ケイケイの映画日記
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2017年05月31日(水) 「家族はつらいよ 2」




う〜ん・・・。このシリーズは未見ですが、空き時間が出来て、貯まっていたポイントで観てきました。今の高齢者問題に、真っ向から取り組んでいるのは良しなのです。最初はクスクス笑っていたのですが、あちこちピントがずれていて、最後の方は疑問だらけで辛くなりました。監督は山田洋次。今回苦言があるので、ちょっとネタバレ。

長男夫婦・孫と暮らす平田周造。段々車の運転がおぼつかなくなり、長男夫婦は長女夫婦・次男夫婦も巻き込み、周造に免許を返上させようとやっきです。そんな子供たちの心配もどこ吹く風の周造でしたが、ある日、警備の仕事をしている旧友丸田に出会います。昔は羽振りの良かった丸田が、老年の今も仕事をしている事に同情した周造は、旧友たちを集め、丸田の激励会を開きます。その夜、周造の家に泊まった丸田でしたが、翌朝、病気により死亡していました。

キャストの名前を書くのが大変なので、相関図をご覧下さい。

最初は本当に笑いました。親子や夫婦の日常生活もよく描けていて、夏川結衣の長男嫁を見て、朝からきちんと着替えて、御飯やお弁当作って大変だなぁとか。同居しているとね、お嫁さんはパジャマや薄着でうろうろ出来ない。これ結構不便なんだな。老父に運転を止めさせたいと老母に相談するも、「お父さんが運転できないと、私が不便だからダメよ」との返事は、まるっきり同じ内容で困っている、娘さんからの人生相談がありました。

それが、周造が、些細な追突事故を起こしてしまう辺りから、雲行きがおかしくなる。警察に連絡せず、まさかのお金で解決。手はずは周造行きつけの小料理屋の女将がつけましたが、これはダメでしょう。警察に連絡していれば、免許は返上は免れないので、お話が停滞するからこの流れでしょうが、これは都合よすぎる展開です。

基本的にこのおうちは、みんな良い人で、仲がいいのもわかる。そして経済的にも恵まれている。それはいいことなんですが、モデルケースのはずのこの家族、現実ではレベルが高すぎる。周造はポンコツの車を売っても、すぐ新車を買える財力があるし、妻はお友達と長年の夢だったオーロラを見に行く。それまでいっぱい我慢も節約もしたでしょう。それでも破格の贅沢に、私には思えます。

長女は税理士として自分の事務所を持ち、ピアノ調律師の弟から助言され、娘のため即効高いピアノが買えちゃう。長男嫁は、優しくて大変出来た嫁ですが、その息抜きが、お着物着て友人と歌舞伎とは、なんだかなぁ。ちょっとホテルでランチじゃ、ダメなの?第一私の周りには、専業主婦なんかいないもん。いても、それはご主人が「破格」の甲斐性がある人だけです。共稼ぎの三男夫婦も、順調そのもの。

こんなに何の心配も無い家族、本当にあるの?どんなに順風万班に見える家庭だって、現実には結婚していない子供がいる、離婚して返ってきた、失業中の者がいる、誰か病気だ。誰と誰は険悪だ。何がしか心配事があります。

こんな何の心配もない人たちから、哀れみのように下流老人の心配されてもなぁ。これは下流層を見下してないか?私が下流老人の立場なら、大きなお世話だと思っちゃう。丸田にしても、人の良い大家さんは、こんなボロアパートで独り亡くなるより、お友達のところで亡くなって良かったと言うけど、何十年かぶりに会った友達に、大変な厄介をかけるより、ひっそり亡くなり、この大家さんに見つけてもらう方が、安寧な死に方だったんじゃないかな?

下流老人の丸田が不憫なので、忙しい中、周造一家が火葬場でお見送り。長男は出張前の忙しい時間をやりくりしてやってきますが、ずっと時間を気にして、不機嫌です。だったら、来なければいいじゃない。不遜な態度を見せられて、こっちが不愉快よ。それ、丸田のためじゃないでしょう?父親の心を慮ってでしょう?それって必要な演出かな?

