TENSEI塵語

2004年05月31日(月) 今夜も「24」Season2

アメリカ国内での核爆発。
報復のための第3次世界大戦???
その準備が着々と進む中、
中東3カ国の陰謀ではない証拠を求めてバウアーは悪戦苦闘、
それを信じて決断の時を待ち続けるパーマー大統領。
けれども、事態は開戦に向けて動かされて行ってしまう。
大統領の周辺に、大統領に戦争をさせたがっている連中がいる。。。

午前2時になった。
あと6時間だ。

前作より遙かに深刻な展開だ。
核爆発後、ますます緊張が高まった。
とにかく、予想外の展開の連続だ。



2004年05月30日(日) 「24」Season2

12時間が経過した。

・・・何も書けない。。。
いざ何か書こうとしても、言葉を失ってしまう。

前作も驚きの連続だったが、今回はもっとたいへんだ。



2004年05月29日(土) 日本人記者2名死亡

イラクで2人のフリージャーナリストが襲撃を受け、殺害された。
同行のイラク人運転手の証言によれば、
武装集団の車が追い越して、行く手を遮るように停車した。
それをかわして逃げようとしたら、4人の武装兵に乱射された。
その時点で後部座席の橋田氏と通訳が撃たれたようだ。
それから車は左急ハンドルを切る形で林の中に突っ込み、
木に激突して炎上した。
車から脱出した運転手は周囲に助けを求めたが、
アメリカの手先を乗せていた、と非難され、相手にされなかった。
もうひとりの小川氏は、町はずれで遺体として見つかったという情報もある。
だとすると、炎上する車から脱出したものの、拉致されて殺されたのかも。。

運転手の話によると、その少し前に米兵の検問があり、
2人は車から降りて米兵と立ち話をした。
それを見ていた犯人たちが、アメリカの手先だと思って襲撃した、
という解釈ができるそうだ。
でも、いきなり問答無用で銃殺つもりだったのかどうか、、?
もし運転手が逃げようとせずに車を停めていたら、
いきなり銃殺されることなく、いったん拘束されて、
対話の機会もあったのではないかということを考えてはいけないのだろうか?

橋田氏は、取材だけでなく、ファルージャ攻撃で失明した少年を、
治療のために日本に連れて帰る目的も持っていたという。
イラク人の間に増殖する反米感情が、彼らの味方を殺してしまったのである。
今までに人質になった人たちも、似たような状況で拘束されたが、
米軍の手先とかスパイとかの誤解がとけて、殺されずにすんだのに。。。

そして、政府のコメントはあいかわらずである。
いい加減にしてくれよ、行くなって言ってるじゃないか、
なぜ行くんだ、行くなって言ってるんだよ、、、ってな感じである。



2004年05月28日(金) 「24」Season2

予約しておいた「24」の新作が発売日のきょう届いていた。
第1作は、第1巻、第2〜6巻、第7〜12巻の3分割販売で、
試しに第1巻を見たら、順次見ないでいられなくなるという売り方だったが、
今回は全巻一括販売、第1作に魅せられた人は買うでしょ、という
いかにも自信満々な売り方を継続させている。
私は、その販売作戦にまんまと引っかかっている1人なわけだf^_^;

夕方帰宅したら届いていたが、あいにく、今夜は飲み会だった。
したたか飲んだのと、大声でしゃべる人が多くて聴覚から精神的に疲れて、
クタクタ、フラフラになって帰ってきた。
すぐ横になっても、そのまま眠れたかもしれなかった。
けれども、「24」のパッケージの誘惑に負けた。

今回の話は朝の8:00から始まる。
8:00から10:00までの2時間を見た。
相変わらず目の離せない展開で、知らないうちに2時間が経過したが、
まだ2時間、あと22時間、、、また長い長〜い1日が始まったわけだ。

前作から1年半後のある1日ということらしい。
今回の事件は、ロス・アンジェレスに核爆弾、しかも、きょう決行、である。
前作で大統領候補だったパーマーは大統領になっている。
ジャック・バウアーは、妻を失った心の痛手から休職中である。
本人はCTUを辞めたつもりでいるようだ。
母を失った心の痛手から、キムは父親と別居し会いたがらない。
家族への思いに苦しみ、CTUからの連絡を無視し続けるが、、、



2004年05月26日(水) 「冬ソナ」の残酷性

昨夜は書いてる途中で眠たくなって、どこをどうしてどう終了したのか、
何もわけわからぬ状態でやめて寝た。

ドラマを見ながら、サンヒョクの恋の成就を応援する人はまずないだろうが、
かえすがえすも気の毒な運命にあるのは確かである。
苦節10年、やっとこさこぎつけた婚約披露宴にユジンが現れない。
その時間に、ユジンが街角でチュンサンの姿を見かけ、
その姿を追い求めて彷徨っていたためである。
そしてそのチュンサンは、ユジンの仕事の依頼主として現れる。
チュンサンとは別人のミニョンという人物として現れるが、
ユジンはミニョンにも惹かれて行き、サンヒョクとは結婚できないと言う。
10年がかりでこぎつけた婚約の解消である。
これは、たいてい怒りますよ、相手の心の事情がどうあれ、
そんなことは尊重していられない、そんな気遣いなんてできるわけない。
サンヒョクはハンガーストライキを決行して、ユジンを取り戻す。
もうまもなく挙式というころになって、ミニョンは実はチュンサンだとなる。
それがわかってからのユジンは、
もう何があってもサンヒョクのところには戻ろうとしない。
その揚げ句に、恋敵チュンサンは自分とは異母兄弟だったと知らされ、
両親は不和、家の中は真っ暗、、、である。

