風太郎ワールド


2003年04月30日(水) バイブルクラス

昼間家で仕事をしていると、勧誘やセールスの連中が次々とベルを鳴らす。新聞販売店から牛乳配達、生命保険、換気扇フィルター、不動産、‥‥。ドアに「一切の勧誘・セールスお断り」と赤で大書しているにもかかわらず。

「ちゃんと張り紙読んでくださいね」と文句をいうと、「セールスではありません。ご挨拶です」と屁理屈をこねる。

セールスに混じってたまに宗教の勧誘もある。真摯に信仰を広める努力をしている人もいるが、中には怪しい「宗教」もある。

若い頃は、暇があればこうした勧誘者の話につき合った。統一原理の若者に3時間つき合ったこともある。

いや、別に人生に悩んでいたわけではない。単に議論好きだったのだ。

「神の御心を‥‥」という話が出ると、「あなたの言う神とは何か、まず定義してください」「私があなたの宗教に入るべき理由を三つ述べてください」「その奇跡とやらが実際に起きたということをどう証明するのですか?単なる言い伝えですか?」

こういう話を3時間も続けると、ほとんどの人は音をあげる。

宗教ではないが、左翼系政治団体の県連幹部とも同じような議論をしたことがある。「フォード来日反対!米帝を許すな!」と叫ぶので、「米国は帝国主義だという主張が前提となっていますね。まず帝国主義という単語を厳密に定義していただけますか。その上で、米国が帝国主義だということを証明してください。次に、フォード大統領が来日すれば、日本の国民にとってどういう不都合があるか、主なものを三つあげてください」これが高校生の時だ。政治には関心があったが、まだ保守でも革新でもない。ただ、真実を探ろうとしていただけだ。

アメリカにいる時、たまたま本屋で声をかけられた男と話が合った。カフェに座って話し始めたところ、だんだんと話が怪しい方向へ。どうやら、アムウェイの勧誘だったようだ。言葉巧みだが、主張と結論に裏付けがない。私は彼からエンピツと紙切れを取ると、彼らのビジネスはネズミ講式販売(pyramid scheme)であり、こういう方法はいずれ大破綻するということを、数式を駆使して延々と説明した。彼は決まりきったフレーズを繰り返す以外まったく反論できず、そそくさと退散した。コーヒー代も払わずに。

あやしい宗教、政治団体、金儲けの話。勧誘の理由は何でもいい。本物と偽者はすぐに見分けがつく。偽者は、自分の言葉で話さない。自分の頭で考えていない。上から指示されたことを、自分の中で消化することなく人に売りつけようとする。だから、心の奥底まで響かない。どこかで論理が破綻する。

*    *    *

大学生の頃、バイブルクラスに通っていた。

あるアメリカ人宣教師が、自分の経営する英語学校で毎日のように開いていたのだが、無料で誰でも参加できた。教えているのは、無報酬でアメリカからやってきた信者達だ。

私は最初英語の勉強のつもりで参加した。しかし、回を重ねるにつれ、聖書を学ぶことで西欧文化がより深く理解できるということが分かってきた。また宣教師の人たちと仲良くなった。クラスの後はいつもラウンジで煎れたてのコーヒーを飲みながら、みんなで雑談に興じる。さらに、食事会に呼ばれたり夏の花火を見に行ったり。楽しかった。数年このバイブルクラスに通い、1年間はほとんど毎日足を運んだ。

このバイブルクラスでは、一度もキリスト教に勧誘されたことはない。押しつけがましいことを言われた記憶がない。

ある時、一人の若い宣教師にこんなことを聞いてみた。世界には多くの宗教がある。人は生まれたばかりの時にはまだ信仰心などない。言ってみれば、さまざまな宗教という山々に囲まれている中で、さてどの山に登るか、ひとつ選んで登り始める訳だが、何故あなたはキリスト教という山を選んだのか?

