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2005年10月31日(月) ゲーム続きな月曜日

朝から非常勤。朝の時間帯にしてもらったのはよいが、通勤時間帯がモロに他の人の通勤時間帯と重なっているため、道路が渋滞するのには閉口する。今日はあやうく遅れるかと思ったが、新しい道を試したところ、案外スムーズに流れてけっこう早めにつけた。

午後からは1年生の実習。杉浦さんの<説得ー納得ゲーム>。そういえば先週の実習は、矢守さんのクロスロードだった。その前は、囚人のジレンマゲーム。最近、ゲーム続きです(矢守先生、杉浦さん、事前に申告せずにやっててすいません。また、そのときの模様は報告しまーす)。

1年生は、あたたまるまで時間がかかるが、ひとたびのると面白がってやってくれているようである。そういうのを見ているとこちらも楽しい。

しかし、どうも学生とのあいだに歳の差を感じてしまう今日この頃。


2005年10月30日(日) 静岡まで

某学会の研究委員会なので、朝から静岡大学まで。
いい天気。大学は山の上にあって見晴らしがよい。
昼頃について研究委員会に出席。

プログラムを見ても、どうも出る気がしなかったので廊下でひとり遅れ気味の原稿をする。せこせこ。

そこで大会スタッフをしておられるKさんにであい、ひさしぶりに刺激的なお話を聞く。いやあ、本務校も忙しいってのに、手広くやっててすごいですな。私もみならわんといかんです。お話できたのが今日は収穫でございました。と思っていたら、Kさんが日記を更新されている。青年心理学会のシンポジウムをみての感想。

それとニート、ひきこもりと両方について思ったのは、「やっぱり働かなきゃいけないのね?」ということと、そこで想定されている「職業観」が形式はどうであれ、内容としては、会社勤め的で、古典的な職業観のような印象を受けた。そういう古典的職業観にはまらない人たちなのだから、彼らから考えられる職業観というのを考えてみるような話が聞きたかった。例えば、「働かない働き方」とか・・・・、「なんじゃそりゃ」と思われるかも知れないけど、想像してみる価値はあるような気もする。無責任な発言だが・・・・。


こういうのを無責任な発言という人もいるかもしれないが、これは重要な指摘だと思う。もちろん僕は、生徒たちから「やっぱり働かなきゃいけないのね?」と言われたら、まよわず「働かなきゃいけないんです」と答える。それはゆずれない。でも、それは僕らが上にたって彼らを引き上げるようなモデルにはならない。

第一、それじゃ、なんの面白みもないじゃないの。ニート、ひきこもりといった問題と格闘することで、僕らの職業観自体にもなにか新しいものがでてくるんじゃなければ、学問的にやっても救いがないんじゃないだろうか。ひっぱってでも、殴ってでもやらせればいいのを、単にマイルドにしただけなのと何ら代わりがないことをやっているから、心理学はソフトに人間を統制・管理するための学問だなんて言われてしまうんですよ。

帰りのバスでは名大の後輩のO君に出会って、古巣の状況等聞いてみる。なんでも「魅力ある大学院」とかなんとかいうプログラムに採用されたとのことで、共同研究でどんどん論文を書かせ、7割が博士取得できるようにしごきまくるとのこと。

ほへー、教員もだんだん競争社会になっておりますが、院生はさらに競争社会ですか。
いや、大変なことですね。素朴にそんなにたくさん博士を作って、一体どこに就職させるつもりなのかね、とは思うけれども。


2005年10月28日(金) 相互行為のなかの「忘れ」

「ここから研」は細馬さんのUCLA滞在記。グッディンのマメさについて説明するうちに、彼の「忘れた」ということがいかに相互行為を組織化するリソースになるのかという話をきく。ある人が「忘れ」を表示することで、他者の注意がその「忘れ」を表示した人に集まって、彼は十全たる語り手になることができるといったような話。

でも、この話は、これだけでは終われないのではないか?。だって、このままでは語り手は「忘れた人」であり、そのまま想起できた人に発言権を奪われてしまいかねないからだ。

去年のY君の卒論でみたビデオをおもいだす。そこでは二人の人がいて、一方が主に語り手であるときのこと。

A1「ほんでな、えー、あれなんやったっけ?」
B1「ん?」
A2「ほら、リポビタンDとかの」
B2「ケイン?」
A3「そう、ケイン。そいつがなー。」

というようなフラグメントだったと思う。重要なのは、A1でAは「忘れ」を表示している。これをうけてB1は一気に身をのりだす。そしてA3の「そう、ケイン・・・」が聞こえるやいなや、再びもとのくつろいだ姿勢にもどるという身体動作が伴われているということだ。これは、「忘れ」を表示することが<いまーここ>での発言権を、Bにゆずりわたすものになっていることがわかる。

