ケイケイの映画日記
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2016年07月31日(日) 「ロスト・バケーション」

すっかり人気女優の仲間入りを果たした、ブレイク・ライヴリー主演作。サメに襲われた若い女性が、どうやって生還するか?と言う、いわばワンアイディアの作品。体を張った場面も出てくるはずで、何故出世した今、こんな作品に?と観る前は不思議でした。でも見れば納得。この作品、「127時間」の、海洋女性版を狙っていたんだと、私的には感じました。「127時間」には及ばないけど、ブレイクの頑張りもあり、充分及第点の作品です。監督はジャウマ・コレット=セラ。

医大生のナンシー(ブレイク・ライブリー)は、メキシコに来ています。目的は母との思い出の、地元民しか知らないビーチでサーフィンする事。もう一本ライディングをしてから帰ろうとする彼女は、何物かに襲われます。正体はサメ。命からがら近くの岩場に辿り着いたものの、太ももに大きな傷を負います。サメが旋回を続ける中、果たして彼女は200m先の岸に、辿り着けるのか?

ぱっくり割れた太ももからの大量出血を、何とか止血するナンシー。アクセサリーやラッシュガードを駆使して、何とかサバイバルする姿は、ナンシーが医大生だと言う設定が効いています。

あの場面この場面、次々彼女を襲う禍で、体は傷だらけ。その様子が、すごく痛々しい。結構グロくて、気の弱い人は見られないかも。ブレイクの演技も迫真に迫っています。日焼けも凄かったでしょうし、これは撮影大変だったなと思いました。

ナンシーは失意の底にあり、医大を辞めたがっています。その理由や背景も無理がありません。ナンシーがこの状況から生を切望し、ギブアップしない気持ちとも上手くリンクし、脚本に淀みがないです。映画はほぼブレイクとサメの対決で、下手に引っ張るより90分弱にまとめたので、ずっと緊張感が持続したのも良かったです。潮の満ち引きに駆け引きがあるのですが、それが時間的にちょっとおかしいかな?と思いましたが、まぁいいでしょう。

ノーブルで愛らしいブレイクは、私の好みの女優さんです。今頃この手の作品に出なくても、と鑑賞前は思いましたが、演じるのに根性のいる場面ばっかりで、すっかり惚れ直しました。自分との対峙になって、主人公が生まれ変わる「127時間」に対して、こちらはサメと言うスリル満点の相手がいるので、どうしても演出は、ナンシーの内面の変化はおざなりになりがちでしたが、それも演技力で、ある程度カバー出来ています。ターニングポイント的作品にはならないでしょうが、演技の幅は確実に広がったと思います。

羽を痛めたカモメが、ナンシーの相棒になっていて、ホッと息を抜けるポイントになっています。前半は健康的なブレイクの水着姿も見どころの一つ。映画は暇つぶし派さんも、真剣に観る派さんも、それぞれの視点で楽しめる作品でした。


2016年07月25日(月) 「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」




映画ファンなら名の知れた脚本家のダルトン・トランボ。その名前は、ハリウッドの黒歴史である赤狩りと共に、記憶されているはず。個人的には、ざっくりとしか知らなかった赤狩りの顛末を、この作品でしっかり理解しました。ハリウッドの歴史ものとして、ホームドラマとして、そして反骨心に満ちた生涯を送った男の不屈のお話として、多角的に観る事が出来る作品。重厚な作りながら、洒脱なユーモアにも溢れ、私的には傑作と言っていい作品だと思います。監督はジェイ・ローチ。今回はトランボに敬意を表して、脚本のジョン・マクマナラの名前も記したいと思います。

売れっ子脚本家のダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)。良妻賢母の妻クレオ(ダイアン・レイン)と三人の子にも恵まれ、順風満帆の日々です。トランボは共産主義思想の持ち主でしたが、米ソ冷戦の時代の赤狩りはハリウッドにも矛先を向けられます。公聴会に呼ばれた彼を含む10人の映画人は、公聴会での証言を拒んだために議会侮辱罪で収監。一年の刑に処されます。出所後はブラックリストに名の載った彼に仕事はなく、妻子を養うため、トランボは偽名で脚本を書きまくります。

