ケイケイの映画日記
目次過去未来


2012年01月26日(木) 「サラの鍵」




良い作品だと思います。しかし私は真実を探るジャーナリスト・ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)の造形に疑問が湧き、手放しには褒められません。監督はジル・バケ=ブランネール。今回ネタばれです。

夫と思春期の娘と共にパリで暮らすアメリカ人ジャーナリストのジュリア。夫の祖父母のアパートを譲り受け、手直しをしているところです。今は1942年、フランス警察によるユダヤ人迫害の事件を追っており、偶然そのアパートに住んでいたのが、ユダヤ人一家だったと知ります。当時10歳の姉サラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、咄嗟の起点で、弟ミシェルを納屋に押し込め、鍵をかけます。すぐに戻れると思っての事でしたが、両親とサラは、ユダヤ人ばかりを集めた競輪場へ連行され、家には戻れませんでした。ジュリアはサラの軌跡を探している最中、45際にして二人目を妊娠していることを知ります。

前半は現代のジュリアとサラ一家が交互に描かれ、とても良いです。私はユダヤ人の迫害は、ドイツとばかり思っていましたが、フランス当局によって行われていたのです。排泄・食事・睡眠など、人間の尊厳と自由全てを奪われた競輪場のユダヤ人の描写は圧巻で、目を覆うばかりです。その中でサラは、両親から弟を置いてきたのはお前のせいだと、交互に詰られます。常軌を逸した状況で、両親も感情が高ぶっていたのでしょう。この描写も胸が痛く、とても親を責められる気にはなりません。しかしこの事で、サラは絶対に弟を救わなければと、誓ったのだと思います。

どんな苦境が訪れても、サラは屈しません。そしてその時々で自分の名前を「私はサラよ」と名乗ります。記号でも番号でもなく名前。それを明かす事は、サラにとって人としての礼節と誇りを相手に示すものでした。そして、たくさんの名前を失ったまま死んでいったユダヤ人の子供たちの誇りを取り戻そうと思ったのが、ジュリアがこの事件に関わるきっかけだったのでしょう。

と、ここまではいいのです。何も文句無く私も時々涙ぐみながら観ていました。しかしサラの弟の行く末に、サラの住んでいたアパートを借り、その後購入したジュリアの夫ベルトラン(フレデリック・ピエロ)の祖父と当時子供だった父が関わっていました。その衝撃的な出来事は、当時義祖父と義父以外には、祖母にも秘密にしており、記憶の底に閉じ込められていたことです。これを執拗に明らかにしようとするジュリアに、私は違和感とも嫌悪感ともつかぬ感情が湧きます。

何故義祖母にも秘密にしたのか?主婦にとって家は格別のものです。花を飾り、季節のカーテンにしかえ、食卓には色とりどりの料理をのせ。何もない箱のような状態の中を、心を込めて息吹を吹き込み、家とするのが主婦です。やっと安住の場所を見つけ、心弾む妻を思い、この忌まわしい出来事を、母には告げるなと父は息子に言ったのだと、私は思います。

真実を知り、「お祖父様は立派だったわ」と、ジュリアは舅に告げます。これだけで、以降夫の家族に対して、謝罪も相手を思う言葉も一切無し。それは亡くなった祖父の気持ちを踏みにじる事ではないでしょうか?妻である祖母は現存で、この事実を知ってしまいます。祖父は妻だけではなく、のちのちの人生のトラウマになるようなこの出来事から、息子をも守りたかったのでしょう。だから記憶の底に封印させ、自分だけが背負い込んだのだと思います。それを孫の嫁が暴露するって、どうよ?

「灼熱の魂」の感想で、私は「母親が望むなら、子供は真実を知る義務がある」と書きました。そこには真実を知ることで、忌まわしい負の連鎖を断ち切って欲しいと言う、母の子を想う痛切な気持ちがあったからです。しかしジュリアは?ジャーナリストとしての探求心だけだとしか、思えない。夫の身内を想う心があったとは思えません。事実暴走する妻に夫はついて行けなくなり、思春期の難しい年頃の娘は、両親の不仲に心を痛めます。身重の自身の体も全く厭わない。家族が離散する危機に面するような事は、家族を失った痛みを知るサラが、望んでいたとは私には思えません。

真実を知ることは痛みを伴う事もしばしばです。だから私は嫁及び婿と言う立場の人間は、自分が結婚以前の連れ合いの家庭の出来事が、良きに付け悪しきに付け、立ち入ってはならないと思っています。そこには当事者しかわからぬ、歴史があるからです。ジュリアがジャーナリスト魂で真実を暴露するなら、立ち入らず見守るのが私の妻としての美学です。家庭に波風立ててまで仕事をするなんて、そんなの男の専売特許で結構。女性が男性と対等に社会で権利を得るのは、決して男性と同じになる事ではないはずです。ジュリアを観ていると、真実を知りたいのは女性、臆病になるのは男性だと思うと同時に、でしゃばるのも女性だと感じました。

思うにサラは、「鍵」を受け取ったのは自分だと思ったのでしょう。映画は最後の方で、「鍵」を受け取ったのはサラの息子(エイダン・クイン)で、ジュリアの傲慢さをたしなめ、反省させていたのは、とても救われました。

サラが困難にぶつかると、必ず彼女を助けてくれる人が現れ、その度に人の世は捨てたもんじゃないと感じます。特にサラの素性を知りながら、愛情を込めて育てた老夫婦が滋味深いです。サラは彼らに感謝していたのでしょう、家出してから、彼らの性を名乗っています。名前を大切にしていたサラらしい恩の返し方だと思いました。結婚してからもうつ病に悩まされたサラ。それは自分だけが助かってしまったという、自らを責める気持ちと、幸せになりたいと思う気持ちが、常に彼女を葛藤させていたからだと思います。なので安心して暮らせる場所が見つかると、いつもいつも逃げ出したのだと思います。とても痛ましい気持ちになりました。

