心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年07月31日(日) トニック・ウォーター

頼んでおいたトニック・ウォーターが届きました。
案の定、長女は興味津々です。
「おいしくないよ」と言ってから飲ませてみましたが、感想は「まずくはないけど、おいしくもない」「グレープフルーツの苦いところを食べてるみたい」だそうであります。
あんまり将来しゃれたカクテルを飲む夢とか見て欲しくないなぁ。

3DKも手狭になって、妻と子供が階下に移るという話は前にも書きました。でも、給水やら排水口の位置などの関係で、洗濯機の置き場所が決まらず不満がでてきたようで、かわりに僕が階下に追い出されることになりました。

そうは言っても、ISDNだって、光ファイバーだって3階に引き込んでいるんだから、それを2階に移設する工事費だけでもずいぶんかかります。試しにNTTに電話してみたら、工事費が4万円、工事の予定は9月になるそうです。
夜中までいろいろ調べたあげく、「屋外用LANケーブル」なるものも世の中には存在していることが判明し、これで2階と3階を配線すればよさそうです。
これからしばらく週末は引っ越しやら配線やらに追われそうです。

送迎のお礼にいただいた花火ですが、子供たちが大喜びで、夜になるのを待ちきれずに始めました。ディジカメでストロボシンクロ撮影に挑戦しましたので、そのうち写真ブログのほうにでも・・・。

ああ、なんだかあっという間に終わってしまった週末でした。昨日は携帯電話で長話をして、最後は充電器に載せながら話をしているという状況だったのですが、それでも「無料通話分」というのを使い切るには至りませんでした。

ああ、また明日から仕事か。


2005年07月30日(土) オープン・スピーカーズへ

無理だ。とは思っていたものの、一応8時に目覚ましをかけておきました。
そしたら、それが鳴る前に夏休みの娘たちに起こされました。

朝から何も食べる気になれません。コーヒーを飲んで、バナナを一本食って、9時までにETCのゲートをくぐれば高速道路が5割引なんだという考えだけに支配されて車を出しました。
サービスエリアのモスバーガーで朝ご飯。給油して、小淵沢インターでおりました。

八ヶ岳高原道路は無料化されてから遅い車が増えたような気がしてなりません。気持ちよく飛ばしていると、前にすぐ車がつまってしまいます。かといって、見通しが悪いので、追い越しは命がけです。
天女山の下の交差点で、合宿らしい女子高生の集団とすれ違いました。暑い中、麓の駅から上ってくるのは大変だったでしょう。
教えられたとおり、野辺山から直接川上村に向かいました。ここらへんの風景はいずれ写真ブログのほうに載せる予定です。

会場は暑かったです。金沢から来ている仲間に「長野が涼しいというのは幻想で、本当にクーラー不要というには、上高地にでも行かないと無理ですよ」と言ったら、「この前、上高地に行ったら31℃だったんよ」と切り替えされてしまいました。

僕が10代の頃には、僕の住んでいる地方都市には、クーラーのない喫茶店だってありました。年平均気温はそんなに変わっていないようですが、冬に寒い日が減り、夏に暑い日が増えたのは確かであるように感じます。

お弁当はおいしかったです。

人の話はたいして聞かずに、眠いので寝ている時間が長かったように思います。「お前は何しに来ているんだ」と怒られそうですが、まあ「AAの空気を吸いに来ている」ということにしておきましょう。

6年この地でへき地医療にたずさわった医師が、アルコールの患者さんを自助グループに紹介するのだけれど、そうやって良い方向に向かっていった患者さんは一人もいないまま、任期を終えたという話が印象的でした。

帰りは、佐久・小諸から三才山峠を越えてきました。

ひさしぶりに仲間と電話で長話をしました。ソーバー続けていたって、神様なかなか楽はさせてくれないなぁ、という感じでありましょうか。でもね、お互い酒が止まって良かったよ。

うつで思考能力が鈍っているのと、疲れと、なんだかちょっとハイな気分になっているのと、ごちゃまぜのまま、もう午前3時であります。


2005年07月29日(金) ステータス・シンボル

こんなことをお前が書いていいのかよと言われそうですが、書かないでおくのもストレスなので書いてしまいます。

プログラマーなんで、ステータスという言葉はよく使います。statと縮めてスタットと呼ぶことも多いです。体調が悪いのは「スタット悪りー」という表現であります。

ステータス(status)ってのは、元来の意味は「(社会的)地位」であります。ステータス・シンボルってのは社会的地位の象徴で、たとえば家だったり、車だったり、職業であったり、そこでの階級であったり、金であったり、もっと抽象的なものでは「家柄」とかいうものだったりするわけでありましょう。
ステータスを求めるというのは、神が人間に与えた本能でありましょうから、ステータス希求心を否定することは愚かしいことだと思います。でも、なにごともゆきすぎはトラブルの元です。
男というのはステータスを過剰に誇りたいという病気をもっているのかもしれません。いや、持っているのでしょう。

依存症という病気は、肉体的な生命だとか、精神的な生命だとかを蝕む病気ですが、社会的生命=社会的地位をも蝕む病気であります。ステータスを失っていくのも病気の進行であります。収入を失い、家族を失い、住む家を失い・・・。その中に「底つき」を見つけられる人は、幸運なのでしょう。

ステータスは失われても、ステータスを誇りたいという気持ちは失われません。しかし、金は「経済的な回復は霊的な回復より先にはやってこない」ことになっていますし、社会的信用や地位なんてものはもっと得にくいものです。が・・・。

男がほしがるものとして、金・名誉・女の三つをあげるのは類型的すぎるでしょうか?
金も名誉も失い、簡単には取り戻せないことを悟った男が取る行動は・・・、女をステータス・シンボルとして獲得するというものであるかもしれません。「俺は落ちぶれ果てたが、まだ女に見向きもされなくなったわけじゃないぞ」と思わしめてくれる存在です。

そんなことを意識的にも、無意識的にも考えている男を、わざわざ選び取る女がいるはずはない・・・と思うのですが、女というものは不思議なものです。僕は女になったことはないのでその気持ちは分からないのですが、ともかくそういう男とくっつく女も広い世の中には、(いや狭い自助グループの中にも)いるわけです。

しかし、女というのは(と一般化するとまた怒られるんだろうけど)リアリストであり、冷静に戻るのも早い。ところが男というのは、いつまでも夢見がちな気分でいたりする。女の変節を責めていても、実際にはステータス・シンボルを失う痛みや、プライドの痛みに苦しんでいるだけだということは、本人に理解できないというか理解したくない。
変えられない現実を無理に変えようとすればストーカー行動になるし、プライドを傷つけられた痛みは相手に対する何らかの復讐行動になったりします。

まあ、こんなことを書いても何も裏付けの事実があるわけじゃないので、妄想と言われても、でっち上げと言われても仕方ありません。

自助グループにたどり着いた時、そこは性別の問題だとか、社会的地位の問題だとかを越えて、もっと大きな問題の解決を目指すために、みんなが仲良くできる理想郷なんだと思いました。でも現実は理想通りではないし、暴力やハラスメント防止のガイドラインができると言うことは、現実がガイドライン通りにいっていないことの証拠であります。

だから幻滅したかというと、あんまりそうでもない気がします。ひとりで飲んでいた頃に比べれば、人間が好きになったと言うことかも知れません。


2005年07月28日(木) 苦しさ

子供たちが夏休みに入って、これから毎日家にいることになります。
今朝起こしてくれたのは長女でした。ママは買い物で不在でした。

この2週間ぐらいのあいだでは、一番調子の悪い一日でした。
なんとか起きあがったものの、体中が痛くて仕方ありません。処方されている鎮痛剤で筋肉の痛みや頭痛はある程度収まるものの、内臓の痛みはおさまりません。
コーヒーを飲んで目を覚ましたものの、ろくに食事も取れずにでかけました。

会社でも、ただ机に座って「いる」という状態で、寝ていたのでしょう。気がつくと午後3時ぐらいでした。医者の「くれぐれも無理しないでくださいね」という言葉だとか、上司の「焦ることはないじゃないですか」という言葉が思い出されますが、ともかく出勤していれば給料になるんだという考えと、ここで休んではなんとなくまずそうな気がするという強迫観念に押されているような状態です。

5時半になったら、とっとと帰ることにしました。これがフルタイム勤務に移行すると、いきなり朝9時から夜8時までという状態になるのは目に見えているので、そう簡単にはフルタイムに移行できそうにありません。

昼間のうちに、妻の姉さんが来てくれて、いろいろと話をしていってくれたようです。
彼女は保険の外交をしているので、とりあえず生命保険の勧誘の話が一件。でも、僕は依存症でうつ病持ちなので、告知義務の問題などもあり、大口の保険に入るのはいろいろとハードルが高かったり、もし飲んで死んだりした時に残された人間に役に立たないことも考えられたりします。
今入っている農協の共済は、告知義務の2年も過ぎているし、民法の5年も過ぎているので、これはいじりたくない。これで最低限の保障は確保しているので、あとは必要に応じて掛け捨ての定期保険とかを足していけばいいと言うのが僕の考えです。だから、義姉のノルマ達成の役には立ってあげられそうにないのであります。

もう一つの話は、現在は義父母の所有するアパートの3階(各階に1件づつ)の3DKに一家4人で暮らしているのですが、それでは手狭になってきたし、女の子二人も大きくなってくるしで、この際だから入居人のあてもなく空いている2階も使ったらどうかという提案でした。
義父母も賛成らしいので、この夏休みの間には、妻と娘二人は2階に引っ越していきそうな雰囲気です。
電話もインターネットも無線化しているので、配線替えは要りませんが、テレビは2階まで分配しないと行けないので、5C2Vのケーブルを買ってきて抜本的に配線をし直そうと思っています。


2005年07月27日(水) 値引き

同じ車も二日目になると、欠点(?)も多少見えてきます。

まず、エンジンが高出力であるだけに、微速域でのトルクは細いです。オートマチックのトランスミッションも、いま一歩こなれていなくて、渋滞の中ではギア選択に迷っているふうでもあります。
それから、最近はATのスポーツ車の定番と言ってもいい「スポーツシフト」。ギア選択ができる・・・のはいいんだけれど、これが生きてくるような走行をするには、相当気合いが入っていないとだめなんでは? 慣れていないせいもあるでしょうが、普通に走っている分にはATにシフトを任せておいたほうが、燃費の点でも利点がありそうです。

