ケイケイの映画日記
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2013年05月30日(木) 「くちづけ」




昨年惜しまれつつ解散した、東京セレソンデラックスの舞台を映画化した作品です。成人した知的障害者の自立支援目的のグループホーム「ひまわり荘」が舞台。演劇をそのまま持ち込んだ演出の、良さ悪さ両方を感じますし、他にも色々思うところはありますが、私なりにこの作品の真意は汲み取れたと感じ、気持ちよく涙を流す事が出来ました。今回冒頭で、事の顛末は明かしているので、そこだけネタバレです。

知的障害者の自立支援目的のグループホーム「ひまわり荘」。うーやん(宅間孝行)を始め、三人の成人した知的障害者たち(嶋田久作・谷川功・屋良学)は、ホームを運命する国村先生(平田満)と、その妻の真理子先生(麻生祐未)や娘のはるか(橋本愛)、賄い婦の袴田さん(岡本麗)にお世話してもらいながら、楽しく暮らしています。そのひまわり荘に、かつて人気漫画家だった愛情いっぽん(竹中尚人)が、やはり知的障害者の一人娘マコ(貫地谷しほり)を連れて、住み込みで働く事に。いっぽん以外の男性はダメで、男性恐怖症だったはずのマコですが、何故かうーやんには心を開き、二人は結婚すると言い出します。

舞台をそのまま持ってきたのでしょう、劇中ずっと、ひまわり荘の中でお話は進みます。でも二階・玄関・台所に庭、上手く空間を使って、映画ならではの演出が楽しめます。宅間演じるうーやんのハイテンションぶりは、些か観客を疲れさせるはず。しかしね、私が帰宅の電車で、本当にうーやんそっくりの人によく遭遇するんです。多分作業所の帰りなんでしょうね。なのでリアルな事はリアルなのですが、舞台なら映えるはずのオーバーアクトは、映画ではちょっとしんどいかな?観客にどっぷり映画に浸かってもらうには、もう少し引き算の演技が良かったかも?

それは始終喜怒哀楽を爆発させていた、橋本愛にも言えることです。いつもの彼女らしからぬ演技は、監督の指導でしょうか?あんなにいつもテンション高かったら、いくら若くても疲れちゃって、お手伝い出来ませんからね。他にはうーやんの個性が突出しており、他の三人の描き分けが出来ていない事。10人いれば10人とも個性が違い、知的障害者だからと言って、皆同じではありません。この辺はちょっとマイナスです。

私が秀逸だと思ったのは、普段福祉に関心を持たないと知りえない情報を、作品に描き込んでいる事です。ホームの運営は住人の障害者年金を充てている事(生活保護なら保護費)、その年金を詐取する家族もいる事、刑務所に服役中の人の1/5は、知的障害者及びボーダーの人であること、しかしきちんと受け答えが出来ないため、冤罪の人も多いと言う事などです。理由のあるなしに関わらず、放浪してしまう癖のある人もいて、その事も描き、犯罪に巻き込まれてしまう事例も織り込んでいました。

そしてうーやんに毎週面会に来る妹・智ちゃん(田畑智子)は、うーやんの存在のため、結婚が破談になります。障害者のお話は、どうしても美談仕立て、お涙頂戴の筋書きにりがちです。そこを毒舌家の袴田さんに「はるかちゃんの友達が、あいつらを気持ち悪いって言ったろ?それはあの子が悪いのか?智ちゃんの破談は、相手や家族を責められるのか?」と語らせ、冷静に観客に見つめて欲しいと、ひと呼吸置いていると感じました。

私は仕事柄、知的障害者の人と接する機会が多いのですが、幸いにも気持ち悪いと思った事はなく、むしろ可愛いと感じることが多いです。顔を見ると、こちらが元気の出る患者さんも居る程です。しかし私がお相手するのは、ほんの数分。これが毎日続くと疲れ果てるはず。なのに真理子先生は、
無念な形でホームを卒業していく人を抱きしめて、号泣するのです。医師夫人とは思えぬ質素さで、明るく彼らのお母さん代わりをする真理子先生。彼らの世話がどんなに大変だったかと想像がつくだけに、心からの涙に私も同調しました。

そしてもう一箇所、うーやんが「僕のために智ちゃん結婚出来ないの?」と泣いた場面。何もわからないだろうと思われている彼らですが、自分が家族の厄介者であるとは、充分認識しています。誰も悪く無いのです。しかし私はホームに兄を預けながら、再々面会に来る智ちゃんは、家族として理想的だと思っていたのに、物語はあらぬ方向へ。

いっぽんは重篤な病にかかり、余命わずかですが、誰にも言いません。秘密を隠して、自分が死んだ後の事を考えてマコを施設に入れますが、彼女は馴染む事が出来ません。先行きを悲観したいっぽんは、マコを絞殺してしまいます。「マコ、いっぽんがいないと生きていけないから、いっぽんが死んだら、マコも死ぬ」。この言葉は、いっぽんが自分を奮い立たせるため、娘に言い続けた言葉なのでしょう。ここまでいっぽんを追い込んだのは、障害者は家族で看るのが幸せと言う、社会的な固定観念や美徳感なのかと思いました。智ちゃんの決断、国村先生の励ましのは、言いたくても言えなかった、いっぽんの無念さを際立たせるためだったと思いました。

