非日記
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2023年02月15日(水) ちがう事書こうと思ってたのにEdge開いたら目に入って読んでしまった。

Microsoft EdgeのTOPのニュースで、賢そうな女性筆者が人が男性配偶者を主人とと呼ぶのが嫌で、自分の伴侶まであなたのご主人と言われて「ご主人様ごっこ」につき合わされるのが嫌だって話が載ってたんだけど、世の中の人間は大変ですね。

私、若い頃は、社会問題とかそういうのに比較的関心がある方だったと思いますよ。最も政治や社会問題に関心があったのはマジで幼稚園児の頃だけど、それでもまあその後も一般的にどちらかと言えば関心がある方だったと思います。

でもしかし、このトシまで生きてきて最近とみに思うのは、なんだか…生きるの大変になったなぁと思うのよ。自分の価値観と違ったり、自分の人生にはそれまで関わりのなかった病気とか立場とかの人たちについて、「まず知ってほしい」と簡単に言うでしょ?…事前に知るのがすごく大変なんですけど。知らなきゃいけない事になってきたことが多すぎるんですけど。
50年ぐらい前の社会人とかと比べて、現代の社会人が配慮すべきこと多すぎるきがするんだよね。しかも、価値観や社会制度や社会集団の構成要素や割合ががたがた変動中でしかも見通しが立ちにくいので、「これについてはこう考えてください。以上」「この人たちはこれを望んでいます。以上」とならないでしょ。

私はまあいいんですよ。私は割とそういうのが好きなんで。
こういう立場の人もいて、こう考える人もいて、こんな人もいて、しかしこう言う人もいる……というのが割と好きなんで。基本的に全部の敵対する立場に、それなりの正しさがあるのが好き。強くて賢くてかっこいい敵が好きなのよ。それだけでも「うおおおおお!カッケー!」となるけど、美貌だとなおいいね。
だから最近のザマァ系はちょっとね。面白い時もあるけど殆どが敵役の頭があまりにも悪すぎて弱すぎる。そこまで頭悪くする必要ある…?って感じに、ちょっと燃えない。邪悪でもいいから、最初から最後まで信念というか筋の通った最高の悪役であってほしい。退場も最高に格好よくあってほしい。

私の性癖はともかく、でもそうじゃない人も結構いるじゃない。「結局何が正しいの!」みたいな。
個人的には何が正しいのかじゃなくて、何を基準として何を選択するかって問題だと思っちゃうんだけど。あるのは正義や正解ではなくて、選択の積み重ねなわけ。

だから自分と違う考えや選択の人間がいても仕方ないなと思うんだけど。
むしろ私が現在の基準を選んだがために、どうしても選べなかった他の選択肢を私の代わりに頑張って(?)選んでくれている人…!という感じもなきにしもあらず。
なんていうのかな、来世の自分とか、前世の自分みたいな気持ちで、例えば「私は結婚して母親になりたい気持ちもあって、でも色々あってそういう道は進まなかったわけだけど、おまえが別の私として代わりに結婚して母親になるという人生を歩んでくれたんだな。じゃあ私はいいか。ありがとう!別の人生から絶賛応援してるよ!」みたいな。人々を見て、ごくたまにだけど「あんなにたくさんの私が…」みたいな気持ちになってるわけよ。
たまに。
男でも偶に「おっさんとして生きる私(パラレルワールドX)頑張って働いとるな」みたいな眼差しで見てるし、末期がんで療養している老人を見ては「今まさに人生を終えようとしてる私(パラレルワールドY)どんな生涯だったのだろうか」、テレビに出てる富豪を見ても「大富豪として生きる私(パラレルワールドZ)…あいついいもん食っとるな」みたいな眼差しで見ている。

「同じ私なんだから」と共感したり同情するわけじゃない。だってもう違う道を歩んでしまっただろう。むしろ自分だと思うなら、より冷淡になる可能性の方が高いと思う。「もはや道は分かれた。二度と交わる事はない」的な。同胞であって仲間であって成人し故郷を後にした裏切り者である。この道を行くなら、その道は行けない。覚悟の上で別れた。
種とは何かとか、集団における個体とは、社会における個人とかは何か、意識とは何か、「私」とは誰の事なのか…というあたりから、思春期を終えたら、いつの間にかこうなってたの。

いや、普段はとても普通に生きてる。
だからごくたまに。すごく暇な時とかよ。頭おかしいわけじゃないの。おかしいのかな?