それから人間に楽をさせるとそれになれてしまうもので、オートライト付きの車に乗ると、トンネルでいちいち点灯・消灯を繰り返すのが面倒になります。HIDのヘッドライトをつけっぱなしで走っていると、なぜか前を走っている車がどいてくれるのであります。

ディーラーでは、店長が自ら明細の解説をしてくれました。そして、端数をまけるとというかたちで20万円ちょうどにしてくれました。もちろん払う金を持っていなかったので、クレジットカードで精算しました。支払日までの1ヶ月半の間に金策をしないといけません。

通勤用に自腹で買ったハイウェイカードが何枚か残っていまして、これはそのままハイウェイカードとして使ってもいいのですが、ETCだと最近は「通勤割引」だとか「深夜早朝割引」だとかで半額になる機会も多いので、ハイウェイカードの残額をETCの「前払い割引」に付け替えするという手続きをしました。

ホームグループのミーティング。心がほぐれる。メダルの仲間が二人。昨年つながった仲間は多いけれど、今年になってからの仲間はほとんどいないところが、ちょっと気にかかります。でも、そうそう成長一辺倒というわけにはいかないわね。

「ブレーキーのローターまで交換になっちゃって」と母にこぼしたら、「これから毎日高速道路で通勤するんだから、安心できる状態にしておいたほうがいいよ」と言われました。うーん、そういう前向きな考えはしてなかったな。

シュウェップスのトニックウォーターの支払いをしました。本体価格−ポイント値引き+送料+送金手数料=2,200円。


2005年07月26日(火) はらほろひれはれ

車検の日がやってきました。
朝のうちにディーラーの営業がやってきて代車を置いてってくれました。
代車にはいつも試乗車を回してくれるので、毎回乗るのが楽しみです。今回は こちら の2.0Rセダンタイプでありました。
17インチタイヤというのは見るだけで圧倒感があります。乗り出して感じたのがブレーキの効きの良さでした。これは逆に普段乗っている車のブレーキの効きが悪くなっている証拠なのかも知れません。

通勤用のETCカードを自分の車に置き忘れたので、ディーラーまで取りに行きました。昼休みなのか店舗には誰もいないので、サービスのほうに回ってメカニックの人にお願いしました。「通勤用のETCカード」と言ったところで、なんだか相手が「え?」という顔をしたような気がします。代車を高速通勤に使うのかよ? というような驚きだったのかも知れませんが、例によって僕の被害妄想かも知れません。

さて、可変バルブタイミングで180馬力を稼ぎ出すエンジンは快調で、普通車としては堅めのセッティングのサスも相まって安心感があり、ふだんはちょっとビビりながら入っていく高速道路の下りコーナーも140Km/hで安心して飛び込んでいけます。
しかしやっぱり2リッターNAの限界なのでしょうか、走行車線から混んでいる追い越し車線に飛び出すには、飛び出してから加速ではなく、加速してから飛び出さないと後続車にあおられる羽目になります。

帰りの高速は台風の影響で雨になりました。
外気温計などがトグルで入れ替わって、瞬間燃費を表示する機能があります。どーんと加速している時は2キロ台。エンジンブレーキが効いている時は最大値の50Km/Lを表示します。もちろん平均燃費の表示も、給油まであと何キロ走れるかの表示もあります。

平坦な高速道路を一定速度、一定アクセル開度で走っている(つもり)の状態でも、燃費計は10キロ前半から25キロぐらいをいったりきたりします。水はけの良い高機能舗装の部分ではグリップが良くて燃費が良くなり、水がべっとりとたまっているところではμが悪くなるせいか燃費も落ちます。高機能舗装は環境にやさしいのでしょう。きっと、たぶん。

エレクトロルミネセントメーター(いわゆるブラックフェースメータのバックライトつき)はすこぶる格好いいですし、HIDのヘッドライトも初期の頃に比べると、点灯速度・明るさともに改良されています。やっぱり新車はいいなぁ。こうやって買い換え需要を掘り起こしているんでしょう。

いつもだったら夕方には入るディーラーからの見積もりの電話連絡が、なかなか入りません。眠気に襲われて寝ていたら、夜8時頃電話で起こされました。

エアエレメント交換・補機類のベルト交換・ATFの交換・センターデフおよび前後両方のデフの極圧オイルの交換・それから前輪両方のブレーキパッドの交換。それだけだと思っていたらローターのほうも段つき摩耗している(耳がたっている)ので交換になるそうであります。
なんだかディーラーに荒稼ぎされている気分になりますが、油脂類は交換時期だと言われればそのとおりですし、ブレーキの効きが悪くなっているのは実感したばかりです。

結局見積もりは20万をゆうに越えました。妻からは「身分不相応の車に乗っているからよ」と皮肉を言われる始末です。うーん、困った。

でもやっぱり新車はいいなぁ。宝くじでも買おう。


2005年07月25日(月) トニック・ウォーター

USB接続のフロッピーディスクドライブを差し上げたら、お礼にウィルキンソンのジンジャーエール24本をいただきました。それが5月頃のことだったでしょうか。
最後の2本を飲んだところであります。
全部飲むのに時間を要したのは、やっぱりその「辛さ」に原因があります。

さて、「滅多に飲まない」にしても「特別な飲み物」がないのは、ちょっと寂しいものがあります。かといって懇意にしている酒屋があるわけでもないので、通販で買うことにしました。

台湾に行った際に、機内サービスでトニック・ウォーターを頼んだのを思い出しました。トニック+ウォーター+通販でGoogleって見つけたのが、こちらであります。たしか、機内で飲んだのもシュウェップスでした。あれはカンだったけど、これは瓶だな。
250mlというのは、ちょっと量が寂しいかもしれません。ウィルキンソンのジンジャーエールはとっても辛いので250mlでちょうどいいかもしれませんが、トニック・ウォーターは250mlじゃ物足りないかもしれません。

さらに、探索を進めると 500mlのペットボトルも見つけました。

しかし、トニック・ウォーターを探していくと、たとえば こちらのページ のように、ジン・トニックのページへとたどり着いてしまうことが多いのです。
それはまあ、当然かもしれません。世の中で、トニック・ウォーターをそのまま飲もうという人間は少ないのであって、大部分はジン・トニックの材料として使われているのでしょう。ウォッカとか甲種焼酎なんかにも合うでしょうね。

ビーフィーターのロンドン・ドライ・ジンなんていう名前をみると、それだけで「あーくそー、飲みてー」と思ってしまいます。僕はジン派でした。ジンの種類はそんなに多くなくて、サントリーが2種類、あとは輸入物が5〜6種類あったぐらいでしょうか。
カクテルを作るとか、何かで割るなんていう手間はかけなくて、そのままグラスになみなみとついで飲むのが常でした。火酒が胃に入ると「かーっ」と熱くなって、そこでセブンスターを深く吸い込んで吐くと、この世の幸せを実感できるのでした。
でも、そういう気持ちの良い酔いは次第になくなって、飲むとすぐに泥酔するようになっちゃうんですけどね。あの気持ちの良い「ほろ酔い」を求めて、何度も何度も挑戦するのですが、滅多にそれは得られないものになってしまったのでした。

ネット・オークションをひんぱんにやっているせいで、Yahoo!ショッピングのポイントが貯まっていました。何かに使う予定もなかったので、最初に見つけたお店でポイントを使って、シュウェップスを24本頼んでおきました。

酒を飲まなくなっても、甘くない飲み物(お茶以外)とか酒のつまみみたいな食べ物とかが好きなんですよねー。


2005年07月24日(日) 絶版

電話をしているうちに、吾妻ひでおの話題になって、『失踪日記』のオレンジ色のカバーの裏側には後日談が載っているんですよという話をしました。
「え? とり・みきとの対談とは別に?」
と聞かれたので、「うん、うん、別」と答えて書棚を見回しましたが、オレンジ色の本が見あたりません。そういえば誰かに貸した覚えがありますが、まあ貸した本は返ってこないという経験は山ほどしているので別段腹も立ちません。一方で、あげたつもりで渡した本は後日返されてくるという経験則もあります。

しかたないので、amazon.co.jpに注文を出しました。『失踪日記』だけだと1,500円に満たなくて送料がかかってしまうので、マット・スカダーの第一作『過去からの弔鐘』を加えました。送料を払うぐらいだったら、その金で本を一冊買ったほうが良いという気持ちにさせてくれる不思議なシステムであります。
一方、昔から使っている紀伊國屋書店のオンラインストアはきっちり送料を請求してきます。

ハビエル・ガラルダという人の書いた『自己愛とエゴイズム』と名の本をスポンシーからもらって、読み始めるのですが、なかなか最後まで読み終わりません。でも中身は良い本なので、人に勧めたりプレゼントしたりしていたのですが、ひさしぶりにamazon.co.jpで調べてみたら絶版になっていました。まあ、マーケットプレイスという中古市場で手に入りますし、今はオンラインの古本屋もある時代ですから、入手に苦労するということはないのでしょうが、絶版は悲しいものがあります。

一方で、斎藤学氏の『アルコール依存症の精神病理』という本は、20年前のものなのにまだきちんと出版されていたりします。やっぱり知名度に左右されるのかもしれませんね。

と、ここまで書いたところで、書棚にオレンジ色の『失踪日記』を見つけてしまいました。あわててアマゾンでキャンセルの手続きをとりました。マットとの出会いはまた先に伸びたようです。


2005年07月23日(土) 年齢と見かけ

もともと実年齢よりだいぶ若く見られるほうでした。
20代の頃は大学生と間違われることはしょっちゅうでしたし、31才で運転免許証を取りに自動車学校に通っていた時も教官に大学生だと思われ、「学生のくせに毎日酒臭い息をしやがって」と言われたりしていました。

女性は特にそうかもしれないですが、男性でも老けてみられるよりは、実年齢よりも若く見られるほうがうれしいものであります。前の会社でも「年齢不詳」と呼ばれていました。

しかし、仕事の面では若く見られることは決して得なことばかりとは限りません。若僧と思われることは、経験不足を連想させるのでしょうか、同じことを年かさの人が言えば納得してもらえるのに、僕が言うと「生意気なことを言いやがって」という顔をされることも珍しくありませんでした。
それでも仕事で他の会社の人と会うのが、技術的な打ち合わせにとどまっているうちはたいした問題ではありませんでした。

