ケイケイの映画日記
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2022年04月29日(金) 「カモン カモン」




素敵な作品なのに、なんだろう、この引っ掛かりは???と、ずーと考えていました。劇中出てくる、9歳のジェシーへの躾に疑問があったのですが、少し視点をずらしてみると、自分なりにどんどん解釈が進みました。普通の伯父と甥との、ハートフルなお話を期待すると面食らいますが、それでもとても温かく、抱きしめるのではなく、手のひらで包み込んでくれる作品です。監督はマイク・ミルズ。

ニューヨークでラジオジャーナリストとして働くジョニー(ホアキン・フェニックス)。LAに住む疎遠な妹のヴィヴ(ギャビー・ホフマン)が、精神を病んでいる夫の元へ行くため、9歳の息子のジェシー(ウディ・ノーマン)の預け先に困っているのを知ります。期間は9日。妹の窮地に、思わず自分が預かると言ってしまうジョニー。しかしヴィヴの予定が長引き、ジョニーはジェシーを連れて、NYに戻るはめになります。

ほとんど付き合いなく、懐いてもいない甥っ子を預かると言ってしまったのは、彼の主な仕事が、アメリカ中の子供たちにインタビューする事なのが、一因だと思いました。これだけで飯の種になるのか?と、訝しくは思いましたが、志のある仕事だし、他の仕事もあるんだろうと、何となく納得。

ジェシーとヴィヴが仲違いしたのは、母の介護が原因。主に介護していたのはヴィヴのようですが、母に溺愛された息子と、母に理解されなかった娘では、当然介護の有り様や意見が違う。親子関係は、どの国でも同じだな。私はジョニーが、介護を引き受けてくれた妹を立てなかった事を、今は反省しているように見えました。これもジェシーを引き受けた一因。

さて、このジェシーなんですが、とにかく手のかかる子。早朝から大音量の音楽をかけるかと思えば、会話中に、急に自分がみなしご設定の物語の主人公になる。生意気で言う事を聞かず、屁理屈は一流。それは母であるヴィヴや伯父であるジョニーに対して向けられ、一緒に子守りをしてくれるジョニーの同僚たちには、大人しくしている。これは肉親の愛情を試しているのですね。

ヴィヴが実践しているのは、所謂「叱らない子育て」。観ていてこれに疑問があって。ある場面で、誘拐や事故の可能性があるので、ジョニーは物凄くジェシーを叱りました。結果へそを曲げたジェシーに、ヴィヴのアドバイスでジョニーが謝るはめに。いやいや、これはおかしいと少々憤慨する私。

私は、有名人の親や、有名大学に子供を全員行かせた人の「成功体験」系のお話しが苦手です。それはあなたと、あなたの子供の話でしょう?親も子供も100人いれば、みんな違うよ。第一環境が違う。

そこでハッと思い起こしたのが、ジョニーがヴィヴにジェシーの「取り扱い」の指南に、ネットからURLを送って貰い、それを実践していた事。「ママは読まなくても覚えているよ」と言うジェシーの言葉。これは子育ての悩みを、ネットに頼るヴィヴ=母親の孤独を表していたのじゃないかな?夫は双極性感情障害(結構重度)で手がかかり、自分も仕事を持ち、子供まで一筋縄では行かない。「叱らない育児」は、心も時間も余裕のない中、ヴィヴが選択した育児だったと思えます。実際ジェシーは「僕も悪かったよ」と謝っていたじゃない。私がこれは間違っていると裁くのは、傲慢だったと考え直しました。

ジェシーは多分IQの高い子。ジョニーと信頼関係が深まると、「僕もパパのようになるのが怖い」と吐露します。寂しさや自分の将来への恐れ。彼の賢さが、荒ぶる心を優先させ、可愛いらしい子供らしさを隠してしまっていた。そう考えると、ジェシーが愛おしくて堪らなくなります。

