれどLAN完備でネット接続無料のホテルに投宿したのでした。
暖房がよく効いていて、トイレはウォシュレットが装備されていて、なかなか快適でした。僕はビジネスホテルの浴衣が(薄ら寒くて)好きではないので、いつもパジャマ持参で旅行するのですが、今回はパジャマを忘れても浴衣で我慢できるほど、あったかい部屋でした。

でも、まあ朝は会社に近いホテルに限ります。慣れない土地というのは、距離感覚が分からなくていけません。本厚木のホテルから会社まで1時間ちかくかかりました。

午前中に中国人たちと打ち合わせをすませると、もうやることがなくなってしまいました。バーミヤンで一人で食事をして、町田から八王子、八王子からあずさ号で帰ってきました。
こちらの駅をおりたとたんに、寒さで縮みあがりました。

パソコン部屋の電気ヒータをつけたら、温度計が1度を示しました。4時間ほど暖房をつけっぱなしにしておいたのですが、12度までしか上がりませんでした。もう電気の暖房では限界かもしれません。

年賀状の印刷を終えました。今年はプリンターに上下逆さまに突っ込むミスを犯したりして、8枚も無駄にしてしまいました。そういえば書き損じのはがきを交換してくれるサービスがあるはずだと思って調べてみたら、ありました。
■使わなかったお年玉付年賀葉書についてに、手数料5円で別のものに交換してくれるとあります。

このページには、お年玉付き年賀はがきの商品の変遷が表になっています。僕が小学生のころは「折りたたみ式自転車」だったのですが、いまや「わくわくハワイ旅行」「国内旅行」「ノートパソコン」「DVDレコーダー+ホームシアターセット」とかになっているのであります。

ハワイに言ってみたいぞ(沖縄でも可)。


2005年12月19日(月) 厚木にて

こうしてビジネスホテルの鏡の前にノートパソコンを置いてタイプしていると、自分がすごく眠そうな顔をしているのが分かります。まあ、ここ半年というもの主に午後勤務で、11時とかに起きる日課であり、唯一の例外が本栖湖のステップセミナーに行ったときだけというぐらいです。

そういう人間が、朝5時に起きてちゃんとここまで移動してこれたというだけでも奇跡に近いのかもしれません。中華民族を相手にしていると、日本人というのは自己アピールが不得手で控えめで損をしているような気がしてなりません。ともかく彼らは夕方以降はunpaid workをするつもりはないようであり、おかげでこちらも定時+αで解放されました。まったく彼らがうらやましいです(皮肉ではないよ)。

予約したホテルの部屋に荷物を置いてからミーティングに出かけるつもりでいました。
が、ミーティング場のある駅は、ホテルの駅より手前でした。ホテルまで行って、また戻ってくるのは気が進みません。かといって、ノートパソコン一式が入った荷物をかかえて歩くのはもっと気が向きません。
(まあ、一回くらいミーティングを休んでもかまわないし)
という例の考えが頭の中に忍び寄ってきました。

でもミーティング場のある駅で降りました。なぜなのかはわかりません。駐車場が延々と広がる駅前を歩いていき、地図通りに二つめの公衆電話を目印に曲がります。目の前をお仲間とおぼしき女性が歩いていくので後をついていったら、案の定建物の外でたばこを吸っている集団に出合いました。

長野の標準からすれば、ミーティング会場はとても大きく、人数も多く90分で全員がしゃべることはとうてい無理であろうという規模でした。そして、そこにはなんと僕を待っていてくれた(?)人が何人かいました。木曜日の雑記に、ここに出現するかもしれないとは書いておきましたが、まさかと思いました。まったくホテルへ直行しなくて良かったです。そうしたら僕は嘘つきでありました。きっと神さまがミーティング場へと導いてくれたのでしょう。

ミーティングは眠い頭にも居心地がいい場所でした。

そして二次元バーコードのおかげで「日々雑記」はまた一人携帯電話の読者を獲得した(?)のでした。役に立つんだねぇ、バーコードって。

アフターミーティングはラーメン屋で夕食。Cさんごちそうさまでした。忘れずにいますから。ええ、人間親切にされたことは忘れないものです。

神さまはひょっとしたら僕のことを愛してくれているのじゃないかと時々思います。錯覚かもしれないけれど。誰にでもその人のことを愛してくれる存在があると考えた方が、いろんなことがすっきりするような気がするのであります。