トランボ及び仲間たちは、共産思想は啓蒙していますが、国の転覆を図ったり、ソ連のスパイなどではありません。有体に言えば「思想犯」。何の罪も冒してはいないのに、侮辱罪でのムショ行きは、お灸をすえる意味と、これ以上共産思想に民が被れないためでしょう。それだけ当時の映画とは、今以上人々に影響を与えるものだったのですね。

屈辱的な身体検査、労役を経ても、どっこいトランボは元気いっぱい。一向にへこたれない。殺人犯の黒人と組まされるも、彼から自分の価値観が間違っていたことも教えて貰います。この黒人は、とある人物が公聴会でトランボたちを裏切り、寝返るのを見て、「ムショなら処刑だと」と、苦々しく言います。彼はアカが大嫌い。でもそれはそれ、これはこれ。「尊重」の意味を、当時のお偉いさんたちより、よっぽど知っているのです。

出所後、完全にハリウッドから干されたトランボは、「ローマの休日」のように、友人の名前で書くのではなく、全くの偽名でB級専門のキングスブラザーズに脚本を売り込みます。書いて書いて書きまくる日々。それも複数。電話を何台も用意し、口述係、清書係、郵便係と、家族一丸となってのファミリー・ビジネス。寝る暇さえなく、浴室にタイプを持ち込み、アンフェタミン(覚醒剤)を飲みながらの執筆です。時間の全てをトランボに捧げる事に、家族は疲弊し怒ります。何故そんなに書くのか?トランボは「家族の奴隷だ」(経済的な意味)と言い、家族はトランボの奴隷だと思っている。私は両方ともトランボの「才能の奴隷」だと思いました。

名乗る事も出来ず、書く脚本は低俗と言われるB級映画専門。それも格安で。しかしそれでも突かれたように書く事で、自分の自意識を保っているように思えました。夫と家族をそこから救ったのは、賢妻のクレオ。話し合いを早々に切り上げようとする夫に、「これは議論じゃないわ。ケンカよ」。往年の和田誠の著作「お楽しみはこれからだ」だったら、絶対取り上げたセリフですよ。セリフとは、どの場面で誰が言ったか、それで言霊が全然違うものです。

長女ニコラ(エル・ファニング)との和解する場面が麗しい。ニコラは子供の中で一番父親似。高校生ながら黒人解放運動に携わっています。「パパを嫌いになりたくない」。妻子はお金のため、不承不承トランボに付き合っていたのではありません。家族もまた、トランボと共に世間を相手に戦っていたのです。それをやっと理解するトランボ。

当時のハリウッドのお歴々が、実名でわんさか登場するのも、興味深いです。タカ派で知られたジョン・ウェインが、戦場に行ったことがないのは、今回初めて知りました。好戦派は何だか納得です。キングス・ブラザーズ社長(ジョン・グッドマン)が、トランボに脚本を書かせるなら、圧力をかけると言う輩に、バッドを振り回し応戦したのが痛快でした。「新聞に書くなら書け!うちの客は字なんか読めねぇ!俺は女と金のために働いてんだ!」には、大笑い。豪快で超俗っぽい社長をグッドマンがやると、とても愛嬌たっぷりです。

カーク・ダグラスがあんなに男気ある人だとは、感激しちゃった。彼のお蔭でトランボは、長年の偽名で書く事に終止符を打ちます。オットー・プレミンジャーも加勢しますが、彼がドイツ人だと言うのも大きかったかも。個人的には、プレミンジャーの描き方がツボで。本当にあんな強引でお茶目なサディストだったのかしら?(笑)。

思想だけで取り締まる赤狩りは、人権蹂躙も甚だしいもの。その終焉を、トランボの書いた「スパルタカス」鑑賞後の、大統領ケネディの「良かったよ。きっとヒットする」で表現するなんて、何て心憎い。常に着飾り、赤狩りの先頭で旗を振っていたコラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)の、老いた素顔との対照が、とても印象深い。新しい時代の幕開けを感じさせました。

それから数年後、SWGで功労賞を受け取るトランボ。妻子への感謝と共に、敵味方の垣根を取り払い、時代の波に翻弄された者同士として、許し合おうと言う。この恩讐を超えた、慈愛深いスピーチに、感銘を受けない人はいないでしょう。自分を名乗れない不自由さと屈辱。映画ではトランボの不屈ぶりを主に描いていましたが、その陰の心労や屈託はいかばかりであったかを、本物のトランボの映像で、末娘への愛として語らせる挿入が、素晴らしい。

