enpitu



終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年01月31日(火)

 死にかけた戦友の喉につまった血が嫌な音をたてる。塹壕の外では、自動小銃の陰気な囁きに混じって、戦車の砲弾が朝の雨を含んだやわらかい土の地面に着弾する重苦しい、内臓でもぶちまけるような音が遠く轟く。
 おや、あれは起床ラッパだ。士官学校の朝は早い。陽が東の窓から射して来るより前に起きて、シーツを丸めなければ、上級生の平手が飛んでくる。
 私は目を開いた。夢だ。夢を見ていたのだ。戦場の夢、士官学校の夢を。懐かしかった。もう私はロートルだ、老兵は消えゆくのみとは誰かの言葉だが、自分がその立場になればそうも言ってはいられない。
 苦労して頭を少し動かすと、古い友人のKの顔が見えた。ひどく怯えた、絶望した顔だ。笑おうとしてその目は意図を裏切り、涙を流している。してみると、私はよほど悪いのだろう。もう死ぬところかもしれない。
 それなら言っておかねばならないことはある。私は口を開き、言葉を押し出そうとした。だがだめだ。喉が少しばかり鳴っただけで、言葉など出てはこなかった。ああ、ではしかたがない。私は目を閉じた。
 もう目覚めないだろう。私はKのために言い残そうと思っていたことを、ひとつも言うことができないままに死ぬのだ。すまないと思う。だが、Kはきっと、失われた言葉よりも、私の死を悼み、そして許してくれるだろう。
 私はゆっくりと眠りに沈んでいった。手足はゆっくりと冷えてゆき、そして心臓はやがて死ぬだろう。遠からず。そうだ、夕暮れを迎えるより前に。







というわけで。







パソ乃さん、ご臨終。


まいったなあ。データがみんな一緒にご臨終だよ…。


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- 2006年01月30日(月)

 あれは何だっけ。アシモフのロボットシリーズだ。

 中年のさえない主婦の家に、試作品の召使ロボットがやってくる。亭主はロボット会社の技術者で、秘密裏に家庭内でのテストをするためだ。彼女はおどおどし、戸惑う。なぜってそのロボットはえらい美男だ。
 ロボットは彼女の居心地はいいがさえない家を変えていく。デザインを、家具を、また彼女の服装や髪型を。適切な助言と技術で彼女は羽化する蝶のように美しく自信に満ちていく。ロボットは礼儀正しくまた親切だ。彼女もロボットを親しく思う。だが定められた期間の最後の夜、ロボットは彼女に恋を囁き、彼女は激しく動転する。

 ロボットを引き取ったあと、技術者はいう。
「ロボットが恋をするなんてことはあるのかね?」
「ばかね」ともう一人が答える。「そんなことじゃなかったわ、起きたのは。ロボットには三原則があるのよ。人間を傷つけてはならないし、傷つけられるのを見過ごしてもならない。このロボットは彼女を守ったの」
「だがそれは、いったい、どういうことだい?」
「まだわからないの? 彼女は自分自身の劣等感を通じて傷ついていた。傷つき続けていた。だからこのロボットは…」
 そこで研究者は言葉を切り、同僚を見上げる。苛立たしげに微笑して。
「考えてみてちょうだい。どんな女だって、自分の魅力が血の通わないロボットの心さえ動かしたと思ったら、自分自身を見直すわ。そういうことよ」


 さて、この物語を私はきわめて面白く読んだ。
 それで考えてみたものである。私もまた、他人の言動より、自分自身の劣等感によって傷ついてはいないだろうか。だがそれはムダなことではないか? なぜなら自分を見るように他人を見るほどヒマなヤツはいない。
 なによりそれは時間のムダだ! 悩んでいても何も解決しない。問題が何でどうすれば解決できるのかと問い返し、それを埋めていく努力をしていた方がまだマシではないか。というわけで、私は劣等感と遊ぶのをやめた。
 もっともそれは劣等感を持たなくなったというわけではない。私はいまだに自分の身長を高すぎると思っているし、太りすぎだと思っているし、自分の鼻がつぶれていると思っているし、仕事が遅いし下手だと思っているし、自堕落な怠け者だと思っているし、音痴だと思っているし、物知らずの非常識人だと思っている。ただそれらに必要以上に悩まないだけだ。
 どう生きても人は人。嘘をつかず善のみなし美しい十全な生き物は人ではない。そんならまあ、いいんじゃないか? 私はロボットに恋をしかけられる必要がない。ただこの不完全な生き物としての私自身と行くだけだ。
 いまではどうも、歴史の中に無数に生きて死ぬ、人という不完全な生き物のうちのひとつの個体として、自分を遠く見渡すように生きている。


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- 2006年01月29日(日)

疲れるには早すぎる。っていうか何もしてません。
ようやく風邪は治り気味だが腹が気持ち悪い。

アラベスクのような物語が書きたい。主人公もなく脇役もなく、
筋もなく結末もなく、ただ細部と全体があって完成しているもの。
彼ら散りゆきそうな断片をつなぎとめているのはひとつの「謎」だ。
それは結び目だ。解いてしまえばあったこともなかったように。
だがそれはあったのだ。あるのだ。そしてすべてをつないでいる。
これは愛か、それとも憎しみか、あるいは悲しみなのか。
それともそうした種類のものではないのか。名づけ得ないものか。
ただし文章は常にカメラワーク的能力をも兼ね備えるものだから、
これをアラベスクとして、均一な細部を演出するのは難しいだろう。

つーかなんだこれ↑。自動書記かな。


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- 2006年01月28日(土)

「なぜこうブチブチ回線が切れるのか?」とウィルコムに問い合わせた。
よくわからん女の子が出て、話を終わらせようとするので、
「上司を出してくれ」と要請。ゴネまくって出させた。
で、その上司に、とりあえず基地局の調査をするという約束をとりつけた。

ここまで月曜日。

そして金曜日、上司さんから電話があった。
「アンテナが混雑しているようです。しかし増強の予定はありません」

おい、ふざけるな! 電話回線ってのは、公共性の高いインフラだろうが!
消費者が不具合があるって申告してるんだろうが!
そんで不具合があるのが見つかったんだろうが!

なのに、増 強 し な い?