こっちは長野よりずっと暖かいです。


2005年12月17日(土) Change Your Tires

やっと、そうやっとスタッドレスに交換しました。
もうノーマルタイヤはスリップサインが出てきている状態であることもわかりました。このまま春になってもスタッドレスのまま履きつぶして、サマータイヤのほうを新品に交換しないといけないでしょう。

先日ぶつけたバンパーに色を塗るために、オートバックスに行ってタッチアップを購入しました。前いた会社で一緒だった中国人に偶然会いました。FPD用の検査装置を作る会社にいるのだそうで、すっかり商売敵であります。いまやフラットパネルの製造装置の主戦場は中国に移りつつあります。中国語ができるというのはきっと彼に有利に働いているのでしょう。

タイヤの空気圧を調整するのが面倒なので、セルフのガソリンスタンドでやることにしました。しかしあいにく木曜日に満タンにしたばかりで給油するには早すぎます。さすがに給油せずにエア調整の設備だけ借りる度胸はなかったので、洗車をしました。拭き上げていたら雪が降ってきました。

外出したついでに、子供たちがパンを食べたいというので、いつも通勤の途中でみかける「ベーカリー・レストラン」なるものに入ってみることにしました。僕の通勤はお昼なので、昼食を食べるためとおぼしき人々が、気楽な姿で入っていくのを見ることができます。
僕の予想では、店頭に並んでいるパンを買って、それを座って食べるキャフェテリヤのようなものであろうと思われました。きっと店内はフランクな雰囲気なのだろうと。
しかし、入ってみるとそれはパン屋(焼いたパンを店頭売りしている)とレストランの複合したものでありました。
「食事ですか、喫茶ですか」と聞かれたので、とっさに「喫茶です」と答えたら、レストランの窓際の席に案内されてしまいました。ケーキとジュース3人前で2千円を超えてしまいました。とほほ。周りはデート中とおぼしき男女やら、和服をきっちりと着こなした老婦人たちが、談笑しています。そんな中、タイヤ交換の汚れが付いた服と、娘たちなんかはジャージ姿で、なんとも落ち着かない喫茶になってしまいました。

年賀状を印刷。寒いせいか赤のインクの出が悪く、一枚ごとに違った色合いになってしまいました。メーカーに苦情を言ったら、インクだけじゃなくて、ヘッドも定期的に交換してくださいと言われてしまいました。


2005年12月15日(木) こっちは短い

ひさしぶりに自分の生まれた病院へメッセージ。
アルコール依存症の診断基準のひとつに「酒をやめようという意欲の乏しさ」という項目があったりしますが、否認を続けているうちに、この「意欲」というのがだんだん乏しくなっていってしまうのも、病気の進行かなと思いました。

来週、月曜火曜と神奈川の本社に出張になります。泊まるホテルは小田急江ノ島線沿線なので、もし月曜の夕方に定時+αぐらいで解放されたら、こちらの会場 に行ってみようかと思います。クローバー厚木は女性が多いという噂なので、ちょっぴり期待していたりします(何をだ?)。
それにしても、何年か前の神奈川地区4分割の折りには、神奈川県央地区は2グループしかなくてという話だったのに、いま現在調べてみるとグループも増え、私鉄の駅ごととまではいかないものの、毎日通えるところにミーティングがあって、発展うらやましいかぎりです。


2005年12月14日(水) 10 years ago (13) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (13) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

10月11日に、IomegaのアウトレットでZIPドライブを買ったのですが、ちっとも届かないうえに、クレジットカードの課金だけはされてしまいました。Iomegaのほうにメールで苦情を言ってもなしのつぶてなので、クレジットカード会社のほうに電話をしました。
海外でのショッピングは「海外デスク」というところが担当なのですが、ここはちっともつながりません。やはりカードでのトラブルは国内より海外のほうが多いのでしょう。
リボ払いなどの受付をしている国内用のデスクに電話して、用件を話したら海外デスクに転送してくれました。用件も伝達されていて、二度説明する手間がなくて楽でした(これからはこの手段で行こう)。
あとはカード会社とオンラインショップの間で解決してくれるそうであります。
(ものはいらないから金を返してくれということです)。

さて、今日から一番最初のホームグループに戻ることになります。
湖の畔の教会でのミーティングに、僕もやっともどってこれたということです。
懐かしいことに、10年前に一緒にミーティングをやっていたACoAの○さん(女性)の顔が見えました。ここのACミーティングは人数が少ないので、AAミーティングに身を寄せているのだそうです。ちっとも老けていないような気がして、きっとACoAの女性って、年を取らない種族なのにちがいないと思った次第です。