最後に出てくる子供の名前は、ジュリアのサラに対しての贖罪と感謝でしょう。サラの存在を知ったからこそ、この子はこの世に生まれでる事が出来たのですから。大事に育てる、その決意が込められていたと思います。

ラストがとても余韻があり、好印象なので、結果としては良い映画だったと言えますが、上記の私の嫌悪感で、好きな作品だとは言えません。だいぶ期待していたので、ちょっと残念です。もっと過激な内容と思われている「灼熱の魂」の方が、私には癒され希望を沸かせてくれました。


2012年01月21日(土) 「哀しき獣」


「チェイサー」が素晴らしく面白かったナ・ホンジン監督の二作目。前回同様、主役にはハ・ジョンウとキム・ユンソクを配し、今回は攻守交代の役どころです。とっても面白かった!でも面白かったからこそ、この監督は相当力量があるのだと知るからこそ、不満な点もありました。それは後ほど。

中国にある延辺朝鮮族自治州。ここには多くの朝鮮系中国人が住んでいます。タクシー運転手のグナム(ハ・ジョンウ)もその一人。妻は韓国へ出稼ぎに行っていますが、現在は送金も途絶え音信不通。韓国へ密航の際に作った借金を、博打で返そうとしたグナムですが、借金は返って膨らむばかり。ある日ミョン(キム・グンソク)と言う裏社会の顔役が、グナムに韓国での請負殺人を依頼。その金で借金を返せと言うのです。切羽詰ったグナムはそれを承諾。妻の所在も突き止めたいのです。韓国に渡りターゲットを見つけたグナムでしたが・・・。

朝鮮族については、存在は知っていました。最近では脱北者の潜伏先としてドキュメントでも取り上げられていますね。どんな暮らしぶりかは知らなかったのですが、どうも中国人からは差別されている様子。彼らは国籍は中国です。しかし中国人相手には中国語を話しますが、自分たち同士は韓国語。もう二世以下の世代はなっているはずです。この辺、家でも外でも日本語で通す、と言うか日本語しか話せない私たち日本育ちの在日とは、かなり異なります。薄汚くて暗い家の中の様子は、グナム=朝鮮族の貧しさを描写していると取りました。

命からがら韓国へ密航してからは、怒涛の展開です。殺人や人の尾行などした事のなかったはずのグナムが、私立探偵さながら、全く知らない土地で、住所を頼りにターゲットを見つけ出します。それまでの描写からは信じられない、グナムの火事場の馬鹿力的クレバーさは、死にたくないという本能的なものなのでしょう、綺麗事ではない生への執着です。

予想外の事に出会し狼狽するグナム。ここからターゲットの友人のキム(チョ・ソンハ)が暗躍し、裏社会の大物ぶりを暴力的に披露するミョンまでもが、グナムを追いかけます。この辺から見ているこっちも、グナム同様、謎ばかりで混乱します。しかし血で血を洗う暴力描写と、「チェイサー」同様、走って走って走りまくるグナムの姿に、馳走感と妙な爽快感すら覚えます。もう謎なんか、どうでもよくなる。薄汚く野蛮な朝鮮族であるミョンと、表の仕事を持つ紳士然とした韓国人のキム。同じく裏社会の人間ですが、これも対比になっているのでしょう。この暴力描写で魅せるのは、これからホンジン監督の作家性となっていくのでしょうね。















                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  


これが素顔のユンソク(左)とジョンウ(右)。一番上の画像とはだいぶ違う模様。今作では見事な化けっぷりで底辺でもがく人間=グナムと、輝く人間=ミョンをくっきり演じています。ジョンウも素晴らしい熱演を見せるのですが、今回は得体の知れないモンスター的怖さと、大陸的なユーモアを兼ね備える闇の大物っぷりが、とても魅力的だったユンソクが光っていました。とにかく死なない。でもこの男だったら、ありかもなぁと、妙に納得させられるのです。

脚本はあれもこれもと盛り込まず、もう少し的を絞る方が良かったかも。とにかく勢いで魅せたのですから、こじつけのような謎解きは必要ないと思いました。へまをしたキムの部下の扱いも雑。韓国女性の貞操観念の低下も匂わしていますが、それも不要。描きかったら、また別の機会にお願いしたかったです。

で、私が不満なのは、せっかく朝鮮族をモチーフにしたのだから、もっと掘り下げて欲しかったです。監督は朝鮮族の事についてほとんど知らずに成人し、何かのきっかけで知り、描いてみたいと思っていたのだとか。「チェイサー」で挿入しようとしたけど、膨大になり過ぎて止めたのだとか。

もう国籍は中国で、彼らには見た事も行った事もない韓国。それを未だに自分たち同士の公用語として使うのは、便宜以上の何か理由があるはず。または屈託や郷愁でしょうか?私も同じ立場だから、そこが知りたいのです。ターゲットがグナムを見つけ、そのみすぼらしい形から、「朝鮮族か?」と訪ねます。幾ばくかの施しをするのを、私は温情だと思いました。しかしラストを観ると、それは捨て猫に、その場限りのミルクをやるのと一緒だったのですね。彼らにとっては屈辱です。生まれ育った中国で差別され、自分のアイデンティである国では人間扱いされず。しかし行き場も居場所もないその苦悩や怒りが、イマイチ見えてこない。もしかして、したたかさが肥大してミョンになった、と言いたいのなら、それは違うと思うし、韓国本土の人間が描く朝鮮族としては、失礼だと思います。

この苦言は、ナ監督が、これから韓国映画界を背負って立つ逸材だと思うからの苦言です。幸か不幸か、韓国は題材には困りません。社会性に富んだ娯楽作の傑作を期待しています。




2012年01月19日(木) 「幕末太陽傳」

面白過ぎてビックリ!日本の映画史に燦然と輝く名作ですが、私は全くの未見。落語の「居残り佐平治」を元に、その他いくつかの落語の話を元に作ってあるとか。いい意味で予想は裏切られ、今の時代にも充分通じるお話でした。監督は川島雄三。

