ケイケイの映画日記
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2017年08月30日(水) 「幼な子われらに生まれ」




重松清の原作が、20数年前に書かれたとは思えぬほど、「今」の作品でした。登場人物に皆に一言言いたくなったり、同じように涙したり共感したりで、気分は大忙し(笑)。不器用な大人たちに声をかけたくなっても、スクリーンにはかけられず、気分は傾聴ボランティア。しかし、見守った甲斐あって、もがき苦しんだ人たち皆、一段階段を上ったようです。監督は三島有起子。秀作です。

中年サラリーマンの信(浅野忠信)は、妻奈苗(田中麗奈)とは再婚同士。奈苗の連れ子、薫(南沙良)と美恵子(新井美羽)と暮らしています。しかし12歳で思春期の薫とは折り合いが悪く、信の息抜きは、別れたキャリア志向の元妻友佳(寺島しのぶ)との間に出来たさおり(鎌田らい樹)との、時々の面会です。そんな時、佳苗が妊娠し、その事を知った薫は、「こんな家嫌だ。本当のパパに会いたい」と言い出します。

私がこの作品で、一番心惹かれたのは、大人たちだけではなく、子供の気持ちが良く描けている事。私も複雑な家庭に生まれ、立場としては、奈苗のお腹の子です。私も中学までは、兄たちとは異母兄妹だとは教えて貰っていませんでしたが、何となく、そうじゃないかとは感づいていました。うちの母など「子供は私の命」と、気持ち悪い言葉を錦の御旗の如く言い続け、私と妹を押さえつける。その実、一番大切なのは自分の感情。仕事に遊びに忙しい父は、妻の不満を知りながら、その感情を剥き出しにして継子に襲い掛かるのに、面倒なので、見て見ぬふりでした。ありふれた家族のいざこざが、唯では済まない家庭。その度に、父や兄たちを憎めと母から言われる環境は、今考えると、身震いする程不幸でした。

年の差がある薫と美恵子では、記憶に違いがあり、美恵子は信を実の父親だと思っている。薫は信が実父ではない事、本来はその葛藤を分かち合うはずの妹が、それを知らない事で、二重の疎外感を味わっている。そこへ母の妊娠。ただでさえ反抗期なのに、不安定にならない方が、おかしいです。

そして母親の奈苗がまた・・・。一生懸命、再婚家庭を整えようと言うのは、わかる。しかし再婚時の家族四人の式の写真を、これみよがしに飾るなど、家庭内での諸事万端、幸せアピールが鬱陶しく、おまけに相手の神経を逆撫でするような無遠慮な発言が多く、正直イライラしました。元夫沢田(宮藤官九郎)のDVで離婚したんでしょ?何ですぐ再婚するかな?どうして自分独りで子供を育てられるよう、自立を模索しないのか?

信は毎日定時で仕事を上がり、飲み会にも参加せず、毎日子供たちにお土産を買って帰る日々。「腑抜け」かと思いました。それがお互いの元連れ合いが登場すると、一変します。この夫婦の、今度は幸せになるんだと言う、必死の思いが、画面から伝わって来るのです。

先に再婚した元妻は、自分よりランクアップの男と再婚。自身のキャリアも順調、おまけにさおりまで懐いている。これでは自分が否定されたように感じて当たり前です。奈苗とは、お見合いのような形だったのかと、想像しました。元妻とは真逆のタイプの女性との結婚は、彼なりに見返したかったのでは?しかし、リストラで下請けに出向されたことも、妻に言えない。それくらい、夫婦間は構築出来ていない。さおりに幾ばくかの養育費も送っているでしょう。経済的な不安も募っているはず。子供がいらないと思うのは、確かに夫としては無責任で、褒められた事ではないですが、理解は出来ました。

奈苗たちが、元夫からDVを受ける場面が、後々の出来事の複線として光る。奈苗の再婚への並々ならぬ決意や、のちの一見不可解な薫の行動も、理解が出来ました。奈苗の事を鬱陶しかったと言う沢田ですが、彼女の妻としての献身は、愛情ある夫婦だったら、夫の奮起となるものです。新聞のレビューで、チラッと読んだら、沢田が一番自由だったと書いてありましたが、どこを観てるの?あれは自由なんかじゃない。養育費も払わず、自分の感情の赴くまま、ただのクズです。自由とは責任を果たして、初めて得られる対価です。