ひまわり荘は住人の退去などで、財政が逼迫して閉館となりました。個人の志に頼っているだけでは、いけないのだと痛感します。ラストに見せるいっぽんとマコちゃんの歴史。その笑顔は、決していっぽんの行動を肯定してはいないと感じました。二人のこの笑顔を永遠にするには、どうすれば良かったのか?それを観客に問うていたと思います。普段なかなか想起しない、成人した知的障害者、及びその家族の幸せを考えるきっかけとなる作品で、じっくり誰かと語り合いたくなる作品です。


2013年05月29日(水) 「愛さえあれば」




いつも骨太の社会派作品や秀逸なメロドラマを描くデンマークの名匠スサンネ・ビア監督。彼女が大人のラブコメを作ったと言うので、狂喜乱舞していたら、何と主役は私の大好きなピアース・ブロスナン!(あちこちで書いているけど、私が好きな男優は知的でスマートでエレガントな人。現在TOHO系で流れている「イノセント・ガーデン」の予告編が流れる度、マシュー・グードにも萌え萌えである)。ビアの作風からしたら、ちょっと違和感のあるキャスティングですが、これが絶妙にマッチしていました。ライトにユーモラスに描きながらも、もしあなただったら?と観客に問う作家性は健在で、私は大好きな作品です。

乳がんを治療中のイーダ(トリーヌ・ディルホム)。自宅に帰宅すると癌を乗り越え絆を深めていたと思っていた夫ライフ(キム・ボドゥニア)は、会社の社員を引っ張り込んで、エッチの真っ最中。一方的に家を出ていきます。折しも娘アストリッド(モリー・ブリギスト・エゲリンド)の結婚式のため、イタリアに渡る直前です。悲嘆にくれ、一人で空港に向かう途中、自動車事故を起こしてしまうイーダ。相手は何と新郎パトリック(セバスチャン・イエセン)の父フィリップ(ピアース・ブロスナン)。最悪の出会いをする二人でしたが、イーダの身の上を知るうち、段々と距離を深める二人でしたが・・・。

イーダの夫&不倫相手の若い女がもう、二人共バカ物丸出しで、超俗物です。家に浮気相手を連れ込むなんて、サイテーですよ。浮気でも一番やってはいけない事です。ビアにしたら、いやにあっさり断罪するなぁと思っていましたが、多分これは夫婦の気持ちのすれ違いを描いているのですね。冒頭乳房再建手術を医師に勧められたイーダは、「夫は私の内面を見てくれているので、必要ありません」と笑顔で答えています。しかし夫の言い訳はと言うと、妻を支えて自分も辛かった(だから仕方ない)ですと。多分セックスもお預けだったでしょうね。この夫婦は二人の子をなし、多分結婚25年前後くらいでしょう。その夫婦にして、妻のガン、娘の結婚など、家庭の一大事を前にして、これほど気持ちがすれ違っているのです。夫婦に慢心は禁物と言う事ですね。

登場人物たちは、傷心のイーダ以外は幸せに満ちているように見えますが、実は問題がいっぱい。マリッジ・ブルー、シングルファーザーとその息子の孤独、軍隊や戦場、同性愛、メンヘラなどなど、癌と離婚や不倫以外にも、各々問題がいっぱい。それがすすっと、とても滑らかに進み、全部が並行して描かれながらも、全然無理がない。行間を読まなくっても、きちんとその哀感が心に残るのです。完成度と言う点でも、非常に優れていると感じました。

私がイーダに感心したのは、父親の不貞に激昂する子供たちを前に、決して夫を詰らず諌めている事です。これは夫に未練があるのではなく、子供を思っての事です。自分の父親を憎むのは、子供にとって不幸であるとわかっているのですね。これはなかなか出来る事ではありません。一見平凡な主婦である彼女ですが、母・妻・女、その時々で何を優先させるべきか、しっかり認識出来る聡明な人である証明です。この母に育てられた子供たちは、二人共とても良い子で、主軸ではないはずの、傷心の母を思う場面がとても印象的でした。私が一番好きなシーンは、夜明けの海辺で、男女の足が映るシーン。カメラが上がっていくと、そこは恋人同士ではなくイーダと息子でした。きっとこの数日間の事だけではなく、生まれた時からの事も語り合ったのでしょう。親の思うようには育ってくれない子供ですが、大人になると、いざという時は頼りになるもの。私も実感しているので、とても心に染みました。

重要な脇役で、フィリップの亡き妻の妹アストリッデの存在が。でしゃばりで自信家、メンタルの弱い自分の娘より、フィリップへの片思いを成就させんがため、甥の結婚式を利用したい狡猾な女性です。彼女の存在は、いつも子供を中心に思うイーダとの対象なのでしょう。姉妹とは思えないとフィリップは言い放ちますが、実はこの義妹の存在が亡き妻の事を一層美化させてしまい、フィリップに妻を忘れ難くさせ、彼が独身を貫いた理由かも?そう思うと可哀想なキャラだなぁ。

アストリッデも決して悪人ではありません。誤解を恐れず言えば、イーダの夫ライフも。皆が皆、家族を喜ばそう、幸せになろうと努力しているのに、その事に疲れ果て、少しずつ心が離れては、またくっついたり。人生は非常に面倒くさく、でも愛しいものですね。

はてさてイーダとフィリップ、そしてマリッジ・ブルーの子供たちの行く末は?いつもいつも穏便な道を選んでいたはずのイーダの決心は、癌に罹ったと言う事実と、切り離せないものです。老いまで生きられるかどうかなんですから、自分に忠実な彼女に拍手を送りたくなりました。どんな道を選ぼうと、彼女なら、子供たちの母である事は忘れないはずです。

