TENSEI塵語

2007年01月31日(水) 新しい日本語論とな?

12月の終業式ごろに、図書館の本の注文書を作っているときに、
生徒や教員の希望図書だけではちょっとジャンルの偏りがあったので、
いろいろなカタログを見ながら、20冊ほどくわえておいた。
2週間ほど前に、その時注文したうちの半数ほどが本屋から届けられたが、
私自身が忙しくて購入伺い書をまとめることができなくて、
正規の受け入れが遅れ、きょうやっと貸出可能になった。

私がカタログを見ながら加えた本の中に、
「日本語は人間をどう見ているか」(研究社)というタイトルの本があった。
注文品に入れたときは、橋本さんの好きそうなタイトルだなぁと思い、
私自身は「日本語は世界をどう見ているか」ではなくて
「人間を」となっているところが何か不可思議で興味を抱き、
生徒には、日本語表現の用例をいくつか見てもらうだけでもいいと思った。

それを注文したことはもう忘れていたのだが、
正月に、日本語をめぐって橋本さんといろいろと話し合った伏線もあって、
先週末に購入本のリストを作っていたときにこの本を発見し、
早くこの本を借りて読んでみたいと思っていたのだった。
きょうから貸出が解禁になったので、さっそく借りて読んでみた。

相変わらず忙しい1日ではあったけれど、
幸い、各章が同じパターンで書かれているのでとばし読みもできた。
結果は、実にもの足りない本であった。
本の裏表紙には、
「認知言語学の立場から日本語を解剖する。
 日本語の表現を楽しみながら、日本語についての新しい見方を学べる」
とある。
これがそんなに新しい見方なのかな? とまず驚いてしまった。

今夜はもう遅いので、明日よほど書きたいことができなければ、
明日、この本について考えたことを書いてみよう。



昨日もきょうの昼ごろも、春のように暖かくなったのに、
夕方からやけに空気が冷たくなった。
明日から明後日にかけてこの平野部でも雪が降りそうな予報である。
昨日があんな暖かさだっただけに俄には信じがたいのだけれど、
一冬に1度くらいはちゃんとした雪を見、雪と戯れたいと思う。




2007年01月30日(火) 何という暖かさ!

塵語を書こうとしたら、カウンターが24444。。。
キリ番と呼んであげるほどの資格はないが、それでもちょっとハッとする。
宝くじでも何でも、当たらなきゃいかん数字には当たらないものなんだが。

朝は凍るような冷たい空気に包まれていたのに、
昼にかけて異様なほどの暖かさになった。
朝の予報では3月下旬くらいの暖かさになると言っていて、信じなかったが
実際、そうとしか思われないほどの暖かい空気に包まれた。
ここ数日、梅が咲いた、だの、蛙が産卵した、だの、
少々季節はずれの情報が聞こえてくる。
今年は2月上旬に桜が咲いて、その後冷え込んで、
2カ月桜が咲いてるかも知れないねぇ、、、などと冗談を言っていた。
しかし、真夜中の今は、それなりに冬らしく冷え込んでいる。

疲れもひどく、腰痛もつらく、歯医者の予約もあったので、早退した。
腰痛の病院にまで行く時間はなかったので、
少し横になって休んでから歯医者にだけは行った。
夜は仕事三昧である。
昨日は1話だけ見ることができた「4400」も今夜はお預け。。。
早退すればそれだけ家での仕事が増えるだけだ。



2007年01月29日(月) この疲れは?

昨夜は、実に珍しく12時ごろに眠り、寝坊するほど眠った。
今も、さっき9時過ぎにダウンして、2時間ほど眠って、
わりとすっきりした気分で起きてきたところであるが。。。

イヴェントの後とはいえ、今までに経験したことのない疲れようだ。
腰痛が酷くなっているのは、2日間蒲郡まで走ったためだろう。
軽い頭痛と目の痛みを伴っているのが、今までにないことだ。
とりあえず、風邪かな? と風邪薬だけ飲んでいるのだが。。。

きょうは2つしかない授業もつらく思われたが、
ひとつ目の2年生の古典はいつもどおり、
2つ目の1年生の現代文では、デカルトのコギトについて30分話した。
とりあえずまだ元気は残っているらしい。



2007年01月28日(日) 盛大なるお祝い

すごいことだ。
私の誕生日に県内のあちこちから何百人もの高校生やその関係者が集まり、
次々に演奏を披露してくれるのだ。
こんな誕生日を迎えられる人は、それほど多くないだろう。

残念ながら私は主賓席にはいないで、楽屋や舞台袖で、
審査集計や表彰式の準備をしたり、問題に対処したりしているのだが、
まあ、こうしておおぜいに囲まれてイヴェントを動かすような過ごし方も
いいものかま、、と思う。
とにかく、2週間がかりの忙しい準備の末のイヴェントなのだ。
これが、なかなかの充実感なのである。

しかし、どうも今夜は変だ。
疲れ型が異常だ。
足腰が昨日までよりも痛いのはきょうの労働のせいかと思っていたが、
眼球を動かすとまぶたの裏が痛いのは、発熱の時と似ている。
これはどうもいかんようだ、、、ちょっと危険な感じだ。。。



2007年01月27日(土) かもめ(?)の群れに驚く

明日の大会用品を運んで、蒲郡まで出かけた。
腰が痛いので、途中休み休み、2時間余り費やして行った。
何年ぶりだろうか。。。
蒲郡は最初の赴任地だったし、組合の学習会の開催地にもなったし、
コンクールの開催地になったこともある。
1番近い過去に、いつ行ったのか、まったく思い出せない。
確かなのは、音羽蒲郡インターができたのを知ってからは1回きりだ、
ということだ。
結婚するまでの4ヶ月間はここに住んでいたし、
教員2年目を終えるまで通い続けた町でもあるから、やはり懐かしい。

帰る前に、竹島橋に寄って車を停め、少し歩いた。
海岸のかもめ(たぶん、、)の大群に驚いた。
公園の鳩のごとくに群れをなしている(しかも鳩も混じっている)。
それが、活動的な群れと、砂浜でじっと整列して寒風に耐える群れとあって
その対照的な光景が不思議である。
整列して寒風に耐える群れは、あの、吹雪の中の皇帝ペンギンを連想させる。
活動的な群れは、人間たちに対し、とても礼儀正しい。
餌を投げてもらえば受けるし、餌を上方に掲げているおじさんからは、
ちゃんと餌だけをくわえて飛んで行く。
そんなみみっちい餌じゃなくて、おじさん食った方が早いぞ、と
冗談で思いたくなるほどに、彼らが餌を求めているように見えるのに、
決して人間様を襲ったりはしない。

竹島から団体客がぞろぞろと橋を渡って戻ってきた。
ちょうどそのころ、私は橋をこれから渡ろうとしていたのだが、、、、
何と、その団体さんめがけてかもめたちが襲いかかった。
しかし、彼らは、団体さんの手前でとどまり、
羽だけはばたばたと動かしながら、空中で静止している。
橋を渡り始めていた私は、ちょうど人々の背後から、
その空中のかもめの群れを眺めることができた。
それはとても壮観な眺めだったので、
思わずケータイを取り出して、めったにしない撮影をしてしまったのだった。




この光景をたっぷり眺めてから橋を渡り始めたのだが、
あまりにも強い風が無防備な橋の上に襲いかかるものだから、
私は怖じ気づいてすぐに引き返した。
それからしばらくカモメたちのようすをじっくり眺めてから、帰路についた。

そして、いつも不思議の感に打たれるのだ。
彼らはいったい、どんな「ことば」でどう「かんがえ」て
行動してるのかと。。。



2007年01月26日(金) 「4400」

きょうの空き時間は明後日の大会のための準備。。。
昨日、出演する55チームに受付で配布する封筒と
審査員に渡す審査用紙などを入れた封筒を作った。
きょうは、夏に作っておいたチェックリストでチェックしながら、
今までに用意したものを整理して箱に詰めた。
途中で、あった方がいいものを2つばかり思いついて、作って入れた。

宅急便で会館に送っておくつもりだったが、いざとなると勇気を失った。
万一、事故や過ちで行方不明になってもらっては困る。
明日の夜届いてないことが判明して、それから調査されても困るのだ。
明日の午前中に自分で運んでおくことにした。
当日の朝運べばいいのだが、何しろ蒲郡である。
東名で事故渋滞にでも遭って足止め喰ったらパニックである。
結局、自分で予め目的地に届けておくのが安全である。

もう準備もできたし、夕食前に審査集計表の整備とチェックも終えたので、
きょう届いた「4400」のDVDを見始めることにした。


4400人の、さまざまな年代のさまざまな地域での行方不明者が、
一緒に宇宙から生還した。
数十年前の行方不明者も3年前の行方不明者も、当時のままで。。。
彼らは行方不明になった時から生還するまでの記憶がまったくない。
行方不明になる直前に生きていた状況から、いきなり現代に降ろされる。
生還者Aは、会社の経営権を失い、老衰した妻に先立たれる。
Bは、夫がすでに再婚していて、娘と会うことも禁じられる。
Cは、以前住んでいた町に帰ったが、もう住むところはなくなっていた。
しかしBとCは、恋人とその孫として知り合い、心を通わせる。
不思議なことに、Bはすでに妊娠している。。。

こういう「空白」後の運命だけではない。
Aは怒ると不思議な力の波(?)を空中に生じさせるようだ。
あたりが揺れ、振動し、甚だしいときには頭蓋骨が激しくひび割れるようだ。
Dの手は、死んだ鳥を生き返らせてしまったが、それだけではないようだ。
Eはもっとも古い行方不明者で、まだ幼児の女の子なのだが、
どうやら予知能力をもっているらしい。。。
この女の子は、両親がもう年老いて亡くなってしまっていたので、
ある夫婦に引き取られたが、夫婦が不気味に思って捜査施設に返された。

第1話で紹介された「超能力」はこれだけだが、こうしてみると、
生還者のそれぞれが本人にも気づかぬ特殊な能力を備えているらしい。
誰が何のために4400人もの地球人を年を経て拉致し、
特殊能力をそれぞれに与えて生還させたのか、最終回までのお楽しみだろう。

長い第1話だったが、夢中で見てしまった。
「24」に劣らぬ、非常に緊張感のある作りである。


・・・誘惑に負けて、第2話を見た。
新しい4400のメンバーFが、喧嘩の強い人物になっていて、
本人も驚きつつ、町の無法者と闘い、町の英雄となる。
しかし、彼はナイフに気づかず、刺されて死んでしまう。
再会を喜び、こんどこそ絶対に離れたくないという妻の願いも空しく。。。

第2話はそれを中心に据えつつ、第1話のA以外の中心人物たちの物語も
それぞれに緊張感を孕みながら進行して行く。
約45分ほどがあっという間に過ぎてしまった。
「24」のような、腋の下がびっしょりになり、血圧が上がりそうになる、
そういう凄まじい展開ではなくても、夢中になれるのがうれしい。
そういうのは「24」だけにしてもらわないと、身が持たない。。。



2007年01月25日(木) 私の日本語観

きょうも、橋本さん宛のメールの貼付で済ませる。
私が日本語というものをどう見ているか、かなり表現できた気がする。

また、私は結論を後伸ばしにする。
先に結論をもって物事を眺めると豊富な事象から部分を切り取ることになる。
だから、私の結論はいつも、とりあえずここまでは言える、である。


(以下、今夜のメール)

