あふりかくじらノート
あふりかくじら



 死に値する生、ことば。

地球の大きさに、我々人間はなすすべもなく
ただ生きるのみである。

命を落とした人間の
その哀しみは誰が吸収するのか。

いったい、小さな人間のひとりとして
どれだけのことができるのか。

驕り高ぶるべからず、であり
地球に優しく、などと死んでも口にするな、
ということであり、
いかなる理由があったとしても
ひとを殺めていい人間などいないということであり、
哀しみは癒されてなくなるものではないということなのだ。

わたしはこうして
全身全霊を込めて今日を生き抜くしかない。
翻訳という作業をしながら、
その巨大な力に気付かないよう
心を封じ込めるしかない。

人生に翻弄され、愛を忘れ、
明日を思い煩い、異性に心かき乱される。

すべてなげうって
ただここに坐って文字を綴る。
わたしはわたしとして、
死ぬ気になって生き、
心を削って、生命を費やして、
ことばをつむぐしかないのである。

革命のエチュード、そして
ドビュッシーのEstampes

すべてを忘れ、あるいは封じ込める、音。

2004年10月31日(日)



 生命、そして願うこと。

わたしがただ、
ここに生きていたという
証がほしい。


ひたすら
ことばを紡ぐ。

2004年10月24日(日)



 ありったけの情熱とともに。

ありったけの情熱とともに生きる。
何が好きかと訊かれ、うまく答えられない自分。
何が夢かと訊かれ、これもまた。

何故か。

ありったけの瞬間的情熱で、それを愛するからだ。
たとえそれが大豆イソフラボンでも、
何々が好き、という単純なレベルではないからだ。
そして、夢はこれですと、未来の可能性を制限したくないからだ。
これですと言ったら、それまでだ。

わたしの返答を、クールと呼ぶなかれ。
向田邦子が好き、などと、気軽に言うなかれ。
無限の可能性は、自分から遮断してはならない。
向田邦子もイソフラボンも、そんなに単純ではない。

いつもわたしは焦燥感のなかにいた。
履歴書をあちこちに出し、
「あなたは国際交流がやりたいのよね」(えーッ?)とか
「どうして会社員やってたのに急にNGOに?」(は?嫌味?)とか
「どんな仕事でも経験になる」(…絶句!)とか
とんちんかんなことを言われ続け、
それも価値観が違うのだから
仕方のないことと目をつぶる努力をしながら、
内心とてもストレスを負っていた。

今日わたしの履歴書を見て、わたしの焦燥感までも
すっと理解してくださる方がおられた。
びっくりして、「Yes!!! Exactly!!!」と
驚いた顔して言ってしまった。
(相手はアメリカ人、念のため)

わたしを思って意見をくださる方は大勢いる。
だから、出会うべき人に出会うべきときに会うのは
とてもすばらしいこと。

でも、人生の決断を下すのは自分自身。
これ、ほんとうに当たり前のこと。
いままで実行できていただろうか?

ありったけの情熱に、素直であれ。

ああ、うまくいえないけど。

2004年10月20日(水)



 深夜のラジオが、遠く。

できるだけボリュウムを絞って
耳を傾ける深夜のラジオと、
飛行機のなかでひとりヘッドホンで聴く音楽は、
とても似ていると思う。

ひとりだけ、とても遠いところから
世界を見ているような気がする。

すこし眠たい深夜、
懐かしい曲や心地よい曲が勝手に流れ
聴くとはなしに聴いている。

そういうとき、
世界から離れてしまっている気がする。

天の高いところから、
人々の営み、社会のあり方、時代の流れを
見ているような気がする。

それに近い感覚。

わたしひとりだけの、時間なのだ。



2004年10月18日(月)



 つい買ってしまうもの。

ノートだ。
しかもA5サイズ。

天からことばが降ってくるといけないので、
気が変にならないようにノートを
持ち歩き始めたのは、二十歳の誕生日から。

それ以来、良いノートをみかけると
つい買ってしまう。
部屋にはまだいくつも新しいノートが
あるというのに。

今日も二冊も買った。

いつも、ノートやカードなどで
気に入ったデザインを買うと
ほぼ確実に某社の商品であるというところがすごい。

わたしのハートは、キャッチされている。

そしてまた、わたしは不要なノートを買う。


2004年10月17日(日)