クランストンは、最初年齢が行き過ぎではないかと思いましたが、トランボの器の大きさと貫録を表現するには、彼しかいないのではないかと思えるくらいの好演。私の大好きなダイアン・レインも、「影の大黒柱」とも言える良妻賢母ぶりを、温かく好演。この妻なくば、ハリウッドは今のハリウッドじゃなかったかも知れないです。

トランボが生涯たった一度監督した映画は、「ジョニーは戦場に行った」です。公開当時私はまだ子供で、一人では怖くて映画館へは行けなくて、仕方なく小説の方を先に読みました。それが初めてのトランボとの出会いです。何故今トランボの生涯なのか?世界中が少しずつ右翼化しつつある感がある今、万が一自由が奪われ、言われのない罪をかぶせられたら?私はこの作品を思い出し、自分を奮い立たせたいと思います。この作品は過去に学び、現在を生きるための作品です。だから、あの慈愛深いスピーチが大切なのです。メトロの社長は、トランボの作品を評して言いました。「君の作品はラストに希望がある」と。


2016年07月22日(金) 「ファインディング・ドリー」(吹き替え版)




懐かしい「ニモ」から13年、今回はニモの過保護のお父さんマーリンと、ニモ探しに奔走した、忘れん坊のドリーが主人公です。お子様向きに作ってあるものの、昨今言われる「障害は不幸ではない。個性である」と言う言葉の、具体的な意味を示唆していて、今回も大変気に入りました。前回は小学生だった三男と吹き替え版観て、私の中では、ドリー=室井滋なので、今回は躊躇なく吹き替え版をチョイスしました。監督はアンドリュー・スタントン。

大冒険から一年後のニモ、マーリン(声・木梨憲武)そしてドリー(室井滋)。楽しく三匹で暮らしています。ドリーは相変わらず忘れん坊で、周囲を困らせていますが、明るく元気な性格を、ニモとマーリンは愛しています。しかしドリーには気がかりが。それは離れ離れになった、大好きな両親にもう一度会いたい事。今回はドリーが恋しい両親を探しに、冒険の旅に出ます。

再三出てくる、ドリーの奇想天外なチャレンジ精神。そのポジティブさは、どこから来るのか?それは「忘れる」からです。人間(ここでは海洋生物)は、記憶を元に、出来るか出来ないか、アバウトに判別していくものです。でもドリーは忘れちゃう。だからいつも「頑張れば出来る」と思って、挑戦するんですね。あぁ、そうなのか!と、今回目から鱗でした。その対岸にあるのが、マーリンであり、今回ひょんなことから、ドリーの冒険の相棒となるタコのハンク(上川隆也)です。記憶が彼らを、臆病にしている。

忘れると言うのは、本当は「力」なんだと思います。忘却力かな?年が行くと、あれこれ忘れるけど、長い人生、喜びばかりじゃない。哀しい事辛い事、恥ずかしかった事、腹が立った事。ごまんとあります。そんなのいちいち覚えていちゃ、しんどくって生きていけないわ。だから、老いて忘れっぽくなると言うのは、神の与えし恩寵だと思っていましたが、ドリーのような力もあったんですね。

あれこれどんどん忘れていくのに、不思議と楽しかった事は、ドリーと同じく私も覚えているのです。それが子育て。大変だったことがいっぱいあったはずなのに、本当にみーんな忘れた。両親だってそう。私の親は、褒められた親じゃなく、本当に辛い事が多かったのです。なのに今になると、家族旅行や楽しい思い出も、辛い事と同じくいっぱいあったなと、思い出せるのです。記憶が邪魔をしている時は、楽しかった感情が封印されるのですね。

何故楽しい思い出は忘れないのか?そこに「愛」があったからじゃないかなぁ。愛し愛された記憶は、脳が忘れても、心に体に沁み渡っているからじゃないでしょうか?ドリーのポジティブさと愛すべき人柄は、両親の愛情いっぱいに育った事が基礎になっていると、今回描かれます。ドリーの両親のように真っ当じゃないけど、私の両親も、私を愛してくれていたのです。

