ケイケイの映画日記
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2016年11月27日(日) 「この世界の片隅に」

私は亡くなった今敏の「東京ゴッドファーザーズ」が大好きなんですが、観た時、これはアニメだから、こんなに素直に心に染み入るんだなぁと感じましたが、この作品も同様な感想を持ちました。観たのは奇しくも両作品とも、テアトル梅田。これも縁だなぁと、感慨深かったです。原作はこうの史代。監督は片淵須直。秀作です。

昭和19年2月。広島に住む18歳の少女すず(声・のん)は、急に縁談が持ち上がり、呉に住む海軍・文官の北條周作と結婚します。優しい義父母と同居はいいのですが、気の強い義姉径子が、娘晴美を伴い出戻っているのが、少し窮屈。でも物資がどんどん無くなって行く中、一生懸命工夫し、夫や婚家に尽くし、日々誠実に生きていました。しかし戦局は段々と日本に不利になっており、地方都市の呉にも、銃弾の雨が降る日が増えていきます。

このお話、実はかなり悲惨な内容なのです。しかしそれを突出して感じさせる事無く、今でいうところの不思議ちゃんである、すずの大らかさを前面に出して、ユーモアさえ感じさせます。戦時下であっても、市井の人の暮らしは、現代と同じような喜怒哀楽もあったのだと言う思いを抱かせるのです。故に、後半から頻繁に起こる空襲場面や悲劇的な事柄の痛ましさが、倍増するのでしょう。

これが実写ならどうか?すずの造形を微笑ましく思うより、こんな時代なのにと、頼りなさが先立つように思うのです。「東京ゴッドファーザーズ」は、赤ちゃんを拾い育てるのは、ホームレス。これが実写なら、不潔な場面も多々あるはずで、観るに忍びない気持ちになったろうなぁと、当時思いました。そう感じてしまうと、赤ちゃんの持つ人の心を輝かす力、その後の奇跡も、所詮作り物に見えた事だろうと思います。

しかしこの作品が曖昧に作っているかと言うと、そうではありません。食事の様子の細かい工夫、服装、配給、闇市など、段々と変わっていく街の様子など、背景を丁寧に描いています。一口に言うと、「暮らし」です。

それ以上に感嘆したのは、当時の人々の持つ感情が、とても繊細に描かれていること。顔も観ずに結婚したすずですが、両親から思えば、年頃の男性がどんどん戦地に行かされた状況を思えば、結婚の承諾に、うんもすんもなかったのでしょう。すずが「大怪我」をした時も、妹のすみだけを見舞に行かせるのは、径子の娘・晴美に起った出来事に、娘の嫁ぎ先の家族の心情を慮っての事だと思いました。すずの両親は、本当は飛んで行きたかったろうなぁと思います。

今の感覚では有りえない状況も、しっかり認識させるのに対し、普遍的な家族の愛情も描かれます。里帰りした娘に、自分も苦しいはずなのに、おこずかいを渡す父。気詰まりな小姑との同居に、文句ひとつ言わないすずですが、ストレスで禿が出来てしまった事。危険な状況でも、艶かしい想いを隠せない若夫婦。見つかって恥ずかしがる二人に、「夫婦なんだからと」と、平気な顔をする、舅・姑。

息子夫婦の仲の良さを、微笑ましく見守る舅・姑は、善き人でした。昔を描くと、嫁いびりばかりが描かれますが、こんな風景も確かに有ったのだろうと、素直に思わせるのも、アニメの力かもと思います。「あんただけでも、助かって良かった」と、あの状況に嫁に語りかける姑に、ありがたくて涙が出ました。実写だと、「母と暮らせば」の吉永小百合の台詞になっちゃうもん。

無体をいう憲兵を、笑ってバカにする北條家の様子、息子を戦争に取られた家を気の毒がる近所の人の井戸端会議をさらっと挿入。そうだよね、うんうんと、ものすごく納得。当時だって人々は、耐え忍んでばかりじゃなかったはずです。自由が奪われる中、心の自由を奪われないようにした、たくさんの人々がいたからこそ、国は復興出来たんだなと、思いました。

