TENSEI塵語

2015年03月18日(水) 満員御礼

大相撲の満員が続いている。
先場所もそうだったように思うが、今場所が初の現象だとアナウンサーが言っていたような気もする。
「初の」とは、あの、八百長問題等々で、賜杯すら廃止してしまった事件以来「初」ということである。
あの事件後、土日曜日は満員御礼の幕が下りることはあっても、平日の観客の入りは寂しいものだった。
枡席さえ空席がめだつこともあった。
ところが今場所は平日も満員の入りである。
実際、画面に映る客席の様子も、ほとんど満員で、満員御礼の垂れ幕にだまされているようには見えない。
千秋楽までの入場券はすでに売り切れたとも話していた。
その連日満員御礼というのがあの事件以来初、やっとここまで来た、ということである。

あれは4年前だったのだろうか。。

大相撲人気が戻って来たことについてはいろいろな意見があるだろう。
私は、いくつかの小細工の中心に、やはり、白鵬の存在が絶大だと思っている。
圧倒的に強い横綱。
次々に記録を塗り替える横綱。
モンゴル人に記録を奪われてしまうことに苦々しい思いをしているご老人も多いかもしれないが、普通の公平な目で見れば、賞賛すべき功績をあげていると見るしかないではないか。
誰が白鵬に勝てるのか、いや、誰が白鵬をやっつけるのかは、大きな関心の的である。
実際に、琴奨菊や稀勢の里という日本人力士が、白鵬の連勝記録をストップさせた時に、相撲は大きな盛り上がりを見せ、それを機会にファンを戻して来たと言える。
この、圧倒的に強い横綱の活躍、これが大相撲の人気を戻して来た核である。

相撲協会もいろいろな工夫をしてきた。
会場でのサービス向上とか、そういう点は私にはわからないのだが、、、
たとえば、日本人力士を、ちょっと強引な方法であれ、大関にしたという点である。
また、最近のことになるが、遠藤とか逸ノ城とか、若く素質ある力士をスピード昇進させ話題作りにも努めたということである。
日本人大関3人の取り組みはどうも不安定で、本当に大関に相応しい活躍をしていると言えるのか、ちょっと怪しい感じがするのだが、大関・横綱を外国人力士が占めていた一時期の様相よりは印象はいいだろう。
遠藤のスピード昇進はいくら何でも早すぎたと思うのだが、相撲の客を増やすのにおおいに貢献したと思う。
このまま潰れることなく、実力をつけてくれるといいのだが、捨て駒で終わってしまわないことを祈る。
これに大して逸ノ城はかなり検討していると思うが。。。

今場所は、照ノ富士が圧倒的な強さを見せている。
ここ2〜3場所くらいしか注目はしてこなかったのだが、やたらと粘りのある強い奴だ、と思っていた。
10年ほど前に白鵬に注目し始めた時のような、圧倒的な良さというものはまだ感じられなかったが、容易には崩せないような強さを感じさせる。
多くの力士が、三役になっては負け越して平幕落ちして来た中で、今場所、新関脇で1敗を守って来た。
きょうは中継を見てなかったのだが、魁聖ごときに負けてしまったそうだ、、、と聞いても、なぜだ?? と疑問がわくような、今場所の取り組みである。
私は、この照ノ富士がこのまま、わりとスムーズに大関昇進し、横綱にもなって行くような気がしてしまうのだが、、、、どうだろうかね、、?



2015年03月06日(金) この半世紀(6) 音楽 -その3-

私が夢中になった音楽ジャンルはそんなに幅広いわけではありません。
どんな音楽に親しんで来たかを思い出してみると、こんな風になります。

小学校2〜5年生の間は郡上八幡町にいたので、夏ごろは頻繁に郡上踊りのお囃子を耳にしていました。
また春祭では、神楽も追いかけつつ聞いていました。
また、テレビでは歌謡曲番組を熱心に追いかけてるような面もありました。
(この影響か、実際積極的に聴いたり歌ったりしないくせに、民謡風な曲や懐メロ歌謡曲を吹奏楽で演奏するのはとても好きなのです)

