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2005年11月29日(火) 実は、この日記はパソコンが勝手に書いてました

「食」の話のなかで、ある先生からは、結局のところ、子どもを「丁寧にみる」ということが大事だ、という話がでる。まあね。丁寧にみろといわれても、「それってどうするの?」という気がするかもしれない。

僕の理解では、これは「完成図」を「出来事」としてみてしまいそうになることから踏みとどまって、なにか達成されつつある過程として「別の可能性もあったのに、なんだかそうなっちゃってる」ものとしてみるということだ、と思う。相互行為分析の視点ちゅうやつやね。

でも、チンパンジーの摂食行動についての発表のときに思ったのだが、こういうのって内部のメカニズムがおそらくかなり違うことが明らかな対象に対して、表面上の行動が似てるからって適用しちゃっていいのだろうか。まあ、そりゃチンパンジーだと、文句なくover speculationといわれるだろうけども。でも、子どもでも感覚知覚に明らかに障害がある人でもそうなのかというとちょっと微妙なところではないか、と。

まあいいや。それはともかく。

ひょんなところからお声がかかる。お招きいただきありがとうございます。しかし、まあ、なんだな。出かけてしゃべってばかりでもいかんわな。


2005年11月27日(日) 今日は「食」について考えつつ、食べる。

第2回のうみかぜシンポだった。今年のテーマは「食」である。

霊長類研究の上野先生、乳児の食事場面をおった川田先生、保育園、幼稚園での昼食場面をおった外山先生、保育園における食事介助という出来事の意味をおった石黒先生と、多種多様な方々のご発表。大変、勉強になった。

食事場面に対する研究についてはあまりにも先行知識がなかったし、多種多様なご発表なのでまとめることは難しい。自分の不勉強が恨めしいが、しばしば栄養摂取か、あるいは単に個人的な楽しみとしてとらえられがちな「食事」というものが、いかに社会ー文化ー歴史的に方向付けられているということが改めて認識された。

「食」が社会的出来事であるという前提はとてもよくわかるのだが、フロアからは「食ならではの生物学的な機能というのを考えなくていいのだろうか」という問いかけが何回かあった。これはやっぱり考えないといけない。

ただ、それは社会的な側面と、生理的な側面が別々にあるということではいけないだろうなと思った。生理的側面もまた、社会的に可視化され、言語化されることによってわかってくるという面がある。例えば、わけもわからずに、情動が喚起され、身体はうごいてしまう。そして動いちゃったあとで意味がわかる、ということがある。

社会構成主義的な発想は、しばしば、何事も社会的な構築物にすぎない」という主張だといわれるのだが、実はそうではなくて、社会的な構成と、客観的な実在というのは分けられず、両者は同時であるというのがいいたいことなのだと理解している。

Gergenのアプローチに対しては「ナンセンスなものを扱えない」という批判がある。社会的に構成されるといおうと、実体としてあるといおうと、すでに有意味化されたものの相関関係を扱うだけだったら、結果的に読者に与えるメッセージとしては一緒だと思う。ただ、では「ナンセンスなもの」ってなんなのっていう時に、情動とか感情とかいいだして、すぐに脳にいってしまうのではなくて、それもマイクロにみながら社会的にいかにそれが達成されているのかをみていくってことが大事なんじゃないかと思えてきた。これが今日の収穫。


2005年11月25日(金) 天然のズワイガニをもう1kg

昨日は午後からずっと非常勤。終わったのは夜遅く。

もう、これじゃあ、1回でほとんど2回ぶん働いてますがな。どんだけサービス残業してんねんちゅう話やね。まさに「天然のズワイガニを1kg1万円でご奉仕。そして、なんと今ならもう1kgおつけします」の世界やね。

といいつつ、最後の1時間は社員さんにお菓子もらったからサービス残業でもないな。それにまあ、ズワイガニかどうかは、相手が決めることですけれどもね、はい。

今日、ふと思ったこと。

「未来の時間」をつくるためにはフィクションでいいのではないか。ノンフィクションは、実は、過去にとらわれる装置ではないか。








2005年11月22日(火) 自閉っ子こういうふうにできてます

4回生の卒論指導×2に、3回生のグループ調査発表。4回生たちはデータがとれた人たちは、その書きおこしとデータ打ち込みに大忙し。

で、今年の3回生はしっかりしている。ペットロスについて、死別体験者へのインタビューから仮説を導きだしている。けっこうしっかりやってるから、ちとうれしい。

しかし、なんと4回生からは「ナショナリズムとサッカーの関係」についてやりたいという。

おーー、ほわい、ゆー、せっど、そー?