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「お茶が入りましたよ」という人が「コーヒーを入れましたよ」と
「和」「洋」を使い分けているとしたら、これは面白いですね。
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これ、笑ってしまいました。バカにしたんではなくて、
何でもこういう方向に話を持って行くんだな、と思って。。。
僕はわざと「を」を抜いて「コーヒー入れました」にしておいたのですが、
これは発音上ラクな例として挙げたのです。
「お茶が入りました」も発音上ラクなパターンです。

日ごろから、日本語の変遷を考える上で、発音上の省エネという面は
軽視できない問題だと思っています。
これを抜きにして日本語が語れるのだろうか? とさえ思っています。
もともとが省エネ言語でもありますし。。。

これは先日話した、すべて有声音ということとも関わっています。

でもそれだけじゃない、「コーヒー入れました」の方がラクなのに、
「コーヒーが入ったよ」も好んで使う。
そういう例は探せばかなりあるでしょう。
橋本さんはそこに自然との共存、自然のチカラを見ようとしているけれど、
僕には、今のところまだ、そこまで言う勇気がない。
少なくとも、「私は〜した」「私が〜した」という言い方を
できれば控えようという傾向だけは認められる、というところにとどまります。

そして、それを広くとらえれば、「婉曲的」ということになります。
「婉曲性」は、少なくとも日本語の会話にはさまざま見られる性格です。
評論文に悪文が多くなるのも、この「婉曲性」に悩まされているのかもしれない。

だから、以前、「『である』言語というよりは『ようだ』言語であるようだ」
と言いました。
このセンテンスは今でもとても気に入っています。
でも「ようだ」言語だと言ってしまうと、「である」言語も「する」言語も
入る余地がありませんね。
・・・いや、そんなことはないか。。。
「ようだ」は「ようである」でもあるから、
「である」言語は「ようだ」言語に含まれることになります(笑)

この「婉曲性」にとどまっている僕の日本語観に、

「私たちのことばは、自然のなかで、自然と共存して生きていた時代に作られたものである。
 言語構造はいまなおそうした時代の遺産をうけついでいる。 
 とくに私たちが母国語とする日本語は、こうした「自然言語」としての特徴を
 色濃く持っている」

と確信させるかどうかは、橋本さんの手腕にかかっていますよ。

また、上記の2つの基本的な考えに加えて、
日本人は「を」という発音を億劫がる傾向があるのではないかとも思っています。
文章ではそれほど苦にせず使ってますが、会話では億劫がってるのではないかと。。。
言語について考える上で、「音」の問題は侮れないと思いますよ。
そんなことも一緒に考えてくださいね。
短歌・俳句を作っている橋本さんには言わずもがなのことと思いますが。。。



2007年01月24日(水) きょうの橋本さんへのメール

きょうは、急いで仕事した後、「ハケンの品格」というドラマも見たし、
橋本さんに長〜〜いメールを書いたので、新たに日記を書く時間がない。
長メールは橋本日記の後半3回分の「日本語の構造」への疑義である。
彼との、なかなか一致点を見出せない部分の要点が鮮明になってきた。
今夜書いたメールにはそれがよく表れていると思う。

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      あれ?? もう終わり、、、??

富士山はどこに行ったんだーー!!??(笑)

仮説の領域に入ったので、結論が出るまで待つことにしてました。
それまでは、現に語られる日本語というものを見つめつつ、
どうでしょうか、そうでしょうか、、と、いろいろ確認していたのですが、
第7回から観念的な領域に入りましたので、
それによってどんな結論を導き出すかが大切になります。
でも、黙っていたら、あっさり駆け足で結論まで行ってしまいましたね。

「主題 - 述語」と「問いかけ - 応答」と「日本語の三層構造」という
キーワードによって、
自発的発想の自動詞についてのさまざまな考察が始まるのだろうと、
すごく期待していたのです。
それがどういう形にどういう風に行われるのか予想がつかなかったので、
なおのこと楽しみにしていました。
それなのに、結局は誰かの意見を引用して終わりだもんなぁ。。。
やまと言葉の「る」「らる」についての話を引用して、

「私たちのことばは、自然のなかで、
 自然と共存して生きていた時代に作られたものである。
 言語構造はいまなおそうした時代の遺産をうけついでいる。
 とくに私たちが母国語とする日本語は、
 こうした「自然言語」としての特徴を
 色濃く持っているのではないだろうか」

ですって??
「遺産をうけついで」はいますが、どう受け継いでいるのでしょう?
「自然言語」としての特徴を「色濃く」持っていると本当にいえるでしょうか?

第9回の後半の主張は、言語論から来るものであろうとなかろうと賛成です。
日本人がどういう精神構造を授けられて生きているにせよ、
合理性や主体性は養わなければいけないし、
日本語だってそのために十分表現できる力を持っているし、
一方また、自然を愛し、自然を畏れ、人を愛する心を失ってもいけない。


さて、ちょっと意見を述べます。

まず、「お茶が入りましたよ」についてです。
確かに僕もこう言います、特に「お茶」の場合には。。。
「お茶入れたよ〜」と自然と出てきます。
でも、コーヒーの場合はそうでもないのです。
「コーヒー入ったよ」「コーヒー入れたよ」はそれほど差がない。
こういう時は「入ったよ」と言うのが普通という感覚もない。

これからお茶の用意をする時に、「お茶が入ります」とは言わない。
「お茶でも入れましょうか」「お茶入れますね」などと言います。
さずがに、この段階では自分の行為として語るしかないので、
「お茶を入れる」という形式の言い方になります。

長くなりすぎるので例をこれだけにしておきますが、
「お茶が入った」的な表現を好むのは、ひとつには、ラクだからです。
「お茶を」と言うよりも「お茶が」の方がラクだというところから、
「〜が入りました」が言い方として定着するという可能性は大いにあります。
また、さらに言えば、「我」というものを露骨に表さない
謙虚というべきか臆病というべきか、どう言うべきか定かでないのですが、
しかもそれが、社会のあり方から育まれたのか言語環境の所産なのかも
定かではないのですが、そういう「我」を露骨に表さない精神で
言語表現をするのに、便利でラクな表現方法であるとも言えます。

こんなのは、まったくおもしろくない言語論ですね〜。
でも、言いたいのは「お茶が入りました」「赤ちゃんが生まれた」的な表現から、
「自然と共存していた時代」の「遺産をうけついで」「自然言語」としての
特徴を「色濃く持っている」とは、そう簡単には結論できないということです。
それは非常に趣深い解釈であることは、しっかりと認めます。
そういう「自然言語」としての特徴が、我々の日常の言語活動にはないが、
言語自体に内包されて息づいているのだ、、、とね。

しかし、長い年月の間に、本来の精神が失われて伝わることは珍しくない。
それは、日本国憲法のたった60年を見ても感じられることですし、
1000年前の単語が、今どう使われているかを見てもわかることです。
また、言葉の歴史は、言葉は安易な方向に流れ、変化することを物語っています。
英語も安易な方向に変化した、その代わりにSVO型の語順が定着した、
日本語も同じ方向に進みながら、形式を定着させる必要はなかった、
その代わり、単語にくっついて働く助詞などの用法はますます多義になった、
と僕は見ています。
日本語が昔から今までうけついている確実な遺産は、
言わなくてもわかることは言わないですむことと、
それも含めた、表現の多様性です。
俳句や短歌なども、そうして受け継がれてきた財産です。

・・・本当につまらない考え方ですね。
僕は橋本さんを批判しているのではなくて、
そうまで確信しているならはっきりわからせてくれー、と言っているのです。
そして、この単なる元同僚ごときに疑問を抱かせる程度で済ませないでくれー、
という思いのためです。
もしも、もうそれは信仰の領域だ、と言うのでなければ。。。


これだけでもうだいぶ長くなっていしまいました。
でも、簡潔に書いておきましょう。

有森さんの「自分をほめてあげたい」が名文句になったのは、
僕も含めて多くの国民にとっては、SVO構文だったからではありません。
「信じられません」「夢みたいです〜」というような、
謙遜した言い方ではない、新しい表現だったからに他なりません。
「他動詞使ってんじゃん!!」なんて驚きをもった人はごく一部です。
本来の日本語と違う! と違和感を覚えた人はいなかったのでは?
それでも、橋本さんが書いていた
「この言葉を語った彼女の開放的で前向きな積極性に多くの人たちは好感をもった」
という結論は同じです。

英語圏の人たちも、「There is 〜」はそれほど驚くべき表現だったと
告白してるのでしょうか?
「There is 〜」ゆえに名言だと、、?
あまりにも簡素で率直だから名言になったのではありませんか?

「そうかもしれないが、潜在的に文の構造に驚いているのです。
 そう信じましょう」と言うのでなければ。。。

(ちなみに、現代のネイティブの英語にはまったく疎いのですが、
 最近は mpunten と綴るのですか?)


また、第7回ではこんな疑問も生じていました。

 (私があなたに伝えたいことは)
 −−−−−−−−−−−−ーーー
      象が 草を
    −−−−−ーーーー
      食べている
 ーーーーーーーーーーーーーー
     (ということです)

だったら、「象は鼻が長いんだよ」についても

 (私があなたに伝えたいことは)
 −−−−−−−−−−−−ーーー
      象は
   ーーーーーーー
      鼻が
    −−−−−
      長い
 ーーーーーーーーーーーーーー
     (ということです)

と、多層構造になってしまう??

もちろんこの場合は「象の鼻が」と一段に書き換えるのだと思われますが、
せっかくすっきりしていた積み木の構造が、
こうして(  )付きの段を許容することによって、
だんだんと何のためにこの構造を見出したのか曖昧になっていくようで、
心配してしまいました。
あの簡素な二層構造、二塁打級に気に入ってたんだけどなー。。。


・・・というわけで、とてもとても、あれで終わらせられませんよ(笑)



2007年01月23日(火) 昨日の続き

自分の言葉に客観性をもたせようとすれば、
物や事象、人、また我々の中にある観念などをつぶさに観察せねばならず、
自分が語ろうとする言葉をも対象として検討しなければならない。
いったい我々の頭の中で、どうやってこんな作業が可能になっているのか、
さっぱりわからない。
不思議だが、そう不思議に思っているときもそのように働いているのだ。
そういう努力をしつつ語る言葉も、やはり主観的であることから免れない。
しかし、これこそ、共有の欲求のもっとも強い表れだ。
我々の授業も、実はそうなのだ。
ニュースや新聞の語る言葉も、口調は改まっているが、
そうでないとは言い切れない。


言葉は、形なきものを形あるものにする欲求の表れということもできる。
言葉にすることによって、初めて物や事象が形をもつ。
ただ目の前をぼんやり素通りしていく事象は、存在しないも同然だ。
確かに何物かが存在するのかも知れないが、私には無意味な存在だ。
この意味では、心で思っているだけの言葉も大いに意味を持つ。

しかし、我々は何らか語らずにいられない。
心の中の言葉は、脈絡も定かでなく、落ち着くところを知らないからである。
それは、物や事象をとらえてはとらえ損なう。
我々は語ることによって、それを形あるものにする。
より明確な形にするためには、工夫や努力が必要である。


また、言葉は、橋本さんが言うように、応答であるとも言える。
ある物を見て、何かを語りたくなるのは、何らか問いかけられているのだ。
もっとも単純なパターンは人から質問されて答える場合だが、
何気ない一言も、思わず出た感嘆も、勝手なおしゃべりも、
その話題の対象に動かされて応答しているのだと言える。

しかし、その問いかけは、何らかの問いかけであって、
当然のことながら、先に問いかけ(質問)があるわけではない。
我々は、物や事象が我々に何を語りかけたかを知らない。
ただ、それらに促されて、思ったことを語るのだ。