小6で岐阜市内に引っ越しました。
この年、歌謡曲界はグループサウンズ大流行、全盛期で、それこそ夢中になってしまいました。
またこの年は、ビートルズという存在を知らないまま日本公演も終わっており、それよりもモンキーズのテレビ番組が放映されていたので、ピートルズというグループはその後も私にとって何でもないアーティストとして過ぎてしまいました。
とにかく、国内のグループサウンズとアメリカのモンキーズに夢中になった1年余がありました。

中1の夏休みに、いきなり、クラシック一辺倒の音楽生活になります。
しかし、中2のころ「ベン・ハー」や「ロミオとジュリエット」を映画館で観てから、映画音楽にもかなり熱心になったりしました。
もちろん、映画音楽にはさまざまなジャンルの音楽が含まれていますから、案外多種多様な音楽に親しんでいたのかもしれません。

高校時代に聴いたピンクフロイドは衝撃的でした。
「原子心母」にクラシック的な雰囲気もあったので入り込んだのですが、とりわけ「狂気」「アニマルズ」の2つの作品は、いい曲で構成された組曲でした。
「アニマルズ」はソナタ形式も用いられた、3楽章の交響曲と言うべきかもしれません。
「原子心母」や「狂気」は、今でも、NHK のドキュメンタリー番組のBGM に使われています。

就職してから、貪るようにLP を買い集めました。
(LP がCD になったのは何年ごろだったのか、ちょっと今はわかりません)
しかし、中・高時代はなかなか買えなかったおかげでくり返しくり返し、その真髄まで搾り取るほど聴き込んでいたのに、この少々金銭的にゆとりのできたおとなは、その意味で堕落しました。
その大半が1〜2度聴いたくらいで放って置かれるようになりました。
そんな中で、オペラに親しむことができたのはとてもいい思い出になっています。
中・高時代にはとても手に入れられるものではなかったし、そのころはまだそれほど多く販売されていなかったように思います。
さらに、レーザーディスクも販売されるようになり、多くの舞台上演を観ることができるようになりました。
私がオペラに熱心だった時期はLD がまだ盛んだった時期でもあったので、私のオペラライブラリーの大半はDVD でなくLD ということになってしまいました。

さて、仕事が忙しくなるにつれ、必要に駆られた鑑賞、つまり、吹奏楽の曲を聴くことが増え、仕事のために必要に駆られて聴くことが多くなりました。
趣味の音楽はイージーリスニング系、ヒーリングミュージック系の音楽になりました。
久石譲の音楽を特に好んで聴いたりしていました。

最高の出会いと言わなきゃいけないのが、サラ・ブライトマンです。
2003〜4年ごろには、この日記コーナーにも再三サラ讃を書いています、こんな風に。。
「オリジナルの曲もいいし、クラッシックアレンジもいい。
曲自体かなり厳選されている感じがあるし、その伴奏も気がきいている。
しかし、何といっても歌声がいい。
基本的に柔らかくハスキーな声で歌っているけれど、
囁くような声にもなったり、オペラ歌手の発声になったりもする。
曲も声も、実にバラエティに富んでいるし、曲種もそうなのが
飽きさせず次々に楽しませてくれる要因になっているのだけれど、
とにかく、これほど癒される歌声を今まで聞いたことがないのである。
歌声の良さと幅広さは、表現力にもなる。
それもまた、ますます味わい深く飽きさせない要因にもなっているのだろう。
声を聞いていると、かわいらしさもあり、
最初は20代前半の人かな、と思ったものだけれど、
解説にあった生年月日から計算すると、今年41歳ということになる。
奇跡の歌声である。」
この半世紀に生きていてよかった、と思わせるアーティストをひとり挙げよ、と問われたら、きっとサラ・ブライトマンを挙げることでしょう。

このような、クラシックとポップスあるいはロックの融合という点でとても完成度の高い活動をしていたのは、ゴシックメタルバンドのウィズイン・テンプテーション。
それから、メジャーな舞台には出て来ませんが、日本のサウンドホライズン。

ピンクフロイド、久石譲、サラ・ブライトマン、ウィズイン・テンプテーション、サウンドホライズン、これにバンドネオンの小松亮太を加えると、同じ時代に生きることができて(そして演奏を聴くことができて)よかったなぁ、とつくづく思う最小限のアーティストたちがとりあえずそろうことになります。
もちろん、好きな歌や曲は他にももっともっとたくさん、数え切れないほどありますよ。