どこをどうしたらそういうテーマが出てくるのか。指導教員の顔をみたい(鏡をみろ、そこにいるから)。彼女には社会学のゼミに移る事を(半ば真剣に)おすすめするが、どうも彼女はうちのゼミにとどまるつもりらしい。ならもうちょっとなんとかせねばならんね。あとの時間は、

ニキリンコ・藤家 寛子 (著) 『自閉っ子、こういうふうにできてます』花風社

を読む。アスペルガー症候群の著者らが、編集者を交えて対談するという形式。高機能自閉症やアスペルガーの人たちが、普段、ものをどういうふうに見ていて、どう体験しているのかということがわかってくる書。特に、発達障害の人がもっている知覚・感覚の異常に対してもページ数を割いているのが興味深い。

もちろん、ニキさんらがアスペの代表というわけではないにしろ、勉強になる。


2005年11月19日(土) 記憶にないとはどういうことか。

朝から東京へ。小平市の国立精神・神経センターでナラティブ研究会。センターにはじめていってみたが、すんごいキレイで広い建物ですんばらしいですわ。今回の発表は宮崎さんと川野先生の『自死遺族の語りに見られた「記憶にない」という語り』と、高木先生の『記憶空間試論』。

「記憶にない」という語りが特徴的にみられたことから、これを、いわゆるPTSD症状やトラウマ理論と比較して、それがどんな意味をもっているのかを探るというものだった。

今回のケースの場合「記憶がない」という発言は、単に発言権を委譲するためのものではないらしい。「ない」ことは「ある」を前提にしている。「ある」べきものを一生懸命に並べることで、自分自身、その当時は「どうかしていた」が、現在はちゃんとやれている人物として自らを位置どることに成功しているのではないだろうか。だから、宮崎さんが最後に書いていた「記憶にないままに置いておけない状況:語る機会/罪責感/現状の不全感」があるというのはうなづける。ウーフィットの「XそのときY」構文を思いだす話だった。

さて、一方、高木先生のご発表は『「記憶空間」試論』というものだった。恥ずかしながら、僕は話についていけていたかどうか怪しいが、、、(笑)。

高木先生は、ながいこと供述分析をされている方である。社会構成主義の裁判研究では、取調官と被疑者とのインタラクションにおける権力関係をあばきだすといったものになりやすく、これでは現在の裁判がうまくいっていないということはいえても、現場の人に訴えかける言葉にはなりにくい。現場に内在した問いを発しなければならないということになる。

現場でどうしても必要なことというのは「事実」ってなんなの?っということだ。でも、記憶というのは、原理的にいって誰も実際のところはわからない。語りは信用ならない。人は体験しないことでもペラペラしゃべれてしまうのだ。むしろ、いわゆる「真実」は語りが失敗するところに、語っても語りきれないところにあるのではないか、、、というやり方だ。語りではなく、語る身体の方を問題にしようと、その語るという行為を媒介するものとして物語りを考えようということだ。というわけで高木先生は、同じ話が反復されたときに微妙にあらわれる違いから、現事象にせまろうとしておられる。

僕もこのアプローチはとても面白いと思ったし、ナラティブセラピーでいう「ユニークな結果」なんていうものとも関連するかもなんて思っていた。だから、ある先生(匿名)がおっしゃっていたことで「語りは信用ならないけど、身体は信用できる、というのもわからないのではないか。身体だって嘘をつくことがあるかもしれない。例えば、ビールが嫌いだったときのあの苦い感じを、ビールを飲めるようになった後にはおもいだせないということがある」という発言は大変興味深かった。

記憶ってそもそも「ない」もので、それもまたおもしろいところですな。


2005年11月18日(金) ナラティブに立ちなおりました。

amazonでちょくちょく自分の本を見たりしたところ「目次」ができている。んでクリックしたところ・・
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序 章 非行少年へのまなざし
第1章 「問題」を個人のなかに見る精神医学・心理学の視点
第2章 非行少年の更生の現場から考える方法を考える
第3章 更生保護施設でのソーシャルスキル・トレーニング
第4章 更生保護施設の職員のアカウンタビリティ
第5章 研究者である「私」の物語り的更生
第6章 「問題」を抱えていける社会に向かう心理学の視点
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・・・・・OTL。 第5章の題はいったい(汗)。あのね、構成ですから。それともなにか?。「松嶋君もさあ、院に入ってきた頃はどうなることかと思ったけど、ちょっとはましな研究者になりましたね」とかいう誰かの想いが働いているのか(被害妄想)?。被害妄想があるときには、実際、後ろめたいことがあるとか、昔同僚のK君から聞いたことあるようなないような・・・。