「あなたは昔から理由は聞いても、その時の気持ちは聞いてくれないのね」と言う、友佳の台詞が秀逸。男ってそうだよなぁー、と一瞬思いましたが、待てよ、私も理由ばっかりで、夫や子供を責めた事があったじゃないか。何故だったんだろう?思い起こせば、一重に心身の余裕の無さです。この二人の離婚の理由も、見えてくる。一つの事を切欠に、あれもこれもと、昨日の事のように「元夫」を責め立てる友佳の姿は、まるで私だよと、苦笑しました。これは女性にありがちなことです。

何故信は、さおりとは馬が合うのか?それは娘の気持ちを第一に考えているからでしょう。友佳の言う、「気持ちを聞いてくれる」からです。様々な組み合わせを見せる中、一番相性の良い二人に感じました。信が変わろうとするきっかけも、さおりからです。さおりは実父をパパと呼び、継父をお父さんと呼び。薫は逆です。そうやって、区分けする姿だけでも、どれほど彼女たちの内面に屈託があるか、大人は考えて欲しい。さおりがこんな良い子に育ったのは、何故か?そこに思い至った信の、ここからの父親としての挽回の目覚しさが、本当に嬉しい。

カラオケで、信と同じ歌を独りで歌う佳苗。夫婦って似てくるんです。一見無神経に見える彼女の日常は、本当はストレスだらけなのがわかる。そこをしんみりとせず、破顔一笑して拍手してみせる信。私はこのシーンが、一番好きです。こうやって、野を越え山超え、怒ったり笑ったりしながら、この二人は「良き夫婦」になっていくと思います。

その他、エピソードのどれもこれもが、私の見知った話と合致し、とても身近に感じたのも、彼らに寄り添えた一端です。エピソードを詰め込んでも散漫にならず、上手い脚色だと思いました。

子供を連れての再婚も、昨今珍しいことではありません。私の母は、生前「子供のいる人とは結婚するな、子供を連れて再婚するな」と、口癖のように言っていました。身を持って、私に知らせたんだと思います。母も奈苗のように、必死だったのでしょうね。お陰さまで私は、その苦労は知りません。でも子連れの再婚は、悪でも不幸でもありません。そんな悩める人たちに、エールを送る作品だと思います。


2017年08月27日(日) 「キセキの葉書」

バラエティの印象が強い主演の鈴木紗里奈が、マドリード国際映画祭で最優秀外国映画主演女優賞を受賞して、話題となった作品です。11月公開予定ですが、近所の布施ラインシネマで、8/19 に舞台挨拶付きの先行上映があり、観てきました。当日一回上映のはずが、早々にソールドアウトとなり、急遽上映前に舞台挨拶を用意しての、二回目の上映で鑑賞。鑑賞前の舞台挨拶はネタバレできず、あんまり盛り上がりませんでしたが、主演の紗里奈は帰り際、身を乗り出して手を差し出す人々、一人一人の手を握り、挨拶していました。気さくなええ子やな、と私も端の席で、座って見ていたのですが、私に近づくと何と彼女の方から手を差し出して、「楽しんで下さいね」と、にっこり微笑んでギュッと私の手を握る。そんなんされたら、ファンになってしまうやないか(笑)。作品は、やや平板な印象でしたが、それだからこそ、誰にでもわかる真心を感じ、笑って泣いて、心が温かくなる作品でした。実話を元の作品です。監督はジャッキー・ウー。

1995年、震災から半年の兵庫県西宮市に住む主婦の美幸(鈴木紗里奈)。家族は大学助教授の夫、7歳の息子・勇希、重度の脳性麻痺の5歳の娘・望の4人家族。望の介護に掛かりきりになり、勇希はほったらかしなのが悩みです。仕事に忙しい夫に家事や子育ては頼めず、やむなく大分に住む母(赤座美代子)に手伝いを頼むも、「望のような子は、自分で育てられるわけがない。こちらも生活があるので、手伝いなど行けない」とけんもほろろ。怒る美幸。しかし、いつも美幸を気にかける近所の老婦人大守(雪村いずみ)から、「全部自分やからね」と、優しく声をかけられます。この言葉をヒントに、美幸が変わろうとしていた時、大分の父から、母に認知症の兆候があると電話があります。