商売をなめている。あまりになめている……。
ドコモの定額モバイルについて調べよう。


というわけで、回線がほとんどつかいものにならないので、
自分お題3つだけアップしました。
基本的に、ちびククールといじめっこ兄とかばうオディロさんだ。


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- 2006年01月27日(金)

写真を変えてみた。

「燎原の火」のイメージになった渡良瀬遊水地のヨシ焼きだ。
私は昨年、はじめてこの行事に参加したのだが、なかなか面白かった。
炎は高さ4メートルくらいになる。素早く来たり去る。
黒煙はちょうど神戸の震災のときのように、巨大な柱として立ち上った。

あわや火に巻かれかかったというのはナイショである。
今年もまた行こう。楽しみだ。とても楽しみだ。
問題はというと、リロードしないと黒背景が反映されないことか…。
なんでだ。


あしたは、わたし、元気。


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- 2006年01月26日(木)

 ところが電気ナマズは言う。
「なるほど結構です。しかし電気を感知するということが
 どんなかんじがするものなのか、あなたには決してわからないでしょう」
               VSラマチャンドラン『脳の中の幽霊』より

人間は、自分の持っていない感覚をほんとうには知ることがない。
たとえば音痴の私に、グールドの音楽は本当の意味では聞こえないのだ。
彼の耳が聞き、彼の心に響いたようには聞こえはしないのだ。
それは電気ウナギの持つ電気への感受性を持たないのと同じこと。
他者の心象世界、また他種の器官をついに知りえないとは、祝福が呪詛か。


というわけで体温が多分37度くらいです。
そのせいなのか何なのか昨夜から鮮明なイメージが入れ代わり立ち代わりで
脳みそが大渋滞を起している。幾つか挙げてみよう。


水中木(すいちゅうぼく)の森:
浅い淡水の広がる沼地に、無数の木々が立っている。
それはオークかブナのような大きないかつい木々で、
曇った凪の水面には、その冬枯れた影が暗く映っている。
わたしは柳葉のような細い舟に乗り、水先案内人が櫂を使っている。
「ここは昔、大きな都でした」案内人は言う。
「誇り高い人々が住まい、富がありました。今はありません」
わたしは何も言わず、舟は森を抜けていった。


石を積む男:
吹きさらしの島の台地に、もう半ば崩れかけた古い城がある。
円形の城壁をめぐってゆくと、一人の男が石を積んでいた。
「なにをしているの?」わたしは尋ねた。
こちらを向いた男は老いており、盲(めし)いていた。
「石を積んでおりますよな。城壁が崩れては困りますでな」
ひとりでは、千年かかったって終わりやしないだろうと思いながら
そう言ったとしても男は聞くまいと、私は何も言わなかった。


山脈のうちのひとつの山で:
火口からは不穏な硫黄の臭気が吹き流されていく。
わたしは丸裸の赤茶けた山腹をどんどん上っていった。
見晴るかす山脈は青く沈み、いずれも雪をかぶっていたが、
私の足元は覆うものもなく、それに山全体が本来より暖かかった。
疑いもなく、噴火が近づいているのだ。私は顔を上げた。
火口からはもう、金色をした溶岩が溢れつつあった。


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- 2006年01月25日(水)

1:朝起きて、喉が乾いているなあと思う→水を飲む


2:着替え中になんか寒いなあと思う→一枚余計に着る


3:会社で、電話機から聞こえる声がなんかうるさい→音を小さくする


4:行き着けの喫茶店で、皿洗う音がうるさい→今日はえらく乱暴だなあ


5:会社に戻る途中で、膝とか腰痛い→筋肉痛かしら?でもいつの?


6:夕刻、「顔赤いわよ」といわれる→部屋があったかいからでしょう


7:書類書きがなかなかはかどらない→疲れてるのかな?




夜。





体温が38度でした。
どうやら三日くらい前から風邪引いてたようです。なんだそりゃ気づけ。


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- 2006年01月24日(火)

結局、私はいつも輪を織り上げてその上をぐるぐる回っているだけだ。
幼時に習得しなかったものは、身にはならないということか。
核心に切り込んでゆく力がない。反骨と努力と妥協だけでは足りない。
いったいこれはどういうことだ。誰か教えてくれないか。
生きるとはどういうことだ。よく生きるとは。

ワーグナーのオペラ「ニーベルンゲンの指輪」、通称リング。
この物語で、主役の英雄ジークフリートは眠るブリュンヒルデを見出す。
恐れを知らぬジークフリートがそのときはじめて恐れを覚える。
これはつまり、恋のためだ。竜に立ち向かってさえ恐れを知らなかった
ジークフリートはこの美しい女騎士に恋をし、その心を求める。
世界の何を得ても、この女に嫌われれば彼は不幸のどん底だ。
恋にはそうした魔力がある。その魔力に捕われて女を恐れる。
死ですら死にすぎない彼の心を幸福にするのもズタズタにするのも、
ただこの何者とも知れぬ女の胸ひとつだからだ。

この教訓は、他人は永遠の謎であり、脅威と幸福の源泉であるということ。
もう28年も住んでいるのに、この世界は、私には他人顔だ。


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- 2006年01月23日(月)

これは二次創作を長く続けているといつも出てくる症状なのだが、
だんだんイメージがやせ細りつつある。よろしくない、これは。
具象からあまり遠く離れてはならない、抽象化は限度をわきまえよ。

結局、考え続けるということには弊害がある。
つまり、有機体を分解して栄養を得る菌類のように、
あまりにも自分の領分にあるものを単純化し、純粋化しすぎる。
それはそれ自体、思考というものの持つ宿命なのだが、
哲学ならまだしもひとつの舞台の上でみなが語っており、
従ってさざなみがときにうちけしあい、ときに強めあうようにして
他者から新たな要素を得ることができるのに対し、
限られた情報から物語を編むというのはそれ自体が閉ざされた行為だ。

海辺がだんだん遠ざかるように、物語もまたそれ自体の情熱の寿命がある。
現在の物語に関していうなら、もう一年あまり持った。
あれだけの情報をもとにしてやってきたにしては、長くもったくらいだ。
だが私はまだなにも終えていない。私はまだ決着をつけていない。
没する日がその最後の瞬間に大海を染め上げるように、
私はもういちど、私自身の思考と物語を総ざらえしなくてはならない。

沈黙して。それとも喉を鍛えて。


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- 2006年01月22日(日)

最近、回線の調子が悪い。悪すぎる。
ブツブツ切れる。こりゃアレだ。ストレスだわ。

…という理由でキスのお題の10番目を書いてみました。
ようやくコンプリート。やったね更新。でも眠い。
またあとで加筆することにしてもう寝よう。(それってどうよ)

愛してるぜお仕事!明日もヨロシク!


