たりたの日記
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2007年03月31日(土) 慈雲寺のイトザクラ

     いとざくら
    

にしえより三百年を生き長らえた桜の

どろき聞こえるようなごつい幹から

んと糸の枝は垂れ、花咲きこぼれる

ろぐろと空を這う枝の行方を追えば

っぱの音、高らかに鳴るかのごとくの絢爛の春


( 頭の文字が「イトザクラ」になるようにアクロスティックで遊んでみました。)






























































































この日、遊山倶楽部の山行。塩山駅から二時間の恩若峰(おんじゃくのみね)へ。
帰りに慈雲寺に立ち寄り甲州市の天然記念物に指定されているイトザクラを観る。
それは素晴らしい桜。ウバヒガンの変種で、樹齢は三百年程と言われる。
その大きな桜は見上げると、ちょうど桜が降ってくるようだった。

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2007年03月28日(水) 6年生達との山行き



この日、英語教室に通っている小6クラスの6人を高尾山に連れてゆく。
月曜日にダウンした体調も何とか元に戻り、計画通りに無事山行ができた。

稲荷山コースを頂上まで登り、帰りはモノレールを使わずに、4号路の吊橋も渡り、そこから1号路を辿って高尾山口まで歩いて降りてくることができた。

家に戻って、一人で焼酎持参でお風呂に入りながら、今までの山行とはちょっと違った充実感を感じていた。

子ども達は山は初めてだから楽しみとか早く登りたいとか言っていた割には登り始めからすぐにきついと言い出し、まだ登るの?まだ着かないの?という感じで、嬉々として歩いているわけではなかったものの、わたしは彼らを山へ連れ出せた事がなぜか嬉しかった。

でもその理由は何だろう?
初めての体験をさせてあげられたから?
子ども達とほぼ一日ゆっくり過ごせたから?
山行のリーダーの役割がなかなか面白かったから?

そのどれもが理由の一部なのだろうが、子ども達を自然の中で見、自然の中でかかわることができたことが一番大きな理由という気がする。
いつもは60分という限られた時間の中でいかに効率よく教え、また定着させるかという命題があるが、これは考えてみれば、人と人との自然な関係ではない。あくまで教える側と教えられる側との関係。
山でも指示したり注意したりはある程度必要だったが、教室の外はやっぱり自由だ。


それにしても今回使った大宮始発8時51分八王子行きの「むさしの2号」と帰りの八王子発16時51分大宮行き「むさしの3号」は、ボックス席にみんなで座ることができ、快適だった。
大宮から八王子まではちょうど1時間。この電車で高尾を往復すれば通勤ラッシュに鉢合わせすることもなく楽チンな事が分かった。

帰りの電車で子ども達に「今度は筑波山へ行くよ〜」と言うと「ボーリングの方がいい!」と言う。
さて次なる山行は実現するかどうだか。




2007年03月25日(日) 保育園のカメラマン

3月25日、同居人mGの誕生日。
満50歳のめでたい日だけれど、夜お祝いのディナーをする前に一仕事あった。
保育園のカメラマン。

いつも英語あそびをやっているつくしんぼ保育園の進級おいわい会。
そこでわたしは当日の写真撮影を頼まれた。
「えっ、わたしに?」
ま、いいや、当日はmGに彼の一眼レフで撮ってもらいわたしはサブをやろうと思って軽く引き受ける。
ま、親達はしっかりカメラやビデオ持参で来るんだろうから、わたしは保育園の記録用を撮ればいいのだと勝手に解釈して。

ところが当日、園長のTさんが言うには、カメラもビデオも親は一切禁止。
mGも部外者だからだめ。
子どもの事を良く知っていて、子ども達が緊張しないわたしだけがカメラとビデオを許されるということだった。

子ども達のリズム歌や劇を、カメラやビデオを通さずに、また我が子だけを見るのではなく、どの子の成長もしっかり見て欲しいというT園長の主張はとっても良く分かる。
その通り!

でもカメラマンがわたし!!

ええ、緊張しましたとも。
mGの一眼レフなんて使ったことないし、保育園から手渡されたデジカメは使い慣れていない上、ズームがあまり効かないし、連写ができない。撮りながらどれもピントが合ってないのだ。
しかたない、一眼レフのデジカメで撮ることにしよう。しかし、写っているかどうかの確認ができない(見方を知らなかったのだが)
「どうぞ写っていますように」と祈りながらmGから借りたカメラでシャッターを押しまくる。
何しろ、動きが速いからそれを捕らえるのが難しい。
しかもどの子もアップで撮ってあげたい。
決定的な瞬間をとらえなくっちゃ。
親たちは、「ここ撮って!」と期待しているだろうな。
「うちの子うまく撮れてるかしら」と心配しているだろうな。

かなりのプレッシャーを感じつつ、あちらと思えばまたこちらと走り回り、撮りまくった。
二つのカメラで500枚くらい撮ったかな。
で、わたしの小さなビデオは三脚で据え置きにして。

ふうっ、何とか写っていた。この表情を、この動きをと思ったものがかなりその通りに撮れていた。
うん、どの子もいい顔だ。これならカメラを禁止された親たちも納得してくれるだろうと胸をなでおろす。
ビデオは全体を記録するという役割は果たせたかな。

でも、このあまりの緊張のためか翌日はダウン。
朝起きられなくて、すっかり風邪の症状に見舞われていた。腰も痛い。
この日の約束はキャンセルし、ゼミは休み家で寝ていました。
全く緊張に弱い。今回は心の準備というものがなかったから余計に。

でも、ちょっと気分は良かった。
保育園の子ども達を激写しながらカメラマン気分を味わった。


2007年03月23日(金) 越生駅から大高取山へ

昨日、3月23日の金曜日、越生駅から越生梅園経由で大高取山に登った。

今回は、山はあんまり自信がないという友人を誘っての山行なので、低い山で、他にも梅林や立ち寄り湯を楽しめる山里のハイキングコースを選んでみた。
「駅から山あるき」という本から選んだのだが、越生梅林は関東三大梅林の一つで3月末までは梅を楽しめると書いてあったのでそのつもり出かけたが、今年は梅の開花が早く、梅林はもうシーズンオフとなっていた。かと言って桜の時期にはまだ間があり、ちょうどその谷間のこの時期は平日という事も手伝ってえらく静かなのだった。












