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2005年02月12日(土) 美味しい文章

 色んな人の、色んな立場の人の、色んな状況の人の文章を読む。
 所詮自分はちっぽけだし、一生懸命背伸びをしても、一生懸命なふりをしても、やはり小さいし。
 だから色んな人の文章を読む。

http://www.shinchosha.co.jp/tenkimi/top.html

 ここに書かれている文章に、とても安心した。
 この境地を我が物にできる人、その文章をこんなに簡単に読ませて貰って申し訳ないと、思った。





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2005年02月06日(日) ボランティア考

 ボランティア。
 昔は嫌いでした。ボランティアと称するものをやっている人達が嫌いでした。
 「私はやってるのよっ」と自慢げにしている人達が嫌いでした。今もそういったスタイル重視の人達は好きではありませんが。
 ただ、7年前から実際に自分が骨髄バンクのボランティアを始めてからは考え方が少し変わりました。

 そんな気持ちの中で他人の文章を読ませて頂くからなのでしょうが、ボランティアに関しての考え方で「ん?」と思ってしまうものがあります。
 それも、これは俺の偏った文章読みなのかもしれませんが、しっかりと自分の意見を持ち、社会に対して独特の持論を(それもなるほどと唸る)表明している方にその考え方をされる傾向が多いように感じたのですが、それは、
 ボランティアは誰にも気付かれず、そっとやるもの。誰かの賞賛を得ることなくやるものをいう。という意見。
 この意見に間違いはないし、俺もその通りだと思います。
 俺自身も中学生の時、新聞委員として学級新聞作りをやっていた放課後、もう教室には誰も居ない状況で教室内の机とイスをきちんと並べて帰っていたことがあります。
 なぜやったのか、なぜやれたのか。周りに誰も居ないから。
 「オマエいいことやってるな」とか「なに点数稼ぎやってんだよ」とか、そんな外野の雑音に惑わされずに自分ひとりで、縦横ビシッと揃った机とイスを作ることが出来たから。縦横揃っていると自分が気持ちいいから、たぶんそれは他人も気持ちいいのではと思ったからやったのです。
 しかし、この行為を影から見ている先生が居た。その先生は全校集会で俺の机イス並べを「善行」として紹介してしまった。
 俺のその時の気持ちは、見られていたことへの恥ずかしさと、見られてしまったことへの後悔。誰にも見付からずにやることをめざしていたのに、見られてしまったことへの悔しさでした。
 だから、誰にも気付かれず、そっと賞賛も得ずにやるものがボランティアという考え方には同感です。基本はそこに根ざしてこそのボランティアだと思います。
 ただ、それはひとり一人の人間がいつでもどこでも抱いているべき気持ちで、ボランティア考とはちょっと違うと思うのです。

 日本にもたくさんのボランティア団体があります。
 街頭でチラシを配布したり、シンポジウムを開いたり、マスメディアを使って普及啓発をしたり、行政に対して意見をしたり、その活動は多岐に渡り当然それはみんなの前に出て、気付かれずにではなく大いに気付いてもらって、そっとではなく堂々としたボランティア活動です。
 これはボランティアではないのでしょうか?
 この行動によって、弱いとされる人や虐げられている人が前進するきっかけを提供したり、大げさに言えば希望を提供できたりもする行為です。これをボランティアと言ってはいけないのでしょうか?
 時にはその行動が賞賛されることもあります。それが活動をする上での活力になったりもします。賞賛されてしまえばそれはボランティアではないのでしょうか?

 日本人にはボランティアを「恥ずかしいこと」と考える人がたくさん居ます。この恥ずかしいは「照れ」の意ですが、その奥ゆかしさが日本人の美徳だと考える人もたくさんいます。
 でも、だから日本にボランティア精神が根付かないのもまた事実です。
 自分以外の人間の為に何かをやることは恥ずかしいこと、それは誰も見ていないところでやるならとても崇高な行為で、見てもらってやることは美徳に反するなどと考えていたら日本にボランティア精神など根付きませんよ。
 この地球に生まれたからには、永くても100年という時を同じく生かされている人たちが、自分だけじゃなくみんなで豊かに暮らすためにはどうするのがいい?と考え、誰が居ようが居まいが、見てようが見てまいがお互いに支えあうことを考え、時には支え、時には支えてもらい生きる。これだと思うのですがね。

 俺自身、自分の骨髄液を提供し周りから賛辞を言われた時には、違うそうじゃないこれは俺が自分にできることだからやったまでで誉めてもらうこととは違うと考えたし、いまもその気持ちに変わりはありませんが、相手の患者さんからお礼の手紙を頂いた時には素直に嬉しかったです。
 その気持ちを本にボランティア活動を始めたわけですが、自分にやれることをやっているという気持ちに違いも変わりもありません。
 ボランティアってそういうものだと思うし、そっと誰にも気付かれずにやることだけがボランティアではないと俺は思うのです。

