非日記
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知らんことを知るとものの見方が変わるのが不思議楽しい感じ。
フランスの都市ハンターが形になってきている様子よね。 (注:違います。猫の目の方です) 私は世俗にも疎いので、最近の話だと思っていたら何年も前の話だった…なんてことがざらにあるんだけど、たぶんこれはあっているはず。最近の話のはず。
邦画もあったよね?変態な仮面と同じ人が主演してた気がするんだけど。 私は映画が見たい気持ちはやまやまあるものの、まず今となっては映画館で映画みるのは視力的にツラくなってしまってる。あの暗闇の中で光る画面がツライし、焦点がしっかり合わなくなっているというか、焦点が合う範囲がめちゃめちゃ狭くなっているのでベストな席がとれないとたぶんよく見えない。動体視力はもともと悪いから、動いてる画面で見落とすものがたぶん多く、そのためにストーリーがよくわからなくなる可能性もある。
まあ、実のところ、振り返って色々、元々、結構勘違いしている事は多かった気がするけど。自分ではちゃんと物事が理解できているつもりでいたら、実はわかっていなかった事がままある事に最近気が付くようになったねん。少し賢くなったねん。 自分の昔の文章とか、最近の文章でもちょっと時間あけてみた時に、「意味わかりにっく!」とか「これ受け取り方が一つに絞れてないじゃん」とか結構ミスを発見しまくって「自分、ちゃんと上手に日本語喋れてる」「ちゃんと伝わりやすいように注意できてるもん」と確信していた自分の愚かさと頭の悪さにあきれるようになりましたよ。
とにかく 見たい気持ちはあるが、時間的にも能力的にも意欲的にも、そうそう見れないだろうな…という諦観の中にあるわけ。ただ実際に見なくても、見る前から色々想像はする。あんなだろうか、こんなだろうか、と想像している。頭の中に映像っぽい流れが出現してみたりする。
そうして振り返ってみると、あれはこういう事?みたいなのがあるわけよ。 例えばさ、主人公が女性に飛びつくときに、服が脱げるでしょ? あれはさ、「好きな人の前で服を脱ぎたくなる」性欲の表れってことでいいわけよね?つまり「性的に興奮している」という事を表現している…。 いや、違うねん。 そんなことは(興奮状態だという事が表現されている事は)私だって昔からわかっていたともよ。 私が言いたいのはさ、「性的に興奮する=服を脱ぎたくなる」という事?という事を聞きたい。
例えばさ、映画とかドラマとかで身もだえしながら服脱ぐじゃない。私あの感じ「相手の事をとても好きでちゅ」感があっていいなと思って昔から割と好きなんだけど、あの服をめっちゃ頑張って急いで脱ぐ理由自体は、「みんながきれい好きだから」だと思っていたわけよ。「これから汚れるような事を始めますから、お洋服を汚すのは後の事を考えてよくないな」と思って急いで脱いでるんだと普通に思いながら生きてきていたわけだけれども、もしかして…違うのでは?という気づきを得てから見るとなんとも感慨深いねん。
よく考えるとそうかもしれない。理性をかなぐり捨てようとしているシーンを表現しているのに、理由と根拠が理性的すぎるかもしれない。
つまり私は服を脱ぐのは汚れるのが嫌だからだと思っていて、だから着衣エロはお洋服が汚れる(可能性がある)ところが背徳的なエロさなんだと思っていたんだけど、もしかして違う。普通なら服を脱ぎたくなるのが当然で自然で正常なエロ精神なので、「むしろ着ていたい」となるならばそれは「特殊性癖」!
洗濯ものが増える背徳感をあおるエロではなく、特殊性癖!