実際の子供たちへのインタビューが多々挿入され、全部やらせなしで、自分の言葉で語らせているのだとか。これがびっくりする程、みんなしっかりと語り、自分の背景や社会に目を向けた内容で、それぞれ個性が際立っている。一人として同じ子はいません。監督はこれも言いたかったのでしょう。

ジェシーのお陰で、昔のように距離が縮まる兄と妹。妹と息子は信頼でき頼る相手ができ、兄は自分の人生を振り返り、大切に思う存在が戻ってきたのは、彼の生活をきっと豊かにするはずです。親子関係が煮詰まった時、避難場所は必要です。孫ができた今、私も頼って貰える存在にならなきゃと、痛感しています。

劇中「カモンカモン」は、「先へ先へ」と訳され、それはジェシーに語らせています。先へ先へ。それは未来の事。子供たちの未来が荒涼としたものか、洋々たるものか、大人の責任は重大なのだと感じます。今の私の職場は赤ちゃんから小学生までたくさん子供たちがいて、私の日常に子供たちが帰ってきたようで、本当に楽しい。職場の片隅で、子供たちの成長を見守れること、本当に光栄に思います。ちっぽけな私にも何が出来るか、常に心に留め置きたいです。



2022年04月24日(日) 「ハッチング-孵化」




フィンランド製ダークホラーです。軸になっているのは、ヒロインのローティーンの女の子と母親の関係性です。禍々しく不穏な空気に、私自身の経験と重なる事もあり、感慨深く観ました。幕切れに残酷な感想を抱いていたのですが、映画を通じて仲良くしていただいている牧師さんの、イースターの素晴らしいお説教を拝読して、感想が一変!お陰様で、ずっと心に残る映画となると思います。監督はハンナ・ベルイホルム。

両親と弟と暮らす12歳のティンヤ(シーリ・ソラリンナ)。ティンヤは体操を習っています。ブログに幸せ発信するのが生き甲斐の母親(ソフィア・ヘイッキ)の圧力に疲弊するティンヤは、ふとした事から拾った鳥の卵を、自分の部屋に持ち帰り、孵化させます。その鳥に「アッり」と名付け、可愛がるティンヤでしたが、それが思わぬ惨劇を引き起こします。

ティンヤの家は、北欧独特の美しくロマンチックなおうちで、それが過ぎて、まるでドールハウスのように生活感がありません。ティンヤの部屋が顕著なのは、母親の娘に対しての期待の大きさが伺えます。

ブログに載せる家族のショットを自撮りしていると、一羽の鳥が室内に侵入し、家具や照明を破壊。捕まえた鳥の首を躊躇せず捻る母。美しい容姿、良妻賢母を装いながら、一瞬で二面性を描いています。死骸をゴミ箱に捨てろとティンヤに告げる母。いやいや、死骸だよ?まだ子供のティンヤには怖いはず。しかしおずおず母の言いつけを守るティンヤ。日常のそこかしこに、にこやかに微笑みながら、「あなたのためよ、あなたもそう思うでしょう?」と、ティンヤを呪縛する母。必死に応えようとするティンヤ。子供なら当たり前、期待に応え母に愛されたいのです。

母は弟には無関心、建築家でそれなりに成功している父は、妻の言いなりなら平和とばかり、子供や家庭には事なかれです。母親がティンヤに執着するのは、自分と同じく容姿が美しいからだと思いました。自慢したいのですね。

偶然鳥の卵を見つけるティンヤは、あの鳥の卵だと確信します。家に持ち帰ったのは、罪悪感があったからでしょう。優しい子です。母との関係の辛さから涙するティンヤ。その涙がどんどん卵を大きくする。孵化したアッリを慈しむ様子は、自分の疲弊した心を、アッリを愛することで癒しているように見えます。

この母親は、所謂毒親で、自分の不倫相手と抱き合っているところを娘に観られ、あろうことか、「ママには恋が必要なの。二人の秘密よ」とティンヤに告げます。これね、何を隠そう、私も10歳ころに同じような経験をしました。私の母の相手は、当時父の会社で働いていた人。偶然抱き合っているところを目撃した私に母は、「にきびを絞って貰っていた」と苦しい言い訳をするのです。ほんとバカな言い訳ですが、ティンヤの母を観て、まだましだなと思いました(笑)。