先に述べたように、これは物語を語る際にはおかしいことになる。なぜなら、Bに発言権を奪われたら、Aはもはや話の続きをしゃべれないかもしれないからだ。ところがBはA3で「そう、ケイン」という発話に接すると、さっさともとのポジションにもどってしまった。

つまり、これは最初のA1での「忘れ」の表示は、その「忘れ」の内容についての修復連鎖のはじまりを意味する。一連の会話は「物語を語る」という文脈のなかのサイドシーケンスとして受け止められうる。すなわち、記憶内容が語られ終わったことをきっかけにして、その「忘れ」を表示した人が、ふたたび正当な話者に返り咲けるということだ。

記憶が「ない」、「忘れた」と表現している人々のことをどう考えればいいか。大事なことは、たぶんその人たちは、記憶内容についての権利を放棄しているが、語りについての権利は放棄していないということではないだろうか。


2005年10月26日(水) いよいよ

この前の日記でも書きましたが、単著がいよいよ出版されるそうです。
11月5日発売です。
なんとテレビでもとりあげられました(ウソです)。



2005年10月24日(月) 実は同じことをやっている?

ナラティブ・プラクティスの主張には、専門家言説を相対化し、専門家の医療言説によってうばわれた患者の人生をとりもどそうという志向性があるように思う。アンダーソン(もはやナラティブという言葉自体を捨ててしまったが)にしろ、ホワイトにしろ、それぞれにやり方は違っても、ここだけは共通しているというのが一般的な意見である。

ところで、EBMという考え方がある。これはしばしばナラティブと対局にあるとうけとられる。でも、実際のところどうなのだろうか。

エビデンスという考え方の底には、従来の権威主義的で、実際には根拠のない医療をやめ、科学的にきちんと白黒つけられたデータでもって勝負しようという発想があるとの話を聴いたことがある。だから、エビデンスを主張する人びとは、なにより、エビデンスが逆に権威主義的に利用されることを嫌うのだとのことである。

ナラティブとエビデンスという、しばしば対局にあるとされる思想を並べて比べてみると、どうも二つは究極的には同じことをいっているのではないかという気がしてしょうがない。つまり、エビデンスもまた、専門家の権威を相対化し、診療過程に、奪われた患者の主体的判断を取り戻そうとしているのである。これは、ある意味、とてもナラティブな実践ではなかろうか。「エビデンス」を媒介とすることで、患者と医療者は、「病理」を外在化し、それを並んでながめる位置につけるようになる。

もちろん、ナラティブは社会構成主義的な認識論を背景としており、論理実証主義的な認識論を背景とするエビデンスの考え方とは、そもそも相容れないのだという意見は知っているつもりである。
でも、そのことがナラティブな実践とエビデンスな実践の性質を異なるものにしてしまうわけではないように思える。

思うに、もうひとつの軸を導入しなければならないのではないだろうか。さしあたって思いつくのは、オハンロンがエプストンへのコメンタリーとして言っているように、エンパワーを志向するのか、ディスパワーを志向するのかという、研究者/実践者自身のポジショニングの問題である。


2005年10月22日(土) こんな本を読みますという紹介

朝から授業の準備やら、なんやら(こっちが主)で、うーとかあーとか言ってパソコンに向かう。そろそろ、あの計画も、あの原稿も気になってきたのだけど、どうもそちらには頭が向かわない。

W. -M. Roth (ed)の"Auto/Biography and Auto/Ethnography: Praxis of Research Method" という本を読み始める。Rothという人は、カナダのビクトリア大学の教授らしく、社会文化歴史的アプローチにおいて、最近でてきてすごく活躍している人である。ISCARでも社会文化歴史的アプローチの最前線みたいなセッションをやっていた。Sense Publisherという出版社からでている。以下は紹介文。

In a number of academic disciplines, auto/biography and auto/ethnography have become central means of critiquing of the ways in which research represents individuals and their cultures. Auto/biography and auto/ethnography are genres that blend ethnographic interests with life writing and they tell about a culture at the same time they tell about an individual life. This book presents educational researchers, in exemplary form, the possibilities and constraints of both auto/biography and auto/ethnography as methods of doing educational research. The contributors to this volume explore, by means of examples, auto/biography and auto/ethnography as means for critical analysis and as tool kit for the different stakeholders in education. The four thematic sections deal with


この出版社は、何がすごいといって、ちゃんとAmazonなどでも流通する本を出しているのだが、選ばれた本のみではあるが、自社のサイトからpdfで全文がダウンロードできてしまうという、にわかには信じ難いシステムをもっているのである。経済的に恵まれない人たちにもひとしく本を読んでもらおうということらしく、だから僕なんか本当はダウンロードしてはいけないのであるが、できちゃったもんはしょうがない。

内容も魅力的だし、今度はこれまたRothの著作になる

"Doing Qualitative Research: Praxis of Method"

