ケイケイの映画日記
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2023年05月19日(金) 「TAR/ター」




わー、何だか解らないけど、すっげぇー!という謎の感想が私の中で渦巻く作品(笑)。二時間半と長丁場なのに、もう一度最初から考察したくて、直ぐに二度目が観たくなりました。監督はトッド・フィールド。

ベルリンフィル初の女性マエストロのリディア・ター(ケイト・ブランシェット)。オスカー、エミー、グラミー、トニーの四大賞を受賞し、現在のクラシック界の最高峰に立っています。しかし、様々な重圧が彼女を取り囲み、精神を蝕んで行きます。

冒頭、画像に取ったリディアに画像に対して、彼女の人格に対して、誰だか判らぬ女性からの誹謗中傷の会話あり。直後、観衆を前にしての、インタビュー形式のリディアの長い講演の様子が映されます。多岐に渡るクラシックから現代音楽全般の内容です。残念ながら、こちとらクラシックに素地も素養もなく、膨大な情報量についていけない。ターは架空の人物です。でもこの知性溢れる会話は、しっかりとリサーチした内容で、薄っぺらな物ではない事は、素人の私にも解ります。素人にも興味を持たせたり、理解させたりする力があるものが、「本物」なんだよ。

ただ、そこはかとなく漂う、リディアの尊大さが鼻に付き、知性溢れる会話なのに、聡明さは感じない。「仕事」に対して語るのみで、「人柄」は全く感じない会話だったからでしょう。

リディアはレズビアンで、パートナーはベルリンフィルのコンサートマスターのシャロン(ニーナ・ホス)。ペトラという女の子の養女を迎えています。ペトラを虐めている子に、リディアは直接恫喝します。そう、「仲良くしてね」的な言い回しではなく、恐怖を与えるような恫喝。そしてその時、「ペトラのパパよ」と言う。同性カップルの親は、パパが二人、ママが二人だと思う。何故パパと言ったのか?リディアの中で、「父親」の方が子供を怖がらせる事が出来ると踏んだのでしょう。彼女の思考には男>女が有りそうです。

リディアは仕事のプレッシャーからか、幻聴が聴こえるようになってくる。昼にはインターフォンの音、夜には見知らぬ間にメトロノームが動き、冷蔵庫の微かな音にも目が覚める。その頃、リディアの教え子であった女性が自死したと、秘書のフランチェスカ(ノエミ・メルラン)から知らされます。

ここからリディアの「人となり」が暴露されていきます。好色で女好き。一見、礼節や敬意を欠かさないように見えるも、自分の利益にない者は見下している。フランチェスカは指揮者志望ですが、使い勝手の良さに、秘書として手放そうとしない。ここで冒頭のリディアの人格を非難していたのは、フランチェスカではないかと思い至ります。

これって、権力を持った「おじさん」の構図です。多分、フランチェスカも教え子も、リディアに身を売っている。ここで権力おじさんなら、教え子もリディアも自分のコネでよろしくお引き回しするところですが、リディアは存在自体稀有な女性マエストロ。自分以外の芽は、潰しておかないといけないのでしょう。パトロンでアマチュア指揮者の裕福なエリオット(マーク・ストロング)からお金を引き出し、女性指揮者を育成する団体を作っていますが、それも見せかけ。先駆者として後進を育てるグローバルな心より、己の地位の保持と、才能のより高みを目指す事だけが目的の利己的な人であると感じます。権力おじさんには成り切れない、権力おばさんの哀しさです。

では、夫婦としてシャロンへの愛はあるのか?と言えば、これも不確か。教え子の自死で裁判沙汰になっていることを、シャロンへは言わない。怒るシャロン。「関係があったとか、なかったとかで怒っているのではない。裁判になっている事を教えなかった事に怒っている」と告げます。あー、この二人はビジネスパートナーだったんだね。

べルリンフィルの地元であるドイツ人であり、コンサートマスターのシャロンを「妻」とすれば、マエストロとしての地位は堅く、同様の事がシャロンにも言えます。しかし、トラブルが起こらなくても二人の関係は自我のぶつかり合いで危うく、鎹としてのペトラが必要だったんだなと思いました。容赦なくリディアを切り捨てるシャロン。「あなたが利害関係なく愛している人が、隣の部屋で寝ている」とは、ペトラの事でしょう。ペトラを思えば、あの女この女に手を出す事は慎んだはずで、この辺も好色おじさんなんだよなぁ。

チェロの若い子、その家、東南アジアの日々は、もしかしてリディアの幻想かもしれません。回収は全然ないのですが、彼女の焦燥感とプレッシャーとして、ケイトの圧巻の演技と、フィールズの幻惑的な演出で堪能したので、あまり文句はないです。デヴィッド・リンチ風味かな?

