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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2011年11月29日(火)

何年ぶりか山田風太郎『人間臨終図鑑』を読んでいる。
死亡時の年齢別に和洋東西能吏凡民才子を問わず死にざまを列挙した本で、
読みながらなんともいえない気分になってくる。

文章はきわめて平易、引用は自由自在。短い文章の最後は必ず死で終わる。
家族に看取られての大往生、失意の死、病苦との凄絶な戦い、夭逝、暗殺、諦観。
「ああみんな人間は死ぬなあ」どんな死にざまも死は死にすぎず、死であり、
幕が下りたあとにはなにもない。その寂寥と孤独に私もいつかは向かい合う。

なんとも言えない思いはこれだ。

人間は社会的な動物だ。
死ぬのが嫌なのは一義にこの社会という船を降ろされる淋しさだ。
痛いのも嫌だが、なにより忘れられ野暮になり陳腐になり埃をかぶるのが嫌なのだ。
だからみんな明日へ行きたい、明日を生きたい。これが未練だ。

しかし時代はうつろう。社会は変わる。容赦なく誰もが先立って行く。
ある日もうたくさんだという気持ちになったら、俺はもう古くなるよと思ったら、
たぶんそれは死に時なのだろうし、そうしてちょうどよく死が来てくれるなら、
それは幸福な、あっさり淡白な、いい葬式だったと人のいうような死になる。

もっとも世の中はそうはうまくゆくまい。
そろそろ来てもいいと思っていざ来てみたらしんどかったり酷かったり、
長引く病苦に責め殺されるようなざまだったりしたりもするだろう。
あるいは「まだだろう」と思ううちに掻っ攫われたりもすることもあるだろう。
それだって死は死だろう。



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- 2011年11月28日(月)

パスワードをすっかり失念していて、こりゃもうこの日記使えないなーとか思っていたら、ありましたよ。ありました。うわー。古いパソコンのいちばん下のところに残ってた。というわけで書いてます。


……誰かまだ読んでるのかいな。


しかしここ最近、雑文を気軽に書けるとこがなくて寂しいなと思っていたのでよかった。またぼちぼち書きます。しかし10年前の文章とかマジ黒歴史!


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- 2011年11月27日(日)

基本的に他人のことは書かないあげつらわない褒めないというのが私のやりくちだが、あんまり自分のなかにたまりすぎたから書いておこうという気をおこした。まあこんな埃だらけの放置日記、誰も見てないだろうからいいのである。

ここ半年ばかり、ずっと遊んでもらっている方がある。
実際は一度中断しているのでもう1年くらい前からということになるのだろうか。
詳しい説明は避けるが、例のスタイリッシュアクションゲームのなりきりで、
じつはAとBという二組同時に遊んでもらっていた。

複数組で遊んでいる時にトラブルの元になりやすいのは温度差だ。
どちらかのPLがどちらかのPCに肩入れをしてそちらをメインにしたがり、
しかももう一人のPLが逆の方に肩入れをしているとなると、これはもう厄介である。
いわゆる二股状態なら絶交覚悟でどちらかにサヨナラするという荒療治もある。
でもこの場合は、遊んで欲しいのはどちらも同じPLで、断交は解決にならず、
気持ちよく遊んで欲しい。ただ遊んで欲しい内容が違う。そういう状況になる。
しいていうならラーメンが食べたい時に焼き魚ばかり出される感じだ。
相手にしてみれば、そんなに好きでもないラーメンがしょっちゅうテーブルに上っているという状態だろうことは想像にかたくない。

みなさんこんな場合どうしているんだろう。
私はどうしたか。ラーメンは好きだ。でも焼き魚も嫌いではない。
相手が焼き魚がそんなに好きなら、まあいいじゃないか。
というわけでラーメンを諦めた。そして今は焼き魚をつきつめている。
それでたいして後悔もしていないわけだが、ときどき思うこともある。

あれに悪いことをした。救いもなく、木の枯れるように枯らしてしまった。
生きたいと願っていたものに、明日へ行きたいと迷いながらも思っていたものに、
行き場もない暗がりしか、終わりない迷路しかやれなかった。
いつかあの男はなんらかの形でまた私を訪れることになるだろう。

私はよく知っているのだが、ひとは愛されるだけでは十分ではない。
自らの望む形で愛されなければ幸福にはなれないものだ。
たまたま私は諦めるということをよく知っているので、打算によって自分をだますこと次の機会があると説き伏せることをよく知っているので、そうできない相手に出会ったときには自分がそうしようと思う。だからときどきひとりきりで自分自身の亡霊と向き合わなければならないはめにもなるのだが。まあそれはそれだけのことだ。


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