当時私も母の言い分を信じました。信じ込もうとしていたと思います。父にも誰にも言いませんでした。夫婦仲が悪いのは解かっていたし、家庭が壊れるのを恐れました。私も母に抑圧された子供時代を過ごしたので、子供とはそういうものだと、素直に従うティンヤの気持ちがとても良く理解出来ました。

本当は友達とでも話せば良いような、子供にはするべきではない会話を、ティンヤの母同様、私の母も娘としたがりました。父の浮気、その内容その他盛沢山。。今の時代に照らし合わせれば、多分虐待です。子供らしい思考、楽しみ。私もティンヤも母親に奪われている。

私の母は筋金入りの人格障害で、愛着障害もあったと思います。ティンヤの母の「誰も私を幸せにはしてくれない!」とのセリフは、ティンヤが試合で優勝できなかった時のセリフで、あぁこの人もだなと思いました。子供が試合で負けたなら、普通の親なら怒ったりせず、子供を慰めるものです。ティンヤはと言うと、母に怯えるだけ。自分の吐いたものをアッリの餌とする様子は、摂食障害も感じます。負の連鎖。

精神科勤務時代に、院長先生に私の成育を話し、何故私は人格障害にならなかったのか?と尋ねた時、「ケイケイさんは、お母さんのようになりたくないと、強く誓ったのではありませんか?」と言われました。はい、それはもう、強く強く。でもポンコツの母でしたが、子供時代は母が大好きで、私の自己肯定感を高めてくれたのは、間違いなくポンコツながらの母の愛情です。そう考えたら、まだまだ幼いティンヤの気持ちに、心が締め付けられます。

ティンヤの涙で成長したアッリは、憎悪・暴力・悪意・嫉妬など、負の感情の塊に育ちます。アッリは感情を吐き出せない、ティンヤの想念が作り出したものなのでしょう。数々の惨劇のあと訪れた最大の悲劇に、これから両親が(父も同罪)に残酷な日常が訪れるんだと思っていました。

ところがH牧師のお説教で、それでガラッと感想が変わる。「マ・・・、マ」の絞り出すあの言葉は、母の中では、黄泉がえりではなかったか?その時の呆けたような母の表情は、私が観たいように見ればいい。あれは恐れつつ、幸福を滲ましせた表情ではなかったか?お説教の後には、私にはそう感じました。母よ、恐れるなかれ。その幸せを、娘を信じなさい。そして母娘二人、それぞれの壮絶なやらかし。無関心だった父も含め、家族がこの後、茨の道を歩み贖罪の人生を歩んだ時、そこにこの母と娘、家族の、見栄や嘘のない、本当の幸せが訪れるのではないか?そう感じるようになりました。作り手がどのようなメッセージをラストに託したか、私には解りません。でもこの私の感想は、私自身を幸せにするもの。だから私はこの解釈を選択します。

母やティンヤの母のような人の特徴は、「足るを知る」を知らない事です。誰もが羨むものを手に入れても、満足せず、人の賞賛だけが自分の価値になる。我がままで強烈な自我を持つのに、本当の意味での自分軸がない。母のお陰で嫌味ではなく、私は人生に必要なものは、「足るを知る」だと悟り、感謝しています。その中で精一杯頑張るのは向上心で、野心にはならないから。

H牧師に、その私の座右の銘を、これだ!と、思える詩をご紹介いただきました。私の感想を読んでいただく皆さんにも是非ご紹介したく、ここに記しておきますね。作者不在と言うのも感慨深い。因みにワタクシ、キリスト教は、からっきしです。なので皆さんの心にも届くといいなぁ。映画はね、観る人が観たいように観る。これに尽きます。偶然は必然を実感しています。


  大事をなそうとして
  力を与えてほしいと神に求めたのに
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
  