ラストの落ちぶれ果てた場所で、タクトを一生懸命、誠実にふるリディアの姿も、例え人格が破綻しても、音楽への強盛な情熱の表しでしょう。。損得で生きてきた彼女の、偽りのない愛情は音楽のみなのです。人格と才能は別物だと感じます。バッハの件は、これに繋がるのでしょう。しかし天才は何をしても許されるという時代は終わり、今は私生活も簡単に暴露されます。築いてきたものが、一夜にして失墜してしまう世の中。権力者や実力者は、人格者とまでは行かずとも、広く世の中を見つめる目が必要なんだと、感じました。

仕事部屋としているアパートの隣の住人から、作曲のためのピアノの音を騒音と言われ、プライドを傷つけられ、発狂したように笑い転げるリディア。彼女にとっての芸術は、隣人に取っては騒音なわけ。これには深く感じ入りました。

ずっと以前に生息していた映画の掲示板で、密かに憧れていた人が、「芸術とは、人を感動させるもの」と、ズバッと端的に書いていらして、凄く心に響いたものです。芸術というと高尚な物、素地素養のない者には敷居が高いのです。でも「感動」なら、理解は出来なくても、人生の経験値で味わう事が出来るはず。芸術という言葉が、ぐっと身近になった気がしたものです。

頂点に立った人が奏でる音でも、関係ない人には騒音なのです。耳障りがいいなぁ、また聞きたいわと、ならなかった隣人。あそこでリディアが、怒りで発狂せずに、良し、次は良い音色を出して、クラシックに興味を持って貰おうと奮起したなら、この物語の結末は、違ったものになったろうと思います。実るほど、頭を垂れる稲穂かな、は、天才でも凡人でも権力者でも、万人が備わるべきスキルのようです。





2023年05月02日(火) 「せかいのおきく」




あー、タイトルの意味、こういう事だったんですね。この作品は、脚本も兼ねる阪本順治監督が、江戸時代の末期を背景に、今を生きる私たちに向けた、「君たちはどう生きるか?」と、問いかけた作品だと感じました。美して愛らしく、そして心の強い作品です。

武家育ちのおきく(黒木華)は、寺子屋で読み書きを教えています。色々あって、今はおとっさま(お父様)の源兵衛(佐藤浩市)と、貧乏長屋で二人暮らし。最近、下肥買いの矢亮(池松壮亮)の相棒となった中次(寛一郎)の事を、憎からず思っています。そんな折、ある不幸な出来事が起こり、喉を切られたおきくは、声を失ってしまいます。

今は糞尿の処理にはお金を取られますが、昔は買い取っていたんですね。そしてそのブツを農家に売る。うん、正しくエコ(笑)。今の感覚じゃ、タダで持っていって貰っても有難いのに。でも長屋の住人たちの、矢亮たちへの対等な態度は、売買が成立していたからかも知れないな。

お役目の正義を貫いたため、源兵衛は藩からお役御免に。「武家育ちの身の上なのに、クソとか屁を垂れるとか、わたくしがこんな言葉を使うようになったのは、全部おとっさまのせいです!」と、目を吊り上げて父を罵るおきくですが、父上ではなく、おとっさまと呼ぶのは、自分の今の境涯を受け止め、馴染もうとしているからです。声を失い、ふさぎ込むおきくを、長屋の住人たちが心配する様子は、「身分違い」を鼻にかけず、長屋に溶け込んでいた父と娘であるのでしょう。二人の人柄を表しています。

中次を待たせながら、厠で用を足す源兵衛が、問わず語りに話した内容が、この作品の肝だったんじゃないかなぁ。「世界の果てなんて、ないんだよ」。勉学の機会を与えられず、文盲の中次です。「世の中」の概念はあっても、「せかい」は知らない。果てしないなら、荒野にするか夢にするかは、自分次第です。人生についての重要な会話を、本当の父子である佐藤浩市と寛一郎に振り当てるのは、心憎い演出です。