The author takes readers on a journey of a large number of issues in designing actual studies of knowing and learning in the classroom, exploring actual data, and putting readers face to face with problems that he actually or possibly encountered, and what he has done or possibly could have done. The reader subsequently sees the results of data collection in the different analyses provided. The author shows how one writes very different studies using the same data sources but very different theoretical assumptions and analytic technique. The author brings his publication experience in very different disciplines, including science education, mathematics education, teacher education, curriculum, applied cognitive science, linguistics, social studies of science, and epistemology into play to provide readers with way of experiencing research as praxis. (以下略、本の構成)


という本もでるそうだ。これもちゃんと勉強してみよう。


2005年10月21日(金) 子どもを食べたことのない子ども

書類書きなど。午後から学生相談。

学生相談は赴任した年からやっているのだが、今日でようやく2年間の任期が終わった。ということで、今日はM先生とともに学長先生にお会いした。そして・・・

あらためて2年間の「学生相談」を任命されました。
なんだ、結局やるのか(好きでやってるからいいのですが)。

そういえばスペインにいく機内で寒さにこごえつつNHKブックスの『国家と犠牲』高橋哲哉(著)を読んだ。

靖国参拝に関して、しばしば登場する「国家のための尊い犠牲に対して」というレトリックが、いつごろから登場し、どのような歴史性をそなえているのかが詳しく述べられている。

「犠牲」の論理は、国家が軍をもつことに不可避的についてまわるものであるということ、私たちはそうした「犠牲の論理」の外側には決してでることはできないということ、しかし、その外側にでることを欲望することなしに、責任ある決定というものも不可能であるという著者の認識が最後に示されている。

なにものでもない立場から反戦を叫ぶのではなく、自らもまた戦争に加担する社会のなかにいるという立場を自覚して、その内側にとどまって戦争の問題に関わっていくというのが印象的。


2005年10月19日(水) 怒っても無駄よ(「女王の教室」風)

今日も授業のあいまに書類書き。

ときおり嫌になってwebニュースなどみていると、どうやら臨床心理士の試験に出題ミスがあったらしい。で、受験生はお怒りとのこと。まあそら、怒るわな。正当な怒りです。

でも、あの試験は知識というよりも、むしろ、苦行に耐える力とか、攻撃性をマイルドにだす力を測っているような気がしてならん(前にも書いたような、、)。

知りあいの受験生君によると、会場となった東京ビックサイトでは、上から3000名の受験者を見下ろすような観覧席があるそうで、そこから実行委員の先生方がみているらしい。もしかしたら出題ミスへの対処の仕方もそこから採点されてたりしてねw。

他罰的になって、実施者側に「どうしてくれるんだ」とアサーティブに怒りをぶつける対処方略がいいのか。それとも、アクシデントに対応できなかった自分を責めるのがいいのか。まあ、どっちもどっちだな(何かいてんだ?>俺)。

もうこうなると、東京ビックサイトもちょっとしたパノプティコンです。マイケル・ホワイトは、セラピーもまた、規律・訓練の文化だと言っているのだが、最後に引用しておきましょう。

専門家の規律・訓練文化に入っていくとき、人は、知識として重要なものの変化に直面する。規律・訓練文化は、特別に高度に専門化された公式な知識を生産し、諸個人の人生表現を分析するためのシステムを構成する。 (中略) この文化においては、もっとも人気がありもっともローカルな「素人」コミュニティの言説に関連した、世界を知る方法は、周辺化されており、しばしば、不合理で、民間的で素朴だと範疇化され、(たいていは) 脱資格化されている。このような別の知る方法、つまり人々の日常生活における親密なコミュニティや直接的文脈のなかで創成される方法は、ほとんど、専門家の規律・訓練文化における正当な知識とされるものには数えられない。(『セラピストの人生という物語』邦訳 p.38)


2005年10月17日(月) 立ってしゃべりっぱなし

朝から非常勤。先週が休日だったので、今週は2週連続という変則的な日程。
喋る方もそうだが聴く方もつらいね。

授業がおわって廊下を歩いていると、職員の方に呼び止められ、ふいに「中学はどこ出身ですか」と尋ねられる。なんなのかなと思いつつ答えているうちに、なんとなく「あ、この顔」と思えて来る。中学校時代のクラスメートであった。いやあ、世界は狭いですなあ。

非常勤先を後にして、大学に戻り1年生の実習。囚人のジレンマゲームをやってもらう。
なかなか段取りが悪くて大変。2時間たちっぱなしは疲れる。

実習の前に、卒論生が実験の被験者のリクルートにやってくる。取りかかりがいいのはよいことだ。グズグズしてると思ったが、もう予備調査もやったという。よいねえ。
早めにデータをとって、ちゃんと考える時間をとってくださいな。