これは、単なるメモである。
我々が、喋ったり、語り合ったり、書いたりする行為を、
どうとらえるのがもっとも素直なとらえ方なのかなー、とふと思って、
思いついたことを並べてみた。
あまり脈絡にこだわらず書いたので、抜け落ちだらけだろう。。。
それは、疑問への応答でもあるし、形にしておきたいからでもあるし、
後日読み返す自分と話題を共有したいからでもあるし、
こんなところに書くことからして、誰かと共有できることを期待している
のかもしれない。

他に何かないかなぁ、、、と思ったがもう思いつかなくなったのでやめた。
とりあえず、上のどの見方も、話したり書いたりする言葉だけでなく、
音楽や演劇や絵画や、さまざまな表現行為についても言えそうだ。



(おまけ)
先週の中ごろに、何となく舌の右側の中ほどがヒリヒリするので、
不思議だなぁ、と思っているうちに、右の1番奥の歯にかぶせてあったのが
取れているのに気づいた。
ぜんぜん気づかなかった、、、ということは飲み込んじゃったということか?
さっそく歯医者に電話しようとも思ったが、行けるめどが立たなかった。
いつ行くべきか迷っているうちに、今朝、痛みが始まった。
まだ痺れるような鈍痛に悩まされる程度だったが、
午前中に集められた授業を立て続けに片づけてから電話した。
夕方遅くを希望して交渉したけれど、3時45分しか入れられないと言う。
幸い、午後の授業のない日なので、バタバタと仕事して、走った。

治療中にふと思い出したのは、これは前にも取れた、
あの時は、取れたときに気づいて、すぐに救出して、
それを持ってその日の内に歯医者に行ってかぶせてもらったことだ。
2002年の8月6日のところに書いてあった。4年半前だ。



2007年01月22日(月) 言葉

我々が言葉を発するのはなぜか?
それは、心に浮かんだことを他者と共有したい欲求の表れである。
その行為を振り返って分析したときに、「伝達手段」なる概念が現れるが、
本来は、共有の欲求のようなものではないかと思う。
言葉を覚えたての幼児の発する言葉を聞くと、それを実感する。
日常会話も、「寒くなりましたねぇ」などというちょっとした挨拶も、
手紙も、こうして蜘蛛の巣機構の中で日記を綴るというのも、
「ねぇねぇ聞いてよ!!」で始まる大はしゃぎのご報告も
そういう欲求の表れである。
他に誰もいない所での独り言や、誰にも読ませない日記というのもある。
独り言といっても、誰かに語っている。
それは心に浮かんだ誰かかもしれないし、自分自身かも知れない。
誰にも読まれない日記の場合は、
それを書きつつ吟味している自分でもあるし、将来の自分でもある。
とにかく、言葉の原点は、心に浮かんだことを他者と共有したい欲求である。
これが出発点である。

もっとも、これとは別次元の、言うべきことを言う言葉というものもある。
ニュース報道もそうだし、我々が授業で発する言葉も大半がそれだ。
しかし、こういうのは、考えられ準備されたことばだ。
本来の言葉の原点はやはり、
心に浮かんだことを他者と共有したい欲求である。
そこには主観はあっても、客観というほどのものはない。

(まだ途中なんだけど、もう眠い、、、)



2007年01月21日(日) 納豆品切れ事件のオチ

朝起きて、朝刊の第1面を見て、笑ってしまった。

  あるある納豆ダイエット、データ捏造、にせコメント。

こらーー!!
お前らのせいで、2週間、納豆食べられなかったじゃないかーー!!
納豆2週間分プレゼントしろーーー!!

朝のラジオでも、品切れ問題が時々話題になった。
「私たち家族はただ純粋に納豆が好きなだけなんです。
 お願いです、私たちにも食べさせてください」
というような投書も紹介されていた。
全国的に悩ましい問題にまで発展していたようだ。

ダイエット効果を信じて食べてた人たちには悲しいオチかもしれないが、
ダイエット効果は立証されてなくても、健康にいいことは立証されている。
食べて損はなかったはずだ。
ただ、どんな場合にも言えるのは、いくら身体にいいといっても、
偏った食事はよくないということだ。

きょうは買えるかな? とスーパーに行ってみたら、
きょうも納豆コーナーは空っぽ、売り切れのお詫びが掲示してあった。
入荷できなかったのだろうか?
それとも、2週間お預けをくっていた人たちが殺到したのだろうか?
納豆が品切れになるなどという前代未聞の事件の余波はもう少し続くかも
しれないが、そろそろ収まって元通りになるだろう。
番組のインチキが発覚しなかったとしても、
そろそろダイエット実践者たちも飽きるころだと思っていた。


元旦から続いていた橋本さんとの激しい議論が、
きょう、とりあえず決着した。
これについてはまた後日書いておこう。


そのついでの話で、彼が新しい無線LAN の環境で右往左往しているのを読み
私自身の去年の苦労を塵語から拾い読みしているうちに、
1カ月以上も前から、妻のiMac が接続不能になり、
どうにも解決できず放ってあったのが、解決できるようになった。
何と、4月18日に、ちゃんと最終の解決方法が書いてあったのだ。
書いたことを忘れてしまっていた。
さっそく試してみたら、5分ほどで解決できてしまった。
余計なことをしなければ、2分ほどで解決できただろう。
ほんのちょっとしたことなのだけれど、そのちょっとしたことが、
凡人にはまず思いつかないようなことなのだ。

書きとめて置くことも大事だが、
書きとめて置いたということを忘れてしまっては意味がない。


まぁ、きょうはいろいろなことが解決して、いい日だったかもなぁ。。。
相変わらず腰は痛いけど。。。



2007年01月19日(金) 談合と粉飾決算

このごろは、談合や粉飾決算が発覚したという報道を聞かぬ日はない、
というほど、そんな事件が頻繁である。
具体例を挙げて、こんなにもだぞー、と示しておくべきだろうけど、
もうそんな時間はない。

しかし、政治の中心部分も談合と粉飾決算だらけではないのか?
最近では、TMの費用や政治資金の内容が問題になった。
千万円とか億円とか、気が遠くなるような額の使い道が謎のままである。
国会運営も、議会の審議は儀式に過ぎず、
たいていは議会の外の駆け引きや取り引きで決まって行く。
正規の手続きである議会での議論はないがしろにされ、
裏取引で重要な議案が次々と決定して行くのである。
「談合」「談合行為」の辞書的意味とは違うだろうけど、
やってることはそれとほとんど変わりない。

晋ちゃんの「美しき日本」というスローガンは、
その内容にはいろいろなことが書いてあるけど、実はいたって簡明だ。
若者が軍隊式にピシッとしてることだけが理想なのだ。
見え見えである。
自分の回りがピシッとしてなくてもぜんぜんかまわない。
与党は特権階級だから好きなようにやればよい。
しかし、国民がだらしないのは困る。
国民が言いたいことを言い、やりたいことをやるのは困る。
国民は我々を愛し、ピシッと秩序正しく決めていてもらわなきゃ、
美しい国に見えないではないか。。。

彼の「美しい日本」は、実は「恐ろしい日本」じゃないのかな、と思う。



2007年01月18日(木) 雪合戦

この冬はちっとも雪らしい雪が降ってないし、その気配もいまだにない。
しかし、朝のラジオの鈴木杏樹の話の今週のテーマは「雪」で
今朝は「雪合戦」、昭和新山の国際大会の話を聞いた。
何となく、以前もそんな話を聞いて驚いたなぁ、と微かな記憶があるが、
今朝は、雪玉を作るたこ焼き器みたいな器械もあるような話題もあって、
「ルールのある雪合戦」ということに興味が湧いた。

子どものころ、よく雪合戦をやったけれど、単なるぶつけ合いだった。
成り行きで集中攻撃の生贄になるとたいへんなことになるが、
それはそれで楽しかった。
とにかく、雪まみれになることが楽しくてしょうがなかったのだ。
あのころの唯一のルールは、どこにも書いてないけれど、
石入りの雪玉を人に投げつけてはいけないというだけで、敵も味方もなし。あんなあやふやな「合戦」を、なぜあれほど楽しめたのだろう?

そういえば、コルトというピストルのおもちゃを撃ち合って遊んだ。
当たったらとりあえず死に真似をすることもあるけれど、
またすぐに走り出して撃ち合いに入る。
小さくて軽い弾だから別に危険なことはないが、
地面に落ちたのを拾ったりして回収するわけではないので、
今風に言うと、ゴミを散乱させながら走り回っていたわけだ。
あのころは大らかな時代で、咎める大人もいなかった。
雪合戦にしろコルトにしろ、とにかく、
いつまでやっても埒のあかぬ遊びを飽きるまでやって楽しんでいたわけだ。

雪合戦に、いったいどんなルールが可能なのか興味を覚えて、検索したが、
残念ながら、昭和新山の雪合戦のサイトにはアクセスできなかった。
とりあえず国際ルールを載せたサイトにはアクセスできた。
な〜〜るほど〜。。。
こうしてルールに従うと、なかなかの競技になるもんだなぁ。。。
競技人数7人とか、3セット制とか、意外だ。
当たったら退場だけでなく、旗を取ったら勝ち、というのもおもしろい。
旗を取りに行くと、集中攻撃の生贄になるんだろうな。。。
若いころに知っていたら、ぜひ参戦したかったものだ。
・・と、、、おー、雪合戦ゲームサイトがあるではないか!!
・・・というわけで、数回ほど遊ばせてもらいましたf^_^;



2007年01月17日(水) 県大会の準備

14日の日曜日にアンサンブルコンテストの地区大会がすべて終わったので
一昨日からたいへんな忙しさになった。
県大会出場団体のデータは先週から入れ始めていたけれど、
一昨日すべて入れ終えて、昨日はタイムテーブルの確定、
きょうはプログラム原稿を作り、参加校の住所録を整理した。
県吹連のサイト掲載用のファイルも送った。
印刷屋に電話するのを忘れた。。。
もうとにかく、準備だけでイヤになるほどやることがあるのだ。
どうするのがもっとも効率のいい作業になるか、考えなきゃならない。

絶えず授業の準備に追われている日常だし、
きょうは学年の課題考査の集計もやらなければならなかった。
校誌の編集もさぼるわけにいかないし。。。
そんなわけで、目が霞んでしまうほど忙しい。。。


橋本さんが日記でシリーズ展開している「日本語の構造」に
大きな疑問がいくつか湧いたけれど、よくよく読むと、
助詞の「は」と「が」の用法について極めようとしているようなので、
もう少し静観することにした。

とにかく、きょうはまだ忙しすぎる。
明日はとにかく、2つの印刷屋への電話を忘れないようにしないと。。。

腰の具合は悪くなる一方だ。



2007年01月16日(火) 楽しいミュージカル

高校時代から好きだったミュージカル映画が「ラ・マンチャの男」。
映画は何度も見たし、幸四郎の舞台も2回見た。
3年半ほど前に知って、プッチーニのオペラと並ぶほど気に入ったのが
「オペラ座の怪人」、、、これは本当にすばらしい音楽だ。
しかし、それらはちょっと内容的にも音楽的にも重い。
「サウンド・オブ・ミュージック」ももちろんいいけれど、少し重い。

楽しいミュージカルというと、「メリー・ポピンズ」が好きで、
数回は見ていると思う。
ディズニーのアニメなどはほとんどミュージカルアニメで、
魅力的な曲が多い。
キャラクターの絵があまり好きになれないので積極的には見ないけれど、
見始めたら、巧妙なアニメーションと音楽の楽しさに引き込まれて、
ついつい夢中になって目が釘付けになる。