2015年03月05日(木) この半世紀(5) 音楽 -その2-

私はオーケストラの音楽が好きだったのですが、中学校にあったのは合奏部、、、アコーディオンをメインとしたいわゆるリード合奏部でした。
中1の夏休みに音楽に夢中になった私はそこに入ってコントラバスの練習を始めましたが、それと並行して、2年上の先輩が指揮をみっちり教えてくれました。
また、オーケストラスコアを見ながら、主旋律以外のパートの役割とか魅力とかに着目することを教えてくれました。
2年生になってからは部活では指揮するのが主になり、コントラバスの練習はほとんどできませんでした。

高校に入ったら、ギターアンサンブルしかありませんでした。
後に高校の教員になってから気づいたのですが、まだ野球部もなかったのです。
野球部がなかったから吹奏楽部もなかったのですが、当時は吹奏楽部がないことについてもまったく気に懸けていませんでした。
私はそこで少しはギターも教えてもらいつつ、時にはコントラバスも弾きつつ、主に合奏指揮をしていました。
合奏用に編曲して楽譜を書いたり、できるだけ演奏効果の上がる工夫をするのはあたりまえの習慣になっていきました。

大学ではいったんオーケストラに入ったものの、お金がかかり過ぎるので3週間ほどでやめて、ギターアンサンブルに入りました。
そして、2年間みっちりギター合奏に取り組みました。
ギターアンサンブルは表現の可能性が非常に乏しいと思いつつ、いろいろな表現方法を模索しては楽しんでいました。

大学の3年目が終わって引退したとき、もう自分がおおぜいで音楽活動する機会なんてないんだろうな、と思いました。
それでも、OB アンサンブル活動の試みをやってみはしたのですが、うまく続きませんでした。


そして、教員になって3年目、2校目の学校に赴任した時に、吹奏楽部が存在し、希望すればその部の顧問になることもでき、顧問は合奏指導をすることもある、、等々のことを知ったとき、とても驚きました。
こんな風に音楽を続けることもできるんだ、という驚きです。
国語の教員になったのに、国語を教えるだけでなく、生活指導、、だけでなく、音楽を教えることもできるのだ、ということはまったく予想してなかったのです。

実際最初の10年ほどは、音楽の先生と間違えられそうなほど、身の回りに五線紙が散らばっているような生活をしていました。
そうして吹奏楽の顧問をするようになって数年ほどしたころ、市民バンドの指揮者として誘われました。
ちょっとしたバイトになるわけでもありません。
報酬どころか、私自身の希望で、団費も他の団員と同じように納めて、団員のひとりとして扱ってもらっています。
週1回、たった1時間半の合奏練習ですが、部活動とは別に、本当に趣味としてできる音楽活動の場を与えられたということは、とても幸せなことだったと思います。
中学時代に指揮したくて堪らないと思っていたオーケストラの曲も、吹奏楽という形ではあれ、何曲か演奏することができました。

こんな風に、素人がわりと自由に音楽を楽しむことができる、、、これも、この半世紀ならではの現象ではないでしょうか?
市町村の文化活動には、民謡や和太鼓や邦楽、、、は案外戦前にもあったのかもしれませんが、ギターやハーモニカやコーラスなど、さまざまなジャンルの音楽団体が、それほど上手でもないリーダーのもとであっても活動しています。
こういう傾向は、今後もまだ続くのではないかと思いますが、、、残念なことは、こういう活動に対する市町村の補助金はだんだん減っているように思われます。
そんなところにまで金を回せなくなっている、という傾向が強くなっているようです。