別荘はあちこちにレモンの木が植えられ、その風景は爽やかです。ソレントの風光明媚な街並みも、落ち着いた田舎町と言う感じで、ここで人々が人生の岐路に悩みながらも、路頭には迷わなかったのも頷けます。大人向けの上質なラブコメはなかなかお目にかかれない昨今、是非お勧めしたい作品です。ビア監督の新境地を、是非ご賞味下さい。


2013年05月19日(日) 「ヒステリア」




今では大人の玩具として知られている、電動バイブレーターの出来るまでを描いた作品。扇情的なムードは皆無で、キュートで上品なコメディに仕上がっています。私が目を見張ったのは、その愛らしさの中に、女性の暗黒史をさりげなく織り込んでいた事です。秀逸なフェミニズム作品です。監督はターニャ・ウェクスラー。

19世紀ヴィクトリア朝花盛りのロンドン。未だ古い医療知識がまかり通る現実に苛立つ若き医師モーティマー。彼の新しい医療体制への主張は通らず、勤務先を転々としています。今度の勤務先はダリンプル医師(ジョナサン・プライス)が経営する産婦人科。鬱状態や感情の起伏の浮き沈みの激しさを訴える患者を「ヒステリー状態」と定義し、マッサージで性的な満足感を与えると言う治療を施していました。診療所は忙しく、早速モーティマーも治療にあたります。ハンサムな彼はたちまち患者を増やし、大盛況。そんな彼にダリンプルは診療所を継がせ、愛らしい彼の次女エミリー(フェリシティ・ジョーンズ)との結婚を持ちかけます。順風満帆のような日々でしたが、ダンプリルの長女で、女性の地位向上や貧しい人々の為に社会運動しているシャーロット(マギー・ギレンホール)の存在が、気になりだします。彼女は父の治療を、女性の不満を断片的に見ているだけだと、糾弾していました。

冒頭では、優雅で美しく着飾った紳士淑女の様子が出ます。階段の前に靴底をこそげるバーがありますが、あれは馬があちこち糞を落とすので、それを踏んづけた時に始末するものなのですねぇ。へぇ〜、あんなのがあったのかぁと、その落差にチラリと皮肉を感じます。

診療所での治療の様子がもうおかしくて。治療なんてものではなく、今で言う「性感マッサージ」のようなもんですよ。これを堂々と医師が治療と称して施術していたなんて。保険なんかないだろうし、治療を受けられるのはハイソなお金持ち女性ばかり。底辺の女性たちは体を売っている人も多かったはず。笑いながら自分の生息する階級によって、こんなにも女性の性に違いがあるのかと、考えてしまいます。

そして皮肉なもので、短期間に病院を転々としていたモーティマーは、医師として患者ときちんと向かい合った事がないので、女性たちに感謝される日々に充実感を覚えます。この辺も高い志を持つ彼であると知っているので、何だか切なくなります。

シャーロットは貧しい人々に勉強や寝食を提供する施設の所長です。豊かな医師令嬢としては、当時としては異端だったでしょう。愛らしく従順な妹エミリーは、父親から「天使」と呼ばれますが、これは自分に都合の良い娘だからでしょうね。もちろん悪意があるわけではなく、当時の価値観では、それが相互の愛情と思われていたのでしょう。当然ダリンプル医師の悩みの種は、いう事を聞かないシャーロットです。しかし医師に悩みを告げるハイソ女性たちと比較して、彼女は生き生き元気いっぱいなのです。

私がとても印象に残ったのは、モーティマーのせっかく医師令嬢に生まれて、今の貧しい生活は辛くないか?と言う問いに、笑顔いっぱいで、「全然。私が施しているのではなく、彼らからいっぱい(元気)を貰っているの」と言う台詞でした。彼女は人として、貧しい人と自分を対等だと思っているからこその、この言葉なのです。今の時代にも通じる尊い思いだと痛感しました。

治療に勤しみ過ぎたモーティマーは、商売道具の右手が使い物にならなくなり、あえなく診療所はお払い箱。エミリーとの婚約もなしとなります。その時のエミリーの様子もなぁ。反抗なく笑顔(少し寂しげだったけど)で、モーティマーを見送る様子に、残念な思いがいっぱいの私。女子は親の言いなりが幸せと信じられていた描写に、恐怖すら感じます。

で、登場するのが、モーティマーの親友にして発明マニアのエドモンド(ルパート・エヴェレット)。彼が開発したバイブレーターが大ヒット作となります。この様子が超ユーモラスに大真面目に描かれて、楽しいです。このバイブレーター今では大人のオモチャ扱いですが、当時は立派な健康器具だったそうで、へぇぇぇぇ!とびっくりです。

私が戦慄したのは、当時の気が強かったり、反体制的であったりする女性は、裁判にかけられて「病名・ヒステリー」と判定されると、そのヒステリーの根源であるとされる子宮が、強制的に摘出される事でした。そして判定するのは全て男性。私は「女は子宮でものを考える」と言う思考が大嫌いですが、その根底には、このような女性性への蹂躙があるのだと感じました。女の人も、この言葉が好きな人いますよねぇ。私は友だちになりたくないわ。

マギーは良い女優さんだと思っていましたが、今回は出色の存在感!シャーロットは気が強く、人としての未熟さも感じさせながら、スケールの大きな女性像を輝くように演じていました。ダンシーは時代から半歩進んだ思考を持つモーティマーを、小ぶりながらこちらも好演でした。フェリシティは愛らしいエミリーの善良な無知さと、自我に目覚めかける様子を素直に演じて、好感が持てます。そして私が大好きなエヴェレット!何か久しぶりで当たりな役を観た気がします。モーティマーのパトロンとして、気を使わせない大らかさと変人ぶりが、上手に共存していました。