幕末の江戸に隣接する遊郭の相模屋。一文無しのくせに豪遊した佐平治(フランキー堺)は、強引に居残って相模屋で働く事に。あれよあれよと言う間に働き頭になって、相模屋に金をもたらす佐平治の大活躍が描かれます。

予想が裏切られたと言うのは、意外な程感覚がドライだったことです。落語が元なので、もっと町人の哀歓や人情が絡んでいると思ったの。ところがところが、佐平治はあの手この手で小金集めに一心だし、こはる(南田洋子)やおそめ(左幸子)たち女郎は、客の男を騙してしれ〜と平然だし、因業な女将と亭主(山岡久乃と金子信雄)は、最初から最後まで因業なままで、少々の改心も見せない。底辺の町人の、人の世を生きる苦労を、したたかに豪快に吹っ飛ばしています。あぁここは落語っぽいなと、その間合いの絶妙さや、軽妙に繰り出すユーモラスなセリフの応酬やシチュエーションに、クスクス笑いっぱなし。しかし観ている内に、そこかしこに散りばめてある「暗さ」にも気づきます。

佐平治は労咳を患っており、誰彼となく「悪い咳きをしているな」と言われますが、これは彼がある程度死期が迫っている人間だと、観客に知らせるためでしょう。当時は不治の病のはずですが、佐平治は漢方薬を自ら調合して飲み、生への執念を感じます。口八丁手八町、才智に富み機転が利く佐平治が、情の一片も見せず金を貯め込むのは、薬代が必要だからだと思いました。

客を取りまくったため、嘘の契がバレたこはるが、「私は朝寝したいだけなんだよ!」と啖呵を切りますが、この言葉に女郎の辛さが集約されています。郭は夜中でも男衆が時間ごとに拍子木を打ち、時間を知らせに回りますが、それはいつまでも寝てないで、客の部屋を廻って来いと言う女郎への合図です。女郎となった日から、ぐっすり眠る日はなかったでしょう。ありとあらゆる手練手管で客からお金をむしり取る女郎たちですが、それは早く年期明けしたい一心だからなんでしょう。こはるとおそめが、「年期が開けたらアタシと・・・」と、それぞれ佐平治を口説く様子を挿入するのも、年期明けが彼女たちの夢であるのがわかります。一見女郎たちのしたたかさしか映していないようですが、女郎の哀しさも見え隠れさせています。

金には煩い佐平治ですが、下女のおひさ(芦川いずみ)の申し出には、「その言葉、気に入った」と金を貸します。愚痴や恨みを言わず、しかし女郎になるのだけはいやだと、運命に流されず戦いに挑むようなおひさに、生に執念を燃やす自分を重ねたからだと思いました。

高杉晋作役で石原裕次郎や小林旭、二谷英明など、当時の日活の二枚目俳優が武士の役で登場します。でも武士を笠にきて大金をツケにして相模屋にいつく様子は、ヤクザと変わらないです。高杉晋作は幕末のビックネームで、この作品でも別格扱いですが、でも作中では底辺で苦しむ町人の味方になんか、なっちゃくれません。憂国の士のはずが、自分たちの利害関係に、ああだこうだと議論に明け暮れるだけ。この辺いつの時代の映画ですか?と言うくらい、今の世相に似ています。

フランキー堺は、私が子供の頃は、もう既に大物役者でした。こんなに飛んだり跳ねたり、軽快な彼は記憶にありません。若さの中にそこはかとなく死を感じさせる様子も絶妙です。川島監督も当時難病に侵されており、フランキー佐平治に自らの生死感を投影したのでしょう。見事に期待に応えており、充分にこちらに監督の心が届きました。

一つわからなかったのが、体に悪いと佐平治が女性を断っていた事。お酒は浴びるほど飲んでたし、タバコだって吸ってたぞ。私が思うのに、死期が見えている自分に、子供が出来るのが怖かったのかしら?自分の本心は決して見せない佐平治でしたが、眠りこけるおそめとこはるを、男性的な包容力いっぱいの微笑みで観ていた顔が、本当の彼なのでしょう。

有名なラストの「地獄も極楽もあるもんか!俺はまだまだ生きるんでぃ!」には、思わず目頭が熱くなりました。まだ戦後の色濃い50年以上前の映画に、励まされたと言うわけです。

デジタルリマスターの画面はとても綺麗なモノクロで、若かりし頃の南田洋子や左幸子の艶やかさも、ぐっと引き立ってます。日活100周年記念で全国巡回しているそうなので、お近くでご覧になれる際は、是非どうぞ!




2012年01月16日(月) 「ヒミズ」




好調の園子温監督作品。いつもはオリジナル脚本の監督作ですが、今回は古谷実のコミックが原作です。いつも通り露悪的だったり毒を含んだ表現があったりですが、厳しい環境に置かれる少年少女の明日への希望を、意外な程ストレートに描いており、とても胸を打たれました。昨年のヴェネチア映画祭で、主演の染谷将太と二階堂ふみが、最優秀新人賞を受賞しています。今回少々ネタバレ気味です。

中学三年生の住田(染谷将太)は、母(渡辺真紀子)の営む貸しボート屋を手伝う少年。悩みは時折帰ってきては金を無心し暴力を振るう父親(三石研)です。ボート屋の周りには、3.11の震災で家を無くした人々が、テントを立てて暮らしています。そんな住田をストーカーのように付きまとい、恋心を持つ同級生の茶沢(二階堂ふみ)。ある日、いつものように金を無心にきて暴言を吐く父親を、住田は突発的に殺してしまいます。

可愛い茶沢ですが、エキセントリックにテンション高く住田にまとわり付く様子が鬱陶しく、精神的に病んでいるのかしら?と思ってしまいます。しかしそれは、常に平常心を保って、過酷な生活環境から身を守る住田と真逆の方法で、彼女が自分を守っていたからでした。茶沢の両親もまた、娘を疎んじ虐待する親だったのです。