やっかいな子を持つ親のお手本のように描かれていた、ドリーの両親。しかし人知れず、ドリーはこの先一人で生きていけるのだろうか?と、母は涙し、父が支える場面があります。ここで泣きました。子供の前では、心細さを隠し、気丈に振る舞っていたのです。私たち「普通」と言われる子供を持った親は、ここを忘れている。

大変だろうと想像はついても、心細いだろうとは、想像しない。障害児を持った親は親で、心細さを乗り越える手段として、学校や保護者たちには、強気に見える態度を示す。結果理解が得られない。悪循環ですね。学校や保護者は、障害児を持つ親の要求を渋々飲むのではなく、「頑張っていますが、悩んでいます。一緒に考えて下さい」と、言い易い雰囲気を作るのが、本当に受け入れる事だと思います。

義足のジャンパー、ドイツのマルクス・レームが、健常者の大会で健常者を超える記録をコンスタントに出し続けていると、健常者の選手から、待ったがかかったそう。曰く義足が記録に有利に働いていると言う理由です。色んな方面から検証されていますが、まだ結論は出されていません。ただこれだけは言えると思う。これはレームが、「障害者芸」の粋を出てしまったから、打たれたのです。レームが障害者枠として頑張る時は励まされると応援するのに、自分たちを脅かす存在になると、排他する。これを差別と言うんじゃないかしら?

ドリーと喧嘩したり、うっかり傷つける事も言って、ニモに皮肉を言われ、たしなめられてハッとするマーリン。(ニモ、成長してるよ!)これはドリーを、仲間、あるいは家族と思っている証拠では?だから、どれだけの時間離れていても、ドリーはニモとマーリンを忘れないのです。

暑い暑い毎日ですが、深海の様子はとっても涼しく、打ってつけの暑気払いです。笑って笑ってスリリングな場面の連続にハラハラして、ちょっぴり泣いて、そして考えさせられる作品です。今年の夏一番の観客動員が予想されますが、納得の作品。


2016年07月18日(月) 「シング・ストリート 未来へのうた」




すごく良かった!素晴らしい!監督のジョン・カーニーの前作「はじまりのうた」も良かったのですが、湧き上がる絶賛の声には、当方少々体温が上がらず、普通に良かった程度。ラファロが出てなきゃ、二割引きでした。しかし今回は掛け値なしの大絶賛です。大不況に包まれた、閉塞的なアイルランドのダブリンを背景に、音楽ものとしても青春物としても、掛け値なしの傑作だと思います。

1985年のダブリン。不況のため父親が失業した15歳のコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)は、大人しい私立校から底辺の荒れた公立校への転校を余儀なくされます。家庭では両親の夫婦げんかが耐えず、学校では早速イジメの標的にされるコナーですが、唯一の楽しみは、音楽ヲタクの兄ブレイダン(ジャック・レイナー)と見るM垢筺音楽談義。ある日校門の前で、謎めいた美少女ラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)を見かけたコナーは、一目惚れ。思わず口から出ませに、バンドをやっているので、自分のバンドのPVに出て欲しいと言ってしまいます。作曲から楽器演奏まで、何でもござれの、同級生エイモン(マーク・マッケンナ)の他、急ごしらえでバンドを作り、さぁここからコナーの音楽活動が始まります。

とにかく瑞々しい若々しさでいっぱいです。そして全編に渡り80年代のミュージックシーンを席巻したヒット曲が大挙流れます。どれもこれも耳馴染のある曲で、それだけでも超嬉しい。最初コピー曲でM垢鮑遒蹐Δ箸靴織灰福爾法▲屮譽鵐瀬鵑蓮嵜佑龍覆能を口説くな」と説教します。以降ブレンダンの人生哲学は、のしのし弟を成長させていきます。

デュラン・デュランを聞けば、ヴィジュアル系のポップロック風、ホール&オーツを聞けば、ホワイトソウル風と、パクリを繰り返しながら、こうやって自分たちのスタイルを完成させていくんだと、バンドの成長が垣間見られて、すっごく感心しました。男子が女の子にモテたくてバンドを結成は、私は立派な動機だと思う。