自分が変われば、周囲が変わる。簡単に言えば、視点を変える、です。言い尽くされた感のある、この手のお話に説得力を持たせるのは、一重に語り口です。この作品の好感度が高いのは、この点が上手いからだと思います。

首の座らない五歳の望を、移動のときはいつもおんぶしている美幸。発作がいつ起こるかわからないので、睡眠もままならない。過酷な状況で、心身ともに疲弊している美幸に、物凄く同情してしまいます。私も酷い母だと怒る。しかし夫の「お母さんは、望の祖母である前に、あんたの母親やろ?」と言う言葉にはっとしました。孫可愛さより、娘の辛さを思い、辛らつな言葉を掛けたのじゃないか?と言う意味に取りました。そんな有り難い夫のアドバイスに、けんもほろろの美幸。まぁ、自分のお母さんそっくりじゃないの。

しかし大守さんや夫のアドバイスは、少しずつ美幸の心に残り、母の日に描かれた、たくさんのお母さんの絵を見て、彼女の心が開くシーンは、月並みな描き方ですが、誰もが共感するでしょう。母なのに、何故?ではなく、母だからこそと、実母を観る美幸の視点が変わったのです。

大分まで介護に行けない美幸は、返信不要の絵手紙を、毎日母に出そうと決心します。大守さんに「言葉だけで人を支えることが出来ますか?」と問うと、「それ以外に何があるの?」と、にっこり微笑む大守さん。あぁ、そうやねと、物凄く頷きました。本人が頑張れるよう、心に滋養を与える。他者の出来ることは、それが一番です。

毎日手紙を出す娘と、それを受け取る母の春夏秋冬が交互に出てきて、母の心模様が変化する様子を丁寧に描写。いつまでも見ていたいような、多幸感に包まれて、この作品で一番なシーンに感じました。

児童文学の作家を目指す美幸は、書くならクスッと笑える事をと、毎日ネタ帳をつける日々。しかし微笑ましさを探す毎日は、苦労の多い彼女の日々を明るく照らし、作家としての腕も上げる事に。誰かのために励む日々は、必ず善き現象として自分に返ってくる。豊かな人生を送るには、これは極意ではないかと思います。

二番目に好きなシーンは、ある事で自分を責め、せっかく書いた原稿を美幸が破ってしまうのですが、それを長男が拾い集め、セロテープで繋いでいる。「お母さんには、これが必要なんや」。もう号泣しました。私も子供たちの幼い時、あれもこれもと励まして貰った事が、蘇りました。この長男君、子育てのパートナーの如く、母を支える良い子でねー。これも家庭生活にありふれた風景でしょう。夫はイマイチ存在感が薄いですが、時々飄々と良い事言ってくれるし、仕事をしっかりしてくれているから、良しとしよう(笑)。いやいやほんまに。

家族が心配だから、留学先から帰国すると言う夫に、「家族の誰も、我慢したらあかん」と答える美幸。「あんたは、望のために我慢しているやん」と夫が言うと、「何を言うの。望のお陰で、どれだけ私らは幸せか」と、答えます。望がいるから、小さな事にも感謝し、人と繋がり、心豊かに生きられると、美幸は言いたいのです。テレビのドキュメンタリーで、生まれつき顔に障害を持つ娘さんを持つお父さんが、「この子がおったから、私はこんなええ人(善人)にさせて貰いました」と微笑んでおられた姿が、重なります。

鈴木紗里奈の演技は、演技以上に存在感が抜群でした。ほっそりとスタイルの良い彼女ですが、大きな子を始終おんぶする姿がとても自然で、苦労よりも、私が育てる!と言う気概に満ちていました。持ち前の明るさと逞しさが、功を奏してます。最初の舞台挨拶の時は、シングルマザーで子育てする自身が、役柄と重なってと、涙したとか。様々な彼女自身の要素が美幸に投影され、しっかりとした役作りになったのでしょう。彼女の起用は、大成功だと思います。

望役の八日市屋天満ちゃんですが、ビックリするほど、望になりきっています。「奇跡の人」のパティ・デュークくらいと言えば、想像して貰えるかな?彼女の演技も、見所です。

描き方が高尚過ぎたりお仕着せがましいと、敬遠されがちな、この手のテーマ。正直ここはもうちょっと工夫して・・・と、思うシーンもチラホラありましたが、そんな小さな事は、気にしなくて良し。描かれている内容は、人生哲学です。それを大衆的に、ユーモアと愛情いっぱい、泣き笑いで描いています。終了後は劇場万来の拍手でした。やっぱり映画っていいですね!