生き別れの娘、実兄がいるなら、平田家って、どこまでも素敵なの〜的演出じゃなくて、どちらかに来てもらいたかった。例えそれが現実的でなくても、その方が観客は嬉しいと思う。

その他、若い三男夫婦が、メールでやり取りする場面を強調しますが、それっで若いと言う演出ですか?時代遅れ過ぎる。時代遅れと言えば、丸田のボロアパートから、多分隣の部屋のつもりでしょう、赤ちゃんの泣き声が聞こえて、びっくり。底辺を強調しているつもりなのか?今時の貧困夫婦は、ワンルームには住むでしょうが、このようなアパートには住みません。正確に言うと、こんか感じの古物件は、今住んでいる人が亡くなるのを待って、大家さんは物件を売るか、今風の物件に建て変える場合が、ほとんどです。ほんとに白けた。

自分のベッドで、見知らぬ人に死なれた妻の感想は、スルーでした。怒ってもいいし、夫を慰めてもいい。老夫婦の味わいとして、そこは描いて欲しかったです。

良かったのは小林稔侍と、三男夫婦の描き方。飄々と今の境遇を受け入れ、孤独に生きている丸田を好人物に見せたのは、小林稔侍のお陰です。持病を持っている彼が、生活保護を受けなかったのは、娘に対してのせめても親心だったと思います。老々介護の妻の実家を気遣い、同居を申し入れる次男の思いやりが嬉しい。今時夫婦の良き面です。

まぁいっぱい悪口書いちゃった(笑)。場内は超シニア層でいっぱいでした。ニッチな層が、本当はどう思われたのか、感想が聞きたいです。


2017年05月27日(土) 「メッセージ」




SFは苦手ですが、監督のドゥニ・ヴィルヌーヴが好きなので、観てきました。ラストの後味は良いものの、今回はイマイチかと観た当初は感じていましたが、日が経つに連れ、段々と解釈が深まってきて、今では好きな作品です。

最愛の娘を亡くした言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)。ある日地球の12箇所に、謎の生命体が降り立ち、アメリカ政府も究明に当たります。彼らと交信すべく、軍のウェーバー大佐(フォレスト・ウィテカー)から協力の要請を受けたルイーズと物理学者のイアン(ジェレミー・レナー)は、彼らに直接コンタクトします。

前半は退屈でもう。生命体の言語を解読する方法など、はぁ、そうですかと言う感じ。時間軸の事柄など、これらに造詣も持ち合わせず、興味も全く無い私は、観にきたことを後悔しきり。生命体のヴィジュアルも、個人的にイマイチ。あれはイカの墨か?しかし、時々挿入されるルイーズと娘の暖かで切ない様子に、心惹かれるものがありました。ルイーズが防護服を脱ぎ、自分を晒し、「私はルイーズ」と、生命体に語りかける様子は、彼女の人柄が伺え、好印象。

アメリカ以外にも生命体は降り立ち、各国で対応は様々で一枚岩ではない。アメリカが一番攻撃的な気がするけど、今作では中国でした。この辺は、アメリカが大国として認識している時勢が反映されている気がします。

世界規模を超え、宇宙規模のお話を、最後はどう収めたか?禁じ手スレスレ、それこそSFに造詣が深けりゃ、議論や理解も出来ますが、こちとら「わからない事がわかりません」のオツムなので、これなら何でも出来るわな、とは感じました。しかし後味は良い幕切れでした。

この幕切れが胸に残り三日間。あぁそうかと思い当たることが。ヴィルヌーヴが今まで描いて来た何作かは、子供を喪失した親が出てきます。監督はその苦しみを、涙ではなく、怒りと憎悪で描いていました。言わば、親になったための苦しみです。今作で描かれるのは明確な死。しかし、子を亡くしたとて、その子のいない人生が良かったのか?答えはノーでしょう。亡くす事がわかっていても、多くの親は子供に会える人生を選択するのでは?私ならそうします。そして、かけがえの無い時間を、今以上に大切にするはずです。

それは子供だけではなく、多くの過去の出来事にも置き換えられるはず。たくさんの映画でも繰り返し描かれる記憶。それらに込められるものは、「愛した記憶は忘れない」です。イアンのルイーズからの質問の答えが、この作品のテーマかと思いました。どうぞご覧になってくださいね。

壮大なお話の中に、今の世界的な世相を織り込みながら、国境は関係なく、パーソナルな事柄に到着したお話。原題は「ARRIVAL」です。


2017年05月20日(土) 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」




新聞の地方欄の片隅に載る様な、小さな事件。世間を揺るがすような大事件ではないけれど、当事者だったら、一生立ち直れないだろうと、やるせない気持ちにさせる、そんな事件に関わったのが、この作品の主人公リー(ケイシー・アフレック)。その絶望的なやるせなさを、暖かな眼差しで包み込み、傷口に手を添えて、かさぶたにしてくれるような作品です。監督・脚本ケネス・ロナーガン。