ちょっと意地悪な質問だったかもしれない。しかし、彼女は嫌がる顔も見せずに、しばらく考えてからこう答えた。「私はキリスト教徒の家に生まれた。だから自然とキリスト教徒になった。その意味では、多くの山からキリスト教という山を選んだということではなく、その山しか知らなかった。他の山のことはあまり知らない。これから機会があれば、そういう山のことも少しずつ勉強していきたい」

私は、彼女の誠実な返答に痛く感激した。そして、彼女が信仰している宗教に対して大いなる信頼を感じた。

別の宣教師にC夫妻がいた。新婚ホヤホヤの20代で、いつも二人で見つめ合ってはそっと手を握って顔を赤くしている姿が微笑ましかった。ご夫人はとても可愛くてやさしくて、私には理想の女性に見えた。

その二人に、一年半前の年末二十三年ぶりで会った。当時の仲間数人といっしょに。

二人とも全然変わっていなかった。四半世紀のブランクも感じさせないほど話が弾んだ。威厳が出てきた旦那は、今だにベビーフェース。子供が大人の格好をしているようでおかしかった。ご夫人は昔と変わらずチャーミング。ティーンエージャーの娘と息子におばさん扱いされていると嘆いていたが、信じられない。理想の女性像そのままなのに。

当時そのバイブルクラスに通っていた多くの人達が、後に洗礼を受けた。私自身は結局キリスト教徒にならなかったが、今でもキリスト教に非常に親しみを感じる。それは、



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な人たちに出会ったからだろう。


2003年04月25日(金) 1キロ、5分

久しぶりに河原を走った。この日は、5キロ。

心肺機能に効果的な有酸素運動は、心拍数120以上で20分以上持続する必要がある。ということで、私の場合、走るときは4キロ前後、泳ぐ時は1キロ前後というのが目安になる。

ショックだったのは、25分を切れなかったこと。割り算すると1キロあたり5分。忙しくて月イチしか走らないとはいえ、しばらく前までは4分を目処にしていたのに。それが‥‥

1キロ5分なんて、中学生の頃は、クラスで一番遅いヤツのタイムだった。速いほうじゃない私だって、1.5キロを軽く5分台で走っていた。

中学生に負けるなんて許せない。スポーツのことになると、負けず嫌いなのだ。^^;
10代の連中はライバルであり、負ける訳にはいかない。

そういや、アメリカにいる頃は、授業も研究も忙しかったが、スポーツ三昧の日々を送っていた。

日本では、場所もなければ金もかかるので、スポーツから遠ざかってしまう。

たとえば、テニス。アメリカでは、大学をはじめ街中あちこちにテニスコートがある。それもタダ。誰でも勝手に使っていい。大学でテニスの授業を受講することもできる。プロのレッスンも安い。学生割引とはいえ、個人レッスンが一時間25ドル。日本だと貸しコート代にも満たない。私はいきなりのめりこみ、メキメキ腕を上げた。

所詮素人の域を出ないのだが、根が体育会系なのか社交テニスというのができない。ある時、女の子達がテニスを教えてくれと言ってきた。ランニングに始まってヘトヘトになるまでドリルをやらせたら、もう二度と電話がかかってこなかった。

いずれにしても、環境とは恐ろしいものだ。子供の頃は体育で3か4しかもらわなかった私が、素人でもスポーツを楽しめるアメリカで開眼し、いっぱしのスポーツ通になってしまった。

夏休み中の土曜日には、近代五種とか称して、友人達と朝から何種類ものスポーツを競った。午前中はゴルフでハーフを回る。午後は、テニス。3〜4時間ノンストップでラリーする。その後2〜3マイル走る。夕方はジムへ。ウェートトレーニングのルーチンをこなした後、プールでラップを重ねる。その頃には、体中の筋肉が悲鳴をあげている。夕食をむさぼる。まだ終わりではない。夜は、ボーリング場で競争だ。10ゲーム。もう、握力も残っていない。しかし、その方が無駄な力が入らず高スコアが出る。そろそろ夜も更けるが、まだ残っている。ビリヤード。これも立派なスポーツだ。勝敗をつけるぞ。まだまだ夜は長い。

さすがに、ここまで来ると



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テニスに次いで夢中になったスポーツは、ボードセーリングだ。俗にウィンドサーフィンとも言う。