  より偉大なことができるように 健康を求めたのに
  より良きことができるようにと 病弱を与えられた
  
  幸せになろうとして  富を求めたのに
  賢明であるようにと  貧困を授かった
  
  世の人々の賞賛を得ようとして  権力を求めたのに
  神の前にひざまずくようにと  弱さを授かった

  人生を享楽しようと  あらゆるものを求めたのに
  あらゆることを喜べるようにと  生命を授かった

  求めたものは一つとして与えられなかったが
  願いはすべて聞きとどけられた

  神の意にそわぬ者であるにかかわらず
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


  
  




  


2022年04月22日(金) 「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」&ジョニデの事




「ハリポタ」全回伴走で、このシリーズは終了と思っていたのに、降板したジョニデに代わって、マッツが起用されると聞き、どれだけ溜息が出た事か・・・。時間ないのに、観なくてはいけない・・・。全然気乗りなく期待なく観てきましたが、面白かったです(笑)。と言うか、問題なく楽しめました!監督は「ハリポタ」シリーズも四作撮っていて、「ファンタビ」全二作も監督している、デヴィッド・イエーツ。

史上最悪の魔法使いグリンデルバルド(マッツ・ミケルセン)。世界をその手に収めんとしています。彼とは旧友の間柄のダンブルドア(ジュード・ロウ)でしたが、魔法界と人間界の平和を願うダンブルドアは、それを阻止すべく、魔法動物学者のニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)に協力を依頼します。

で、冒険と戦いの旅が始まると言うわけね。仕事終わりに駆け付けたので、ハンバーガー食べている最中、急いで全二回の相関図や解説読んで、おさらいしました。まぁそれで関係性は、だいたい理解出来たかな?この回からご覧になる方は、予習は必至です。

予想より大人な展開でしたが、もちろん子供が観ても大丈夫な品の良い作りでした。正義・勇気・愛と、少年ジャンプ的な世界観ですが、そこに孤児の哀しさ、同性愛の葛藤、魔法使いと人間の悲恋など盛り込まれ、物語の枝葉として、花を添えています。

さて、マッツは歌舞いていたろう(画像からの想像)ジョニデとは、別物のグリンデンバルドを造形。端正なスーツ姿で、冷酷非道さをエレガントに表現。冒頭、ダンブルドアと往年の愛を思い出す場面があるのですが、美形中年の芳醇な香しさに、もううっとり。あぁ見に来て良かったと思いました(笑)。

マッツが素敵なのはもちろんですが、私が目を見張ったのは、ジュード・ロウ。昔は勝手に21世紀のアラン・ドロンはロウだと思っていましたが、気が付けば美しさより、渋さや演技力を優先させる俳優になっていました。今回も穏やかさの中に、正義を願う強盛を感じ、先達のダンブルドアと重なる部分も感じました。いい俳優になったなぁと嬉しかったです。

エディは昨今にはお目にかかり辛い、繊細な優しさと誠実さが個性の人。ニュートのキャラにはぴったりでしたが、今回はダンブルドアとグリンデンバルドに主役を譲った感があるので、前二作が観たくなりました。

邪悪さと哀しさを共存させたクリーデンスのエズラ・ミラーも印象深かったけど、彼も問題児みたいで騒ぎを起こしているので、次は降板かなぁ。他にはクィニーのアリソン・スドルの驚愕の美しさ、ヒックス先生のジェシカ・ウィリアムズの凛々しさが印象的。ニュート兄のテセウスのカラム・ターナーは、若い頃のリチャード・ギアを、ちょい線を細くした感じで、わっ、好みの男優めっけ!と言う感じで嬉しかったです(笑)。

あぁ、面白かった〜で、感想書かなくちゃと思っていたら、降板したジョニー・デップの名誉棄損の裁判が始まりました。それがテレビ中継されると言う前代未聞の裁判。ネットに流れてきたのを読んで、思うところがあり、ちょっと書きたくなりました。