営業の仕事も任されるようになると、若く見られるということのデメリットも増えてくるようになりました。会社の社長も気にしてくれていて、課長などという肩書きを割り振ってくれたりもしましたが、中間管理職としてのストレスが増えただけだったように思います。

昨年の8月、今の会社に雇われるために、前の会社にいた4人そろって面接を受けた時でした。「皆さんお若いから」という言葉から、年齢の話になり、「何才なんですか?」という質問に対して、「何才に見えますか?」という切り返しをしました。前頭葉が発達しているかわりに額も広い僕の同級生が一番年かさに見られ、次がかわいそうに20代の若者、その次が僕で、僕より2才若い美男子がもっとも若く見られるという順番でした。
比較的若いスタッフを雇おうとしていた先方にとって、4人のうち3人が40代というのは、大きな誤算だったようですが、縁談と同じで動き出した話は途中ではなかなか止まらずに、そのまま雇われることになりました。

4月だったかに愛宕山でスポンシーと直接合った時に、(同じぐらいの年齢なのに)「僕のほうが若く見えますね」と言われ、はっきり言って僕は気を悪くしました。しかし、実際に彼のほうが僕より若々しく見えるのも事実でありました。事実は認めざるを得ません。

先週復職した際に、隣の席のヤツから「老けたね」と言われました。前の会社の時代は年齢不祥だったけど、今は年相応に見えると言われました。

久しぶりに鏡を入手して、自分の顔を眺めながら考えました。「何でなんだろう」。目尻にしわはまだないけれど、シミそばかすは確実に増えています。

思い出したことがあります。学生時代の友人で、吉野家で大盛りを2杯食うようなヤツがいました。僕は飲み助でしたが、彼は食い道楽でした。社会人になって体重80Kgを超えていた彼が、あれよあれよという間に50数Kgまで痩せてしまったことがありました。彼の減量方法は単純で、野菜をたくさん食べることでした。久しぶりに大学で会って、学生食堂で昼食を食うときにも、彼はキャベツの千切りを大盛りにしてもらって、まずそれを全部平らげてから、他のおかずや飯を食べるのでした。急速に痩せたせいか、野菜に偏った食生活のせいか、彼の顔色はあんまり良くなくて、一気に10才も老けたように感じました。

男でも女でも太ると若く見えるようになる気がします。「女性は痩せると美しくなる」という幻想が(男にも女にも)あります。久しぶりに会った女性が若々しく見えるようになったので、「痩せましたか?」と聞いてみると、実は太ったのだという答えが返ってくることがあります。

考えてみると、過食気味で増えた僕の体重は、休職してから減る一方です。半年で6キロほど痩せました。願わくばあと6キロほど痩せると、元のズボンがはけるようになるので嬉しいのですが、まあ贅沢は言いません。

痩せると老けるのかなぁと思ったのが一点。それと以前はセルロイドのフレームの眼鏡をかけていたのですが、我が子たちの強い要望があって銀縁眼鏡に換えたのも原因かも知れません。

望んでいたはずなのに、実年齢と同じように見られるような容姿を手に入れて、実はあんまりうれしくないのであります。


2005年07月22日(金) 遅刻

何とか起きあがったらすでに午後12時5分でした。いつも出勤するために家を出る時間が12時8分ぐらいですから、3分で身支度ができるはずもなく、会社に遅刻の連絡を入れる羽目になりました。

結局1時40分ごろに出社したのですが、たまたま事務所にいた部長のところに顔を出したら、「うーん」とうなって冷たい顔をされただけでした。まあ、それは僕の被害妄想かも知れません。タイムカードにも赤い字で「遅刻」と書かれてしまいました。

「今季の目標設定シート」なるEXCELファイルに個人的な目標設定を書いて上司にメールしました。この目標をどれだけ達成したかを、期末に上司と話し合って決める仕組みだそうです。考えてみれば、まっとうな査定のある会社に勤めるのは生まれて初めてであります。

交通費の一部として支給されていたハイウェイカードが終わったので、やっと会社のETCカードを使って通勤できるようになりました。ただ今度は自分のETCカードと使うのを間違えないようにしないと、休日のAAイベントに行くのに通勤用カードを使ってしまったりしたら、後で会社の総務から大目玉をくらいかねません。

帰り道に眠くなったので、途中のパーキングエリアに車を駐めて寝ました。再び起きると午後9時でした。たいして実務はしていないのですが、通勤するだけで疲れてしまったのかも知れません。やっと週末にたどり着いたという感じであります。

アルコール中毒(アル中)とアルコール依存症は違うのですか? を追加しました。7月は更新が少なかっただけに、今回はちょっと力みすぎているかも知れません。


2005年07月21日(木) またメールアドレス変更

smoug.netのメールアドレスを便利に使わせて頂いていたのですが、最近POPサーバーに接続できなくなってしまって、Webページも見られず、しかもDNSも引けないという状態になっていました。
ちょうど、掲示板のほうで議論を進めていることもあり、メールが届かないのはまずいなぁ、ということで、別のメールサービスを探してアカウントを取り、「心の家路」のあちこちに書いてあるメールアドレスも書き直し終えて、FTPも終わったところで念のためにsmougにアクセスしてみたら、その瞬間だけは接続してホームページも見ることができました・・・がそれっきり、また接続できない状態に戻ってしまいました。

というわけで、ここのところsmoug.netあてにメールをいただいた方にはすみません。僕の手元には届いておりません。新しいメールアドレスはホームページの一番下と、こちら に書いてあります。もっともこれは、まともなメールアドレスをさらすとSPAMの嵐に見舞われるので自衛策であります。

ieji.orgドメインでちゃんとしたメールアドレスも存在しているので、そちらに送って頂いても結構です。

病院メッセージの後、セルフのスタンドで給油。燃費9.34Km/L(満タン法)、14.6円/Km。前回が8.4Km/Lでしたから、向上していますがこれは高速道路を走って通勤を始めたからでしょう。前回の給油から2週間たっていますが、今後はおそらく5〜6日に一回は給油する必要がでてきそうです。

車検の予約を入れました。もし僕がトヨタの車に乗っていたら、間違いなくユーザー車検で安くあげるところですが、残念ながらユーザー車検で安心できるメーカーの車ではないので、ディーラーに預けることにしています。
ECUのROMの交換もこっそりと行われていますし、リコールするほどでもないけれど、こっそり直しておきたいところと言うのはあるのでしょうね。それを「ヤミ改修」ととらえるか、「定期的メンテナンス」と考えるかは、メーカー・ディーラー・ユーザーの考えによるものなのでしょう。


2005年07月20日(水) 暑い

会社が暑い。
エアコンが効いていて自宅より涼しいだろうと思っていたのですが、考えが甘かったようです。この4半期は営業成績が悪いらしく、経費節減令が出ていて、エアコンの温度も高めに設定されています。
気がつくと部屋でワイシャツを着ているのは僕ひとりであります。他はみんなTシャツ1枚という格好です。もはやクールビズ以前の問題でありますな。
PCが何台と動いている部屋よりも、エアコンが効いていない階段のほうがずっと涼しかったりします。

僕が休職する前は、事業所からのインターネットアクセスは直接外(インターネット側)に出ていたのですが、復帰後念のためにチェックしてみたら、HTTPだけひとつ次のアドレスからアクセスに行っています。プロキシーサーバーの設定はないのですが、何かのネットワーク機器が挟まれていて、ひょっとしてHTTPのログを取っていたりするかもしれません。
会社から「心の家路」をみたり、あちこちの掲示板に書き込むのは「堅いこと」を言われれば就業規則違反でありますから、できればそういう証拠は残したくありません。謎のネットワーク機器の存在が明らかでない以上、安全策をとることにしました。
会社のサーバー群へのアクセス以外は、全部自宅へのVPN経由で、自宅からインターネットに出るということにしました。
まあ、これで僕の勤めている会社名がぽろりと出てしまったりすることは避けられるわけです。

来週月曜日は、お客さんとの打ち合わせの予定です。実は昨年末から仕事の依頼が入っていたのですが、休職の間待っていてもらいました。前の会社からのおつきあいで、ご指名で仕事をいただけるのはありがたい話であります。ただ、個別の顧客への対応は、会社内での査定の対象には入らないので、やりたがらない人も多いのであります。僕としては、人と顔をつきあわせた仕事のほうが好きなんですが、しかたありません。

というわけで、仕事らしい仕事もいくつか入ってくるようになって、「くれぐれも無理の無いようにしてくださいね」と5才年下の上司から念を押されたのでありました。

ホームグループでのAAミーティングの後、公民館のホールで仲間とアフターミーティングをしていたら9時40分になってしまいました。あわてて実家に行き、あたふたと自宅へ帰りました。

話は変わって、ネットオークションで不愉快な目に遭いました。不愉快な目に遭ってから相手の評価欄を見ると「悪い」評価がいくつもついていたりして、やっぱり入札する前にきちんと相手の評価は定めておかないといけないなぁと、オークションの基本を思い出すのでありました。
でも、1円スタートだとそういう安全弁も働かないんだよね。今回の被害額は1,600円にすぎないのですが、だからと言って不愉快な思いが減るわけではありません。まあ、2週間ぐらいの長期戦を覚悟していますが、最終的には相手に「悪い」という評価を初めて与えることになるのかも知れません。
オークションで被害にあった場合には、保険による補償が受けられるようになっています。そのための毎月の会費でもあるのですが、いつの間にか保険も改悪されていて、いったん補償を受けると、その後半年間は保険が使えない仕組みに変わっていました。この先、もっと大きな被害を被る可能性もゼロでない以上、1,600円は泣き寝入りに終わってしまうのかも知れません。
こんなところにツケを回すぐらいなら、ソフトバンクは赤字を垂れ流すばかりのYahoo!BBなんかやめてしまえよ。


2005年07月19日(火) 復帰一日目

まず、みずほのオンラインバンキングでありますが、落ちているように見えるのは僕の自宅からだけで、実は会社からはきちんとアクセスできました。おまけに自宅からもFireFoxを使えば、おそいながらも使えます。いったいどんな現象が起きているのか・・・。