荒れた学校では、お坊ちゃんっぽいコナーはイジメの対象、家に帰れば、のべつ幕無しで両親がケンカしている。兄弟三人がブレイダンの部屋に集まり、片寄合って嵐が過ぎるのを待つ様子など、思わず自分の思春期を思い出し、胸が痛みました。しかし嘘から出た誠として、音楽漬けの毎日は、コナーの生甲斐になっていきます。

コナーだけではなく、アル中でDVの父親を持つエイモン、父は飲んだくれたあげく交通事故死、母は躁鬱で入院中のラフィーナ、苛めっ子の彼だって、家では酒浸りの両親から暴力を振るわれている。みんながみんな、家庭に問題を抱えているのです。それを発散するのが暴力であったり、校則違反であったりなわけで。髪を染め化粧して登校するコナーを、校長が暴力的に抑え込みますが、あれが愛のムチであるわけがない。根本的な問題を探って解決するのが、教育なんだと、改めて感じます。

一度だけキレて、自分の葛藤をコナーにぶつけるブレンダンが切ない。母の鬱屈もきちんと見守っていたブレイダン。現在引き籠り中の彼が、何故そうなったのか、痛いほどわかる。もうここでも涙が出て出て。そこで逃げずに、「ちょっとトイレに行ってくるだけだよ」とだけ、隙間を作ったコナー。あそこであの部屋から逃げ出していたら、兄弟は不毛な時間に突入したはず。コナーは誰より兄が好きなのです。弟にそんなそんなに愛されるブレンダンだもの、頑張り過ぎて、今はちょっと休憩しているだけです、きっと。

どん詰まりの中、少し前進しては後退を繰り返す青春。それでも全編を貫く溢れる希望と笑顔はどうでしょう。何気ない場面で何度涙ぐんだ事か。若さって本当に素晴らしい!

一人ぼっちのラフィーナは、何もない今の境遇から抜け出そうと、モデル志望です。可愛い顔に濃いメークと作り込んだヘア、ちょっと隙のあるファッションは品はないけど、繊細で寂しがり屋の自分を隠し、強気な女に見せたい彼女の、戦闘服なのです。一度シャッポを脱いだ彼女が、また濃いメイクに戻ったのは、コナーから希望を分けて貰ったからだと思います。

ブレンダンがコナーに伝える「悲しみの中の喜びを知れ」。複雑な言葉です。頭で考えないで、心で描くものだと思います。それが学校で撮ったM垢覆里と思いました。コナーの人生には、愛する家庭の平穏も、恋するラフィーナも、友人たちも、みんな必要なのですね。苛めっ子くんの境遇を知り、今までを水に流して、バンド仲間に誘うのも、悲しみの中の喜びじゃないかなぁ。

ラストはちょっとファンタジックな味付けですが、私は気に入りました。若者はアナーキーでなくちゃ!これからの人生、画面通りの荒波が彼らを襲うでしょう。でも思い出して。上から彼らに手を振っていた大人たち。私はあんな上にはいないけど、手を振るだけじゃなくて、手を差し伸べたいと思う。あの中から、きっと私のように思う人たちが出てくるはず。それを忘れないで。今のところ、私の今年の暫定NO・1の作品です。


2016年07月14日(木) 「ブルックリン」




すっかり大人の女性になったシアーシャに会いたくて、観てきました。地元から大都会へ出て行く少女が、大人の女性へと変貌を遂げる様子が、乙女チックに描かれながら、ラストは凛として締めくくられます。監督はジョン・クローリー。

1950年代のアイルランドの片田舎に住むエイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、姉ローズと母の三人暮らし。意地悪な老女の営む店での、週一度の仕事に甘んじている妹を慮った姉の計らいで、ブルックリンへと旅立って行きます。姉が懇意にしているブラッド神父(ジム・ブロードベンド)の紹介で、デパートへの就職が決まり、昼はデパート、夜は簿記を習う頑張り屋のエイリッシュ。配管工の誠実な青年トニー(エモリー・コーエン)と言う恋人も出来、充実の日々です。しかし、故郷からローズが急死したと連絡が入り、急遽アイルランドへ帰る事になります。

当初頼りなく泣いてばかりのエイリッシュが、可哀想で可哀想で。本当はアメリカに来たくなかったんだと思います。父亡き後、大黒柱として家計を支え、母を守る姉は、長女としての責任として納得はしていても、他に選択肢のない閉塞的な自分の人生を、嘆く部分があったと思います。妹にその轍を踏ませたくないと思ったのでしょう。手元から羽ばたかせる愛は、姉と言うより、父親のような愛情だと思いました。