一つだけわからないは、幼馴染の哲が、すずを訪問した時、周作が母屋の鍵を閉め、すずと哲だけ二人切りの時間を作った事。あれは妻を試したのでしょうか?それとも、お手伝いさん代わりのように、かっさらってきた、若い妻への詫びでしょうか?でもそれで間違いが起ったら、どうしたんだろう?哲のすずへの行動も、私がすずなら、バカにされたと思います。すずにもその感情があったと思う。そうさせる状況を作る周作への怒りも。男って自分の思いだけで、女の気持ちは無視するのは、戦争中も今も関係ない訳ですね(笑)。

大人しくいい人ばかりの中、異彩を放っていたのが、気が強く率直な物言いをし、当時珍しかったであろう、自我の強さを持っていた径子。私は好ましく観ていましたが、観客もそうだったと思います。そんな彼女が、「私は全部人生は自分で決めてきた。だから納得出来る。でもあんたは、親に言われて広島から呉まで嫁にきて、自分では何一つ決める事が許されなかった。私はあんたが哀れだ。この家に居たければ、居ていいんだよ」と言った時、あっ!と思いました。それってすずに限らず、市井の人々の事なんですよね。

今は当時とは違います。人々よ、確立した自我を持て。そういう事かしら?この作品からメッセージを受け取るなら、ここかと思いました。

私が観た回も、立ち見が出ていました。現在全国で続々と上映館が増えているそうな。世代で違った視点が出そうな作品。私は自分の疑問を解くためにも、名作の誉れ高い原作も読みたいと思っています。



2016年11月20日(日) 「ガール・オン・ザ・トレイン」





ご贔屓のエミリー・ブラント主演のミステリーと言う事で、初日に観てきました。ミステリーとしては凡作ですが、エミリー演じるアルコール依存症の女性他、登場する女性たちの物哀しさに心惹かれた作品です。監督はテイト・テイラー。

愛する夫トム(ジャスティン・せろー)と離婚したレイチェル(エミリー・ブラント)。二年が経ちますが、未だ傷心癒えぬ彼女は、毎日列車に乗り、我が家だった家を眺めています。隣に住む若夫婦スコット(ルーク・エヴァンス)とメガン(ヘイリー・ベネット)の様子に理想を見出し、自分の憧れをメガンに投影するレイチェル。しかしある日、メガンが別の男性とキスする様子を目撃します。その直後、メガンは忽然と姿を消します。

レイチェルが離婚に至ったのは、彼女のアルコール依存が原因です。依存の理由は不妊治療が捗々しくなかったから。以降このアルコール依存の症状が、作品の鍵を握ります。

トムは妻を支えるどころか、浮気相手のアナ(レベッカ・ファーガソン)に子供が出来たため、すぐに再婚。レイチェルの症状は加速します。常にお酒を片手に、記憶が無くなるまで飲むレイチェル。そしてお門違いの義憤に駆られ、卑しい心を正義感だと思い込み、意見や告げ口までする。惨めで哀れな彼女。

しかし惨めで哀れだったのは、レイチェルだけではありません。アナは「あなたの愛人だった時は楽しかった」と言います。幸せの絶頂のはずが、育児に疲弊し、夫は浮気していないか疑い、そして常にレイチェルの陰に怯えます。略奪した妻・母と言う立場に強気でいられるほど、彼女は厚顔ではないのでしょう。

夫と仲睦まじいと思われているメガンは、夫婦の営みを「私は娼婦」と言います。彼女も夫の独占欲と横暴さに疲れ果て、カウンセラー(エドガー・ラミレス)に診てもらっています。セックスを嫌悪しながら、男を誘うメガン。その奥の彼女の更なる秘密を知らされた時、深い同情の念が湧いてくるのです。

同情するのはメガンだけではなく、レイチェルやアナもです。皆が皆、妊娠・子育て・セックスと、自分の性に振り回されて、情緒不安定。そして夫と言うより、男性そのものへの依存。自分の幸せには、優しく抱きしめ、守ってくれる男性が必要不可欠だと渇望する感情。これを浅ましいだの自立していないだの、誰が嘆けるだろう。彼女たちの年齢の頃は、私だってそうだったじゃないか。