きょうは輸入盤の「プロデューサーズ」と「チキチキバンバン」の
サントラ盤が届いたので聞いた。
どちらも、映画を見たら楽しい音楽がいっぱいだったので、
先日、ふと思いついて注文しておいたのだ。
こういうのをわざわざ買って繰り返し聞こうとするのは、
楽しみだけでなく、吹奏楽譜も出れば、レパートリーに加えられるからだ。

どちらも、聞いているだけでも、これでもかこれでもか、というくらいに
楽しい気分にさせてくれる。
ただ、「プロデューサーズ」はちょっと全体に騒々しすぎる。
「チキチキバンバン」はその点、たいへんバランスがいい。

しかし、ディズニーのアニメの場合はそういうことはないにしても、
こういうミュージカル音楽を聞いていると、
たいていヨハン・シュトラウスの「こうもり」を思い浮かべるのはなぜだ?
音楽的にも実に優れた、あの底抜けに楽しいオペラが、
私の中では、楽しい舞台音楽の最高峰として君臨しているのだろう。



2007年01月15日(月) 納豆売り切れ

昨日は夕飯の買い物にだけ出た。
腰が痛いと言って寝たり起きたりの父に買い物に行かせる、
そういう酷い家族なのである。

ひととおり買い物を終え、レジに行ったとき、
納豆を買い忘れたことを思い出して、売り場に引き返した。
これはなかなかめんどうなことなのだが、それでも買いたかったのだ。
とこらが、不思議なことに、いつもの棚にないのだ。。。

よく見ると、売り切れのメッセージが書かれている。
かなり早い時間に売り切れてしまったらしい。
いつもこの棚には、こんなに売れるか〜?? というほど積んであるのに。

思い出したのが、先週の「あるある大事典」である。
納豆ダイエットをやっていた。
細かい理論は忘れてしまったが、普通に食べても痩せる、
太るもとになる成分を撃退するのだから、、、という話だった。
体験者たちは、そうめんどうでないと言っていたが、
私は、とてもそんなことはできんぞ、という感じがした。
その、食べる際の黄金法則というのがあるそうなのだ。

1 1日に2パック食べる。
2 朝晩、1パックずつ食べる。
3 よくかき混ぜてから、20分はおく。

これによって、ダイエット効果のある成分を増殖・持続させるのだそうだ。

私自身は、ダイエットはそう深刻な問題ではないし、
朝から納豆にご飯とか、かき混ぜて20分とか、とんでもない労力なので
翌日にはもうそんな話は忘れてしまったのだが、
想像もつかないほどの人々が、藁にもすがる思いで実践しているのだろうか?

そういえば、同じ番組で1カ月ほど前には、
青みかんや青リンゴを食前に食べるダイエットを紹介していた。
普通のみかんやリンゴでは効果はないそうだ。
こちらは季節ものだから、なかなかたいへんだ。



2007年01月14日(日) 腰痛に悩む

きょうは腰痛を癒すため何度も横になった。
きょうが特にひどかったわけでなく、休日だからそれができたというわけだ。
しかし、一向に改善されない。

大学時代から今までに3〜4度あった、
寝ていて起き上がるのに何分もかかるというようなひどい腰痛ではない。
今回の腰痛は「固まりやすい」腰痛である。
身体の柔軟性を奪う腰痛だから、身体を曲げるのもつらい。
ズボンをはくのがややつらく、靴下をはくのがかなりつらい腰痛である。

だから、長時間座った後がもっともつらい。
経ち続けているのがつらいのはいつものことだけれど、
椅子や車の運転席から立ち上がるときが一番つらい。
なかなか身体がまっすぐに伸びない。
こんな状態が長く続くと、定年前に腰の曲がった爺さんになりそうだ。

何度もこんなことがあったのだけれど、どうやって尚してたのかなぁ。。。



2007年01月13日(土) 金銭感覚

タウンミーティングの莫大な費用の使途がちっとも明らかになってないのに
今度は、政治資金支出報告の疑惑で新聞が騒いでいた。
これは、ちょっと読んだ程度ではよくわからない話だが、

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家賃のかからない衆議院議員会館を事務所の所在地としているにもかかわらず、年間約2500万〜3300万円を事務所費として支出していたと、政治資金収支報告書に記載していることが分かった。家賃支出がないのに数千万円の支出は極めて異例。
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とか、

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事実上実体のないとみられる事務所を事務所所在地として収支報告書に記載し、政治団体が発足した90〜00年に事務所費など約7800万円を支出していたことが昨年末に発覚。佐田氏は、別の政治団体の支出を付け替えるという「不適切な会計処理があった」と認め、閣僚を辞任している。
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とか、気が遠くなるような金額についての驚くべき話である。

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総務省によると、事務所費として計上されるものは、事務所の家賃のほか、火災保険などの保険料、電話使用料、切手購入費、修繕費など事務所の維持に通常必要とされるものとなっている。
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これと重ね合わせると、ホントにわけがわからなくなる。
郵政造反組の復党問題の際に、要は政党助成金のためだとわかった時に、
そもそも、政治資金というのは何にどれだけ必要なのか、
ちゃんと税金から搾取していく分についてだけでも教えてくれぃ11
と思ったものだが、今回のはそれとは別の話だとしても、
(いや、それも含めて、の話かもしれないが、実際よくわからん)

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政治団体の支出については、政治活動費には1件5万円以上に限り収支報告書に領収書の添付が求められるが、事務所費や人件費など経常経費には領収書の添付は義務づけられていない。
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これにはホントにホントにびっくり!!! である。
これって、何らかの恩恵を受けるために報告するんでしょ?
我々庶民だったら、そういう報告のためには20円でも領収書がいる。
「領収書はいらん」なんてルールを作ったのは誰?
多数派の政治家たちである。
政治活動費にはよっぽど公にできない危ないものが多いらしい。。。

タウンミーティングの明細を見たときにも思ったのだが、
とにかく彼らと我々の金銭感覚はまったく違っている。
4桁か5桁の金銭感覚の違いがあるように思われる。
何千万という金をいとも簡単に手に入ればらまく。
我々だったら、300円くらいだったらそれもあり得る。
我々庶民は、9800円の買い物をして1万円以下に収めたと思ったら、
支払金額は1万円を超えていた、という悲しさにあきらめと馴れによって
ようやく、しょうがないなぁ、という落ち着きを得られるようになったが、
200万円ほどの車を買って10万円ほど消費税を取られると泣きたくなる。
10万円は我々にとって莫大な金額である。
しかし、彼らにとっては、道ばたに落ちている1円玉か10円玉でしかない。
だから、庶民の生活を圧迫する政策論議には積極的になれるのだ。








2007年01月12日(金) 「気が置けない」という言葉

長〜〜い長〜い4日間だった。
疲れ果てた。
仕事満載だった。
のんびり休暇の後では、実につらい4日間だった。
朝起こされてすぐに50mを10秒以内で走れ、と言われたようなものだ。
やっと一息つける、、、?
しかし、明日もまだ仕事だ。

今夜は、何とか夕飯後にダウンすることなく、
橋本さんが「気」という語について書いていたことに触発されて、
ふと思いついて「気がおけない」ということばについて考えてしまった。
もう寝なきゃならないので、それについて橋本さんに書いたメールを
貼りつけて、きょうの日記にしておこう。

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「気」といえば。。。

本当に、「き」というたった1音の語に、
さまざまな思いをこめて使って来たんですね。
(「を」などの助詞にも言えることですね)
このごろ僕も広辞苑(ただし電子辞書です)での確認が増えているのですが、
こういうことを綿密に分類して明らかにしようとしてきた人々の
苦労を思いやってはひたすら感心しています。
しかし、それ以上に、誰が決めるともなく、こうしたさまざまな用法を、
不特定の多数が使いつつ定着させてきた不思議な歴史。。。

僕が以前何年も意味が覚えられなかった慣用句が、「気がおけない」です。
実に油断ならぬことばですなぁ、これは、、(笑)
この言い方だけ見るとどうしても「心を安心して置けない」イメージなので、
「油断できない」「心を許せない」みたいに取ってしまうのです。
ところが、それは文章の前後の流れと合わないのです。
おかしいなぁ、、と思ってその都度辞書で確かめると、
「気をつかわなくてよい」「気詰まりでない」などと書いてあります。

何で??

遭遇するたびに辞書を引いているうちに、
「心を許せない」じゃないぞ、その反対だぞ、と意味だけは覚えましたが、
この言い方の仕組みだけはどうもよくわかりません。
さっき僕も「気」の項目を見ていたのですが、
「あれこれと考える心」という意味の項目の用例に、
「気を揉む」「気に病む」「気を回す」と並んで
「気が置ける」(うちとけられない)が入っていました。
「気を揉む」「気に病む」なんて実におもしろい表現で、
イメージとしてもわかりやすいですねぇ。。。
こういうのは、凝った表現のわりに、辞書を調べなくても何となくわかる。
ついでに言うと、「気が気でない」というのも、
「自分の心の状態が自分の心の状態でないようだ」みたいな感じで、
何となく意味が感得されてしまいますね?

しかし、「気が置ける」「気が置けない」はやっぱりわかりにくい。
この場合の「気」が「あれこれと考える心」、、な〜るほど、と思っても、
じゃ、「置ける」「置けない」は何だ?? と不思議。。。

この場合の「置ける」は可能動詞? そんなのあり得んわなぁ、、、
じゃぁ何だ??!! と思っているうち、思い出したのが、
先日BBSで紹介してもらった誰ぞやの、
「er は『自分の力が及ばないできごと』を表す」とかいう仮説。。。
「oku」に「er」が入ると「okeru」ですね。
つまり、「気が置ける」は、
「あれこれ考える心がついつい置かれてしまう」意味で、
「気が置けない」は「あれこれ考える心が置かれないで済む」という意味?
うん、確かかどうかわからないけど、これだったら何とか納得できる。

おかげさまで、長年の疑問がかなりすっきりしてきました。
あの人の「er」論についても、もっとしっかり考えてみたいと思います。

それにしても、本当に言葉というのは不思議。。。
誰かがある時発明して、きょうからこういう風に使おうぜ、と定めたわけでなく、
どこからともなく生まれ、使われ広まりつつ定着してきたのですから。。。
しかもそれが、後から使われ方を分析してみると、多様に分類される。。。



2007年01月11日(木) 腰痛に悩む

朝起きたときはそれほど気にならなかったのだが、
出勤して車を降りるときにちょっと難儀をしてかなり腰が痛いなと思った。
きょうはまた運の悪いことに、5時間も授業が詰まっている上、
司書を兼任している実習助手が欠勤である。
3階4階に何度も上がらなければならず、経ちっぱなしも多く、
夕方ごろには腰痛もかなり深刻な状態になってしまった。
それでも、どうしても明日課題考査の答案返しをしなきゃならんと、
2クラス分の採点を7時近くまで根詰めてやって帰宅した。

夕食後30分ほどで、どうにも耐えられず、横になったら、
瞬時に沈没して、2時間ほど眠った。
頭は少し冴えたけれど、腰痛はさらにひどくなった感じだ。
困ったなぁ。。。。


さて、こうして日記を開いたら、きょうは1が3つ並ぶ日だと気づき、
どんな語呂合わせの記念日が作られているかと不意に興味が湧いて、
検索してみたが、、、、意外なことにそういうものはなかった。

あれ? きょうが鏡開きなの?
今年はもうとっくにやってしまった。
餅がまだぜんぜんかびてないうちにと、8日にバラバラにして、
一昨日、娘に鶏鍋を作らせて、それに入れて食べてしまった。
そうかー、ホントは11日なのかー。。。