性的指向とかを分類するテストには色んな謎の質問があったんだけど、「好きな人の前で服を脱ぎたくなる」は、なかでも私的にかなり衝撃的な質問だったねん。「好きな人の前で服を脱ぎたくなる」は特殊性癖ではなかったんか、という。これで数珠繋ぎ的に色々な謎が一気にとける部分があるねん。 「だから人は人前で全裸になることが恥ずかしいんか!?」ということよ。私が服を脱がないのは、世の中が服を脱いだらいかんことになってるからだよ。羞恥心の問題ではなくて法律的な問題だよ。
私は割とルールを守る方なんだよね。 理由はわからなくてもルールだからって理由だけで守ろうと頑張るよ。そのルールを守る人々がいる、守ろうとする人がいる、というだけで、ある程度は自分もそのルールを守る理由になるよ。どうしても嫌だという時以外はそんな争わない。 ただ色々めんどくさくなると、ルールを守るのがめんどくさくなるね。別に守りたくて守ってるわけじゃないからな。 私が道路の真ん中でスカートが落ちてパンツ丸出しになっても私自身は別に恥ずかしくないが、世の中の人々がいけない事が起こったと思って恥ずかしく感じる事が分かってるから頑張って隠さなくては!と思うねん。
露出癖のエロ漫画とかエロシチュエーションが面白いのは、当事者と周囲が結託してそのシチュエーションはエロいと認識する状況を作り上げているからなわけよ。 普通に考えて、そういうシチュエーションが現実に存在したら、特に何も考えずすぐに警察に通報するだろうが。普通に何も考えずに見たら「いじめじゃん」と思う。相手が嫌がる事で、仮に嫌がっていなくても、法的に問題のある事をしたらいけないよ。しかしそれを単にエロい場面として成り立たせるために、そこにいる皆が「これは犯罪現場でなくてエロ現場である」と心を一つにしてるところが凄いねん。 これはSM行為と同じ論法ね。マゾがいるからサドが存在できるという。
大体ヌーディストは何故服を着たくないのかな。寒かったり暑かったりしない? 後転んだら毛皮もないのにすぐ怪我するじゃんか。 私は服を着るの割と好きだが。着心地の良い生地が肌に触れるのが好きだし、特に衣服が肌の上で風にはためくのが好きなんだけど。
ともかく、こうなると解釈というか、同じ場面や流れに対する感じ方がだいぶん違ってくるでしょ? すごく違うでしょ?私はだいぶん色々間違っていたのでは???という不安というより、ついに万物の真実が明らかになるわくわく感が高まってくるな。
神様を柱で数えるけれど、日本では神様が木なんだよね。まっすぐ高くそびえるものが神様。だから柱で数えるわけでしょ。石だったり、地面だったり、なんでも神様になるんだけど、たぶん有用性とか形とか一番生活に密着して神様っぽかったんじゃないかと思う。 カミナリが神鳴りでしょ?そして周囲で一番高い木に落ちるでしょ?物凄い音を立てて巨木が一気に裂けたり、一気に燃え上がるわけやん。神鳴り。神成り。明かりのない漆黒の夜にそんなんみたら衝撃を受けて、何かすごいものが天からおなりになったってそりゃあ思うよと思う。そして雷がどっかんどっかん落ちて、そして稲が豊かに実る。非常に栄養バランスがよく連作障害をおこさない人々を飢餓から救う奇跡の食物が、神様がおなりになって豊かにみのる。雲に田んぼと書いて雷(かみなり)。稲の光と書いて稲光(いなびかり)とともに。
とにかく金属加工ができるようになるまでは、石よりも木が非常に扱いやすくて色々使えて文化的生活に不可欠で有用植物から鳥獣を内包する豊かな森を形成する重要なもので「神」様だったんだと思う。象徴として、森の主として巨木をまつる。でもそういう巨大な神様の木は、木の実一つ、細い若木、幼く若くて弱いものが時間をかけて大きくなって成長して、やがて大樹(神)になったものやねん。つまり神道では、神は神ではないものから時間をかけて神に「成る」ものってことよな。そいうところがベースにあるから、だから神道ではなんでも神になれるねん。無機物でも生物でも人間でも、祀りさえすればなんでも神になれる。本来からして神道の神はそういうものだから。 こういうところで、はなから神道と仏教はなじみやすかったんだろうなと思う。仏教も「仏じゃないものが仏になる」からね。
こんな感じで言葉と概念とかそういうのが順番に繋がっていくように感じるときは気持ちがいいでしょう。まあこれは私が勝手につらつら思っただけで正しくはないだろうと思うけど。例えば。
だから「好きな人の前で服を脱ぎたくなる」という、この一つが色々な物の見方を一気に変えていくのが凄いわけよ。「もしかしてあれはこういう事?」ってオセロの駒がパタパタパタパタとひっくりかえっていくようで凄く楽しい。
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