山道は杉木立の中を通っていて、誰もいない山道を友人と話ながら歩くうちにあっけなく着いてしまった。
山頂は見晴らしは良くないが、そこから少し下った幕岩展望台からは筑波山や東京の高層ビルまでが見渡せ、お弁当を食べるには最適な場所だった。







山を降りて、咲き始めた桜を眺め、鳥の声を声を聞きながら、かなりテクテク歩き、ようやく「ゆうパークおごせ」に到着。1時間半ばかりゆっくりお風呂に入り、送迎バスで越生駅へ。















こういうハイキングもあまり疲れすぎず、朝もそれほど早起きしなくて良いし、いいもんだなと思った。
それに、出会う人がみなフレンドリーで、いろいろ話しかけてくれるのはちょっと驚きだった。

駅前の酒屋さんでは試飲もさせてくれほろ酔い加減になっておいしい「初しぼり」という生酒をお土産に買って帰った。






2007年03月16日(金) 東北旅日記 7 < 男鹿半島へ>



 さて、東北旅日記、今日で最後にしよう。
Sが、「書いてしまうまでは旅が終わらないのでしょうね」とメールをくれたが、実際そうなのだ。
書いてしまわない限りは旅は終わらない。予定表や、ガイドブックや地図やパンフレット、書き散らしたメモや写真などが、片付けられないので、今持ってパソコンの周囲に散乱している。

 ここに書いたかどうかは記憶していないが、3月5日、Sから秋田駅で見送られ、19時6分のこまち3号に乗ってから22時42分に大宮に着くまでの間、わたしは、ずっと紙にペンで旅の記録を走り書きしていた。それはその時の時間から順に遡る感じで、電車が、秋田ー盛岡ー仙台ーと進むのに合わせて、その土地での事を書き、大宮に着いた時にちょうど初日の蔵王での事を書き終えたのだった。
 おもしろい事にはわたしの座席の同じ並びの一番端っこに、作家と思しき中年の男性が、しきりに手書きの原稿を書いていた。もしかすると、わたしはその人に煽られるかっこうで書き続けたのかもしれない。

 前置きが長くなったが、この最後の日記はその時、秋田から電車に乗った直後に書いたものをそのままここに記そうと思う。あの時の気分をメモを読むことでくっきりと思い出すことができたから。



< 3月5日の帰りの電車の中で書いたメモから>

 3月5日、秋田駅から19時6分東京行き「こまち34号」に乗る。
12号車4番D席に落ち着いた。幸いな事に空いている。わたしの隣もまたその隣も周囲はほとんど空席だ。大宮に着くまで、旅の最後の3時間半をここで過ごすことになる。

 もうすっかり暗くなった車窓に雨が叩きつけている。風が強いようだ。
今日は一日、どんよりした曇り空で、時折雨に見舞われるといった天気だった。今日一日をいっしょに過ごしたSは昨夜からしきりに天気の事を気にしていたが、わたしはこの悪天候を気に入っていた。今日訪れた場所には、この天気こそがふさわしいように思えた。

 Sがなまはげ館の後に連れていってくれた入道崎では、ジャケットのフードが吹き飛ばされそうなほど強い風と、風の混ざって飛んでくる雨粒に見舞われたが、その荒々しく寒々とした空の下で、入道崎の絶景はよりいっそう凄みを増していた。日本海を見るのはおよそ初めての事だったのに、その暗い海がなんともなつかしいのだった。いつの頃からか、わたしはわたしの心の中に、このように灰色の暗い、茫々とした印象の海を写していたらしい。そして今日、実際のその海に出合った。


 海岸近くに点在する黒々とした岩の形は、何とも寂しい様子をしていて、その寂しさ具合が何とも良かった。
男鹿半島の水族館では様々な魚を楽しんだが、またその建物から見える海もまた忘れ難い美しさだ。
 このように美しい風景の中に入れば、お腹も空かない。わたしがお昼は食べなくてもいいわというと、Sが困ったような様子で、レストランからも海が見えるから行こうと言う。
 Sが連れて行ってくれたのは男鹿水族館の側の「帝水」という温泉宿で、なんともりっぱなエントランスだ。12時半の予約を1時間も過ぎたという事で、お店の方はずいぶん気をもんだ様子らしかった。そんな事ならクラゲや白熊にうつつをぬかさず、早くこちらに来たのにとSに言ったが、彼女はわたしが水族館が好きな事を知っていてせかしたくはなかったのだ。


 エントランスからしばらく歩き、奥の間に通される。そこにはすでに会席料理のお膳がしつらえてあって、感動的な事にはそのお膳に座ると目の前がすっかり海なのだった。
美味しい手の込んだ料理はそれだけで楽しいものだが、海の美しい景色がそこにあるのは何と素晴らしい事。蔵王では雪野原の中、遠く月山を眺めながらの昼食。昨日は花巻・イギリス海岸でのピクニック。そして今日は男鹿半島の海を眺めながらのランチ。なんと贅沢な時をいただいた事だろう。

 泊まり客ではないのにタオルセットも用意されていて、温泉に入れるという。温泉はもういいというS(その前の晩と朝にわたしたちは大潟の温泉に入っていた)をそこに残して、わたしは温泉へ。
 ここにも海がすっかり眺められる内湯と海に面した露天風呂がしつらえてあった。今日は嵐かと思われるほど風が強かったが、わたしは吹き飛ばされそうに強い風を受けながら、露天の熱い湯に体を沈めていた。ここは海と入り陽の宿という事だから、ここからの入り陽はさぞかし美しいことだろう。
 誰もいない露天風呂で、ひとり海風のエネルギーを浴びながら夢のようなひとときだった。

 宿を3時に出て、Sの運転する車でリアス式海岸に沿って続く「おが潮風街道」を走り秋田へ。
海を眺めながらのドライブは素敵だ。
 秋田市街へ入る手前の海岸近くのコーヒーハウス、Sが時折、そこへ行くためだけに車を走らせてやってくるというお店へ立ち寄り、一時間ほどゆっくりする。
 わたしも相当な規格外だが、Sはさらにそのスケールが大きい、言うことがあんまり可笑しくて、さんざんっぱら笑う。言葉だってすっかり染ってしまって、わたしときたら、怪しげな秋田弁でしゃべっているのだった。