大学が大きな湖のそばにあったので、セーリングが盛んだった。海と違って、湖ではたとえ遭難してもどこかの岸に流れ着くから恐くない。

研究で疲れた夏の夕方。5時過ぎにボートハウスに向かう。日が落ちる8時過ぎまで、湖面の上を風と戯れミズスマシのようにどこまでも走る。煮詰まった頭が空っぽになる。遠くを見やれば、桟橋に続くテラスで多くの男女が地ビールを飲みながらくつろいでいる。その後ろには大学や街、そしてどこまでも続く緑の風景が広がる。喧騒から離れたひとときの自由。日が暮れ風も静かになると陸に上がり、心地よい疲労を感じながら、湖面に沈んでいく夕日を眺める。いつしか星がひとつふたつと輝きだす。芝生に寝転んでいつまでも物思いにふける。終わりのない夏の夕暮れ。

こういう生活、日本では無理かなぁ‥‥


2003年04月23日(水) ミルクコーヒー

以前このコラムで、スターバックスのことを書いた。

その発展の歴史は、ちょうど私がアメリカでまずいコーヒーに苦しんでいる時期と重なるのだが、両者を比較して振り返ると、コーヒーに対する情熱を、巨大なビジネスとして成功させた男と、金にもならないコラムで書いている男の違いが見える。

1970年代後半、日本の喫茶店をこよなく愛した私は、「茶店王」として君臨していた。特に、神戸のにしむらコーヒーがお気に入り。本物のシナモンスティックを添えたカプチーノは、世界一だと信じていた。今から思えば、ちょっと甘過ぎたのだが。

1980年から数年住んだアメリカ東海岸の街には、まともなコーヒーショップが一軒もなく、日本の喫茶店が恋しくて仕方なかった。

"Cafe"と名のつく店はいくつもあるのだが、喫茶店というより軽い食事をするレストランだった。コーヒーもとりたてて高級ではない。

1985年中西部の大学に移ったところ、その街にはカフェがあった。それも3つも!ようやく文化的な生活を取り戻す。まだスターバックスが全国区でない頃だ。

一方、スターバックスの現会長シュルツがスターバックスに入社したのは、1982年。イタリアを視察してエスプレッソ・バーに感動し、シアトルでも成功するかもしれないと閃いたのが、1983年。独立して、エスプレッソ・バー、Il Giornaleをオープンしたのが、1985年。スターバックスを買収して名前を継ぎ、シカゴとバンクーバーにも店をオープンしたのが、1987年。この後から、怒涛の成長を遂げる。

同じ時期にアメリカのコーヒー事情変革の必要性を感じながら、さすが成功するビジネスマンは行動的だった。

*    *    *

さて、3軒のカフェに出会って息を吹き返した私だが、一番よく通ったのがS/Bという店。コーヒーだけでなく、雰囲気が肌に合った。少し雑然として、学生街によく似合う。ヒッピー風の客も多かった。毎日のように入りびたり、何時間も本を読んだり、物を書いたり、音楽を聴いたり、通りを行く人を眺めていた。たいていは一人で。

この店のメニューには、カフェ・ラテ(caffe latte)の他にカフェ・コン・レチェ(cafe con leche)というのがあった。

実は、コン・レチェもラテも同じ意味だ。スペイン語とイタリア語の違いだけ。ついでに、フランス語のカフェ・オ・レ(cafe au lait)も同じ意味。ようするに、coffee with milk。ミルク入りのコーヒー。何のことはない、ミルクコーヒーのことではないか。

言葉の上では同じだが、中身は少しずつ違う。カフェ・オ・レは、コーヒーと温めたミルクを等量ずつ別の容器に入れてサーブし、お客が自分でカップに注いで混ぜる。ラテは、スチームで温めたミルクをエスプレッソに加えて混ぜる。ミルクだけでなく泡をたっぷりと乗せるとカプチーノになる。