峠を越えて帰ってくると、雪が降った後の圧雪凍結路になっていました。タイヤはノーマルでつるつるです。途中まではなんとか無事走ってきたのですが、T字路にオーバースピードでつっこんだおかげで一時停止できず、リアバンパーをガードレールにこすりつけてしまいました。ブレーキなんか踏んだのがいけなかった(いやタイヤを交換していないのがいけないのだ)。

さて、10年前。

ケアンズからジェット機で向かった先は、グレートバリア・リーフの中にある ハミルトン島 というリゾート島でした。

なぜそこを選んだのかというと、この島からほどちかい「ホワイトヘブンビーチ」という場所へ行ってみたかったからであります。白い・天国の・島と名付けられたそれは、真っ白なシリカ砂の幅広い浜が6キロにわたって続き、すぐ後ろは原生林という場所であります。写真で見るそのビーチは、空と海の青、原生林の緑、砂浜の白があいまって、まさに地上に現れた天国のようでありました。
アイドル歌手の映画だったかに「天国に一番近い島」というのがあった気がします。当時はインドネシアのバリ島なんかが人気であったり、旧フランス領のオセアニアの島も人気がありました。しかし僕は白人の国へ行ってみたかったのであります。

そしてなぜ天国にこだわったのか、それは何とはなしに、自分の寿命がもうすぐ尽きるような気がしていたからです。もし、そうすぐにアル中で死ぬことにならなくても、きっとこの後は落ちぶれ果てていくばかりで、海外どころか、国内の旅行すらままならなくなっていくんじゃないか。そんな予感がうっすらとありました。

死ぬ前に一度「天国のようなすてきな場所」に行ってみたいというのが、動機でした。

島で一番大きなホテルの、屋上の2階建てのスイートを借りました。宿泊に食事はセットになっていないので、3食とも島の中のどこかのレストランで食べなければなりません。僕は朝と昼にはビールを、夕食にはワインを一瓶つけるのでした。何しろ英語しか通じないので、新妻がそのことにどんなに文句をつけようとも、オーダーしてしまえばこっちのものでした。
そして「日本に戻ったら、もう飲まないから、この記念の旅行の間だけは、楽しくやらせてくれよ」というのが僕の決まり文句でした。

父の死から3週間、主治医の「緊急避難的処方」によって維持された断酒によって、僕の顔色もなんとか人間らしい色にもどっていました。しかし、一週間余りの旅行のあいだに、すっかり土気色へと戻ってしまったのであります。

新婚旅行だからと、36枚撮りのフィルムを10本以上撮影しました。その写真を整理したアルバムを見ると、僕の顔色が変わっていくのが克明に分かります。ふつう、そうしたアルバムは人に見せて自慢して迷惑がられるものでしょうが、我が家のアルバムは「恥ずかしくて人様にはお見せできないもの」に仕上がってしまいました。
そうやって人に見せずにしまっておいたところ、現在は行方不明になってしまっているのであります。

(この項、つづく)


2005年12月11日(日) 病院メッセージ

なんとか布団から体を引っぺがして起き、病院メッセージに行ってきました。僕の頭はぼうっとしていたのですが、若い仲間が司会を引き受けてくれたおかげで、スムーズに進みました。
それにしても、病院メッセージというのは何のためにやっているのか、いまだによく分からないところがあります。12番目のステップの活動と言うには、それほどステップの話はしていないような気がします。どちらかといえば、AAの広報活動をやっているようなものだと考えていますが。
なんにせよ、われわれは患者さんを説得に行っているわけでもなければ、勧誘に行っているわけでもありません。

眠くていけないので、病院からの帰りにどこかで温泉(入浴施設)にでも寄って、そこでひと風呂浴びてから昼寝でもしようかと思いました。タオルなどを買いに入った100円ショップの隣にリサイクルショップがあったので、入ってみました。エプソンのUSB接続のイメージスキャナーが609円だったので、思わず買ってしまいました。会社で使います。

どこかの風呂に入ろうと車を走らせていったのですが、風呂に入るよりも、ともかく先に寝たいぐらい眠くなってしまったので、車を止めて一眠りすることにしました。そして起きてみると、もう夕方です。あわてて高速道路を走って帰りました。

