ケイケイの映画日記
目次過去未来


2009年07月28日(火) 「扉をたたく人」




一週間前に観て、忙しくて書くのが遅くなった作品です。主演のリチャード・ジェンキンスが、本年度オスカー主演男優賞にノミネートされた作品。本国アメリカでも、たった4館からの公開が、最終的には270館まで広がったそうな。とても地味で厳しい内容なのですが、ほろ苦さや温かさ、ユーモアの表現が絶妙で、苦しい現実を見つめながら、大人の寓話的な素敵な仕上がりになっています。監督は俳優でもあるトム・マッカーシー。

五年前に妻を亡くした後、心を閉ざして生きる初老の大学教授ウォルター(リチャード・ジェンキンス)。息子とは疎遠で、ピアノ教師であった亡き妻を偲ぶ為、ピアノを習うのですが、上達が遅いのを教師のせいにしてばかりいるので、何人も先生が変わっています。住まいのコネティカットから、学会出席のため、ニューヨークにもある自宅に着くと、そこにはシリアからの移民タレク(ハーズ・スレイマン)と、セネガルから来たゼイナブ(ダナイ・グリラ)のカップルが住んでいました。彼らは詐欺にあったようです。素直に詫びて部屋を出て行く彼らを気の毒に思ったウォルターの申し出から、しばらく三人で住むことになります。タレクはジャンべという打楽器の奏者で、そのリズム感と音色に魅入られたウォルターは、タレクから手ほどきを受けます。人柄の良いタレクとの友情と育む楽しい日々。しかしふとしたことから、タレクは警察に捕らわれます。タレクはグリーンカードを持たない、不法滞在の移民だったのです。

原題は「THE VISITOR」。ウォルターから観たタレクたち、タレクたちから観たウォルター。両方なのでしょう。このタイトルも素敵ですが、孤独で頑なインテリの初老の老人の、心の扉をたたいたのが、心優しき善良な不法入国者たちだった、というのは、とても素敵な邦題だと思います。

妻が生きていた時は、単調でも心に潤いのあった生活だったのでしょう。だからウォルターは妻の面影を追いかけて、ピアノを習う。しかしそれは返って独りぼっちの彼の孤独感を深めるだけでした。そこへ現れたのがタレク。ジャンベの響き、リズム感は、力強く生命力に溢れています。一番ウォルターに必要なものだったのでしょうね。

ウォルターを観ていると、孤独から脱するには、刺激ではなく変化することが必要なのだとわかります。タレクたちを見捨てなかったのも、心のどこかに人恋しい思いがあったからだと思います。これが妻がいれば、きっとその場限りであったはずですから、人生の「扉」とは、本当に「どこでもドア」なのかもわかりません。

タレクが収容された移民局には、移民を歓迎するポスターが。アメリカとは元々多民族が集まって成り立っていた国のはず。それが9・11以降規定が厳しくなり、なかなかグリーンカードが下りないのでしょう。「俺はテロリストか?」善良で性格の良さが滲み出るタレクが振り絞るこの言葉は、本国のアメリカの観客は、感慨深く聞いたと思います。

移民の問題はとても難しいです。この作品に現れる不法滞在者は、皆きちんと自活していて、教養も常識もある人たちばかり。自分たちのアイデンティティーを大切にしながら、アメリカと共生していきたい人たちばかりが描かれていますが、そうでない人も実際はいるはずで、とてもデリケートな問題です。

しかし、ここで重要なのが初老であるウォルターの存在。彼に殻を破らせたのは、タレクたちです。そうやってあるゆる血を受け入れて、混濁した中から取捨選択して、アメリカは成長してきたのではないか?一握りの危険分子のため、多くの善良な移民まで巻き添えにして良いのか?私は作り手が問うているように感じました。