その幻想の終焉の描き方も、やはり哀しい。その中で際立った決別の仕方を見せたのがアナ。彼女が母親であることを思えば、納得出来ます。

美しき演技派・エミリーは、今回身も心も傷だらけで、目の周りはシャドーが滲み、汚れ役と言っていい役です。清廉なイメージの彼女にしては異色の役柄ですが、これも役の幅を広げるには良い選択で、今回も好演。レベッカは、今回ブロンドで、最初誰だかわかりませんでした。アクション女優と言う認識だったので、元愛人で現妻の苦悩と言う今回の複雑な役どころに、またびっくり。スウェーデンからはアリシア・ビキャンデルがハリウッドで引く手あまたですが、妖艶でクールなレベッカにも、是非頑張ってほしいな。

上記二人も素敵でしたが、私が一番魅了されたのは、ヘイリー・ベネット。成熟した色香を発散させながら、感情の浮き沈みの激しさは、まるで思春期の少女のように、脆く儚げです。これから出演作が続くようなので、注目したいと思います。

女性陣に比べたら、クズや暴君であるとされるトムやスコットの描き方は浅く、特にスコットには、情状酌量の余地があるように思えました。でも作品的には、そう思えたらダメなのかも?と言う気がします。女性を深く描くには、男性の描き方も掘り下げなければ、片手落ちです。アルコール依存の症状であるブラックアウトは、上手く内容に絡んでいました。特徴である、嘘に嘘を重ね、逃げ場がなくなる様子も、依存症の痛ましさを感じさせました。

アメリカでも日本でも、30代女性の憂いは同じようなものみたい。この憂いから脱出するには、自分を幸せにするのは、誰でもない、自分自身だと認識する事だと思います。愛されることを望むより、愛する事を望んで欲しい。相手は男性でも子供でも仕事でもいい。それが一番近道だと思います。その時きっと、ガールからウーマンになるのでしょう。







2016年11月12日(土) 「湯を沸かすほどの熱い愛」




このダサいタイトル、何とかならないのかしら?この素晴らしい作品が台無しな気がするのは、私だけ?あの綺麗な綺麗な宮沢りえが演じる肝っ玉母さんが、溢れる母性を周囲の人々に惜しみなく与える姿に、何度も泣かされました。秀作にして力作です。監督は中野量太。

先頭を経営する双葉(宮沢りえ)ですが、一年前夫の一浩(オダギリジョー)が失踪してから、休業して高校生の一人娘の安曇(杉咲花)と二人暮らし。双葉の頑張りも限界に来ていた頃、彼女に癌が発覚。余命いくばくもないと診断されます。お先真っ暗な中、泣いている暇のない双葉は、まず一浩を探す事から始めます。

と、ここまでは、ほんの序章。私は死期の近いシングルマザーが、一人娘へ限りない愛を捧げる作品とだけ思って臨みましたが、それは幹にしっかり描かれますが、他にも学校でのいじめ、ネグレクト、母親や夫婦の有り方にも言及しており、それが全てきちんと整理できて、アンサーされています。散りばめた伏線も全て回収していて、本当に感心しました。

陰湿ないじめに泣き寝入りする安曇は、一人奮闘する「お母ちゃん」を思い、本当の事を話せなかったと思います。不登校になりそうな娘を、ここで負けたら、ずっと負け続けると、娘の布団を引っぺがし、猛烈な勢いで叱咤して学校に行かせる双葉。彼女は正しい。物凄く。しかしその時私の胸に去来したのは、今の私はもうこれは出来ないな、でした。

母親には愛情だけではなく、子供を成人させるまでの責任感が必要です。この二つは必須科目。ついでに言うと、バランスも大事。私も現役バリバリのお母ちゃんの頃は、双葉のように猛々しい部分がありました。しかし今この風景が目の前に現れたら、私は双葉のようには出来ない。しばらく休みなさいと、きっと言うでしょう。人には公的・私的に、様々な側面があります。私の中で一番大切にしていた母親の側面が、今は小さくなっているんだと、すごく実感しました。その事について、安堵と共に、一抹の寂しさも感じます。