妻は退院したものの、2ヶ月もベッドに横になっていたおかげで筋肉がすっかり落ち、おまけに体重はまったく落ちず、もとから弱い腰をひねったところ、痛めてしまって家事どころではなく、母子3人でジジババの世話になっています。おかげで僕はまだ一人暮らしであります。アイロンをかけていると(どうしてアイロンをかけているとわかったんだろう?)、娘がやってきました。
そういえば今日は彼女の誕生日です。
「ケーキは用意してあるのか」と聞くと、誰も買いに行ってくれていないとのこと。時間は夜の7時半です。あわててケーキ屋に駆けつけると、幸いバースディ用のケーキがひとつ売れ残っていました。
ケーキを持って帰ると、次女がパパと一緒にお風呂にはいると言って待っていてくれました。病院からの帰りに入ってこなくて良かったです。風呂の中で次女のこりに凝った肩をもみほぐしてあげたら喜んでいました。

長女はケーキにろうそくを9本立ててご満悦です。彼女は僕がアルコホーリクであることも知らないし、パパがお酒を飲んでいた過去も知りません。何のために「AAだ」と言って出かけていってしまうのかも知りません。いつか説明する日が来るでしょう。その日が来ることを、僕は恐れなくなりました。

相変わらず生活は不安定だし、思い通りには生きていけません。でも、「子供たちに父親のお酒のことで心配をかけない」という願いは(今のところ)叶っています。

病院に行く前に、ヤマト運輸の営業所に寄って、昨日の地区委員会の議事録を代議員の人たちに発送していきました。ソーバー1ヶ月に満たない自分にスポンサーが投げかけた「自分のグループを立ち上げろ」という無理難題に助けを得るために、地区の集まりに出かけていったのが僕と委員会の関わりの始めでした。その後、グループの代表(?)として、はたまた委員会の何かの役割として、毎回ではないものの、委員会に出席することは、僕のAAプログラムの大事な一部分になってきました。
だが、少々長居が過ぎたような気がします。ここら辺でいったん身を引いて、他の人たちが決めたことを受け入れて従っていくということに慣れていった方がいいのでしょう。

言いっぱなしの聞きっぱなしでない委員会の席は、ミーティングと違って必ずしも心休まる場所ではなかったですが、いつも「愛と奉仕の輪」の中にいられた自分は幸せだったのでしょう。ともかく感謝であります。

さて、それはともかく自分も少し痩せなくては。


2005年12月10日(土) さよならZIP、さよなら地区委員会

郵便局に行ったついでにガソリンを入れました。
ガソリンの価格については、自分の周りでは、県外<県内・高速道路<一般道・セルフ<フルサービス・自宅付近<会社近辺という傾向が決まっているのですが、今日寄ったスタンドはフルサービスながら、高速道路のスタンドより安いというところであります。
ようするに競争が激しいところは、価格も安くなる傾向があるということでしょうか。

冬になると天気が良いときしか洗車ができません。寒いときに無理に洗車をすると、水が凍ってしまうからです。洗ったからと言ってまたすぐに汚れてしまうのですが、洗わないでいるとどんどん汚れてしまいます。洗車はいつもセルフのスタンドでやっているのですが、今日はフルのスタンドで頼みました。違いは水をきれいに拭き上げてくれるのと、車内に掃除機をかけてくれるところです。
手間を惜しんだあげくに、
「まだノーマルタイヤのままなの? つるつるじゃない」
と営業トークにまきこまれてしまいました。
僕はスタッドレスへの交換は天皇誕生日と決めていますし、前回の車でまだ溝がたっぷり残っているタイヤを買い換えてしまったので、まだ変えるつもりはないのであります。

ZIPドライブは諦めることにして、家電店で256MBのポータブルメモリを買いました。ほんとうはプロっぽくコンパクトフラッシュにしたかったのですが、値段が高かったので、安いUSBメモリになりました。

自宅へ帰って、パソコンからZIPドライブを抜き取りました。予備だとか、ノートPC用を入れると7〜8台ドライブがあるのですが、全部ネットオークションで売りに出すことにします。
長年使ったZIPメディアともこれでお別れです。
いろいろとマイナーなコンピューターメディアを集めては使ってみる「メディア愛好会」は最近は活動していないし、愛好会会長の看板も下ろさないといけないでしょう。

地区委員会についてはまた明日。
まだ夜は明けないけれど、起きているには遅すぎる(早すぎる)時間になってしまいました。


2005年12月07日(水) 女性の仲間の1年のバースディ・ミーティングでし...