職場復帰も半年ぶりなので、いろいろと忘れていることも多くありました。
まずタイムカードを押すのを忘れました。といっても、物理的なタイムカードがあるわけじゃなくて、統合オフィスシステムとかいうのが導入されていて、社内文書やらスケジュール管理やらに加えて、タイムカードもパソコンでログインして「出勤」ボタンを押すといった仕組みであります。

ペーパーレス化というも進んでいて、書類は全部PDFかWORDファイルで回ってきます。しかもそいつをプリントアウトするのは「まかりならぬ」という規則であります。省資源はいいけど、目が疲れまする。自宅へコピーして持って帰ったりするのも良くないらしいです。

一応仕事っぽいものは与えられましたが、期限もなく、ゴール設定もないというもので、いかにも病み上がりに配慮したという感じでありました。来年の4月には(僕の場合には半年休んでしまったので1年延びて再来年の4月になるかもしれませんが)年俸制になります。年俸は職級というのと年齢などで決まってくるのですが、「目標設定」と「達成率」で毎年評価するという仕組みは他社と違いありません。

「目標設定」というだけでうんざりという気分なのですが、そこに書かれていたことが中間管理職的な要素が強くて、またうんざりしてしまいました。疾病社員として「ぺーぺー」の職人肌技術屋としてやっていきたかったのですが、会社としてあくまで「出世を目指して努力しろ」という姿勢なのでしょうか。やれやれ。

半年ぶりなので、ソフトのアップデートなどをし、自宅へのVPNも通し直しました。

「まだ帰んないんですか?」

と聞かれたので時計を見ると、もう午後6時でした。そうか俺はパート社員なんだっけと思い出して。「お先に」と言ってそそくさと帰ってきました。

疲れて午後9時まで熟睡。一日に二回寝る習慣はなんとか直さねばなるまいね。


2005年07月18日(月) 諸事

みずほ銀行のオンラインバンキングシステムが落ちています。
定期メンテナンスかと思ったのですが、メールをさかのぼって調べてみても、お知らせは特に来ていないので、まあたぶんシステムダウンでしょう。連休中で遠くへ出かけているシステムエンジニアの皆さんも、携帯電話一本で東京まで緊急収集をかけられているのでありましょうか。つくづく金融関係のエンジニアでなくて良かったと思います。

にしても、使えるはずのものが使えないと頭に来ます。ただ、みずほの場合、インターネット銀行と違って、実際の振り込み処理などは月曜(今回は月曜が休みだから火曜)まで待たないと行われないため、明日になったところで実害はなにもないのですが・・・。

5月のお祭りで金魚を取ってきたものの、全部死んでしまって、結局メダカだけが残ったのですが、新しく買ってきたメダカ2匹の内、1匹はそうそうに死んでしまって、去年から残っている1匹と併せて2匹という状態であります。去年から残っているのは寿命の記録更新中であります。

それから、僕の知らないうちにネオンテトラ2匹が増えています。仮にも熱帯魚の仲間だろうから、はたして金魚の水槽で飼って大丈夫か心配したのですが、いまだに元気です。

それから、長女が「トリオップス」という古生代からいるエビの仲間の飼育キットを買ってきました。円筒形のプラスチックの水槽に水を張り、「卵が入っている」という袋をその中に開けて2〜3日すると、エビのような奇妙な動作をする生き物が水槽を泳ぎ回るようになりました。友達の家では1日で死んでしまったそうですが、育てば5cmぐらいにはなるそうであります。でも、気持ち悪くてあんまり好きじゃないなぁ。

と、ここまでが昨日書いておいた予備なんですが、今朝見たらトリオップスはひっくり返って死んでいました。やっぱり生き物を育てるって難しいなあと思います。

明日から復職、といっても、内心はプレッシャーでいっぱいいっぱいであります。
でも行ってみれば意外と何とかなるのも過去の経験から分かっていることであります。恐れは自分が生み出したものに過ぎません。
ともかくも「こつこつやって積み上げる」ほかはないのであります。

僕が大学や高校時代の同級生のように、会社の管理職になったり、多くの収入を得たりということは、きっとないのでしょう。追いつこうと思って追いつけるものでもないし、ましてや追い越そうとか、見返してやろうとか思ったら、結局は自分の首を絞めるだけです。
今をゼロとしてこつこつ積み上げるしかありません。気持ちは新卒の社員でいたいと思います。


2005年07月17日(日) パラダイム・シフト

その昔、パソコンを買っても、アプリケーションソフトもOSも付属していないのが普通でした。そのかわり、マイクロソフトのBASICという言語が入っていて、パソコンを使いたい人はこのBASICと言う言語で自分でプログラムを組むか、誰かに組んでもらったのをロードして使うものでありました。
このBASICは「入門用言語」とされていながら、ちっとも入門者に優しくない言語で悪評高いものでした。僕もBASICでプログラミングを覚えたクチです。

そのうちに「構造化プログラミング」なる概念が流行るようになり、PASCALだとかCだとかいう言語が流行するようになります。言語を乗り換えるのは結構大変でしたが、まだこの時はそれほど壁が高くはありませんでした。有名な入門書に『初めてのC』という本があり、当時Cと言うと特定の性行為を示す言葉だっただけに、電車の中で広げて読めない本だと言われていました。

パソコンにはOSというものが付属するようになり、一太郎だとか1-2-3だとかいう名前の実用ソフトが付属して、プログラマーでない人もパソコンを使える時代になりました。

UNIXなる高級OSがあることは知られていましたが、人々の手が届く値段ではなく、MS-DOSやCP/Mといった低級OSがパソコンを管理していました。こういった低級OSでは、プログラムが全権を握っており、OSはその下請けでした。プログラマーは自分のしたいようにプログラムを組むことができ、何が起るかは予測しやすい仕組みでした。

しかしWindowsが出ると、事情がすっかり変わってしまいました。全権を握っているのはWindowsであり、プログラムはその下請けになりました。いままでの主従の関係は逆になりました。「神は父であり、我々はその子供である」という言葉を流用すれば、「Windowsこそが神であり、プログラマーはその奴隷である」ということになりました。
Windowsの「メッセージ・プログラミング」という概念には大量の落伍者を出すことになりました。

折しもメインフレームと呼ばれる大型計算機が流行らなくなり、COBOLという巨大な言語大陸で仕事をしていた人たちは、大陸の沈没にも等しい動乱に巻き込まれることになります。
(2000年問題の時には逆にCOBOLの技術者がすっかり足りなくなって、引退して主婦をしていたプログラマーまで強制徴集されるという皮肉なこともありましたっけ)。

混乱を収集するためという理由で編み出された「オブジェクト指向プログラミング」という概念は、はっきり言って混乱に拍車をかけただけの役割しか果たしませんでした。

でも最近発表されるプログラミング言語は、やっぱり「構造化」されていて「オブジェクト指向」であることをみると、この分野でも流行と無縁の存在でいることはできないことを示唆しているような気がします。

情報処理のエンジニアであるということは、言ってみれば常に流れる海(潮流か)のなかに身を置いているということに似ています。泳ぎ続けなければ、前へ進むどころか、同じ場所にとどまることすらできなくなります。走り続けなければ転んでしまう人形のようなものなのかもしれません。

かといっていまさら商売替えもつらいので、このまま走り続けていくしかないのでしょう。
一昔前はカタカナ商売だから格好良さそうだといって、なりたがる人間も多かったのですが、実は意外と重労働だといことが世間に知れたのか、「プログラマーになりたい」という若者に会う機会が減りました。
理系離れが進んで技術系の大学に人材が集まらないと学術の人は悩んでるそうですが、その一方でたいした技術教育も施さないくせに月謝だけは高い専門学校がぼこぼこできているのはどうしたことでしょうか。
カタカナ職業であっても、その実態は職人に近いです。

会社から持って帰ってきたものの、結局読まずにまた会社に持って行くことになる何冊かの本をながめながら、十代後半に下したちょっとした判断が、その後の人生を大きく左右している事実に気がついて、ちょっとため息をついてみたりした今日でありました。

暑かった。


2005年07月16日(土) ひいらぐ

休日のわりには早く目が覚めたにもかかわらず、午前中は次女の行方不明(?)事件などがあって、捜索に出ていたりしたので、あっというまに午後になってしまいました。

ショッピングセンターの花屋で仏壇用の花束を作ってもらい、文房具屋で香典袋とサインペンを買って車の中で名前を書きました。
住宅地図を頼っていったのですが、家が新築されていて迷ってしまいました。

仏壇の中の彼の写真は、生前の彼そのままに、いつもなんだか怒っているような顔をしていました。お袋さんの看病のために東京から帰ってきたと聞いていたのですが、元気はつらつのお母さんを不思議な目で見ていたら、お母さんは亡くなられて、その人は後添えだそうであります。

父親という人は、僕は会うのは初めてでした。亡くなった彼の東京時代の暮らしぶりはほとんど知らないようで、いろいろと聞かれることになりました。彼の部屋はいわゆる「をたく部屋」で、本やらソフトやらが山のように積まれていて、その間に布団を敷くと両側が本で持ち上がってU字型になり、その寝返りもろくに打てない中で寝ているという、ありがちな部屋でありました。
僕の部屋も酒代ほしさに本を古本屋に売り払い続ける前には、似たような状態でした。当時は知り合いのところに遊びに行くと、積まれているのがビデオであったり、フィギュアであったり、洋書であったり、ゲーム基板であったりという違いはあるものの、皆がそんな状態でありました。

堅い職業の父親は、そんな彼の部屋にも、彼の選んだソフトウェア業のフリーランサーという仕事にも、とまどいしか感じなかったようですが、そういう人間は当時も(おそらく)今も、東京にはたくさんいるのでありましょう。ただ、フリーランサーというのが減って、みんな名前だけでも会社の社長になったという違いはあるでしょうけれど。

彼がとりわけの変人ではなかったと聞いて少し安心したようでした。土蔵に職人が入っているので聞いてみると、彼の蔵書を形見とし、土蔵の壁を書架として並べるのだそうであります。