 恋する幻想のかけらだけでも。

なにが好きかって、オフィスでよくみえる
あのひとの後姿だ。

清潔感のある淡いブルーのシャツに
丁寧にアイロンがかけてあって、
ほんの少し正面から右斜め前にずらした
キーボードに両手を置き、背筋がすっと伸びている。
いつみても、しゃんとしていて、
やわらかい清潔感にあふれた空気を
身に纏っている。

その坐り方なのだ。

他人の坐り方にほれ込むなんてこと、
思ってもみなかった。
でも、その坐り方、すっと伸びた背すじと
真面目でひとの良さにあふれた空気。

あのひとのことを良く知らないけれど、
わたしはその坐り方をみて
にんまりとしてしまうくらい。
仕事でミスってしまうくらい。
その後姿に恋をする。

恋していなければ、張り合いが足りないことを
最近いたいほど感じている。
でも、基本的に現在のわたしの生き方に恋は不要だ。

恋多き女が、本気になれる男もいなくて、
適当な男とつまらないデートをしているなんて。
だから、こんなふうに「パーツ」に恋してしまうのだ。

煙草をのむしぐさ。きらきらしているオメメ。
ペンを持つ指先。意外と可愛らしいところがあったりする男性。
そして、すっと背すじの伸びたオフィスの後姿。

わたしのそばを通りかかった他の男性に、
なんか幸せそうな顔してるな〜、と言われてしまった。

恋すること、下手になったかな。

2004年10月16日(土)



 メールマガジンの不思議。

エディンバラに行ったとき、あまりにたくさんある
知的刺激の中で、おぼれないように
なんとかならないものかと思い、書き始めた
メールマガジンである。
とはいえ、多々見られるように、知識を分け与え
教えてあげる、というようなスタンスのものは
わたしのなかであまりに許しがたい。

だから、手紙形式にした。
友人に手紙を書くように呼びかけ、
当然のことながら目次や編集後記などは省き、
最後には「次回お楽しみに」などという
エゴの塊みたいな表現は絶対に入れまいと、
変わりに読者への感謝のことばを必ず入れるようにした。

四年近くも前のことだ。

これがあふりかくじら流の小さなこだわりである。

お蔭様で、二種類のメールマガジンとも
地味に続いてきている。
友人・知人も、わたしからの手紙として読んでくれ、
しばらくぶりに会っても「久しぶりな気がしない」と
いってくれるのはうれしい。

でも、ちょっと考えもみて。

こちらからは手紙のつもりで書いていても
読んでいるほうはメールマガジンなわけで、
長いこと読んでくださっている面識のない方などは
こまめにメールを下さっても、友人などに至っては
返事を書こうと思うことはほとんどないらしい。

わたしからの声はとどいていても、
あなたの声、じつは聴こえてきていないのですよ。

あのひとどうしているのかなあ、と思っているのです。
このわたしも、ね。

追記:
あと、「何故か突然来なくなった」と言っている方。
パブジーンでお読みだったのでしょうね。
パブジーンがなくなるときに、何度も繰り返し
お知らせしたのですけどね。
お読みでないね。


2004年10月14日(木)



 その一瞬だけでも、贅沢な感触を。

ギネス・ビールが恋しい。
心から恋しい。

とろりときめ細かくてやわらかいフロスに、
描かれるきれいなクローバーのライン。

深い、色。
アイルランドの空気。
あの国の、素朴な人々とかパブとか
顔を赤らめた小父さんたち。
それだけの夜。

他に何もいらない。

カサだっていらない。

2004年10月13日(水)



 知ってしまったこと。

向田邦子も、「射手座B型の女」だった。

ああ。
やはし。

もう、あたしはメモの最後のページに
「あふりかくじらB型」とサインしようとおもいます。
彼女のように。


2004年10月12日(火)