2017年08月19日(土) 「ダイ・ビューティフル」




「ローサは密告された」の熱気に押され、今回もフィリピン作品をチョイス。ですが、言いたい事はわかるし、応援もしたくなりますが、あれこれ盛り込み過ぎて散漫になり、もっと秀作になったのになぁと、少し残念な作品。それでも、好感の持てる作品です。監督はジュン・ロブレス・ラナ。

ロランスジェンダーのトリシャ(パオロ・バレステロス)は、父親から理解されず、家族とは断絶状態。しかし、赤ちゃんの時引き取った娘を育て、学生時代からの親友で、同じトランスジェンダーのバーブ(クリスチャン・バブレス)らと陽気に暮らし、ミスコンの女王となるため、日々励んでいます。しかし、やっと念願の女王に選ばれたその時、彼女は急死。バーブたちは以前トリシャから聞いた言葉を遺言とし、一週間日替わりで、有名人そっくりの死化粧を施します。

トランスジェンダーと言えば、私はショーパブ勤務などを想像していたので、生業はミスコンと言うのは、ちょっと予想外。未だによく把握はしていませんが、フィリピンのミスコンは文化なんだとか。あちこちにミスコン大会があり、トリシャたちは、ミスはミスでもトランスジェンダーの大会に出て、その入賞金で暮らしているのだと思います。でもまぁ、浮き草家業であるのは、確か。これは私は悪いのですが、華やかなショー場面が観られると、楽しみにしていたので、ちょっと肩透かしでした。

娘を引き取る過程はよし。会話も気が利いている。子供時分のエピソードは良いのですが、完全な女性でないトリシャが、子育てにおいて何を感じ、自分を成長させていったのかが、イマイチ描けていません。愛してはいるはわかるけど、最愛感は希薄。なので、絆も薄っぺらい。極端に言えば、なくてもいいくらいです。

過去をその時々で挿入する形ですが、それがあれこれ飛んで、感情が高まりにくい。ここは時代を追って挿入する方が、わかり易く親切です。

恋愛事情も、もちろん出てきます。トランスジェンダーの悲哀が描かれ、しんみりしました。レイプ場面が出てきて、改めてレイプは暴力だと認識させられます。身体は男性なので、本人は自分が傷ついている事を、当初は押し殺す。レイプなのに、レイプではないと曖昧に自分の心を誤魔化します。この曖昧さこそ、性的な自分を確立出来ない、トランスジェンダーを苦しめるものなのじゃないかしら?

良いところも、たっくさんあります。まずトリシャが綺麗なこと!演ずるパブロは、フィリピンのざわちんと日本でも紹介されていて、以前から知っていました。セレブそっくりにメイクした画像がネットを賑わし、私はマスクで誤魔化すざわちんより、レベルが上だと思います。やっぱり男性なので、時々ごつすぎて、興ざめすることがあったので、そこは一工夫欲しかったかな?でも生前も死後も、とにかく綺麗で、演技も上手く、抜群の存在感です。

陰になり日向になり支え合って、強い絆を感じる、バーブとの友情が麗しい。トリシャの人生に、一番寄り添っていたのは、バーブです。親友が急死して、自分も号泣したいはずなのに、涙を見せず、一生懸命遺体にメークするバーブ。娘のプロットは外して、彼女との友情をもっとクローズアップすれば、良かったと思います。そしたら尺は20分くらいカット出来て、ぐっと締まったと思います。

そしてメイクの力。時々お化粧するのが面倒臭くなるときがありますが、トランスジェンダーたちが、必死で女性になるのを見ていると、すっぴんではなく、メイクする姿が自分なんだと思い知りました。お化粧すると、認知症患者さんの進行が、遅れると聞きます。幾つになっても、一番綺麗な自分を見せて、胸を張らなきゃね。