ユジンに焦点を当てれば、幸福と残酷がもっと交錯している。
チュンサンに初恋をし、幸福の予感に震えているさなかに、
いきなりチュンサンの死を告げられる。
忘れようとしての忘れられない中で、
どうにかサンヒョクとの結婚を決意したら、チュンサンの姿を見る。
その動揺を克服したと思ったら、ミニョンと共に仕事をするはめになる。
チュンサンではないと割り切ろうとしても、ミニョンは求愛してくるし、
チュンサンではないと言い聞かせても、心はミニョンに引き寄せられる。
思い切ってミニョンの方に走ったらサンヒョクがそのために死にかけるので、
泣く泣くサンヒョクとの結婚を決意する。
その式が間近に迫ったころに、ミニョンはチュンサンだったと知る。
10年間、いつも求めていたチュンサンがミニョンだったという衝撃!
けれども、チュンサン自身にチュンサン時代の記憶がまったくない。
去ろうとするチュンサンをやっとつかまえたと思ったら、
自分を助けるために2度目の交通事故で、意識不明の重体。。。
チュンサンの命も記憶も何とか救われて、
いよいよ2人の生活を築こうとしたら、異母兄妹だと知らされる。
別れざるを得ないことに、やっとこさ踏ん切りをつけたら、
実は異母兄妹ではないと知らされる。
しかしその時にはチュンサンはもうアメリカに渡り、
そのまま事故の後遺症で死ぬかもしれぬという運命にある。

3年後、ユジンとチュンサンが再会した時、チュンサンは盲目になっていた。
その再会もまた残酷と言えるのかもしれない。
できれは健康なままの2人にかつてのまま再出発させてやりたいという
思いが、チュンサンの盲目を残念がるのだろう。
けれどもこの結末は、ちょっと哀しい、ハッピーエンド、である。



2004年05月25日(火) サンヒョクの悲劇

ユジンが10年間チュンサンを忘れられなかったことは、
それほど意外でも不思議でもないのだが、
サンヒョクのユジンに対する一途な思いには現実離れした一途さを感じる。
チュンサンの死後10年ほども、チュンサンを忘れられないでいたユジンの
傍に寄り添い続け、他の女性に惹かれたことは1度もないことになっている。
何という殊勝な、というべきか、何と孤独で淋しい10年間というべきか?
ともあれ、こういう男も現に存在すると仮定して、
彼は10年目にしてようやく、20余年来の悲願を果たし、
ユジンとの婚約にこぎつけた。
忍耐と誠実の勝利、、、喜びも我々には計り知れないほど大きかったはずだ。

ところが、チュンサンの再来によって、忍耐と誠実も台無しになる。
10年にも及ぶ忍耐と誠実、20余年来の悲願が台無しになる。
これを、安易に単なるふられ男と見るわけには行くまい。
単なるふられ男と見るには、年月の堆積が重すぎるし、喜びも大きすぎる。
だから、ドラマの最初の数話では善良の具現者のように見えたサンヒョクが、
次第に精神を病んで、利己主義と妄執の塊と化してしまうのである。
ドラマの後半に進むに従い、サンヒョクってこんな人間だったっけ?と思う。
ユジンとチュンサンの幸福を願いながらも、サンヒョクかわいそうだ、
という思いも否定しがたいのだが、それは、
運命が哀れなだけでなく、精神も表情も哀れに見えてくるからである。

チュンサンが登場してからのサンヒョクは、
まさに、踏んだり蹴ったりの目に遭わされていると言ってもいいだろう。
高校2年の冬にチュンサンが現れるまで、少なくともサンヒョクの意識の
中では、ユジンは〈俺のもの〉以外の何ものでもなかった。
周囲もそのように見ていたようである。
ユジンだけはそんな風には思ってなかったようで、
サンヒョクは幼なじみの友だち以上には思っていなかったようだ。
ここに根本的な気持ちのすれ違いがある。
それでも、このまま何ごともなく過ぎていけば、
結局のところはユジンと結婚できる運命にあったのかもしれない。

もしふられるにしても、純粋にふられるべきであった。つまり、
単刀直入に「夫としては考えられない」みたいに拒絶されるべきだった。
誰かに奪われるというかたちでふられるべきではなかった。
なぜならサンヒョクは、ユジンと結婚するんだ、という願い、というよりは、
素朴な信仰を幼いころから心に育んできたからである。
そして、サンヒョクがその信仰を持ち続けていられたのは、
ユジンもまたサンヒョクに恋していたからではなく、
ユジンがまだ誰にも恋をしていなかったからに過ぎない。
サンヒョクにとってユジンは初恋の相手でも、
ユジンの初恋の相手は、未来に出会える誰かであった。
その信仰の誤りをできるだけ早く、単刀直入に知らしめるべきだったのだ。

ユジンは、自分の自然な感情に従って、チュンサンに恋をした。
ユジンのチュンサンへの思いは初恋だが、
サンヒョクの意識の中では、ユジンの浮気、チュンサンの不当な強奪と映る。
頭ではユジンの初恋と解釈することができても、
心はその解釈に落ち着くことができない。
自分のものであったはずのユジンが盗まれたような感覚にとらわれるのだ。
幸い、高校時代のその動揺は、それほど深刻にならないうちに、
チュンサンが死んだという知らせによって終わってしまった。
ユジンを奪いに来たやつは永遠にいなくなった。
いずれはまた自分のところにユジンは戻ってくると、
サンヒョクは信じることができるようになった。
それは思っていたよりも長く、10年近くの年月を要したけれども、
とにかくも婚約にまでこぎつけて、サンヒョクは幸福の絶頂近くにいた。

そこにチュンサンが再び現れる。
ユジンの動揺は一通りでない。
サンヒョクも、2度と奪われまいと躍起になる。

サンヒョクの悲劇の根本は、素朴な信仰にあるようだ。



2004年05月24日(月) ユジンの思い

ユジンは10年間チュンサンを忘れることができないでいた。
私はそれについて疑問も抱かなかったのだが、
もし自分がこうだったらどうですか? などというインタビューも
行われることがあるようだし、10年間は長すぎると思う人もあるようだ。