まずデップはDVしていないと、いち早く声明を出したヴァネッサ・パラディは、偉いなと言いたい。子も生したデップに捨てられた形ですよ。そらみた事かと、沈黙しても良いわけですよ。デップの歴代元カノ、ウィノナ・ライダー、ケイト・モスも、彼女らもデップ擁護の声明を出しています。ヴァネッサと違うのは、元カノたちの精神状態は、当時安定していたとは言い難い事。

幼少期の虐待を裁判で明かしたデップ。現在はアルコール依存症である事も周知の事実。若い時は薬物もやっていたらしいデップは、同情相憐れむで、元カノたちには優しかったのだと思います。彼女たちの精神的な支えになる事が彼自身を癒し、それが俳優デップの魅力を作り上げたのか、この頃の彼は、どの作品でも燦然と輝いていました。

そしてヴァネッサとの二人の子供が生まれた頃に「パイレーツ・カリビアン」に出演。二人の子供が観られる映画に出たいと言う、父親なら真っ当な出演作選びです。しかしデップに安定をもたらした家庭は、サブカルキングだった彼をハリウッドのメインストリームに押し上げた代償のように、彼から輝きを奪ったように思います。この頃から、私はデップはつまらなくなったと感じていました。

もちろん、それはデップの責任で、ヴァネッサと子供たちには全く関係ない事。いみじくも、デップの代役を務めたマッツが、「役作りで憑依などくだらない」とインタビューで答えているのを読みした。言い方は辛辣ですが、家庭持ちのマッツが、役柄を私生活に持ち込むことを諫めているのだと思いました。殺人鬼の役を引きづったら、大変でしょ?それと同じく、私生活が芝居を浸食するのも、間違っていると私は思います。

俳優として行き詰まり追い詰められていた時に、自分が輝いていた時に寄り添っていた女性と同じ匂いを、アンバー・ハードに感じたんじゃないのかなぁ。彼女も出て来た話では、充分にメンヘラ。

こう思い巡らせた時、全てを受け入れ、デップを手放したヴァネッサは、本当に偉いと思いました。きっと自己肯定感が高く、見た目より(ごめんよ!)ずっと、賢い人なのだと思います。


優れた伝記映画とは、その人の闇や負の部分をきちんと描いても、魅力的でその人がもっと知りたくなるもの。それを痛感したのが、ダニー・ボイルの「スティーブ・ジョブス」。マイケル・ファスベンダーの好演あっての賜物でした。「MINAMATA」のユージン・スミスもそうでした。デップ、トンネルから抜けたのかと感じたものです。

これだけ赤裸々な証言が続けば、元夫婦は首まで泥まみれでしょう。デップが訴訟を起こしたのは、自分のキャリアの挽回をしたいのか、お金のためか。父親としての誇りを取り戻したいであれば、嬉しいです。全部かな?デンゼルが人格者でマッツも良人なのは素直に嬉しいですが(マーク・ラファロも!)、私は好きな俳優に人格は求めません。変態でも奇人でも、演技が素晴らしければ、それでいいと思っています。私はどちらが悪いとは思いません。両者のキャリアに極力響かないよう、願うだけ。アンバーも数作観ていますが、「アクアマン」続編のメラは、また彼女で観たいです。。


2022年04月14日(木) 「ベルファスト」




本年度オスカー脚本賞受賞作。監督・脚本のケネス・ブラナーの幼少期を投影し、故郷ベルファストを描いた自伝的作品です。私はオスカーは作品賞より、脚本賞を取った作品を気に入る事が多く、今回もそうでした。それほど好きでなかったブラナーですが、愛したくなった作品です。

1969年、北アイルランドのベルファストに住む9歳のバディ(ジュード・ヒル)。しっかり者の母(カトリーナ・バルフ)と兄ウィル、ロンドンに出稼ぎ中の父(ジェイミー・ドーナン)の四人家族で、バディは近所の住む祖父母(キアラン・ハインズ、ジュディ・デンチ)の元には、放課後必ず立ち寄ると言う仲の良さです。存分に子供時代を謳歌していたバディですが、ある日プロテスタントの暴徒がカトリック系住民を襲撃し、平穏に共存していたプロテスタント系住人とカトリック系住人の対立が始まり、ベルファストの街に、大きな影を落とすようになります。