ボストン郊外で、便利屋として暮らすリー(ケイシー・アフレック)。心臓に重い疾患を持っていた兄ジョー(カイル・チャンドラー)が亡くなったと、知らせが入り、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ります。離婚した兄には16歳の一人息子パトリック(ルーカス・ヘッジス)がいます。遺言書で、後見人はリーが指名されており、この町でパトリックを養育して欲しいと記されています。何も聞かされておらず、困惑するリー。彼にはこの故郷に、辛すぎる記憶がありました。

冒頭の楽しそうな、幼い頃のパトリックとリーのやり取りから始まり、現在と過去を交互に挿入しながら、リーの過去に何があったか?を浮き彫りにします。今のリーが、何故世捨て人のような暮らしをしているのかがわかると、同情と言うには生易しい感情に駆られ、深いため息しか出ませんでした。

父親の死にもすぐ立ち直り、チャラチャラ女の子二人を二股かけたり、バンドの演奏に精を出したり、そんなものか?と、こちらもやるせない気分にさせるパトリック。しかし観続けていると、彼も複雑な感情に苛まれているのがわかる。酒びたりで失踪してしまった母(グレッチェン・モル)でも、彼は母が恋しいのです。いつも正しい父に反発心があったのかも。それでも冷凍チキンにパニックになったり、漁師の父の船を売るのを断固反対する姿に、悲しみを見せないパトリックの、本心が隠されています。

別れた妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)が、久しぶりにあったリーに、「私はあなたに地獄に落ちるような酷い事を言って、責め立てた。謝罪したいの」と泣きながら言います。責め立てずには、いられない事でした。ランディは、地獄の底から自分だけ這い上がった事に、罪悪感があるのですね。本当は二人で乗り越えるべきだったと思っている。見過ごしてしまいそうな「愛しているの」の言葉には、別れた事を後悔している彼女の気持ちが滲み、涙が出ました。

対するリーは、「そういって貰えて救われた」と言いますが、そんなの嘘っぱち。ずっとずっと責められる方がましのはずです。ランディが救われるように、そう言ったのでしょう。耐え切れず、分かち合うべき悲しみから逃げたのは、リーだったのじゃないか?しかし、誰が彼を責められようかとも、思いました。

観ていた段々、これは兄が弟に息子を託したのではなく、息子に弟を託したのではないか?そう思えてきました。それは、リーの寝室に、三枚の写真が飾っていたのを、パトリックが見入るシーンで、確信になります。今は一人ぼっちになったパトリックですが、彼は若い。若さには希望と夢がある。対する弟は?自分でけりを付ける前に、故郷から逃げてしまった弟に、もう一度過去を対峙させるために、後見人に選んだのだと思います。

冒頭で、5年から10年の余命と言われたジョー。故郷から逃げていく弟を見守り続け、自分が死んだ後、息子が金銭的に困らぬようにローンも残さず蓄財していたジョー。別れた義妹にまで話し相手になっていた彼。冒頭で死んでいく彼ですが、兄として父として、死後まで気遣っていたと思い至った時に、深い敬意の念が沸きました。そして弟もまた、病身の兄を気にかけることで、何とか生きていたのだと思います。この作品は、伯父と甥を描いていただけではなく、夫婦、親子、兄弟を描いた作品だと思います。

この作品でオスカーを取ったケイシーは、若い頃小動物系の可愛さがあり、その手の男性は青春期を過ぎると、その点が仇となり、役に恵まれなくなりますが(この作品にも出ていたマシュー・ブロデリクもそれ系)、ちゃんと大人の男性の魅力を身に付けたなと、感心。もごもご喋るのは今も昔も一緒ですが、快活だった故郷にいる頃と、虚無感に捕らわれた現在、困惑・絶望など、無表情で演じきって、最高の演技でした。

少ない場面で、絶品の演技を披露する安定のミシェル。内面の葛藤を演じるのは難しかったはずのパトリックを若々しく演じたルーカスも良いです。しかしながら、脇で私が一番目を惹いたのは、カイル・チャンドラー。FBIだったりCIAだったり、果ては大富豪だったり、そんな役柄のチャンドラーしか記憶になかったのですが、市井の誠実な人を演じて出色でした。死後まで存在感を漂わし、今までの彼で一番好きです。

ラストは、一見何も変わらぬ日常に戻るリー。それでも「家は引っ越すよ。もう一部屋、ソファーを置いて。お前(パトリック)が遊びに来るだろう?」と言う言葉に、彼もやっと少しずつ、過去から這い上がったのだと感じました。そのソファーは、兄が生前リーに与えた物です。人間らしい暮らしをするようにと。パトリックがやがて妻を迎え、子も連れてリーを訪れる時、リーの本当の再生が始まるんだと思います。