ま、今の時点が早いという意味では決してない。


2005年10月15日(土) いろいろこまごまと

昨日は朝からいろいろこまかい仕事ばっかり。レポート添削とか、準備とか、発注とか。
どうも肝心な文章ははかどらない。午後からは学生相談。

もうひとつの大事な仕事も遅々としてすすまず・・・。Skypeで距離の差は縮められたが、時間があわないことにはどうしょうもないですわ。まあ、言うても僕が書かなきゃすすまないんですけどもね。むむむ。

距離の差といえば、セビリアで知り合ったギリシャ人の院生君からメール来る。なんだかインターナショナルな感じですな。そして夜中、テレビを見てたら、サッカーの元イタリア代表のロベルト・バッジョがインタビューを受けてた。インタビュアーはダバディー。彼ってフランス人だけど、イタリア語もうまいんだなー。そしてバッジョのイタリア語での受け答えをきいていたらスイスでのことも思いだす。元気にしてるかねえ。




そして今日は朝からいろいろ家の仕事。おみやげに魚を買ってもらう。
すごい、うまいとバリバリ食う。


2005年10月14日(金) 『関係のなかの非行少年ー更生保護施設のエスノグラフィーから』

新曜社のホームページをみたら、以下のように宣伝がでてました。僕が仕事をもたもたしてるせいで編集者の方にはご迷惑おかけしましたが、やっとこさで刊行されるようです。

この本は僕の博士論文を、いろいろ書き換えてできた本です。

本書を読むと、

非行少年に共感し、援助することと、彼(女)らを閉じ込めて管理することは、一見すると自由を抑圧するか/尊重するかという点で矛盾するようだけど、実はそうではない。

正義を教えるなんていう、ちょっと考えたら、とても正しくて揺らぎそうもない実践であっても、その実践に本気で携わっている人はそのなかで揺らぐし、失敗もする。でも、それが実は大事なことである。

みんなが非行問題に関心をもち、解決しようとすることは大事だが、そのことがかえって非行少年をおいつめることになることもある。

・・・・といったようなことがわかるはずです。僕としては「非行問題ってのはひょっとすると、この社会から解決してなくするものというよりも、この社会のなかでうまいこと抱えていくものではないか?」・・・というような気になってもらうといいなーなんて思っています。

ええ、まあ、僕がヘタなことをいうよりも、以下を読んでおもしろそうっと思ったあなた、いますぐ書店にダッシュ(といっても、まだ並んではないんだけどね)。




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『関係のなかの非行少年』
ーー更生保護施設のエスノグラフィーから
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松嶋秀明 著
A5判並製274頁・定価2940円(税込)
分野=非行心理学・カウンセリング・福祉

◆心理学の新しい潮流「フィールド心理学」の挑戦◆
少年の犯罪が増えているのではないか、それはなぜか、という関心が高まって
います。もちろん、その原因を探り、再発を防止することは大切ですが、この
本は、非行少年の「問題」は、彼ら、彼女ら自身の性格や生い立ち、家族にあ
ると、私たち一般人だけでなく専門家までもが考えるという、非行少年を見る
私たちの「視点」に焦点をあわせて、更正保護施設でのフィールドワークをし
た記録です。そこでの少年たちや指導員たちのやりとりから見えてきた,少年
たちを排除するのではない,彼らをも共に抱えていける社会への可能性とは?
犯罪・非行矯正にたずさわる人や研究者ばかりでなく、カウンセラーや福祉関
係の方々にもたいへん興味深い本です。著者は滋賀県立大学講師、臨床心理士。


(本文中の「更正」は「更生」の誤りです)


2005年10月13日(木) 親も被害者だから

今日のyahooニュースに「少年院出所者、引き取り拒否で1割が家庭に戻れず」というのがあった。

全国の少年院の出所者のうち、親に引き取りを拒否されるなどして家庭に戻らなかった者が、過去5年間に2582人に上り、全体のほぼ1割を占めることが12日、法務省が今月実施した緊急調査でわかった。うち3分の2は、雇用主や知人などに引き取られているが、引受先に更生を支援する能力があるのか同省も把握できていない。引受先が全く見つからない出所者も増加するなど、出所後の社会復帰を促す環境は悪化傾向にあり、同省は「再犯を防ぐためにも、新たな支援の仕組みを検討したい」としている。(2005年10月12日14時42分??読売新聞)


実際にどういう数字かは知らなかったけど、少年院をでた少年のなかに家庭でひきとってもらえずに更生保護施設にやってくるものが少なからずいることは、フィールドワークやっているので知っていた。そこまでいかなくても、親がもう施設から帰って来てほしくないと思っている少年はもっといるだろう。更生保護施設が家庭への引き取りを依頼したときに「最後まで面倒みろ」と言われたというような話も聴いたことがある。