キーオ母さん(ジュリー・ウォルターズ)の営む女子寮は、アイルランド出身の女の子ばかり。口煩いけど温かいキーオ母さん、洗練された指導力のあるデパートの女性上司、そしてブラッド神父に見守られ、段々とブルックリンの生活に慣れ始めるエイリッシュ。でも一番彼女の生活を彩ったのは、トニーの存在です。

恋ってこんなに毎日が華やぐんだなぁと、昔を思い出しました(笑)。時代背景もあるでしょうが、二人が将来を含めて、とても真面目に誠実に付きあっているのが、本当に微笑ましい。可愛いけど野暮ったかったエイリッシュは、公私共の充実により、どんどん垢抜け、知性とエレガンスを身にまといます。

そんな時の姉の訃報。以前は何も感じなかった故郷の平穏に、安らぎを覚えるエイリッシュ。昔からの友人だったジム(ドーナル・グリーソン)が、彼女に好意を示すと、トニーとの狭間で、彼女に葛藤が始めります。実はエイリッシュは帰郷する直前、トニーと結婚していました。この辺は最初へっ???ちょっと不実だなぁと思いましたが、エイリッシュはまだ若い。トニーとの間も、トニーは愛でしょうが、エイリッシュは恋だったのですね。その違いがわからないまま、トニーと結婚したのだと感じました。

ジムの両親が引っ越し、彼だけが残り家業の店を守る話を聞いたエイリッシュの母は、「狙い目の男ね」と言う。これには苦笑しました。こういった思考は、過去は万国共通だったのですねぇ。今でも娘が結婚しても、自立をさせない、しない母娘はいますが、息子三人の母としては、御免こうむりたい。そしてこの言葉は、母一人子一人となった、エイリッシュを追いつめるのです。

とある意地悪な人物の言葉で、我に返ったエイリッシュ。「ここはこういう街だったと、思い出した」と言うエイリッシュには、冒頭、彼女に渡米指南した女性が、重なります。

ブルックリンのアイルランド出身者のコミュニティは絆が深く、クリスマスにはアイルランド出のホームレスまで、もてなすほどです。それ程故郷とは懐かしく自分の尊厳の源のはず。しかし故郷に帰ってみれば、自分が思う程、温かくは迎えてくれないのです。年長者はそれを経験しているから、、同胞同士助け合い、慰め合うのでは、ないでしょうか?「ふるさとは、遠きにありて、思うもの」。これは名言なのだと、実感しました。この作品で私が一番心に残ったのは、この部分です。

あちこちから姉ローズを称賛する言葉を聞く度、彼女がどれ程の重荷を背負っていたか、痛ましい気持ちになりました。この街を出て行くことはないだろうと、力なく語るジムの閉塞感が、重なります。「責任」と言う重圧で、子供を殺してしまっているのです。

心優しいトニーが、あんなに結婚を急いだのは、きっと自分の学歴にコンプレックスがあったのですね。イタリア系で、家族の結束は固かったでしょうが、経済的には貧しかったのでは?8歳の末弟にスペルや文法を手直しして貰う様子から、そう感じました。しかし卑屈にならず、どんどん成長していく恋人に負けじと、自分も見合う男になろうと頑張っていたトニーが、私は好きです。

自分の愛した人と、花も嵐も踏み越えて歩むのも結婚なら、条件の見合う相手と無難な将来を見据えてするのも結婚。エイリッシュはどちらを選ぶか最後までわからず、結構ドキドキしながら観ていました。素敵なファッションや風景と共に、自分ならどちらを選ぶか、考えてながら観ても面白いかも?私はエイリッシュの決断を支持します。


2016年07月09日(土) 「エクス・マキナ」




SFが苦手の私が、容易にストーリーが予想出来、意外性もなく終わってしまいました。何でこんなに高評価なのかと訝しく、見どころはチャーミングなアリシア・ヴィキャンデルの演技と造形だけだと思っていましたが、一晩寝てみると、それだけじゃないかな?と思い出した作品。アレックス・ガーランド。オスカー視覚効果賞受賞作です。