 コウセイつながりでもうひとつ。心理系blogの「裕's object relational world」の裕さんが、金剛出版からでている雑誌『臨床心理学』の第6巻1号で書評を書かれるそうな。現在、その校正中だそうです。この書評は去年から今年あたりに発刊されたか、昔からあるんだけど今年改めて読み直してみて面白かった臨床心理関係の本を5冊選び、400字程度で書評するというもの。

私も原稿書きました。ええ、私も校正やってます。


2005年11月17日(木) ガッピョウカイ

拙著の刊行からもうすぐ2週間、地味に反響がある。先日、『少年問題ネットワーク』の話はしたけれど、今度はえらい先生(いや、前がえらくないということではなく、ね)が、年明け早々にクローズドで合評会してやるから東京まで出てきなさいとおっしゃる。なんか大がかりなプロジェクトのはじまりの会のようである。

いやはや、面識ない人にも謹呈しとくもんですな。

ところでガッピョウカイっていまだよくわかっていないのですが、どんなことするんでしょうか?。たぶん、よってたかってたたかれるみなさまからご高評たまわれるわけでしょ?。いやあ、内心、かなりビビってありがたいと思っております。

この研究会の参加者たるや、かなりの強者メンバーなのですよね。僕のように心理学で本流に属さずにエスノメソドロジーなどに手をだしているが、そちら側からみたら、これまたまだまだな人物って微妙ですわ。






2005年11月15日(火) 心の闇であろうと、なんであろうと

昼からは4回生の卒論中間発表会。もう大丈夫な人も、まだ心配な人も、まだまだな人もいたが、みなさま無事2ヶ月後には卒論提出してくださいまし。終わりよければすべてよしでございますからね。

非行関連では、どうやって立ちなおったのかというテーマに取り組んでいる学生がいる。しばしば臨床心理学は、治療する、教育するという目線で見てしまう。しかし、多くの人々が少なからず、青年期に逸脱を繰り返しつつも、やがては立派な社会人となっていく。この力をどう考えるかという問題がある。これはこれで興味深いテーマだ。

ところで、世の中、にわかには信じ難いような少年事件でにぎわっている。そして、あいかわらずの「心の闇」ブーム。僕が本を構想したのは、はじめて少年事件が話題になったころだった。それから何年かがたち、いまだ「心の闇」は健在。ますます磨きがかかっている。

まあ、そんなものをことさらに非難するつもりはないです。「心の闇」であろうと、大流行中の「K度○○障害」であろうと、そこで思考停止していたら解決するものもしませんわ。


2005年11月14日(月) クライエント中心OT

朝から非常勤。終わると「3年生なんですけど」と分厚い本片手に学生がつめよってくる。なんでも「クライエント中心作業療法」なるものがあるらしく、そのルーツは臨床心理学のC,Rogersにあるとのことで、レポートを書くにあたって質問にいらしたというわけである。

「あのなあ、去年の授業受けてへんのかいな」と思ったが、件の学生いわく「2年生にとっては臨床心理学は難しい」らしい。なぜかといえば、2年生の彼女らには、あまりに実践経験が少なく、何を言われても「はあ、そんなもんか」としか思えないのだそうだ。

いまや彼女は3年になり、現場実習にでて、ようやく「ああ、あの時のあれはこういうことか」と理解しなおしているのだという。これは僕の授業が難しいというよりも、ちゃんと講義を頭に残してくれて、現場での体験から再び理解を深めてくれるこの学生さんがえらいよね。そういうことにしておく。


2005年11月13日(日) 前日に引き続き

研修会2日目。
家族心理教育の第一人者である後藤先生のワークショップ。後藤先生は家族療法のDVDそのままのゆったりした、やさしい口調で話される。参加人数は少なかったし、精神科医療にかかわらない僕に発言を求められたらどうしょうと緊張したが、勉強になった。

午後からシンポジウム。後藤先生は、午前中の話にひきつづいて、薬物治療に、家族心理教育とSSTを組み合わせると、統合失調症の再発率を現在より20%は低減できるというエビデンスが欧米ではあるらしい。これを日本で実践すれば、単純に計算すると1年の精神科にかかわる医療費が3億2000万減るのだという。

世の中、数字だということがよくわかるが、こんな数字を出されるとはびっくり。

しかし、世の中、金が無尽蔵にわいてくるわけではないから、どこかからなんとかひねりだしてこなければならないというのはよくわかるが、ひじょうに生臭い話であるね。生物学的なことから、経済学的なことまで、幅広く学べた2日間でありました。