私が目を見張ったのは、バディを含む子供の視点が、とても明朗で元気いっぱいである事。大人たちは、子供たちに子供らしい日常を送らせるべく、一生懸命に生きている。才人で名高いブラナーですが、時に少々臭味のある芝居、英国紳士独特の皮肉なユーモアが、私的にはイマイチでしたが、なんなの、この素直さは?皮肉のない気の利いたセリフやユーモア、子供は天真爛漫、大人も喜怒哀楽や貧乏を隠さず、人情味がたっぷり。お高く止まったところが、一切ありません。

鑑賞前は、宗教の対立を子供の視点から描いた作品かと想像していましたが、これはブラナーが故郷や家族への、愛情や郷愁の思いの丈を描いた作品なのだと、理解しました。父母は祖父母を気遣い、出稼ぎから帰ったお父さんと、家族みんなで映画鑑賞(「恐竜100万年」だ!ラクウェル・ウェルチだ!)。なけなしの生活でも、クリスマスには、子供たちへの精一杯のプレゼント。どんなに紛争が激化しても、学校へは行かせる。おしゃまな初恋、放課後のサッカー。大人は子供の健全な生活を守るのに、全力で頑張る。そこには温かで確かな、家庭の絆がありました。


ブラナーは私より一つ年上で、同じ時代の空気を吸った人です。バディのプレゼントに、「サンダーバード」関連があって、私も大好きで観ていました。私の育った家庭は、これらとは真逆の寒風吹きすさぶ家庭で、たっぷりあるのはお金だけ。それが嫌で堪らなかった私が、この手で育んだ家庭は、ブラナーが育ったベルファストの中と同じです。幸せいっぱい、尽きせぬ感謝を感じさせる画面は、自分の結婚後の人生をブラナーに肯定して貰ったようで、心に沁み渡ります。

そしてお話しの軸となるプロテスタント系とカトリック系の争いですが、バディの家庭はプロテスタント。少数のカトリック系を取り込みたいがため、起こった抗争のようですが(←合っているのか?)、そう思っているのは一部だけで、ほとんどはバディ家のように、平穏に共存していたい思っているよう、感じました。平和を望む方が多数なのに、口をつぐまされるのは、今も昔も世の常なのですね。

プロテスタントの牧師のさんの説教なんですが、不気味で怖い(笑)。ホラー映画の一場面みたいに、絶叫しながらお話ししています。愛想笑いしながら、「とても感動しました」と言うバディに爆笑。ちゃんと聞いてないのに。ここはブラナーお得意の手法で、宗教を皮肉っているのだと思います。

最後までわからなかったのが、お父さんの借金の理由。仕事?このお父さんは、善き人で、今も昔も出稼ぎや単身赴任で、そこで女作って帰って来なくなる、または家庭に足が遠のく不実な夫もたくさんいる中、二週間に一度は必ず帰り、お金の事で怒る妻に(その気持ち、良く解る)お皿を投げつけられてもグッと我慢し(偉いぞ)、父親としての役割もきちんと果たしている。本当に何の借金だったんだろう?

もちろんしっかり者で美人のお母さんも、とても良かった。彼女の一挙手一投足、ロンドンに行きたくないと言う感情も、手に取るように解りました。とにかく夫の留守中、子供だけは何が何でも絶対守ると言う気概が伝わってくるところが、一番好きです。盛大な夫婦喧嘩するところも良かった(笑)。

一番好きなのは、夫が妻に「こんな良い子たちに育ててくれて、感謝している」と、言う場面。子供が中年に差し掛かる頃に言っても遅いんだよ(うちの事です)。子育て真っ盛りの時に言ってこそ、値打ちのある言葉です。