例えば交差点で赤信号で車が止まっていて、横断歩道を歩いている人間を眺めてるでしょ。暇でしょ。「あれが前世の私だとする。うーむ、どうしても思い出せないが、今この時は何を考えていたっけな…。今あの私が見ている景色は、たぶんこんな感じで、あそこから私を見るとすると…」みたいなことを考えてみる。世界と時空を気安く捩じってみる。暇なので。

だから「世界でたった一人の代わりのないかけがえのない私」みたいな感覚がちょっと違うかもしれない。希少価値じゃない。てゆうか私、希少価値がまだよくわからないねん。希少だというだけでなんで価値があるん?違うよね?希少であることは価値があると先に決めてるよね?違う?
ともかく、世界にたった一人なのは確かなんだけど、私にとっては私の代わりはいっぱいいる感じで、世界にたった一人しかいないこの私が価値を持っているのは私にとってだけやねん。私が好きなように使える私が私だけなのよ。人にとって私の代わりはいくらでもいるだろう。一匹の蟻が踏みつぶされて、周囲の蟻がしばらく右往左往しても、すぐにいつも通りに動き始める。誰かを失う悲しみとは何かって考えてたんだけど、この蟻の社会と人間の社会は何が違うのかって小学生の頃考えてたんだけど、それはともかく蟻の社会自体は小動もしないし、そうでないといけないわけ。私がある日突然いなくなっても基本的には同じだと思う。

でも私にとっては私の代わりが一人もいなくて、私の代わりを誰一人も出来ないのは確かなのよ。だから前の仕事辞めた時も「辞められたら困ります」と言われたけど、「大丈夫!お前たちは絶対困らないよ!一時的には困っても最終的には絶対に困らないから!社会というものは空いた穴は何かでどうにかして埋まるようにできているのよ。だから心配しないで」と胸を張って言っていた。「あなたがいないと困る」とか「寂しくなる」というのは「あなたがいないとしばらく不便だ」とか「あなたがいないと少しの間寂しくなる」という意味だ。別にひねくれた見方ではなくてですね、「しばらくの間一緒に過ごせてとてもよかった」という意味よ。「一緒に働いた間は頼りにできた」し「楽しく過ごせた」という意味で、惜しまれるというのはありがたく、良いものよ。
「しかし私の代わりに私の人生を生きてもらうわけにはいかないでしょう」。これよりも上位に来るものはない。


また全然違う話していたな。


そうじゃなくて、だからさ、自分と違う価値観や考え方や自分が普段全く接していない人々や社会の事まで「知って」「配慮」しなければいけない社会って結構大変だよねと思うのよ。

わかるよぉ?私だって配慮してあげたいと思う。余力があれば。

でも、こんだけ色々増えてきたら、学校の倫理道徳の時間を目いっぱい使って何年も勉強して、理解できたかどうかテストをやった方がいいぐらいだと思うよ。自分と同じ考え方や感じ方、価値観から出てくることは考えればたどり着ける結論になるよ。でも自分と全く違う考え方や感じ方、価値観から出てくる結論に関しては、割と丸暗記するしかない感じじゃない?「こういう時にはこう」「こういう時にはこう」と。

例えば人間は目を合わせて話さないと失礼っていうでしょ。人間はそういう価値観を持っているとする(私は陰キャなので合わせたくない)。でも犬や猿や猫や動物一般は基本的に視線を合わせることは攻撃でしょ。いきなり近づいてきたり話しかけてくるのもダメ。じゃあ犬や猫にはストレスになるから視線は合わせないようにしようとなるけど、それは人間(※陽キャ)の考え方や感じ方、礼儀からは絶対に出てこない、たどり着けない配慮でしょう。わざわざ教えてもらって知るしかない。自分の自然な状態を曲げて対応するしかない。例えるならば「一体人類のすべてが犬猫との正しい接し方を知る必要があるのか?」という問題意識を最近の私は感じているわけだけど。こういう風に言うと、被差別者は犬猫みたいなもので人類じゃないというのか的な非難にさらされそうになるんだと思う。そういう事じゃないんだけど。違うねん。なんていうのかな。「こういう問題がある事についてまずは知ってほしい」とよく聞くから、「これ、こないだも別の問題で同じ言い回し聞いたな」と思って、「あっちの問題についてこっちの人は知っていて、こっちの問題についてあっちの人は知ってるのかな」とか思い。さらにあんな問題もこんな問題もあって、私の問題を知ってほしい人があっちにもこっちにもいて、そして他人の問題を知るどころじゃない生活の人もあっちにもこっちにもいるんだよな…と思うの。
皆が「私の問題をもっと知ってほしい」「私の苦しみや困難をもっと知ってもらいたい」というねん。でも私、そんなに色んな事を沢山覚えられるほど頭よくないねん。