女性の仲間の1年のバースディ・ミーティングでした。なごやかな雰囲気のミーティングでした。
彼女は活動範囲が広いので(僕なんかよりずーっと広いので)、遠くからも仲間がやってきました。
群馬からやってきた仲間に、「○.○.の家族から年賀欠礼の葉書をもらってさ、5月だって言うのに何も知らなかったからびっくりしたよ」と伝えたら、彼はその人の死を知りませんでした。「5月というと○○じゃなくて?」と言われてこっちもびっくりです。
「そのうち様子を見に行こうと思っていたんだけど、そうだったとはねぇ」
「啼鳥山荘のあのころのメンバーというと○.○.も去年亡くなったよ」
携帯電話の電話帳から一度に3人も削除することになるとは。
最近のAAは底が浅くなって、人が死ななくなった、なんてうそぶいていましたが、とんでもないです。
そして、やっぱり人の死に対してシンパシーを抱けない、冷徹な自分を発見するのでした(これは大きな欠点ですね)。

ある人が言っていました。「山岳会とAAには共通点がひとつある。それは人の死がありふれたニュースであることだ」。

バースディ・ミーティングの会場で、コーヒーをセルフサービスで入れながら立ち話をしただけで、それだけで終わってしまうのであります。そりゃその人のホームグループでは、しんみりとした話題にもなっただろうし、ミーティングの前には黙祷も行われたでしょう。でも僕らは「死んだ人のリスト」に彼らの名前を加えて、あとはまた同じことを繰り返していくだけなのであります。

アルコホーリクの平均寿命は55才とも52才とも言われます。「それは飲んでいればという条件付きだろう」という言葉が聞こえてきそうです。でも、日本人男性の平均寿命まで生きるアルコホーリクがどれだけいるのだろうかと思うのであります。

まさに「今日一日」、「毎日の執行猶予」なんだなあと思い直した次第です。
仲間に感謝。


2005年12月06日(火) 10 years ago (12) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (12) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

酒が切れると、言いようのない苦しさが体を襲い、酒が飲みたいという欲求が駆けめぐります。そんな状況の中、タクシーで駅まで行きました。新婚旅行に出発するためであります。
母と、妻の父母が駅前まで見送りに来てくれました。
僕は精一杯元気であるふりをしていましたが、心の中は近くのビールの自動販売機に駆け寄っていきたい気持ちで一杯でした。

駅の入り口へと歩いていく途中で、一人の老女が僕ら二人の前に現れました。彼女が差し出した紙には「カンパで全国を旅しています。どうかご協力をおねがいします」と書かれていました。どうやら耳が聞こえなくて、しゃべれないらしいのです。老女の差し出した箱に、僕は千円を入れようとしましたが、妻に止められてしました。
よく物語りに、旅たちにあたって老人が現れて旅の吉凶を占うという話があります。僕はこの老女が、この旅行の、いやこの結婚の行き先を占う運命の女神であるような、そんな幻想をもったのでした。だから、それを無視して前を通り過ぎてしまったのは、なんだか後々まで悔やまれるのでありました。

新宿まで移動する「あずさ」の中で、さらにそこから成田へ向かう「成田エクスプレス」の中で酒を飲んだのかどうか記憶にありません。ただ、僕はその中で寝ていますから、きっとビールでも飲んだのでしょう。前の晩は禁断症状で眠れませんでしたから、列車の中で眠っているということは、たぶん飲んでいるのです。

成田空港での長い待ち時間の後、夕方になって飛行機はオーストラリアのケアンズに向かって飛び立ちました。エアラインはカンタスというオーストラリアの会社です。日本人の乗務員はいるものの、数が少なく、主に英語が必要でした。

生まれてはじめて乗るジャンボジェット機のエコノミークラスは狭く、まるでケージに閉じ込められた鶏のような気分でした。その席で次の日の朝まですごさなければなりません。僕は早々に酔っ払って寝ることにしました。

機内食の配られる前も、後も、僕はキャビン・アテンダントにお酒のおかわりを要求し続けました。ビールのカン、ワインをコップで、ウィスキーの水割り。機内では「アポロ13」という映画をやっており、僕はまだ見ていないので楽しみにしていたのですが、酔いが回って筋が追えません。