はてさて、最後はどうなるのか?私が感激した人しての対等感が炸裂して、とても素敵なエンディングでした。女性の地位向上には、良識ある男性の存在は欠かせぬものですよね。男性にも観やすく作っており、賢い作りだと感じました。

エンディングでは、電動バイブレーターの歴史が映され、開発当時から現在までの様々な器具が映されます。ワタクシ、幸か不幸か、この手のモノは手にした事がございませんので、とても興味深く観ました(笑)。冒頭で「この作品は史実を元に作った作品です」の直後、ダメ押しみたいに「事実です」と出るのですね。愛らしくユーモラスな小品を装いながら、ズシンと深く思考や想起もできる作品です。ウェクスラー監督の次作に、とても期待します。


2013年05月12日(日) 「セデック・バレ 第二部 虹の橋」




14日の火曜日に予定していましたが、もう一部を観てから、ずっとこの作品の事が頭から離れず、観たくてたまりません。それで本日は母の日とあって、通常は日曜日は映画館には行かないのですが、今日だけは特別にね。二部はよりセデック族の誇りを際立たせ、より娯楽色の濃い作りとなっていますが、私の傑作と言う感想は保たれました。本当に凄い作品です。

霧社での蜂起で、女子供まで日本人は皆殺しにしたセデック族たち。事は瞬く間に日本軍に伝わり、早速セデック族の制圧にかかります。しかし地の利を生かしたセデック族たちに手を焼く日本政府でしたが、妻子を殺された小島(安藤政信)が駐在する集落の頭目タイモ・ワリス(マー・ジーシアン)が、モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)と敵対している事に目をつけ、集落の男たちを引き込む事に成功します。次第に追い詰められていくモーナたちでしたが・・・。

日本軍VSセデック族の戦いが二部の中心となるので、アクションシーンが一部以上に盛りだくさん。そしてセデックの若者たちの抜群の身体能力を生かしたアクションは、いつまでも見ていたいくらいの見目麗しさで、本当に虜になります。険しい山道や森を縦横無尽に駆け回る彼ら。目にも止まらぬと、風に例えられるその様子は神出鬼没で、日本軍を翻弄します。

女たちはこの戦いの無謀さを承知しており、夫や息子たちの足でまといにならぬよう、自死を決意。命懸けの負け戦に向かう男たちが、今生に情けを残さぬためです。実際はどうであったかわかりませんが、この作品中では、セデックの男たちは、何でも自分たちだけで決めていましたが、女子供は必ず守ってきた印象がありました。彼女たちが従順に男たちに従ってきたのは、強い信頼があったからでしょう。死なないでと泣き喚く息子バワン(リン・ユワンジェ)に、母が「もう大人よね。立派な戦士になって、お母さんは嬉しいわ」と語る姿に、堪らず号泣する私。まだ10歳過ぎたばかりの少年たちは、霧社での活躍で、額と顎に勇者の印の刺青が入っていました。

一方、セデックの血と日本への帰化との狭間で、苦しみ葛藤する警官の花岡一郎と二郎(兄妹ではありません)。一郎が「俺は天皇の赤子か?それともセデックの息子か?」と、同じ立場の二郎へ問いかけます。苦しみを断ち切り、開放しろと言う二郎。彼らの苦渋の末路も、とても理解出来るものでした。

私にはこの二人の苦悩はとてもリアルでした。私は国籍は韓国ですが、生まれも育ちも日本。韓国語は喋れません。韓国人でもなく日本人でもない。文化は和韓折衷でどちらも中途半端。しかしアイデンティティをどこに求めるかと問われれば、即答で韓国と答えます。セデックの伝統的な暮らしをしてきた親を持つ、モーナの息子タダオ(ティエン・ジュン)たち多くの若者も、自分に重なりました。刺青もなく首狩りをした事がなくとも、彼らは紛れもなくセデックの子なのです。タダオのような誇りは持たない私ですが、この作品で、改めて自分の血と向かい合う事が出来ました。

一郎と二郎は、当時の帰化政策で、優秀な子弟は日本人になるように進められていたようです。セデック族からは裏切り者と言われ、日本人からも差別される彼ら。在日社会でも、私の幼い頃は同じような事が言われていたようです。それを思うと、帰化の進む現在の在日社会は隔世の感があります。「後20年我慢しろ」と言った一郎の言葉は、間違いではないと思いました。

モーナたちは負け戦と知りながら蜂起したのは何故か?いずれはセデックの文化は滅んで行くと理解しているからです。屈辱的に滅ぶのか、セデックの勇者として滅ぶのか?後者を選んだのです。ひとり、またひとりと死んで行くのに、戦い続ける彼らを、私は美しいと思いました。普通「戦争」を描いて、ヒロイズムを感じてはいけないのでしょうが、この作品に限っては、この感想で正解だと思います。森を焼かれ、逃げてしまったと思われたセデック族の生き残りが、炎と共に日本軍に飛びかかるシーンは、ため息が出るほどカッコよく、身震いするほど素敵でした。

「死んで虹の向こうに行くと、みんな仲良くするのでしょう?」と言うのは、ワリスの幼い息子です。「たった300人で数千人と戦ったセデック族は、日本人が忘れていた武士道を持っていたのではないか・・・」と語るのは、日本軍指揮官蒲田(河原さぶ)です。この言葉を永遠なものにするための、今回の映画化だったのじゃないかと思います。