2015年03月04日(水) この半世紀(4) 音楽 -その1-

中学1年生のころから、クラシック音楽を真剣に、貪るように、それこそもう生き甲斐であるかのように聴くようになりました。
私が12歳だったのは、1968年です。
そのころ家にあったオーディオ機器といえば、オープンリールのテープレコーダと、何らかのアンプ付きスピーカーにつないで利用するレコード盤用のターンテーブルだけでした。
いわゆるオーディオステレオのようなものは一般家庭にはかなり贅沢な時代だったので、そのレコード盤用のターンテーブルをラジオやテレビにつないで使っていましたが、そんな粗末な音楽環境でも、与えてもらえるような時代になっていたというだけでも、今思うと本当にラッキーだったと思います。
レコード業界の録音レベルも、50年度から60年度にかけての進歩がめざましく、さらに70年度〜80年度と一層音質に磨きがかかり、80年度後半あたりからはデジタルの時代にもなって行きます。
あのころはクラシックの音楽の録音もたいへん活発に行われるようになって、たいていの名曲は聴けるようになっていました。
また、オーケストラの名曲のフルスコアが、専門家仕様でなく、文庫本かペーパーバック的な仕様で売られるようにもなっていて、中学生の小遣いでも買える、とてもありがたいことでした。
もしももう10年早く生まれていたら、中学高校時代にあんなに貪るがごとく音楽を楽しむことなどできてなかったに違いありません。
また、もしももう15年か20年ほど遅く生まれていたら、どうだったでしょうか?
オーディオ機器はもっと良くなっていて、最初からいい録音でいろいろな音楽が聴けたかもしれない。
しかし、そのころ生まれていると、スーパーファミコンなどが流行した時代と思春期が重なることになったのでした。
読書についても言えることですが、もしもその少し新しき良き時代に育っていたら、あれほど集中して飢え渇いたごとくに音楽と向き合っていたかわかりません。
私はまだ物に恵まれなかった時代に、最低限の環境は与えられて、音楽や文学に出会ったことを、運の良いことに思われてならないのです。

中学・高校時代は、カラヤン、カール・ベーム、ブルーノ・ワルターの演奏に格別魅かれていて、私の音楽の先生はカラヤン、ベーム、ワルターの3人です、と言っていた時期もあったほどです。
もちろん、指揮者に限らず、ピアニストでもヴァイオリニストでも、管楽器奏者でも、真剣にくり返し聴いたすべての演奏家からいろいろなことを学びました。

また、あの時代、テレビでオペラも観ることができたのは、とてもありがたいことでした。
確か、NHKがイタリアから歌手やスタッフを招いて年1度4公演かを開催して、それを再三放映してくれていたのだと思いますが、1〜2度テレビで放映されてるのを観ては、ラジオからテープに録音したものをくり返しくり返し聴いていたものでした。
それから10年後くらいだったでしょうか、大学を卒業し就職したころには、ヨーロッパの歌劇場が来日公演することも増え始め、ワーグナーの舞台さえ観ることができるようになっていました。

中学時代に最も圧倒され「圧!!巻!!」表記せざるを得ないほど心酔していた曲はベートーヴェンの第九で、スコアは綴じ紐が切れるほどボロボロになってしまったほどでした。
高校時代はブラームスやチャイコフスキーの交響曲にとりわけ夢中にはなりましたが、結局、マーラーの「大地の歌」の第1・6楽章、、、、いや、さらに第2交響曲「復活」が「圧!!巻!!」の曲になりました。
マーラーの交響曲は当時はまだそれほど録音がなく、「大地の歌」と1、2、4、5番くらいしか私には買えなかったのですが、マーラーは怪物に思われました。

以上が、1970年をはさんで中・高時代を過ごし、その時代ならではの音楽鑑賞生活を送った者の感慨です。
いい時代を生きて来たもんだなぁ、、とつくづく思います。
しかも、驚いたことに、この後、素人のままながら演奏者としても生きることができたのです。
そんなチャンスにも恵まれた時代がこのもう少し先に用意されていたことが驚きなのです。



2015年03月03日(火) この半世紀(3) 電話 -その2-

携帯電話の普及はあっという間だったように思います。

IDO 電話を手に入れるのに6万円近くしたのですが、交換用のバッテリーはいくらしたのか、、覚えていません。
その予備バッテリーは最長のものにしたので、それを装着すると不格好な上に重たくなってしまいました。
通話料も数秒10円という凄まじい高額料金でした。