コン・レチェは基本的にラテと同じような飲み物だが、一般的なカフェではメニューにない。S/Bでは、ラテ、コン・レチェ、カプチーノを区別していた。エスプレッソと泡入りミルクを1対1で混ぜるのがカプチーノ、1対2で混ぜるのがコン・レチェ。

私は、よりマイルドでミルクの多いコン・レチェが一番好きだった。

*    *    *

ところで、以前このコラムでスターバックスには2つの弱点があると書いた。その後、いろんな方々がスターバックスに足を運んであれこれ観察し、推理の結果を送ってくださった。

いつも混んでいて待たされるという指摘があった。これは日本のスターバックスの問題で、アメリカではそれほど混んでいない。逆にいえば、現在の日本のスターバックス人気はブームの面も強く、いずれ客足は落ちるだろう。

ドリンクに比べ、食べ物が充実していないという不満もあった。これはもっともな指摘。ただ、アメリカのカフェならこれはましなほうで、味も決して悪くない。私は、けっこう評価している。

実は、スタバの弱点については、ところどころでヒントをばら撒いてきている。

そもそも、カフェに行くのは何のためだろうか?

誰かと待ち合わせることもあるだろうし、たまたま外出時にひと休みすることもあるだろう。でも、それならドトールでもその他の喫茶店でもいいはずだ。

私がカフェに行くのは、おいしいカプチーノやラテに渇望した時、そして、ゆっくりと一人で本を読んだり、物思いにふけったりしたい時。



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が目的なのだ。

ところが、多くの人は驚くかもしれないが、このふたつがスターバックスの弱点なのである。

スターバックスのドリンクもそこそこおいしいが、最高級ではない。レギュラーコーヒーならもっとおいしい喫茶店は他にもある。ラテ、カプチーノにしても、他のカフェチェーンと大して変わりはない。やはり300円なりの味だ。実際さまざまなカフェを比較した調査などでも、味では、シアトル系ではなく本場イタリア系に軍配が上がるらしい。

そして、私が一番不満なのが、雰囲気。なんで、どのスターバックスもこんなにインテリアのデザインやレイアウトが野暮いのだろう。アメリカでもそうだった。高級でも、庶民的でも、カジュアルでもない。中途半端。何となく落ち着かない。だから、ゆっくりしたい時は、別のカフェを選ぶ。

今はもてはやされているスターバックスだが、新鮮味が薄れた時には、何がお客を惹きつけるのだろう?

私はいろんなカフェを巡る。雰囲気では、阪急岡本駅前のシアトルズ・ベスト・コーヒーが一番好きだ。渋谷ではSegafredo Zanetti、スターバックス渋谷文化村通り店が一番落ち着く。たいてい座れて、パソコンを使いやすいから。Tully'sは、黒で統一したインテリアが高級感を与えてくれる。仕事で走り回っているときは、ドトールで20分の休憩が一番便利。

カフェを巡るバトルはまだ決着がついたわけではない。私が100%満足できるカフェはまだ見つかっていない。ああ、S/Bが日本にあったらなあ‥‥


2003年04月20日(日) スガワラ君とH教師

中学入学以来英語に夢中になった私だが、学校の英語はあまり楽しめなかった。授業には身が入らなかった.期末試験でとんでもない点数を取ったこともある。

教師とも相性が悪かったかも知れない.Hビンというニックネームの教師は小言が多く,どちらかというと苦手だった.

*    *    *

さて、高校時代の同級生に、スガワラ君という男がいた。ぬいぐるみのようにぷくぷくした憎めない男で、柔道部所属の黒帯保持者。

学校をサボったり抜け出したり。隠れてタバコを吸ったり、パチンコしたり。不良のようなことをするのだが、別に暴力を振るうわけでもカツあげするわけでもない。普通に学校生活に溶け込んでいた。