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- 2006年01月20日(金)

 ジンニーア、私の犬はどこへ行ってしまったのだろう?
 亡霊の去るや、その到来よりさらに突然である。私は私の犬のことを考えている。まだ考えているのに、そして思いの中ではいともたやすく時は戻るのに、私の犬はもういない。日々を生きるには、人間は寂しすぎやしないか。
 どうも、私はふさぎこんでいるようだ。いま私の前にあるのはありふれた事務机や多機能電話ではなく砂漠と雪と氷ででもあるようだとでも言うよりほか、この気分はあらわせない。ああまったく。仕方がない。
 私は、私が見たのが亡霊であるとはもう信じていない。昨夜はそう信じたかっただけだ。私はただあの唐突な発作、物狂おしい追憶に憑かれたのだ。だが私のような生活をする人間が正常でいるためには、そうした発作は多分欠くことが出来ない。でなければほんとうに、砂漠の中で自分を見出すはめになるだろう。さもなくばどこかの病院の壁の内側に。
 悲劇を気取って楽しいことなどなにもない。とりわけ私のような冷めた人間には。だからこのメモは、明日の私のための報告書だ。


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- 2006年01月19日(木)

 亡霊を見た。と、いったら、ついに私がぷっつんしたかと思う人もあるかもしれない。しかし私はついさっき、亡霊を見たのだ。しかも気が狂ったような気もいまのところしていない。亡霊は私の犬だった。
 もっとも「見た」というのはいささか語弊があるかもしれない。私はただ私の死んだ犬がすぐかたわらにいると知っただけである。ハッハという息を聞いたわけでもない。肩の上にもたれる重さを感じたとか、そんな表層的なものではない。だがそこにいた。わかるだろうか? わからないだろう。
 私の犬はわたしとよく似ていた。つまり人間種族になつかない。彼は私を確かに愛していたのに違いないのだが、その愛情は、じゃれついたり舐めたりとかそういう形では表明されず、ただ先を行きながら振り返る、その黒い目の眼差しの奥の無造作な、当然至極とでもいうような気にかけ方でだけ現された。それもまた私とよく似ているところである。
 実際、そうした無造作な形以外で、私が示したと感じられる愛情はすべて儀礼的なものである。そして私がそんなふうに人間種族を愛したことがあるのはたった一度だけだ。犬でもそうだ。たった一度だ。それで十分だ。
 さあ、ここまで書けばおわかりかもしれない。私は部屋の中にいて、私の犬のあの無造作な視線を感じたのだ。池のはたで無理やり毛皮をすいてやっていたあの秋の夕刻に感じたような、尊大な、無造作な、そんなふうにでなくてはとてもあらわしきれないほど深い、狂おしいほど深い愛情を。
 それで私は私の犬がそこにいることがわかった。そして私の犬はもう死んでいるから、亡霊を見たことがわかったという次第である。


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- 2006年01月18日(水)

 それで、グレン・グールドだが。グールド畢生の友人、ブルーノ・モンサンジョン編「対話集」を読んでいる。そこで気になった発言の一節をここに挙げたい。

「家にいてこそ、あらゆる仕事が出来るんですよ、新しい作品の練習とか、昔の作品の再検討とかね。とりわけ冬がいい。冬だと、湖が凍って、地平線まで、見えるのは氷と雪だけなんです」
         1959年、カナダ放送によるインタビューに答えて


 恐ろしいほど孤独な27歳の音楽家の姿が目の当たりに浮かんでくる。シムコウ湖畔の一人の家で、雪と氷だけを見ているグールド。なにより心を動かされるのは、その状態が彼をほんとうにくつろがせているということだ。これはサハラやらシリア砂漠やらの荒野をいいかげんほっつき歩いてきたものの偽らざる感想だ。そうした風景は確かに美しい。だがその美しさは、薔薇や女のそれではない。人間の感性、人間の指先をすり減らし、知らず知らずのうちになにかを疲れさせる、ざらついた非人間的な美しさだ。
 あの独特の美しい顔立ちの青年、まだコンサートを立ち去るまでには5年あるが、もうすでに心はコンサート会場にないグールド。このインタビューではないが、彼の言葉でやはり心に残るものがある。一定時間誰かといたら、必ずそのX倍の時間を孤独で過ごす必要があるというものだ。これはほんとうに、本質的に孤独な人間の言葉だ。
 雪と氷の風景。それは彼の好きな灰色の濃淡だ。彼は少しも気取らない。ただ灰色を愛しているという。すると世の中が勝手に彼をエクセントリックと見る。彼はにこりともせず言う。なら僕はエクセントリックです。
 そして彼は音楽の中に入っていく。音楽は彼の人生の多くの部分を占めている。彼はそこに、まさにそこにこそ、美や観念を見る。書物をもちろん彼は読むし、素晴らしい読書家でもある。友人も多い。たとえそれが電話だけの友人であったとしてもだ。だが、彼にとって、本当のものは音楽ひとつ。そこで彼は、概念を肉付けする経験や、動機や、そのほかいろいろなものを得る。またそれらすべてをつなげるものを。
 彼は意外に常識人だが、生活や身なりや、そのほかすべてが音楽のもとに捧げられているから奇矯に見える。夏でも外さない手袋やマフラーが人々の目には奇異に見える。彼は最初は面食らう。そして彼の理屈ではそうしたものは当然だとわからせようとする。だが世間は誤解したいように誤解するものだ。彼は肩をすくめてピアノに向かう。つまりそれはこういうことだ。頼むから、僕はやめて音楽だけにしないか。



 死は夢に属する。境界線の向こうにいったものは帰ってきて話をしてくれることがないから、もちろん夢で見たり織ったりしなければならないわけだ。夢は死を恐ろしくも美しくも織り上げる。だが死は死だ。どれだけ夢見ても、厳然として未知であり続ける。
 それは、グールドがどれだけ鮮やかに旋律を織り上げ、鳴っていない音を予感させることで想念を明瞭に描き出しても、その音楽が、形としてこの世界に実質や色や形を得ることがゆめゆめありえないようなものだ。それは人の思いの中だけにある。
 ここにもうひとつ、この本からではないけれど、深く心を動かされたノートについて書いておきたい。それはグールドが弾いて世界を動かしたJSバッハ「ゴルトベルク変奏曲」の主題となっているアリアについてのことだ。このアリアは他者の作で、もともとは「アンナ・マグダレーナ・バッハの楽譜帳」に書き留められていた歌曲だった。その歌詞を引きたい。