凍てつく風景が目に焼きつくマンチェスター・バイ・ザ・シー。その風景に相応しい厳しさに身を置く人々を描きながら、雪解けのような暖かさまでを描いている作品。オスカー関連は何作か観ましたが、私はこの作品が一番です。私の持論は、オスカーは脚本賞を取った作品が、その年一番良いと思っていますが、私の中で裏づけされて、ちょっと嬉しい気分。一生心に残る大好きな作品です。








2017年05月14日(日) 「スプリット」




久々のマイケル・ナイト・シャマランの作品。別に見限っていたわけじゃなく、他の見たい作品と重なるのが続き、パスしていました(←それを見限ると言う)。今回ジェームズ・マカヴォイが多重人格を演じると言うので、観ることに。ある意味笑えるシーンもあるだろうからと、結構邪な期待を抱いて観に行きましたが、これがあなた、案外まとも(笑)。ツッコミも相変わらずあるんですが、それでも伏線めいた台詞は拾ってあるし、切ない場面もあり、結構面白く観ました。

ケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、クレア、マルシアの三人の女子高生は、クレアの誕生日パーティーの帰り、見ず知らずの男ケビン(ジェームズ・マカヴォイ)に、拉致監禁されてしまう。密室に監禁された三人は、やがてケビンが様々な人格を持つ多重人格者だと気づきます。三人は何とかこの状況から抜け出そうと必死ですが、上手くいきません。ケビンの主治医フレッチャー(ベティ・バックリー)は、ケビンの異常に気づき、何とか状況を聞きだそうとします。そうこうしている内に、ケビンは、新たな人格を作り始めていました。

まずはマカヴォイの芸達者ぶりをご覧あれ。多重人格者として主に出てくるのは、4〜5人くらい。女性あり、9歳の男子ありで、これがメイクも衣装も替えずに演じ、ちゃんと演じ分けられている事に、まず感心。ただし設定では23人だそうで、古代の人物もちょろっと出てきますが、まぁ余計だったかな?シンプルにこの5人くらいの設定にしといた方が、納得し易い気がします。

監禁場所が薄暗く、コンクリート打ちっぱなしで、少し外に出ても薄汚れた地下室で、不安感を煽ります。マカヴォイもスキンヘッドで不気味で得体が知れず、不安感倍増。女の子たちの脱出劇もサスペンス的味付けが上手く、ドキッとする場面の繰り返しで、これも上々です。

でも最後でまた脱力するんだろうなぁと思っていましたが、これが意外とそうでもない。フレッチャー医師が、「別の人格が出る時は、体も変調し、血糖値が上がる。超能力者の原型は、多重人格」的な解説をするので、妄執的な思い込みと言うか、一種の火事場の馬鹿的な作用で、これも有りかと、私は納得出来ました。

如何にもアメリカンな明るい二人と違い、ケイシーだけが悲観的で暗い影がある。この子の辛い過去を挿入して、ケビンの重い精神疾患とをリンクさせる手法も、切ないです。

理由はわかっても、精神疾患に至るまでや、拉致の動機の掘り下げが甘く、素通りするのが残念。これでは重い精神病患者は、やっぱりずっと入院させなきゃと、思われるのを危惧してしまいます。

ちゃんと通院していたはずなのに、何故こんなに重篤になるまで、わからなかったのかも、疑問。ケイシーはフレッチャーの残した伝家の宝刀を抜きますが、何でフレッチャー自身は抜かなかったのか?そこも疑問。ただフレッチャーは良き医師で、自分の責任として何とか真相を突き詰めようとする誠実さは、好印象でした。

潤んだ瞳に強い意志を滲ませたアニヤが、強い印象を残します。顔立ちは、人気モデルのケンダル・ジェンナーに似ていて、番茶も出花的愛嬌は一切なく、終始冷静でクレバーなケイシーを好演しています。ラスト近くの、婦人警官に対しての一層強い眼差しに、ケイシーのこれからの人生が好転される希望を感じました。

オーラスにシャマランと深い縁のある大物の登場あり。上手くいけば、続編作りたいのかな?凡作っちゃ凡作ですが、好感が持てる箇所が随所にあり、私は好きな作品です。


2017年05月03日(水) 「美女と野獣」(IMAX 字幕版)




素晴らしい!私的にはパーフェクトな作品。美しく聡明なベルを、フェミニスト活動も盛んな、知性派のエマ・ワトソンが演じると聞いて、すごく楽しみにしていました。監督も安心のビル・コンドンと言うことで、初めてIMAXをチョイス。いつもチケットはサービスデーとにらめっこで、財布の紐は固い私ですが、今回は自分の大盤振る舞いを褒めたい気分(笑)。絢爛たる画面と、勇敢で慈愛溢れる内容の両面を、味わい尽くせたと思います。