 秋田駅。今度はもういつ会えるか分からないからしんみり・・・さっきの笑いもどこかへ行ってしまった。
 そして今、静かな夜の新幹線の中。電車は角館を過ぎ田沢湖へと向かっているところ。
もうじき盛岡。そこには昨日出会い、お別れしたTさんがいる。

*

さて、ようやくこれで東北の3日間の旅がおしまいになりました。
読んで下さった方はお疲れさまでした(笑)
3月11日(日)の日記、東北旅日記4<宮澤賢治記館〜イギリス海岸〜小岩井農場>は写真を載せそびれていたので、今日、写真も載せました。
携帯で撮ったものですが、岩手山の手前の一本桜をカメラに収めることができてよかったです。




2007年03月15日(木) 東北旅日記6<雨の杉林、男鹿のなまはげ館>

3月5日は、あまり良い天気とは言えなかった。
風は強いものの、冷たいそれではなく、どこか生暖かい、春の風だった。春一番なのだろうか。
しかし、山歩きをするわけでもなく、この日は一日、Sとゆっくり話しができたら、どこへゆかなくてもいいと思っていたから、お天気はまったくどうでも良かった。
けれど、今になって思えば、この日のどんよりした曇り空と、雨、そして風の中で男鹿半島を巡る事ができたのはとても良かったという気がする。そんな天気にふさわしい、そんな場所だったのだ。



 Sがまず連れていってくれたところは、男鹿国定公園の中にあるなまはげ館
美しく、すっくりと連立した杉木立に取り囲まれていて、その木々は雨の中でいっそう美しかった。
 なまはげについては、こどもの頃、「ふるさとの歌祭り」とかいうテレビ番組があって、そのテーマ曲か何かで、このなまはげの場面が繰り返し流されていたような記憶がある。いずれにしろ、テレビで見たことのある、遠い見知らぬ土地の怖い習慣という印象だった。

 なまはげ館ではなまはげの由来や伝承の仕方など知らなかった事を学べておもしろかったが、様々な格好、様々な形をしたユニークななまはげ達が勢ぞろいしているのは圧巻だった。
 なまはげたちがおもしろく感じられたのは、ひとつひとつのなまはげが、その地域の人たちから受け継がれ、手作りされて来たものだからだ。素材もざるや木切れ、決して洗練されていないのだが、プリミティブなものが持つ底力があった。

ひとつ、真っ赤でまあるい大きな顔をし、ぎょろりとこちらをににらんでいるなまはげがとりわけ気に入った。 芦沢という地域のなまはげだ。
そこにいた係りの人に、そのなまはげの事を聞くと、このなまはげは昭和34年だかに岡本太郎がなまはげに興味を持って男鹿に訪れたことがあり、このなまはげを評価したということだった。彼によるとこのなまはげがその後の岡本氏の作品に影響を与えた(万博の太陽の塔などに)と言っていたが真価のほどは分からない。
ただそのなまはげがざるで作られた素朴なものであるにもかかわらず、ずいぶんアーティスティックということは言える。












 しかし、その文化のなんと豊かなことだろう。
このなまはげにはその地域からその年に選ばれた独身の男性が扮するのだそうだ。なまはげは神のお使いなのだから、まず神社でなまはげとなる儀式が執り行われる。そして、大晦日の夜、なまはげに変身した若者達が、家家に乗り込んで行ってはなまけものはいないかと脅かすのだ。火が付いたように泣く子は、きっとそのなまはげの姿が一生心に残ることだろう。悪くいえばトラウマだが、人間を超えた神というものがある、悪いことをしたり、なまけたりしていればしかられるという感覚はそんな中でしっかり焼き付けられるのだろう。
 とても単純な事だが、あなどれない学習効果だと思う。それが地域ぐるみで行われていたということは、地域として、子どもをきちんと育てていかなければという共同の願いがそこにあったのだろう。自分のこどもの事だけしか考えようとしない、今の時代にあっては、このなまはげが担ってきた事は意味深いと思った。


2007年03月13日(火) 東北旅日記5 < いわて銀河鉄道から花巻線>

 3月4日午後3時、盛岡駅からいわて銀河鉄道に乗る。
 この電車からは予想した通り、車窓いっぱいに岩手山が広がっていた。
電車は岩手山の東側を走っているので、小岩井農場から見えた岩手山の姿が、電車の進路と共に少しづつ形を変えてゆく。
 滝沢、啄木のふるさと渋民、好摩と進む間に山の形は左にゆるやかに長く伸びていた形から、三角形のきりっとひきしまった姿になった。
 ここ好摩は八戸まで続くいわて銀河鉄道と秋田県の大館までつづく花輪線の分岐点。電車はここから花輪線を辿る。花輪線は岩手山を左回りに取りかこむように走っているので、小岩井農場から見た山の反対側を見ることになり、今度は山は右側に長く裾野を伸ばしているのだった。

 
八幡台に近づくに連れて、雪が深くなっていく。それにしても、電車が雪景色の中を走ってゆくのはいい。美しい冬の田畑や山がゆっくりと流れ去ってはまた新しい風景が立ち表れる、ローカル線の旅はいい。
 盛岡を出て大館までおよそ三時間、31駅の花輪線の旅はこの3日間に乗った電車の中で最も満足した電車だった。実際、これほど、長い時間をただただ景色だけを楽しみながら電車に乗ったことが今まであっただろうか。その3時間は移り変わる景色を観ることで忙しく、本を開いたり、目を閉じたりする暇もなかった。
 昨日の段階でデジカメの電池が切れてしまって写真や動画が写せないのがなんとも残念だった。

 大館着17時55分。そこから奥羽本線秋田行きに乗り換え、森岳まで10駅。約1時間。
わたしの実家の町の駅のように小さな素朴な森岳駅に降りた。Sが出迎えてくれていて、名前を呼び合ってハグする。と、後ろからSより30センチ背が高い、Sのダーリンが現れる。優し気な顔でにっこり笑っておられる。
「はじめまして、たりたです」
あわててご挨拶するものの、初対面の緊張もなくSのお宅へ。