猛々しく子供を追い立て、心配だからと、家の前で娘の帰りを待つ双葉。あぁ何ていいお母さんだと、その姿にまた泣けてきます。

双葉の告白に、すぐ家に戻る一浩。しかし、数年前の浮気が元で出来た娘鮎子(伊東蒼)も連れています。鮎子は、母に捨てられていました。9歳の鮎子も温かく迎える双葉。プチ家出の後、誕生日を祝ってもらう宴で、「出来ればこの家に居たいです。でもママも待っていていいですか?」と、泣きながら言うのです。思い出して、書きながら又泣いてます。それぐらい、私には切ない切ないセリフでした。鮎子は、本当は一浩の子供ではないと、知っているのでしょう。自分の母と双葉では、母の素質としてどちらが上か、子供心にわかっているはず。それでも言わずにはいられない。そこには、良し悪しではない、子供にとっての母親と言う存在の大きさと、この家庭への信頼を表した、見事なセリフだと思います。

この作品では、双葉の他、色んなお母さんが出てきます。一人は育児の辛さから、一度は子供を捨てながら、遠くから子供の幸せを願い、再婚もせず一人ひっそり暮らす母。もう一人は、迎えに来ると約束しながら、再婚後、新しい家庭を築き、夫と子や孫に囲まれ暮らす母。正し過ぎて、一種ファンタジーのような双葉に対して、現実にいる人たちです。後者のお母さんに言いたい。
子供が訪ねてきたら、怖くても、家族に隠れてでいいから、是非会って欲しいのです。どうして会えなかったかも教えてあげて欲しい。それは子供に赦しを乞い、自分も赦す瞬間だと思うから。捨てた子供を、母親が忘れ切れるとは、私には思えません。

一浩は若かりし頃に両親を亡くしています。それが鮎子を押し付けられて、断れなかった要因でしょうが、一番は双葉がしっかりしていたから。その愛情を妻としてではなく、母のように受け取っていたのでしょう。「お前たちが嫌でいなくなったんじゃないんだよ」。この台詞は、本音です。それが言えるのは、双葉は何があっても、最後は自分を見捨てないと思っているから。これは妻への感情ではなく、母への感情です。妻がしっかりし過ぎると、ダメなんだなぁと、私より一回りくらい下の夫婦でもこれかと、ため息でした。

一浩は入院した双葉の見舞いに行きません。娘たちに様子は必ず聞くのに。弱っている双葉を観るのが辛いのですね。でもなぁ、これもダメなのよ。夫なんだから。一人ひっそりと「死にたくない・・・」と咽び泣く双葉が不憫で、ここも共に泣きました。死ぬ間際まで残る人のために奔走する双葉ですが、これが彼女の本音なのです。でも訴えなきゃいけないのよ、双葉も。私を抱きしめてと。あの夫じゃ頼りないけどね。子供はしっかり育てたけど、夫は育て損ないましたね。でもこれも良し悪しじゃなくて、日本的な夫婦の形としては、有りなのかも。

双葉には秘密があって、それがわかった時に、何故こんなに与える母性に恵まれたのか、腑に落ちました。周囲に愛を与え続ける事で、彼女自身が救われたのでしょう。愛を与えれば愛が返ってきて、自分に向ける相手の笑顔は、彼女の栄養となったのでしょう。松阪桃李のヒッチハイカーは、私はいらないプロットだと思いました。あそこまで、スーパー母ちゃんにすることはなかったと思います。

観る前は、下町の銭湯の女将さんなんて、合っていないと思っていた宮沢りえですが、これが絶品。全く違和感なく、下町の肝っ玉母さんでした。この役柄、変に熱演されると暑苦しく、拒絶感が生まれたかも知れません。正し過ぎる人は、しんどいのです。それを彼女が本来持つ透明感や美しさが、上手く役柄と混ざり合い、とても素敵な、取り分け女性に共感を持たれる女性像を作り出していたと思います。

オダギリジョーも飄々として、ちょいいい加減だけど、許してしまう夫を好演。鮎子役の伊東蒼ちゃんも好演でした。でも宮沢りえ以上に好演だったのは、杉咲花。母親の愛情を無条件に享受できた、おっとりした様子から、数々の、この年頃に子には壮絶な試練を乗り越え、成長するまでが、こちらにも確実に伝わる演技です。あどけない笑顔もとても可愛いのですが、泣く表情が本当に可哀想で、この子が泣く度に一緒に泣いていた気がします。花ちゃんの演技あってこそ、双葉の存在がより際立ったと思います。