しかし、宿題は手を抜く。授業中に前や後ろの連中とコソコソ話をする。落ち着きがない。

ある日の英語の授業中。後ろの生徒にちょっかいを出しているスガワラ君を、Hビンが逃さなかった。

「スガワラ!次。はい、訳して」
すばやくスガワラ君を仕留めると、Hビンはフフッと不気味な笑みを浮かべた。

さて、スガワラ君。立ったはいいが、当てられた場所がわからない。うろうろ周りを見渡したり、照れて苦笑いしたり、横の男に小声で尋ねたり。

Hビンにとっては、小言の絶好のチャンスだ。

「スガワラ、何しとんねや?ちゃんと聞いとったんか?」
スガワラ君、平身低頭、ペコペコ頭を下げている。

「いつもいい加減なことばっかりやっとるから、お前はダメやねん。情けないヤッちゃのう」
スガワラ君、しきりに頭を掻く。

「ほら見てみぃ。そんな調子やから、社会の窓も開いとるやないか。だらしがない。しっかりせんかい」
スガワラ君、恐縮して股間のファスナーを引っ張りあげる。

そして、次の瞬間。顔を上げたスガワラ君が、ニヤッと笑った。



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一瞬凍りついたように静まり返る教室。立ち尽くしたまま、言葉も出ないHビン。

しばらくして、下を向いた生徒達の間から押し殺した声が少しずつ漏れてきた。その中で、勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべるスガワラ君。まるでスポットライトを浴びるスターのように、光り輝いていた。


2003年04月18日(金) 妄想だけでがまんしなさい

幸か不幸か、私は貴重な思春期を中学・高校一貫の男子校で過ごした。

一部の「不良」を除いて、ほとんどの生徒はあまり女性との縁はなかったようだ。

サッカー部のある先輩が高校卒業後に語ったところでは、彼が6年間で話をした女性は、母親以外には購買部で働いていたおばちゃんだけだったらしい。

このあまりに不自然な環境に憤慨し、私は中学2年生の時、男女共学化運動をはじめた。女性がいない環境は成長阻害要因だとかなんとか、ホームルームで盛んに論陣を張った。

しかし、ある時学校の帰りに、背後から追いかけてきた同級生の一人。

「風太郎、お前学校が気に入らんようやな。そんなに嫌なら、お前が出て行けばいいじゃないか。俺たちは満足しているんだから」

なるほど、理に適っていた。所詮自分で選んで入学した私立校だ。それきり私は一切口をつぐんで、男子校に甘んじた。

なんだかんだと言いながら、今振り返れば、男子ばかりの環境にもそれなりのよさがあった。

*    *    *

現代国語の教師Oは、生徒に人気があった。

ある日の授業中、悪ガキの一人がこっそり教室を抜け出して、パチンコに行こうとした。

そっとドアを開こうとしたその瞬間、O先生、朗読していた教科書から目も離さず、
「スガワラ!負けて帰って来るなよ。それから〜、タバコは校門の外で始末しとけ」

スガワラ君、恐縮して出て行ったが、5時間目には、景品を抱えて授業に復帰した。

*    *    *

さて、このO先生。ある時、授業中にこんなことを宣うた。

「君らな。学校に女の子がおらんで、残念や、物足らんと思うとるやろ」
みんな神妙に聞いている。

「ところがだ。これは文学にとっては、最高の環境なのだ」
はて?

「女の子がいない。女の子が欲しい。想像が湧き上がる。憧憬を抱く。妄想が生まれる」
そのとおり。だから不自然なんじゃないか。

「そういう心の葛藤こそ、素晴らしい文学を生む土壌なのだ」
こじつけじゃないの?

「君らも大人になったら、よ〜く分かる。現実の女は、そんなに憬れるものでも、特別なものでもない。実態を知れば、夢もヘッタクレもあったもんじゃない」
そんなもんかいな。まだよく分からんな。

「わしらくらいの年になるとね、君たちのように、何も知らなかった時代が、それはもう懐かしくて。うらやましいねえ、君たちが。夢があって。そこから文学が生まれる」
はあ〜?

「いいか、諸君。今この時期に、妄想をたぎらせよ。のたうちまわれ。肉体の苦しみに耐えよ。心の叫びをよく聞け。そして、素晴らしい文学を書いてくれ。君たちこそ、次の時代の文学を担っていくのだ!」
先生は?