その最初のケータイから1年経たぬうちだったのか、1〜2年のうちだったのか、ガソリンスタンドなどで、初期費用0円の携帯電話を配布し始めました。
もちろん希望者に、だったのですが、入手時の数万円がなくなって、とても手に入れ易くなりました。
私も、この際ついでだから、、という軽い気持ちでその0円ケータイも手に入れました。
部活動などの生徒引率時に部長にでも預けておくと、生徒たちの遠隔操作が楽になります。
そのケータイは、最近のボーダフォンやソフトバンクの系列の、当時は確か東海デジタルフォンと呼んでいた会社のものでした。
こちらにはすでにメール機能がついていました。
しかし、同じようにメール機能を持った携帯電話の所有者が身近にいなかったので、めったに活用できないのでした。

それからケータイが高校生、中学生へと入り込んで行くのに数年はかからなかったし、10年もしないうちに最大のターゲットは若者たちや子どもたちになってしまったのではないかと思います。
その理由は、通話機能よりもメール機能であり、最近定着して来たラインやツイッターやフェイスブックなどのSNS 機能でした。
そしてさらに進化しつつあるゲーム機能でした。
つまり、最も本質的な機能であるはずだった「電話」という役割よりも、その他の機能を備えつつ魅力をアピールし、進化を続けているということになります。

私は、20年ほど前、1クラスあたり3〜4人くらいの生徒たちがケータイを持ち込むようになったころから、校内での規制はもちろんのこと、国単位での規制を切に望みました。
学校に持って来ていいかどうかなんてレベルではなくて、開発や生産から販売まで、締め付けなきゃダメだ、ということです。
小・中・高校生が持ちたくなるようなものを開発しないように、という意味まで含んでいます。
たとえそういうものができあがったとしても、いわゆる18禁にしてほしいという意味まで含んでいます。
そうでないと、多くの高校生はとんでもない生活を送ることになってしまう、というのが私の不安でした。
もうすでに、ゲーム機の氾濫で男の子たちの生活はとんでもないことになりつつあったからです。

ま、しかし、日本の政府にしろ官公庁にしろ、何百万人のデモで抗議したって、そんなことを規制するわけがありません。
儲け主義を放任して経済競争を奨励するのが常ですから。
結局は、アプリをインストールすることによってさまざまなことができるようになり、お得な料金形態をさまざまに工夫し、家族みんなが持つと一番得だという形に進化して来ました。
価格競争も便利競争もまだ延々と続いて行くのでしょう。

それにしても、いつでもどこでも通話ができる電話があったらなぁ、、、という夢は若いころ見ていたはずなのですが、その夢がかなったと思うや、あっという間に電話はとんでもない進化を遂げてしまい、まだ進化を続けようとしています。

我々には電話にまつわるとても懐かしい思い出があります。
好きになった女の子と話したい、あるいは、会う約束をしたい、、、、そんな時に親にわからないように電話する時のたいへんだったことといったら。。
幸い居間に電話が置いてあるわけではないにしても、その部屋を親が使ってる場合もあれば、親がすでに電話を使ってることもある、あるいは、いつ入って来られるかわからない。
うまく電話を先に使うことができずに、それだけで1週間以上を費やしたこともあったりして。。
やっとのことで電話すると、出て来たのは父親という場合は本当に緊張したものでした。
また、それを想像して、そう軽々しくは電話できないという気持ちもありました。

電話ひとつするために、家族の動きに深く気をくばり、冷や汗びっしょりの緊張を強いられる、、、あの実に不自由で、ままならない、困難だらけの体験を思春期の若者たちから奪ってしまっていいのでしょうか、、?(笑)
それは、もちろん、ラブレターについても言えることでありますが。。。



2015年03月02日(月) この半世紀(2) 電話 -その1-

私が初めて見た身近な電話は、使い方がわからないまま進化しました。
たぶん、電話局の接続する係の人を呼び出して、番号を言うかどうかしてつないでもらっていたのだと思いますが、小学校にも入っていない幼児には使いようのないものだったのでしょう。

そのうち電話はダイヤル式に変わりました。
1から0(10)までの穴に指を入れて放して戻る仕組みになっていて、その戻る時間によって1から0までの数字を機械が知って、10桁の電話番号を認識して接続してくれる、つまり、手動接続から自動接続という仕組みに変わりました。
何でこんなめんどうな説明を書いてしまったのかと言うと、すでに、今、このダイヤル式電話を知らない人たちがいるということをわざわざ皮肉めいて伝えるためであります。
そして、「三種の神器」とは比べ物にならないほど、この電話文化の変遷はめまぐるしいものだったと思います。