私が一番気に入った台詞は、「この身体は神様から貰ったもの。だからもっと素敵になった姿で、神の元へ行くの」と言う、生前のトリシャの台詞です。彼女は豊胸だけしていました。性的にはどっちつかずの身体ですが、素直に自分の心に従って、自分でカスタマイズした身体に、彼女は誇りを持っているのですね。その誇りを尊重し、理解を深めたくなりました。色々文句も言いましたが、作り手のメッセージは、充分に届く作品です。


2017年08月16日(水) 「ローサは密告された」




人生初のフィリピン映画でございます。ブレまくりの画面、演技しているんだかどうかわからない俳優たちに、やっぱり技術的には映画後進国なのかと、当初は感じていましたが、終わってみれば、これ全部計算だったんですね。社会派ドラマですが、先行きわからないサスペンスとしても秀逸で、世話物的な人情もたっぷり。社会の闇・怒り・哀しさ・情・ペーソスがごった煮ながら、全然食傷せず。圧倒されるも、いいもん見せて貰った元気も貰える作品。監督はプリランテ・メンドーサ。

マニラのスラムで駄菓子店を営むローサ(ジャクリン・ホセ)。電気工事師の夫はぐうたらで、子供四人との生活は苦しく、副業で麻薬も扱っています。毎日をあくせく暮らすローサ一家でしたが、突然警察の手入れがあり、夫婦は逮捕されます。

冒頭簡潔ですが、ローサの人隣、家族、周囲の関係を上手に描写しています。
買出し先の大手スーパーで、小銭のお釣りが切れていて、代わりに飴を差し出され、ごねるローサ(これはフィリピンでは、よくある光景なんだとか)。なのに、雨は降っていますが帰りはタクシー。タクシーはローサたちが住む一角が来ると、入るのを拒み、降ろします。三輪タクシーは入ってくれたのに!と怒るローサですが、多分白タク扱いのタクシーだったのでしょう。ここから先は危険だと、暗示しています。

家に帰り、どたばたと仕入れたものを収めるローサ。夫はと言えば、二階でクスリ。文句を垂れるも、さほど気にしていない様子のローサ。日常なのでしょう。夕食は安い露店で仕入れ、その後は金がないと、薬の売人には払いを待って貰うのに、大っぴらに街頭でやっている賭博にも興じる彼女。

うーん、ド底辺(笑)。これは負の連鎖。クスリに手を染めるのは一時だけとしよう。少しずつお金を貯め、自転車かリヤカーを買い、タクシーを使わず、買い食いせず自炊をして、借金はしない、もちろん賭博も。これで少しは生活は整うはず。そして何より、夫にはちゃんと働いて貰う!ローサの日常は大いに間違っています。なのにあっけらかんと、バイタリティ溢れる逞しさに思えるのは、なんなんだ?これは、フィリピンの現状に一角にある、確かな真実であると共に、ローサたちは、きちんとした暮らし、教育を受ける機会がなかったのだと、描写していると感じました。いわゆる負のスパイラルです。

警察がもう、どうしようもない腐敗。しょっ引いて行くのに、令状も逮捕状もないなと思っていたら、正式な手続きを踏まない違法な逮捕でした(これもちゃんと描いている)。ローサ夫婦は、賄賂の「獲物」だったわけ。この人たち、警察官じゃなくて、暴力団じゃないの?と言うくらい、えげつない「取調べ」と、お金の要求。もう唖然とします。極めつけは、上納金まであること(笑)。警察は、もう立派なやくざです。

釈放にはお金が足らず、ローサの指示で金策に走る上の子三人。長男は家にあるテレビを高く売りつけるのに必死。長女は親戚知人に袖にされたり、罵詈雑言浴びせられたり。しかし、ここで血の繋がった者の、情の濃さも感じさせる演出が心憎い。そして美少年の次男は。この子のしている事の是非より、「相手」を待つ間の演出に、監督の真意があると思いました。すっかり警察への怒りはどこへやら、ローサ家族の絆の深さに、感激してしまいます。

ローサは決して涙を見せない。そんな彼女がラストでほんの僅か涙ぐむ。それはかつて苦しかったけど、希望のあった生活への郷愁なのか、もう後戻りできない哀しさなのか。きっと両方でしょう。