脚本家が意識しているかどうかはわからないけれど、
10年もの間忘れられないでいた大きな要因はちゃんと設定されている。

ひとつは、チュンサンがいきなり去ったことである。
しかも、これからという時にいきなり去ってしまったことである。
思いがけない出会いから、強烈な印象を与えているさなかに、
いきなり姿を消して、もう目の前に現れることがなくなったことである。
去ったのが決定的になったのは、チュンサンの死を知らされた時だとしても、
ユジンにとっては、夕食の準備をしている時に姿が消え、
デートの約束場所に姿を見せないという、不可解な別れを伴っている。
そこに、いきなりの、決定的な「不在」の通告がなされるわけだ。
何も言わずに去られるのは、別れの説明をされて別れるよりも、
相手の存在が心に焼きついてしまうものである。
不可解に対して問う心が、相手により深く向かわせてしまうのである。
しかもそこに、チュンサンのクリスマスプレゼントが届く。
チュンサンに対し、驚くほどの魅力を抱いたはずの、
思い出の「初めて」の演奏と、それに続く明るい声のメッセージ、、、
いかにも、今そこに生きているかのようなメッセージである。
これではますますユジンも心の整理をつけようもない。

それでも、普通は、年月経つうちに、新たな出会いがあり、
去った人のことを忘れないにしても、心の整理をつけて、
新たな出会いに身を任せるものだろう。
ユジンはそれができなかった。
それは、いつもサンヒョクがそばにいたからだ。
ユジンにとってサンヒョクは、幼なじみの友だちか兄的存在でしかない。
けれどもサンヒョクは、幼いころからユジンと結婚すると決めている。
サンヒョクにとってそれは、幼なじみという意識から来る既得権、
つまり、自然な成り行きであり、当然の権利なのだ。
一時はチュンサンの登場によって揺らいだけれども、
チュンサン亡き後は、また既得権の行使に努めることになるわけである。
こうしてチュンサンの死後、サンヒョクはユジンにつきっきりだったはずだ。
こうなると、ユジンは、チュンサンへの思慕と、
サンヒョクの求愛の間で長い間生活せざるを得なくなる。
ユジンが大人になればなるほど、サンヒョクの存在は足枷になるのである。
もちろんサンヒョクは、自分の既得権の行使がユジンの自由を奪い、
ユジンの心を不幸にしていることに、ミニョン登場後もわかっていない。

しかし、仮にユジンに新たな胸ときめかす出会いがあり、
別の男と大恋愛をして既に結婚し、子どももいたとしても、
街角でチュンサンと同じ顔をした人物を見たとしたら、、、?
似ているのではない、同じとしか思われない顔なのである。
これは、絶対に動揺せずに入られないだろう。
心の整理ができて、その存在が心の片隅に片づけられていても、、である。

私はこのドラマを第2話の途中から見始めたけれど、
ぐっと心惹かれ始めたのは、第3話の、ユジンが街角でミニョンを見かけ、
婚約披露宴の時間であることも忘れてチュンサンの姿を追い求める場面からだった。



2004年05月23日(日) 「冬ソナ」とお別れ?

「冬ソナ」DVDを橋本さんに全部取られてしまったので、
今朝までまだしつこく見返していた「冬ソナ」としばしのお別れである。
採点に追われる時期だから、預かってもらえるのはかえってありがたい。
見られないのは淋しい気もするけど、見てちゃいけない時期でもある。
3日前第1集を貸したのだが、意外とさっさと見終えたようなので、
きょう第2集も貸したのである。
娘も見終わるまで貸してほしいということで、どうぞどうぞというわけだ。

我が家のあとの3人は、このドラマにいたって無関心である。
娘さえ恋愛ドラマよりも銀河英雄伝説なんかに夢中である。
妻がドラクエの冒険に専念している間、私が冬ソナに涙しているという、
実に変な家族である。
ただ、妻の場合は、もし見たら泣きすぎる恐れがあるので、
いかにも泣けそうな映画やドラマは積極的には見ないという傾向がある。
私にしても、泣きそうなものは1人で見た方がいい。

さて、手元にDVDがなくなって、落ち着いたかと思うと、そうでなく、
夕方には、きょう届いた「冬のソナタ 特別編」を一気に読んでいた。
韓国の冬ソナファンたちが、登場人物たちの
ドラマには現れない思いを想像して(?)綴った文集である。
チュンサンの死後10年間のユジンの手記みたいなのもあるし、
アメリカに帰ったチュンサンの生活や心の内を語ったのもあるし、
ドラマから数年後の、ユジンの子どもの日記なんてのもある。
しょうもないようなものだが、おもしろくて1冊半ほど読んでしまった。

それから、しばらくシナリオを読んでいた(ぜんぜんお別れできてなーい)。
「冬のソナタで始める韓国語」というシナリオ対訳集である。
ところどころ省略されているけれど、8割方収録されているだろうか。
ドラマを見ていて、いいセリフをまとめておこうと思ったのだが、
同じセリフでも、ドラマの中で出会うのと、こうして文字で読むのとでは、
かなり心への入り具合が違うものだ。
演技、表情、音楽というものの効果というものは大きいものだ。
それに、ドラマ自体の流れというものも多分に作用している。
それで、そこだけ取り出しても言葉の重みを失ってしまうということもある。



2004年05月22日(土) (`ε´)

粗大ゴミについて書いていたら、いきなりブラウザが終了して、消えた。
うっかり「きかれ」を変換してしまったのだ。
気をつけていたことなのだが、しばらく使わないようにしていたので、
このマック特有の「きかれ」の恐怖を忘れてしまっていたのだ。
へこんだ。
とても再び書く気になれない。