子供に早く死ね、お前なんかいらない、死ねば保険金が入ると、耳にタコが出来るくらい言い続ける親たち。私も同じ人の子の親ですが、みんなまとめて早く死んでくれと思います。いない方が子供のためよ。中学生以下の子供は、バカでなければ、保護者の存在がなくば、独りでは生きていけないと知っています。だから必死で逃げ出さない二人。ギリギリの所で自分は普通だと言う住田の言葉が、痛々しい。本当は普通だなんて思っていない、絶対に。

茶沢は住田を愛すると言うことで、自分を支えています。住田の役には立ちたいけれど、自分の愛に応えて欲しいとは思っていません。嫌われたっていいのです。これは無償の愛なの?まぎれもなくこの少女には、この作品に出てくる母親達にはない、母性が備わっていることがわかります。

いつも無表情で感情を露にしない住田ですが、父親にだけは敵意をむき出しにします。しかし殴られても血を吹いても殴り返しはしない。茶沢も援助交際なんてしない。つまらない学校だってちゃんと行く。それは何故か?殴られながら泥だらけになりながら、住田は「クズとクズから生まれたって、俺は立派な大人になるんだよ!」と叫ぶのです。立派な大人。普通の常識を持って暮らす大人。彼はこの気持ちを支えに生きています。これは茶沢もそうなのでしょう。この魂からの叫びの力強さと痛ましさに、私は涙が止まりません。

しかし何度も死ねと繰り返す父親に、辛抱出来なかった住田。殺意はなかったのです。簡単にあっけなく死ぬ父。本当に使えない親父だわ。あんたが死んだら、この子の立派な大人になりたいと言う心はどうなるの?父親殺しの汚名を着るんだよ?こんなに殺された人間に腹が立ったのは、始めてです。

父親殺しをして自分の人生は終わってしまったと思う住田。もう余世なので、世の中の役に立つため、悪い人間は殺そうと思いたちます。ここからの描写が、何気ないようで私には圧巻でした。世間にはびこる悪意を持った人間を、何度も殺そうとするのですが、殺せないのです。住田が躊躇するのではなく、その度に「邪魔」が入る。この子はクズなんかじゃない、立派な大人になる子なんだ。だからもう罪を犯させてはいけないんだと思いました。

住田を守ったのは茶沢の想いであり、夜野(渡辺哲)始め、必死に絶える住田の苦境を静かに見守っていたホームレス達の想いではないでしょうか?何故なら住田は、家を失い家庭を失った彼らの「希望」なのです。若いと言う事は、未来が一杯あるのです。それを夜野の口から明確に語らせています。あまりにストレートな描写ですが、胸を打ちます。愛する事、愛される事、人の役にたちたい。「普通の生活」に埋没して、見過ごしてしまうそんな当たり前の感情の大切さを、過酷な少年少女の様子を通して、必死で訴えていると感じました。

まつげの長い可愛い目は、いつも眠そうで重たい住田。これは目を見開くと自分の生きる環境が全部見えてしまって、耐えられないからかと思いました。大きく目を見開く茶沢とは対照的。同じく自分の環境を受け入れながら、立ち向かっていくアプローチの違いのようでした。やっぱり子供でも、女性の方が強いのかな?

主役二人は共に大熱演でした。余すところなく住田と茶沢の心の中を、しっかり届けてくれたと思います。その他、渡辺哲、吹越満、でんでん、黒沢あすかなど、「園組」と言っていい人たちが脇でしっかり若い二人を支えていたのも、良かったです。特にでんでんの野蛮で暴力的ながら、懐の深い金貸しが印象的です。わかりやすく善良さが溢れる渡辺哲も父性の在り方なら、でんでんも父性です。過激な描写の中に、清濁併せ飲む事の必要性が説かれている気がしました。

震災の人々には行政の手助けはないし、学校にこなくなった二人には、教師の家庭訪問もなし。これは脚本の手抜かりではなく、意図的でしょう。現在の国の状況を皮肉っているつもりですかね?震災の人々への辛辣な描写には、私は何もしていない自分が恥ずかしくなりました。これは計算かな?でも学校の方がどうかしら?放っておく教師及び学校はないと思います。夜野があんな形で住田を救ったのは意外でしたが、震災から復興する人々のニュースは、被災地以外に住む私たちをも元気付けられている事に、改めて思い当たりました。

どういう結末になるのか、本当に泣きながら心配していましたが、茶沢の導きは当たり前でとても正しいものでした。映画を観ているうちに、住田は私の「希望」にもなっていました。映画は彼らの心のように、夜や雨の場面が多かったですが、ラストは晴れていました。泥だらけの中で、一生懸命もがきながら見つけた自分たちの未来。茶沢に、やっと「ありがとう」と言えた住田。二人の未来は、「ありがとう」で満ちていますように。




2012年01月15日(日) 「キャリー」(午前10時の映画祭)




午前10時の映画祭・青の大阪の大ラス作品でございます。本当に久しぶりに観る作品でしたが、改めて青春学園物とホラーが、見事に共存した作品だなと感じました。監督はブライアン・デ・パルマ。

高校に通うキャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)は、狂信的なキリスト教信者の母(パイパー・ローリー)とふたり暮らし。家では変わり者の母に折檻され、学校では愚図で冴えない容姿のため、虐めにあっています。ある日体育の後のシャワー室で、初潮がきたキャリーは、その意味を知らず、同級生のスー(エイミー・アーヴィング)やクリス(ナンシー・アレン)の強烈な虐めに合いました。コリンズ先生からきつい叱責を受けた同級生たちの内、スーはBFのトミー(ウィリアム・カット)にプロムの相手にキャリーを選んで欲しいと頼みます。

