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2003年12月30日(火) のどかに

 今年も終わりです。
 日本は和やかな年末年始のようです。

 俺はいつもこの時期に体調を崩します。
 そう、自分の誕生日近辺が危ない。
 誕生日は26日。もう過ぎた。
 24日と25日の日記にも書いたように、今年はリヤカーサンタで25キロ歩き、いっぱいの感動と愛と感謝を貰ったので体調は崩れなかった。
 翌日と翌々日に腰がちょっと痛かっただけで、後遺症はなかった。
 次なる関門は元日だ。
 別に不摂生な生活をするわけではないのに、気が付くと体調がガタガタと崩れていることが多い。
 何とか、そんなことがないように越年したい。





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2003年12月17日(水) いちじく忌

 今日は母の命日。
 息を引き取ったのは、今日から明日になろうとしている夜中でした。
 あれから12年経ちました。

 もっと生きられただろうなぁと今も思う。
 55歳だもの。
 でも、肺血栓塞栓症という病気でしたから「もっと」にも限りはあるけれど。
 完治には心肺同時移植しか手はなく、当時の日本では脳死が認められてはいなかったので、手術は海外でなければ受けられなかった。
 高額な医療費。他人の臓器の移植。肺移植の成功率5%。
 動くことができなかった。
 ならばと、1日でも長く、苦しまずに、有意義に過ごそうと母は母なりに、俺は俺なりに頑張った。

 亡くなる1週間前に、呼吸の状態が良くなかったので急患で大学病院へ行った。
 主治医に診察してもらい、時節柄風邪だろうとの診断だった。
 保温と加湿をして様子をみていた。寝ている分には母も元気だった。
 そして亡くなる3日前。とうとうおしっこが出なくなり、急いで病院へ行った。
 胸部レントゲンを撮ると、そこには通常の2倍に肥大した心臓が写っていた。
 そのまま入院。けれど大学病院には空きベッドがないので、それまでもそうしていたように、他市にある大学病院が提携する病院へ救急車で搬送。
 その夜は、母は苦しさのため、俺は心配のため眠れなかった。
 明けた翌日の早い時間、俺はそちらの病院での主治医に呼ばれ、「覚悟してくれ」と言われた。
 レントゲンに写ったあまりに大きくなった心臓を見たとき、覚悟はしていた。けれど、奇跡も願った。
 その夜は母の呼吸の状態が良く、母はゆっくり眠り、俺もその脇で眠ることができた。このままの状態なら肥大した心臓も元に戻ると思った。
 しかし、翌日の朝、背中が痛いからさすってほしいと言われ暫くさすったけれど痛みは去らず、「この痛みは我慢できないから先生を呼んで」と、とことん我慢強い母が言った。
 先生の指示で母は個室に移され、救急の処置が施された。俺は部屋の外に出された。
 処置が終わり俺が部屋に入ると、母は口から泡を吹いていた。
 痛みをとるためにモルヒネを使ったのだ。家族である、俺の許可も得ずに。
 心臓がパンク寸前でモルヒネを投与すれば、もはや回復など望めない。時限爆弾のスイッチが入った。
 母はそれから意識がなく、俺との最後の会話は、「この痛みは我慢できないから先生を呼んで」だった。
 時間の経過とともに母の呼吸は浅くなり、そして遠くなっていった。
 1分間の呼吸が5回くらいになった頃、看護婦さんが来て人工呼吸を始めた。が、器具をきちんと装着できず、母は苦しみ、そして呼吸が止まった。
 主治医はいなかった。当直の医者は一度病室には来たが、整形外科と門外漢のため何もせず戻って行った。
 俺は母の体の上に馬乗りになり、必死で人工呼吸をやった。せめて、主治医が来るまでは生きて、そして奇跡が起こると信じたかった。
 俺が人工呼吸を始めてから30分後に主治医は来た。
 俺をベッドから下ろし、心音、呼吸、瞳孔を調べ、ご臨終ですと告げた。
 実際に呼吸が止まってから30分後が死亡時刻となった。

 死者にムチを打つようなことを俺はやってしまったのかもしれない。
 けれど、生きていてほしかった。
 人工呼吸をやろうがやるまいが、主治医が到着して死亡時刻が確定するなら、俺はただじっとしていることはできなかった。

 今でもその時の光景は鮮明に覚えていて、忘れることはなくて、なぜ1週間前の変調時にもっと的確な処置ができなかったのだろうと後悔し、自分が傍にいながらやり残したことがあまりに多すぎると悔しくなる。





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2003年12月15日(月) ケセラセラ

 やっと、管理者を担当しているホームページの更新作業が終わりました。
 新規情報をちょっとだけ作り込んでアップしようと思い取り掛かった作業でしたが、仕事が忙しい振りをしてまともに管理していなかったので、ここはひとつ集中して再構築するかぁ・・・と、寝る時間を削って作業してました。
 なんとか満足いく出来にはなったかな?笑
 まだ、新規情報で載せなくてはならないものがあるにはあるのですが、それは俺の書いた駄文で蛇足だから、年内位にアップすればいいかなぁ。
 というわけで、本日2本目の発泡酒を飲んでいます。