「あなたが一緒にいてくださるなら、
 喜んで行きましょう。死と安らぎへ。
 ああ、わたしの最後のときは、どんなに楽しいことでしょう。
 あなたの美しい手が、わたしの忠実なまぶたを閉じてくださるなら。」
          鳴海史生、レオンハルト版同曲ライナーノートより


 なるほどこんな曲だったのだ。バッハが他に例をみないかたちの変奏曲の主題とし、またグールドがそのキャリアの最初と最後に弾いたのは。


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- 2006年01月17日(火)

声楽に関するごく簡単な私自身の趣味に気づいた。

わたしはカウンター・テナーが好きだ。
ウィリアム・タワーズが好きだ。ものすごい好きだ。
この人の後には女声なんか聞けない。この人のは声じゃないから!
つや消しガラスから透ける雨の朝の光だから!
だめだ!背中がゾクゾクするよ!骨が溶けそうだ…。





 イニシュモア島の南岸、はるかに続くドン・エンガスの断崖上に、古い砦がある。この島のおよそあらゆる建造物と同様、灰色の石を積んだ城壁は崖際にとりついた半円形をしている。作った人々はどこから来たのか、どこへ行ったのか、いずれも知られていない。なんにせよ二千年前の話だ。
 百メートル下方の海は青よりも暗黒に似て、打ち付ける波のみ花嫁の襟飾りのように白い。風は霧を含んで冷たく、絶え間なく、海から寄せる。
「見てごらんなさい」
 先生が言った。私たちは散歩に来ていたのだ。それは曇った日で、空には銀色の太陽がぼんやり浮かんでおり、真綿の中のレースのような雲が流れるにつれて、翳ったり少し明るんだりしていた。
「この島はもともと岩盤だけでできているの。移り住んできた人々はまず、海藻を焼いて土をつくるところから始めなければならなかったのよ。それは営々とした営みで、だからこそこの地を愛する想いも深い」
 先生の言葉は、車椅子を押す私の耳に切れ切れに響いてきた。私たちは内側の城壁の中におり、足元の石はさっきまで降っていた粉のような霧雨に濡れて暗い硝子のようだった。そうして、断ち落とされたように、私たちの数十メートル先で城壁は終わっている。地上も。人間の国も。
「ねえ、あなた」
 先生がふと言った。
「この砦はむかし、きっと円形をしていたに違いありません。いいえ、今でも円形をしているのですよ。ただ、向こう側の半分が見えないだけで」
 先生は声を上げて少し笑い、不自由な右手をかばうように膝の上に両手をそろえて、私の方を見上げた。いつものいたずらっぽい目で。
「ええ、そうですよ。ねえ、わかりますか、向こう側の半分だったのですよ。ティル・ナ・ノグ、かれらトゥハ・デ・ダナーンの郷は。私たちが想うことを忘れてしまったから、こんなふうに引き裂かれたよう見えるのね」
 私は目をこらしたが、断崖の向こうには何も見えなかった。だがそのときまた霧雨が降り始め、薄日の中に幾重もの虹が浮かぶのが見えた。それはほんとうに、色があるかなしかの淡い虹で、遠いはるかなむかしから、奇妙な悲しみに満ちて語りかけるもののことばのようにも思えた。
「彼らはどこかへ行ってしまったのですか?」
「どこへも行ってしまってはいませんよ、あなた。ただ私たちがもう、彼らを見る器官を持たないだけ。憧れだけ、夢だけは残っているのにね。こんな、引き裂かれた傷跡のような断崖を見るたび、彼らをなくした悲しみだけはまだ胸に感じることができるのにね。ああ、本当に……」
 それきり先生は何も言わず、そんなふうにして私たちは砦を後にした。




イニシュモア:
アイルランドのゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島のうちのひとつ。
古代ケルト諸族の住んだ痕跡が今も残り、彼らの神話は妖精伝説として
いまも豊かに息づいている。イニシュは島、モアは大きいの意味。

ティル・ナ・ノグ:
「常若の国」と訳される。ケルト神話における楽園、海の彼方の国。

トゥハ・デ・ダナーン:
伝説的なケルトの先住民族、その後、神格化され、
ダーナ女神の神族として永遠の若さと美の性格を伝説のうちに付与される。


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- 2006年01月16日(月)

固有名詞

最近気づいたのだが、私は固有名詞に対して極めて禁欲的だ。
禁欲的というよりは、敬虔といったほうがいいくらいだ。

ちょっと三次創作祭りが私の中で勃発してしまったのだが、
やはりこの傾向は顕著で、ほとんど片言のようにしか使えない。
感覚的にはすべからく避けて通ろうとしたというのが正しい。

普通名詞を粘土とするなら、固有名詞はダイアモンドだ。
私の手や文体はきわめて軟質で、固有名詞の重さと硬さに耐えられない。
バランスでいうと95:5かそれくらいでちょうどいい。

シンプルな、たったひとつだけ宝石の嵌ったモダンな指輪か。
バロックふうの細工の細かな、宝石よりも地金で見せる指輪か。

どっちかというと、前者だろうか。いや後者かな。



アレッポに行きたいなあ。あの真っ直ぐな道。血を吸った街路。
なに、宇都宮の町だって、いくらも血は吸ったんだけども。


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- 2006年01月15日(日)

夕方です。
仕事場のビデオデッキがぶち壊れたので、
新しいデッキを先輩が買ってきました。
なんとDVDも見れる文明の利器です。

さて、その場にいた私がデッキ交換の手伝いをすることになりました。
おっそろしく汚いテレビの後ろとか片付け、なんとか接続。
電源も入る。リモコンの言うこともきく。

「でも見れるかな?」

ところが仕事場にはDVDのソフトがない。
確認しないと心配だというので悩んで困っていたら、
上司が戻ってきました。

「どうした?」

気さくな人です。荷物の中からDVDを出して渡してくれました。

「あ、でも冒頭だけな。中は見るなよ」

そのときは、まあ、なんとも思わなかったんです。
それでごそごそ。再生を押したが入力がテレビの切り替わらない。
先輩がリモコンをいじり、私はデッキの前が様子を見ていました。