こうやって言うと、非行少年の親ってすげえヒドイというイメージになるのだが、それはちょっと一方的である(もちろん、あながち「一方的である」なんて言うのがためらわれる人もいるだろうけどもね)。親は子どもの逸脱の対応に疲れ果て、それこそ精根尽き果てて、施設に入所してくれたことでやっと一息つく。いざ帰ってくるとなれば、過去の悪い思い出がよみがえり、帰って来てほしくないと思う人がでることになる。

親が子育てを失敗したから非行に走ったなどといわれるが、本人はごく普通に子育てをしているつもりだし、そもそも、失敗かどうかなんて、子どもが非行に走るかどうかが決めてなんだから循環論である。子どもが非行に走ったとたん、これまでごく普通にやってきたはずの子育てを否定されるのだから親にしてみれば「どうしたらいいの」というものである。「この子さえ・・・」と思っても無理はない。上記の「最後まで面倒見ろ」なんて発言はそういうコンテクストで発せられたものだ。

だが、子どもは親を欲するというとベタだけれど、親がひきとるといって悪い気になる少年もまたいないように思う。子どもを立ち直らせる力を親はもっている(と、信じたいよ僕は。もちろん、離れた方が双方のためと思えてしまう人もいるけどもね)。だから、それをうまく援助しない手はない。親が必要以上に防衛的になっていたり、過去の嫌な経験を思いだして萎縮していたら、それをなんとかエンパワーし、我が子ともう一回やってみようという気になってもらえればうれしいじゃないか。

上記の調査は、そういう前提で読まないと、単なる親たたきになってしまうだろう。


2005年10月12日(水) 女王の教室

別にいまさらって感じかもしれませんが、前に『女王の教室』ってドラマやってました。
途中から見始めて結構面白いなと思っていたんですが、最終回を見逃してしまい残念に思っていました。
そしたら、ドラマのサイトでダイジェストがみられるということで見てみました。

このドラマは、ある女性教師、それも成績が悪い人にクラスの係をおしつけようとしたり、私学受験の邪魔だから行事は全部やめましょうといったり、私学受験をしない人を「あなたたちはバカなんだから」といったり、クラスメートを密告者にして自分の味方にひきいれたりと、もうなんでもありで絶大な権力をふるう人なのですが、それと小学生たちがいかに闘い、変化していくかという話です。

で、実はこの女性教師はいい教師であり、すべて子どものためを思って自分が憎まれ役をかってでて、世の中の辛い現実に耐えていけるようにふるまっていたという種明かしがある。女性教師は自分がやっていることが刺激の強いものであることも知っていて、それで生徒らを24時間みまもっていたようです。で、授業がひどいということで教育委員会によって排除されるのだけど、生徒はもっとこの先生から学びたいと思い、感謝するというような結末です。

ドラマとしてはなかなか面白かったです。あちこちblogをみていると、このような教師がいてほしいと言ったり、絶賛している人もいました。けっこうたくさんの人が指摘していましたが、僕もプロ教師の会などの主張と、このドラマが呈示する教師像というのは似ていると思いました。子どもを自由にさせるのが教師ではなくて、絶対的な存在として壁にならなければならないというような主張です。

僕もすこし前の日記で「生きた壁」なんてことをいってますので、この主張にはいちおう賛成ですが、でも、だったら何をやってもいいのかというとそうではないでしょう。もちろん、上記のはドラマだから真剣に批判してもはじまらないですが、最終的にいい先生だったらどんなことをしてもいいということにはなりません。

それから、これは関連すると思うのですが、「壁」を強調する人は、子どもの自由な活動を尊重するタイプの教師とは(主義主張という面では)そりがあわないことが多いように思います。この両者は正反対のことをいっているように思いますが、結局は自分のやりたいことを子どもにインストールするというだけにとどまっているとするならば、同じなんではないかという気がします。どちらにしても「よい子ども」が想定されており、それにむかって介入していくわけです。

昨日紹介したエンゲストロームなら「自由vs管理」は、子どもたちが直面する第一の矛盾だが、しかし、どちらがいいということではなくて、そこから第3の「歴史的に新しい形態」をうみだすのが『拡張による学習』だと言うのではないかと思います。学習とは、教師から生徒への一方的な知識の注入ではなく、実は、教師と生徒との分業によってなりたつ相互の対話過程であり、そこでは生徒が学んでいると同時に、教師もまた学んでいるという、そういう主張です。

実際、僕がインタビュー調査した生徒指導の先生方も、それはそれはかっちりとした教育観をもって、ちょっとやそっとじゃびくともしないんですが、それでもこれまでに何回か揺らされる経験をし、そこで生徒も教師もないような経験をして、そこで専門性を更新されています。まあ、そういう経験は必須じゃないかもしれないし、さらにはそれを語らなければいけないわけではないかもしれないけれど、I藤先生がいってた「生きた」というあたりが、これを実践していくヒントになるかもしれないですね。