ある時期まで、鏡開きの「開き」はひび割れをこじ開けるようにして
砕いていくから「開く」と言うのだろうと邪推していたものだが、
ある時、「切る」という語を避けて「開く」を使ったのだと知って、
その発想の豊かさに驚いたものだった。
ついでにその時「鏡餅」という語の由来も調べたら、
形が鏡に似ているからだということで、少々がっかりした。
あの平たく堅い円形の鏡と、ふくよかな餅のイメージが結びつかない。
しかし、昔の人にとっては、鏡は霊力のある特別の存在で、
神事・祭事に欠かせないものだったから、
我々が単なる平たく堅い円盤と思うのとはまったくイメージが違うのだ。
ちなみに、「かがみ」の語源は「影見(かげ+み→かが+み)」である。
「鏡」という漢字で見ると、硬い物質的なイメージが強いが、
「影見」だと思うと、昔の人が不思議に感じた思いが伝わってくるようだ。


もうひとつの記念日は「塩の日」だという。
上杉謙信が武田信玄に、戦の最中なのに塩を贈った、
「敵に塩をおくる」のもとになった日だという。

動機はどうあれ、調べてみると意外なことを知ったりするものだ。



2007年01月10日(水) 18歳成人案

先日ラジオで、18歳で成人とする案についてどう思うか意見を募っていた。
何人かが電話やメールで意見を表明していた。
大ざっぱに見ると、おばさんたちは賛成が多いがおじさんたちに反対が多い。
賛成派は、今よりもっと早くから「責任」を持たせたい。
反対派は、今の18歳はどう見ても子どもだ、もっと遅くてもよい、
高校卒業して社会に出てから最低2年、社会勉強のグレイゾーンも必要だ。
だいたいそんな意見であった。

私は日ごろから、高校生を子ども扱いし過ぎ、と思ってるから、
18歳でもいいし、15歳でもいいぞ、と思っている。
市であんな無駄づかいの成人式など開かなくていいから、
中学校か高校の卒業式がそのまま成人式でもいいと思う。

その代わり、文科省も教育委員会も、
我々教員に、高校生たちを子ども扱いすることを禁じてほしいものだ。
生徒が好き勝手をやっても、指導が足りなかった、配慮が足りなかった、
そんなことを言わないでほしいものだ。
好き勝手をやったりしたら、それは自分のところに返ってくる、
それを学ばせて、成人式を迎えさせてほしいものだ。
学校という場を、社会で生きるとはどういうことか、
社会参加とはどういうことか、政治に参加するとはどういうことか、
多角的に考えることのできる場にしてほしいものだ。

しかし、彼ら政治家や官僚たちには、
成人年齢を2歳だけ下げる観念的な論議はできても、
本質的な改革をする勇気はまったくないに違いない。
だから、精神が子どものままの教育を教育現場や家庭に強いて、
成人にだけさせて、その責任を教育現場や家庭に負わせることになるのだ。
彼らの体質からして、そんなことは見え見えである。

だから、私自身は15歳で成人だっていいと思っているけれど、
彼らが20歳から18歳に下げようとしていることには賛成できない。
そのための教育の方針まで示してもらって、
それがちゃんと適切かどうか確かめなければ、賛成できない。

現在の20歳の成人式だって、バカな光景がそこら中にある。
これのもっとも大きな要因は、文科省や教育委員会がバカだから、
と私は思っている。
小心者の集団だから、本当に教えるべきものを歪めてしまっているのだ。
教員は毅然としろ、と若いころからよく聞かされてきたけれど、
もっとも毅然としてないのはお前らだ、と年ごとに認識を深めているほどだ。

抜本的な教育精神の改革もできないくせに、
数字にだけこだわって、それで大改革のつもりで得意がってるのが彼らだ。
ホントに気楽なやつらだ。



2007年01月09日(火) 脳のメカニズムの不思議

先月の28日に、脳細胞の伝達のメカニズムをまとめた。
記憶のメカニズムについてもまとめようと思っていたし、
今も思っているが、なかなかそれができないでいる。

しかし、本当に不思議だと思うのは、
ニューロンを結合させ伝えられて行くのは、電気信号・化学信号である。
電気信号というのは、ニューロンの外にあるナトリウム・イオンが
入り込んで、それが連鎖していくものである。
化学信号というのは、シナプスの対岸にある「受容体」を
開かせるものでしかなく、そこにまた外のナトリウムイオンが流れる。。。

しかし、我々の中に貯えられるのは、映像であり、言葉であり、
音であり、匂いであり、触った感触や痛みや。。。
あの理論を見る限り、そういうものを運ぶという感じでもない。
いったい、何がどのような形でニューロン相互を駆けめぐり、
貯えられるのだろうか、、、?

我々はなぜ、思い出したくても思い出せないのに、
思い出したくないものはいくらでも思い出してしまうのか。。。
覚えたくてもなかなか覚えられないのに、
なぜ、忘れたいことがいつまでも忘れられないのか。。。

何よりも不思議なのは、なぜ自ら考え、新たな結論を出せるのか?
なぜ、新たな発明や創造が可能なのか?
いったい、何がそれを促しているのか。。。。。

この狭い場所に、1000億もの精密機械がひしめき合い、
絶えず信号を伝達し合っているのも驚異でしかないのだが、
考えれば考えるほど不思議としか思えない疑問が増えてしまう。
それを不思議だ不思議だ、わからんわからん、と考えているのも、
この私の頭の中のニューロンたち自身なのだ。。。。



2007年01月08日(月) 明日から新学期だというに。。。

町内の年に一度の飲み会は、昨日にしてくれぃ、、!!
おかげで、朝から憂鬱でろくろく仕事もできず、
飲み会から帰って、一寝入りしたけれど2時間しか眠れず、
また飲み直しているけれど、今夜中の2時、頭が冴える一方で、
今夜まともに寝られそうな予感がしない。
明日は出勤の上、出勤前に大量の資源ゴミを出さなきゃいけないのに。。。
3連休なんだから、真ん中の休日にしてくれなきゃ困るよ、まったく!


橋本さんとの日本語をめぐる議論はまだ続いている。
明日から忙しくなるだろうから、続けられるか不安だが、
日本語についてしっかり見つめてみようということを彼から教わった。
この冬休み最大の収穫である。
ちゃんとこのまま続けられるといいのだが。。。



2007年01月07日(日) 初雪〜

やっと雪が降った。

8時半ごろ用があって車で出かけたのだが、
ぼこぼこぼこぼこと意外とよく積もった。
降って着地すると次に着地したやつとくっついて、、みたいな積もり方だ。
道路にもどんどん積もるが、すぐに水っぽくなる。
あまり雪らしい雪ではない。
それでも、雪景色というものはいいものだ。
残念ながら、昼ごろには雨になってしまった。

実は、年末年始はあまり寒くなかった。
昨日は1日雨で、久々にちょっと冷え込んだ感じだったのだけれど、
夕方から夜にかけ雨がやんでさらに冷え込むかと思ったらそれほどでもなく、
今朝の雪はとても唐突な感じがした。
我々への顔見せにむりやり降ってきたというような降り方である。

去年は、12月に雪がどっさり降って、1月からはあまり降らなかった。
しかし、概して寒い冬で、しかも春の訪れが遅かった。
それから季節の変わり目が連年より10日から2週間遅いような1年だった。
ここに来て、まだ本格的な冬が来たような感じがしない。
今朝の初雪にもかかわらず、冬の厳しさに会っていない。
昨日「この雨って、ひと雨ごとに暖かくなる雨じゃないよねぇ、、」などと
呑気な冗談を言っていた。
この冬はまだ、雨上がりの夜でさえそんな気分にさせる呑気な雰囲気だ。



2007年01月06日(土) 日本語のそこはかとない余情

昨日、日本語の婉曲的性格について書き始めた。
けれども、時間や酔いの都合があって中断、アップできなかった。
今夜その続きを書こうと思ったけれど、もう余力がない。
これについては、別の機会に書こう。
久々に1月4日の日記が空いてしまうが、後で埋まるだろう。

橋本さんとの問答はまだ続いていて、混乱状態に入っている。
しかし、こういう機会を与えてくれ、しっかり相手をしてくれている彼に、
ホントに感謝している。
日本語の「そこはかとない余情」は、
いったい日本語のどういう性質から来るのか、
その答えに近づいている、そういう機会を与えてくれたからだ。

とにかく、もう眠い。。。



2007年01月04日(木) きょうの問答

昨日もきょうも、新聞読んだら書きたくなることがいくつかあったんだけど
もう時間も遅く、今から読み返しつつ書くのは無理なので、
きょうもっともよく考えたことの記録として、コピペで済ませちゃおっと。
全部読むのはめんどくさくても、最後の何行かだけは読んでね。


(昨日のメールに対する橋本さんのコメント)
 とても共感をもって読みました。もともと日本語はtenseiさんがここに書かれたような、はなはだ自由度の高い融通無碍な言語として理解されていたし、現に、私たちの感覚としても<そのようなもの>として実感されているのではないでしょうか。

    《中略・・・・この日記は原稿用紙20枚分以内らしい》

 また話がそれそうなので、本題にもどしますと、現在行われている学校文法について、私はかなり批判的な意見を持っています。私は個人的に「主語」は「主格補語」でいいように思っていますが、ただtenseiさんも言われているように、「主語」を捨てることについては、たしかに現場の抵抗がつよすぎると思います。

 三上さんや金谷さんの「主語を廃止する」という過激な戦略が、日本の国語教育の現状から見て、はたして現実的かという疑いを持ちます。もう少し現実的な戦略があるのではないか、と思っています。

 また、「日本語文法をどうするか」という問題については、議論を生産的にするためには、いくつかの次元に分けて考察したほうがよいとも思いました。

(1)日本語とは何か(FACTのレベル)
(2)これをどう解釈するか(言語学のレベル)
(3)文化的なレベル
(4)政治的なレベル

 これまでの私の議論は、この4つのレベルが混在していたきらいがあります。(1)のレベルを飛ばして、(3)や(4)に言及したため、議論が錯綜したかもしれません。この点、おわびします。


(さらに付け加えられたコメント)

    《前略》

 しかし、金谷武洋さんの「日本語文法の謎をとく」(ちくま新書)で紹介されている伊丹十三さんの文章は、もっと単純な悪文です。彼は翻訳出版した「サローヤン原作の「パパ・ユーアー クレージイ」(新潮文庫)のあとがきにこう書いているそうです。

<僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」というような文章に読者がどこまで耐えてくれるか私にも自信はないが、しかし、仮にこれを「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」という風に訳すなら、この小説はやさしくて物わかりのいいお父さんの子育て日記という水準にとどまってしまっただろうと思われる>

 金谷さんこうした伊丹さんの英文直訳式の訳文について、「こんな文は読者にとって苦痛以外の何者でもなく、耐えられるものではない。そもそも何のために耐えなければならないのだろう」と書いています。

 伊丹さんのポリシーは主語のみならず、人称代名詞もすべて「省略してはならない」ということのようです。しかし、彼の文章は日本語ではなく、日本語の仮面をかぶった異世界の言語でしょう。

 金谷さんは英語は「主語」中心の「誰かがどうする」の「する言語」であり、日本語は「述語」中心の「何かがどうなる・どうする」の「である言語」だといいます。

 「する英語」を、そのまま翻訳すれば、たしかに一見「する日本語」になります。これを悪文だと見ないで、「ある日本語」を「する日本語」に置き換えることをもって「日本語の革新」と見るいわゆる「進歩的文化人」にも困ったものです。