冒頭の少女たちのヌードシーンは、私が観たときはボカシ付きでした。無しの方が健康的ですね。まだ無名のナンシーやシシーの脱ぎっぷりの良さに感心。そして不細工だったと記憶するキャリーが、全然そう見えなくて、ソバカスも可愛いチャーミングな子でした。今なら森ガール風の雰囲気で、これはこれで男好きする儚げな風情だなぁ。これは記憶違いと言うより、私が年を取って見方が違ったんでしょう。そして当時27歳だったと言うスペイセクの、オドオドした幼い少女っぷりの完璧さに、これまた感心します。

コリンズ先生が親身になってキャリーを応援する様子は全然記憶に残っていませんでした。立派だったですよ、悪い子たちにはきちんと厳罰で、鉄拳も辞さず。まぁ少々暑苦しいですが、学校の虐め問題には、先生はこれくらいの気概で取り組んでもらいたいと感じます。

再見して痛感したのは、どこにも身の置きどころのない少女の寂しさや、虐待する親からの逃避ではない自立や成長が、とても丹念に盛り込まれていることでした。学生生活は明るい事ばかりじゃなく、疎外感に苛まれながら、それでも真面目に学校に通う子達は、今でも多いはず。この辺、今見ても共感してもらえるのでは?特に憧れのトミーに誘われてからのキャリーのいじらしさは特筆。同性として若かりし頃の大事な思い出を再見させて貰ったようで、何だか胸がキュンとします。

しかしその後の展開はご存知の通り。血まみれキャリーの念動力で体育館を破壊する演出は、目をカッと見開いたキャリーの姿と二分割で表現し、結構なスペクタクルな演出ですが、キャリーの心を考えると、切な怖いと言う感じ。奈落の底に突き落とされた苛められっ子の逆襲ですが、同級生と打ち解ける寸前の出来事なので、今回は猛烈にクリスの意地の悪さが腹立たしい。

みんなが自分を笑っていると感じたキャリーですが、あの演出だとコリンズ先生まで笑っているように見えるなぁと以前は思っていましたが、キャリーの感情がネガティブに高まると、幻視がある描写が先にありました。先生だけではなく、同級生も一部だけで、他はキャリーを笑っていなかったと思いたい。その前にトミーがドリフのコントのように気を失いシーンがあるけど、あれで笑ったのに、キャリーが誤解したと表現したいとも思いますが、これは私的にはいらないシーンの気がします。

その他、スーの真意が最後までわからないように描いていますが、シャワーのシーンで先生に怒られて、他の生徒より反省の様子が伺われます。最初で解っれてのね。でも演じるエイミー・アーヴィンングは、同性から観ると美貌に微妙に意地悪が入ってんのね。それで初見の時は私も攪乱させられました。

ただただ怖いだけだったキャリーのお母さんの辛さも、今回は同世代になったと言うことで、充分理解出来ます。確かに精神的に病んでいる人ですが、セックスへの嫌悪と欲望が入り交じり、人格が破壊してしまったんだなぁ。きっと彼女の親が、彼女以上に盲目的に信仰していたんでしょう。娘に殺される前の告白は、何十年も葛藤していたんだと哀しいくらいでした。

←私が大好きだったウィリアム・カットを始め、あのジョン・トラボルタやスペイセク、アレン、アーヴィングと、主要キャストはみんなこの後売れっ子になっていますが、やはり出色はスペイセクでした。キャリーの哀しさと怖さの共存だけではなく、こんなに乙女な恋心まで上手く演じていたなんて、当時はわかりませんでしたから。

ストーリーを知っているためか、今回は学園ものとしても上出来だったなと感じた次第。この後、話題作や秀作も作っているのに、イマイチ巨匠に成り損ねたデ・パルマですが、またヒッチコック風のサスペンスを撮って欲しいな。







2012年01月12日(木) 「灼熱の魂」




事の真相を知り、まるでギリシャ神話のようだと打ちのめされました。それ以外でも数々の衝撃的な展開を見せる作品で、国の名前や抗争は確かには出てきませんが、中東が舞台で、レバノンとパレスチナの抗争がモデルとなっているそうです。しかし乱暴な言い方をすれば、私にとって、それはあまり意味がありません。私の胸を掻きむしったのは、ヒロインが「母親」だった、それだけです。それがこんなに普遍的な人生の深淵を感じさせる作品となった、唯一無二の理由です。監督はドゥニ・ビルヌーヴ。

カナダに住む中東系の初老女性ナワル・ワルマン(ルブナ・アザバル)。彼女は雇い主のルベル(レミー・ジラール)に公証人を頼み、双子の子供ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー・プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)姉弟に遺言を託します。内容は二人の知らない父親と兄を探し出し、母の手紙を渡す事。渡せた後、二人に宛てた手紙の封を切ることが許されるのです。子供たちにも心を見せず、変わった母であった事に屈託があったシモンは、この遺言に難色を示しますが、ジャンヌの方は、母の若い頃の写真を頼りに、中東の母の母国へ旅立ちます。母の過去は、二人の想像を絶するものでした。

双子と言えど、母に対する想いの違いは、男女の違いからくるのがわかります。シモンが欲していたまろやかな愛からは、ほど遠い母だったのでしょう。それがどこから来るのか、知りたい娘と、終わってしまった事だと言う息子。

彼女の二度の出産は、両方子供の父親がいない中です。祝福されない出産。二つ身になった時が子供との別れ。今度は心が引き裂かれるのです。しかし手元に置けなかった子を、彼女は片時も忘れません。その妄執的な母性は、完全に彼女を盲目にさせ、正常な善悪の判断が出来なくなる。観ていて充分理解も共感も出来るのですが、神はそれを許さない。

ナワルの数奇な人生は、彼女が人生に弄ばれたのではありません。自ら意思を持って、過酷な人生に飛び込んだのです。そこには復讐、尊厳、母性がありました。神は何を救いとって、彼女に与えたのか?それは罰でもあり愛でもあったと思います。その意味を深く感じた彼女は、子供たち、とりわけ兄に、その意味を伝えたかったのだと思います。