きょう、初めて粗大ゴミを持ち込みで処分した。
ワープロ専用機2台、ストーブ2台、ミニコンポ、除湿機、、、など、
15品目ほどである。
電話して引き取りに来てもらう手続きや準備が億劫で溜まっていたのだが、
平日だけでなく、第4土・日は持ち込めると知ってきょうにしたのである。

これだけメモっておくとしよう。



2004年05月20日(木) 「モンテ・クリスト」

昨夜、一昨年作られたという「モンテ・クリスト伯」の映画を見た。
今夜はその特典映像を見た。
見ていて楽しい映画ではあったけれど、あらすじを急いでたどってる感じで、
そう特筆すべきすばらしい映画という感じはなかったのだけれど、
制作に携わった人たちのこだわりや思い入れはかなりのものである。

エドモンはイフ島の監獄に投獄された。
航海の途中立ち寄ったエルバ島で、ナポレオンの密書を預かった罪である。
本人には反逆の意思などなく、無実として放免されるべきだったが、
エドモンとメルセデスの恋仲を嫉妬するフェルナンと、
ナポレオンの密書が自分の父親宛だったことに困惑した検事
ヴィルフォールとの共謀で、投獄の上、処刑したことにしてしまう。
処刑されたと知らされたメルセデスはフェルナンと結婚する。
エドモンは監獄で復讐を胸に、同じく投獄されていたファリャ司祭に、
学問・剣術を習い、脱走のためのトンネルを掘りつつ、幽閉に耐え、
13年目に脱獄に成功し、復讐に着手する、、、という話だ。

長い原作を2時間ほどの物語にまとめるために、
脚本家がかなり人物関係やストーリーに変更を加えたそうだ。

エドモンの投獄前の婚約者メルセデスの思いがこの映画では格別光っている。
メルセデスは、エドモン処刑の知らせに泣いて、その後フェルナンと結婚し、
アルベールを生む。
エドモンは脱獄後、伯爵として社交界に出入りし、真相解明する中で、
メルセデスがフェルナンと結婚していることを知って絶望し、
メルセデスも、フェルナン、ヴィルフォールとともに復讐の対象となる。
けれども、メルセデスは、モンテ・クリスト伯がエドモンだと気がつくと、
一途にその愛を求めようとする。
婚約したときにはめた紐だけの指輪も外していない。
そして、ある時フェルナンに告白する。
アルベールはあなたの子ではない、エドモンの子だ、
エドモンが死んだと知らされたとき、お腹に子どもがいたので結婚したのだ、、と。

何というひたむきな女性であろうか。
恋人が死んだと聞かされても忘れられなかったユジンにハマっている最中に、
またこんな映画を見てしまうとは。。。



2004年05月18日(火) 3度目のラスト

試験問題を作り終えたので、冬ソナを見た。
修学旅行から帰った金曜に11話から見始めて、一昨日18話まで。
そこまでは2回目だったけれど、その続きの今夜の2話は3回目である。
それぞれの登場人物の懊悩が、最初見たときより切実に伝わってくる。
特にもう、チウさまの演技と表情は絶品だ。
何度見ても泣かされてしまうじゃないか。
他の役者は、たぶん年取ったベテラン俳優も多いのだろうが、
紋切り型の演技をしばしば感じさせるのに、
チウさまはそういうものを感じさせない。
チウさまのこの演技が、ヨンくんまで輝かせているようだ。



2004年05月17日(月) 試験

木曜日から中間考査で、今夜は試験問題をまず1つ作るのに専念した。
毎度毎度、憂鬱極まりない仕事である。
採点はもうホントに嫌いだけど、試験作りはその次に嫌いだ。
課題プリントを作ったりするのは、案外楽しいものだけれど。。。
課題プリントは、作るのはめんどうでも、利用価値が高いからだ。



2004年05月15日(土) 久々に新聞ネタ

3日ぶりで新聞を読んだ。

小泉クンも年金を払ってなかったことがあるそうだ。
そうだろうとは思っていたけれど、、、
本人は義務化以前だから問題なしと割り切っているようだ。
年金資金が足りない、このままだと将来困るから制度を改革しようと
国会で審議されているが、その原因は、資金の運用の大失敗と、
政治家でさえ納入をいい加減にしてきたという長い実績である。
資金運用の無駄遣い的失敗は、本来首括るべき犯人が何人もいるはずだし、
国の政治に直接携わって高額の給料を得ている人たちでも、
資金の確保に努めて来なかったという無責任を非難すべきだが、
そういう人たちも加わって、そうした実態を棚の奥深くにしまい込んで、
よく知らない制度についての制度改革を法として作ろうという、、、
何ともおかしな話ではないか。
よくわかってない人が、法律を作るのである。
なんとも不思議な話ではないか。

サマワで地元の軍とオランダ軍の銃撃戦があったそうだ。
まだ政府の認識では、サマワは非戦闘地域なのだろうか?
私は、イラクには未戦闘地域はあっても、非戦闘地域などないと思ってたが。。。
わざわざそんなところに武装した日本人をどやどや送り込むのは
火に油を注ぐようなものだと危惧していたら、あの人質事件が起こったのだ。

他にもあったように思うが、新聞をここに持ってきてないので思い出せない。
しかしそれよりも、きょう届いたメルマガから貼り付けておこう。


・・・・・・・・
14日、世話人会を代表して、小川泰寛(北大)と醍醐聰が
今井さんご一家とお目にかかることになり、札幌へ出かけました。

驚いたことに到着すると、その場にすでに高遠さんご本人が弟さん、
友人の方と連れ立っていらっしゃり、思いもよらぬ対面となりました。
高遠さんはこれが帰国後初めての外出だそうです。

今井さんのご家族、支援者の方(3名)がそろったところで、
世話人から、「会」がこれまで取り組んできた署名・募金活動のこと、
外務省へ質問書を出したことなどを報告しましたところ、
先方の皆様から丁重な感謝の言葉をいただきました。