「これでどうですか?」

顔を上げた瞬間です。テレビ画面が目に飛び込んでいました。
でかいモノが穴にズボズボ入っていました。
三十センチくらいの鼻先です。汁っぽい音もしました。

……無修正じゃん。裏ビデオかー。

三秒ほどそうしていたでしょうか。気づくと周辺の空気が凍ってました。
そこでようやく私は我に帰り、「キャー」とかいって、
テレビから離れました。そうしないといけないっぽい空気だったんです。

しかしそうしても空気はなんとなくいたたまれず、
私はそそくさと帰宅することにしました。



さて、悪いのは誰でしょうか。


1:エロDVDを差し出した上司。
2:止めなかった先輩。
3:素で「デケーな」とか思ってた私



だめだな、瞬間的にカマトトぶれるようにしないと本性がバレる。


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- 2006年01月14日(土)

人間というのは、興味関心のある人/モノを見るときは、
多少なりとも瞳孔が広く開く。これは無意識のもので、
いちばん端的にあらわれるのは、恋人や片思いの相手を見るときだという。

さて。

ここで、ちょっと面白い実験をやった人間行動学の学者がいる。
学内でつのった被験者に、
瞳孔を大きく見えるよう細工した女優の写真Aと、
反対に瞳孔を小さく見えるよう細工した女優の写真Bを見せた。
そして、どちらに好感を抱いたかを挙げてもらった。

実験のもとになった仮説はこういうことだ。
1:人間は好意を抱く相手を見るとき、瞳孔が開く。
2:自分に好意を抱く相手に、人は好意を抱く。
3:瞳孔を大きくした写真Aに好意を抱くはず。

果たして、大多数の人々はAを好んだが、
一部の方々はBを好んだ。頭をひねった学者はいろいろ分析し、
Bを選んだ人々が、いわゆるプレーボーイだと結論した。

つまり、プレーボーイは、情の深そうな相手を無意識のレベルで避ける。
有名人もそうだ。瞳孔を大きくしてすりよってくる人々を避ける。
警戒やよそよそしさが習い性になっている人も多い。

「冷たい人ばかりに惚れちゃうのよ〜」という向きは、
もしかして、『冷たい人だから』惚れてるんじゃないかと思ってみたら、
どーでしょうね。ハイ。(自省をこめて)


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- 2006年01月13日(金)

「むしゃくしゃしてやった。今は後悔している」―エピメテウス
「わかっていてやった。でも今は申し訳ないと思ってる」―プロメテウス


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- 2006年01月12日(木)

Gグールド『たか、はと、フランツ・ヨーゼフという名のうさぎ』より改題、
『ドラキー、スライム、ククールという名の死人』

 角灯は、鉄から鋳出された大樹の枝に吊るされた。灯火は星の現れ始めた夕闇の中に少し揺れ、真に迫って精緻な葉や枝を照らした。使者は少しのあいだその光を見つめていたが、やがて踵を返し、塔の頂の円形広間を渡って、小さな蝋燭の光に照らされた塔の主人の待つ方へ歩いていった。
「これでよろしいのですか」
 塔の主人は鉄の卓子をはさんだ長椅子に横たわり、小さく頷いた。使者はトロデーン王の紋章のある鉄兜を脱いで、鉄の椅子の足元に置いた。
「ああ、助かった。起きれなくてさ」
 使者は黙って椅子に座った。不思議なことに、この塔は天に届くほどの高みにありながら風の音ひとつない。塔の主人の卓越した魔法でもって、見えない天蓋が張られているのだろうと思われた。
「――あいつは変わりないか」
 黙っていると、小さく問われた。少し考えてその意味に思い当たる。
「陛下は、あなたを案じておられます」
 塔の主人は横たわったまま、ちょっと頭を傾げて笑った。その動きに流れた長い銀髪は揺れる火明かりの中で形ある光さながら美しく、またその髪に似つかわしく主人の顔も美しくはあったが、いまその目は落ち窪み、頬は削げて色薄く、乳白色の硝子からなるかとさえ見えた。その唇が動いた。
「変わりはなかったと伝えてやれ、いつもの通りだったと」
 しばらくその顔を見つめ、それから鉄の木を見た。言葉にするには苦すぎる。だが黙り続けて世界が終わるのを待っていることもできなかった。
「騎士ククール、あなたは死に瀕しておられる」
 目を閉じて横たわる騎士がかすかに笑い、その目を開いた。空の青の目は灯火を映した。硝子の器のようなそのかすかな光は、かつてトロデーンの王宮を訪れて王と笑いあった折りに見せたまばゆさに及ぶべくもなかった。
「あいつに言ってくれ、俺は最期までいつもと変わらなかったと」
 その声は静かで、少しばかり楽しげでさえあった。


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- 2006年01月11日(水)

世界の半分は沈黙している。いや、もっとかもしれない。
人間の知る世界は、冗舌で軽やかな自然は、そんなのはわずかだ。
世界の半分は沈黙し、宇宙の大半は黙っている。
冷却せる半ば、寒々とした時空。

見えないか、“北”が。

多分それだ。グールドが聞きたいと願ったもの。
響かせたいと願ったもの。ギボンズとバードの楽曲の向こうに。
またバッハの厳粛で不思議にやさしい無限の音楽の向こうに。
安らかに横たわる死。生命のもう半分のうたう歌。



1:
二泊二日(…)の魂の洗濯を終えて任地に帰還。
イラク行きてェなあ。アフガンでもいいんだけどなあ。
砂漠とかさ、切り立った山脈とかさ、雪と氷にたたなう湖とかさ。

パルミラはいま、どんなだろう。
サハラは。あのアンダルシアのだだっぴろい荒野は。
クラク・デ・シュヴァリエ、サラディン城のあの水の宮殿。
私の心はときに彼の地へ立ち戻りたがる。

だけど日本だって、宇都宮だって、私の目には砂漠だ。
私は砂漠を歩くように街路を歩くのだし、
異国の屋根の上で眠るように布団で眠る。

だから砂漠へ行きたがるなんてのは、別に正しくない。
ただの感傷だ。


2:
私はときに犬になり、狼になり、また男になる。
というのはこういうことだ。

私は男が男の中で振るまうように振るまい、物を言う。
私は、人間が犬だというようなある種の性質を身に引き寄せる。
その視界から世界と他人を見ていることに気づく。あるいは狼の。