とにかく興奮する作品。多分今年の私のNO.1です。


2013年05月11日(土) 「セデック・バレ 第一部 太陽旗」




ぶっ飛びました。観ながら血湧き肉踊るとは、これなのだと感じます。とにかく躍動感が素晴らしい!日本が台湾を統治していた時代での、先住民セデック族による抗日暴動・霧社事件を描いています。抗日の時代を描いていますが、私は決して「反日」を訴える作品ではなく、滅んでゆく「野蛮の誇り」を描いた作品だと、強く感じました。監督は台湾のウェイ・ダーション。美術監督に日本から種田陽平、アクション監督に韓国からヤン・ギルヨン、制作に香港からジョン・ウーを招き、アジア大結集の作品です。一部を観た限りでは、掛け値なしの傑作です。

1895年、日本が日清戦争に勝利し、台湾を統治するようになり、その力は山岳地帯に暮らす狩猟民族セデック族の集落にまで及び、彼らの平穏な暮らしも奪われて行きます。それから35年、セデックの一集落の頭目モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)は、自分の集落の者と日本人警官が衝突した事を契機に、セデック族を思い、集落の者たちを耐え忍ばせていた感情を爆発。暴動を指揮します。

冒頭は険しい渓谷の中での、目を見張るアクションが繰り広げられます。セデック族は6つの社(集落)に分かれて暮らしており、それぞれに頭目がおり反目しあっているようです。首狩りが習わしであり、敵の首を狩った者が大人として見なされ、顔に刺青が許されます。冒頭ではそれを端的に見せてくれます。以降アクション場面では、あんたたち、獣ですか?と言うくらい、セデックの若者たちは身体能力抜群で、かつ獰猛な精悍さを撒き散らしています。おまけにみんな眼光鋭く超イケメン。プロの俳優は少なく、ほとんどが素人で、原住民の血を引く若者だちと聞くと、ここでも「血」と言うものを感じます。

これが若き日のモーナを演じるダーチン。彼もズブの素人ですが、出色の存在感で、前半を引っ張ります。セデック族は裸足が当たり前だったので、険しい渓谷での撮影は生傷が絶えず、発熱まで及ぶ怪我もあったとか。その甲斐あって、映画は最後まで熱気に包まれています。

後半では一転、抑圧されるセデック族が描かれ、日本からも安藤政信、木村祐一らが警官として出演。村は切り開かれ、郵便局や学校など整備が整い、文明の足音が聞こえるまでになっています。しかその恩恵を受けるのは、その地に住む多くの日本人だけであり、セデック族はわずかばかりの賃金で過酷な仕事をさせられ、日本人との格差は広がるばかり。セデック族の文化は踏みにじられ、差別や性的・暴力的な虐待も日常茶飯事でした。

屈強なセデックの若者たちが、何故もっと早くに反乱を起こさないのかと不思議でしたが、そこには類まれな求心力を誇るモーナの存在が。彼ら頭目は本土に招かれ、如何に日本が武力や文明に長けているかを見せつけられています。集落の存続を考えれば、耐えるしかないと、賢ければ賢いほど思うでしょう。壮年のモーナ役のリン・チンタイは、本職は何と現役の牧師さん!強面のいかつい容姿から、腕力と聡明さを兼ね備える人物としてのオーラが出まくりです。

私が反日映画ではないと感じたのは、蛮行を働く日本人警官や教師は、みんな貧相で卑屈な印象を受け、正に虎の威を借りる狐のように感じました。安藤政信演じる警官は、他の警官と違い現地語を話し、温厚で誠実な印象を受け、暴力で弾圧しようとしません。モーナにも「本土の日本人は、ここでの日本人のように卑劣ではない」と語らせます。これは自分の力でもないのに、高慢・高圧になる権力者側の人間の性を描いていたのかと思います。白人VS黒人、インディアンVS白人や、諸外国でも皆そうだったと思います。私は公平に描いていると思いました。その証拠に、暴動時の残虐性は、セデック族の方が数段上なのです。その前に耐え忍ぶ彼らを見せているので、確かに胸はすきますがね。

この戦いはセデックの敗北に終わると、観る者は知っています。彼らの伝統も首狩りと言う野蛮なもので、時代の波と共にいずれは滅んでいくのは、今の感覚では承知出来るものです。しかし刺青の意味、勇者としての心得、集落を守る強い気概など、彼らの文化を丹念に描いているので、モーナの「文明に屈服するのか、野蛮の誇りを持ち続けるのか」と言うセリフが、民族の誇りの意味を理解させ、深く心に刻まれるのです。

その他、日本人に帰化したセデック族の青年警官たちの葛藤、他の集落の頭目たちの、それぞれの集落を守る考えの違いを映し出し、単に統治する日本人とセデック族の戦いにせず、ドラマに厚みを与えています。

撮影はジャングルのような渓谷や滝も多く、荘厳な雰囲気を醸し出しています。モーナと亡くなった幻の父親との輪唱場面が、幻想的で力強く、かつ非常に美しく、もう一度聞きたいです。

一部は霧社での暴動で終わりました。後半は安藤政信の良心ある警官がキーパーソンになると予想していますが、どうかな?二部は14日に観る予定です。あぁ早く観たい観たい!この作品は反日映画とされ、公開が危惧されていたそうですが、毎年行われている大阪でのアジアン映画祭では、観客賞を取ったとか。内容を誤解せず公開に尽力して下さった方々に、心より敬意を表したいです。日本人の民度の高さをも表す劇場公開です。