ウィットに富んだ、楽しい示唆を孫に示すバディの祖父母。大人向けの含蓄のある言葉を、平易で解り易い言葉で、孫に伝えます。みんな素敵だったけど、私が一番好きだったお祖父ちゃんの格言は「答えが一つだったら、争いなんて起こらない」です。

バディ初恋のキャサリンはカトリック。「僕とキャサリンは結婚出来る?」と父に問う息子に、「出来るよ。ヒンズー教でもどんな宗教でも、結婚できる」と、息子に教えます。ベルファストの抗争に対しての、この作品のアンサーだと思います。

ラストシーンで、お祖母ちゃんが、「あなたたちの幸せを、ずっと祈っているわ」と言う姿に自分を重ねて、涙が出ました。孫が出来、末っ子も今年30になり、子育てなんてとっくに卒業してしまった私ですが、親に成ったら、死ぬまで親だを実感する日々。でも出来る事は、見守る事と祈る事しか出来ないのです。

さぁ、こんな素敵なジジババの理想が現れたのだから、私も頑張らないとな。夫は無理そうだけど、私は成れるぞ。だって「お祖父ちゃんのお金はお祖母ちゃんのお金」なんだから(笑)。素敵な作品です。自信を持ってお勧めします。








2022年04月09日(土) 「コーダ あいのうた」




オスカー作品賞受賞と言う事で、遅まきながら観てきました。うん、如何にもアメリカ映画が好きな、ユーモアと温かい人間愛に溢れた良い作品でした。文句はないです、一点を除けば。監督・脚色はシアン・ヘダー。父親のフランク役、トロイ・コッツァーも助演男優賞、脚色賞を受賞しています。

マサチューセッツ州の港町に家族と暮らす高校生のルビー(エミリア・ジョーンズ)。父フランク、母ジャッキー(マーリー・マトリン)、兄レオ(フランク・マイルズ)は三人とも聾啞者で、ルビーが漁の仕事や社会生活の通訳を一手に引き受けています。家族のためだと割り切っていたルビーですが、高校の単位でコーラスを選び、歌唱の才能を音楽教師ベルナド(エウヘニオ・デルベス)に見込まれた事から、新たな未来が開けていきます。

「コーダ」とは、聾唖の家庭に生まれた健聴の子供を指す言葉で、観る前は主人公の名前だと思っていました。冒頭父、兄、ルビーで漁を取る場面は活気に溢れて、家族仲も良い様子が描かれています。しかしその実、ルビーは三時起きで漁に駆り出され、その後に学校に行くので、授業中は爆睡。放課後は両親の病院に付き添うので、つぶれてしまう。とても青春を謳歌しているとは、言い難い。その健気さは昨今日本でも取り沙汰されているヤングケアラーで、観ていてとても切なくなります。

ルビーを救ったのは、歌。元々歌が好きだった事もありますが、気になる同級生のマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)が、合唱のクラスを取った事もあり、ルビーも選ぶ。そこで彼女にとって運命の人、教師のベルナド(エウヘニオ・デルベス)に出合います。ルビーに才能を感じたベルナドは、彼女に名門校バークリーを受験するように勧め、個人レッスンも申し出てくれます。

今まで家族のために生きる事が当たり前だったルビーに、やっと自分だけの希望が訪れます。「バークリーは知っているか?」と問うベルナドに、「名前くらいは」と答えるルビー。「そうだろう、メキシコで育った僕だって入学したんだから」と言うベルナド。知っているも何も、日本のその辺に転がっているオバサンの私だって、知っている有名校です。

私はこの先生が大好き。バークリーに入学したのなら、演奏家として身を立てたかったんじゃないかな?それが自分の才能に限界を感じたのか、今は音楽教師。少々変わり者だけど、生徒たちへの情熱的な指導は、都落ちかもしれない今の境遇でも屈する事のない、音楽への情熱を感じます。そして自分の時間を削り、受験のためルビーやマイルズに指導する姿は、理想的な教師そのもの。ベルナド先生とルビーの出会いは偶然だけど、ルビーの今までの人生の頑張りが、彼に引き合わせた必然なんだと感じます。