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2003年04月17日(木) チャイ

以前このコラムで、カフェが大好きだと書いた。ところが、実はコーヒーはあまりたくさん飲めない。よく食う割には、胃がデリケートらしく、朝起きてすぐコーヒーを飲もうものなら、キリキリと痛んで、七転八倒する。

したがって、コーヒーを飲むのは午後。それも一日一杯だけ。

ということで朝はコーヒーではなく、紅茶を飲む。

こちらのほうがカフェインが多いはずなのだが、胃は何ともない。多分原因は酸なのだろう、りんごを食べても同じようになる。

この朝の紅茶。必ずミルクティーだ。好きな茶葉はもちろんアッサム、そしてセイロン。このブレンドがなんともおいしい。

ダージリンはミルクティーに向かない。だから私の趣味ではない。アメリカの大学にいる時、インド人のオフィスメートから、お土産だといって山ほどもらったが、あまりおいしいとは思わなかった。

濃い目にいれたアッサム・セイロンのブレンドにミルクをたっぷり入れ、そこに蜂蜜をスプーン一杯、というのがお気に入りの飲み方。

時間があるときはインド風のチャイにする。鍋でしばらく煮込んでから、少し多めのミルクを注ぎ、またゆっくりと煮込む。シナモンを加え、沸騰直前で下ろして濾す。砂糖ではなくやはり蜂蜜をたっぷり入れるのが、私の好み。

以前、多くのインド人エンジニア達と仕事をしている時は、しょっちゅうチャイを飲んでいた。特に、出張で一週間滞在したインドのシリコンバレー、バンガロール。そこで飲んだチャイのコクと甘さが忘れられない。

食後に欠かせないのが、



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絶品。さすが香辛料の国、インドだ。

何をもってチャイというのか?ミルクを入れて煮立てないとダメなのか、とインド人に聞いたことがある。彼曰く、何でもチャイなのだ。ミルクが入っていれば。だから、いわゆるミルクティーもチャイと呼んでいいらしい。ただ、一般的には、鍋で煮込んで、スパイスと甘味を加えたものをチャイと区別しているようだが。

まだ寝ぼけ眼の朝は、グラス一杯の水から始まる。そして、この甘い一杯のチャイをゆっくりと味わう。ガス欠状態の脳に一気に糖分が供給され、瞬く間にエンジンがかかる。

一杯のチャイから生まれる小さな幸せ。さあ、今日も暴れるぞ。


2003年04月15日(火) ユウトウセイビョウ


重症急性呼吸器症候群、通称サーズ(SARS)が、アジアをそして世界を震え上がらせている。幸い日本ではまだ発症例はないが、上陸も時間の問題だろう。

最近、新種の伝染病が増えているようだ。また、結核などのように、すでに撲滅に近い状態にあった病気も、元気に復活している。

実は、それほどメディアで騒がれてはいないが、もっと広く深く、以前から社会に蔓延している「病気」もある。

*    *    *

そんなひとつが、「ユウトウセイビョウ」。

必ずしも遺伝病ではないが、しばしば母子感染する。

知らず知らず感染している。いつから感染したのか分からないことが多いが、注意深く調べてみると、非常に幼い頃から始まっている。

大人のいうことをよく聞く、ませた子供は要注意。母親の喜ぶ顔、悲しむ顔に一喜一憂するようになると、相当進行している。

慢性状態では、先生の褒め言葉がないと禁断症状があらわれ、極度の不安に襲われる。

周りから


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という薬が大量投与され、最初は快感を与えるものの、段々、重荷という副作用が強くなり、最悪の場合、精神を病むこともある。