やがて機内サービスも終わって、暗くなりました。寝るためなのでしょう。
だが、僕は酒が飲み足りなくてたまりませんでした。
しかたないので、カーテンのかげで座って休んでいるキャビン・アテンダントをみつけると、「ワインを一杯」要求しました。彼が冷蔵庫からワインのビンを取り出してくると、「一杯じゃ足りないから二杯くれ」と要求しました。

両手にワインの入ったプラスチックコップを持って、ご満悦で席に帰ってくる僕を、妻は「なんて恥ずかしいことをしているの! ほかにそんなことをするひとは誰もいないじゃないの」と言って責めました。しかし僕は、英語しか通じないアテンダント相手に2杯のワインを勝ち取ってきた喜びで「どうだすごいだろう」と自慢をして、まったくかみ合っていないのでした。

赤道上空では気流が荒いらしく、飛行機は大きく揺れて、目が覚めました。
もう一度眠ろうとするのですが、なかなか眠れません。うつらうつらとしているほかはありません。「ケアンズについたら、空港でビールを買って飲んでやろう」という意識だけがありました。

ケアンズの空港には早朝に到着しました。ここで国内線に乗り換えです。僕は国内線のコンコースを行ったり来たりして、ビールの自動販売機を探すのですが、どこにもありません。酒を自動販売機で売っている日本のほうが特殊なのだと知るのはもっと後のことであります。


2005年12月04日(日) 10 years ago (11) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (11) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

ひさしぶりに更新をしました。考えてみるとサーバー移転からこっちまったく更新していませんでした。熱意が薄れていると言われても仕方ないかもしれません。

さて10年前。

その日曜日はさすがに僕も早起きをしました。
結婚式を終えたら僕と母は別の家に帰ることになるので、別の車で出発することにしていました。自分の結婚式には着飾っていく必要はないので、身支度は短く終わりました。そしていつもの朝に出勤するのと同じように、僕は自分の車に乗り込もうとしましたが、なんだかその車が傾いているのであります。パンクしているのでありました。

「うーん、これは凶兆」

車で通勤しているとは言え、まだまだ初心者マークが取れたばかりでありました。パンクなんていう事態は初めてで、どうしていいのかわかりません。教習所で習った手順だと、スペアタイヤを引っ張り出してきて交換し、タイヤを修理できるところまで持って行くということでした。が、そんなことをしていたら、自分の式に遅れてしまいます。
しかし母は僕が小学生の頃から車に乗っているベテランであります。近くのガソリンスタンドに電話をかけると、「来るから」と言い残して一人先に出発してしまいました。スタンドからやってきたおじさんは、あっという間にジャッキアップを完了させるとタイヤを抜き取りました。ぺしゃんこのタイヤがエアで一気にふくらんだところへ石けん水を吹き付けます。やがて小指の先大のガラス破片を取り出しました。コルク抜きみたいな器具できれいに穴を開け直すと、そこへ暖まったゴム片を差し込みました。ゴムが冷えればタイヤと一体化して修理は完了です。

こうして予定よりずっと遅れて式場のホテルへ到着しました。皆が「遅いぞ」と僕のことを叱るのであります。「いや、タイヤがパンクして・・・」と言っても皆の怒りは収まりません。自分はちっとも悪くない天災みたいなものなのに、なぜこんなに悪者扱いされねばならないのか・・・。
妻(になる人)には美容師さんがついて、丹念に髪を整えています。いっぽう僕にはドライヤーを渡されて「新郎さんはご自分でおねがいします」と言われました。僕は、直毛の剛毛なので髪をブローしても1〜2時間で元に戻ってしまいます。なので、髪をセットするという習慣がありません。しかしさすがに式にぼさぼさ頭ではまずかろうと、洗面台を前に取り組んでみるのですが、ちっともうまくいきません。
しかたないので、「おねがいします」と美容師さんに頼んだら、あっというまに仕上がりました。しかし後で陰から「髪のセットを頼んでくる新婦って初めてよ」と言われる始末です。なんだかひどく恨みがましい気持ちになりました。

式はホテル内の神殿で行われました。三三九度で使われる酒を水に代えておいてくれないかという僕の願いは、新婦の父によってはねつけられていました。しかたないから(唇をつけて飲んだふりだけすればいいや)と思っていたのですが、実際に口を付けたら一口飲んでしまいました。