僕は自分の話をしましたが、両親はひとり息子の思い出に集中しているようでした。

2時間ほどもおじゃましていたでしょうか、帰り際にパソコンの調子が悪いので見て欲しいと言われて部屋に案内されました。デスクトップに「URA-VIDEO」というビデオファイルができてしまい、何度削除しても次にパソコンを起動すると、また現れてくるという現象でありました。
スタートアップかレジストリに何かが登録されてしまったのだろうと、ながめてみましたが、怪しげなものはありません。マカフィーの最新版でスキャンしてもひっかからないし、Spybot S&DやAd-awareでも検出しません(他のはいろいろひっかかったけれど)。
これはお手上げだなと思ったのですが、URA-MOVIE.WMVを削除しようとしたら「使用中です」と言われて削除できません。このファイルを削除できないように握っているプロセスが怪しいということで、プロセスリストをひとつひとつ殺していくことにしました。
DS.EXEというファイルが犯人でありました。場所もTEMPディレクトリなのが怪しいです。こいつを削除して症状は治まりました。ここまで一時間。

一年ほど前に現れたこのアドウェアは、いつも夫婦げんかのまとだったそうで、「さすがは○○の友人だな」とえらく褒められてしまいました。時間がかかったので、その間に用意したのでしょう、香典返しにケーキをもらってしまいました。

自分はいったい何をしに行ったのだろう。するべきことは果たしていない気もするけれど、とりあえず一歩だけ踏み出せたことに感謝すべきなのでしょうか?
スーパーでスイカの1/2カットを買って帰りましたが、娘たちはケーキのほうを喜んでくれました。

自宅で調べてみたら、サービスを利用したスパイウェア というのが正体だったようです。

なんだか疲れてしまって、夕方から2時間ほど寝てしまいました。
心の痛みはすぐに取れるようなものではないようです。ずきずきと痛むのを「ひいらぐ」と言うそうですが、僕の心もひいらいでいるのであります。


2005年07月15日(金) 夏休みの宿題状態

具体的に復職のスケジュールが決まってくると、やることが次々でてきます。

先月クラッシュしたまま、Windowsのインストールも途中で止まっているマシンに、いろいろとソフトを入れていました。作業は順調だったのですが、テレビチューナーボードのソフトを入れたところで止まってしまいました。安達祐実が出てくる番組だとか、和田アキ子が出てくる番組だとか、そんなものを眺めている内に2〜3時間どんどん過ぎてしまいます。
まったくテレビは時間を吸い取る魔法の機械であります。おそらく「時間どろぼう」が発明した機械に違いありません。

ConturaにWindows NTは無事入ったものの、スクリーンセーバーが働かずにLCDが点きっぱなしです。おまけにハードディスクも用もなく回りっぱなしです。昔の486マシンを使うことで、最小電力、最小コストでというもくろみは完全に失敗に終わっています。

2年前に急病(?)で亡くなっていることが3月に分かった元親友に線香を上げに行く日取りも決まりました。土曜日2時であります。親父さんは毎日家にいるらしいのですが「茶くらい出したい」ということで、お袋さんのいる土曜に決まりました。
一度は親友と呼び合った仲でしたが、最後は「年賀状も送ってくるな」と言われるほど憎まれていました。僕が一方的に悪いというわけではないのですが、やっぱり自分の側の問題が相当に大きいです。憎まれて当然というようなことをしています。
彼も長野に戻ってきたと聞いた時には、どこかで会いはしないかと心配になりました。仕事で彼の家の近くを通るだけで、なんだかやるせない気分になりました。そのうちに、埋め合わせをできたらしたいと思うようになりました。不思議なものです。返していない金も返したいと。
でも、何となく先延ばしに、先延ばしになってしまいました。「ソーバーが10年になったら会いに行こうか」とか安直な言い訳を自分にしていました。
もうこの世にいないと聞いた時には、驚きしかありませんでした。僕は明日ご両親に会って、何を言えばいいのでしょうか。

年金申請で調べていたら、前に勤めた会社が倒産していることも知りました。おそらく当時のメンバーも散り散りになり、東京の業界深くに潜ってみないと、消息すら分からないでしょう。

こんなふうになるまえに、何とかできなかったのか、自分。

「機会あるたびに」と書いてあるけど、機会はいくらでもあったのじゃなかったのだろうか。元親友の家は同じ市内の中だし、倒産した会社のあった四谷だって、何度も行っている。

埋め合わせというのは、相手の傷を埋めに行くのではなく、過去の残骸を片づけることで、自分の心の傷を埋めに行くことなのかもしれません。だとすれば、もはや僕はこれをずっと抱えて生きていくほかはないのかもしれません。
「頑固な自我とギリギリの対決をしてきたか」と問われれば、答えはノーでしかありません。僕のAAプログラムはきわめてヌルイものでしかありません。

でも、きっと僕はこれからも平気な顔をして暮らしていっちゃうのでしょう。それが一番怖いことです。でも、人を傷つけておいて、自分が傷つかないってことはないのだなと、今さらながらにして思うのであります。

すべての人は罪人である。と言う言葉が心に突き刺さる日々であります。


2005年07月13日(水) 水は低きに流れるか

この一週間、なるべく昼間起きて、夜寝る生活を心がけていました。
でも、火曜日あたりから低調であります。子供のバスハイクにつきあった疲れが出たのかもしれませんが、普通に考えるとやっぱりウツでしょう。

障子の張り替えも、あと一枚を残すばかりとなりましたが、面倒なのでしていません。
Conturaには無事Windows NT4がインストールされました。生意気にも無線LANカード装備を装備して、我が家のどこでもインストール作業を続行できる状態であります。

午前中に起きて、ConturaのACアダプターに延長ケーブルを作ったのですが、コネクターがショートしていて火花が飛んでびっくりしました。ちゃんと導通確認をしないで「とりあえず刺して動かしてみる」という姿勢に問題があるのでしょう。ハードウェアを買えば説明書を読む前にとりあえず電源を入れてしまう。ソフトウェアを買えば説明書を読む前に、とりあえずインストールしてしまう。気が向けばなんでも分解してしまう。そしてトラブルに巻き込まれる。おっちょこちょいなのでありましょうか。

話は変わって、僕は自分をアダルト・チルドレン(AC)だとは自覚していないのですが、ハルメンズ(と言って分からなければ戸川順をフューチャーしていたバンド)の歌に「私はあなたの指図通りに生きてきました」という歌詞には親近感を覚えてしまうのであります。
父親に否定的な感情を植え付けられて育った戸川順は、神経症的な自我を確立し、自殺未遂や精神病院への入院を体験します。当時の我々は、そうした彼女を「アイドル」として受け入れたのでありました。
否定的な感情を植え付けられて育った僕は、どんな競争にでも打ち方なければ自分の存在価値がないという強迫観念を持った大人になりました。でも、スーパーマンじゃないので全分野に勝利を収めることなどできっこないのです。結果自分をも、他人をも偽って生きることになります。
たとえば自分は運転免許証を持っていなかったし、健康保険税を払っていなかったので保険証すらもっていませんでした。だからレンタルビデオの会員にはなれなかったのです。ところが居酒屋でアダルトビデオ談義が始まって、あの女優はとか、あの監督はとかいう話になると、何の知識もないのに必死で話に食らいついていこうとしてしまうのでした。結果はしったかぶりがひとりできあがるだけです。
虚言癖があると言っても良い自分を、周囲の友人たちは「変人」もしくは「奇人」として受け入れてくれていました。
加藤諦三という心理学者の本に「自己喪失をした神経症者」という言葉が出てきますが、初めてその言葉に出会った時に、深い共感を持ったことを覚えています。
そんな自分が変わるきっかけを与えてくれたのは、AAプログラムでありました。

僕の両親はアルコホーリクではないですし、僕は自分の育った家庭を機能不全家族だとも思っていません。ACは病気ではなく自覚の問題だと言いますから、僕はACではありません。「自己喪失をした神経症者」に育った「責任」というものがあるとしたら、親が悪いのかもしれません。でも「責任」が「原状回復への義務」にあるとするならば、回復への義務を背負っているのは親ではなく僕自身であります。

これでも10年アルコールの自助グループでうろちょろしてきた人間の言葉として言わせてもらえれば、「すべてのアディクトはACである」というのは明確な嘘であります。そんなものは、AC論のなかで単純なモデルに飛びつきたがった治療者や援助者があみだした幻想に過ぎません。
たしかに、AAはその初期の頃に「アルコホリズムの原因は子供時代の体験にある」とするコンセプトに傾いた時期もあったのでしょう。でも、アル中が遺伝形質の病気であるとしても、親がアル中の子供は、そうでない子供にくらべて「4倍しか」アル中になりやすいのにすぎないのです。
依存対象の物質は、人間が機能不全家庭で育ったか、愛あふれる家庭で育ったかなんて言う違いは斟酌してくれません。ほとんど飲めない体質の下戸であるにもかかわらず、アルコールに囚われてしまう悲惨な男の話もありました。

話は戻って、その後の戸川順は過食症で太った時期もあったりしました。最近の音信では40才前後で自殺未遂を2回ほどしているらしいです。ますますご清栄であります。

この話はふくらませて、ウェブ本体に納めようと思ったのですが、なんとなく時間が過ぎてしまっていたので、雑記のネタに使ってしまいました。そのうちふくらませて収録したいと思っています。

午後3時から寝てしまい、夕方寝ぼけた頭でミーティングに行かない言い訳を一生懸命考えていたのですが、自分に納得できる言い訳を思いつかなかったので、起きて医者とミーティングに行ってきました。


2005年07月12日(火) 9万人

トロントでのコンベンションに行ってきたよ〜、というメールなどをいただいております。
スタジアムに9万人集まったという話と、AAメンバー5〜6万人が集まったという話があって、おいおい数が違うじゃねーかと思ったのですが、その差は家族(アラノンメンバー)だそうであります。

自分も行きたいかと言われると、あんまり行きたくないな〜というのが正直な気持ちです。別に嫌いとかそういうわけじゃありませんが、僕は飛行機のエコノミークラスというのが大嫌いで、あれで太平洋を越えている自分が想像できません。かといって、ビジネスクラスのお金が出せるほど裕福じゃないし・・・。何十万という金を使うんだったら、あれも買えるし、これも買えるしなー・・と物欲のほうに走ってしまう自分であります。

9月には福岡で日本AAの30周年大会があります。経済的にも、肉体・精神的コンディションも行ける状態ではないので、これも仲間のメールレポートを読ませていただくだけになるのでしょう。

梅雨でいつも曇ってばかりなのですが、たまに晴れると急に気温が上がり、暑くてたまらなくなります。仕事に行くようになると、ずっと冷房の効いた環境にいて、自宅の自室が一番暑いってことになるのでしょう。


2005年07月11日(月) 無料?