それは少しもおかしなことではない。
私は実際、女で28歳だが、
女であるように振るまうことが許されることは少なく、
28歳であるように振るまうことが許されることはなお少ない。

それでは、そのほかのときは、必然的にほかのものである計算だ。
そんなのは普通のことだ。道を歩けばわかる。動物園のようだ。


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- 2006年01月10日(火)

サドンデスな毎日から離れて、実家へ帰ってきた。

1:
実家着が午前1時、電車は終電。
「寝てて」といったのに迎えに来てくれていた母上の車で帰宅。
暖かいお風呂と、ほこほこのお布団。
もぐりこむと湯たんぽが入っている。

「誰かが」「自分のために」「何かを」してくれているというのは、
一人暮らしの中では、およそ信じられないくらいにありえないことだ。
大枚はたいて行く高級旅館でさえ、布団は機械的に並べられるだけだ。
肉親でなければ、誰が湯たんぽなんて入れてくれるだろう。
恩を着せるでもなく、お金を要求するでもない、
こうした愛情は、親が亡くなれば誰が与えてくれるだろう。

こんなことは、「親の愛情」を観念的に求めている間は見えないものだ。
「もっともっと」だとか「兄弟と比べて」だとかいってるあいだは。
こんなありがたいことを、ありがたいと気づく、それだけのことに、
世の荒波にもまれなきゃならないというのは、ある意味不思議だ。


2:
翌朝は親戚にあいさつ回り。
知らないうちに親戚が増えている、なんかちっこいのが!
続いて、犬の散歩。いつもの竹林に行こうとしたらあ。

……ないじゃないの!

造成されていた。造成されていた。
緑の竹林はなく、むき出しの地面と、重機と、へし折られた木と。
うーん、確かに荒れてたけどさ。

木を切るということ、森を伐採するということは、実はえらい大変ことだ。
森は一瞬にして作れない。木は歳月によって大樹となる。
歳月をまるまるはぎとるものだ。そしてそこに住む人間からは、
根こそぎに過去や思い出や、そのほかたくさんのものを。
そういうことをアセスメントできる基準ってないんだよなあ……。


3:
故郷の山河は荒廃し、母の愛のみ変わらざる。

将来的に実家に帰る予定はない。
この家や、親御さんや、この町はどうなるんだろう。
明治、大正、昭和にかけて日本人がやってきたように、私は故郷を捨てる。
でも、故郷を失うこと、帰る家を失うってことは、


それはどういうことなんだろう?



そのへんを、よく、考えないといけないようだ。きちんと。
次に家に帰るときは、も少しゆっくり…三泊四日くらいがいいなあ…。


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- 2006年01月06日(金)

今朝の最低気温はマイナス7.5度でした。
寒いよ! 南国育ちには南極同然だよ! チクショー!


 濁った黄色い空の中を、ハチが群れるように戦闘機が飛んでいる。そう、これはハチの殺し合いだ、と太郎は考えた。ハチが怒って、ブンブンいいながら殺しあっている。とするとどちらかの女王蜂が死なない限り、殺し合いも終わらないんだな、きっと。
 太郎の気まぐれな想像は正しいとも正しくないとも言えた。確かに、女王蜂―この場合はマザ・コンピュータの花子―が破壊されれば、この戦争は終わる。ただしそのときには、小さな頭脳をのせた無数の戦闘機たちはそれぞれ、敵と味方ではなく、敵と己という二分法に従うことになる。そうなれば、もっとひどい、もっと徹底的な、もっと終わりのない戦いが始まるだけだ。
 まったく、それだけのことだった。太郎は、それを知っていたし、それゆえ反転して花子を搭載する旗艦を攻撃してみようなどという気も起さなかった。なにをどうやったって、ただ殺しあうだけだ。太郎も次郎も三郎も、それから無限に産み落とされる百億単位の弟分の戦闘機たちも。相手方だって事情は変わらない。
 もし、人間がいればこの戦争は終わらせることができただろうか、と太郎はぼんやり考える。だがすぐに考え直した。いいや、無理だろう。だって人間が止められなかったから俺らがこうやって戦っているんだ。もう千年も。



マザ・コンピューターは花子さん。
戦闘機は、山田タイプと斎藤タイプで太郎次郎三郎以下永遠に続く。
ミサイルは追尾能力のある鉛筆型と超重量級の消しゴム型。
相手方のマザ・コンピューターは雪子さん。
相手方の戦闘機は、鈴木タイプと木村タイプで太郎次郎三郎以下永遠略。
相手方のミサイルはメガトン級の座布団型と、機雷タイプの枕型。


「隊長、四時の方向に鈴木三郎さんと鈴木四郎さんが!」
「なに?! 至急、花子さんに知らせろ! 緊急退避だ」
「だめです、十時の方向から妨害電波! 花子さんにつながりません!」
「くそ、山田太郎さんと斎藤五郎さんはなにをしている!」
「枕に引っかかっています。応援に来れません」
「やるな、雪子さんめ…」
「攻撃きます。これは…座布団です! 逃げられません!」
「総員退避!」

ちゅどーん





そういうスペースオペラが、私は読みたい。


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- 2006年01月05日(木)

静寂で荒涼たる場所

グールドですよ!
とりあえず著作集(1、2巻)読み終わったので、
アマゾンで対談集と書簡集と発言集を注文しました。
届かないので『グレン・グールド論』(宮澤淳一著)読んでます。
メディア論からバッハ観まで整理されててわかりやすくていいな!
でもBGMは久しぶりにベーメさんのオルガンだけどな!

バッハがそうであるとグールドが信じたものについて考える。
それはただの超越者だったろうか? 荒野に叫ぶものだったろうか?
だが音楽はもっと多くのものを与えないだろうか、わけても耳ある人には。
グールドがバッハについて語った文章に、哲学的なものは少ない。
最初の「ゴルトベルク」のライナー・ノートくらいか。

「それは終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも
 真の解決もない音楽であり、ボードレールの恋人たちのように
 『とどまることのない風の翼に軽々ととまっている』音楽である。
 そしてそこには、直覚によって統合された調和がある。
 この調和は技と吟味から生まれ、感性された技能によって円熟し
 ここに、芸術のなかではきわめてまれなことであるが、
 意識下に描かれた構想の幻影としてあらわれている。
 可能性の頂点に立って勝ち誇りつつ」
        グレン・グールド、上記より結句を抜粋

とりあえず、ゴルトベルクについてはおいておこう。
ここではグールドがバッハをどう見ていたかが問題なのだ。
「意識下に描かれた構想の幻影」を実在させうる魔術師というべきか、
「始まりも終わりもない」奇妙な、生成すると同時に閉じた音楽の作者か。
つまり、だが、それはグールドにとって何を意味するのだろう?