仮にこのダイヤル式家庭電話機の始まりを私の小学生時代の最初とみなすなら、その始まりは51〜2年前になるのですが、その頃はまだ「呼び出し電話」の時代でした。
私の家を例にすると、町外れの坂の上に数世帯の住宅があって、その辺り10軒ほどの家が、坂の中腹にある県会議員さんの家庭電話を呼び出し電話として頼っておりました。
だから、よほどのことがないと電話をかけたりしないわけですが、その電話のある家の人は、雨降りだろうが夜だろうが、呼び出して欲しいと言われた家に出かけてその家の人を家に連れて行って、、、なんて、今思うと想像不能ではないかと思われるようなシステムの中で電話を利用していたわけです。
しかし、我が家の場合でも、その後岐阜市内に引っ越した後もこのシステムが続き、およそ10年後の高校1〜2年生のころまで呼び出し電話でした。
それはたぶん、我が家が警察官舎の長屋の中にあった関係で、官舎仲間の取り決めの中で呼び電に頼っていたせいで、世間的には普及率はかなり高まっていたのではないかと思います。
しかし、その後もかなり長い間、学校に出す書類などでも、住所の後の電話番号欄に、○で囲んだ「呼」という欄があったものです。

とにかく、電話設置にかかる費用が高かった、ということも覚えています。
我が家に電話が入ったのが、高1の頃だったとして、43年前とします。
それから1浪して上智に入ったころ、上智が他の大学に比べていち早く学費のスライド制を採り入れ、学費が高いと言って親から文句を言われてしまったのですが、母に言わせると、そのころから給料も上がったので、何とか学費を払い続けることができたということでした。
その大学の4年目にそれまでの間借り式の下宿屋が廃業したので、普通のアパートに引っ越したところ、母が連絡しにくくなったことを嫌がって、私の部屋に電話を設置してくれました。
それが今から35〜6年前として、その時で13万円だったか、18万円だったか、13万円プラス何万円だったか、よく覚えてないのですが、とにかく、当時の私の生活水準で見ると目から玉が飛び出るような金額だったのを覚えています。
解約する時には返って来る、預金か保険金みたいなものだとも教えられて、それならいいか、、と当面の慰めにはなったのですが、、、今はそんなお金が返って来るようなことにはなってないのではないか、、、何かよくわかりません。
・・・とにかく高かったんですね。

さて、就職して仕事を始めるようになると、外でも電話をかけたくなります。
公衆電話というのは、まだ家に電話がなかった頃から必需のアイテムだったのですが、仕事が忙しくなるにつれ、公衆電話よりも、車の中に居ながらにして通話のできる電話を持つのが夢になりました。
しかし、それは意外と早く実現されました。

私が最初の携帯電話を持ったのは、20年前か21年前か、、、au がまだIDO という名前のころでした。
最初の費用が5万8千円くらいだったかと思いますが、それはとても安いと思いました。
今と比較すれば、通話しかできない電話に5万円以上も払うなんてアホ、と思われそうですが、そして、もう1〜2年待てば、最初の費用0円の時代もすぐにやって来たのですが、それは後からわかることで、その時はとにかく、どこでも連絡を受けることができ、どこからでも連絡することができる携帯電話の登場に、ひたすら感心しておりました。

携帯移動電話は、登場した後およそ十数年のうちにずんずん進化してしまい、今では私のような年寄りには実体のつかめないほど多機能な道具に進化してしまいました。。。



2015年03月01日(日) この半世紀(1) 三種の神器

この半世紀余は、いろいろな意味でとてもおもしろい時代だったなぁと、つくづく思います。
まずは、代表的電気製品である、洗濯機、冷蔵庫、テレビですね。
これらの電気製品を「三種の神器」とお呼びしていた時期もありました。
これらが人間の生活の中に登場して来たこと自体、実に画期的なことだったのですが、登場以来およそ半世紀の進化・発展も驚くべき速さでした。

私が最も懐かしく思い出すのは、洗濯機に付いていた洗濯物を搾る装置です。
水色っぽい2本のローラーが付いていて、その間に洗濯物の端を挟んで回してやると、洗濯物がぺしゃんこに搾られて反対側に出るというものでした。
いくらくしゃくしゃになっても、乾かしてアイロンをかける手間は同じなので、手で搾ることと比較すれば労力も能力もとても優れた機能だったと思います。
あの搾る機能はすぐに脱水機能に変わり、乾燥機の併用も行われ、我々が大学生になり、下宿やアパートで1人暮らしをしなきゃならなくなったころには、コインランドリーがあちこちにできていました。
今は洗濯機のどんな部分の進化を争っているのでしょう?