 一連の更新作業と並行して、友達から頼まれている年賀状のデザインもやっているのですが、こちらも今、なんとなくこれでいいのでは?というところまでたどり着きました。
 3パターン出来て、このうち2パターンを印刷かな。150枚。
 ねぇ・・・家庭用のプリンターで150枚のカラー印刷って、時間がかかってねぇ。しかも年季が入っているプリンターゆえ、インクの漏れが多くなってきて、小刻みに掃除しないといけないのです。
 でもまぁ、誰かがそれで喜んでくれるっていうのは嬉しいから。その笑顔見たさに頑張るのです。

 ちなみに我が家の年賀状はデザインすら出来てません。おおよそのデザインは頭の中にあるのですが、それを作るにふさわしい写真がないので、近々撮影してこないとです。

 こんなことやっていて、就職先を全然探していない俺でした。苦笑





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2003年12月09日(火) 車椅子バスケットボール

 先日行ったドナー登録会での登録者数は12名でした。
 ほとんどが医大の学生。
 ちなみに、骨髄バンクのドナー登録者にはドクターが非常に少ないです。
 仕事柄、忙しくていざ提供となった場合に時間を取り難いという側面もありますが、医者と言えども専門外の知識はもっていないのも低登録現象の要因。
 まだ、「骨髄提供ってどこの骨を削るの?」と真顔で言うドクターがいるんだから…
 そんな中、ドクターの卵が登録してくれる意義は大きなものがあります。感謝

 ドナー登録会の翌日は車椅子バスケットボールのフェスティバル会場でボランティア活動をやりましたが、会場に行く前に「丸山應擧展」を観てきました。
 江戸時代に写生画の技法を世に知らしめた画家、丸山応挙。
 美術展が開かれていることは知っていたんだけど、わざわざ行くこともないかぁ(って、美術館は近所なんだけど)と思っていたら、遠方に住む友達が観に行きたいと言い出したものだから案内してきました。
 観てよかった。
 あんな絵を直に観られるなんてそうそうない。
 とは言っても俺の場合、その絵の歴史的価値とか、歴史的背景とかは興味がなく、絵が持つ迫力(迫り来る「気」)に単に感動したんですけどね。

 これは笑われる話ですが、どうしても俺のイメージの中には「今は昔」の世界に「色」が馴染まないんですよ。
 つまり、歴史的に残されている資料がどれも白黒だから、どうしても昔は色がなかったんじゃないかと思ってしまうのです。
 考えるまでもなくそんなことはあり得ないんだけど。
 いや、たぶん昔の人のほうが「色」に対する感性は持ち合わせていたんでしょうね。
 今のように、どんな色でも人工的に作ってしまえる時代ではなかったわけだし、それだけに色というものを大事にしていただろうし。
 そんな意味でも、江戸の世に書かれた絵を直に観る事が出来るなんて感動です。

 車椅子バスケットボールの方は、まだまだ認知度が低くて観客もゼロに等しかった。
 残念だけど、それが現実で、でも車椅子バスケットボールは健常者もプレーヤーとして出場できるんですが、この健常者のプレーヤーとしての参加が年々増加しているので今後の期待は大きいですね。
 実際に自分でやってみるとそのおもしろさが分かるし、分かると誰かに伝えたくなるし、そうやって地道に認知度を上げていければ地盤のしっかりした競技環境が整備できるだろうし。
 スラムダンクの作者の井上雄彦が「リアル」という車椅子バスケットボールに材をとった漫画を描いているので、ここら辺からも興味をもってくれる若者が増えればいいなぁと思っています。

 障害者スポーツの場合、大きく括るとふたつのジャンルがあって、ひとつは負った障害の残存機能をフルに使って肉体の極限を追うスポーツと、もうひとつは残存機能のなかで出来るものを追うスポーツ。
 車椅子バスケットボールなどは前者としてのプレーが多いわけで、スポーツですから闘いなわけで、漠然と観ていては前者としての障害者スポーツの方が見応えはあります。
 けれど、後者に属する車椅子バスケットボールもあります。頚椎損傷者のやるバスケットボールがそれで、頚椎損傷の場合、首から下の機能がゼロに等しい中でバスケットをやるわけです。
 医学的には機能全廃でも、人間には科学で解明できない底力があるんでしょうね。
 だから俺なんかには、どちらも観ていてワクワクするわけです。
 機会があったら、ぜひ皆さんも障害者スポーツを観て、一緒に参加してもらいたいなぁと思います。





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2003年12月05日(金) この数日

 仕事を辞めてから、待ってましたと言わんばかりにボランティアの仕事が押し寄せてきています。
 障害者スポーツ支援のボランティアでは理事を仰せつかっていて、広報担当なもので、ずっと待ってもらっていた会報を今日やっと仕上げました。
 本当は明日行うイベントで配布する予定だったんだけど、他の理事のチェックがまだ終わっていないので明後日の配布となりそう。
 明日はそのイベントとは別に、骨髄バンクのドナー登録会も行われ、俺はそっちに行くんだけど、はたして何名の方が登録してくれるか。
 県立の大学病院を無理言って借りたので、何とか二桁の数字を確保したいところです。

 次の仕事は、週明けの月曜日に職安に行って探す予定です。
 何かあるでしょうか。
 その前に、明後日の朝刊の折込を確認だな。
 日曜日の折込には求人広告が豊富だから。

 それにしても、こんな適当な気持ちで本当にいいのだろうか。
 いいわきゃないな。苦笑





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久方 堕世 |HomePage

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