 この後Sのお宅で、おばあちゃまと旅の話などをしながらお茶をいただき、、八郎潟干拓地の大潟のホテルへ案内していただく。S夫妻といろいろとおしゃべりしながら食事やワインをいただき、夜はSとわたしだけそのホテルに泊まった。
 どこまでも広々と広がる静かな平野の中のホテルの、それは静かな夜。

休む前に二人で、Sが好きなメリー・ニール(女子洗足カルメル修道会シスター)の「どう祈ったらよいか」を、英語と日本語で交代に読む。
観想の祈りについての深い示唆をいただく。

( 写真は、花輪線 八幡平駅付近から八幡平を望む。)


2007年03月12日(月) みたび「山月記」

明日、というかもう今日なってしまったが、文学ゼミのテキストは中島敦の「山月記」。

この日記には二度「山月記」の事を書いている。
一度目は2005年5月9日の日記「臆病な自尊心と尊大な羞恥心という日記で。
二度目は昨年の12月15日、板垣さんの朗読会に出かけた時の日記で。

おもしろい事にはつい2,3日前、めったにラジオなど付けないのに、台所仕事をしながらふとラジオを聴く気になった。付けてみれば、高校通信講座で「山月記」をやっていた。しかも朗読は、指導を仰ぎたいと考え、著書も取り寄せて読んだ長谷川勝彦さんの朗読だった。何というタイミング。これってシンクロニシティー?

いずれにしろ、わたしにとって何か縁がある作品のようだ。
この2週間ばかりの間、何度か再読してきたものの、まだその内側には入っていない気がする。
今日は図書館で中島敦の全集4巻に目を通し、最後の巻の評論集を借りてきた。

明日は今週のクラスの準備があるから、この作品について予習する時間はせいぜい2時間くらいだが、何か発見があるだろうか。
明日(今日だが)に期待して今日のところはこの物語の事を考えながら眠りにつくとしよう。




2007年03月11日(日) 東北旅日記4 <宮澤賢治記館〜イギリス海岸〜小岩井農場>

<写真は宮澤賢治記念館から「ポラーノの広場」を望む>


3月4日つづき

羅須地人協会の建物を出た後も、ここに入って来た時に話しかけてくれたおじいさんが、話しかけてくれた。聴けば、賢治の家の隣に住んでいたという。
「落書きみたいなもんが、今は宝物になってしまった」という言葉は印象的だった。いくらでも話は聴けそうだったが、まだまだ訪れたいところはあるので、柳田さんのおっしゃるその方に暇を告げTさんは「宮澤賢治記念館」へ連れて行って下さる。

賢治の手書きの原稿の筆跡に、何か親しみを感じる。ガイドの方がそこにあるひとつひとつの資料についてかなり詳しく説明をしていたので、わたし達も脇から聞かせていただく。
印象的だったのは、賢治の没後、賢治の手帳に書きつけられていた「雨ニモマケズ」の詩は実はその最後のページに大小の妙法蓮華経の文字が、ぎっしり書き込まれている。賢治は念仏、祈りをそこに書き付けたのだ。そういう者にわたしは為りたい、今生ではそうなれなかったが、来生ではそういう者として生きたいという悲痛なまでの祈り・・・
宗教の違いはあるが、その賢治の気持ち、祈りが良く分かる。

「宮澤賢治記念館」には賢治が研究したたくさんの鉱物のコレクションや賢治がイギリス海岸で採取したくるみの化石もあり、じっくり見てゆくならまる一日かかるほどだったが、1時間ほどでそこを出て、賢治の設計した庭園を再現した「ポランの広場」を上から眺め、賢治童話館をさっと巡り、イギリス海岸へ向かう。

イギリス海岸というのは賢治がそう呼んだ北上川の西岸のこと。
イギリス海岸
という作品の冒頭はこんな文章で始まっている。

夏休みの十五日の農場実習のうじようじつしゆうの間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事しごとが一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。

日本の中にあるイギリス海岸、それはいったいどんな海岸だろうと昔から気にかかっていた場所だった。
あまり期待はしていなかったが、その川岸は思いの他すてきな場所だった。
そこに一日中座り込んでいたいような、水面を眺めているとそれだけで何か豊かなものが満ちてくるようなそんな海岸だ。

イギリスの海岸も川岸も知らないが、ドイツの黒い森のドナウ川の源や、スイスのウルム聖堂のてっぺんから眺めたドナウ川の豊かな流れなら覚えがある。大地の中を走る水の流れ、川岸には柵もコンクリートもなく、自然なままの川土手と川岸の植物が続くだけの川と似ていると思った。

Tさんは、お握りまで作って持ってきてくださっていたので、幸いな事に、わたし達はこの豊かな川岸でピクニックをすることができた。
敷物も、お手拭も、そしてりんごも用意してくださっていた。
そのお握りとりんごのおいしかった事。
わたしはりんごをまるのままがりがりとかじったので、たりたさんは歯が丈夫なんですねとTさんから驚かれてしまった。虫歯持ちで痛み止め持参の旅だったのに、そんな事も忘れてしまうほどだったのだ。

賢治の墓や記念碑のある花巻駅周辺はまだ回ってはいなかったが、どうしても小岩井農場へは行きたかったので、花巻市はこれで切り上げ、小岩井農場へと向かった。

すっかり観光地になっている小岩井農場だが、Tさんは昔ながらの農場の面影が残っている場所へと案内してくれた。賢治が何度か訪れた小岩井農場の試験場の建物や、岩手山や賢治の童話に出てくる狼野森が見える、小岩井工場側の雪野原。
雪野原は黒々とした狼野森まで続いている。これはまさしく童話「雪渡り」の景色。
「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」、雪ぐつをキックキックといわせながら雪野原を歩いている四郎とかん子のが見えるようだった。
そう、この景色こそ、わたしが見たいと願っていた景色だった。





もう時間はあまり残っていなかった。この日の内に秋田に住むネット友のスSのところへ行くのだから、午後3時1分発のいわて銀河鉄道に乗る予定なのだ。
Tさんが盛岡駅まで連れて行って下った。改札口のところで名残を惜しみ、すでにホームで待機している電車に乗り込んだ。