「さっき飲んでたでしょう。いいの?」

と妻になった人に責められました。「おめでたい席は特別さ。後は飲まない」と言ってその場をごまかしました。

披露宴では新郎新婦の席の下にバケツが置かれています。つがれる酒は片っ端からそこへ捨てていけばいいですよとホテルの人に勧められていたのですが、乾杯のシャンパンから僕はちびりちびりと飲み始めてしまいました。3週間前の父の葬式では、あれほどきびしい視線を注いでいた親戚の人たちも、この日ばかりは(仕方ない)とばかりにあきらめ顔です。

新郎側の招待席には、僕の大学時代の友人知人を招待しました。僕が自殺未遂で帰郷して以来会っていない人もいました。東京でのフリーランスの仕事は結局うまくいかなかったけれど、故郷に帰って家庭を構えて地道にがんばります、という格好をつけたかったわけであります。迷惑をかけた人ばかりでしたが、招待を断る人はおらず、みな来てくれました。そのテーブルはさながら同窓会のような雰囲気をかもしました。

披露宴が終わって、新郎新婦が招待客を見送るという段になりました。皆が一応笑顔を作って歩いていく中で、一人僕のところへやってきて怒った顔を見せた人がいました。それは僕の高校時代からの友人で、一緒に仕事もし、そして仕事でも金銭面でもとても迷惑をかけた相手でした。「お前は一生許さないからな」と彼は言うと、すっと去っていってしまいました。
僕は背中に冷や水をかけられたように、がっくりと気持ちが沈んでしまいました。ああ、このめでたい席で恨みの言葉を言わずにいられないほど、僕が彼にかけた迷惑は大きかったのか。すこしでも埋め合わせ(などという言葉は考えませんでしたが)になればなどと考えた自分の浅はかさを呪いたい気分でした。

式が終わって、着替えをすませて、トイレから出てくると、待っていた人は妻だけでした。
招待客の人々は早々に駅へと向かい、僕と妻のそれぞれの家族は親戚の人とそれぞれの家に向かっていました。待っていてくれる人は、それぞれの伴侶だけでした。結婚式はもっとにぎやかなものだと思っていたのですが、終わってみれば、ぽつんと二人が残っているばかりです。

「二人っきりになっちゃったね」

ホテルのいすに座りながら、お互いにそうつぶやいたのを覚えています。

新居であるアパートの一室に向かい、そこで翌日からの新婚旅行の準備を終えました。
式が終わって数時間経つと、僕の体の中のアルコールは切れ始め、猛烈な飲酒欲求がおそってきました。

「ビールを買いに行きたいんだが」という僕の言葉に、「おめでたい席だけだっていったでしょう」という妻の言葉が冷水をあびせました。

その晩、なかなか眠れないままに、(明日の良好が始まれば、それは非日常、また飲んだって許されるさ。いや絶対に飲んでやる)という気持ちで布団を抱いている僕がいるのでした。

(この項続く)


2005年12月02日(金) ホームページ作り(その2)

Yahoo!にすげなくされて、僕もちょっとしょげました。
世の中には、「Yahoo!に登録してもらうにはどうしたらいいか」ということを指南しているサイトもあります。そういったサイトをいくつか見て回って、とりあえずすぐできることをやってみることにしました。

まず第一に、ホームページ(トップページともいう)を見たときに、それが何のサイトなのか一目で分かるようにするということです。たしかに「心の家路」という名前からは、何のサイトなのかはっきりしてくれません。
そこでホームページに「アルコール依存症の個人体験から始まって、回復のための・・・」という文句を追加することにしました。これで、「心の家路」がアルコール依存症をテーマにしたサイトであることが、ある程度はっきりしてくれるはずです。
それから、この文章は、サイトをどこかに登録する人が、サイトの内容を紹介する紹介文を書く手助けになるということです。実際に、この文章のまま登録されている場所がいくつかあります。

二番目に、インタラクティブ(双方向)の要素が必要だと書かれていました。つまり、メールの受け口でも、掲示板でもいいから、サイトの作者に対して読者からレスンポンスを返せるようにすることが大切だとされていました。これは、掲示板もすでに設置済みだし、メールアドレスも公開しているので、とりあえずクリアしているはずです。

こうして細かな変更を加えただけで、再度Yahoo!に自己推薦をしてみました。
Yahoo!のディレクトリに推薦する場合には、それがどんなジャンルにふさわしいかも書き添えねばなりません。僕は、トップ > 健康と医学 > メンタルヘルス > 病気、症状 > 依存症 > アルコールというジャンルで申し込みをしました。