月曜のAAミーティングに毎週出るというプログラムはとりあえず今週で終了します。今後は体調と相談しながらということになります。病院から送迎していた仲間とも会えなくなりますが、彼も公営住宅への応募が書類審査を通ったそうなので、あとは抽選に当たれば、自転車で自力でミーティングに通ってくるでしょう。

仲間のバースディミーティングでした。僕の左には18年の仲間が、右にはその入院中の仲間が座っていました。僕ら3人は9年前にもこんなふうにして、一緒にミーティングをしていました。左の仲間の18年前の状態と、右の仲間の現在の状態はとてもよく似ています。9年前には右の仲間はもっとたくさんのものを持っていました。でも、その状態では彼のAAプログラムは始まらなかったのでしょう。依存症本人には失ってみなければわからないことはたくさんあります。それはそれで仕方がないことなのでしょう。でも、子供はかわいそうであります。

アメリカでは回復者の6割がAA以外が占めるようになって、AAの特長といえば「無料であること」ばかりが強調されているそうであります。軍のラジオではAAのコマーシャルが頻繁に流れていて、「会費も月謝もない」と連呼しているといいます。でも、AAも無料ではないんですよね。
ただ、田辺さんが別れの言葉に書かれたように、「止めはじめでがたがた震えているアル中に、会場費のことも、その他いろんなことも心配しなくて良いんだよ。今は自分の回復だけに集中しなさい」と言えることが大切なんだということなのでしょう。

昔はAAメンバーの特殊技能(たとえば翻訳とか)は、「メッセージを運ぶため」に必要とあれば無料で供出されるのが当たり前でした。ですが、現在ではしだいに、その人がAAメンバーであれ、外部の業者であれ、専門の能力の提供にはなるべく対価を払うという方向に進んでいます。
「12番目のステップ」はあくまで無料で行われなくてはいけません。たとえば「AAセラピスト」という看板を掲げて有料でセラピーを行ったら伝統から外れることになります。でも、AAメンバーの精神科医が(実際にいるんだよそういう人が)アル中を診察するのに、診療報酬を請求しないということはありません。

NPO法人になったJSOですが、収入の6割以上を占めている出版は「収益を上げる事業」ということになるでしょう。その収益を本来業務の「メッセージを運ぶ」に回すことは別に問題のないことであります。また、本来業務に対して「献金」という名前の収入を得ることもなんら問題ではありません。

「報酬がピーナッツだけだったら、集まるボランティアはサルだけ」というのはAAのパンフレットのどこかに書かれていたことです。12番目のステップは無料で、でもサービス活動には対価を。何に対して支払って、別の何に支払わないかは、いつだって議論の対象であります。
一方、物品や役務を提供したメンバーは、請求書を提出するかどうか、自分で決める自由があるとも言えるのでしょう。

土日はお休みした障子張りも続きをしました。あと1枚だけになりました。
テレビの修理もしました。もちろん僕に高圧回路をいじれるわけもなく、ただ接触不良を直しただけです。

近所の大型家電店のテレビのアンテナ配線コーナーで、UHF/UHF混合機とフィーダー線を探していましたが見あたりません。店員に聞いてみたものの「UU混合機って何ですか?」とか「デジタル放送の時代にフィーダー線とは」などと間抜けなことばかり言っていて話になりません。松下の電器屋さんをやっている仲間に電話をかけて、フィーダー線の在庫を持っていないかたずねてみたら、わざわざ倉庫を探してくれて「どっかにあるはずなんだけど、見あたらない」という返事をもらいました。悪いことをしてしまいました。僕は300Ωの線と言ったのですが、UHFは200Ωだそうであります。さすが専門家は違いますね。

必要なものはホームセンターでそろいました。


2005年07月10日(日) あと一週間

日曜日だというのに、家族の中で一番早く起きてしまいました。
娘たちにレトルトのカレーと親子丼で朝食を作りました。またレトルト買ってきておかないといけません。

娘たちが、昨日ラベンダーを収穫した空港近くの畑に行きたいというので、一家で出かけることにしました。途中100円ショップで剪定ばさみを買うという気合いの入れようであります。

尾道ラーメン店で昼食。この店があるところは、以前はうどん屋であったり、カレー屋であったり、どんなテナントが入っても長続きしない場所でありました。テナントがころころ変わる場所というのが市内にいくつかあって、なぜ長続きしないのか誰にも理由はわからないのですが、長続きしない不思議があるのであります。
別の場所ですが、ゲームセンターやゲーム販売などのテナントがくるくる変わる店に、ビデオレンタルショップが入って1年半ほど長続きしていたことがありました。今度は成功したのかなと思っていたら、自動車が店舗につっこむという大事故が起って、店舗補修の資金が出ずに泣く泣く閉店に至ったということもありました。悪霊に取り憑かれているとしか思えません。今はその場所はブライダルショップになっていますが・・・。
尾道ラーメンにはがんばってもらいたいところであります。

午後は眠くなったので寝てしまい、夕に起き出して夜にスポンシーとスカイプでビッグブックの分かち合い。
どうしてもWindows 95ではTCP/IP経由でLANが組めないので、Windows 98をインストールしようとしたら486SXはサポートしていないとすげなく断られてしまいました。Windows NTのインストールを試しています。

さて、復職まであと一週間と迫りました。
今年の正月は実家に泊まりがけで帰省したものの、ずっと寝ているといううつ状態でした。年が明けて勤務が始まってもどうにもならず、残っていた有給休暇を使い果たした段階で、医者の診断書を出して休職となりました。11月あたりから、寝る前に夜食とポテトチップの他に柿ピーやさきイカを食べる習慣がついてしまい、就業時間中もこっそり何か食べているということの連続で、一気に10キロ太ってしまいました。精神科医がしてくれた血液検査の状態が悪かったのも、休む後押しになりました。もしあそこで食べ吐きに突入していたら摂食障害者のできあがりだったのかもしれません。
就職後半年もたたずに休職したので、はっきりいってやめる覚悟だったんですが、落ち着いてくると、ウツが良くなったらまた仕事に戻りたいとは思うようになりました。
1〜2月は生活習慣も崩れ、家族も悲鳴を上げて、医者が「入院」を口にするようになりました。大学病院に入院して電気けいれん療法をする案も出ました。3月15日に入院するか見極めるという話でしたので、AAのホームグループのチェアマン・司会・バスケット持ち・会計などを仲間に全部預けました。
でもまあ、ルボックスが2ヶ月かけて効いてきたのか、入院するほどでもないでしょうという判断になり、あとは自宅で無為の日々を過ごすことになります。
途中台湾に行ってみたり、プログラムを書きかけてみたり、いろいろありました。5月から始めた副業だけは無駄だったと今さらながらに思います。
傷病手当金がでなくて、障害者年金の申請に踏み切ってみたりもしました。
貯金も底を突き、(親にではあるものの)借金だけが残りました。

でも、こんな半年も人生の一こまとして記憶されるにすぎないのでしょう。


2005年07月09日(土) ラッキー・ドラゴン

8時に起きて朝食を食べ、9時半のバスハイクの集合時間に間に合うように家を出ました。
子供たちは二十数人。付き添いは(バーベキューの火の管理ために呼ばれたトクベツなお父さんを除けば)全員お母さんばかり。父親は僕ひとりというわけで、なんだか浮いた感じでありました。

心の中で願っていたことは、早く時間が過ぎて午後3時40分の解散時間になってくれないかということでした。でも実際に時間はとても早く過ぎてくれました。
午前中の工作教室は天然の木の素材を集めてキーホルダーを作るというものでした。子供たちが作ったものは、キーホルダーには使えないほど大きな物でした。素材ののこぎりをひいてあげたり、ハンドドリルで穴を開けてあげたり忙しくしているうちに、あっという間に1時間半が過ぎてしまいました。男の子たちは、ハンドドリルで穴を開けまくって、ムシキングだとかいろいろ独創的なものを作っていました。うん、男の子がいるのもうらやましいなぁ。

お昼のバーベキューは、最初に自分たちの食べる分の肉を焼いたぐらいで、火おこしもしなかったし、片づけの洗い物もお母さんたちがやってくれちゃって、僕は役立たずに立ってばかりいたのですが、これもあっという間に1時間半が過ぎてしまいました。お肉も十分食べられて、満足でありました。皆さんが僕の名前を呼んでくださるのですが、僕はお母さんたちの名前はほとんど覚えられずじまいでした。

午後は飛行場の周囲の公園へ移動(スカイパーク・略してスカパー)。おもしろ自転車広場というのがあって、奇妙な自転車に乗って遊ぶコーナーなのですが、ふだんは30分100円なのですが、この日は何かのイベントがあって無料開放されていました。そのイベントのあまりものでポップコーンを山ほどもらいましたが、二十数人の子供たちのお腹の中にすぐに消えてしまいました。同じ公園の中のラベンダー畑が、今日からつみ取り放題とあって、雨の中になりましたが、30分ほどラベンダーを収穫(?)しました。
実は大人の中でラベンダー採りに賛成したのは僕だけで、お母さんたちは疲れたなか雨の中に出かけていくことは反対だったようですが、ラベンダーの濃い香りの中でリラックスしたのでしょうか、終わりには笑顔が浮かんでいました。

そんな感じで「良いお父さん」を演じて帰宅したのですが、妻からは感謝の言葉は一言もなしでした。でもまあ、半年仕事を休んだ埋め合わせにもならないかと思うと腹も立ちませんでした。

夜の地区委員会まで仮眠を取っている間に、amazon.co.jpに中古出品していた専門書が売れました。厚くて大きな本ですが、古書店に持って行っても買い取ってくれないだろうし、捨てるのももったいないのでダメもとで出品していたのですが、売れるとなんだかうれしいです。1万円の本がおよそ半額で売れるなんて、夢のようであります。ああこんなことなら、ウェーブレット変換の本も捨てずに取っておくのでした。

副業のほうは、不良在庫の処分が進んでいます。日曜は午前中だけ郵便局の本局が開いているので、発送に行くつもりです。

送品用にクッション封筒を買ってから地区委員会へ。帰ってきた頃には子供たちは昼間の疲れで寝ていました。全般的にラッキーなことばかりあった一日で、不運なことと言えば手の指の皮をすりむいたことぐらい。たまにはこういう一日もあるのだなと思った次第であります。