オスカーノミニーのジェンキンスが素晴らしいかったです。監督は彼を念頭に置いて脚本を書いたそうですが、それに応える好演で、ジャンベを習ってからは若々しさを取り戻し、無邪気なくらいな熱中ぶりです。前半の寂しげで偏屈は様子からは一転、顔まで若々しくハンサムに見えてきました。タレクの母親役のヒアム・アッバスの凛とした美しさも印象的です。年齢より深い皺は、彼女の人生の風雪というより、生きて来た年輪を感じさせ、エレガントさと知性を感じさせました。ジャンベのリズムが渦巻く作品中、彼女がかける亡き妻のクラシックCDは、ウォルターに妻を寂しく忍ばせるのではなく、新たな感謝の気持ちを呼び起こしたことだと思います。スレイマン&グリラのカップルも、気持ちの良い恋人同士でした。

ラスト、現実の無理解に怒りを込めて、地下鉄でジャンベを一心にたたくウォルター。その姿は、初老の人の嘆きではなく、青年の社会に対する怒りのようでした。ふとした出来事から、ハートウォーミングな展開になり、その後苦い現実で着地する作品です。しかし辛さも怒りも充分に感じるのに、それ以上の希望や勇気を感じさせる、若々しく、かつ成熟した作品でした。


2009年07月20日(月) 「アマルフィ 女神の報酬」




・・・。前評判が良かったので観てきました。フジテレビ50周年記念作品だそうで。それで織田祐二ね、はいはい。「全編オールイタリアロケ。日本映画を超えた、圧倒的なスケール」「こんなかっこいい織田祐二、観たことない!」などなど、宣伝だけではなく、一般人の評判も良いみたい。大作にありがちな美辞麗句を信じるほど、私はうぶな映画ファンじゃないんですけど、監督が「容疑者Xの献身」の西谷弘だったので、もしかしたら・・・と、期待した私がバカでした。前半それなりに観られたけど、後半グタグタ。期首改編時の特番で充分の出来で、映画館にまで足を運ぶほどのもんじゃなかったです。

外交官黒田康平(織田祐二)の今度の赴任先はイタリア。来伊予定の外務大臣川越(平田満)の安全を守るのが、今の一番の目的です。そんなとき観光旅行に来ていた矢上紗江子(天海祐希)の娘まどかが、何者かに誘拐されます。犯人からの電話に出てしまった事から、黒田はこの事件に巻き込まれることに。難航する捜査に業を煮やした黒田は、自分なりに事件の糸口を見つけようとします。

一般人のレビュー、ネタバレは外して読みましたけど、概ね好評でした。皆さん大きな嘘をおつきになって。前半は天海祐希の好演もあって、子供を失うかも知れない母の心情が深く伝わってきたし、「謎解き」の謎の出し方も、なかなか上手くてそそられました。私ははは〜ん、子供はこうやって連れ出したな、というのはわかりましたが、その方法がわからず。

犯人の要求と並行して映されるイタリアの風景もまずまず。でも私が印象に残ったのは、名所と言われる場所ではなく、生活感のにじみ出た街並の風景の方でした。イタリアの国を余すところなく映そうと、そう言う場所も抜かりなく撮影した気配りには好感が持てました。

しかし肝心のサスペンス部分がなぁ。内容をスケールアップしたかったのはわかりますが、あんな行き当たりばったりの計画で、成功するわけないですよ。いきなり素人が拳銃持って、それを誰も取り押さえられなかったシーンでは、思い切り脱力。そもそもこの場面だって、綿密な計画を立てたわけじゃなく、思いつきとしか思えん。だって解決して行ったのは黒田ですよ。この人の存在こそ予定外でしょ?イタリア警察がバカだっていうのは、犯人の計算にはいってなかったの?いや私がバカだと言ったんじゃ無いですよ!映画がそう描いてるんです。