先生はじめ周りの人、特に母親を失望させることが一番痛みを伴う。

先生に当てられて答えられないと、胸に激痛が生じる。テストで零点でも取ろうものなら、屈辱のあまり死に到ることもある。

大人になると、病原が深く潜伏して症状が複雑になり、表面的には病気の存在が分からない。

本人は病気だと気付かないことが多く、原因不明の苦痛に苛まれる。治療が手遅れになるケースもある。

成人してからの感染はほとんどない。男女ともに感染する可能性があるが、患者は比較的女性に多い。

男性の場合、症例が比較的少ないのは、クラブやサークル、会社などの集団生活を通じて、抗体が形成されることが多いからかもしれない。

しかし、不幸にも免疫が出来ないまま成長して、社会不適応を起こしてしまい、幼少年期の思い出だけに生きている男もいる。

東アジアの儒教国家によく見かける病気。日本には特に多い。

最近は、環境の悪化とともに、ユウトウセイビョウの発生も減少しているという報告もあるようだが。


2003年04月10日(木) 武庫川の桜

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散り始めたものの
まだ美しさを失っていなかった

武庫川の両岸を飾る
何本もの桜

地元以外では知られていないが
老若男女に愛されている

昼下がり
82才のオフクロと75才の叔母を連れ
河原を歩いた
桜に負けじと
チューリップも春の色を競う

美しい桜の木の陰には
ホームレスのテントが増えていた
散歩のあとは、スタバでひと休み

「あの泡のついてるコーヒー
いっぺん飲んでみたかってん」

叔母は子供のように満足げだ


足腰が不自由なオフクロ

自分で歩いて桜見物する春は
あと何回あるだろう


2003年04月08日(火) 夙川の桜

(写真をクリックすると、大きくなります)



きょうの強風と雨で
満開の桜も半分近くが散ってしまった

日曜日快晴だったのは、何という幸運

数人の仲間と「戦場のピアニスト」を観たあと
25年ぶりに夙川を散歩した
なつかしい桜並木は
ちっとも変わっていなかった

夙川では、酔って騒ぐ人はいない

家族連れも、若者のグループも、恋人達も
しっくりと風景に溶けこんでいた

命が満ちあふれていたのは
桜だけではない

水も飛びはねていた

光もはじけていた
そんな美しい風景に
しっくりと溶けこんで‥‥いない

あやしい男、ふたり

はかない命の桜を見つめながら
いったい何を考える


2003年04月06日(日) 戦場のピアニスト

映画「戦場のピアニスト」を観た。

ナチス・ドイツ支配下のワルシャワ。両親、弟、ふたりの妹とともに暮らすユダヤ人ピアニスト、ウワディク・シュピルマン。ゲットーに強制移住させられ、家族はみな死の収容所に送られる。一人助かったウワディクは、隠れ家を転々として、生死をさまよいながら生き延びる。

「アンネの日記」、「シンドラーのリスト」をはじめ、ナチスによるユダヤ人弾圧を描いた映画は数多くあるが、この映画では、ポランスキー監督の実体験がふんだんに盛り込まれ、心を揺さぶるシーンが続く。

主役のピアニストを演じるのは、今年のアカデミー主演男優賞に輝いたエイドリアン・ブロディ。授賞式でのスピーチも感動的だったが、演技も素晴らしい。

そして、何よりも私の目を引いたのは、ひと目でユダヤ人と分かる特徴ある彼の顔つき。非常に懐かしい顔だった。

*    *    *

アメリカの大学院で研究している頃、まったく同じような顔をした友人がいた。世界を吸い込んでしまうほどの、大きな輝く目。異様に高い、鷲の嘴のような鼻。憎めない人柄を表す、極端に垂れ下がった眉。

背格好も、声の質も、話し方までそっくりだった。

「ド」がつくほど、まじめで真剣に生きている男だったが、冗談も理解し、まわりの人間への気配りも忘れない。

私と同じような領域の研究をしていた。我々のグループが気に入っていたのか、しょっちゅう顔を出しては議論をし、いっしょに食事や遊びに出かけたりもした。

ちょうど中東が騒がしい頃で、彼は民族の悲しい歴史を嘆いた。自分達がいかに不当に扱われ、侵略者から攻撃・弾圧されてきたか、熱をこめて訴えた。



留学生だった。

彼が、侵略・迫害者と呼ぶのは、


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*    *    *

同じ大学で物理を教えた教え子のひとりにも、レバノン人の学生がいた。名前は忘れたが、彼もまじめで優秀だった。

レバノンは、かつて中東のスイスと呼ばれ、繁栄を極めた。しかし、当時はイスラエルによる侵攻から数年、南部はまだ占領下にあり、長い戦火で国は荒廃・疲弊していた。彼の家族はまだレバノンに残っていた。

