ケイケイの映画日記
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2012年01月12日(木) 「灼熱の魂」




事の真相を知り、まるでギリシャ神話のようだと打ちのめされました。それ以外でも数々の衝撃的な展開を見せる作品で、国の名前や抗争は確かには出てきませんが、中東が舞台で、レバノンとパレスチナの抗争がモデルとなっているそうです。しかし乱暴な言い方をすれば、私にとって、それはあまり意味がありません。私の胸を掻きむしったのは、ヒロインが「母親」だった、それだけです。それがこんなに普遍的な人生の深淵を感じさせる作品となった、唯一無二の理由です。監督はドゥニ・ビルヌーヴ。

カナダに住む中東系の初老女性ナワル・ワルマン(ルブナ・アザバル)。彼女は雇い主のルベル(レミー・ジラール)に公証人を頼み、双子の子供ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー・プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)姉弟に遺言を託します。内容は二人の知らない父親と兄を探し出し、母の手紙を渡す事。渡せた後、二人に宛てた手紙の封を切ることが許されるのです。子供たちにも心を見せず、変わった母であった事に屈託があったシモンは、この遺言に難色を示しますが、ジャンヌの方は、母の若い頃の写真を頼りに、中東の母の母国へ旅立ちます。母の過去は、二人の想像を絶するものでした。

双子と言えど、母に対する想いの違いは、男女の違いからくるのがわかります。シモンが欲していたまろやかな愛からは、ほど遠い母だったのでしょう。それがどこから来るのか、知りたい娘と、終わってしまった事だと言う息子。

彼女の二度の出産は、両方子供の父親がいない中です。祝福されない出産。二つ身になった時が子供との別れ。今度は心が引き裂かれるのです。しかし手元に置けなかった子を、彼女は片時も忘れません。その妄執的な母性は、完全に彼女を盲目にさせ、正常な善悪の判断が出来なくなる。観ていて充分理解も共感も出来るのですが、神はそれを許さない。

ナワルの数奇な人生は、彼女が人生に弄ばれたのではありません。自ら意思を持って、過酷な人生に飛び込んだのです。そこには復讐、尊厳、母性がありました。神は何を救いとって、彼女に与えたのか?それは罰でもあり愛でもあったと思います。その意味を深く感じた彼女は、子供たち、とりわけ兄に、その意味を伝えたかったのだと思います。

この作品でも自嘲気味に「血筋だから」とシモンは言います。血筋は変えられない。汚辱に満ちた境遇にいる人もいるでしょう。しかし現在のジャンヌとシモンは、そう言った環境にいるのでしょうか?自ら過酷な人生に飛び込んだナワルだからこそ、運命ではなく、自分の意思でそれらは超えられるものだと伝えたかったのでしょう。自分の人生は自分が決めるのです。そしてその価値観を大事にして、世間を見渡して欲しいのでしょう。

「人生には知らない方が良い事がある」。確かにそうかもしれない。しかし知ったからこそ子供たちは、不可解だった母を理解し、溢れる愛を受け取れたのではないか?親子である限り、母が望むなら、私は子供の義務だと思います。この経験は母亡き後、必ず二人の人生の糧になるはず。この切なる想いには、子供たちに対する母としての揺るぎない信頼があります。この母から生まれたのは何故か?人生の困難にぶつかった時、その意味を彼らに考えて欲しいのです。

事実を明かす決心をしたのは、双子だったからでしょう。一人で背負うには辛すぎる事実。苦しみを分かち合える人がいるのは、どんなに心の支えになるか。もう一人の息子にも、それを伝えたかったのでは?例えもう会うことがなくても。

何故宗教で抗争が起きるのか、私にはわかりません。宗教とは、人を幸せにするためにあるのではないのか?女性には戦争を止める力はないけれど、戦争が起こった後の、傷ついた心を癒やし、再生させる力があるのだと、この作品を観て思いました。ナワルの赦しの心は、私にもあるのだと思いたい。世界のあらゆる所で、色んな形の戦争が起こる今、女性のその力を認識すべきだと思います。子供たちに託した、「あなたたちをいつまでも愛する」と言う言葉に、微笑みを浮かべた双子。ラストはその思いが、兄にも届いたのだと私は思います。

全てのお母さんに観て欲しい作品です。過酷なナワルの人生を観て、だからこそ尚、やはり孕む性は尊いと思います。「子供たちは、きっと君の力になる」。劇中ナワルに向けられた言葉ですが、全ての母親に当てはまる言葉です。その喜びには責任もある事を絶対に忘れずに。母親の愛の形はひとつではありません。願わくば子供たちにも、それを受け取れる力を持ってもらえればなと思います。それは確実に子供の心を開放し、人生を豊かにすることだから。ジャンヌとシモンの笑顔は、その証です。


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