2013年05月06日(月) 「ラストスタンド」

祝!シュワちゃん復帰主演作・第一作です。「エクスペンタブルズ」シリーズに出演しているので、お久しぶり感は乏しいものの、主演は実に10年ぶり。予告編で見たときは、シュワちゃんも老けたなぁと思っていました。だって65歳だもんね。しかし実際は老いを晒しながら、円熟感にうまく方向転換。そして往年通り、超強い!内容も面白くて、とても満足しました。監督は韓国のキム・ジウン。

のどかな国境の町ソマートンで、ゆったりと保安官としての日々を送っているレイ(アーノルド・シュワルツェネッガー)。かつてはロス市警の敏腕刑事でしたが、過酷な日々に嫌気がさして、この町に来て数年が過ぎます。そんなある日、麻薬王のコルテス(エドゥアルド・ノリエガ)が、厳重な警備から脱走、メキシコ国境を目指してソマートンへ向かっていると、FBIのバニスター(フォレスト・ウィテカー)から連絡が入ります。手出しするなと言うバニスターですが、FBIの到着はコルテスに間に合いません。ソマートンの平和を乱す者は許せないと、立ち上がります。こちらは三人の副保安官(ルイス・ガスマン、ザック・ギルフォード、ジェイミー・アレクサンダー)と、民間人のフランク(ロドリゴ・サントロ)、そして隠し玉の武器オタクルイス(ジョニー・ノックスヴィル)。彼らは果たして、コルテスを逮捕出来るのか?

のどかなソマートンの様子がユーモラスに描かれるのと並行して、スリリングなコルテス脱走劇が描かれ、対比が楽しめます。シュワちゃんはただの保安官ではないをピンポイントで描くので、退屈なはずの日々も「俺はこの町が好きだ」の台詞で、過去に何かあったのだろうも、ちゃんと忍ばせていています。コルテス脱走劇は、正直ド胆を抜かれました。あんなのは観た事がないです。重量感があるのにスピーディーで、とても面白かったです。台詞以外で超大物犯罪者を、こちらもちゃんと印象付けています。

もう序盤の描き方で、これはAクラスの娯楽作だろうと確信。以降オーソドックスな展開ながら、見せ方の工夫が冴えています。一番に良かったのは、アクションの重量感がずっと持続した事。車や銃の使い分けがとても良かったです。私の見る限りCGはなく、シュワちゃんやその他の俳優の顔の隠し具合の絶妙さは、古式ゆかしいスタントを使ったアクションではないかと感じました。私が嬉しかったのは、その作りが郷愁を誘うのではなく、ちゃんと今の映画として面白く感じた事です。

ドラマという程の内容はありませんが、その代わりコメディリリーフのルイスが楽しいし、老人たちの扱いが、ユーモラスな中に腰が座って上手いです。老人の良さを引き出しています。奮闘中のシュワちゃんに「もう歳かな」と言わせながら、それを応援するのは、彼より上のお年寄りたち。頑張るしかないですよね。

今までのシュワのアクション作は、ほとんどが彼単独のヒーローでしたが、今回はチーム戦。久しぶりの大捕物に弱音も吐きます。しかしレイは人格者でもあり、チームの誰もが信頼し付いていく様子は、レイが人生の年輪を重ねた者だからだと、老いも値打ちと感じさせるのです。ドラマを厚くするより、久々復帰のシュワちゃんを引き立てる脚本は、正解だったと思います。ラストでは素手の格闘も大サービスでした。

事前に何も調べなかったので、私の好きな男優、好みの男優が大挙出ていて、もうびっくり。私的にイケメンパラダイスな作品でもあります。

まずはダニエル・ヘニー。FBI捜査官役で結構な出演シーンがあってね、最初から凛々しくてハンサムだなぁと、うっとり。アメリカ系韓国人とあるので、国籍はアメリカでしょう。韓国ドラマに出ているそうですが、私は韓国ドラマは見ないんでな。日本で人気の韓流スターより、ずっとカッコイイぞ。










次は退屈なソマートンに飽き飽きしている、でも仕事出来ない若い副保安官役のザック・ギルフォード。彼もこの作品で初めて観ました。ちょっとクリストファー・エクルストンに似てるかな?繊細で若々しい感じがグッド。彼のお蔭で全員の正義感に火が着いたと言うのも頷ける、好青年ぶりです。


次はスペインからエドゥアルド・ノリエガ。スペインじゃ大人気で、ハリウッド出演作も多いのに、イマイチ日本じゃブレイクせんな。ちょっと濃い目の美形ですが、存在感は抜群で、今回も線は若干細いながら、シュワちゃん復帰作の敵役と言う重要な役を好演していました。


そして最後は!ヒューヒュー!大好きなロドリゴ・サントロ!民間人として戦うフランク役です。初登場シーンは牢屋の中だし、髭面がむさいので、わかりませんでした。このイーサン・ホークを男前にした俳優は誰やねん?と目を凝らしていると、何とロドリゴ!私は髭なしの彼の方が印象深く、且つこんな男臭い役柄は初めて目にするので、もうびっくり!(好きという割には、あまり作品は観ていない模様)。しかしいくら無精髭姿でも、埃立ち込める中でも、あの清々しい美貌は健在でゴザイマス。同じラテンの血の混ざるオリヴィエ・マルティネスなんか、年食ってVシネ顔になったり、ガエル・ガルシア・ベルナルも段々普通っぽく劣化していく中、ロドリゴは大丈夫みたい(ブラジル人です)。今回無難にカッコいいだけでしたが、彼の場合私的には、無難=とても素敵、なので問題なしです。