 珠玉のエッセイたち。

本日、三冊目の向田邦子エッセイを購入。
短篇小説もエッセイも読み進めている。
買い占めそうなくらい、「射手座」の毒が
まわっている。

あのバランスのとれた心地よさとうつくしさは
なんなのだろう。
これ、というエッセイのページの端を折っていったら
折り目がたくさんになってしまった。

だまって書き写して言葉をかみ締めたいと思った
エッセイなんて、他にあっただろうか。
なんてうつくしい文章を飾り気なく素っ気なく、
あるべき質量で書けるのだろう。

ああ、大人になりたい!

**********

『男どき女どき』向田邦子 著 新潮文庫

*ついさっき、【あふりかくじら★カフェ】メルマガに書いた
内容とかぶってしまってごめんなさい。(12日発送予定)

*え?登録なさってない?なんと!

こちらからプリーズ↓: 
【あふりかくじら★カフェ】



2004年10月10日(日)



 ギョウレツ運、くださいな。

「行列運」というものがあるのだとすれば、
わたしのそれは年中最悪だ。

たとえば、駅の切符売り場。
たくさんある販売機のうちどれかひとつに
ならばなくてはならない場合、
わたしの選ぶ列は99%くらいの確率で
いちばん遅い列になる。

フォーク型で一列に並び、空いたら
前列から順番に、というかたちの行列なら
全く問題はないのに。

駅の切符売り場だけではない。
スーパーのレジとか、何かの窓口とか、ほとんどすべてにおいて
同じ現象が発生するのだ。
必ずといっていいほど、わたしの前にとっても
「手のかかる」ひとがいたり、レジ係が異様にもたつく
新人だったり、機械が故障してしまったり。

そんな理由で、行列とみると非常に神経質になる。
係りのひとが素人っぽいひとでないか、
切符の自動販売機の扱い方がわからなそうなひとはいないか、
前のひとのスーパーのかごにどれくらい品物がはいっているか、
ものすごい集中力で吟味する。
そして、これ、という列にさっと並ぶ。

それでもダメなのだ。
わたしより後から来た隣の列のひとが、
すくなくとも三人は先に用を済ませてしまうくらい
ダメなのだ。

もうこれは、運の問題である。

深夜の新宿などで、道端にぼんやり灯りを点している
占い師さんがいたら、「行列運」をみてもらおう。

でももし、あの大都会の片隅で怪しげな空気を醸し出す
占い師の彼らが、「占う」のではなく「運をわけてくれる」、
というのであれば、わたしは迷わず「行列運」をいただくだろう。

そのためには、行列してもいい。


2004年10月09日(土)



 射手座の女だから。

射手座の人間には、口に毒があり
ひとつところにじっとしていられない
おっちょこちょいが多い、とエッセイに書いたのは、
他ならぬ射手座の向田邦子であるが、このことばに、
正真正銘射手座のわたしは、あれまあ、と思った。

口に毒がある。イエス。毒吐きまくり。
じっとしていられず動き回る人生。
そんでもってかなり抜けてるところがある。
そのとおりです、ハイ。

では、B型という血液型はどうか。

B型を名乗るだけで笑われてしまうことがあるのは、
その血液型自体に問題があるというわけではなく、
わたしのイメージとの一致によるものなのではないかと
疑っているが、信じたくない。

某コミュニティサイトに登録しているが、
友人が書いてくれているわたしの紹介文にも、
敵をつくりやすいB型な性格丸出し、とある。
なんとすばらしく的確な表現なのだろう。

職場でも、わたしがB型であることはバレバレだ。
上司が、自分と同じにおいがする、と言って笑った。
B型人間は、往々にしてB型人間を嗅ぎ分けるのだ。

それにしても、血液型や星座占いなんて
信じるわけないじゃないの、と思っていたのだが、
あまりにもこう、ぴったりときてしまうと
ちょっと信じたくもなってくる。
不思議なものだ。