数日後、Yahoo!からメールが届いて、「心の家路」が登録されたことを伝えてくれました。ただ、登録先のジャンルは、僕の希望した「依存症>アルコール」ではなく、トップ > 地域情報 > 日本の地方、都道府県 > 信越 > 長野県 > 健康 > メンタルヘルス でありました。
いまもこのカテゴリには3つしか登録がありませんが、当時は二つで、先に登録されていたのはあをねこさんの「道しるべ」でした(なので、「心の家路」は「道しるべ」の弟サイトであると言っているわけです)。

サイトの内容が、地域の情報に偏っている場合は「地域情報」以下のカテゴリに登録するというのがYahoo!のポリシーだそうです。しかし、「地域情報」に登録されたのでは、長野県のメンタルヘルスに興味のある人しか検索の対象にしてもらえません。
Yahoo!に登録されたということで、とりあえずの目標は達成したものの、なんとか「健康と医学」のジャンルに登録してもらいたい。そう思ってYahoo!にジャンル替えを申請してみるのですが、返事は無視というつれない結果が何度か続くのでした。

たしかに当時の「心の家路」は「長野県内のAA情報」がもっともメインのコンテンツでした。それ以外のコンテンツを増やして、なんとかジャンル替えという目標ができました。

Yahoo!のゼネラルカテゴリに登録されるんだ!というのが、サイト更新のひとつの動機付けになっていましたから、そういう意味では「注目されたい」という願望がプラスに作用している面もあったと思います。

「リンク集の充実を目指しています」という文言も、メインのコンテンツのひとつはリンク集ですよ〜というアピールがこもっています。

さて、これぐらい長野県情報の比率をさげればいいだろう、と思ってYahoo!に申請をだしてみても、相変わらず却下続きです。

そのうちに、「Yahoo!のカテゴリの編集者は、Googleでの検索結果を参考にして、サイトをそこに登録するか決めている」という噂を耳にしました。たとえば、アルコール依存症のカテゴリに登録されたいのなら、Googleで「アルコール依存症」で検索したときに、20位〜30位ぐらいまでに入っていると良いというのです。

試しに、Googleで「アルコール依存症」を検索してみると、ようやく200番目ぐらいにやっと「心の家路」が登場する状態でした。

こうして僕の戦いの相手(?)はYahoo!からGoogleへと変わったのでありました。

(この項、ときどき続く)


2005年12月01日(木) ホームページ作り(その1)

ホームページ(最近はウェブサイトといっても通じないな)にしても、日記にしても、ブログにしても、掲示板にしても、つまるところ「自己表現」であるからには、より多くの人に見てもらいたいという希求が存在するでしょう。

会社の同僚相手の掲示板とか、学生時代の友人どうしのBBSとか、そういうクローズドなものもやっていますが、「心の家路」にしてもアクセスカウンターをつけているのは、どれぐらいの人に見てもらっているかを「僕自身が知りたい」からであります。

ホームページその他の作成の技法だとか、ネタだとかそういう話とは別に、「心の家路」でアクセス数を稼ぐためにやってきた話を(また)書いてみたいと思います。

「心の家路」の始まりは、長野県内のAAミーティングの案内でした。これは当時あをねこさんがACミーティングその他の案内をネット上で始められていて、「ACミーティングの案内がネット上にあるのに、AAのがないのはあかんな」という思いで始めたわけです。
ただ、AAのミーティング案内だけあっても、何がなんだかわからないでしょうから、個人の体験談とか依存症という病気の説明なんかを少し加えておきました。

最初は一日に数人の訪問者でしたが、二桁になる頃、Yahoo!に登録すべく申請を出しました。いまはYahoo!といっても、検索エンジンとして圧倒的な地位にあるわけじゃありませんが、当時はまだまだYahoo!の勢いは強く、Yahoo!のディレクトリに登録されているかどうかというのは、ある意味ホームページの良否を分けるとも言われていた時期でした。

Yahoo!への登録の申請はいまは ここのページ から行うようになっています。正確に言えば「サイトの推薦」なのですが、誰も推薦してくれないので「自己推薦」であります。

申請が通ってディレクトリに登録された場合には、数週間後にメールで連絡が来ますが、残念ながら選に漏れたという場合には、何も返事は来ません。

僕は「心の家路」を自己推薦したあと、何週間か待ちましたが、Yahoo!からはメールはまったく届かないのでありました。

(この項、ときどき続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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