安曇ちゃん、一番最後まで双葉に寄り添ってくれて、ありがとう。あなたのお蔭で、双葉の短い人生は、豊かで花やいだ人生になったと思います。全てのお母さんに捧げる作品。


2016年11月09日(水) 「ジュリエッタ」




前作は飛ばしたので、久しぶりのペドロ・アルモドバル作品です。変態の巨匠だったのが、いつの間にか変態が取れて、名匠と言われるようになったアルモドバル。そこに一抹の寂しさを感じていた私ですが、この作品を観て、それは還暦を超えた彼が思う、母たる者の有り方を、しっかり描くためではなかったかと、感じました。

スペインのマドリードで暮らす中年女性のジュリエッタ(中年期エマ・スアレス、若い頃アドリアーナ・ウガルデ)。恋人ロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)と共に、ポルトガルに移住する準備を進めています。しかし娘のアンティアの親友だったベアから、アンティアを見かけたと聞くと、ポルトガル行きを取りやめ、ロレンソにも別れを告げます。実は娘とは12年間、音信不通のジュリエッタ。理由もわかりません。彼女は、昔二人で暮らしたアパートに戻り、娘の帰りを待つ決心をします。

ジュリエッタは読まれる当てのない、自分の半生を記した娘への手紙をしたためます。それがスクリーンに映像化されると言う仕組み。奔放だった独身時代、家庭にしっかり根付いた時代、そして娘と二人の中年以降と、大きく分けて、三部に分かれています。

鮮やかな深紅の布、印象的な鹿、入れ替わる老若の母の様子、列車や漁師の家などの風景は、上品な外連味も感じ、流麗です。相変わらずカメラが美しい。しかし前半は、もったいぶって美しく描いてはいますが、内容は退屈。少々背徳的な背景の元、アンティアの父である夫と結ばれたジュリエッタ。因果応報のような形で彼女の前に現れた事例に、自分を振り返るでもないジュリエッタに、疑問も感じます。

それが後半、娘のいなくなった後の焦燥や辛さ、その後の諦め、そして偶然からの希望を見出すまでの様子は、とても共感出来ます。これがかつて愛した男だと言うなら、もう諦めなさいと言えますが、相手は子供。諦めて違う幸せが彼女を待っていようと、ずっと後悔するはずなのです。同じ後悔なら、恋人を捨て、私も娘を待つと思います。

ジュリエッタは、娘が失踪後も、三年間は誕生日ケーキを買って、待っていました。でも娘からは電話すらない。毎年怒り狂ってケーキを捨ててしまう。私はこのシーンが好きです。母親だからって、完璧でいつも無償の愛を子供に捧げるなんて、幻想です。理由も告げず、母を毛嫌いして遠ざかる卑怯な娘の代わりが、あのケーキなんでしょうね。

原作はアリス・マンローで、とても抑制の利いた原作らしい。なるほどなぁ。中々自分の作家性を出せない中、監督の思いを汲んで出演するのは、アルモドバル作品の常連であるロッシ・デ・パロマ。ジュリエッタの夫宅のメイドで、彼女が後妻に納まってからも、働き続けます。前妻への憐憫の思いもあるでしょうし、強引な形で妻に納まったジュリエッタへ、同じ女として嫌悪感を持って当たり前。なのでジュリエッタは、彼女が姑のように煩わしい。スペイン版・家政婦は見た的な役柄のパロマですが、彼女が無表情に演じれば演じるほど、ホラーなのか?いやコメディなのか?と、不穏で禍々しくもユーモラス。淡々と流れる作品の中、パロマの存在感は大きかったです。

若い時分は奔放だっていいよ、完璧な母親でなくてもいい。でも子供の事は誰より愛して欲しい。いつまでも子供を待っていて。監督の母への思いは、そんな感じかな?子供の時、両親は自分の親である以外の何者でもなく、その前に男女であるなどと思う子供は、いないでしょう。寂しいのは母ばかりではなく、娘はその寂しさと共に、別の場所に愛を求める。やっと母の気持ちがわかった時には、自分も親になっていた。この解り易さは、万国共通なんですね。