黒田は外交官なんですが、ミラクル黒田と呼びたいほどのスーパーマンぶり。刑事以外の人が越権行為であれこれ捜査するのは、似たようなプロットの作品もあるけど、一応この人冷徹なその道のプロという設定なんですよね?出世を棒に振ってまで、子供探しに奔走するかね?紗江子とロマンスが芽生えた訳でもなく、母としての彼女に痛みに心を動かされたという描写も希薄。好意を持っている、というくらいで、やり手が前面に出ている黒田が、あそこまでするかなぁ?彼の背景がわかりづらいので、中途半端な造形になっています。

この作品は最後の方に向かって社会問題に提議しており、私は「相棒」を思い起こしました。が!!!先に問題提議ありの、志が高かった「相棒」とは違い、大作なんだからね、ちょっとスケール大きくしなくちゃね、と、こじつけ感たっぷりのこの作品では、感動の度合いが雲泥の差。「相棒」もね、稚雑な箇所はたくさんありました。それでも私は心から泣けたんです。

映画ファンなんてね、感動させてくれたり、感心させてくれたら、ストーリーに粗があろうが、サスペンスの辻褄が合わなかろうが、そんなもんあんまり気にしないと思うんですよ。大事なのは良い作品にしたい、観客に楽しんで欲しい、このメッセージを伝えたいという、作り手の思いが伝わるかどうかだと思うんです。全編イタリアロケしようが、サラ・ブライトマンに歌ってもらおうが、肝心の映画の内容が適当に作ったような印象を受けたので、私は興ざめでした。

「相棒」もこの作品の犯人も、気持ちはとってもわかります。でも「あなたの言う事は正しい。でもやり方が間違っている」と、西田敏行に向かって断言した水谷豊からは、観客も西田敏行も救われたでしょう。しかしこの作品での黒田の決めゼリフ、「法人を守る。それが外交官の仕事だ」って、誰が納得出来るの?

この作品で一番光っていたのは、風光明媚なイタリアのロケ地より、天海祐希でした。子供を誘拐され狼狽し、勝ち気で猛々しいだけの母だった彼女が、少し落ち着き周りを見渡し、黒田を始め、たくさんの人に迷惑をかけているのだと、自覚しはじめての演技の変化の仕方などとても自然で、紗江子という女性の母性の確かさと誠実さが的確に浮かび上がります。母は強しを感じさせながら、女性としてのか弱さを感じさせる演技も上手かったです。

この作品で一番褒めてあげられるのは、紗江子と黒田や佐藤浩市演じる男性と、恋仲にしなかったこと。娘が誘拐されているのに、そんな展開になったら、わたしゃ「大奥」の天英院並に罵詈雑言浴びせたかも?

でもヒットするんだろーな。私が観た回もまずまずの入りでしたしお金をかけた、お手軽でお安い作品でした。


2009年07月16日(木) 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」




仕事休みだったので、初日の初回に観てきました。レディースデーとは言え、平日なので空いているだろうと思っていましたが、何とほぼ満席。やっぱり強いですね、このシリーズ。私も全部劇場で観ています。ハリー始め幼かった生徒たちは皆思春期を迎え、ハリーの両親を殺したヴォルデモードの謎を探る今作は、青春ロマンスとミステリーを上手くミックスさせて、今回も水準以上の出来をキープしていました。

闇の帝王ヴォルデモードが、人間界と魔法界で力を増す中、それを危惧するダンブルドア校長(マイケル・ガンホン)は、ハリー(ダニエル・ラドクリフ)を連れ、引退した元同僚で重要な鍵を握っているスラグホーン(ジム・ブロードベント)を訪ね、再びボクワーツに迎え入れます。それとは対照的に、進展しないロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)の関係や、ロンの妹ジニー(ボニー・ライト)に秘かな思いを抱くハリーなど、同級生たちは皆思春期を迎えていました。