「お前、添う人はいるか?」いないと返事する中次。添う人は、男女とは限らない。矢亮の真摯な仕事ぶりに、思わず「兄ぃ」と呼んでしまう中次。慕う気持ちと敬意です。無口な中次の、精いっぱいの表現に、思わず私の胸がいっぱいになる。

矢亮は真摯ではあるけど、今の仕事に屈託も恥ずかしさも感じています。それを誤魔化すかのように、饒舌で朗らかに人と接しています。屈辱的な行為を、笑ってやり過ごそうとしますが、中次に素直に腹を立てろと怒られます。その後の、あの反乱は良かったなぁ。一人で仕事をしていたら、袋小路に入ったままだったでしょう。今は「おひとり様」が注目されていますが、私もぼっちが好きなので、そこは有難いです。でもソロ活動=孤独、ではないのだな、うん。インスタで盛んにソロ活動を発信している人も、フォロワーと繋がっているから、決して孤独ではありません。そういう事よね。

矢亮が武家屋敷に肥を買い取りに行くと、顔馴染みの奴は?と問うと、「犬死したぜ」と言われる。そして、「お前たちは俺たちよりずっといいぜ」と言われます。奴とは、武家の下僕で奴隷扱い。お前たちには、自由があると、その奴は言いたいのでしょう。矢亮と中次は、多分当時の最下層。でも奴の人生は、良い物を食べ、博打に興じても、自由がなく殺伐としているのでしょう。果てしない夢は、見る事が出来ない。

そして源兵衛とお菊の身の上に起こった事も、下々の者から見たら、羨ましいような身分の武士とて、因業多く不自由な身の上なのだと感じます。

「俺たちは身寄りがない」の矢亮の言葉の後は、「だから助け合おう」と続くと思ったら、「文句言う奴がいないから、何でも出来るんだ。二人で盗人でもするか!」と言うので、笑いました。勿論ジョークですが、「俺は盗人はしない」と、ぼそっと言う中次。おきくが愛したのは、この愚直さなんでしょうね。当時だって、やくざや男が身を売る仕事はあったはず。この二人はそれを選ばず、下肥買いを飯の種に選んでいるのです。

お互い憎からず想い合っている二人。それはおきくが声を失う前からです。出会った頃の中次は、紙屑拾い。今は下肥買い。おきくには仕事など、どうでもいいんでしょう。中次が好きなのです。読み書きのお手本で、「ちゅうぎ」と書こうとして、思わず「ちゅうじ」と書いてしまい、嬉し恥ずかしで身悶えするおきくが、本当に愛らしい。私が萌えてしまった(笑)。

中次にとっておきくは、武家の娘で高値の花なのです。声を失った今がチャンス!等、下品な思考は一切無し。この人格の高さを、おきくは見抜いているのですね。この素直で愛しい二人の想いが成就するかどうか、本当にヤキモキしました。

もう隠居して良い年齢なのに、新たな仕事の為に引っ越しをする孫七(石橋蓮司)。死ぬまで働くだろう様子に侘しさはなく、希望すら見えたのは、監督の計らいなのでしょう。全編に仕事をする事の尊さを感じます。

江戸の末期に生きる彼らの生真面目で心映えの美しい生き方は、色々迷子になりそうな、今を生きる私たちに、良き指南となり得ると思います。

出演者はみんな絶品。菅一郎は、演技力こそやや見劣りしますが、初々しさでカバー。中次そのものでした。それと真木蔵人!何と和尚さんの役!やんちゃで尖った彼しか思い浮かばなかったので、もうびっくり。朴訥な和尚さんで、きっとお説法は苦手かな?(笑)。でも人間力でカバーできるお坊様ですよ。すごいサプライズだったけど、バチッと作品にハマった好演でした。

さて、「せかいのおきく」とは、「世界中で一番好きなおきく」という、中次の気持ちを表した題名だったんですね。良い事教えますね、源兵衛。男女とも、惚れた人には「せかいじゅうでいちばんすきだ」と言いましょう。






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