ぐだぐだもったいぶった内容でも、カメラや演出で、それなりに見つめさせてしまいます。それが名匠ってもんなんでしょうね。これ、褒めてますから(笑)。


2016年11月05日(土) 「人間の値打ち」




久しぶりにイタリア映画でも観るかと、選んだ作品。サスペンスは好きだし、何やらイタリアでたくさん賞も取ったらしい。期待して観ました。富や名声があれば、豊かな人生なのか?と言う、使い古されているけど、普遍的なテーマを扱ったソープオペラ風の作品で、日本で言うとテレビの期首改編の時に、特別に作られる上出来の二時間ドラマくらいの出来でした。それがイタリアで高評価と言うのは、国民が抱いている感情を、上手く掬い取ったからかなぁと、今思っています。監督はパオロ・ヴィルズィ 。

小さな不動産屋を営むディーノ。高校生の娘のセレーナ(マティルデ・ジョリ)が、富豪の同級生マッシと付き合っている事を利用して、金儲け目的でマッシの父親のジョバンニに近づきます。ジョバンニの妻のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は、何不自由ない生活を送っているのに、満たされない日々。老朽化した名門劇場の再建に、自分の存在意義を見出しているところです。そしてセレーナ。世間の一般的な価値観に、疑問を持ち始めています。

思惑、葛藤、屈託を抱えた人々が、あるひき逃げ事故から、それぞれの感情が露わになります。描かれる人々のキャラは類型的ですが、それぞれが演技陣が的確な好演で、心理描写に、心に染み入る味わいがあります。なので安っぽくない。ラグジュアリーサスペンスと謳われてていますが、それは描かれる背景や美術だけではなさそうです。

ただ描かれる内容が、お金持ち男の傲慢で尊大な様子をたっぷり描きを、その金持ちにへつらって、おこぼれを肖りたい下卑た男は、これでもかと卑しく描く。お金持ちの有閑マダムの、お飾りの自分への憂鬱、金持ちのバカ息子等々、本当に既視感バリバリ。目新しいのは、お金や贅沢な暮らしぶりに疑問を持つ、若いセレーナくらい。

と、そこに視点を映すと、ディーノの後妻に収まった精神科医のロベルタ(ヴァレリア・ゴリノ)も、その不釣り合いさが奇妙に映る。イタリアだって、女性にとって医師はハイクラスの仕事のはず。おまけに美人。なのに、どうして冴えないコブ尽きの中年男と結婚したのか?考え付くには、ロベルタの中年と言う年齢しか浮かびません。

そう思うと、「キャロル」のように、お飾りの自分に嫌気がさし、そこから飛び立とうとしないカルラは歯がゆいですが、彼女の憂鬱も理解は出来ます。ジョパンニ、ディーノ、マッシ、そして重要キャラの伯父と共に、バカとゲスは、貧富の階級関係なく男ばっかりです。イタリア女性は、古い価値観に縛られ、まるで男の植民地みたい。

もしかして、そこが言いたかったのかなぁ?自宅のテニスコートの横に、囲いもなく全裸で人前でシャワーするジョバンニに、目が点になりました。対する妻のカルラは、屋外にプールがあるのに、彼女は地下のプールで泳いでいます。人妻は、肌を見せてちゃいけないの?その他高校生の癖に深酒する息子を怒りもしない親とか、いくら豪邸でも、人がたくさん出入りする自宅で、セレーナに襲い掛かる息子を目撃して、たしなめもせず「ごめんなさい」とドアを閉める母親のカルラに違和感がありました。でも外泊したセレーナには、両親は問い詰める。これも息子なら、そのままだったかも知れません。

貧富の差と階級社会を描き、それと人としての豊かさは別なんだよ、と言いたいだけだったら、イタリアで、こんなに高評価されなかったんじゃないかな?と、思えます。この作品だけ観ると、どうもイタリアの女性を取り巻く価値観は、日本より大変なようです。

富豪の妻役ヴァレリア・ブルーニ・テデスキは、やつれた看護師役の「アスファルト」とは、別人の美しさ。彼女の出自を考えれば、こちらが本来なのでしょう。アラフィフとは思えぬ脆さを含んだ色香が、素敵でした。一番の見どころは、彼女かも?

最後に「人間の値打ち」の意味が、語られます。お金だけに換算すると、一番大切な事や人を、見失ってしまうと言う、戒めかも知れません。


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