 川端康成がかって「日本語を滅ぼすものは、岩波文庫の翻訳書だ」と言っていたのを思い出しました。西洋哲学の翻訳など、一部の例外をのぞいてとくにひどいと思います。 


(私の新たな質問メール)

「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」

この文は最初読んだとき、「文字」が目の前を通り過ぎただけでした。つまり、まったく意味が伝わらず、普通は浮かぶイメージが何も浮かばない。

「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」を読んでから、もう1回読み返したら、やっと意味がわかりましたが、
相変わらずイメージを浮かべにくい。文字が固まって並んでいるという感じがします。

 うんと前の話になりますが、どちらが角川文庫でどちらが新潮文庫だったか、高校時代に買った「若きウェルテルの悩み」を、何回読んでも途中で挫折してたのにある時本屋でもう一方の文庫を立ち読みしてみたらすんなり言葉が入ってくるので買って帰ってそのままさっさと読み終えた経験があります。

 その時、もう一度、それまで持っていたのを読むと、やはり読みづらい。翻訳の良し悪しの、もっとも極端な例として覚えています。どこがどう違うか、検証してみてもよかったのですが、
ドイツ語の原文を持っているわけじゃないので断念しました。


 さて、きょう新たに直面した謎はこれです。

<金谷さんは英語は「主語」中心の「誰かがどうする」の「する言語」であり、日本語は「述語」中心の「何かがどうなる・どうする」の「である言語」だといいます>

 こんな風に特徴づけることができれば、丸山真男にも結びついて、なかなかおもしろいことになるぞ、とも思うのですが、、、
どうしてもこの「日本語は『である言語』」というのがわからない。

「英語は『する言語』」というのは、何となくわからんでもない気がする、程度の実におぼつかないフィーリングで受け入れてもいいのですが。。。


(それに対する橋本さんの返事)

<どうしてもこの「日本語は『である言語』」というのがわからない。「英語は『する言語』」というのは、何となくわからんでもない気がする、程度の実におぼつかないフィーリングで受け入れてもいいのですが。。。>

 金谷さんの「日本語文法の謎を解く」(ちくま新書)の副題はずばり、<「ある」日本語と「する」英語>になっています。まさにtenseiさんの質問に答えるために書かれたような本です。そこで、金谷さんは、いくつかの典型的な英文を取り出して、日本文と比べています。参考までに直訳文もつけておきます。

 I have time.(私は時間を持つ)
 (時間がある) 

 I have a son.(私は息子を持つ)
 (息子がいる)

 I understand Chinese.(私は中国語を理解する)
 (中国語がわかる)

 I see Mt.Fuji.(私は富士山を見る)
 (富士山が見える)

 I have seen it.(私はそれを見たことを持っている)
 (見たことがある)

 I hate cigarettes.(私はタバコを嫌う)
 (たばこが嫌いだ)

 これらを見ると、「私は何々をする」という英語の「他動詞文」が、日本文では、いずれも「私は何々である」式の「自動詞文」で表されています。

 一般に日本文ではこのように「行為文」ではなく、「状態文」であらわす傾向があります。これを、「する英語」と「である日本語」という風にいいあらわしたわけです。

 日本人は車窓から富士山が見えたとき、「富士山が見えた」といいます。これを英語に直訳すると、

 Mt.Fuji is visible.

 もちろんこれでも通じるかもしれませんが、ネイティブは「変だな」と思うでしょう。やはり、「SVO」を使って、

 I see Mt.Fuji.

 こう言うべきでしょう。もちろん、英語にも自動詞を使って、状態をあらわすことはあります。「SVC」の構文がまさにそうです。

 You are nice.
(君はナイスだ)

 しかし、こうした文章も、現代英語では少数派だと思います。多くの英米人はたとえばもっとパンチのある「SVO表現」を好むのではないでしょうか。たとえば、次のような表現です。

 You have a very nice bady.

 また、「SVC構文」でも英語では必ず主語を使います。たとえば、迷子になって、場所を聞くとき、日本人は「ここはどこ?」と聴きます。これも直訳すれば、

 Where is here?

 ですが、通じないでしょう。

 Where am I?

 しっかりと、「I」を使う必要があります。ところが、私も含めて、とっさにでてきません。「I」という主語を使う習慣がないからだと思います。ところで、神谷さんは「主語」の定義として、次の3つの条件をあげています。

(1)文頭におかれる。
(2)不可欠の要素である。(省略できない)
(3)動詞に活用を起こさせる。

 英語はこの3条件を満たす「主語」が存在しますが、日本語ではこの3条件を満たす「主語」は存在しないというわけです。かわりに「主格補語」が存在しますが、これは文頭以外にもおかれ、ふつうは省略され、動詞に何ら活用を与えません。

 なお(2)と(3)はお互いに緊密に関連しています。
「主語がないと動詞が決まらない」からです。だから、(3)がある以上、主語を省略することは、命令形のように明らかに「I」が主語であるような場合を除いて、どうしても不可能になります。

 なお、最近は「する日本語」もかなり優勢になってきました。いちがいに日本語の性格を「ある日本語」だと断定することにも違和感があるかもしれません。また、丸山真男の「である論理からする論理へ」にも見られるように、「ある日本語」から「する日本語」への転換をよしとする風潮もあります。私はこうした日本語の他動詞化をれを「SVO革命」などと呼んだりして、一部肯定しています。

 個性を重んじ、主体性を重じる人にとって、「する論理」は「ある論理」よりもよほど魅力的だと思うのです。世界の現状を変えたい人にも「する論理」は魅力的だと思います。

 ごめんなさい。脱線して余計なことを書いてしまいました。たぶん、「である日本語」について、まだ十分な説明になっていないと思います。思い切り突っ込みを入れてください。お待ちしています。


(さらにその補足説明)

 まずは、訂正です。

 I have seen it.

を「私はそれを見たことを持っている」と書きましたが、これは次のように書くのが正しいようです。

 (私は見られたそれを持っている)

 もしくは、もう少し分かりやすい日本語に直せば、

 (私はそれが見られたことを持っている)

 その理由は英語の過去分詞seenはほんらい「受身」の意味だからです。もう少し分かりやすい例を、金谷さんの「日本語文法の謎を解く」から引いておきます。

<(3) The hunter has killed a bear.

  (3)は、その元となっている発想から言えば、「猟師は殺された熊を持っている」という意味の「所有文」である。それは過去分詞killedをカッコに入れてみると、

   The hunter has (killed) a bear.

となるのでよく分かる。そしてこの文中「has」は現在形であるから、「現在完了」と呼ばれるのである。

 つまり英語では過去形も現在完了形も「行為者の表現」である。その違いは過去形が行為文、現在完了形が所有文であるというだけだ>

 なお、過去形のkilledは語源的にはkill−did「殺すことをした」だそうです。

 日本語の場合はどうか。「殺した」は「殺したり」さらにさかのぼれば「殺してあり」から変化しました。ここで「て」は完了の「つ」の連用形でその意味は完了形です。つまり、その意味は、「殺した状態で今ここにある」ということで、英語の「現在完了文」と似ています。これを受けて、金谷さんは、こう書いています。

<これで明らかなように、現代日本語の過去形「殺した」も動詞「ある」が発想の基礎である。本来、日本語の過去は、過去でなかったことになる。何と「現在の存在文」であったのだ。

 日本語話者はもう無意識で使っているのだが、驚くべきことに、日本語の過去動詞文において、「行為者」がやはり消されてしまうのである。「だれがどうした」ではなくて、「何がそこにある」という現在の「存在文」が使われるからだ。・・・

 所有文を存在文であらわす日本語、かたやそれとは逆に存在文を所有文であらわす英語やフランス語、スペイン語。この辺りはみごとに世界観が対照的で面白い>

 私たちの意識は、文明が発達するにつれて、「自然中心の発想や世界観」から、しだいに「人間中心の発想や世界観」へと変わってきました。そして、言葉もこうした文明の発達にあわせ、あるいはこれとの相互作用の中で、「自然中心から人間中心」へと変わってきました。

 その変化の一番早いのが英語やフランス語で、もっとも遅い部類が日本語ではないでしょうか。人間中心ではなく自然中心の発想や世界観が日本語の構造の中にまだまだ深く根を下ろしています。

 たとえば、私は妻から、「お茶を入れましたよ」と声をかけたら、あまりうれしくないと思います。「入れる」というのは妻の行為を際立たせる他動詞です。なんだか押し付けがましい感じがします。

 ところがもし、「お茶が入りましたよ」と声をかけられたら、すんなりと「ありがとう」という言葉がてきます。「入る」というのは自動詞で、しかもその主格は「おちゃ」ですから、行為者が消えています。私たち日本人はこれをとても奥ゆかしく、快く感じます。

 ちなみに自動詞というのは「英語式日本文法」(学校文法)では「直接目的語をもたない動詞」ということですが、金谷さんはこれはまちがいだと書いています。なぜなら、日本語の自動詞は他動詞同様に目的語を持つことが多いからです。

  子供を授かった。(他動詞:授ける)
  英語を先生に教わった。(他動詞:教えた)
  車は角を回った。(他動詞:回す)

 金谷さんは、自動詞と」他動詞の違いは、本来はこう考えるべきだと書いています。

<自動詞と他動詞を比べた場合、人間の力の及ばない自然の勢いを表す方が自動詞、意図的な行為を表す方が他動詞である>

 さらに自動詞は語尾にすべて「ある」を含み、他動詞も本来は「する」を含んでいたそうです。つまり、自動詞と他動詞の違いは「ある」と「する」という2つの基本動詞の違いだと説明しています。そしてとくに大切なのは、日本語では「ある」が「する」よりもはるかに好ましく、価値あるものとして考えられてきたということです。

 これと対照的なのが、人間の行為に価値をおく、現代の欧米語です。英語の場合は「DO」が万能の動詞として発達しました。これは驚くべきことですが、英語では「DO+名詞」でほとんどすべてのことが言い表せてしまいます。

 ホームステイで「皿を洗うよ」と言いたければ、

  I’ll do the dishs.

 もしくは、皿の山を指して、

  I’ll do then.