その後は打ちとけた歓談となりましたが、
ひときわ輝いたのは、ほかでもない高遠さんの熱弁でした。
特に、話に熱がこもったのはイラクで拘束中に武装勢力と交わされたという平和論、宗教論でした。
インドに入って非暴力主義を学ばれた経験から、武装勢力に向かって、
「なぜ、あなた方は対話による平和を目指さないのですか」と
しばしば激しい口調で詰め寄られたそうです。
そばで聞いていた今井さんも
「あのときの高遠さんはすごかった」と振り返っていました。

「イラクの人に、日本は50年非戦を通してきた、
 インドにも非暴力主義っがある。
 こういう世界の現実をあなた方は知っているのですか」と質すと
反発するどころか、もっと知りたいと近寄ってきたとのこと。

高遠さんの口をついて出た、
「人道は怒りを持ってやってはいけない、許しの気持ちを持ってやるもの」
という言葉は、活字からではなく、
自らの体験で培われた信念ならではの迫力を感じました。

そのお姉さんの話を横で聞き入りながら、時折、私たちが届けた
賛同者の「メッセージ集」に食い入るように目を通される弟さんの姿も印象的でした。

最後に醍醐から、次のような言葉を述べて、皆さんと別れました。

「高遠さん、今井さん、お二人は自分の人道活動が
 イラクの人々に理解されて解放されたのです。
 その意味ではお二人は自分の身を自分で守ったのです。
 これこそ自己責任を果たしたということです。
 もちろん、無事に帰国できたのは内外の多くの方々の
 支援があってのことですから、感謝は必要と思います。
しかし、これ以上の謝罪は不要です。
 どうか、胸をはって、マイペースで休養してください。」



2004年05月14日(金) 風景を楽しむ

修学旅行最終日は、洞爺湖畔〜登別〜空港と回るコースである。
70名ほどの生徒はふきだし公園なるところに行ってラフティングであるが、
5000円もかかるので、希望者にしか体験させられないということで、
それ以外の生徒は、サイロ展望台に行って、
ラーメン・アイスクリーム・バターなどを作る体験実習である。
私としては、そんなことまでさせなきゃいけないのか、甚だ疑問だが。。。

昨夜は3時間も眠っていない。
同室の人が朝5時に起こしてくれたので、12階の温泉につかりに行った。
せっかく12階に作られていてもいい眺めでないのが残念だったが、
外の浴槽につかっていると、頭や顔がひんやりして実に気持ちよい。
寝不足などぜんぜん感じないほど頭が冴えきった。
バスの中では同乗の先生と多くの生徒は眠っていたようだが、
私はバスガイドの話を聞きながら、風景を楽しんでいた。

走っているバスの中から見えた羊蹄山(蝦夷富士)は、
確かに富士山そっくりで、全身雪に覆われていて、壮観な姿だった。
ただ、形は似ているけれども、美しさにおいて似ても似つかないのは、
富士山の美しさが裾の広がりにあるからだ。
太宰が、あれだけの裾野を持ってたらもっと高くなきゃいけない
と文句言っていた、あの広大な裾野こそが富士の優美の真髄であろう。

昨日とは対照的に快晴なので、その羊蹄山も、洞爺湖も美しかった。
体験実習など、始まってしまえば放ったらかしで景色を眺めていられるのだ。
5000円出してヘリコプター遊覧してやろかしらんと思ったけれど、
これは、引率の仕事で来て万一の事故に遭っては具合悪いので、断念した。

そのサイロ展望台から近くに見える山の上に、巨大なホテルがある。
バスガイドの話では、一泊数十万円という超高級ホテルで、
黒木瞳だとか田中健とか、芸能人がパーティー開くのに使っているとか。。。
また、ランチタイムというのもあって、ランチが8千円とか。。。

登別はクマ牧場に寄ったけれど、ロープウェーに乗ってる間楽しんだだけで、
上に上がってしまうとそうどうということもなくて、
生徒たちも昼食をとったらぐるっと回ってさっさと下りてしまったようだ。
空港に向かうついでに寄っただけのことで、昼食兼時間つぶしである。
温泉に泊まらなければほとんど意味ない場所であろう。

帰りの飛行機はいい時間帯に乗ったかもしれない。
東北地方一帯は曇だったらしいし、乗って1時間ほどで日没だった。
下に見える景色が雲海ばかりでも、その姿はさまざまだから見飽きない。
その雲海も、やがて朱に彩られた。
雲が晴れると、沈みかけた陽の淡い光が海に映えた。
佐渡・能登半島・飛騨の山地などを薄暗い中に見つつ、
到着前は、尾張の夜景を広々と眺めた。
どこやらの山の上から眺める夜景とはぜんぜん違っている。




2004年05月13日(木) 羊頭狗肉の店

札幌の街を自由散策といっても、
買い物好き・買い食い好きの生徒にはこの方がいいだろうが、
我々には、こういうのはどこも大差なしという感じでおもしろくない。
しかも、我々の立場は中途半端で、名目は監督・指導みたいになっていて、
そうかといって、そう監督・指導なんて実質的にできるわけでない。
ま、こういうときは、教員はどこかの喫茶店に腰を落ち着けて、
生徒からの緊急連絡を待っているだけでいいと思うのだが、
変な指示を出す人がいるものだから、めちゃめちゃ歩かされてしまった。
しかも雨降りである。へとへとである。

しかし、この街はわかりやすくてよい。
東西方向の大通公園を中心に北1条、北2条、、南1条、南2条と名づけ、
南北に流れる運河を中心に西1丁目、西2丁目、、、というように名づけ、
交差点には、「南3西4」などと表示されている。
仕組みさえわかっていれば、初めての者にも位置がわかりやすいし、
方向音痴の人でも、道に迷いにくいはずである。
区画整理しやすい時代にできた街の特権であろう。