ともかく、
教えてもらわないと無理な事は「常識」「良識」とか言ってないで、授業とか講義とかしないと無理じゃないのと思う。特に変革期ならば。しかし変革期だからこそ、授業であんまできないんだろうなあ。私は倫理道徳の授業は受けたことないけど。

どっちにしてもさ、脳みその余力がある賢い人とかじゃないと、どんどん増えていく新良識とか新常識についていけないと思うのよ。特に思いやりとか配慮とかってのは、見かけを取り繕うだけじゃなんでか許されないところあるでしょ。根本的な価値観とか、潜在的な差別意識の漏れとかにすごく厳しいじゃん。

今日の日記の冒頭にあげた「自分の伴侶を主人と呼ぶのに抵抗を感じる。主人という呼び方を私の伴侶にも使用されるのは我慢ならない」ってのは、主人という言葉に対する付加価値的な価値観というか、潜在的な意識みたいなのを見てるのかな。「主なる人」ってのが問題なのかな。これは経済的にとかそういう事を考えてるのかな。「私と伴侶は主従関係ではなくて対等なのだ」という意識がないみたいな。この辺を筆者は「ご主人様ごっこに巻き込むな」と言ってたんだけど、私は別にいいじゃんと思っちゃったよ。この世はごっこ遊びに満ちているよ。価値のない混沌とした世界に、皆がごっこでルールを作ってシステマチックな社会を構築してるんじゃないの?それはともかく、なんか言葉狩りみたいだなと思って、もやもやするわけ。

こういう女性が少女小説とかハーレクインとか読んだら女性の社会的地位がとか女性の幸せに関するステレオタイプが〜とか言われちゃいそうだなと思ってしまってん。私は水戸黄門が面白いと思うけど、だからと言ってけして封建社会に戻りたいと思ってるわけじゃないんだけど、なんかそういう感じ。

まあ、でもこういう言葉狩りとか、自分と違う価値観の人間に対する嫌悪感が次の価値観とか次の言葉の流行を作っていくのだろうし。
で、この人は「旦那」って呼び方も引っかかるらしいの。主人とか旦那とか奥さんとか家内とか、昔の社会制度の主流から出てきた呼び方が現在も使われているとその社会規範や価値観の残滓を感じて気になるってことなんだろうかと思う。つまり私は革新なので保守と戦う!みたいな。

中途半端に言葉の出てきた時代が近いのが問題なんだろうな。
例えば「ごはん」は宮中の女御?女中?の間で使われてた言葉だっていうけど、「ごはん頂戴」って言ったからって「封建時代の支配階級の言葉を使うなんて!」みたいな感じはないだろう。

いやなんか、なんとなく感じが悪く感じてしまって(なんかこう…自分より頭の悪い人間を見下すような感じがしてしまって)、つい批判的な言い方をしそうになってしまうわね。

こういう風に感じる人がいると不用意に「あなたの旦那さんは」って言えないわけかーとなるでしょ。未婚の私は何も感じてないんだけど。それが面倒だなと。
逆にこの人は結婚しているから何かを感じるのかもしれないな。

ほら、結婚した時に苗字を統一しないといけないのが云々って話もあったじゃない。「夫婦別姓にしたい!」「なんで大体は男性の苗字にせないかんのじゃ!」みたいな。でも「好きな人と同じ苗字になりたい」的な憧憬とか(例えば少女漫画とかの好きな人にの苗字の下に自分の名前を書いてみる的なあれはなくなるわけよね)、家にかかってきた電話に夫の苗字を名乗って出る時の新妻のシチュエーションもなくなるわけよ。別になくなってもいいけどさ、きっと次の片思いシチュエーションや、典型的な新婚あるあるとかが生まれるんだろうし。

でもそういう、かつての少女やかつての女性の夢や憧れみたいなものが前時代的なものになるとして、だからと言ってそれを痛ましいものとして憐れむのはなんか違うのではと思うでしょ。
それがかつての正しさが時代の流れならば、今この時の正しさもまた時代の流れに過ぎないわけだし。

「同期の桜」って、なんかどこか戦時中の言い方っていうか価値観じゃん。でも入社時期が皆一緒で中途採用なんてほとんどなかった時代の「同期の桜」感とか、入学式卒業式が三月四月でよく桜が咲いてる中で出会いや別れがあった事とか。これを欧米の就業、新学期がよく九月だってのに合わせるとして、それはそれでツクツクホーシが鳴く中汗だくでの出会いと別れとか、なんか新しいポエジーが生まれるんだろうと思う。天才的な詩人や歌手がつくるんじゃないかな。だからといって一斉の春の出会いと別れに対する哀愁というか執着みたいなのもあってもいいかなというか、枕草子とかそうでしょ。敗者の文学。時代の敗者が胸を張って高らかに歌いあげる失われてく価値観に自らの見出していた美しさと執着よ。