他にも女性出演者は副保安官やFBI、ダイナーのお姉ちゃんに至るまで、全て美形にして男の戦いに水をささない程よい好演。いつも脇役のルイス・ガスマンも、今回はキャラを活かしながら見せ場もあり、とってもカッコ良かった。重要な老人役でハリー・ディーン・スタントンが出ていたのも特筆です。ピーター・ストーメアも久々にたくさん出演シーンがあるしで、出演者みんなに気を配った作りが、一層シュワちゃんを盛り立て好感持てました。お蔭でオスカー俳優ウィテカーだけが、割を食ってちょっと可哀想でした。

こんなに目いっぱい書くほどの内容じゃないのですが、私的にとても気に入ったので、頑張って書きました。映画ファンならずとも、誰もが一度は主演作を観ているはずのシュワちゃん復帰の嬉しさを、このレビューに込めさせていただきます。



2013年05月05日(日) 「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」




う〜ん。まぁマッツ主演でなければ、パスした作品だったので、こんなもんかなぁ。コスプレものは内容がそそられれば観る程度なので、私の知識が薄いのも、あんまり面白くなかった一因でしょう。監督はニコライ・アーセル。本年度アカデミー賞外国映画賞候補作の、デンマーク作品です。ベルリン映画祭で、銀熊賞受賞作。

18世紀後半、英国王ジョージ3世の妹カロリーネ(アリシア・ヴィキャンデル)は、従兄弟のデンマーク王クリスチャン7世(ミケル・ボー・フォルスゴー)の元に嫁ぎます。芸術を愛し教養豊かな王と聞き、胸を弾ませていたカロリーヌですがですが、実際は精神を病んでおり、夫婦関係は冷え込む一方で、王妃はこの結婚に絶望しています。そんな時外遊先のドイツで、病状を悪化させたクリスチャンは、医師ストルーエンセ(マッツ・ミケルセン)を侍医として採用。デンマークに連れて帰ります。ストルーエンセは、自分に心酔するクリスチャンの心を掴み、やがては自分の思想である啓蒙思想を王に伝授。その様子に心を開いたカロリーヌとも、親しくなります。変化した王により政治は急速に改革。しかし、その影でストルーエンセと王妃は、不倫の関係となります。

まずこの不倫に、全然共感出来ないのが私的にバッテン。バカ王との関係に絶望していた王妃が、新しい改革に意欲を燃やすストルーエンセに惹かれるのはわかりますよ。でもストルーエンセが王妃に惹かれたのは、「若くて美しい」だけのように感じてしまってなぁ。セリフでも男とはみんなそんなもん的なセリフが出てきますが、それって野望を持った男にしては、ちょっと浅はか過ぎないか?それとマッツは50前、アリシアは20代半ばなので、画を観る度に若い女にトチ狂った中年男に見えてしまい、バッカみたい!と思ってしまうわけですよ。

しかし実際にカロリーヌはミドルティーンで嫁ぎ、23歳で病死しているので、カロリーヌに関してはアリシアで適役です。ストルーエンセの年齢がわからないので、この辺は史実通りかもしれません。

取りあえず、不倫は良しとしよう。しかしストルーエンセに全幅の信頼を寄せる王に対して、二人共罪悪感が皆無なのは、如何なものか?王が「自分はバカ扱いだ」と、王宮での孤独感の描き方は際立っており、対する王妃は、私の仕事は妻ではなく王妃とばかり、貫禄を増すのとは対照的です。宣伝では孤独な王妃となっていますが、実際王宮で一番孤独だったのは、私は王だと思います。

妻に「ママ」と呼びかける夫。実母は夭折しています。自分はあなたの母じゃない!と怒る彼女の気持ちはわかりますが、ストルーエンセの巧みな王への接し方を学ぶなどして、幾らでも夫婦和解の道はあったと思うけど、彼女も若かったんでしょうね。自分の辛さしか見えなかった。

そのうちカロリーヌは妊娠。しかし王とは長い事セックスレス。生みたいと言い張る彼女に、あろう事か、ストルーエンセは王を再び閨に誘うように進言します。えぇぇ!王を騙して王の子として産むってか?その直後、「私によらないで。夫の匂いがするから」と涙ながらにストルーエンセに言うカロリーヌに、お前、もっと別のセリフがあるだろうが!と血圧が上がりそうになる私。その後、生まれた娘が自分の子か懐疑的な王が、娘をあやそうとすると、触らないで!と王の頬を打つシーンに、呆然としました。

この王は決して悪い人ではありません。母性愛豊かな人が妻なら、政治的にはお飾りであっても、それなりに豊かな人生は送れた人です。私が痛感したのはここ。なので不義の子を生んだ呵責の念もへったくれもない王妃が、もう憎たらしくて。

こうなると、もういけない。当時のヨーロッパでは、どうもデンマークは近隣諸国が啓蒙思想で改革されていたのに、遅れを取っていたようです。ストルーエンセによって、お飾りだった王が、しっかり自分の政治的思想を発言する場面は、ちょっとした感動でした。ストルーエンセの改革は、予防接種に農民の開放、書物の検閲を無くす等、皆優れたものです。しかし庶民に自分たちの不倫が知れ、揶揄する書物が溢れると、たちまち検閲を復活。王をサポートするはずが、自分が実権を握るや、王は置いてけぼりで、またバカ扱い。結局は以前の王の周囲の人々と同じになるのは、似た境遇の多くの権力者と同じ末路で、何とも皮肉。改革の仕方も急速過ぎで、あれでは反感は買うでしょう。結局ストルーエンセは思想家であっても、政治家ではなかったのだと思います。