<写真は小岩井農場から眺めた岩手山>


2007年03月10日(土) 二つのイベント

みちのく日記はまだ途中なのだが、この日に参加した二つのイベントの事を記しておこう。

1つは目白の東京聖書神学校で開かれた、フェミニスト神学・宣教センターのセミナー。
テーマは「占領と性ーキリスト教界の「パンパン」言説とマグラダのマリア。講師は新井英子氏、新井献氏のお連れ合い。
とても重いテーマだったが、多く考えさせられ、問われた。
この視点からしばらく遠ざかっていたと感じた。

以前、新井献氏のフェミニスト神学の講義を聴き、大変感銘を受け、HPの日記でそのことについて書いた。もう5年ほど前の事になるだろうか。
それからまた1年ほど経って、キリスト者女性会議で、フェミニスト神学・宣教センターの事を知った。
キリスト教会を、聖書をフェミニストの視点から見ていこうとするキリスト者の集まり。
そして今回はわたしの行っている教会の女性牧師からお誘いを受けたのだった。

<すべての事に時がある>ことを思う。


そのセミナーの後、三鷹の文鳥舎へ急ぐ。
こちらは文学セミナーの師、正津勉氏の著書「詩人の愛」のトークと青木裕子さんによる詩の朗読、そしての小澤章代さんのスピネットの演奏というライブ。

スピネットは古楽器でチェンバロの前身の鍵盤楽器。
素朴で密やかな音は、音がなるほど静けさが増すようで、気持ちのひだにそっと触れてくる。
著書で紹介されている50人の詩人の愛の詩から18を選んでのトークと朗読はとても充実したもので、それぞれの詩人の持ち味、詩の持つ世界がみごとに声によって語り分けられていた。またその朗読とスピネットの演奏がとても良く、呼応していたのだった。
集中して聴き、またリラックスして聴いた。
言葉の力、声の力、音楽の力。


スピネット演奏の小沢さんが、グラントという曲を弾く時、
旧約聖書の「すべての事には時がある」という言葉を思い出すと語っておられた。
確かに、永遠を感じさせるようなフレーズ、いつまでも聴いていたいと思う演奏だった。

ライブの後のパーティーでお話を伺えば、小澤さんはクリスチャンで教会のオルガニストということだった。
「明日はオルガンの当番なのよ」
「わたしも教会学校のオルガンだ」
ワイン片手にお互い、明日の礼拝の事を気にしている。
小澤さんのスピネットは礼拝堂にも置いてあって、礼拝の中でも演奏されるという事だった。
いつか小澤さんがスピネットを弾かれる礼拝に出席してみたい。


2007年03月09日(金) 東北旅日記3 < 賢治の家 >


3月4日朝8時。盛岡駅前のビジネスホテルの前に立っていると むこうから親しそうにこちらへちかづいてくる人影。

数年前から知っていて、それでもこの時はじめてお目にかかる、たんぽぽさん。優しく静かな風に包まれている人。

田畑の広がりを、遠くの早池峰山を眺めつつ車は花巻市へ。

はじめに訪ねたいところは羅須地人協会の建物。
だれもいない田畑の中、誰もいない道を進み、ひっそりとした羅須地人協会の門を入る。

庭仕事をしていたおじいさんがたんぽぽさんに話しかけ、たんぽぽさんは答えているのだが、
わたしにはそれは聞いたことのな外国語のように聞えてしまう。純粋な花巻弁だとたんぽぽさんは言う。

今度はわたしにも分かる言葉で話しかけてくれる。
「賢治先生のことなんか、なあんも知らん人が団体でくる」とおじいさんは文句を言いたい風だ。

映画や写真で見知った建物がそこにあった。

「下ノ畑ニ居リマス」の黒板の文字。
古いオルガンに丸い木の椅子。

ここで賢治は農業青年を集め学習会をし、夜はひとりで、あのゴーシュのようにチェロを練習したのだろうか。

今日のうちに遠くへ行ってしまおうとしているトシ子のために、
賢治はこのガラス戸を開けて、外に飛び出し、真っ白な雪をお椀に入れたのだろうか。







<部屋の片隅にはリードオルガン。これを賢治は弾き、歌が生まれたのだろうか。
オルガンは片方のペダルはまだ踏める。キーを押すとリードオルガンのなつかしい音が鳴る。
ふと賢治の作った「星めぐりの歌」が頭に浮かぶ。メロディーをさぐりながら弾いてみた。
歌も覚えている歌詞のところだけ歌ってみる。

静かだった。わたしたち二人の他、誰もいない、早朝の賢治の家。

 









♪ 星めぐりの歌

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだめの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、

アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。



このページ  に星めぐりの歌のいくつかの歌曲ファイルがあって、歌を聴くことができます。


2007年03月08日(木) 東北旅日記2 < 3月3日 仙台と盛岡の夜>

蔵王温泉から17時40分のバスで山形駅まで行ったが、バスが予定の時間より早く着いたので、一本前の仙山線に間に合った。
 山形で1時間、仙台で1時間の待ち時間の予定が仙台で2時間となれば、盛岡行き20時38分の「新幹線はやて」に乗るまでの間、仙台駅周辺を歩くことだってできる。
 それでは今日の夕食は何か仙台の名物にしようと電車の中で地図とガイドブックを眺める。どうやら仙台は牛タンが名物らしい。仙台駅の近くの洋風居酒屋の店構えの牛タン焼きのお店にはいる。
 カウンターの席の目の前で焼いている牛たんのいい匂いがしてきて気持ちもほぐれる。朝も昼も食事らしい食事をしていないのだからここできちんと食べておこう。まず生ビールとつき出しに牛タンのトロの握りを注文し、牛タン焼き定食は麦飯だったので、とろろ汁を追加する。牛タンはおいしくて、とろろ麦飯でようやくお腹が満たされた。