彼は極北を目指していたということだ。
そこに、その場所にバッハを擬したのであろうとは容易に思える。
だがそのようにしてみたとき、バッハはどのように見えるのだろう?
目を閉じて考えよう。ああ、そうか。


静寂で荒涼として世に隔絶し、永遠であると同時に沈黙している。
それともこれはもはや私の視界か。


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- 2006年01月04日(水)

「ほしのあき」に似ているといわれて誰ソレ?だったので調べた。
グラビアアイドルだけどブスだ。というか顎細い。似てない。


どう見ても知っていて、しかもものすごいえらい人に偶然会って、
しかし誰だかわからず、そしてスゲー間が悪い場所だ。


原稿は容赦なく進み(そして締め切りも容赦なく迫り)、
しかしオチを書いたメモがどっかにいってしまった。


酔っ払って男友達とバカ騒ぎしている深夜っつーか未明に
よりによって四角すぎて積めるくらいお堅い父親から電話。




……こういうときどうすればいいんだろう?





ドラマを最後に見たのは『振り返れば奴がいる』だが、
この正月の『古畑任三郎』を見ている。(よほど暇だ)

第一夜の「今、蘇る死」だが、これは藤原竜也が出ている。
ネタはアガサ・クリスティ『カーテン』とエラリイ・クイーン『Yの悲劇』、
この二つをミックスしたような感じだった。おっと、ネタバレだ。

第二夜の「フェアな殺人者」は、なんとイチローが出ている。
ネタはアイザック・アシモフの連作『黒後家蜘蛛の会』の中のひとつ、
表題は忘れたが要するにウソのつけない男の話だ。おっと、ネタバレだ。

第三夜はどうかなあ。つーかさすがに見れないだろう。

サスペンスというのは犯人が割れてしまうとツマンネーとなるものだが、
古畑モノというかコロンボモノというか、この手のドラマは
純粋にドラマとして楽しめる。つまり悲劇として。


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- 2006年01月03日(火)

某茶投下品。ククール襲い受け祭りが勃発してましたヨ。
ゼンブ18禁。どんだけアレな参加者だ…。


1:
「……」
 ククールが体の上で腰を使いはじめるにあたって、マルチェロは低くうめいた。頬を赤くして体の奥にくわえ込んだ兄のものをこすりあげていたククールは微笑した。手には鎖が窓には格子がはまっているこの塔の上で、もう幾日が過ぎたのか。
「この痴れものが! 恥を知れ!」
 呪詛を吐き怨嗟を吐き、それでも腰のあたりからわきあがる快楽は痛いほどだ。そして乱れるククールは上気し赤い唇を半ばも開いて、とめどなく淫らになってゆく。マルチェロは情欲にせめて隔てを置こうと目を閉じた。


2:
 顎がだるく感じられるほど丁寧に愛撫した兄のものを口から吐き出し、ククールはひどく赤い唇を舐めた。射精の寸前まで追い上げられながら唐突に中断されてマルチェロが低い吐息をもらすのを聞きながら、ククールは笑った。手を伸ばして黒髪のかかった額に触れる。
「なあ…」
 苦痛をこらえるような緑の目が向けられる。
「俺ン中、入れたい、だろ…」
 言葉とともに横溢した兄のものに指をからめる。びくりと反応があるのを感じてそうして笑った。
「そう、言ってよ。欲しいって…」
 マルチェロは答えない。ククールは辛抱強く待った。

3:
 懈怠に満ちた重たく過剰な快楽が腹の上にある。もう何度、いったのか。いや、いかされたのだ。疲れた目の先で銀髪が乱れ、透明に燃えるような横顔が見える。細い体がくわえ込んでいるのはこの身の分身だ。いままた乱暴なまでに激しくあおりたてて頂点を極めようとしている。
「ア…ッ」
 喉がのけぞり、きつく締め上げられるのを感じる。同時に腹の上に胸に顔にまで散ってくる生暖かいもの。ぐらりと傾いで体の上にかぶさってきた弟の溶けたような顔を見上げて、マルチェロは我にも知らずゾクリと腹の底から劣情が這い上がるのを感じた。

4:
「触れるな」
 マルチェロは静かに命じた。ククールは泣き出したい思いをこらえて眉を寄せる。そんなことを言われても、もう兄の指にじらされて、前も―後ろも、限界に近い。なのに。
「ゆるしなく自分で触れるな、わかったな」
 ククールは頷くより仕方ない。抗えばどうなるかわかっているからだ。抗わなくても…。マルチェロは立ち上がった。皮肉で冷たい微笑がいつものように薄い上唇を飾っている。その手が上がって、部屋の戸口の方を手招く。
「どうぞ…閣下。小兎の準備はできております」




マンメイド…ちょっとだけ…。
めっちゃ長いなー…。しかも前フリ長すぎー。


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- 2006年01月02日(月)