2005年11月12日(土) 第6回日精診 チーム医療・地域リハビリテーション研修会

にいってきました。楢林先生の家族療法の講義も面白かったが、藤本先生の認知症のチーム医療の話も面白かった。会場からは、なんであんなに柔軟にできるんかなーとため息。スタッフの創意工夫がこらされていてすばらしい。

しかし、学校場面に関わることがほとんどの僕としては、十一先生の発達障害のネットワークに関する発表が一番興味深かった。

発達障害が現象的にどうなのかということは、自分でもそれなりに知っているつもりだ。しかし、実践現場では、例えば、車椅子の人にとっての段差がそうであるように、障害とは環境との相互作用の結果だと思っている。学生にもそれは強調している。

ただし、自戒をこめていうと、こういう見方は「発達障害」であるということだけで思考停止してしまい、実践的に考えられない人には有効なのだが、さらに実践的にみようと思うと、ちょっと見方が粗くなってしまいがちな説明だと思う。

つまり、同じく段差があって車椅子では通れないとなったとして、はたして何cmの段差ならなんとか独力で乗り越えられ、何cmなら介助者がいればなんとかなり、何cmならその建物の施工者にかけあわなければなんともならないのかといった細かい見立てが本当は必要なのに、「段差がある」ということで思考停止してしまいがちになるということだ。

十一先生の今日のご発表では、脳科学の最新知見と結びつけて、発達障害が実際に脳の機能にどのように基礎をもつものであることが説得力をもって示されていた。きっと、ここ数年で着実に知見がつみあげられてるんだろうな。何年か前に、これまた当時、自閉症研究の若手No1であったハッペさんがきて講演した時も、あそこまでクリアーなことは言わず「brain全体がかかわってるのよ」的な説明だったと思うから。

もう何年もすれば、もっと確実なことがわかっていくのだろう。そのときには「軽度発達障害」なんて名称はmeaninglessになっていて欲しいものだ。


2005年11月11日(金) 呼ばれた

本を出したと同時に、ある人からメールをもらった。僕がずっと読者になっていた『少年問題ネットワーク』という組織のメルマガのオフ会で、著者に会っていろいろ話すという会をやるので来てほしいとのこと。

新曜社のHPで僕の本の予告を見て、ずっと興味をもってくださったとのこと。ありがたい話ではないですか。

このメルマガは、僕もこれまで読者としていろいろ勉強させてもらっている。毎月1号発行なのだがもう40号以上続いている。犯罪被害者支援の問題、少年犯罪にどう向き合うのかといった話題を、一般の方、法学関係の方、そして矯正や福祉に関わっている実務家や、学者などが協同して、ともにこの問題を考えていこうという、とっても大事な問題意識を共有して発足されたもの。

発起人には『家裁の人』の毛利さんをはじめ、非行心理臨床でも有名な人も名を連ねている。そういう人に生で会える(?)というのもうれしい。

・・・ということでOKしたのだけど、あとで聞いてみたら一日目のゲストは僕だけではないか。!。聞いてみたら80人くらいは一般の人を中心に人が集まるだろうとのこと。!。

なんか責任重大やなあと腰が引けそうになっているところに、最近のメルマガの編集後記には「当MLの重大な曲がり角にあるイベント」だと書いておられる方がいる。なおさら、そんな大事な会議の初日に僕なんか呼んでええんかいな。

と、ちょっと尻込み中。

まあ、できることしかできないので、一生懸命しゃべるだけですけどもね。そもそも、この本は、それ単体で完結する議論をねらったものではない。むしろこれを足場にして、対話が生まれることが重要だと思って書いたわけだし(そう本文にも書いてある)、望み通りといえばそのとおりなのだしね。・・・しかしなあ。


2005年11月10日(木) ひき逃げの交通心理学

桐生正幸. (2005). 「歩行者とドライバーの交差(衝突)ー交通ひき逃げの事例検討と研究の提言」国際交通安全学会誌, 30, 2, 30-37.

ご恵贈いただきました。
著者が直接事件現場を観察し、また、犯人からインタビューをえた15事例のなかから、6事例が抽出され、「ひき逃げ」にいたる過程が再構成されている。

自分も車を運転することはあるから、事例を読んでいると怖くなる。自分も、もし人をひいてしまったりしたら、パニックになるだろうなあ。こういうときに「注意せよ」というアドバイスは、少なくともドライバーにはあまり効果がないだろう。

というのも、よっぽど悪質なドライバーでもないかぎり、本人は「注意して」運転しているはずだ。事故をおこしたという事実によって、当時「不注意」であったという心理状態が再構成されるといったほうが適切だろう。「不注意だから事故をおこす」というが、少なくともドライバーの視点からすれば、「事故をおこしたものは不注意なんだな」というものだろう。