そんなにひねくれたことをああだこうだと言いつつも、
ほんとうは「射手座B型の女」というのは
わたしのイメージにけっこうしっくりきているので、
本音では頼まれても他の星座にはなりたくない。

これも小さな毒なのか。

2004年10月07日(木)



 オーロラの記憶。

ぼんやりと緑色の光を放つオーロラの写真が、
新聞に出ていた。
南極では最後の見ごろを迎えるころだという。

いつも写真で見るオーロラは、
ぼんやりして形が良くわからない。
なかなかうまく出てくれないし、
写真にも写ってくれないのだろう。

わたしの記憶に焼きついて離れないオーロラは、
雪の分厚く積もった真冬のアラスカのそれだ。
わたしはまだ中学校に入ったばかりの少女で、
アンカレジに暮らしていた。

オーロラの、まさに文字通り
風になびく巨大なカーテンのような
その緑色のひかりに、ただ圧倒されていた。

オーロラは、圧倒的だ。
あまりに巨大で、果てのほうから空を大胆に横切り、
ゆっくりと、ときに早く風になびくようなその姿。
恐ろしさというか、畏怖というか、
ともかく「おそろしい」という感情に支配されるそのときを
わたしは忘れることができない。
生き物のように、意思を持つもののように。

「きれい」ではない。
わたしの中にあったのは、「おそろしい」という感情だ。
そして、魅せられてしまう。動けなくなる。
耳が痛くなるくらい、雪の分厚く積もった
冷たい空気の中で、しんと静かなのに
なんだか轟音が波動と共に響いてくるような錯覚。

宇宙に浮かぶ巨大な磁石である地球なのだ。
地球というものがどんな形をしているのかを、
その巨大な光を見ていると意識させられる。

環境問題だとかを言う前に、まずオーロラの姿を
見たらいいのではないかと思う。
これで地球の存在が動物的にわかる。
生きていくことについて、考えさせられる。

オーロラを、甘く見ないほうがいいんだと思う。

わたしもいつか、またあの土地へ行って
少女のころの記憶をなぞってみたい。
今度は、何を思うだろう。

2004年10月05日(火)



 あふりかくじらを知っていますか。

『あふりかくじらの自由時間』という
ウェブサイト兼メールマガジンのタイトルを小さく載せ、
きれいで印象的な写真を背景にした名刺を持ち歩いている。

渡したとき、ごくたまにだけれども、
あ、この名前みたことあるわ、と言われることがある。
今日も、初めてお話しをした方がそうおっしゃって、
わたしはとてもうれしく思った。

アフリカ関係の集まりだと、自己紹介のとき
わたしの名前を聞いてちいさく、あ!と言う方がいたり、
メルマが読んでますよ、という方がいたこともある。

もちろん、そういうことがあるのは、ほんのわずかだけれども
そのたったひとりが、どれだけうれしいことか。

わたしの文章と先に出会った人たち。
ほんもののわたしに出会ったことで、
ますますわたしの文章を読んでくださるのなら、
「あふりかくじら」を心の片隅においてくださるのなら、
わたしはいつまでも書き続けようと思う。

いつか誰かに、ふとしたことばを届けるために。

2004年10月04日(月)



 抱きしめて、キスして。

なんて。色気のある話ではないんだけれども。
最近いろんなひとがとても親切にしてくれて、
自分の進むべき道は自分が知っているんだという
ことに気づかせてくれたりして、
わたしはなんだかいろんなひとに感謝している。

いま日本にいるので、会う人の多くは
日本人なわけなんだ、これが。

ほんとは、みんな、大好きな人は
ハグして頬にキスをしたいくらいなのに、
ここ日本じゃ、ちょっとできない。

ヨーロッパ人とか、米国人とかなら、
自然にそれができるのに。

よっぽど親しい女友達か、もしくは酔っ払ったら
わざと酒のせいにしてハグしたりしてるんだけれども。
(もちろん、わたしは記憶なくしたりしてない)
そうして、愛情表現をする。感謝を表す。

ハグしてキスしても、いいですかねぇ?

2004年10月02日(土)
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