 といえば言い訳です。金谷さんはこれに対して、日本語におけるスーパー動詞が存在をあらわす「ある」だといいます。

 「我輩は猫だ」を強調するには、文末に「である」を付け加えて、「我輩は猫である」とすればいい。英語の場合は、動詞を強調するにはその前にDOを付け加えます。英語が「する」言語で、日本語が「ある」言語だということがこれでもわかります。

 と、いろいろと金谷先生の受け売りを書いておきました。参考にしていただければ幸いです。


(それに対する私のメール)

最初は「何じゃそりゃ?」と思っていた金谷説も、
だいぶ「な〜〜るほど〜」と思えるようになってきましたよ。
主語なし説についても、

・・・・・・・・・・・・・・・・・
>神谷さんは「主語」の定義として、次の3つの条件をあげています。
>
>(1)文頭におかれる。
>(2)不可欠の要素である。(省略できない)
>(3)動詞に活用を起こさせる。
>
> 英語はこの3条件を満たす「主語」が存在しますが、日本語ではこの3条件は満た
>されず、「主語」は存在しないというわけです。かわりに「主格補語」が存在します
>が、これは「文頭以外にもおかれ、ふつうは省略され、動詞に何ら活用を与えません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

最初からこういう意味だと説明してくれれば、遠回りしなくてすんだのに。。。
定義は大事ですよ、定義は。
ま、遠回りも決して無駄ではないと思いますがね。。。

(遠回りと書いてふと思い出した関係ない話ですが、
 桂米朝の落語に「近回り」という語がよく出てきて、
 落語家が笑わせるつもりで使っているのではないのですが、笑えます。
 「さ、近回り近回り、、、」って、何ともいえぬほのぼのした雰囲気、、、)


「である言語」についても、理解度の円グラフが完全に閉じちゃってたのが、
半分くらいは開いてきました。
な〜るほど〜、、、確かにそう言えなくもないなぁ、、と思わされました。

まだ、英語の現在完了形の説や、日本語の「た」の語源に関わる部分には
かなり疑わしさを感じているし、他の用例はどうだ? と疑り深い。。。
「た」についてはとにかく、「たり」の中の「あり」は、
使った時の気持ちから言うと、今の「ある」よりは「いる」だもんなぁ、、、
と思ってしまいますから、ちょっと説得力が弱い。
自動詞として挙げられてる「授かる」「教わる」は、え?と思って
辞書で確認してみたら、他動詞に分類されているし。。。。
それにまた、「自動詞は語尾にすべて『ある』を含み」と言われると、
「行く」や「咲く」のどこに「ある」があるのだろう? と、謎。。。

それに、まだ、「する」と「である」で対比する意味があるのかな? と
疑問に思っているわけです。
橋本さんは「である言語=自然を尊重する」と意味を見出しているようですが。

かなり説得力があるのがこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 たとえば、私は妻から、「お茶を入れましたよ」と声をかけたら、
あまりうれしくないと思います。
「入れる」というのは妻の行為を際立たせる他動詞です。
なんだか押し付けがましい感じがします。
 ところがもし、「お茶が入りましたよ」と声をかけられたら、
すんなりと「ありがとう」という言葉がてきます。
「入る」というのは自動詞で、しかもその主格は「おちゃ」ですから、
行為者が消えています。
私たち日本人はこれをとても奥ゆかしく、快く感じます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自動詞だから他動詞だからということはひとまず置いておいて、
「人間の力の及ばない自然の勢いを表す」言葉が
日本人には「好ましい」言葉として多用されていることは確かです。

僕はまだ、英語等の言語は「直言的」というか「直辞的」というか、
いい言葉が見つからないのですが、、、それに対し、
日本語は「婉曲的」という段階にとどまっています。
そう目新しい対比でもないと思いますが、
とりあえずこれだったら、おおよその日本語表現は説明できそうです。
この「婉曲」というのは、「遠回しに言う」意味もあれば、
「露骨に言わない、いわばクッション」という意味も含みます。
「これだけしか言葉にして言わないが、あとは状況から判断してくれぃ」
というような語り方を、ほとんど意識もせずに行っている言語習慣、
これもいわば「遠回しな表現」です。
「自分がこうする」よりも「何ものかからこうされる」表現が好まれるのも
「婉曲的」言語環境に慣らされて来たからです。
こういう言語環境で生きていると、精神も婉曲的になりがちです。。。

あれあれ、橋本さんとは違った方向に行ってしまいそうです。
引き止めて下さいね。

きょうの結論は、「である言語」というよりは「ようだ言語」であるようだ、
ということになります(笑)

(これで、きょうの問答のコピペは終了)


・・・というわけだ。
この最後の1文が、我ながらたいへん気に入ったので、
これですっきり眠りにつけそうだけど、まだまだ問答は続きそうだなぁ。。



2007年01月03日(水) 日本語の特性

29日から橋本さんと日本語文法をめぐる意見交換をしてきた。
彼は事情あってBBSを閉鎖して独り言BBSにしてしまったので、
私がメールで送るとその独り言BBSにコメント付きで掲載して返事代わり。
しかし、彼が独り言BBSに転載するというのは特別待遇だと思われるので
調子にのって、正直な感想と意見・疑問を送り続けたのだった。
そのおかげで、とてもいい勉強をさせてもらった。

きょうはこの6日間でもっとも長いメールを書いた。
私が、今まで日本語というものをどうとらえていたか、
こういう「対話」を通じて、何となく言葉にできそうな気がしてきたからだ。
文法とか文の構造がどうだとか言う前に、我々はどのように言葉を使い、
話し、書いているか、から出発するということである。
例えば、英語の「I love you」にあたる日本語の基本文型は
「私はあなたを愛する」ではない。
古今東西、そんな日本語を使った日本人が何人いるだろうか?
「好きよ」「あなたが好きなの」「君が好きだ」「愛してる」だったら、
大いにありうるけれど、「私はあなたを愛している」など殆どありえない。
それが基本文型だとしたら、それは外国語文法をもとにしたか、
精神の欲求によって作られた架空の模範に過ぎないのだ。
いわば、人為のイデアとも言うべき、不思議な代物である。
日本語はそんな律儀な言語ではないのだ。
だからこそ、何ともいえぬふくよかな表現が可能なのだ。
その代わり、この曖昧で自由な言語習慣と伝統が、
日本人の精神世界の悲劇的な要素を形作っているかもしれないのだ。



(以下、橋本さんへのきょうのメール)

次の部分、わかりやすいですね。
最初からこれを教えてもらえば、もうちょっと入りやすかったのに〜、、
いや、今までの蓄積があるから、これをなるほど!と思えるのかな?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (あ)名詞文:名詞+だ(好きだ)
 (い)形容詞文:形容詞(楽しい)
 (う)動詞文:動詞(笑った)

 ここで2つの考え方があります。1番目は、たとえは「好きだ」というのは、「私はあなたが好きだ」という文型の文章で、「私は」(主語)と「あなたが」(目的語)の二つが「省略」されたものだという考え方です。これは英語の[SVO文法」を基本にした考え方を日本語に適用したもので、今日私たちが習っている「学校文法」です。

 ところが、ここにもうひとつ別の考えがあって、はじめから主語や目的語を除いた「すきだ」だけを基本文にするという方法です。これを基本にして、状況に応じて「私は」とか「あなたが」を補っていくわけです。この立場に立つと、「主語」も「目的語」も「補語」だということになります。

 あるべきものがない「省略」された文だと見るか、もともとこれが基本で、必要に応じて「補う」のが日本語のあり方だと考えるのか、この2つの立場があり、どちらが日本文法としてふさわしいかということだと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うーん、、、これだったら、「主語」じゃない、「補語」だ、というのも
それほど抵抗なく受け止められそうです。
「修飾語」だという考え方にも通じますね。


外国人への英語教育には役に立ちませんが、
僕のいいかげんな文法観をまとめておきます。

先日来、僕自身も「省略」という語を使いながら書いていましたが、
それは、いわゆる「基本文型からの省略」という意味ではありませんでした。

日本語にはいわゆる基本文型などない、
よりわかりやすく伝わりやすい語順があるだけだ、
その代表的な語順に整理されたものが
時に基本文型のように提示されたりするが、
それはあくまでも、代表的な模範例、であって、
そう言わなきゃならぬものでもない、
そういうよりわかりやすく伝わりやすい語順パターンは
幼少時からの言語体験の中で、何となく習得されていくものだ。。。
まずここまで、、、あたりまえのことを書いてるだけですね?

これが、出発点です。
英語など、基本文型がきっちり伝わっているのは、
みんながそのようにきっちり使っていて、
それを聞いたり読んだりしながら習得していくためでしょう。
語自体に〈格〉が備わったりしてるのも、安定している強みかもしれません。
日本語の場合は、部品をつないで〈格〉を作るので、自由度が高い。
日本語では述語(あるいは結論)が最後に来る、というのが常識ですが、
そうとは限りません。言いたければ先に言います。
「きれいだなぁ、あの夕焼け」「ひどいねぇ、その顔」
文法ではこういうのを倒置法と言いますが、
これは模範的語順に対する倒置に過ぎぬので、分析的判断によるものです。
実際には、これも、よりわかりやすく伝わりやすい語順の一種です。
そして、心から思いが溢れてきた時にはこういう順に言葉が出るのです。
ま、さすがに英語などでもそんな時いちいち「It's〜}なんて使いませんね?

幼少時からの言葉の習得の中で、さらに身につけているのが、
状況(場)の中で「了解」できていると直観したことは「省略」するということです。
(このことを表現するのはたいへん難しい、、、)
この「省略」は文法上言うべきであるのに言わない、という意味でなく、
その場の中に存在し、心や雰囲気の中でわかっていることなのだけれど、
その場の中にいる人にも了解されていることはわざわざ口にしないということです。
だから、「省略」という語は適切ではありませんね?
あえて言えば、状況の中にある要素からの「省略」といべきかな???
そんなことを、客観的思考によってでなく、やってるわけです。
その代わり、相手も了解していると思ってたらそうでもなくて、
「誰が?」とか「何を?」と聞き返されたりもしますが。。。

書き表すのはなかなか難しいですが、これも、
あたりまえのことを書いているに過ぎませんね。
ただ、言いたかったのは、主語がなかろうと目的語がなかろうと、
助詞がなかろうと述語がなかろうと、、、そのセンテンスには、
基本文型から○○が省略されている、という必要などないということです。
こうあるべき基本文型など、そもそもないのですから。。。
もっともひどい言い方をすれば、
でっち上げた規範から欠陥を指摘するような
そういう論になってしまうと思うのです。

(こう書くと、いかにも文法は無駄なものだと言っているように
 思われそうですが文法研究全体を無駄だと思っているわけではありません。
 助動詞とか助詞とか、実際に使われてるのを分析研究してもらってるのは
 たいへんありがたいことだと思っています。しばしば参照してますし、、)

この、了解されていることは言わずにすませる言語習慣・伝統、、、
こういう僕のような言い方でないにしても、これに似た点が、
しばしば、文化論のネタにされてきたものですよね?
もちろん僕も、ネタにできるんじゃないかな、と思ってますが。。。


主語は文の中にあることもあれば、ないこともある、
文の中にはなくても、その文が生まれた状況(場)の中にある。
それが、「ない」とは何だ! というのが最初のいちゃもんでした。

今ではこう言いたいと思います。
日本語には、「文の構造上不可欠な要素」という意味での主語というものは
存在しない。
だから、この文には主語が省略されているとか、
「〜は}{〜が」の形を取るのが主語だから、、、とかの「象は鼻が長い」
論争とか、そういう形式的議論は無意味です。
そういう、文の構造上の形式的な主語でなく、実質的な主語は必ずあります。
その文の中にはなくても、「文脈」の中に必ずあります。
この「文脈」というのは、文がいくつか集まった文章の流れだけでなく、
言葉が発せられた状況(場)も含んだ意味での「文脈」です。

日本語とはこういうものだと思いますので、
唯一無二の文法理論を確立し押しつけるよりも、それぞれの立場に合った
文法理論を作って利用すればいいのではないかと思います。
それでそう困った事態にはならないと思います。

ちなみに、我々、高校生に国語を教える者にとっては、
主語 - 述語というのはわりと便利な用語でもあります。
主語と言っても、主部と言っても、主格と言っても何でもいいのですが、
「〜だ」{〜した」等々の〈主〉にあたる部分の名称です。
やはり、単なる修飾語のひとつとか補語のひとつとかではなく、
それらとは別格に何らかの名称がほしいと思います。

評論文などを読むときに、時折やたらと長い文があります。
いわゆる挿入句だらけの文であったり、それが更に複文になったりしています。
生徒はそれだけでもう頭がくらくらして、意識が文の中に入りません。
そしてまた、その挿入句に謎めいたことも書いてあったりする。。。
そんな時に助言すべき一番よい手は、「〜は」「〜だ」の部分を
まず押さえさせることです。
英語などだと、たいていこういうのは先にまとめてあるものですが、
日本語ではうんと離れていたりします。
そうしてそれだけ抽出してみると、案外言いたいことが見え始めるものです。
そんなこともあって、主語とか、その種の概念を捨て去られてしまうと、
我々はちょっとめんどうなことにもなります(笑)