私がこのシリーズで一番良いと思っているところは、小さな脇役に至るまでキャストがずっと同じというところです。どうしてもギャラの問題やらスケジュールやらで、これだけシリーズが長く続くと(六作目)、普通キャストの交替は致し方ないのですが、このシリーズに限っては、残念ながら亡くなったリチャード・ハリス以外は、皆同じです。魔法と言えど学校が舞台ですから、キャラそのままの俳優陣の成長も楽しめるし、前作から時間が経ってもすぐ作品に入り込めます。何より観る方は情が移るしね。

ハーマイオニーがロンを好きなのは、その他の作品を通してそこはかとなく描かれていますが、今回は嫉妬に身を妬く彼女が描かれます。賢くて可愛くて、でもプライドの高いハーマイオニーは、自分から好きだとは言えないんですね。ロンの鈍感ぶりも善良男子の鉄板ですし、ロン命になる女の子ラベンダーの鬱陶しさも少女期ならでは。NO・1女子ハーマイオニーを射止めたいキザな男子や、幼馴染から恋心へ移り変わるハリーとジニーの間柄も青春そのもの。シリーズ開始時は小学生だった若い観客も、きっと現在の自分たちと重ね合わせて、感情移入することでしょう。

しかし少しずつダークサイドに傾くシリーズは、今回ミステリー色も一番です。いつもどちらの味方なのか、最後までわからないスネイプ先生(アラン・リックマン)は、今回作品冒頭で意外な誓いを立てます。そしてここ数作精彩のなかったドラコ・マルフォイ(トム・フェルトン)ですが、今回はハリーが光の世界で選ばれし者なら、ドラコは闇の世界でヴォルデモードに選ばれし者。その任務を遂行しようとするドラコの葛藤も見どころになります。

人は(まっ、魔法使いなんですが)善き行いをしようとする時は、心も活力も充実するものです。しかしこれは本当はいけないことなのだ、と思う行動をする時、気持は荒み、怖気づくもんじゃないでしょうか?同じ選ばれし者としての苦悩を抱える二人ですが、勇気や友情、たくさんのことを学び成長するハリーに比べ、ドラコの苦悩は哀切に満ちています。深いけど、この作品の原作は児童文学。是非この辺の表現を、若い観客の皆さんには、的確に感じて欲しいと思います。

ダンブルドアの命により、スラグーンに近づくハリー。彼は優秀な生徒が大好きなので、スラグホーンに取り入り、ヴォルデモードの秘密を探って来いと言うお達しです。おいおい校長の言うことか?という命令ですが、闇に支配されるくらいなら、少々のスパイ活動もいとわずってことかな?でもスラグホーンがハリーに心を開いてくれたのは、魔法界を守りたいと言うハリーの必死の思いが伝わったからで、小細工が効いたからではありません。正直大人になったら、こういう小細工が必要な時もありますが、若い頃はまずは正々堂々、真っ向から取り組んで欲しいので、この展開もグット。

保護者にもお勉強になることがいっぱい。繰り返しハリーに「私を信じられるか?」と問うダンブルドア。全幅に信頼すると言う事は、非情な辛さも伴うものだ、ということも、今回の作品は教えてくれます。子弟や子供に、その辛さを乗り越えさせるのは、何よりも大人世代が信頼に値する人になる、これに尽きると思います。子供達にああだこうだと言う前に、やっぱり大人がお手本を見せろということですね。

成長する主要キャストの中で、今回一番良かったのは、私はドラコ役のトム・フェルトンでした。このシリーズでのいやみな純血種という役どころはそのまま、哀しさを感じる陰の部分の表現も上手かったです。今回のドラコは、父が投獄され家を背負った息子としての責任と、少年の純粋な部分の残る幼さの混濁した難しい造形でしたが、好演でした。なかなかイケメンに成長しているし、ブロンドの髪は地かもしれませんが、髪が先に目につき顔立ちが生かされないので、ブラックやブラウンに染めた方が、大人の俳優としては使いでが良いかもしれません。頑張ってトム!