小樽に行って、オルゴール館から「マイメモリー」や「初めて」という
冬ソナのオルゴールが聞こえて来たので、膨大なオルゴールをいちいち調べ、
探してみたけれど、どれだけ入れ物のデザインが変わっても、
曲は30曲前後の既製のものに決まっているらしくて、
世界にひとつだけの花、みたいに新しいものもあるけれど、
だいたい月並みな曲ばかりで、そんなオルゴールはいらない。
じゃ、さっきから何度か流れてる「マイメモリー」は、、?
たぶんCDなのだ。
ひどいじゃないかー、売ってないようなものを看板にするなよー!
おかげで、足腰が壊滅的だ。



2004年05月12日(水) 広大な、、(メモ)

バスで移動していると、周囲の光景が何か不思議である。
背の高い枯れ木の林が広がっている。
札幌市内以外のどこを走っていてもそんな風景が目についた。
ぽつんぽつんと桜の花が咲いていたり、白樺並木があったりする。

行った先も広い施設ばかりである。
ホースパークでは、カートを乗り回して楽しんだ。
自転車を借りている生徒にもめったに出くわさなかった。

アイヌ民族博物館はそう広くないけれど、無造作な敷地だ。
ムックリという楽器と、何とかいうおもしろい名の輪唱の歌に興味を持った。
何と屈託ない音楽であることか。。。

初飛行機は今まで人から聞いた感想ゆえにやや不安を感じないでもなかった
が、周囲の人が騒ぐほど怖さを感じるものではなかった。
犬山や中央アルプス(?)や海を上空から眺めて、頗る感動した。
こんな風景が見られるんだー、、とやみつきになりそうな感慨だった。

とにかくもう寝なければ。。。



2004年05月11日(火) めんどくさ〜

明日から修学旅行である。
こんな行程である。

12日(水)
 9:00 出発
10:35 到着
11:20 ノーザン・ホース・パーク
14:30 アイヌ民族博物館
16:50 羊ヶ丘展望台
18:00 サッポロファクトリー
19:30 サッポロルネッサンスホテル

13日(木)
午前 札幌市内班別散策
午後 小樽市内班別散策
17:00 ホテル鹿の湯

14日(金)
 8:00 サイロ展望台(希望別体験学習)
11:45 登別クマ牧場
14:30 北海道まるごと市場
16:00 空港着
17:45 出発
19:20 到着

北海道に行ってみるのはいいけれど、修学旅行は厄介だ。
明日の朝異常に早いのが何と言ってもイヤだ。
しかも、1時間以上かかる、2、3度しか行ったことのない空港が集合場所。
ちゃんと起きられるかどうか、忘れもんをしないかばかり心配している。
早寝しなきゃいけないというのが、昔から最大の苦手だ。
3日間、毎日遅寝早起きだし、好きなところに行けるわけでもないし、
時間に追われることが多いし、足枷だらけの3日間である。

毎回そう思いながら、結局は案外楽しんで来たりもするのだけれど、
今回はどうだろうか、、、?

大体私は、私的な旅行でも、出かける前が大嫌いである。

今回は、冬ソナ見られなくなるのが1番つらかったりして。。。



2004年05月08日(土) 脚本家への敬意

友人に第2集を持って行かれてしまったので、
今夜は、第10話をインターネット配信で見た。
DVDを購入しながら、1話分300円支払って配信版を見るのは、
普通だったらバカげたことかもしれないけれど、
このドラマに限っては、決してバカげたことではない。
TV放映もDVDも、そうおろそかにできない部分がカットされてるからだ。
今夜見た第10話も、一昨日DVDで見たばかりだからよくわかる。
ざっと5カ所ばかりカットされていて、かなり長い場面もあった。
それらは、それがないと感動を損なうというほどのものではないけれど、
第3話のカット部分などには絶対カットしてほしくないところがあった。
これは、NHKがカットしたのか、それとも、
韓国の配給先でカットしてNHKに売ったのであろうか、、、?

冬ソナにはいいセリフが多い。
チェ・ジウの表情も絶妙だけど、言葉と音楽で泣かせるドラマと言っていい。
伏線も実にうまく使われて、効果を上げている。

昨夜、すべて見終わった後で映像特典を見た。
その中に、放映半ばに収録されたらしいインタビュー番組があった。
「最後はどうなるんですか?」と監督が問われ、
「今脚本家が悩んでいます」などと答えていた。
そんなんだ、、、こういう連ドラの脚本家というのは、
まだ作り終わらないうちに撮影も放映も始まって、
絶対の〆切に追われつつ書き継いでいくのだ。
時間枠に入るように作らなきゃいけないし、
CMなど入るなら、それに合わせてある程度盛り上げなきゃならない。

そういうことを今までにもいろいろな機会に知らされたけれど、
今回の冬ソナを見て、改めてびっくりしてしまったのである。
そして、そうやって作られたドラマの部分をカットできるのが不思議だ。



2004年05月07日(金) 「冬ソナ」(5)

最後の5話を一気に見てしまった。
今夜はもう何も書けない。。。。。
言葉はいろいろ出てくるのに。。。



2004年05月06日(木) 「冬ソナ」(4)

注文しておいたDVD第2集が届いた。
8時ごろから第10話から6話分、一気に見てしまった。
明日起きられるか不安だ。
でも、頭が冴えきって困っている状態である。
見ている間はいろいろ書きたいことがあったけれど、今は忘れてしまった。
というより、多すぎて思い出せないと言った方が正確だ。
ますます密度が濃くなっている。
言葉もいっそう重みを増している。
セリフも演技も実に的確だ。
大雑把な粗筋読んでいても、筋を超越した良さがある。
そういうドラマは、何度見てもおもしろい(趣深い)。
いったいどうなるんだ、この後。。。 あと5話だ。