でも体が疲れた中、委員会に出席するのは少々しんどかったです。土曜日には子供につきあって一日過ごした後に委員会に出てくる人もいるのですが、そのしんどさを初めて実感した機会でした。「その人の靴を履いて長い距離を歩いてみなさい」とはAAの言葉ではないけれど、AAの本のどこかに載っていた言葉であります。


2005年07月08日(金) やれやれと金曜日に到着

午前中はネットオークションの品の発送に、クロネコの営業所までママチャリででかけました。クロネコメール便には「厚さ2cmまで」という規定があり、僕の扱っている品はクッション材を入れるとどうしても厚さ3cmぐらいにはなってしまうので、扱いを断られるのではないかと毎度冷や冷やしているのですが、断られたことは一度もありません。

障子の張り替えも4枚目が終わり、これで電車側から見られる面はすべてきれいに張り直されたことになりました。居間のは貼り替えないことにしているので、あとは長女の机の前の2枚だけです。しかし長女はストレスが溜まると、机の下の障子を足で蹴破ってストレス発散をする癖があるので、貼り替えても無駄かもしれません。
オークションでポイントが溜まっているので、ポリエステル100%の障子紙 を試してみようかとも思っています。
でも、障子紙が破れなくなって、子供にストレスが溜まっても困ってしまうな。

午後はこんどは郵便局へ発送に。相変わらず赤字基調ですが、収支は改善しつつあります。

昨日からConturaにネットワークカードのドライバーをインストールしようと、何度もWindows 95をインストールしているのですがなかなかうまくいきませんでした。古いマシンだから、枯れた古いカードを使ったほうが良いだろうと10Mbpsのカードを使っていたのですが、どうやらそれのドライバーがいけなかったらしいです。100Mbpsのカードに換えたら、すぐに動き出しました。

CPUのクロックは25MHzで、今使っているデスクトップ機の1/100の速度です。メモリ容量12MBというのもほぼ1/100。ハードディスク容量700MBというのも1/100以上の差です。
そうなると使い勝手も100倍違うかというとそうでもありません。
数字ばっかり大きくなっていくけど、なかなか進歩しないのがパソコンであります。

明日は児童センター主催の子供バスハイクにつきあう予定です。朝9時30分集合。午後3時まで6時間つきあわされることになっていて、いまからうんざりという感じですが、まあ子供はとても楽しみにしているのであります。


2005年07月07日(木) やっと

なんとか一日一回の睡眠にまとまってきたかなという感じです。この間3週間あまりかかったでしょうか。

申立書の清書ですっかり右腕が疲れてしまったので、サロンパス貼りまくりであります。

いちおう診断書には「午前中はなにもできない」と書かれているので、申請は午後に行った方が良いだろうと思い、お昼過ぎに社会保険事務所に行きました。歩いていった方がよいのでは、という提案もあったのですが、屋内からは駐車場は見えないので、別に関係ないだろうということで車で行きました。

年金相談の窓口はすいていて、番号札を取って待つ間もなく係員に呼ばれました。
書類に不備がないかどうか確かめて、認め印をついて、受付が終わるのに5分とかかりませんでした。「裁定請求書の受付控え」という書類をもらいました。それには、今年の4月から社会保険庁では、「お客様」が実際にサービスを受けられるまでの所要日数を「サービススタンダード」として設定することになっていると書かれています。このケースでは年金証書が届けられるまでが「3ヶ月半」が目安であり、それ以上かかる場合には連絡があるとあります。

「質問事項がある場合には自宅に電話か書面で問い合わせがあります」と言われ、実際に問い合わせを受けた事例も聞いているので、帰宅後に妻に「復職後に、仕事中に社会保険庁から電話があっても、仕事に行っているとは言わないように」と念を押しておきました。

3月下旬に東京のクリニックに問い合わせの電話をかけるところから初めて3ヶ月あまり、やっと申請にこぎつけてほっとしました。これから3ヶ月半というと10月下旬になります。申請が通って年金証書が来ても、実際に年金が振り込まれるまで2〜3ヶ月必要だということですから、お金を手にすることができるのは来年になるでしょうか。長い道のりであります。
あらかじめ予告しておきますが、申請が通ったかどうかは報告しませんので、あしからず。

ちなみに妻も障害者年金の申請の手続きを進めています。そこで話し合ったのですが、個々に年金を手にすることがあっても、それを「夫婦の共同形成財産とはしない」という約束をしました。どうせ金が入れば家計の維持のためにそれを回さなければならないのははっきりしているのですが、あくまでそれは「夫の財産」「妻の財産」を融通しているのであって、年金を共同財産とはせず、それぞれの銀行口座に振り込まれるようにすることにしました。

雨が降っていたのですが、体を動かしていないと寝てしまいそうなので、障子張りをしました。

それから会社の総務とメールで連絡をしあって、復職後の給与体系がきまりました。「時間給のパートさん」というのが7月19日からの僕の立場であります。体調が悪くて休んでも、有給休暇を消化するのではなく、単に時給が支払われないだけということになります。勤務時間は午後1時〜5時30分。もちろん、AAミーティングに出られる時間であるのですが、しばらくは体を慣らすまでホームグループのミーティングに絞ることにします。

夜中にConturaにWindows 95をセットアップしている途中で寝てしまい、朝に子供の笑い声で起きました。なんだか健康的ですが、やっぱり午前中はぼうっとしてしまいます。


2005年07月06日(水) もっと

午前中に起きる生活も定着してきました。
障子の張り替えも2枚目を無事終えました。

副業はもうすっかり仕入れをやめてしまいました。とりあえず不良在庫の処分をすすめています。順調にいっても在庫が払底するのは8月後半になるのではないかと思います。

水曜日は精神科の診察日であります。月曜日にソーシャルワーカーさんに渡しておいた、障害者年金の申立書に、添削をしていただいたものをもらいました。そうです、あのA4版5枚という文章は下書きで、これから本当の用紙に手書きしなければならないのであります。

毎日2回寝てしまうという話も、主治医にするのが3回目になりました。まあ、我慢して起きていて1回にするしかないのであります。「レスリンを1錠増やしてみますか。・・・前にもあなたは2錠飲んでいたことがありますね。何で減らしたのかな・・・。ああ、テトラミドを増やした時に、そんなに抗うつ薬ばっかり飲んでもしかたないだろうという理由だけで減らしたんだ。じゃあ2錠に戻してみよう」。まあ、診察室の会話はそんな感じであります。

2回寝てしまうおかげで、このところ2週間ほど、体はAAミーティングに行っていても、心は行っていない(寝ている)ということが続いていましたが、午後コーヒーを飲んだおかげで、なんとかひさしぶりに分かち合いに参加できました。
アフター・ミーティングは公民館の前で仲間と談笑。

ひさしぶりに給油しました。満タン法で燃費を計ってみました。8.4L/Km。1Kmあたり16.2円という計算になります。高速道路を走っていないことを考えると、これぐらいが普通か良い状態でしょうか。ちなみに夏になると燃費は悪くなります。エアコンなどの補機類の負荷が増えることと、空気密度が薄くなるために酸素量が減るせいです。冬になると、今度はスタッドレスタイヤのせいで燃費が悪くなります。なので、「いわゆる燃費向上グッズ」のたぐいは、春と秋が売り時なのですね。この時期は自然と燃費が良くなるから。世の中には、アーシングだとか磁石だとか添加剤とか・・・謎の燃費向上グッズがあふれています。

深夜までかかって申立書の清書を終えました。(今日でなくて未来のいつかでも)もしこの文章を読んでいる人の中に、うつ病で障害年金の申請をしようとする人がいて、申立書の書き方がわからないという人がいたら、メールで連絡をください。下書き前のワードファイルを送ってあげますから。


2005年07月05日(火) あと少し

復職の日までカウントダウンが始まっている感じです。
思えばこの「日々雑記」も、前の休職の時の最後のあたりから始まっているわけです。当時の雑記を読むと、「医者の許可が出たから」と書いてありますが、許可といっても不承不承で、反対を押し切ってというほうが正しかったかもしれません。
あのときは、会社が「すぐにでも出てこい」というのを2週間のばしたのでした。休職するといって放り出した機械は、復職後に取り組んでみてもどうにもならなくて、結局スクラップになりました。間に入った商社はかわいそうだったかな。

障子の張り替えを始めました。これも休職中にはすませたいと思っていたことのひとつです。冬のうちは寒いからという理由で先延ばしにしていました。同じくウツで依存症で休職中の仲間が、4月頃に「障子の張り替えもすんで」という話をしていたので、僕もそろそろと思いながら、結局「夏休みの宿題」状態で、時間がなくなってようやく取り組んでいるという状態です。

ツルヤでノリと剥離剤を買ってきました。なぜ剥離剤を必要とするかというと、破れた部分の補修に妻は、障子紙用のノリではなく、普通のノリ(フエキ糊とか)を使うのであります。そうすると、そのぶぶんだけガビガビになってしまって、剥離剤がないとだんだん障子の桟が厚くなってしまうのであります。

火曜は授業参観の日でした。妻は学校行事というとウツが悪化する(心因反応という)ので、今後は全部僕が出ることにしているのであります。張りかけの障子を放り出して学校へかけつけました。

次女の一年生の教室は、お母さんたちであふれかえっていましたが、長女の3年生のほうは(クラスの人数が少ないこともあるのですが)お母さんも少なめであります。授業後は、懇親会という名前のPTAであります。3年生のほうのクラスの出席者は先生を含めて8人だけでありました。初めてなので自己紹介をしました。
話題も少なくって一時間で終わりでありました。先生も経験豊富で、熱心でというタイプであります。昨年養護学校から転任してきて、普通学級になじめずにウツになってしまった先生は、いまだに自宅療養中だそうであります。すこしかわいそうな話であります。

1年生のほうのPTAは「父兄どおし知り合えるような催し」をするということで、にぎやかに続いていましたが、精神的にも肉体的にも疲れてしまったので、帰って障子張りの続きをしました。

そして夕方7時半ごろになると眠くなってまた寝てしまい。10時に起きて、まだ子供たちが風呂に入っていなかったので入れて、今度はパソコンの前の椅子に座って午前2時まで寝てしまいました。何とかならないか、この生活リズム。