世界最大手の検索エンジンの感謝に勤めるケイレブ(ドーナル・グリーソン)。社内募集から選ばれ、社長のネイサン(オスカー・アイザック)が隠遁生活を送る人里離れた邸宅に招かれ、一週間を過ごす事になります。しかしそこは、ネイサンが人工知能の開発に明け暮れる研究施設でした。ケイレブの役割は、彼が開発した人工知能のテスト。人間と比べて、遜色はないかと、会話するのです。現れたのは、美しくて若い女性の姿のAI・エヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)。興味を惹かれたケイレブは、段々とエヴァに魅かれて行きます。

とにかくアリシアのAI姿が、素晴らしい!一瞬で魅了されました。顔や手足の一部が人間なのですが、関節はむき出し、お腹は透明で機械も見える。頭も画像のようなのですが、アリシアの絶妙の演技もあって、エレガントで、とてもキュートなのです。検索エンジンが頭に詰め込まれているので、会話も大人っぽく身のこなしも優雅。それなのに、生後間もないため、赤ちゃんのような無垢さも感じる。もう無敵です。エヴァがカツラを被り、洋服を着ると、途端に普通の美女になってしまい、私はずっとむき出しの造形で観ていたかったほどです。

観終わった直後は、オンナのAIなんか作るからだよ〜とだけ、思っていました。でもちょっと待って。登場人物は、もう一人メイドのキョウコ。名前からして、日本人です。この女性、英語はわからず、メイドとして使われ、ネイサンの夜伽まで応じています。昔、欧米の男性の理想は、アメリカ人の給料を貰い、中華料理を食べ、日本人の妻を持つこと、と言われていました。昔の大和撫子には、従順で尽してくれるイメージがあったからです。だからキョウコか?会話しなくて済むから、余計都合がいいってか?キョウコの秘密やその他も、容易に予想がつきました。

お里が知れるこの思考、次代の最先端を行く開発者が、未だに持っている。それでいいのか?いや、ダメでしょう。マチズモ思想に支配されたり、人種差別主義者、極右思想の持ち主、戦争大好きな人などに、人工知能が開発されたら?ぞっとします。人工知能は全人類に対して、機能されるように作られるべきだと、私は思っています。その事が言いたくての、ネイサンの造形だったのかしら?と感じました。

ならケイレブは?ちょっと可哀想に思いましたが、もしエヴァが男性だったら、ケイレブは同じことをしたでしょうか?ジュゼッペ爺さんは、ピノキオが男の子だったから、人間の子供として自分の元に帰ってきたのを、喜んだんでしょうか?大事なのは、親子として愛を育める、「人間の子」の部分だったと思います。エヴァはケイレブに対して、それが感じられなかったのかと思います。

実用性を求めるのか、ピノキオを求めるのか、AIのニーズも今後様々になって行くのでしょう。怖いような観たいような。ちょっと長生きしてみたくなりました。


2016年07月03日(日) 「セトウツミ」

昨日この作品を観てきて、うちの24歳の三男に
「あんた、『セトウツミ』て、知ってるか?」と言うと、
「高校生の子が喋るだけの映画やろ?シュールなん?」
「ううん、あんたとY(三男の親友)が喋ってるみたいやった」
「ほぉ。アホな事ばっかり、喋ってるだけなんやな?」
そうそう(笑)。
二人とも、うちの息子かと思いました。ほとんど若い男の子二人が喋っているだけの映画です。それが、メッチャ面白い!場内笑いの渦の中、ペーソスもあり、お茶目で、大変好感の持てる作品です。 監督は大森立嗣。

とある大阪の高校二年生の同級生、瀬戸小吉(セト・菅田将暉)と内海想(ウツミ・池松壮亮)。お調子者で愛嬌のあるセトと、クールで低体温のウツミは対照的ですが、仲の良い二人。毎日川沿いで放課後の一時間を、ただ喋って過ごしています。

びっくりしますよ、新人の漫才師かと思いました(笑)。それも超有望株。会話に無理がなく、自然とボケ(セト)とツッコミ(ウツミ)になっている様子が、本当におかしい。正に「相方」と言う表現がぴったり。これが噂のブロマンスですか?(笑)。

内容は、しょうもない話ばっかりなんですが、本当に面白い。そして息子三人、かつて高校生だったもんを持つオカンとしては、リアリティ抜群の会話です。セトが「ほぉ、ほぉ!」と相槌打つんですが、うちの息子もそうです。お前はふくろうか?なんやねん!と、良く思うもん。ウツミがドヤ顔する時、煙草を吸う真似をするんですが、これもしょっちゅうです(笑)。これ大阪の子だけ?他の地方の子は、どうなんでしょう?