普段はおとなしい彼だが、こと話が中東問題になると毅然と決意を述べた。家族を守るためなら、すぐにでも帰国して戦いに参加すると。

*    *    *

しばらく前に一緒に仕事をした男に、レバノン系のアメリカ人ジャーナリストがいる。生まれ育ったのは、アラブ系が多いデトロイト周辺。

通訳として働く私より一回り若い「ボス」だったが、非常に気さくで、誰とでも同じ目線で話ができる男。仕事をしていて楽しかった。ふたりはまるで友達同士のように、一日中冗談ともつかぬ話を延々と続けた。

湾岸戦争のときは、中東からCNNのためにリポートしたこともあったらしいが、現在は、モータージャーナリストを経て、自動車会社の広報部門で働く。

彼からは非常に多くのことを習った。ジャーナリストとしての書き方や取材の仕方、仕事の進め方だけでなく、イベントに参加しているジャーナリストの裏話まで。また、女性陣にも男性同僚にも人気があった彼からは、人との付き合い方、愛嬌も学ばせてもらった。

知的で頭脳明晰、人にやさしい彼であったが、話が中東問題に及ぶと、他の中東系の知人達と同じく、パレスチナ人の悲劇、イスラエルの暴挙を熱をこめて語った。

*    *    *

ユダヤ人は、ホロコーストをはじめ、長い歴史の中でずっと迫害を受けてきた。悲劇の民だ。それは、間違いない。

しかし、ユダヤ人だけが常に犠牲者であったわけではない。昨日の犠牲者が明日の侵略者にならないという保証もない。

絶対的「悪」や絶対的「被害者」という構図で物事を理解しようとすると、しばしば判断を誤る。

中東では、複雑な歴史の中で悲劇が繰り返され、今も戦争が続く。

「戦場のピアニスト」を観ながら、60年前の悲劇に涙するとともに、現代の悲劇が、まったく逆転して投影されていると感じたのは、私ひとりだけだろうか。



2003年04月05日(土) 蛇口をひねらない日

先日、第3回世界水フォーラムが、京都、大阪、滋賀で開催された。それに合わせて京都のNGOが、水の大切さを訴える目的で「蛇口をひねらない日」を設ける計画をしていると、新聞が報道していた。

その日は、水道の蛇口をひねらずに、前日までに汲みおいた水を使うという。もちろん、洗濯も、風呂も、トイレも。

この記事を読んで、阪神大震災の時のことを思い出した。

地震が起こった当時アメリカにいた私は、被災地に住んでいる家族は幸い全員無事だったものの、居ても立ってもいられず、いそいで帰国。伊丹から神戸まで、想像を絶する被害の様子を自分の目に焼き付けながら、ボランティアなどをしていた。

生活インフラ機能が麻痺した被災地を歩いていて、一番困ったのはトイレと飲み水だった。

一日歩き回ったある夕方。懐かしいJR住吉駅の前に立った。駅舎は無残に倒壊していた。その前に一軒の喫茶店。中に人がいる。営業しているようだ。

冬の寒さの中、丸一日歩いて冷えた体を暖め、ついでにトイレにも行きたい。中に入って、コーヒーを頼んだ。

その店では、洗い物を出さないように、すべて紙コップを使っていた。水も、リクエストした人にしか出さない。もちろん、おしぼりもない。

さて、トイレを借りたのはいいが、水が出ない。どこを押しても引いても、何も出ない。困った。

うろうろ周りを見渡しても、分からない。仕方ない。それをそのままにしてトイレを出、マスターを探して、そっと尋ねる。すると、マスター、悪びれた様子もなく、

「あー、水道が復活していないのでね、これですよ」

そう言うと、



    ↑クリックするとメッセージが変わります(ランキング投票ボタン)みごとに流した。そして、こちらを見て、ニッとほほ笑む。

水も電気もないのに、いつもと変わりなく営業しているマスターの笑顔が、とても頼もしかった。


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