2004年05月05日(水) 自宅映画館完成か、、

先月の27日に注文しておいたスピーカーシステムがきょうの昼に届いた。
きょう、こういう作業をやるのはちょっと億劫だったが、
とにかく箱が大きくて邪魔だ、設置すれば床に置くものはひとつだけだ、
ということで作業を始めたが、2時間以上もかかってしまった。
まず棚の入れ替えをして配線し直さなきゃならなかったし、
長いスピーカーケーブルの扱いにも難儀をした。

液晶プロジェクターを買ってから、それで映画を見るときは
オーディオステレオから音を出していたが、
スピーカーが頭の後ろの近いところにあるので、ちょっと当たりが強かった。
設置後、スター・ウォーズ/エピ1で試運転をしてみたが、
5.1chサラウンドは、想像通り柔らかく包まれる感じでいい。
ところが、そんなに音量を上げていたわけでないのに、
突然、効果音の重低音が部屋中震わせるほどに鳴ったりする。
これは、階下にも響くのだろうか、、、きょうは検証できなかったが、
もし階下にも響くとしたら、下の爺さんから苦情が来そうで困りものである。
ひとつひとつのスピーカーからは大した音は出てないはずだから、
スピーカーに囲まれている限りでの音響だと思いたいのだが。。。

そんなことも含めて、まだいろいろと確認すべきことがあるので、
自宅映画館はまだ完成したとは言い切れない。

ちなみにこのスピーカーシステムは、ヤマハのS−120で、
メーカー再生品、税・送料込み29800円で出ていたのを買った。



2004年05月04日(火) チェ・ジウの演技

久々に本屋に入って、いろいろなコーナーを回って見て、
芸能雑誌のコーナーの前で驚いた。
ペ・ヨンくんの顔がダーーッと並んでいる。
そのほとんどが韓国ドラマ専門誌である。
日本の芸能雑誌は片隅に追いやられて、
ペ・ヨンくんの顔がコーナーを占領している。
いつの間にこんな風になってしまっていたのか。。。
本屋に足繁く通っていたころ、菜々子さまの顔でさえこんなに見られなかったぞ(`ε´)
ちなみに、その本屋には、「冬ソナ」コーナーは2カ所も設けられている。

韓国ドラマを配信しているサイトを先日見つけて驚いたのだけれども、
メールに関するサポート情報を得たくてソネットのサイトに行ったら、
ここでも配信しているので、またまた驚いてしまった。
そこではペ・ヨンくん一辺倒ではないのだけれど、
彼のためのコーナーもちゃんと設けられて、
「冬ソナ」とは違った彼を見ることができますよ、という紹介がある。

しかし、チェ・ジウの名はなかなか目にすることがない。

「冬ソナ」のペ・ヨンくんは、確かにいい。
特に、めがねをかけたミニョンとして登場してからがいい。
しかし、演技者としてとりわけ感服するような場面はあまり印象がない。
いいセリフも言うし、いい雰囲気を出しているから、好感が持てるけれど、
割と演じやすい役柄なのではないかと思う。

ヒロインのユジン役のチェ・ジウはそれに比べるとたいへんである。
何度見直しても、実に複雑な心を的確な表情で表現している。
いちいち完璧〜と賞賛したくなるほどである。
もちろん、韓国語のセリフの上手い・下手まではぜんぜんわからない。
やや投げやりに聞こえるイントネーションに慣れるのに時間を要したほどだ。
けれども、このメロドラマを安っぽくさせてないのは、
(脚本がうまいのはもちろんだが)
チェ・ジウのきわめて的確な表情ではないかと思う。



2004年05月03日(月) 理想と現実

書く暇がなかったので、橋本さんちにしたカキコを写しておこう。
きょうは憲法記念日でもあるし。。。

ある人がこんなカキコをしていた。
この人は、会社でよほど苦労しているらしく、こういうことをしばしば書く。

「失礼ながら学校の先生方は、現実感覚が乏しいように思います。
 現実の社会を知らない。
 大学教授たちが署名に立ち上がったのにも、それは感じます。
 若者の幼い理想主義を、手放しで賞賛する。(註:例の3人の人質の件)
 生きていくために、生活していくために、
 政治(すなわち利害衝突の調整)や経済の場面で苦労したことが、
 あまりないのでは?
 おそらく失業の不安も極端な収入ダウンの心配も、無縁の生活をしている。
 なりふり構わず売り上げ確保に奔走した経験など、あるわけがない。
 だから意見が甘いんです」

「労せずとも地位と収入が定年退職するまで保証されている
 公務員である方々が、国家や社会を批判するとき、
 厳しい現実からズレていて、説得力が乏しく、
 限界があるのではないかと言いたかったのです」

・・・・・・・・・
「これが現実だ」と肯定し受け入れることのできるものは大人で、
理想論をごちゃごちゃ抜かすのは幼稚な青二才だと、
若いころから何度も何度も言われてきたものでした。
「そんな歳になってそんなこと言っとっちゃいかん。大人にならにゃ」
とご親切に助言してくれる上司もいました。
上に引用した部分にも、同じ匂いが漂っていますね。
現実が絶対だ、それを素直に受け入れないやつは現実認識の乏しいやつだ、
そんなやつの戯言には説得力がない、もっと現実を認識しろ! と。。。

でも、現実を見るときに、「このことは本来こうあるべき」という視点は、
常に持たなければならないし、本来どうあるべきか常にみつめなきゃならない、
そうして、現実がいい方向に動いているのかどうか、認識しなければならない、
僕は常にそう思っています。
もちろん、そう思いつつ、今、組織の一員として、
すべきでないことをさせられようとしているぞ、とわかっていても、
自分の考えが組織全体には受け入れられなくて〈悪〉に手を染めざるを得ない、
そういうこともあります。
学校という場、教員社会という場だけは、
本来あるべき姿を守ってほしい、と願っているのですが、
営業第一、上っ面のお手柄第一主義の現実にかき回され、空回りしています。