 盛岡の駅に着いたのは21時37分。駅前のホテルだというのに、そこへ向かう道がうまく見つけられず、うろうろしていたから盛岡シティーホテルに着いたのは10時になっていた。
フロントでチェックインをすると、受付の人がわたしに荷物が届いているという。それは明日お会いすることになっているTさんからのもので、桜色の美しい風呂敷の包みを開くと、お手紙と盛岡に関する本やパンフレット、それに赤い箱のガーナミルクチョコレートが添えられていた。
「では、朝の八時に。」と結ばれているその手紙を読み終え、胸が詰まった。なんと暖かな心づかいなのだろう。わたしは今までこういう配慮を人にした事があっただろうか。
 その夜は枕元にいただいた二冊の本を置き、眠りが訪れるまで読んでいた。
 そのうちの一冊立原道造の「盛岡ノート」にこんな文章があって、これはまさに今のわたしに気持ちだと思った。


僕は見た
この町にも 僕を待っていた人がいることを
こんなに とおい北の町に 僕を 待っていた人がいることは どんなにかうれしいことだろう
 その人の庭で その人と その人のかわいらしい妻らしい人と 葡萄を もいで食べる 青い葡萄だ その人たちは 僕のまだこないうちから 洋梨をたくさん持ってきてくれたり 自分の本を この部屋に届けておいてくれたりして もう 僕の来るのを待っていた
僕がそんな資格があるのだろうか だが
僕は いまは ためらわずに すなおに すべての好意を うけたらいい と おもう 僕にはそれよりほかに 何できないのだ
 北の国で 僕はもっと孤独にと かんがえた しかし ぼくは
孤独になるまえに 僕にそそいでいるこんな好意にめぐりあった
僕の心は 孤独のなかに住むことを自ら拒むだろう


2007年03月07日(水) 3月3日の日記



3月3日の日記「蔵王の樹氷林をかんじきで歩く」を写真と共にアップしました。



2007年03月06日(火) 旅の荷解き

 夕べ遅く秋田から戻ってきた。
この3日間旅の充実度の高さは旅の後の放心度の強さで計ることができる。
出しっぱなしだった「しっぽ」は何とかしまい込み、午前中の仕事は一つ無事に終えては来たけれど、大きなザックの中身を空け、旅の荷解きをしていると心は奇妙に沈む。

 感受性をあまりに全開にし、旅の先々で出会った人々に、また景色や空気に夢中になっていたので、その夢中具合からうまく日常に戻れないからなのだろう。

 帰りの4時間近い新幹線の中では本を読むか眠るかするつもりでいたのに、ただただ憑かれたように書いていた。パソコンは持参していなかったので、ひたすら紙の上にペンを走らせ、走らせ続け、大宮に着く直前にようやくふうっと大きな息をつき、手を止めた。
かといって、今はその手書きの原稿を読み返したり、パソコンに打ち込みする気分にはなれない。
そうするにはきっと、もっと別のモードが必要なのだろう。


 松尾芭蕉大先生の「奥の細道」の序章がしきりと頭に浮かんできては、またぞろ、地図を広げたい気分にさせられているのだが、かの大先生のように、旅に死してよい身ではないのだから、<そぞろ神の物につきて、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず・・・>というのは何とも具合が悪い。

 ここは一旦、<そぞろ神>にお引取り願って、わたしは日常にしっかりと着地することを急がねば・・・。
旅日記を書くのは、ほとぼりが醒めるまで待った方がよさそうだ。



2007年03月03日(土) 東北旅日記1 蔵王の樹氷林をかんじきで歩く



3月3日から3日間の東北への旅。
初日はJRの駅からハイキングの企画「かんじきで挑む山形蔵王ホワイトモンスター」に参加する。

大宮発6時54分のつばさ101号は9時13分に山形駅に到着。
40名ほどの参加者やスタッフの方々と蔵王温泉バスターミナル行きのバスに乗り込む。バスから降りたところで、かんじきを手渡されるが、かんじきは見るのも付けるのも初めてのこと。
温泉駅からロープウェイで鳥兜駅まで。
インストラクターからかんじきの履き方を教えてもらい、足にしっかりと固定する。
そこからリフトでザンゲ坂樹氷原へ。
かんじきは優れもの。
ふかふかの雪の中も難なく歩くことができる。

この日は天気が良く、山頂の気温も6度と高い。
本来なら真っ白なモンスターたちが立ち並んでいるはずだが、すでに樹氷は溶け始めており、つららがまるでモンスターの鼻水のように垂れ下がっているのだった。
けれど、この時期にしか観られないつららはおいしいのだとインストラクターが言う。
このつららをぽきんと折って食べてみた。
確かにおいしい。喉がうるおって気持ちが良いのだった。
なにしろ、手袋も必要ないほどの暖かさなのだ。
わたしなどはフリースのインナーに薄手のジャケットだけだったが、それでも汗ばんだ。
ダウンも雨具もザックから取り出す必要はなかった。



真っ白な雪はなだらかな曲線を描いている。
誰も踏み込んでいないまっさらな雪の表面に動物の足跡を見つけた。
うさぎ、かもしか、きつねの足跡に出合った。
この真っ白な樹氷林の中に動物たちが生活しているのだ。
歩いていると上からころころ小さなマカロンのようなものが転がってくる。
これはうさぎのうんちなのだそうだ。
雪の中だと足跡も糞もただただかわいい。







ここは、イロハ沼。沼の上に雪が積り広い平原になっているということだった。向こうに見えるのは熊野岳(1841m)、蔵王山の主峰。
およそ2時間のかんじきウォーク、午後1時半にはロープウェイの駅に着き、その後は蔵王温泉プラザで入浴。
16時40分のバスで山形へ駅へ戻った。

そもそも、この東北への旅は、「真っ白な雪を見たい!」ということから計画したのだった。探してみれば、こういった雪の中のトレッキングが、あちらこちらの観光協会の主催で企画されていることも分かった。東北は遠いというイメージがあったが、新幹線を使えば、日帰りで雪の中に遊ぶことだって可能なのだ。

けれど、なぜ雪の中に出かけたいと思うのだろう。
また雪の中では子どもに帰ってしまったように、ふつふつとワイルドな気持ちになるのだろう。雪の中を歩くというそのことが、心から嬉しくて、顔が自然に笑えてくるのだった。