この作品でも自嘲気味に「血筋だから」とシモンは言います。血筋は変えられない。汚辱に満ちた境遇にいる人もいるでしょう。しかし現在のジャンヌとシモンは、そう言った環境にいるのでしょうか?自ら過酷な人生に飛び込んだナワルだからこそ、運命ではなく、自分の意思でそれらは超えられるものだと伝えたかったのでしょう。自分の人生は自分が決めるのです。そしてその価値観を大事にして、世間を見渡して欲しいのでしょう。

「人生には知らない方が良い事がある」。確かにそうかもしれない。しかし知ったからこそ子供たちは、不可解だった母を理解し、溢れる愛を受け取れたのではないか?親子である限り、母が望むなら、私は子供の義務だと思います。この経験は母亡き後、必ず二人の人生の糧になるはず。この切なる想いには、子供たちに対する母としての揺るぎない信頼があります。この母から生まれたのは何故か?人生の困難にぶつかった時、その意味を彼らに考えて欲しいのです。

事実を明かす決心をしたのは、双子だったからでしょう。一人で背負うには辛すぎる事実。苦しみを分かち合える人がいるのは、どんなに心の支えになるか。もう一人の息子にも、それを伝えたかったのでは?例えもう会うことがなくても。

何故宗教で抗争が起きるのか、私にはわかりません。宗教とは、人を幸せにするためにあるのではないのか?女性には戦争を止める力はないけれど、戦争が起こった後の、傷ついた心を癒やし、再生させる力があるのだと、この作品を観て思いました。ナワルの赦しの心は、私にもあるのだと思いたい。世界のあらゆる所で、色んな形の戦争が起こる今、女性のその力を認識すべきだと思います。子供たちに託した、「あなたたちをいつまでも愛する」と言う言葉に、微笑みを浮かべた双子。ラストはその思いが、兄にも届いたのだと私は思います。

全てのお母さんに観て欲しい作品です。過酷なナワルの人生を観て、だからこそ尚、やはり孕む性は尊いと思います。「子供たちは、きっと君の力になる」。劇中ナワルに向けられた言葉ですが、全ての母親に当てはまる言葉です。その喜びには責任もある事を絶対に忘れずに。母親の愛の形はひとつではありません。願わくば子供たちにも、それを受け取れる力を持ってもらえればなと思います。それは確実に子供の心を開放し、人生を豊かにすることだから。ジャンヌとシモンの笑顔は、その証です。


2012年01月11日(水) 「宇宙人ポール」




大阪は昨年の12/23から公開でしたが、前もって私のホームグラウンドの布施ラインシネマで1/8から公開と知っていたので、待っていました。昨年観てたら絶対ベスト10に入れた作品だけど、私の選択は正しかったみたい。こんなオタク心満載の映画愛に溢れた作品、自分の一番大切な劇場で観るべきですよ!監督はグレッグ・モットーラ。

遥々イギリスから憧れのコミコン(SFやコミックの最大イベント)にやってきたオタクのグレアム(サイモン・ペッグ)とクライブ(ニック・フロスト)。彼らのもう一つの目的は、有名なUFO関連の名所を巡る事。キャンピングカーをレンタルして名所を廻っていた彼らの前に、一台の事故車が。運転手を救出すると、それは本物の宇宙人のポール(声・セス・ローゲン)。ポールは60年前地球に不時着して以来、政府の捕らわれて、研究対象となっていましたが、とうとう解剖される時が来たのです。内部に支援者がいて脱出したポールは、仲間と合流出来る場所まで、二人に援助を願い出ます。

ポールのキャラが超素敵!下品で人を食ったような物言いなれど、実は器が大きく心に熱〜いモンを持っている。確実に登場人物の中で、一番「男前」でした。人にモノを頼むのにですよ、「たまには人生で冒険してみろよ〜」なんて、本物の宇宙人を前に躊躇している二人を前に、普通言えませんよ。それが納得させてしまうんですから。上から目線ではなく、正に人生(宇宙人だけど)の先輩としての貫録が、あちこちに漂ってんのよ。

行く先々で難事件が待ち構えていますが、それが過去の名作のオマージュやパロディになっています。これが抱腹絶倒なのですが、何がすごいって、元ネタを知らなくても抱腹絶倒出来る事。一見オタク御用達作品を装いながら、とっても繊細に脚本や演出が練られています。

「M:I:B」みたいなゾイル(ジェイソン・ベイトマン)の上司は、声で「あの人」だとわかりました。そりゃあなた、エイリアン退治なら「あの人」しかいないでしょ!「スタトレ」パロディの某作品にも嬉々として出ていたし、一億円でスキンヘッドになったり(私なら100万でもなりますが)、大物なのにナイスな人なのよね。

主演のペッグとフロストは、映画好きから数々の熱狂的な支持を受けた「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」に続き、脚本も担当しています。子供の頃からの親友同士なのに、アメリカでは男同志のツレだと言うだけで、どこでもゲイに間違われます。成り行きで一緒に同行するはめになったガチガチのキリスト教原理主義者にして、隻でのルース(クリスティン・ウィグ)が、ポールによって両目が開かれると今度は一転、ビッチな言葉ばかり。今まで片目でしか世の中を見ていなかったからなんだよと言わんばかり。でもその描き方に少々毒はありますが、決して悪意は感じません。だから素直に笑える。これは相当に相手を知っていなければいけないし、知性も必要。これって私の大好きなサム・メンデスに似ています。

何より親愛の気持ちが必要です。それがポールのフレンドリーかつ大陸的なキャラに集約されている気がします。最初から最後まで笑って笑って、気がついたらしんみりしたり、でもその直後どかんとかまされて、また笑って、最後にはとても感動出来る、尻尾まで餡子状態の作品です。ちょっとお下品だけどオゲレツではないし、お子様にはちょっと誤魔化さないといけない箇所もありますが、まっ、これくらいは大丈夫でしょう!(本当か?)我こそは映画ファンと言う方は、何箇所パロディが出てきたか、数えるのも楽しいかも?