まあそういうのはどうでもいいねん。
何が言いたかったかというと、私も考えた!おのこ同士で夫婦というかパートナーにしたとき、自分の配偶者をなんて言ったらいいかなって、二次創作する上で割と悩ましく考えてた!
ダーリンとかハニーとか言いたくないねん、趣味的に。パートナーってのもなんかな、カタカナなのが気に入らん。大体さ、パートナーて恋愛関係婚姻関係でなくても使うじゃん。違うねん。もっと情緒的なもの入れたい。
でも同性だから旦那とか女房とか言えないでしょ。無理すれば言えるんだろうけど、すごく性別を意識させる。「私のまんじゅうちゃんカップルには使えないわ!」異性や同性は関係なく、でも伴侶だとわからせたい。「私の配偶者」とか「私の伴侶」みたいな言い方はちょっと違う感じするなあ。なんか客観的に過ぎるのよ。もっと馴れ馴れしい番(つがい)感が欲しい。「私の番(つがい)」ってのも最近はオメガバース設定とかであるんだけど、もうちょっと社会的な感じが欲しいの。番ってオメガバースの中ではすごくいい感じになるんだよね。初めにオメガバースした人が使ったんだろうけど、天才か!と思う。こうオメガバースの初めから定まってる動物的な感じがすごくよく出てる配偶者表現なのよ。
でも私が求める表現と違うの。もうちょっと社会的に、定まっていないんだけど、自分が選択して相手を配偶者に定めている。自分の中で親しみをもって他と違って性的な関係性を含めて伴侶として考えている。それを自分の立場から社会的に説明する。
ううむ…と考えたわけ。
それで、「ああ!日本語にはあれがあるじゃん!」とたどり着いた、古語。

ずばり、それは「夫(つま)」です。
日本語では夫も妻も、自分の伴侶を「わがつま」と呼んでいた時期があったはず!さしみのつまな感じに。漢字で表記すれば性別も表せるから、「つま」という音だけで「妻」をイメージして女の代わりっぽさとかもない!
「夫」と書いて「つま」と読む。男性の伴侶なら夫(つま)、女性の伴侶なら妻(つま)。同性婚でも異性婚でも関係なく、とにかく法的でも事実婚でも兎も角意識的な配偶者だとわかって、適度な客観性と事実性、程よい馴れ馴れしさがあり、なおかつ昔からある伝統的な言葉(ちょっと古すぎるけど)

「私の夫(つま)」

完璧じゃない?!

…と、思って、愛するまんじゅちゃんに「ボクの夫(つま)」と言わせて喜ぶ私であった。


「いも」とか「せこ」もあるんだけど、これは配偶者だけでなくきょうだいの可能性もかなりの確率で入ってきてしまうし、性別によって音感から分かれてしまう。何より近現代で全く使わなくなっていたので、配偶者の表現としてピンとこないでしょ。むしろ「芋」とか「勢子」みたいに感じるじゃない。
でも「つま」と言ったら「妻」はまだ使っているから、なんかわかる感じがする!さしみのツマをイメージしても、当たらずといえども遠からずな感じする。むしろ「自分が刺身で伴侶はツマ」と考えても単に独立性、自立性が高いだけな感じがするし、これなら「経済的にも社会的にも主人じゃなくて私の方が一家の大黒柱だ!」なフェミニストも満足できません?

私、愛するまんじゅうちゃんはカップリングで受固定なんだけど、「受」つまり女性的な役割を固定化している側が男性的な役割の固定化された配偶者を、ジェンダー的には女性をイメージする音感で呼称ところが私的にバランス完璧やねん!!!セクシャルな役割とジェンダー的な呼称のバランスを二重にひねる事でとれるの。正確で、なおかつスマート。

わかる!
これならいいじゃない!!

と、思いついた時にすごーく嬉しかった記憶。それで件の記事の筆者が自分はこれこれこういう呼び方を地道に続けて社会に抗っていくわみたいなことを書いていたんだけど、私的には「つま」推奨です。いいじゃん、女でも夫を「つま」って呼べば。男も伴侶が男でもつまって呼べるし、女でもつまって呼べるし。どうかしら。
「夫」と書いて「つま」と読む、私、すごいキュンキュンするんだけど。


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