その点、この研究が示唆するように、ヒューマンエラーを低減する方向での検討が進んだり、事故後パニックに陥らないでもすむように、すみやかに対処するための手続きを、教習所の段階から教えておくことというのはとても大事なことかもしれない。そういえば、教習所って「飛び出して来た人」を轢かずに急ブレーキかけたりする訓練はするけれど、轢いてしまったらどうするかという訓練はしていないからね。


2005年11月08日(火) ひさしぶりに

今秋から青森にいった偉い人が帰ってくるというので、夕方から高校時代の同級生とあう。
おみやげにリンゴをもらう。

みんな頑張ってるなあ。

僕も頑張らねば。


2005年11月07日(月) たかがだけど、されどなんです

朝から非常勤、そして昼から1年生の実習。

で、今日は卒論の仮題目提出の日。昼から最終チェックをうけるために研究室にゾロゾロと4回生がやってくる。

実際のところ、仮題目なんてどうってことない。最終題目の提出となれば大変だけれども、まだまだいくらでも変えられるわけだし、そもそも題目がかたまるほどにみんな結果がでていない。だけど、僕がそういってしまったらもともこもないので、これを機会にみなさんにはさんざん考えていただく。

とりあえず、今年はそれなりに面白いことやっている人も、正当派をいっている人もいてバラエティーに富んでいておもしろそうである。みんなあと2ヶ月頑張ってくださいませ。




2005年11月06日(日) 集団で、集団としての問題を扱う

名古屋で研修会。少年非行と発達障害の結びつきといったお話。長年にわたって、少年鑑別所や刑務所で、発達障害を扱っていらっしゃっただけに、すごく具体的なお話でとてもよかった。

しばしば、「障害を理解せねばならない」みたいなことは言われるのだけど、心理臨床の枠組みでは、集団のなかでどう扱うのかというノウハウがまだまだ少ないと思う。どうしても障害をもっているその子を理解するのにとどまっている。

いや、そんなことはない。私はクラスのなかでこの子がいかに受け入れられるかを考えてきたという方もいらっしゃるだろう。でも、しばしば、集団での指導というと「この子は、これこれの障害だから、みなさん理解してあげましょう」というような話になってしまう。これじゃあ、事実上、他の子に対して「我慢してあげましょう」というに等しい。もちろん、そういうのでもないよりはマシだけど、それは本当の意味で集団指導ということにはなっていなくて、個人療法的な理解の枠組みを集団に押し付けただけなのではないだろうか。

料理に例えるのは不適切かもしれないが、ひとつの食材を十分にいかしておいしい料理にしたてあげるのは、それなりにレシピをみれば簡単だ。難しいのは、たしかにこの食材は今日食べないとダメになってしまうというときに、でも、同時に冷蔵庫のなかの、あれもこれも食べていかないとあまってしまうなーといった状況を頭にいれ、全てをバランスよく料理していくための計画力であり、柔軟な発想だと思う。

その点、今日のお話は、少年鑑別所という、高度に集団的な指導が必要になる場所でつちかわれたノウハウであるだけに、学校臨床をやるうえでもとても参考になった。


2005年11月02日(水) 新しくないよ

某MLで議論紛糾。海外でもやる人はやるんだな〜。
んで、こんな言葉があるということを知った。

"Theories have four stages of acceptance:
i) this is worthless nonsense;
ii) this is an interesting, but perverse, point of view;
iii) this is true, but quite unimportant;
iv) I always said so.

-J.B.S. Haldane, 1963

"When a thing is new, people say: 'It is not true.' Later, when its truth becomes obvious, they say: 'It is not important.' Finally, when its importance cannot be denied, they say: 'Anyway, it is not new.'"

- William James, 1896

ネタ元はここ↓
http://www.amasci.com/weird/skepquot.html

なんとなく既視感が(笑)。世界中、同じようなこと考えている人はいるもんですな。で、上記発言の年代的にみて、おそらく未来永劫、こういうことは言われ続けるんでしょうな。


2005年11月01日(火) ちゃんといますよ

朝からイトーキの人が来て、ガタガタ、ピッシャンと本棚を増設していきました。これで本棚の悲惨な状況もちょっと改善されるかしらん。

その後、懸案の原稿を仕上げてK出版に送信し、億劫な会議に出て、3年生のゼミをする。

そして、研究室に帰ってみると、迷える子羊、ではなく4回生がいる。まったく、なんでいまになるまで来ないのか。「だって、先生、いいひんねんもーん」と学生。あのね、いないんじゃなくて、僕がいる時に君たちがこないだけなの。ちゃんとドアにスケジュール表はってあるでしょ。


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