インストラクターの吉田さんは「かんじき履いて雪の中を歩けば病みつきになりますよ」と目を細めて何度も言ってらした。実際、お仕事柄、しょっちゅう、たくさんの人を連れて、この雪歩きをするのだろうが、その事が楽しくてならないという様子だった。

真っ白などこまでも続く雪野原、そこに陽の光が当たれば、まるで宝石をちりばめたように表面がきらきらと光る。
そして確かに、この白さには力があると感じたことだった。


2007年03月02日(金) 旅支度の途中で 「小岩井農場」を読む

いよいよ明日から陸奥ひとり旅。
今日は一日準備にあてている。
トレッキングシューズに防水スプレーを塗り、
ザックにスッパッツやら雨具やら新しく買った防寒手袋を詰め込むといった作業が必要なのだが、
わたしときたら、それを途中にしたまんまで
宮澤賢治の詩集をめくり、「小岩井農場」などを読んでいる。

賢治の詩に出会ったのはもうはるかに昔、中学生の時だった。
小岩井農場という言葉の響きとその詩の情景がずっと心に残ってきた。

あさっての午後にはわたしは蒲公英さんとそこ、小岩井農場にいる。
ネットで知り合った盛岡にお住いの蒲公英さんが、賢治めぐりにお付き合い下さると言ってくださったのだ。
賢治の生まれた家や賢治が土地の人に農業を教えていた羅須地人会の建物。
イギリス海岸にも行けるといい。
小岩井農場から岩手山が見えるといい。
この始まったばかりの春の中を
初めて出会うことになる友と歩けるのはいい。

              *

   <そして寝る前に「小岩井農場」を読む>

その後、大きなザックの荷物を詰め込み、地図やガイドブックをおさらいし、掃除もし、花々には水をたっぷりとあげ、mGにえんりぎとトマトとほうれん草入りのカレーを作りました。

朝読んだ「小岩井農場」はパート一からパート九まである長い詩です。朝は1と2だけしか読んでいなかったので、ワインといっしょにお風呂に入りながら残りの詩を読みました。
「小岩井農場 パート九」いいです。
胸を突かれるような、このすきとおった哀しみ・・・賢治の言葉にだけ起こる独特な気分があります。

さてさて、明日は5時起床。ワインはボトルの半分も飲んだというのに、少しも眠くはなりませんがともかく、おやすみなさい。


    小岩井農場 ( パート一 )

          宮澤賢治「春と修羅」第一集より
         

   

   わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた

   そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ

   けれどももつとはやいひとはある

   化学の並川さんによく肖(に)たひとだ

   あのオリーブのせびろなどは

   そつくりをとなしい農学士だ

   さつき盛岡のていしやばでも

   たしかにわたくしはさうおもつてゐた

   このひとが砂糖水のなかの

   つめたくあかるい待合室から

   ひとあしでるとき……わたくしもでる

   馬車がいちだいたつてゐる

   馭者(ぎよしや)がひとことなにかいふ

   黒塗りのすてきな馬車だ

   光沢(つや)消(け)しだ

   馬も上等のハツクニー

   このひとはかすかにうなづき

   それからじぶんといふ小さな荷物を

   載つけるといふ気軽(きがる)なふうで

   馬車にのぼつてこしかける

    (わづかの光の交錯(かうさく)だ)

   その陽(ひ)のあたつたせなかが

   すこし屈んでしんとしてゐる

   わたくしはあるいて馬と並ぶ

   これはあるひは客馬車だ

   どうも農場のらしくない

   わたくしにも乗れといへばいい

   馭者がよこから呼べばいい

   乗らなくたつていゝのだが

   これから五里もあるくのだし

   くらかけ山の下あたりで

   ゆつくり時間もほしいのだ

   あすこなら空気もひどく明瞭で

   樹でも艸でもみんな幻燈だ

   もちろんおきなぐさも咲いてゐるし

   野はらは黒ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて

   わたくしを款待するだらう

   そこでゆつくりとどまるために

   本部まででも乗つた方がいい

   今日ならわたくしだつて

   馬車に乗れないわけではない

    (あいまいな思惟の蛍光(けいくわう)

     きつといつでもかうなのだ)

   もう馬車がうごいてゐる

    (これがじつにいゝことだ

     どうしやうか考へてゐるひまに

     それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)

   ひらつとわたくしを通り越す

   みちはまつ黒の腐植土で

   雨(あま)あがりだし弾力もある

   馬はピンと耳を立て

   その端(はじ)は向ふの青い光に尖り

   いかにもきさくに馳けて行く

   うしろからはもうたれも来ないのか

   つつましく肩をすぼめた停車場(ば)と

   新開地風の飲食店(いんしよくてん)

   ガラス障子はありふれてでこぼこ

   わらじや sun-maid のから凾や

   夏みかんのあかるいにほひ

   汽車からおりたひとたちは

   さつきたくさんあつたのだが

   みんな丘かげの茶褐部落や

   繋(つなぎ)あたりへ往くらしい

   西にまがつて見えなくなつた

   いまわたくしは歩測のときのやう

   しんかい地ふうのたてものは

   みんなうしろに片附(づ)けた

   そしてこここそ畑になつてゐる

   黒馬が二ひき汗でぬれ

   犁(プラウ)をひいて往つたりきたりする

   ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ

   山ではふしぎに風がふいてゐる

   嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる

   ずうつと遠くのくらいところでは

   鶯もごろごろ啼いてゐる

   その透明な群青のうぐひすが

    (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の

     ハンスがうぐひすでないよと云つた)

   馬車はずんずん遠くなる

   大きくゆれるしはねあがる

   紳士もかろくはねあがる

   このひとはもうよほど世間をわたり

   いまは青ぐろいふちのやうなとこへ

   すましてこしかけてゐるひとなのだ

   そしてずんずん遠くなる

   はたけの馬は二ひき

   ひとはふたりで赤い

   雲に濾(こ)された日光のために

   いよいよあかく灼(や)けてゐる

   冬にきたときとはまるでべつだ

   みんなすつかり変つてゐる

   変つたとはいへそれは雪が往き

   雲が展(ひら)けてつちが呼吸し

   幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ

   あをじろい春になつただけだ

   それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね

   すみやかなすみやかな万法流転(ばんぽうるてん)のなかに

   小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が

   いかにも確かに継起(けいき)するといふことが

   どんなに新鮮な奇蹟だらう

   ほんたうにこのみちをこの前行くときは

   空気がひどく稠密で

   つめたくそしてあかる過ぎた

   今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)