2005年10月11日(火) ボーダーライナーズ

Yrjo Engestrom (2005) "Developmental work research: Expanding Activity Theory in Practice" ICHS

エンゲストロムがこれまでにAST(Acticity System Theory)やDWRについて書いた論文集。最後には2004年の夏に日本で行われた講演の元ネタがおさめられている。この一冊でエンゲストロムがわかる、、、わけではないけれど、全18章で、豊富な事例とともに、DWRが説明されています。

1996年に書かれた"Development as breaking away and opening up"も収められています。発達とは「お上品な習熟というよりも、むしろ暫定的に古きものを否定すること」「個人の変化というよりも、集団的な変化」「より高いレベルへ垂直的に上昇するものというよりも、境界を越えて水平に広がっていくもの」だという主張は、いまでも興味深いですな。

で、この論文でとりあげられている小説かなんかがずっと気になっていたのですが、調べてみたら日本語訳がでているそうです。

Peter Hoegの"Borderliners"。日本語訳本の紹介をみてみると・・・・「少年院や孤児院の、どこにも適応できない境界線上(ボーダーライナーズ)の子供たち。送り込まれた学校ではある実験が行なわれていた。管理され、時間を奪われた彼らが暴くやつらの計画とは? 全米ベストセラー待望の邦訳。」とのこと。

この小説では最終的に主人公の3人によって施設がぶっつぶされるのですが、現実の世の中ではぶっこわれたら大変です。僕は気弱なので、非行少年になることもまた発達だというような、そこまでラディカルなことは書けません。

それに非行少年になることもまた価値があるんだというような言説は大変魅力的ですけども、そう主張したい大人が子どもになりかわって語っているというような感じもうけてしまいます。もうひとつ、ポールウィリスの『ハマータウンの野郎ども』という作品があるのですが、そこでは前半部分で野郎どものやりたい放題(社会体験学習にでかけたら、あたりかまわず落書きしまくるとか、教師をいじめまくるとか)な様子がおもしろおかしく描かれます。

彼らは先生の言うことをよく聴き、忠実に勉強する子どものことを「あいつらは耳の穴だけで出来ている」という意味で「耳穴っ子」と揶揄し、彼らからの対抗アイデンティティを形成していくのです。で、その結果として、その少年たちは学校をでた後、自らの意思で「失敗者」となり、耳穴っ子らは成功者となるということが(ちょっと乱暴にまとめると)書かれています。

この事例ではありませんが、不登校でも、非行でもそれが現代の教育制度や社会構造にとってとても重要な訴えかけをするものであることは認めるし、そこから心理学者が現代のあり方を反省していくような理論をうちださなければならないのはわかりますが、でも、そういうためだけに彼らの人生が利用されることになり、教育学者や心理学者はよろこぶけれども、当の少年たちがうかばれないというのは、これはこれで困るなと思う訳ですよ。

ところで件の本は、なんとなく天童荒太の『永遠の仔』を連想してしまったけど、一度、読んでみるかな。


2005年10月09日(日) 生きた壁

そういえば日心のとき、僕が勢いで(教師は生徒の)「壁になる」機能があるとかなんとか口走ったんだが、これをI藤せんせは「生きた壁」と言い換えてらっしゃった。

生きた壁だから、当たられたら当たった方はもちろんだけど、当たられた方も痛い。なにより本当の壁だったら、当たった方だけが痛いなんてもんじゃすまないのだけれど、生きた壁なら当たってもやわらかく受け止めてもらえるかもしれない。・・なんてことをおっしゃっていて、ははあ、さすがに上手いこと言うわねえと思ったのでした。

近年では、大人が子どもの壁になれてないなんて説もあるねえ。もちろん、壁を作った方がいいからって、愛国心教育とか、心のノートとか、そういうことをやるってことにはならないと思いますけども。



2005年10月08日(土) 『体験と経験のフィールドワーク』北大路書房

・・を読んだ。日本質的心理学会で買い求め、大学に送ってもらったのだが、僕はすぐに出張にでてしまったので、日本に帰って大学のレターケースをみてはじめて手に取ったというわけだ。宮内先生は僕が学生の頃から、フィ−ルドワークに関して独自の視点から議論を展開していらっしゃっていつも参考にさせていただいている方である。

フィ−ルドでの対象者との関係性の持ち方の問題、現象をどのようにみるのかという問題、そして観察者の発達をどのように考えるのかという問題など、宮内先生のこれまでのフィールドワーク経験に裏付けられた様々なエピソードがちりばめられていて、とても考えさせられる。

フィールドワーカーにもいろいろな立場の人がいるだろうが、宮内先生は、フィールドワークにおける記述と、自分自身とが切っても切り離せない立場にあるということをつきつめて考えていらっしゃる。こういう立場はけっこうしんどい。ともすると「自叙伝が本になるんだからいいよなー」というような(いちおう褒めてるらしいのだが)言葉も受けとってしまう。僕も遠くない立場にいると思うので、なかなかつらいところではある。