もう一人好きなキャラが、兄のレオ。両親が何かにつけてルビーを頼るのを、戒めます。両親と同じく聾唖のレオは、この家庭から逃れられないと理解している。だから、健聴の妹は自分の可能性を見出して、ここから旅立たせてやりたいのです。「バカ娘」とからかいながら、随所に妹への愛情が溢れるレオにも、とても心打たれました。踏ん切りがつかないルビーに、「お前が生れるまで、平和だった」と告げるのは、お前がいなくても大丈夫だ、との意味ですね。

さて文句ですが、両親の造形があまりに破天荒過ぎです。仕事や社会生活で、健聴のルビーを頼るのは仕方ないです。「本当は音痴なんじゃないのか?」と訝しむのも、実際にルビーの歌声を聞けないのだから、許容範囲(本当は素直に喜ぶのがベスト)。当たり前のように、娘は自分たち世話して当たり前と考えていることに、憤慨しました。親の矜持に障害のあるなしは関係ありません。一生家族に括り付けるの?

放課後ルビーが帰宅する時間と判っているのに、病気で禁じられてもいるセックスをするか?私的に無理だわ。親としての品格が無さ過ぎる。それからの展開に繋げるためなのは判りますが、私は全然笑えなかった。

母のジャッキーはルビーが生れて耳が聞こえたので落胆したと言います。自分の母は耳が聞こえて、母娘関係が希薄だったからが理由。ならその真逆の状態の娘の気持ちは、何故考えないのか?私はこのお母さんが全く受け付けない。なんだ、あの真っ赤なミニのワンピースは。あんたの娘は、もっと素朴で愛らしいファッションが似合うんだよ。どうして自分の趣味を押し付ける?

色んな作品で書いていますが、私はバカな人は嫌いじゃないですが、バカな母親は大嫌いです。「ママがポンコツなのは、聾唖のせいじゃないよ」と、ルビーが明るく答えますが、今までどれほど葛藤があったか、聞き逃さないで欲しいです。反抗するルビーに「私たちのベイビーが」と言う母に、「あの子は子供の頃から大人だ」と答える父は、まだまだましです。

そんな私の両親に対する怒りが収まったのは、ルビーの発表会。素晴らしい歌声が、突然無音になる。私たち観客も、両親や兄と同じ音のない世界に放り込まれます。それは静寂ではなく、孤独と孤立でした。周囲を見回す父。笑顔が溢れ、喧騒を感じさせる様子に、ルビーの生きる世界を痛感したのだと思います。寂しさを隠さない厳しい顔つき。親として決断した様子に、胸がいっぱいになる。どんなに辛くとも、子供の幸せを一番に願う、それが親の全てです。

ルビーを演じるエミリア・ジョーンズですが、歌手ではなく子役からの女優さんだとか。手話と歌を同時にレッスンするのは、さぞかし大変だったと思います。この子、私が大好きなリンダ・ロンシュタットの若い頃にそっくりなんです。愛らしいタヌキ顔から発せられる、温かみがある伸びやかな歌声も似ている。心の内を隠しながら、表面は明朗に振舞うルビーにすっかり情が移ってしまいました。私的にはオスカーにノミネートされても良かったと思います。

コッツァーの受賞には全く文句ないですが(役柄のフランクとは別人の紳士で、ダンディで素敵でした。もちろんマトリンも)彼の受賞は、キャスト全員を代表して、ですかね?何たってお父さんだもん!。

ラスト、セックス関係以外で声を発しなかった父が、ルビーに「GO」と促します。これは、これからは音に溢れた世界で生きて行くんだぞと言う、父としての餞だと、私は思いました。子供に合わせて、親もずっと成長しなくちゃいけないなと、私も感じ入りました。

オスカー受賞のお陰で、見逃さずに済み、本当に有難かったです。オスカー効果で再度ロードショー中なので、どうぞご覧下さい。この一家に幸あれ。









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