ドゥテルテ大統領は、麻薬撲滅にやっきになっていますが、売人を取り締まるより先に、警察を取り締まった方がいいんじゃないの?これを観た人は、みんなそう思いますよ。

貧困にあえぐ人々は、誰もこの状態を、社会が悪い!と怒らないのが不思議でした。夫も、いい年の長男も、ぐうたらしているように見えますが、これも仕事がないのでしょう。その上を行くしたたかさで生きなきゃいけない人々を、愛情を持ち描いています。その代わり監督が、フィリピン政府や世界に問うたのでしょう。

セミドキュメンタリーのように見せるため、あえて稚拙な部分を残した作風ですが、それも綿密に計算されたものだったと思います。この監督、しばらく注目したいです。お勧めの作品です。



                                                                                                                                                                                                            


2017年08月12日(土) 「夜明けの祈り」




望む望まないに関わらず、女性に生まれたら、一度は人生で立ち止まり自問するはずの、出産。しかし生涯神に身を捧げ、出産とは無縁の人生を送るはずだった修道女が妊娠したら?それもレイプで。こんな実話があったのは、この作品で初めて知りました。作品に出てくる女性たちと共に、この難題にどうすれば良いか?同じ女性として、瞬きするのも惜しいくらい、画面を凝視して考えました。監督はアンヌ・ファンテーヌ。

1945年のポーランド。戦争は終結したものの、赤十字から派遣され医療に当たる女医のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)。ある日若いポーランド人の尼僧が、助けて欲しいとマチルドを訪ねます。困惑しながら、マチルドが修道院を訪れると、そこには陣痛の始まった妊婦が。急遽帝王切開で子を取り出すマチルド。しかし戦争末期、尼僧全員がソ連軍兵士にレイプされ、その時身篭ってしまった尼僧が7人いました。適切な医療を施すよう助言するマチルドですが、修道院の恥になるからと、院長(アガタ・クレタ)は、頑なです。マチルドはシスターの一人、マリア(アガタ・ブゼク)と親交を重ねるようになり、修道女たちから信頼を得ていきます。

セックスには、愛や快楽など、色々な要素を含んでいるはず。夫婦や長年パートナーシップを結んでいる相手だと、コミュニケーションツールでもあるはず。お互いが成人でリスクを承知で合意であれば、変態チックだって、お金が絡んでいたって、私は構わないと思っています。

ではレイプは?レイプはセックスではなく、一方的な暴力です。シスターたちは被害者であるのに、自分を責めている。罪を背負った上、妊娠しているシスターたちは、罰を受けていると思ったはず。妊娠しなかったシスターもいるのだから、自分はとりわけ罪深いと思ったはず。救われません。

困惑しながら、渋々妊婦たちの往診に来ていたマチルドの意識が変わったのは、自分もソ連兵にレイプされそうになったから。やめて!と彼女が絶叫し続けているのに、「みろ、喜んでいるぞ」と言い放つ男たち。どの目が耳が、マチルドの様子を喜んでいると感じるのか?私がこの作品で一番怒ったのは、この場面です。

「私はここに来る前に恋人がいたから、まだ良かった。大半のシスターは処女だったの」と、シスターマリアは痛切に語ります。そんなマリアも、今でも悪夢に苛まれると言う。私が痴漢に初めて遭ったのは、中学生の時。電車の中でスカートの中に手を入れられそうになり、あの時の恐怖は今でも忘れません。驚愕ではなく、恐怖でした。修道女たちは命を失くす事まで浮かび、どんなに恐ろしかったろうと思います。

マチルドの親は共産主義者で、彼女にも色濃くその思想は反映しているはず。戒律を守るシスターたちの気持ちは、彼女には理解出来ません。しかし、マチルドは、彼女たちの気持ちを尊重し続けました。それが祈るしかない術がない、傷心の彼女たちの心を、開かせたのだと思います。

もう一つ私が感じ入ったのは、誰かに打ち明け、助けを求める事の大切さです。マチルドを修道院に引っ張っていった若いシスターしかり、自分一人では自信がなく、同僚男性医師に全てを話し、出産を助けてもらったマチルドしかり、赤ちゃんたちの命を救ってと、マチルドの元に走ったシスターマリアしかり。そこには一番大切なのは、「命」だと言う共通の認識があったと思います。