 独特の持論を建設的に表明する人には敵も多いものですが、その比ではなく指示する人、というより自分で考えるのが面倒くさいからそういった理路整然と示された意見を苦せずして自分に取り込む人がたくさん居るのではないかと俺は考えます。
 だから、そんなきちんとした方にボランティアとはこうだ!と書かれてしまうと影響力大なだけに俺としては気になってしまうのです。俺ごときが気にしても無駄よと言われてしまいそうですが。





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2005年02月03日(木) 家を建てるなら

 いま、知り合いから頼まれホームページを制作中。
 建築事務所のホームページ。

 今ではハウスメーカーでのマイホーム建設が当たり前で、この場合メーカー内の建築部や建設部などが図面を引くこととなる。
 もちろんそれに問題はないのだが、ここで施主は何を考えるか。
 このハウスメーカーは有名だし、テレビでもじゃんじゃんCMやってるし、モデルハウスを見たら気に入ったからここで建てよう。
 上のように考える施主の中でも大きく二つに分かれ、建売を基本とする「既にメーカーが決めたプラン」に変更を加えることなく完全お任せのパターン。(「売り建て」:メーカーが土地を先に売り、その上の家も建ててもらう。も含む)
 もうひとつは、ハウスメーカーのフリープランにより、施主が図面を引く段階から自分達のイメージをメーカー担当者に伝え、実際の現場にも足繁く通い進行状況を監理し家を建てるパターン。
 ハウスメーカーで家を建てる場合の大雑把な括り方はこんな感じ。
 ただ、ここで考えなければならないのは、図面を引く設計者も、現場を仕切る監督も、箱を組み立てる職人も(メーカー提携の工務店や電設空調会社など)みんなメーカーの人間だということ。
 どうしても、施主主導ではなく、メーカーの利益主導になり易いということ。
 だからってメーカーの家をダメなものと言っているわけではありませんよ。施主がしっかりと自分達のプランをメーカー側に伝え、現場での作業者にも具体的に説明をしながら竣工まで持っていけば良い家は建ちますから。

 では、いまや当たり前になっているハウスメーカーでの家造りなのに、設計事務所に図面を書いてもらって建てる家のメリットは何なのか?
 一番のメリットは、現場を監理してくれること、でしょう。施主の要望に沿った(もちろん設計者自身のアイデアや思いを加味した)図面を引いた当事者が現場を監理することは大きな意味を持つ。仮にハウスメーカーでの建設では現場に週3日は足を運ばなくてはならない(施主監理のため)のに、設計事務所が監理してくれる場合には週1でも、いや2週に1でも図面と違わない家が建つ。
 この安心感は大きい。
 しかし、我々一般ユーザーにとっての設計事務所、建築家というのはちょっと怖い存在だという意識があるのも事実。何が怖いか。設計料がべらぼうに高そう。そしてもうひとつは・・・
 そうもうひとつの不安は、自分が建てる家なのに設計者の「作品」にされはしないかという大きな不安。
 これがなかなかの難問。
 建築家にも大別するとふたつのタイプがあり、施主の思いをプロとして具体的な形にし、さらにプロだから分かる(ズブの素人の我々にはない)アイデアを加味することで施主の求めるもの以上の住空間を提案してくれる施主尊重型のタイプ。そして、あくまでプロとして自分の(建築家の)思いを作品として具現化してしまう施主不在型のタイプ。
 だから、建築家の選定を間違えるととんでもないことになる、というのが同業者間での常識らしい。
 ちなみに、設計事務所に設計監理を頼んだからといって、ハウスメーカーでの家造りよりべらぼうに高い買い物になることはない。一般的には2000万円くらいの家で200万円くらいの設計監理料。こだわりがあり、自分の思いが形になっておよそ10%の出費であれば高くないと俺は思う。
 が、俺は自分の家を建てるだけの財力が備わらない星の下に生まれたようで、一生涯借家生活のようだが。

 一生の中で一番大きな買い物と言われる「家」
 それだけに、施主となる場合の色々な選択も難しいようだ。

 ところで、家を安く建て、なおかつとても満足のいく出来上がりを実現する方法を皆さんはご存知だろうか。
 自分で建てる。
 図面を引いて、現場の基礎や木工事や配管配線も自分でやる。
 全ては無理でも、いやほとんどはプロの手に任せて、内装の壁塗りやバルコニーのペンキ塗りだけでも自分の手でやると、これが笑えるほど支払額を安くできる。200万円くらいは努力次第で安くなる。
 「自分の家」という思いに立脚すると、自分の手も加えた家造りは理に叶っており、その浮いた予算で住宅のグレードをワンランク上げることも自分への投資として一考の価値はあると思う。






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久方 堕世 |HomePage
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