現実といっても、それが国家でも、学校でも、
上に立つ人々が意図して動かしてきた現実であり、
それを、大多数の国民も徐々に馴らされては容認し続けてきた現実です。
それは、ますます大きな力を得て立ちはだかっているけれども、
〈絶対〉ではないし、決して正しいとは言えない。
なかなか大勢を動かすことはできないので、説得力に欠けることは認めます。
僕自身も〈悪〉に手を染めざるをえない苦しい思いを繰り返しつつ、
何とかそうでないように現実的方策を考える努力だけは怠らないようにしています。

本当は、国家の指導者たるものは、「本来こうあるべき」で
国家を動かしていかなきゃならないのです。
それが国家の指導者やその取り巻きの本来あるべき姿です。
彼らの考える「あるべき姿」と、我々が考える「本来あるべき」が
違っていたら、それに異論を唱えることは当然ですね。
彼らが作り上げてきた現実からどれだけ離れていようと、
おかしいものはおかしいと言わなければ、
ますます誤りに満ちた現実が動かしがたく立ちはだかるばかりです。
そして、国民の大勢が「これが現実なんだ」と容認し続けることによって、
ますます現実は重くのしかかる、、、そういう悪循環なんですね。。。

「これが現実なんだ」ということばは、
日本国憲法の下で生きる国民の口にするべき言葉ではないのです。
「これが現実なんだ」と肯定してしまうことこそ、無責任だと思います。
そして、憲法の理念を無視したり、障害や足枷のように思うような人物が、
日本という国家の指導者になってはいけないのです。
日本の今の現実の誤りの根本はここにあると思います。



2004年05月02日(日) 「冬ソナ」(3)

昨日第6話まで見て決めた。
以前よく行っていたCD屋のサービス券が1万円以上たまっている。
最近はもう、楽天で最安値の商品を探して注文するようになってしまい、
わざわざ仕事帰りに遠回りしてその店に行くこともなくなってしまった。
それで、そのサービス券を全部使って冬ソナのDVDを買うことにした。
その店とのつきあいもそれでおしまい、というわけである。
きょう、私の実家(?)へちょっと寄ることになっていたので、
そのついでにそのCD屋に回った。
全巻手に入れるつもりで行ったし、第1・2集とも置いてあったけれど、
定価でしか売ってないのを見て、考えを改めた。
第1集だけを3600円支払って買って帰った。
第2集を楽天のショップで2割引ぐらいで買うと、
ほとんど第1集をただで手に入れて、第2集だけ定価で買う勘定になる。
ま、そう悪くない買いもんじゃないかな、、というわけである。

夕方から第7話から9話まで、つまり第1集の終わりまで見てしまった。
自分がそんな体験をしたわけでもないのに、
ユジンの苦しく揺れ動く思いが如実に伝わってくる。
あちこちにいいセリフがちりばめられている。
ついつい、もう1度見直したくなってくる。
バックに流れる音楽にもやられっぱなしである。

ユジンにとって、ジュンサンがいよいよこれからというときに、
去ってしまったということは、忘れがたくなる大きな要因である。
突然ふいにいなくなることほど気持ちの整理のつけがたい事態はないだろう。
さらにそこに、幼なじみのサンヒョクが常に求愛しつつそばにいる、、、
作者が意識しているかどうかわからないが、
これもユジンがジュンサンを忘れられなくしてきた大きな要因である。
ユジンにとって、サンヒョクは、幼なじみの友だち以上ではないのだ。
ところが、純真にして善良なサンヒョクは子どもの時からの思いを
大切に育て続けてきている。
ジュンサンさえいなければ、当然結婚相手は自分だ、と確信してきた。
こういう男が常にそばにいるものだから、
ユジンはこういうつきあいに関して広い見方をすることを許されなかった。
サンヒョクのような男がそばにいなければ、ジュンサンのことは
思い出の片隅に置いておけるような恋愛もあり得たかもしれない。

サンヒョクにしてみれば、やっと、おそらく20年越しの恋が成就する、
その矢先にミニョン(=ジュンサン)が現れて、ユジンが動揺してしまう。
けれども、実に冷静な見方をすれば、そのおかげで、
ユジンのサンヒョクに対する気持ちが幼なじみの友だち以上でないのが
明らかになるのである。
それは、本当はいいことなのだが、サンヒョクの気持ちはおさまらない。
婚約までやっとのことでこぎつけた後だっただけに、
第6話あたりから、純真で誠実だったはずのサンヒョクの心も
徐々に壊れて行ってるようだ。



2004年05月01日(土) 連休1日目

5連休というのはすごいことである。
膨大な自由時間が与えられ、いろいろなことができそうな錯覚にとらわれる。
まずさっさと連休明けの準備だけ済ませて、のんびりしようと思いつつも、
何かとぐずぐずもたもたして、虚しく時間が過ぎていくものだ。

昼から、インターネットがまったくつながらなくなった。
リセットだとか再起動だとか設定変更だとか、いろいろ試みたけれど、
ぜんぜん復帰しないで、2時間近くを浪費した。
今までほとんど問題なかったマシンだけに、
こうなると、不思議で不思議で、かえって必要以上に躍起になるのである。

けれども、きょう市吹で練習する曲のパート譜を補う作業や、
楽譜の書きかえ作業があったので、しばしそれに専念した。
こういう準備をしっかりしておかないと、練習の楽しさが半減するのである。

その作業を2時間ほどで終えて、インターネット修復を試みたら、
何と何と不思議、何ごともなかったかのように、あっさり接続した。
あの2時間はいったい何だったんだ?

夜、市吹から帰って、ビール飲んで、「冬ソナ」第5話をTVで見て、
その後この塵語書きかけたけど、中断して、第6話をインターネットで見て、
結局そんな風に5連休の1日目が終わってしまったわけだ。

それはそれでいいはずなのだけれど、何か落ち着かないのは、
先々への仕事のノルマへの強迫観念が、心の中に巣くっているからである。


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