   松木がおかしな緑褐に

   丘のうしろとふもとに生えて

   大へん陰欝にふるびて見える




( パート九 )

   

   あめにすきとほってゆれるのは

   さっきの剽悍(ひやうかん)な四本のさくら

   わたくしはそれを知ってゐるけれども

   眼にははっきり見ないのだ

   たしかにわたくしの感官の外(そと)で

   つめたい雨がそそいでゐる

    (天の微光にさだめなく

     うかべる石をわがふめば

     おゝユリア しづくはいとど降りまさり

     カシオペーアはめぐりゆく)

   ユリアがわたくしの左を行く

   大きな紺いろの瞳をりんと張って

   ユリアがわたくしの左を行く

   ペムペルがわたくしの右にゐる

   ……………はさっき横へ外(そ)れた

   あのから松の列のところから横へ外(そ)れた

     《幻想が向ふから迫ってくるときは

      もうにんげんの壊れるときだ》

   わたくしははっきり眼をあいてあるいてゐるのだ

   ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ

   わたくしはずゐぶんしばらくぶりで

   きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た

   どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを

   白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

     《あんまりひどいかんがへだ》

   わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ

   どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは

   ひとはみんなきっと斯ういふことになるのだ

   きみたちにけふあふことができたので

   わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから

   血みどろになって遁げなくてもいいのです

    (ひばりが居るやうな居ないやうな

     腐植質から麦が生え

     雨はしきりに降ってゐる)

   さうです 農場のこのへんは

   まったく不思議におもはれます

   どうしてかわたくしはここらを

   der heilige Punktと

   呼びたいやうな気がします

   この冬だって耕耘部まで用事で来て

   こゝらの匂のいゝふぶきのなかで

   なにとはなしに聖いこころもちがして

   凍えさうになりながらいつまでもいつまでも

   いったり来たりしてゐました

   さっきもさうです

   どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は

     《そんなことでだまされてはいけない

      ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる

      それにだいいちおまへのさっきからの考へやうが)

      まるで銅版のやうなのに気がつかないか)

   雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです

   あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はらも

   その介殻のやうに白くひかり

   底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

     《もう決定した そっちへ行くな

      これらはみんなただしくない

      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から

      発散して酸えたひかりの澱だ

     ちいさなわれを劃ることのできない

    この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

   もしも正しいねがひに燃えて

   じぶんとひとと万象といっしょに

   至上福祉にいたらうとする

   それをある宗教情操とするならば

   そのねがひから砕けまたは疲れ

   じぶんとそれからたったもひとつのたましひと

   完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする

   この変態を恋愛といふ

   そしてどこまで進んでもその方向では

   決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を

   むりにもごまかし求め得やうとする

   この変態を性慾といふ

   すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従って

   さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

   この命題は可逆的にもまた正しく

   畢竟わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

   そしていくら恐ろしいといっても

   それがほんたうならしかたない

   さあはっきり眼をあいてたれにも見え

   明確に物理学の法則にしたがふ

   これら実在の現象のなかから

   あたらしくまっすぐに起て

   明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに

   馬車が行く 馬はぬれて黒い

   ひとはくるまに立って行く

   もうけっしてさびしくはない

   なんべんさびしくないと云ったとこで

   またさびしくなるのはきまってゐる

   けれどもここはこれでいいのだ

   すべてさびしさと悲哀とを焚いて

   わたくしは透明な軌道をすすむ

   ラリックス ラリックス いよいよ青く

   雲はますます縮れてひかり

   わたくしはかっきりみちをまがる




   


2007年03月01日(木) ♪冬の終わりの春のはじめの

冬らしい冬に合わないまま、
春が来てしまった。
今年はあれほど雪を見たいと願っていたのに、
とうとう雪のないままに春。
でも週末には雪の中に出かけていける。

蔵王の樹氷林をかんじきをつけてあるき、
翌日は蒲公英さんと花巻市と小岩井農場だ。
いわて銀河鉄道にゆられてながら、秋田のスト子の町へ。
電車からは岩手山や八幡平も見えるのだろうか。
雪も少しはあるのだろうか。

今日はひさしぶりに自転車でジムへ行き、
ラテンを踊った。
心から楽しく、満ちに満ちた45分間!
ステージの緊張もいいけれど、
奈央先生の即興のラテンの振りに無心についてゆくのは
ただただ気持ちが良く、開放される。

午後からはつくしんぼで英語のクラスがふたつ。
わたしが教室に行くと年中児(4歳児)のゆうきが待ち構えていて
「ひごさん、この前のつづきの本、読んで!」という。
(ここの子たちはわたしも、また他の保母たちにもせんせいとは言わず、
名前を呼ぶ。そしてわたしはそのことが気に入っている)
先々週から、英語のクラスが始まるまでの10分かそこいらの時間に、
宮澤賢治の「雪渡り」を読んであげているのだ。

数人のちびっこ達をお客に見立て、
わたしは精一杯の朗読をする。
4歳児には退屈なお話ではないかしらと思うのに、
彼らは身動きひとつせず、絵本を見つめて朗読に聴き入ってくれる。
何と有りがたいこと。

でも、おしましまで読まないうちにクラスの時間になってしまった。
「じゃあ、続きは来週ね」というと、ゆうきはすかさず、
「あと、3ページで終わるよ」という。
「え、ほんと」
ページを繰ってみるときっかり3ページ。
まだ字の読めないゆうきは、この絵本を何度も取り出しては
絵だけ眺めていたのだろう。
だから、そこに何が書かれているのか、
そんなお話が聴けるのか、待っているのだろう。

子どもって凄いもんだな、
わたしなんかよりずっと確かだなぁと思った。

3月25日の「進級おいわい会」には
ゆうきたちの元気な歌声やたくましい「リズム」を観ることができるだろう。

♪冬の終わりの春のはじめの♪


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