さて、ほとんどの章には明確な答えは示されていない。これまで初学者が気にもとめなかったようなことが、印象的な事例とともに、決して自明でないことが示され、そこであらわになった問題をどのようにひきうけていくかが読者につきつけられる。そういう意味では、安易に答えを求めて読む読者にはつらい書なのかもしれない。もっとも、フィールドで出会う出来事には正解はないし、人それぞれに出会い方というものがある。安易に答えなど示されない方がいいのかもしれない。

最後の章では、フィールドワーカーの寿命について述べられている。宮内先生は、フィールドワーカーには寿命があるという。例えば院生の頃は、○○君と呼ばれていた関係性が、大学の教員になるとしだいに○○先生となり、それが次第に当たり前になっていく。そのとき、若かった頃の自分には語ってくれていた現実と、いまある程度社会的地位をもった自分に語られることはきっと異なるだろう。自分自身がしらずしらずのうちに身につけている、対象となる人々との権力関係に無自覚になれば、もはやフィールドワーカーではいられないだろうということだ。

自分と対象との関係性の変化に無自覚でいてフィールドワーカーでいられないというのには賛成なのだが、ここで重要なのは、院生の頃の方がフィールドワーカーに向いているとかそういうことを宮内先生は言いたいのではないということだ。大学教員は権力関係があって、学生は水平な関係だということもまたないだろう。

本書では、柳田国男と宮本常一という二人の民俗学者が対比されている。前者は国の官僚であり、彼は行く先々で熱烈な歓迎をうけ、接待をうけた。これに対して宮本常一はそういう関係とは無縁に、一人の人として多くの人と交わり、それを記録した。柳田のみたものは、いってみれば周囲との権力関係がつくりあげた現実だというわけだ。

これで思いだすのは、僕はいつだったかの日記に書いた記憶があるのだが、柳田はそれに無自覚ではなかったという話を聞いたことがある。自分の立場を知りつつ、それを見越して自分の役目を果たすための記述をしていたのだという話を聞いた事がある。どんな立場におかれても、そこにある権力関係や、歴史性に気づいていく事は大事だろうし、それはできるだろう。それが宮内先生のもっとも言いたいことなんだと思う。


2005年10月06日(木) 頑張り損?

ある中学校の実践をきいていたら、研修を盛んにとりいれ、多忙な生活のギリギリのところで頑張ってきた結果、多くの不登校生徒を教室復帰させることに成功したそうだ。すばらしいとりくみで見習う所が多い。

ところが、すると、その翌年度から、その中学校の加配教員の枠が削られてしまったそうである。これくらいの教員数でもなんとかなるでしょということだ。

別の中学校で「実績をだすと予算が減るからあんまり頑張らないでおきましょう」というようなことをいう教員がいるという話を噂で聞いて<はあ?。なんだそれは>と思っていたけれど、こういう話を聞くと、たしかにそういう教員の気持ちも分かる気がしてくる。

学校の先生方は世の中の批判にたえて、子どものためにと一生懸命頑張ってるのよ。こういうことでは頑張らないで、あまんじて批判をうけていたほうがよいのではないかという気がしてくるじゃないの。


2005年10月04日(火) <愛国心>のゆくえ

朝、ベッドからなんとか抜けだすも旅行のつかれが抜けず。

広田照幸(著)『<愛国心>のゆくえ』 世織書房

を読んでみる。広田氏は『日本人のしつけは衰退したか?「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書)とか『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)など、歴史社会学の立場から現代の教育の問題に対して取りくんでおられる方で、僕も「非行少年」について扱っているだけにけっこう影響を受けている。

広田氏は、現在の教育基本法の改正問題について、反対派は、この改正がもつ「新自由主義(市場原理による競争)」「国家主義(伝統、愛国心などを強めようとする)」的発想をよみとり、このイデオロギー性を暴露することによってのみ自説を擁護しようとする点で不十分だという。つまり、単に改革派の人々のやっていることを批判するだけで自らの展望を明らかにしない点で、改革派を説得するものとはならない。そこで広田氏がとるのはプラグマティックに、教育基本法の改正が本当によい教育をもたらすのかどうかを具体的に検証するというやりかたである。

こうした広田氏の論の建て方は、この問題だけではなく、多くの問題に応用可能な考え方だと思う。社会構成主義的な研究にも、いまある事態を歴史的な視点でみなおしたり、社会文化的な相対性に言及したりすることで批判するものがある。例えば、ある障害がいかに社会的に構成されているかということを明らかにする研究というのはわりとある。