2012年01月08日(日) 「ハスラー」(午前十時の映画祭)



高校生の時テレビで観た以来の鑑賞です。ポール・ニューマンは私の大好きな人で、今回の「青の50本」では一番楽しみにしていた作品です。しかしこれがもう全く覚えていなくて、ジョージ・C・スコットが出てきてびっくり。いや役柄は覚えていたのですが、スコットが演じているのを忘れていて、あまりの事に我ながら呆然。覚えていたのは、パイパー・ローリー扮する恋人サラが自殺したことのみ。しかし何故彼女が自殺したのか、当時はわからなかった事にも、今回は思うことに多い鑑賞でした。

賭けビリヤードの若き凄腕エディ(ポール・ニューマン)。マネージャーの相棒と共に、伝説のハスラー、ミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリースン)に勝負を挑みます。しかし勝っていた事に慢心したエディは、酒を飲み始め、開始36時間後、結局エディは負けてしまいます。失意の彼は、足の不自由なサラ(パイパー・ローリー)と知り合い同棲を始めます。小さな賭けで生計を立てていたエディですが、賭博師のバート(ジョージ・C・スコット)から、自分のサポートで仕事をしないかと誘われます。

冒頭の詐欺シーンは、ハスラーなどと言われても、所詮真っ当な人間ではないと印象づけるのに十分で、このシーンは、作品の根底に流れている主張に対してとても重要だと、鑑賞後思いました。

ファッツとの対戦シーンは設定でも丸一日半なので、かなりの時間を割いています。私は全然ビリヤードはわかりませんが、撮影のカット割りも上手く、二人とも本物らしく見えて、緊迫感があります。観ているこちらもアドレナリンが上がるのがわかります。モノクロの作品なのですが、作品の緊張感を保ちたい時は、色彩は無い方がいいんじゃないかとさえ思いました。1961年度のオスカーで、モノクロ部門の撮影賞も受賞しています。

反逆児っぽい役柄の多い当時のポールは、この作品でも凄腕ですが、青二才の役です。こんなやくざな生業なのですから、生い立ちも恵まれないでしょう。宝石のように輝くブルーの瞳は、モノクロでも美しく、しかし決して眼光鋭いわけではなく、笑顔は人懐こくて口元は幼く、善良さと若きカリスマ性を共存させています。とにかくカッコいい!しかし私が軽くショックだったのは、大昔観た時は、ただのデブのおっさんだったミネソタ・ファッツのエレガントな紳士ぶりです。こちらも穏やかさと切れ者のオーラを共存。エディにはない色気と品格まであり。もうびっくりしちゃった。まぁ若い娘にはわからない魅力だわさ。年を取るのもいいもんだと、ちょっと嬉しかったり。

エディがファッツに敗れたのは、傲慢さのためです。何度も当時の相棒チャーリーが潮時だと言うのに、もう勝ったと思い込み酒を飲みながら戦いだし、「ファッツが止めると言うまで戦うんだ」と言います。挑戦者はエディの方で、相手の息の根を止めるまでやろうとするのは、思い上がりも甚だしいし、自分の歩む道の大先輩へ対して、敬意もまるでありません。あるのは名誉に対しての野心だけで「勝ち」が全てです。当然、力や経験に勝るファッツに、結局負けてしまう。ファッツは最初から最後まで、この無礼な若者に対して、礼節を忘れませんでした。

出会いからしてクールなエディとサラ。無軌道なようですが、屈託したものを抱えて生きていた二人には、心の底でお互いすがるような気持ちがあったように思います。しかし水と油ではなく、火と火のような二人には安らぎは来ない。サラのアルコール依存の正体は、生まれながらの小児マヒと親に棄てられた事でした。愛されることを望むからこそ、自分の障害を告白する事が出来なかったサラ。何人もの男が自分の前から去り、しかしエディだけはずっと傍に居て欲しかったと、家を出ようとするエディに捨て身で懇願するのです。

いつ帰るか解らなくても、それが夫なら待てますが、恋人なら帰っては来ないのです。二人は同棲中で、結婚していません。もちろん結婚だって離婚出来ますが、やはり紙切れ一枚は重い。それは今も昔も一緒だと私は思います。

バート役のスコットが存在感抜群です。「何故お前が負けたか?それは人格の違いだ」「勝負の間に酒は飲むな」など、人生哲学ともビジネス哲学とも、また勝負ごとの教訓も語る彼。全部真っ当な内容です。しかし羽振りが良く大物風を吹かすバート。エディは長年の相棒チャーリーが自分を食物にしていると決別したのに、バートには平伏してしまいます。反骨心も試合をしたい欲望には勝てない。しかしバートは、チャーリーなどよりもっとタチの悪い輩なのです。その事をいち早く察したのは、サラでした。

サラはこの旅でエディと離れる事があったら、それが別れのサインだと思っていたのでしょう。そしてそれは彼女の死を意味します。何度も「愛しているわ」とエディに語りかけた彼女。それが彼女の意味する責任なのでしょう。愛されることばかりを望んでいた彼女が、きっとエディは初めて愛した相手なのでしょう。

自殺するのは大昔もそれなりに意味はわかりましたが、何故バートと情交を結んでから死んだのか、それがわかりませんでした。しかし今回観ると、サラの気持ちが充分理解出来るのです。自分を貶めて死にたいと言う気持ち。そしてバートは、「相棒」の女にも簡単に手を出す男よ。あなたが最高にクールだと思って生きる「勝負」の世界は、所詮はやくざで汚い世界なのだと、命を賭けてエディに訴えたかったのだと感じました。

ラストの再びの対決場面は、もうちょっと長く描いて欲しかったな。でも「俺は今までの俺じゃない。あのホテル(サラが自殺した場所)で全て学んだ」的セリフは、「彼女を愛していたんだ」と言うセリフの答えでしょう。明日の事などわからぬ浮き草の自分だから、愛するという言葉は、サラには言えなかったのです。サラの気持ちが通じるのを感じました。