いくつかのエピソードが分かれて描かれていて、そこでの会話や回想場面で、少しずつ二人の背景が見えてくるようになっています。そして全てに、ほっこりするオチがあります。私は原作知らないのですが、ウツミは進学私立校の専願に落ちて、仕方なく中堅の公立高校に来たのかな?部活に汗を流すか、はしゃぐかの同級生が疎ましく、学校では浮いている。そして塾に行くための一時間を、毎日川べりで一人過ごすのが、日課でした。対するセトは、サッカー部で頑張っていたのに、嫌いな先輩を無視してフリーキックして、逆鱗に触れ退部。なかなか反骨心があるやん(笑)。そして時間潰しをしていたウツミの傍に、人懐こく侵入し、今に至る二人。

何故他の同級生と、対して変わらないセトを、ウツミが受け入れたのか?他の同級生のように、人の噂話をしないからじゃないでしょうか?セトの話しは主語が必ず「俺」。俺が誰を好きか嫌いか、俺のオカン、俺の部屋、俺の家のみーにゃん(猫)と、全部自分の事で、自分が何を思い何を感じるかと言う内容です。同級生を毛嫌いしているウツミには、好ましく映ったはずです。まぁ、子供っぽいからなんですがね(笑)。子供っぽいは、純粋に通じるものね。

酔っ払ってくだを巻くセトのオトンを、「あんた!、もう!」と言いながら、介抱して、家に連れて帰るセトのオカン。ウツミに見られて、恥ずかしくて堪らないセトですが、「ええ夫婦やん・・・」としみじみ言うウツミ。高校生が小馬鹿にせず、微笑ましい光景と受け取れるのは、この子が自分の家庭で、きっと屈託を抱えているからです。

対するセトは、あけすけに自分の環境を語るも、祖母は入院、祖父は認知症で徘徊、両親は離婚寸前、父親の仕事は立ち行かない(多分)と、なかなかに過酷。なのに全く圏外のいるように、ケロケロしている。セトはみーにゃんのせいで、親が離婚しそうと思っているけど、多分違うよ(笑)。しかしちょっとおバカなセトは、誰よりウツミの優しさ、大人な思考ができる事など、長所を愛しているのです。

高校生〜短大時、どこかに行かなくちゃ、遊ばなくちゃ、クラブ活動しなくちゃ、と、私も大昔、ガラにもなく焦った時があります。「らしく」と言うのに、囚われていたんですね。ウツミのように、「何でせなあかんねん」と、開き直れたら、どんだけ心が解放されたかと、羨ましく思いました。自分らしくって、人の数ほどあるやんね。こうやって友情を育む素晴らしさ。これも青春だけに許される光だと思います。大人になったら、この羨ましいユルイ時の流れが、許されないから。帰宅部も陰じゃないぞ。その証拠に、二人は脇道に逸れず、高校生活を送っています。

大阪出身の菅田はともかく、池松の大阪弁が、イントネーションも含めて、パーフェクトなのに、びっくり。ここでちょっとでも、大阪感が損なわれていたら、この味わいは出なかったと思います。

人気の二人が主演と言う事で、昨日のテアトル梅田は全ての上映ソールドアウトでした。ヒットしたら、続編もと言う話もチラホラ聞きました。20代半ばの二人に、いつまでも詰襟着せるのは申し訳ないけど、この作品を観たら、この二人以外にキャストは考えられません。お寺の子・樫村さん(中条あやみ)との三角関係はどうなるのか?鳴山は、大物になっているのか?マクドのドナルドのバッタモンみたいな、風船作りのバルーンさんは、ベラルーシに帰郷出来るのか?気になって夜も寝られへんわ(嘘です)。続編を絶対作って欲しいです!

では、HPから、本編では観られなかった二人の会話、
「スタンディング・オベーション」を観て下さいね。ほ〜ら、あなたは段々観たくなる〜(笑)。


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