冷蔵庫が我が家にも入って来たのは、小学校3年生のころだったと記憶しています。
まだ冷凍庫などというものがなく、製氷室に製氷皿が2つ付いていて、氷が作れる、アイスキャンディがしばらく保管できるだけでもすばらしい機能に思われました。
大学の4年目だったかに、品川区の戸越銀座あたりのアパートにいたころ、とある電器屋の裏にあった古い冷蔵庫が目に入り、5千円で売ってもらいました。
ひどく小さく見えましたが、十何年か前、我が家に初登場した冷蔵庫と同じものだったに違いありません、、、、今となってはオンボロ冷蔵庫とはいえ、やはり、あるのとないのとでは天地の違いがありました。
そうして手に入ると不思議なもので、兄が一人暮らしを解消するのでいらなくなった冷蔵庫を送ってくれました。
やはり小ぶりだけれど、冷凍庫と冷蔵庫が分かれたグリーンのまだきれいな冷蔵庫でした。
いらなくなった冷蔵庫は、部室に行って声をかけるとすぐに貰い手が現れ、車で引き取りに来てくれるなら、と50円で売りました。
最近の冷蔵庫の進化の争点も、もう我々にはなかなか理解し難いところで行われていますね。

テレビの進化というものも、振り返るとすばらしいものだったと思います。
我が家には私が3〜5歳のころにテレビが入ったと記憶していますが、あれはたぶん父が警察官で、村の駐在所だったからではないでしょうか、、、、とにかく人の出入りの多い大きな家で、一階の表には駐在所の事務所があるのはもちろん、2階には村人の宴会場みたいな部屋もありました。
あのころ見ていたはずの「ナショナルキッド」「怪傑ハリマオ」「七色仮面」「少年ジェット」「まぼろし探偵」「月光仮面」など懐かしく懐かしく思い出すのですが、実際今になってどこかのバラエティ番組の特集で再現してくれたり、YouTube にアップされたりしている映像を見ると、あまりの素朴さにびっくりしてしまいますね、、、、とりわけ、まぼろし探偵の留めゴム付きのとんがりめがねには驚きあきれてしまいますが、子役時代の吉永小百合とおぼしきかわいい女の子が見られるので、とても貴重な映像でもあります。
あのころ、他に相撲はよく見ていた、というか、テレビのある家ではたいていどこでも相撲中継の時間は相撲中継をつけっ放しにしていたという方が正確かもしれません。
その後、父が駐在さんでなくなってからテレビはどうしたか覚えはないのですが、東京オリンピックのころにはちゃんと家にもあったのを覚えています。
あのころから、一家に1台という普及率になったのでしょうか?
我が家でもやがて2台置くようになりましたが、やがて一家に複数台はあたりまえになり、下手すると1人1台、、、、私が教員になったころには、子ども部屋にテレビは必需品と考える親もいてびっくりしました。(まあ、そんなのは、当時はびっくりでも、後の電話の発達を思えば小さな問題だったといえるのですが、、、、)
小学生のころには我が家にもチャンネル争いなるものが時折はあったものの、中学生のころからはそれほど熱心にテレビを見ることも少なくなりました。
私の場合は音楽を聴くことに夢中になり、本を読むことにも熱心になったりしたためではありましたが、テレビとのつき合いがまったく絶えてしまうということはその後なかったですね。
近年驚かされるのは、テレビの画質と録画機能です。
画質は鮮明になり、ほとんど本物に近づいてしまいました。
一昔前の古い映像を放映されると、よくこんな画面見てたものだなぁ、と思わされますね。
テレビの今後の課題は何? 立体映像ですか?


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