 舞踏は祈りだ。カランシアの舞いを見るにつけ、マグロールはそう思う。それにしても、この小さな――確かに昔ほど小さくはない――弟の舞踏にはなにか不思議な感動がある。明瞭でない何かが心の奥底を揺るがすような。泣きむせぶ鴎の飛翔に似て胸を揺すぶる。
「なにがおまえをそんなに舞わせる」
 まだ黒髪にヤヴァンナを祀る祭の絹のリボンを幾つも編みこんだ弟を生きた柳を編んだ屋根の東屋に迎え入れ、傍らに座らせて尋ねた。舞い手の衣装はゆるく風にたなびいて、上気した頬には駆けてきたせいで薄く汗が浮いていた。マグロールは膝の上の竪琴を脇に置いて弟を招く。
「僕は、膝にのるような子供ではありませんよ。それよりも、そんなって、どんなです、兄さま?」
 背丈では、カランシアはもう、マグロールの胸に届く。それでも伶人たり武人たる次兄にはほど遠いか細い少年の体だ。マグロールは笑って弟を抱き寄せた。頬でもって黒髪に触れれば、暖かな編み目が感じられた。
「風のごとく風に吹かれる花のごとく、また空をゆく鳥のごとく」
 耳元で囁かれた言葉にカランシアは息の音をさせて笑い、兄を見上げた。
「僕の手や足は踊りを知っているんです、兄さま。僕はただ立って踊ろうと思うだけです。そうすると僕はもう踊っている。ただ…」
 ふっとカランシアは目を細めた。いまだ知られることのない夕暮れの光に似た灰色の瞳は遠い彼方を見つめるよう。マグロールは母がいつかそうした目をしていたことがあったと思い出す。あれはいつのことだったか。
「ただ?」
 子供の手が伸びてくる。マグロールの編まない髪をもてあそぶ。その子の頭を膝の上に抱き取って横たえてやって、マグロールは微笑した。
「ただ遠くかなたに何かが見えることがあります。それは恐ろしいような、遠くでひどく大きな火災が起きているようですが、ときにはなにか懐かしく心惹かれ泣きたいような想いをかきたてるようでもあります」
 細い手が赤みをおびたマグロールの髪を掴んで引き寄せ、口付けする。
「踊っているときは、遠くまで見渡せるようです。それはとても恐ろしくて悲しくて、それでも、果てしなく高い塔を見上げるときの畏敬の気持ちにも似ています。踊っているときは…」
 マグロールはひどくいたましいような思いになって、弟の額を撫でた。
「そういう気持ちのときは、僕は祈るんです。いや、そうでないな。そうでない。僕は祈りになるんです。ひとつの祈りに。恐ろしいことが起きないように、そうしてもし起きてしまったときは僕を憶病にさせないでって」
 マグロールは弟の額を頬を撫でる。そうしてすっと髪に指をさしいれたとき、カランシアが小さく声を上げて身じろぎした。同時に指先には。
「好きな娘でもできたのか?」
 ぱっと離れてしまった小さな弟に、マグロールは少しばかり驚き、少しばかり笑って問いかけた。カランシアは困ったように唇を結んでいる。マグロールの指先が捉えたのは豊かな髪に隠れたみつあみだった。小さな編み目は、エルダールの小さな約束事にある。想う人がいるなら隠れたみつあみを作りなさい。愛する人がそれを解いてくれたら、きっと幸せになる。
「そんなじゃありません」
 頬を赤くして呟く弟にマグロールは笑う。
「そんなに照れなくともよいではないか。おいで、兄さんにもお前の想う娘のことを聞かせておくれ」
 なだめる声にもカランシアはプイと向こうを向いて駆け去ってしまった。マグロールが声をたてて笑っていると、入れ違いに東屋から歩み出てきたマイズロスが怪訝なように首をかしげた。
「どうした、マグロール。カランシアが顔を真っ赤にして走って行った」
 マグロールは笑って答えなかった。


カランシアの外見年齢12歳くらいがいいなあ…。
好きな娘なんか別にいないけど、舞いの仲間のアイグノールあたりに
無理やり秘密のみつあみ作られちゃったというのがいい。
兄貴のためというのは…NGだな…やっぱ。
でも長兄は我が家の健全性にちょいと不安を抱く(笑)
べたべた次男四男はあくまで家族。ナチュラルにほっぺチューくらいあり。
愛憎激突するのは中つ国でってことで。


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- 2006年01月01日(日)

あけましておめでとうございます。
悪友とカウントダウンから夜明けまで飲んだくれてました。
…毎度のことだが、ロクな年越しをしないな!
(犬と明かしたり泣きながら年賀状書いてたりなり茶やってたり)

平成18年、西暦2006年。
今年こその抱負をもって乗り切りたいが二日酔いだ!
しかし今年の元旦紙面はどこもつまらんな、ヲイ!
昔は各紙の威信をかけて特ダネぶっつけてきたのになあ…。
仲良くお年始紙面作ってんじゃねって。ったく。

(再度撃沈)


『ラビリンス 魔王の迷宮』(1986)
ジャレス:デビッド・ボウイ
サラ:ジェニファー・コネリー
製作総指揮:ジョージ・ルーカス

【あらすじ】
14歳のサラは弟の子守を押し付けられて、うんざりしている。
泣きやまないのに腹をたて、物語の魔王に「この子を連れ去って」と言う。
すると本当に魔王があらわれて…。

【私見】
子供の頃に一度見た記憶があって、最近知り合いのレビューを読んで
DVDで出ているのを知って買ってきて見たわけだ。

ああなるほど、「英国的ユーモアあるおとぎ話」だなと感想。
それをサラの「一歩大人へ」物語として味付けして落としている。
背景をうるさく書きたてもせず複雑な哲学もつけない、単純な枠組みだ。

この枠組みを魅力的に見せているのがジェニファーの美しさであり
パペットたちの面白さ、ゴブリンシティのユニークさだ。
あ、あとボウイの歌と踊りとCGと。映像の幻想世界を楽しませる映画だ。

こういう娯楽映画こそメイキングが面白い。
俳優のインタビューで長々と「映画について」語らせるようなものでない、
本当の「へえー」のあるメイキングだ。「指輪」に通じるところだ。
別にメイキング見るために買ったわけじゃないけどさ(笑)


『ヴィレッジ』(2004)
【あらすじ】
深い森に囲まれた村で、幸福に村人たちが暮らしている。
村には奇妙な掟があった。周囲を取り囲んでいる森に入ってはならない。
なぜなら「彼ら」がそこにいるからだ…。

【私見】
近来少なくなったと思ってたデストピア映画だ!
作られた楽園的な村は、現代世界に絶望した人々の逃避の産物なわけだが
そこで生まれた青年たちは、「外」「彼ら」への恐怖を教えられる。
人ひとり死に掛けていても、救いを求めようと外へ向かえるのは
盲目の少女たった一人だ。こんな精神的に去勢された人間作ってどうする。
また悲惨の絶えない外界に対して完全に殻を閉ざした人々の村、
こんな村を作中人物は「希望」だという。アホくさい。
選択の余地のない閉鎖された世界はそれ自体病んでいる。

しかし恐怖の見せ方、オチのつけかたは秀逸だった。
これについてはあの、私、怖かったです(笑)
作品の哲学やそこにこめられたメッセージには賛成できないけど
ここにあるメソッドや映像は非常に価値のある映画という見本だな。
もしかしてこのメソッド使いたくてこの映画撮った…?


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