フランスの小さな村で父(ケヴィン・クライン)と二人暮らしのベル(エマ・ワトソン)。読書好きで見識の高いベルは、変わり者として村では浮いた存在です。しかし父は、そんな娘を優しく受け止めてくれます。ある日、町へ仕事に出かけた父は、森で遭難してしまい、廃墟めいた城にたどり着きます。そこでベルに土産をと、バラを一輪失敬した父は、突然野獣(ダン・スティーブンス)に襲われ監禁されてしまいます。野獣は元は、それは美しい王子様でしたが、傲慢で美しい者しか傍にも寄せつけない我がままさを、魔女に咎められ、野獣の姿に変えられてしまいます。一本のバラの花びらが置かれ、その花びらが散る前に、本当に愛し合う女性に巡り会えねば、野獣は永遠に王子には戻れないのです。

オープニングの、圧巻の歌と群舞に、まず心は鷲掴み。あぁ〜、これよこれ!伸びやかな声量、老若の男女の感情を表す仕草や表情を織り込んだダンス。時には愉快に、時には切なく、その時々の心情を謳い上げる歌の数々。徹頭徹尾、正統派でした。

どれもこれも気に入りましたが、一番は「明けない夜に君を待つ」と、切々とベルへの恋心を歌う野獣のシーン。もう泣いた泣いた。報われないだろう愛に身を焦がし、それでも愛する気持ちを抑えきれない。こんな心模様は、だいたい女性で表現されるものですが、野獣が歌って全然女々しくない(笑)。いや、野獣だからこそ、胸に染み入るのか?一押しの場面です。

オープニングシーン、質素な出で立ちながら、群集の中で、一際輝いていたベル。父の身代わりとなったベルが、誰もが羨ましがるハンサムなガストン(ルーク・エヴァンス)をふるのに、何故野獣には心寄せたのか?シェークスピアの一節を諳んじる、教養がきっかけでした。読書好きには夢のような書物の山を、全部読んでいた野獣。ベルは素直に野獣に憧れたことでしょう。

そんな、目に見えないものの価値を理解するベルが、行ってみたかった場所にも感じ入りました。「本を読むと、世界中に行けるのよ」と、目を輝かせた彼女が、有名な観光地や、風光明媚な場所ではなく、どこに行ったか?愛情とは、受け継がれる者がいれば、永遠なんだなと思いました。思えば、変わり者とされるベルを、父は一切否定せず包容してくれたから、今の勇敢で愛情深いベルがあります。

翻って野獣は?同じように母は早くに亡くなり、彼は孤独をかみ締めたでしょう。王様がベルの父のようであれば、彼は野獣に変えられることもなかったはず。それを一番知っているのは、ポット夫人(エマ・トンプソン)を始め、侍従の人たちなのだと思います。二人に恋心が芽生えるようせっつきたいルミエールに、「何もしなくていいのよ」と諌めるポット夫人にも、見守ることの大切さを学びます。あの時、やれいけそれいけ!と、二人をけしかけていたら、この恋は成就しなかったはず。

そこで重要なのは、魔女の存在。この魔女さん、作品の描き方からすると、ずっと野獣を見守っていたのでしょう。同じように傲慢なガストンは、前半は結構愛嬌があるのに、後半からは血も涙もない悪漢に変貌していくのは、愛を知り更生していく、野獣とは対照的です。ガストンも戦争帰りで、虚無感に包まれた自分の感情を打破したく、ベルに求愛したはず。でもそこには、ベルの美しさや手強さに対する興味だけで、愛はなかったのでしょう。ベルの父に対しての思いや仕打ちに、本当の愛とは何かが、隠されています。

時計や蜀台に変えられた侍従たちは、実写では違和感あるかな?と予想していましたが、滑らかなCGで、実写に溶け込んでいました。ルミエールを中心とした、野獣とベルの恋を熱望するシーンの、溌剌とした躍動感や、野獣を村人から守る戦いの場面など、ちょっとしたスペクタクルで、とても見応えがあり、心も躍ります。

人は見かけじゃない、傲慢や野蛮に暮らしちゃいけないなど、子供たちに道徳心を学ばせながら、大人はその奥の包容や慈愛の大切さに感じ入るでしょう。
みんなが知っている内容を、豪華絢爛なミュージカルとして満点に仕上げ、かつ細部の脚色に腕を見せ、内容に感動までさせる作品です。何でオスカーには何もノミネートがなかったのかしら?不思議に思うくらい、素敵な作品でした。


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