マッツは相変わらず素敵で、若い王妃が好きになるのも納得ですが、今回はストルーエンセが好きになれず、残念でした。アリシアは可憐な新婚当時から、威厳も感じる王妃なる様子は、若くして嫁いだ姫の、自我の目覚めを表現していて良かったです。特筆はフォルステゴー。病んだ王の孤独と哀しさをくっきり浮かび上がらせて、私の感想は彼の演技に引き出されたもんです。確かこの演技でベルリンで賞を取ったと思います。

とまぁ、メロドラマ部分が私には全然ダメだったのが痛恨。歴史劇としては、端正にしっかり作りこんでおり、見応えはあります。この不倫劇は、デンマークの人なら誰でも知っているレベルのものらしく、この描き方でも様々な感想を呼んだ事だと思います。しっかし、王宮・貴族ものは不倫が多いよな。大昔のやんごとなきお方たちは、シモの方はゆるいようですね。


2013年05月03日(金) 「ハッシュパピー〜バスタブ島の少女」




6歳と言う史上最年少でオスカー候補となった、クヮベンジャネ・ウォレスちゃんの主演作。観れば候補も大納得。とにかく目を見張るほど魅力的です。彼女の旺盛で逞しい生命力が、作品の粗なんか蹴散らしちゃってます。監督はベン・ザイトリン。

長々と伸びる堤防のよって切り離され、ポツンと浮かぶバスタブ島。そこは文明からかけ離れた生活をする人々がコミュニティを作っていました。6歳のハッシュパピー(クヮベンジャネ・ウォレス)は、そこでパパのウィンク(ドワイト・ヘンリー)とふたり暮らし。ママはハッシュパピーが赤ちゃんの頃、島を捨てて出て行ったようです。自然や動物たちと共存する島で、毎日がお祭りのようなバスタブ島。しかしウィンクが重病の侵されているのが発覚。そこへ100年に一度の大嵐が、バスタブ島を襲います。

まぁ〜汚い汚い!自然と共存と書きましたが、アーミッシュのようにナチュラルに生活しているのではありません。共存と言うより野生のままの生活です。部屋はゴミだめだわ、家の中は泥まみれだわ、ご飯は鷄の丸焼きを手づかみでちぎって食べ、「犬と分けろ」だって・・・。もちろん動物(家畜じゃありません。ペット。でも時には食べるんだって)は家に入り放題。ホームレスの小屋の方が、もっとましな気がします。ここで子供を育てるなんて、卒倒しそうだわ。

しかし怒鳴ってばかり、時には殴るパパですが、それでも娘への愛情がいっぱいなのは、わかります。ランニングとパンツの下着姿で外に出る娘に、「ズボンをはけ!」と怒鳴る様子は、父親だからです。パピーの方も笑顔を向けるのでもなく、始終父親を睨みつけ、「死ねばいいのに!」と悪態をつきます。普通の親子の慈しみなどまるでないのに、強いを絆を感じます。

愛情いっぱい褒めて育てろとか、神経質になるほど清潔にしたりとか、今の子育てから見ると、まるで逆向の二人ですが、なのにこの健やかさと強靭な生命力は何なんだろう?とにかくひ弱い所が、まるでない。この父親は、娘を抱かないなぁと思っていたら、パピー曰く、生まれて抱っこされたのは、二本の指で足りるのだとか。しかしその二回は、「親の役目は、子供を生きさす事だ」と言う、パパの信念を表すシーンでした。

バスタブの人達は、どんな仕事をしているのか?お金は?人種も様々で、どんな理由でたどり着いたのは、いつから住んでいるのか、説明はありません。猛獣が出てきたり、地球の温暖化の話もちょこっと出ますが、スパイス程度。ファンタジーとして観て下さい、と言う事なのでしょう。その割に劣悪な衛生状態から、国から強制的にバスタブの人々を保護する様子など、生々しい描写もあります。謎が多いけど、あまりのバスタブの人々の力強さに敬意を表し、素通りしようと思います。

保護所でのパピーは、綿帽子のような髪をなでつけられ、可愛いワンピース姿。これがコスプレですか?と言うくらい似合わない。一度バスタブの女の子たちと、海を渡って本土に行ったパピーですが、母の思い出の鰐の唐揚げを手に、また島に戻ってきます。何度も「ママ」と、夜空に語りかけるパピーでしたが、想像だけの母は、遠くにありて思うものであり、現実には誰よりパパが大切なんだなと、このシーンには涙が出ました。

この環境は子育てに適さない、この人たちは保護されて当然の人、と思うのは、私の驕りなのかなと、観ていて段々感じるのです。アメリカは劣悪な環境の子供の保護は、進んでいるはず。もしかしたら、強引すぎるきらいがあって、この作品は、そこを疑問視しているのかと感じます。愛している、大切だと、一言も言い合わない父と娘。深い絆で結ばれながら、しかし世界で二人きりでもない。子供を託せる人もいる。劣悪な環境ですが、環境が整っていても、そこは魂のない箱のような子供より、よっぽどパピーが幸せに感じました。

パピー達がたどり着いた本土で、連れて行かれたのは娼館です。それも安物の。しかしパピーたちを見るなり、「まぁ可愛い」と嬌声をあげる彼女たちは、客へ向けた声とは明らかに異なります。セックスして孕んでも、生む事は許されない女たち。ダンスしながら、ひと時の温もりを貰ったのは、娼婦たちだったかも知れません。こうやって、大人は子供に力を貰っているのです。

「主演女優」を観るだけでも、一見の価値のある作品。音楽も力強いリズム感があって、とても画に合っていました。私は大好きな作品です。


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