そして化けの皮の剥がれたバートの様子は、今までの大物感から一変し、狐のように小心で狡い男になっていました。これが彼の本質なのです。もっと言えば、それが「ハスラー」と呼ばれる彼らを食いものにする賭博の世界です。あの立派なファッツまでが、長いものに巻かれています。嘘と欲だらけの世界で、エディは生きてはいけないのだと言うサラの願いは、正しかったのですね。戦いの後「いい腕をしているな」「あんたもな」と、お互いを称え合うエディトとファッツ。やっとファッツと対等になれたエディがいました。

ニューマンのあの素晴らしく美しい目が、色覚異常なのは、広く知られているのでしょうか?裕福な家庭に生まれ、容姿にも恵まれ、育ちの良さが全身から溢れている彼が、何故アウトロー的役柄を好んだのか?それはどんなに頑張っても、100%の人生などないと、生まれながらに知っていたからではないでしょうか?人の痛みがわかり、弱い立場、辛い境遇の人への共感が生まれ、数々の名演技に繋がったのではないかと思います。

では最後にただいまの私の携帯の待受画像をどうぞ。私は世界一美しい男性は、若い頃のニューマンだと思ってまーす。


2012年01月05日(木) 「永遠の僕たち」




皆様、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。


余命三ヶ月の少女と死に取り付かれた少年との恋と聞き、主体は少女だと思っていました。しかし三ヶ月を与えられたのは、少年でした。年齢よりも幼い恋は、水彩画のように淡くて瑞々しい半面、現実からの逃避も感じられます。そこからしっかり現実に着地させる様子が見事でした。監督はガス・ヴァン・サント。

交通事故で両親を亡くした高校生イーノック(ヘンリー・ホッパー)は、他人の葬式に出席し、死とは何なのか?を手探りで模索しています。学校も退学、身近な友人は、幽霊の特攻隊員ヒロシ(加瀬亮)だけです。葬式場で知り合ったアナベル(ミア・ワシコウスカ)が、無断で葬式に出ているのを見咎められたイーノックを助けた事から、二人は付き合い始めます。しかしミアはガンが再発して、余命三ヶ月を宣告されていました。

最初ヒロシの存在は、イーノックの幻覚なのかと思っていましたが、事故の時両親と共にいたイーノックも臨死体験、その後にヒロシが見えるようになったとのこと。立派に幽霊です。特攻隊で死亡したと言う設定で、都合よく英語を話すのですが、あまり気になりません。それより服装や切腹の説明、日本語の手紙など、きちんと違和感なく描けている点に感心。加瀬亮の英語も澱みなく、私は上手に演じていると思いました。

二人は17歳くらいでしょうか?それにしては遊び方が幼く子供っぽいです。きっとそれは、子供の時から入退院を繰り返したはずのアナベルが、歳相応の少女の遊び方を、あまり知らなかったからだと感じました。特にお菓子に愛らしく執着する姿は、彼女の制約の多い暮らしの中で、手に入り易い幸せだったからだと思います。

一方イーノックは順調に成長していたはずが、両親の死で、一気に「子供帰り」してしまったのかと思いました。親離れが強制的に来てしまったので、心の準備が出来ていなかったのです。

アナベルは小児がんだったのでしょう。幼い時から死と隣り合わせに生きることで、生の重みをわかっているようでした。彼女は自分の死を受け入れていました。確かにイーノックは年頃の少女らしい感情をアナベルに与えましたが、本当に与えられたのは、イーノックです。

イーノックは両親の死の直後昏睡状態が三ヶ月続き、意識が戻った時には既に葬儀は終わっていました。何が何だかわからぬうちに、孤児になったわけです。これは多感な年頃の少年にとって、辛いことだと容易に想像がつきます。両親に別れを告げられなかった事に猛烈にわだかまりが残る彼は、だから葬儀場に出入りしていたのです。

ヒロシはと言えば、生前愛する人に想いを告げず命を散らして行きました。それが悔恨となり、所謂成仏できないはめに。アナベルに「取り付かれたのね」と笑われますが、同じ想いを抱くもの同志だからでしょう。

死を考える時、そこには生についても深く考える自分がいるはず。アナベルと知り合ったことで、愛するものを見送る時の喜怒哀楽、そして苦しみだけではない喜びも知り、やっと両親のいない生を掴むイーノック。アナベルとて、短い人生の終焉に、恋するという感情をもたらしてくれイーノックに、感謝していたはず。二人が出会ったのは、偶然を装った必然だったと思います。

主役二人が素晴らしい。ヘンリー・ホッパーは、あのデニス・ホッパーの息子で、お父さんの極々若い頃によく似ています。いつも髪は寝癖をつけ、ボソボソ話す様子は如何にも頼りなげで、イーノックの心の無聊を表していたと思います。ミアは元々色素が薄い北欧系の容姿が功を奏して、儚げな風情ですが、ブロンドのショートカットは、賢さと強さを表しているようでした。二人ともとても自然でナイーブな演技でした。

印象的で素敵なシーンがたくさんありましたが、私が好きだったのは、若い二人の交わす親愛を込めた清楚なキスの数々です。軽く唇に触れる程度なので、情熱的と言うにはほど遠いのですが、十代の二人には相応しい清潔さで、何度も繰り返す事で、この恋の終焉を知っている二人の、切なさが伝わってくるようでした。

幽霊が出てきたり、主役二人が透明感があり妖精っぽいので、ともすればファンタジックに感じがちですが、アナベルのしっかりした姉、姉亡き後、甥のイーノックを育てようと決意した独身の伯母の存在が、しっかり現実感も出しています。

ラストのイーノックの微笑みには、無性に涙が出ました。特別な事など何も起こらず、背景こそ過酷ですが、少年少女の普通の初恋を描いた作品です。なのに見終わった後、人生は丁寧に生きなきゃと、痛感させられます。彼らと同世代の多感な子たちに、是非観て欲しい作品です。





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