2005年07月04日(月) すこし・たくさん

ここのところひと月あまり、病院からミーティング場に送迎している患者さんの退院が決まったという話を聞きました。閉鎖病棟に監禁同然の状態から、いきなり退院へという大きな変化の背後には、AAにまた通いだしたことも影響しているのではないかと思ってみたりします。

家賃が3万7千5百円以下なら生活保護で面倒を見てくれるものの、それ以上だと自分で持ち出しだそうであります。そうなると実質的に県営住宅か市営住宅しかありません。市内の団地で空いているのは2ヶ所で、そのうち交通の便の良いほうに応募して、抽選があたって入居の権利を得れば、いつでも退院できそうであります。

彼との付き合いは断続的に九年になります。初めてミーティング場を開いたときに、市内の精神病院に勤めていたケースワーカーさんが熱心な人で、患者さんにAAに通うことを薦めてくれました。半分いやいやながらでありましょうが、病院の外へ出るチャンスと思って、通ってきてくれていた4人の患者さんのうちの一人が彼であります。

そのケースワーカーさんは歌の上手な人で、いきなり病院を止めるというので、理由を聞いてみると「歌手を志す」という話でありました。一度きりの人生でありますから、そういうのもありでありましょう。その後どうなったのか、クラシック音楽に興味の薄い僕にはわかりません。

会場として借りている公民館には会議室が4つあります。そのうち第1会議室と第2会議室は間をパーティションで区切っただけのものなので、相互に会話は筒抜けであります。第3会議室と第4会議室は独立した部屋なのですが、どちらもちと広い部屋であります。
AAミーティングは最初は人数が少なかったので、第1か第2を割り当てられたのですが、話が聞こえてくるのも聞こえちゃうのも困るので、公民館に頼み込んで大きな会議室を借りられるようにしました。第4会議室は在日外国人のための日本語講座がずっと使っていたので、空いているのは第3だけでした。でも、第3は使い勝手が良い部屋なので、他の団体と取り合いになりました。
取り合いに負けると、音楽室や視聴覚室へ追いやられました。時には100人以上入る大会議室の片隅でミーティングをしたこともありました。それでも辛抱強く第3会議室を予約し続けたおかげでしょうか、他の団体は別の曜日に移ったり、別の施設へ移ったり、はたまた寿命を迎えてしまったりで、ついには「月曜の第4が日本語教室」であるのとおなじように、「月曜の第3はAA」という地位を確保するにいったのです(と思う)。

それでも、第3会議室はAAには広すぎるなといつも思っていました。いつかは、この会議室のテーブルをぐるっと皆で囲んでミーティングをする日が来るといいな、と思っていました。

最近のように人数の多いのが安定し、「ぐるっと皆で囲んで」という夢が実現すると、人間は不思議なもので「自分の話す時間が短くなる」などというみみっちい不満を持つものであります。まあ最近は体調不良でミーティング中に寝てることが多い僕ですが。

一つの夢が実現したからには、もっと大きな夢を見ることにしましょう。100人入る大会議室で人があふれんばかりのAAミーティングが毎週開かれる夢を。そして別室ではアラノンのミーティングが開かれて、また別の部屋では子供のある夫婦のためにAAとアラノンが共同で雇ったアルバイトのベビーシッターが子供たちの面倒を見ている・・・。子供たちはもう少し大きくなったら、アラティーンのミーティングをひらくのだろうか。

僕が生きている間にかなわなくてもいいから、そんなことが現実になって欲しいと思ったりするのであります。


2005年07月03日(日) 申立書

障害者年金の申立書というのを書いています。これは医者の書いてくれる診断書とは別に、「自分ではこうである」というのを書く必要があるのであります。
前回やっつけ仕事で書いて、かかっているクリニックのソーシャルワーカーさんに預けておいたのですが、「これでは話にならない」と言われて書き直しとなりました。

裁定者は、診断書と申立書だけから判定するわけだから、申立書の記述が不十分ならば申請が通らなくても不思議はないのだそうです。東京ですでに年金を手にしている知り合いに電話してアドバイスを求めたところ、
「診断書と整合性が取れること」
「仕事や私生活に支障をきたしていることが文面から読み取れること」
「欄からあふれるぐらいに克明にびっしりと書くこと」
という例をあげてくれました。

僕としても金は欲しいです。でも年金で暮らせる訳じゃないので、どうしても申請が通らないと困るというわけでもありません。しかし、これまでずいぶん手間ヒマも金もかかっています。ここで手を抜いたがために通らなかったとしたら、間抜けな話であります。

そこで僕は書きました。手書きは苦手なので、ワープロでA4版に5枚。これを東京の知り合いにFAXして添削してもらって、手直しして再度FAXして・・・第3稿まで作りました。しかし、申請書はワープロで出すわけにはいきません。もちろんA3版の打てるプリンターを所有していればそれも考えたかもしれませんが、ワープロで出す時点で「実務能力高そう」な印象を与える不利もあるでしょう。
まあともかく、申請書のコピーに下書きとしてボールペンで細かい字を半日書きました。手元が暗いので980円で蛍光灯まで買ってきました。

こんなにたくさん字を書いたのは、大学時代のレポート提出か、コミ○ットで売った同人誌の原稿以来でありましょうか。20年以上ワープロを使い続け、ラブレターでさえワープロで出して「あなたの手元にはこのファイルが残っているのね」などと言われた自分でありますから、すっかり字が汚くなって、ミミズがのたくったような字が並びました。
そしてとても疲れました。

とりあえず月曜にまたこれをソーシャルワーカーさんに見てもらいに提出に行き、今週中には申請をすませたいところです。

これから障害者年金を申請する人がこのページを読んでいるかどうかはわかりませんが、参考までにいままでにかかった経費を並べてみましょう。診断書などは健康保険の適用外なので、各医療機関が独自の値段をつけています。これより高いことも安いこともあるでしょう。

まず、東京で最初にかかったクリニックの受診状況証明書(いわゆる初診証明)3,000円。診断書が遡及申請のための1枚が8,400円。事後重症のための1枚が5,000円。戸籍謄本が450円。住民票が300円。妻の所得証明が二通で600円。このほかに各医療機関に問い合わせの手紙や、返信用封筒の切手、現金書留で送金の手数料などが計数百円でしょうか。
合計で一万五千円強かな。
診断書はもっと高い医療機関もあるそうなので、安く済んだほうなのかもしれません。
アルコール依存症という病名では通らないし、うつ病でもなかなか通らないと聞きます。一万五千円をどぶに捨てているのかもしれませんが、なにもしないではいられず、内にこもった怒りをどこかにぶつける場所が欲しかったのが本当のところなのかもしれません。

最後に請求書という事務的な書類を書く(というかこの書類が主で、他が副なんだけど)のですが、いままで勤めた会社の住所を書く欄があります(厚生年金)。10年前、20年前となると、さすがに記憶も曖昧です。

生まれて初めて勤めた会社は地味ながらもまだ存在していました(でも住所は変わっているので今日電話します)。そこからスピンアウトした人たちが作った会社は、しばらくは泣かず飛ばすだったので、消息も調べなかったのですが、調べてみると資本金も億単位となり、昨年野球界をにぎわせた会社とも絡んで大きくなっていました。ホームページ上の取締役たちの顔は、記憶より老けたけれど立派そうであります。
一方、昨年8月に僕が無職だった頃、埋め合わせのチャンスでもと思って訪れた会社は、もうその場所からなくなっていました。どこか家賃の安いところに引っ越したかなと思っていたのですが、某掲示板のログでは2000年か2001年に倒産しているという噂でした。

どうしようもない飲んだくれの僕の面倒を見てくれた人たち。でも、前者よりも後者に埋め合わせのチャンスをください、と思ってしまうのはなぜでしょう。

そういえばこの休職期間中に、一度は親友と呼んだ同級生の死も知りました。彼もビル・ゲイツより成功したいひとりでした。

技術屋の僕には、どんな社長が成功して、どんな社長が失敗するのか、本当のところはわかりません。ただひとつ確かなことは、物事は変わり続けていて、決して元には戻らないということです。そんな世の中で変わらずにいようとすれば、すぐに泳ぎ疲れて沈んでしまいます。僕自身も変わり続けていて、そして「決して元には戻らない」ということなのでありましょう。


2005年07月01日(金) ノートパソコン続き

パソコンネタはわかんねーから書くなという話も出ていますが、他にネタがないので書くことにします。

6月10日の日記でお別れを書いたノートパソコンですが、実はまだウチにあるのであります。いちどネットオークションに出品したのですが、入札が入る前にキャンセルしてしまいました(入札後にキャンセルすると違約金を取られる)。

どうしようかと思ったかというと、もう一度修理にチャレンジしてみようと思ったわけであります。ジャンパーとばしで。

プリント基板の上に細い線が半田付けされていることを見ることがあります。これは基板の設計ミスや修理のために、基板上の回路とは別に回路を作る必要がある場合に、後から追加された配線で、これをジャンパーと言います。ジャンパー線が飛んでいる基板は、なにかしらの理由があってジャンパーが飛んでいるわけですから「いわくつき」であるとも言えます。
2本や3本ぐらいならまだしも、十数本もジャンパーが飛んでいたりすると、元の基板の設計に相当の問題があったと想像がつくわけであります。

ジャンパー線を飛ばすという作業は、大変細かい作業なので、半田作業に習熟した人でないとできません。当然僕のような、サンデー・ソルダー・ボンダーにはできっこない技術であるわけです。でもやってみることにしました。

そして見事に失敗し、失敗の余波を食らってハードディスクを一台壊しました。それが今週の水曜日であります。趣味なんだから失敗したって失うものは時間とわずかな金銭だけのはずなんですが・・・、なんだか必要以上に落ち込んでしまいました。

そして水曜日はソーシャルワーカーさんに、年金の申立書にだめ出しをされた日でもありました。なんだか学生時代に提出したレポートを教授に突き返され、「再提出」と冷たく宣告されたことを思い起こしました。

ノートパソコンはふたたびオークションに出品され、今度はすかさず入札者が現れました。これで、このノートパソコンとのお別れは決まりました。

そこで登場したのが、さらに古いノートパソコンである Compaq Contura Aero 4/25 であります。愛称は「こんちゅら様」であります。486SX 25MHz・メモリ12MBというスペックで動作するのはWindows 95か古いLinuxぐらいであります。とりあえず、Windows 95のインストールにチャレンジして先ほど成功しました。

これから申立書をゆっくりと書こうと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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