たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2005年05月09日(月) 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

只今の時間は5月13日の朝5時40分。

明日は山行き(勉ゼミで滝子山へ)なので、ここ、何日か、早寝早起きの練習をしているのです。で、今朝は明日起きる予定の4時半に無事起きることができました。

そういうわけで、夜はあせって早々と寝ようとするので、少しも日記が書けずにたまっていきます。それぞれの日付けで書いておきたいことがあるので、遡りつつ書いているようなわけです。

5月9日の出来事として書いておきたいことは、中島敦の「山月記」を読んだこと。
ここのところ読んでいる冨岡幸一郎氏のバルトに関する著作や、ゼミで取上げられている作家、尾崎翠の作品集の中に、なぜ唐突に「山月記」が入り込んできたかというと、話は5月5日のダンスの打ち上げに遡ります。

あの時、ひょんなことから虎の話になり、わたしが虎のイメージって好きだと言ってブレイクのtigerという詩を出したら、シャルさんが虎の持つイメージとして「臆病な自尊心」という言葉をふっと出したんですね。その言葉が何かピキンときました。で、また別の話題の関連で、シャルさんが「山月記」の冒頭の部分を暗唱してくれたのですが、その文章がなんとも良くて、家に戻って、さっそくアマゾンに「李陵・山月記」(新潮文庫362円)を注文したのでした。

「山月記」、読みながら昔読んだことを思い出しました。中学生だったわたしは「罪と罰」なんかには反応していたのに、この作品は読めていなかったです。詩人が虎になるという話としてしか印象に残っていませんでした。

で、今読んでみると、いいのです。とても短い作品なのですが、その緊張に満ちた文章は鋭い日本刀のように磨かれ、充実していて、そこで語られている事も、人間の本質に深く切りこんでくるテーマです。そしてあの時、気になったフレーズがありました、ありました。
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」

文章をちょっと引用します。
虎になってしまったかつての鬼才、李徴が、旧友に出会い、草むらの中から、自分がなぜ虎になったのかということを語る場面です。

<己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である>

臆病な自尊心と、尊大な羞恥心・・・身につまされます。よくよく考えてみると、この事が生きる上でどれほど障害になっているだろうと思いました。躊躇や恐れや不安、心の重さ、何かをやろうとする時に、ふっと影のように伸びて来て、行動を阻止しようとするもの、それはまさしく「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」だなあと思いました。
それからいかに自由になるかというのが我々の課題であるかもしれないと思いました。

「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」を別の言葉で言えば「自我」でしょうか。自分をのみ頼みとし、自分を存在せしめている大いなる存在を拒む固くなさ。罪。
イエス・キリストは、そこにある我々の罪を負い、自ら十字架にかかることで、我々にその罪から自由にされるという道すじを開いてくれた。イエスの出来事を通り抜けることで、人間は神との自然な関係を取り戻すことが可能になった。それなしには、自分の力で自我から自由になることはできないのではないか、人間はみな虎になってしまう運命にあるのではないかと、そんなことも考えました。

ちょっと飛躍でしょうか。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加