しかし、こういうのはもともと障害を相対化してみたい人にとっては説得的でも、そうでない人にとっては詭弁に聞こえてしまいやすい。障害が本来的に社会的なものであり、(極端な話)<脳>に帰属できるものではないとしても、真剣にその問題に取り組んでいる人(って誰?というのは難しいけれど)からすると、すべてを社会的関係性に解消してしまうような議論もどことなくうさんくさい。具体的に、障害を個的な能力に帰属してみることがいかに、現在の問題を解決するうえで有効でないかを明らかにしないことには先にすすめないと思う。

さて、僕が読んだ中で、広田氏が対立を超えるための視点として呈示しようとしている大事な点は「敵は味方」という視点ではなかろうかと思う。

例えば、広田氏は「日の丸・君が代」に反対する教員が処分されるという例をとりあげつつ、この教員はある意味では非常に国家のために考えて行動しているといえると述べる。「日の丸・君が代」を否定するのは、公に反することのように見えるが、実際には社会の変化にとっての活力をうみだすという点では相互補完的なものではないだろうかというのである。

政治的な関心の薄い、従順な層のみが教員を構成することになれば、教育からは多様性が失われていくだろう。「日の丸・君が代」を押し進めようとする国と、それに反対しようとする教員との対立は、公権力が私的な領域をおかすという意味での「公」対「私」というよりも、むしろ多様な「公」を排除して、特定の立場の「公」を押しつけようとする動きととらえられる。むしろ、権威的なものにまかれるのではなく、自由にものが考えられる国民をつくろうとするならば、多様性を守ろうとするほうがよいのではないだろうかということだ。

これも僕の関心のある話題にもひきつけて考えられる話題だと思う。例えば、学校内で連携・協働をすすめるときには、必ず異なる主張がぶつかりあうことになる。その結果として、従来は例えば、数の少ない養護教諭や教育相談担当の教員などが、集団のなかで浮いてしまうということが起きたり、ヒステリックだというような評価をもらったりしてしまう。これは個人の人格に帰せられる問題ではなくて、学校集団全体のなかでなぜこの人がそんなにはずれものとしてみられるようになっているのかをみなければならない問題だと思う。

日心のWSで僕は、学校の中で子どもは教師によって語られることによって問題化されるという主張をした。そのなかで僕は生徒指導の先生の語りを主にとりあげたのであるが、生徒指導の先生が語る生徒というのは、良きにつけ悪しきにつけ、社会にむけて頑張る子どもである。立ち止まってもう進めないとうじうじしたり、退却してしまう子どもというのはなかなか語られない。本来は頑張る子どもの裏に、そのような頑張れない側面があるということを養護教諭の先生などは知っていて、だからこそ彼らを守ってあげたいと思うわけなのだが、そういう声は全体のなかではなかなか力をもちにくい。「敵は味方」という視点は、こうした声をまもることを後押ししてくれているように思える。

ただし、広田氏が本書のなかで述べているように、この多様性を守ることには、「それだけでは限界がある」として批判する声もあるようだ。限界がありつつも、だからといって多様性を守らない方向にいくことは得策ではないとする広田氏の主張には賛成だが、具体的にうまくすすめていくうえではやはり工夫が必要で、そこに心理士の役割というのもあるのではないかと思う。


2005年10月03日(月) 仕事はじめ

今日から後期開始。朝一番で非常勤へ。渋滞にまきこまれてギリギリのところで学校につく。
まだ頭がなんだかぼーっとしているのだが、なんとか1時間しゃべりとおす。次回からはちょっとテンションをあげていかなければ。

終わると学校にとってかえす。出張中のたまりにたまったレターケースを整理する。いろいろ仕事が来ている。いろんな人がどこかで見てくださるということか、いろいろ声をかけていただけるのはありがたいことです。

その後、1年生の実習。これもひさびさに動き回ったので疲れました。


2005年10月02日(日) 時間あたりの働き

時差ぼけのまだ抜けぬまま名古屋へ研修会に。やる気はあるがあんまり力がでない。
実はこの日は別の研究会が入るかもしれなかったのだが、この研修会があることも手伝って立ち消えになっていた。消えててよかった。こんなんで東京までいけませんがな。

で、研修会ではまたまたためになるお話を聞いてきた。今回は現場での体験に根ざしたお話で、一般論を述べているようであっても厚みがあった。こうやって視点をたくさんもらってみると、いままで自分がいかに1時間あたりの動作を無駄におこなっていたかということがわかるね。


2005年10月01日(土) なんとか

日本に帰って来れた。昨日の昼頃にジュネーブをでて、フランクフルト経由で関西国際空港へ。
いきなりポスターが入った荷物がなくなったり、飛行機の延着につぐ延着で、乗り継ぎ便を探して走り回ったりと、飛行機にまつわることではさんざんだった。

が、なんとか周囲の助けもあってポスターも発表できたし、いろいろな体験をすることもできた。
ということで以下は僕のポスター(後ろの髪の毛はG部先生)。



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