2007年01月02日(火) 「24」あと3時間

今、未明の3時を回ったところ。。。
ドラマは、午前4時、あと3時間である。

ここまで見続けて来た自分を褒めてやりたいくらいだ。。。
しかし、まだ3時間耐えねばならない。
またもや、権力欲の塊みたいなのが出てきてとんでもないことをしでかした。

このドラマの視聴者たちは、楽しむだけでなく心に刻まなきゃいけない。
盲目的な上意下達の恐ろしさ。
国益のため、という言葉の真実。
そして、見かけにだまされない政治家選び。
残念ながら、庶民には日ごろ届く情報が乏しすぎる。
だからこそ、ほんの少しの懸念も見逃せないものなのだ。

今作のケースに「シリーズ最高傑作!!」と書いてある。
最高傑作かどうかは、最後まで見ないとわからないし、
今までも、今回以上の緊迫感で見ていたかもしれないと思う。
しかし、シリーズ最高の恐怖、かなぁ、とは思う。


【午後6時20分】

1日の終わりまで2時間を切った。
今1話半ほどを見て、できごとが1段落したところで中断した。
もうすぐ夕飯だし、最終話の直前ではたぶん中断できまい。
あとで、ゆっくり、心おきなくラストを見よう。
夕食前に呼吸や動機を鎮めておかなきゃならないし。。。

毎度のことながら、厳しく苛酷な展開だ。
信じようのない人間も信じて協力せねばならないなんてますます苛酷だ。
毎度のことながら、ドラマの中にもどるのがつらくなる。
それでも、ついつい、時間が空くとディスクをセットしてしまうのだ。。


【午後9時】

長い長い1日が終わった。
1日というのはこんなに多くのことができるのだ。。。

とにかく疲れた。
今回は一気には見られなかったけれど、それでも疲れた。
やっと重荷から解放され、じーんと噛みしめつつほっとしていたら、、、
、、、またまた困ったラストだー。
どうやらすでにシーズン6が予定されてるらしい。
もうやめてくれぃ!! 
もういいよぉ、、、もう十分だよお、、、勘弁してくれ。。。


【午前1時】

「24」を見終えてから、昨日から見ている5回連続番組の
オリエント急行の旅番組を見た。
見たいと思ったのは、今市吹で練習している「オリエント急行」という曲の
イメージを深めたいと思ったからだが、見始めたらそれだけではない。
列車内のようす、歴史、食事、それから沿線の街のエピソード。。。
心底、行ってみたいなー、、、と思う。
でも、食堂車に行くだけでも正装で、なんてご免だぜぃ。
走る高級ホテルなんだもんなー。。。

きょうは橋本さんに2度コメントを送った。
彼の文章をじっくり読みつつ書くので、たいへんな労力だ。
別に、説き伏せようとか論破しようなどという思いはない。
彼は私より遙かに先に進んでいるから、
(ちょっと桂馬飛び風のところがなきにしもあらずだけど、、(笑))
一緒に疑問を考えてもらったり、教えてもらうだけで十分なのだ。
議論する中で大事なのは、共通理解を積み上げることなんだから。

今回は、私が2年間大学の国文科に身を置き、
四半世紀も国語教師をして来ながら、ほとんど無視していた現代国語文法の
理論を、(立場が逆なんだけど)教えてもらった。
少しは関心を向けて取り組まなきゃいけないことを思い知らされた。
ありがたいことだ。
ちょうど仕事からいったん解放された時で、タイミングがよかった。



2007年01月01日(月) 密度の濃い1年の始まり

今、まだ未明の3時半。
普通は前日分に書くのだが、年も改まったことだし、新しい方に入れよう。

例年どおり、子どもたちと年越しそばを食べながら年を越して、
(妻は年越し前に力尽きて寝てしまった)
新年の挨拶を交わし、しばらく雑談して、彼らがゲームを始めたので、
部屋に戻って「24」を4時間分見た。
2時間分でやめる予定だったし、それくらいの体力しかないと思ったが、
やめられなかった。
今は、もう無理してやめた。

このシーズンは、今まで以上にテンポが速い感じだ。
そして、今までより、事件の背後が錯綜しているようだ。
いつものことながら、ホントに密度の濃いドラマだ。
早くも事件の黒幕らしい人物が仄めかされたが、えぇっ、こいつが??
というような人物だった。
これはあり得ん、まだその上がありそうだ、、しかし、あり得るだろうか?

朝7時に始まったドラマが、夜の11時になった。
あと8時間、、、きょう中には終わらないだろうなぁ。。。
きょうは、見始めた日の日記のようになりそうだ。



【午後2:30 難解なる三上文法】

最近、橋本さんとの間で話題にしている三上文法なるものが、
橋本さんの説明や、紹介してもらった書評ではまだよくわからないので、
検索してみたら「三上章の主語・主題論」というサイトがあった。
記念講演のレジュメのようだ。

・・・・・・・・・・・・・・
【三上章の「主語廃止論」とは?】
日本文には主語と名づけるべき成分は決してあらわれない。
だから「主語」は日本文法に関する限り全く無益な用語である。
無益であるのみならず,正当な問題から注意をそらせる傾向がある点で,
有害な用語である。
主語という用語が一日も早く廃止されるよう望んでやまない。
                   (三上章『現代語法序説』)
・・・・・・・・・・・・・・

「主語」という成分は日本文にはなく、その用語は無益で有害だから、
日本文法から「主語」という用語は廃止すべきである、ということだ。
それで、「主題」という用語なら妥当らしい。

・・・・・・・・・・・・・・
【「主語廃止論」の二面性――主語論と主題論――】
・三上章の主語論(理論的):主語の「〜が」と補語の「〜を」「〜に」
              などを区別しない
・三上章の主題論(記述的):主題の「〜は」と主格の「〜が」を区別する
・三上の主語論と主題論は,次のようにまとめられる。

    三上章以前の考え方           三上章の考え方
     主語     補語       主格(補語)
区別  山田が(来た)そばを(食べた) 補語 山田が(来た)そばを(食べた)
しない 山田は(来た)        主題 山田は(来た)
・・・・・・・・・・・・

う〜〜〜んと、従来の文法では、「は」も「が」も主語を示すんだけど、
三上文法では、「が」は「を」「に」と同じ補語を示す語で、
従来主語と言われていた「〜が」は補語の主格、「〜は」は主題ということ?

・・・・・・・・・・・・・・
【三上章の主語論とは?】
主語(「〜が」)と補語(「〜を」「〜に」など)を
まったく別物として区別する必要はない。
「センテンス中に現れる体言をどうして主語と補語との二階級に峻別するか。
 ヨオロッパ語の建前では
 動詞の活用語尾に干渉する体言と干渉しない体言との区別である。
 近代英語や漢文では用言の前に来る体言と後に来る体言との区別である。 
 然るに我が国語では活用にも語順にもかういふ遮断が求められない」          
                  (三上章「語法研究への一提試」
・・・・・・・・・・・・・・

「僕は漫画が好きだ」の「〜が」と「〜を」「〜に」を区別しないのは
よくわかるが、「今度は僕が行きます」の「〜が」も区別する必要がない
というのは、なかなか難解なところだ。
語順についても、「僕が」は、基本的には「行く」の前にしか来ない。
「行きます、僕が」と言ってもちゃんと通じるんだけどね。
この辺はこんなレジュメではわからないので、原典が必要なのだろうが、
読む暇はなかなかなさそうだなぁ。。。

「は」についての分析はなかなかおもしろい。
「本務」と「兼務」という区別がおもしろい。

・・・・・・・・・・・・・・
【「は」の本務と兼務】
・「は」の本務:題目を提示し,文末と呼応する
・「は」の兼務:「が」「の」「に」「を」を兼務して,
 小さく係って途中で消える

【「は」の本務】
「Xハ」そのものは,文末(活用語尾,またそれに文末助詞などを
加えたもの)まで係ります。
題目と述部とは呼応し,張り合って一文を完成するのです。
日本文法で何述関係と言えるのはこの題述関係だけです。
「ハ」の本務を,すなわちその大きい係り方を見やすくするために,
それを半ば囲みの外に出しましょう。
「ハ」の左半分(漢字並みでは偏)は代行の「ノ」を表し,
右半分(つくり)は息入れの点(とう点,コンマ)だと思ってください。
                   (三上章『象ハ鼻ガ長イ』)

【「は」の兼務】
・左の文から「は」を消して右の koto を取り出す(無題化する)と,
 「は」の兼務がわかる。
  象は,鼻が長い。        → 象の鼻が長い koto
  この本は,父が買ってくれました。→ 父がこの本を買ってくれた koto
  かき料理は,広島が本場です。 → 広島がかき料理の本場である koto

【さまざまな「は」の兼務の発見】
・三上章は,さまざまな「は」の兼務を発見し,それらを統一的に説明した。
Xガ:父は,この本を買ってくれました←父がこの本を買ってくれた koto
Xヲ:新聞代は,もう払ったよ。」←もう新聞代を払った koto
Xニ,Xデ:日本は,温泉が多い。←日本に温泉が多くある koto
T( ):昔は,京都がみやこでした。←昔 京都がみやこであった koto
Xノx:大根は,葉を捨てます。←大根の葉を捨てる koto
                     (「大根の」の取り立て)
モノ:ねぎは,生を食べます。←生のねぎを食べる koto
                     (「のねぎ」の取り立て)
雑例:新聞を読みたい人は,ここにありますよ。
・・・・・・・・・・・・・・

要するに「・・・・こと」でまとめなおすと、
それぞれの文の中での「は」の役割gわかる、ということだ。

しかし、何かよくわからない話に見えてしまうのはなぜか?
言葉というのは、みなで使い合っているうちに変化していくのだろうけど、
使っているときに、我々はそういう使い方をしているのだろうかと、
疑問に思ってしまうからだ。
この三上説では、今まで「主語」と言われていた「〜は」を「主題」とか
「題目」とか呼んでいる。
これが、先日来橋本さんとやりとりしていても、しっくり来なかった。

今、こうしていくつかの例文を読んでいると、
「新聞代は、もう払ったよ」
「大根は、葉を捨てます」
「ねぎは、生を食べます」
のような文の「〜は」はいかにも「題目」(主題)っていう感じがするのだ。
「新聞代のことだったら、僕がもう払ったよ」
「大根について言うと、私は葉を捨てます」
「ねぎについては、私は生のを食べます」
というようなつもりで言うのを、簡便に表現しているに違いないからだ。
「象は鼻が長い」
「この本は,父が買ってくれました」
「かき料理は,広島が本場です」
についても同様である。

また、これはちょっと難しい問題だが、
「日本には温泉が多い」と言わず、「日本は温泉が多い」と言うとき、
本当はその文は「日本は温泉が多い国だ」と言おうとしているのではないか?
言わなくてもわかることは言わずに済ませるのが日本語のいいところだ。
「新聞を読みたい人は、ここにありますよ」についても、
「新聞を読みたい人は、ここに新聞がありますよ、だから読んで下さいね」
とくどくど言わなくても伝わるから、簡潔に済ませているのだ。
こういうのを完結した文として扱うと、おかしなことだらけになってしまう。

そんなわけで、現に我々が「使いつつある言葉」、
人間が「発しつつある言葉」について語っているのかという疑問も湧いた。


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