誰にも打ち明けず、自分独りで収束させようとした院長。私にはレイプと同じくらい大罪を犯したように感じる院長。彼女なりに、修道女たちを守りたかったのです。「恥と名誉から、この修道院を守ろうとしましたが、私が間違っていました」の「懺悔」は、彼女も被害者であると描いています。

出産は決して「恥」ではありません。どんな出産もです。私もいい年なので、望まぬ妊娠、喜べぬ妊娠もあるとは、わかっています。それでもどんな出産も、絶対に恥ではないと言い切りたい。私のような子供を三人生み育てた者が言わなきゃ、生きている値打ちがないです。

マチルドは修道女たちと赤ちゃんを、どう守ったか?マチルドのウルトラCには、本当に号泣しました。誰も傷つけず、誰も犠牲にならず、皆が幸せになる方法でした。

清廉な修道院で生活する彼女たちの歌う賛美歌は澄み切って、心が洗われるようでした。修道院のあちらこちらに、彼女たちが安息と安寧を神に求めているのが、わかりました。いくら考えても答えが出ない時、彼女たちは必死で祈っていました。無力だから祈る。彼女たちの祈りが、救世主マチルドを呼び込んだと思います。祈りは偉大だと思いました。気高いながら、神々しくはなく、とても人間臭い作品でした。今年の私のベスト10に入ると思います。


2017年08月05日(土) 「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」




う〜ん。私は「ハムナプトラ」大好きで、大好きなトムちんで観られると、楽しみにしていたのになぁ。最近は人間ドラマや社会派作品から距離を置き、「ミッション・インポッシブルシリーズ」の合間合間にも、コツコツヒット作を当ててきたトムちんですが、久方ぶりに、イマイチでした。監督はアレックス・カーツマン。

米軍関係者のニック(トム・クルーズ)。相棒のクリス(ジェイク・ジョンソン)と組んで、発掘された貴重な考古物を横流ししています。考古学者のジェニー(アナベル・ウォーリス)と知り合ったニックは、貴重な古代の遺跡を発見します。それは生きたままミイラにされ、この世に強い憎悪を抱えたまま亡くなった、王女アマネット(ソフィア・ブテガ)の棺でした。飛行機でこの棺をアメリカまで持ち帰ろうとした彼らですが、気付かぬ前に棺は開封され、アマネットは、蘇ろうとしていました。

トムちんは、相変わらずアクションも自分でこなして、55歳とは思えぬ裸体も披露して、いつものトムちんでした。でも内容が面白くない。だいたいミイラである理由は?あの撮り方じゃ、ゾンビじゃん。危機また危機は、この手の作品のお約束ですが、遺跡発掘隊みたいになっているから、インディ・ジョーンズのバッタもんみたいで、本家より展開が安過ぎる。

ジギル博士とハイド氏をもじったつもりの、ラッセル・クロウの扱いも中途半端だし、相棒の使い方も雑。一番がっかりは、アナベル・ウォーリス。端正な美女ですが、如何せん地味過ぎて存在感が薄く、トムちんが命がけで「お守り」する理由がわからん。「ハムラプトラ」のレイチェル・ワイズが、如何に作品に貢献していたか、痛感しました。

しかし見所もあります。ズバリ、アマネット役のソフィア・ブテガ。ミイラからの再生なので、禍々しく不気味なのですが、そのこの世のものとも思えぬ風情が、官能的。ソフィア嬢はダンサー出身だそうで、鍛え抜かれた裸身も見せてくれますが、引き締まった身体からは、シャープなエロスが香ります。「キングスマン」でも、両足に刃物つけての登場で、些か際物っぽい方が、似合う人みたい。アルジェリアの血を引くエキゾチックな容姿も、存分に生かせていました。

何度か寝オチしそうになり、トムちんで面白くなかったのは、何年ぶりだっけ?と思っていたら、終わった直後、久しぶりにいっしょに映画を観た夫が、「いや〜、面白かったな!」と大喜びで、びっくり。久しぶりの映画館での鑑賞だったので、妻には中途半端な危機また危機でも、夫的にはドキドキの花丸的展開だった模様。これには、目から鱗でした。興行的には、夫のような人をターゲットにしているはずで、これはこれで、合格かも知れません。

制作会社のユニバーサルは、今後同社の誇るモンスターたちをリプートするそうで、次はハヴィエル・バルデムの「フランケンシュタイン」とか。次作に期待しております。


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