あとはハーマイオニーが本当に綺麗になっている!教頭役のマギー・スミスは、今回皺が深くなっていて、六年の歳月を改めて感慨深く思いました。このシリーズも残すところあと二作。次は前後編ですってよ。今回は最近流行りの、次作に向けての前振り的要素も多かったですが、これくらいの水準をキープしてくれていたら、文句はありません。あっと驚く展開になるダンブルドア校長が、ラスト近くスネイプ先生に向けた言葉は、私はハリーの解釈は間違っていると思うなぁ、うんうん。ハリポタファンの皆様、では安心してお楽しみください。


2009年07月09日(木) コックローチハンター、ケイケイ(駄文)

昨日の夜中一時ごろ、私が熟睡していると、三男が「ギャー!お母さん!足元!」と、叫ぶではありませんか。私が起きてみると、何とゴキちゃんが。三男が寝ようとしたら、ゴキブリを発見。そのゴキブリがつつっと逃げて、私の足元まで来たんだそうな。

二男もそばにおり、「はい、お母さんこれ!スリッパがないから!」と雑誌を手渡されました。寝起きすぐの母に仕留めろってか?(うちの男どもは全員ゴキブリがだめ)。普通なら一発で仕留めるんですが、寝置きすぐなもんで、取り逃がしました(クソ!)

翌朝、息子たちが私を絶賛。「お母さん、寝置きすぐにゴキブリ観ても、ギャー!も言わんと、あんな俊敏に動けるなんてすごいな」と感嘆しきり。運動神経のウンもない私なのですが、何故かゴキブリは常に一発で仕留めるんですな。ゴキブリを仕留める時の私は、息子たち曰く、物凄くカッコイイらしい。普段カッコイイからは限りなく遠いワタクシ、ゴキブリ関連で褒められても・・・。

「女の人って、普通ゴキブリはあかんのん違うん?」と息子たちは言うのですが、そりゃお母さんだって、子供を産む前は「いや〜ん、ゴキブリーん!」と逃げ回っておりましたさ。しかしだね、お前たちを生んだ以降、ゴキブリなんか見た日にゃ、私の可愛い息子たちが噛まれたらどーする!の一念で、バッタバッタと殺してきたのさ。なので私は、子持ちのお母さんで、「いや〜ん」の人を見ると、何眠たいことゆーとんねん!と、眉毛が上がるのだね。

結局「またゴキブリが出たらと思うと、恐ろしくて今日眠れない」と三男@高校二年・身長175cm体重88kg(見た目−10kgのラガーマン)が言うので、バルサンを炊く事に。今日はケーブルテレビの方に、ハードディスクの故障を見に来てもらうことになっていたので、結局3時頃から開始しました。映画見ようにも、その時間から見られる作品が一つもあれへん。仕方ないので、スタバで仕事の復習をしておりました。

そう言えば私が中1くらいの時、やはりバルサンを炊くため、家族全員で外食して「グレートハンティング」を見に行ったことがあります。妹はその時小2だったはずですが、何故夕方からバルサン?何故いたいけな子供を連れ「グレートハンティング」?いや多分何も考えてなかったんでしょう。自分たちが観たかったので、ついでに連れて行かれたんだと思います。だって私がディズニーとゴジラ以外で観た最初の映画は、母に連れられた「藪の中の黒猫」ですから。

しかし猜疑と虚栄と虚飾渦巻く、東海テレビの昼ドラもびっくりな我が生家でしたが、こういうトンデモな記憶は、私にとって数少ない楽しい思い出です。トンデモ映画体験が、多分私の映画好きの元を作ったんだと思われ。だから何でも観ればいいんだってば。

ちなみに私は犬猫がダメ、昆虫はOK、爬虫類もほどほどに可という「特異体質」。うちの男どもは揃いも揃って昆虫が嫌いなので、今日も明日も明後日も、「ゴキブリ殺しのケイケイ」の日々は続くのだ!(いや、そんなに出たら困りますから)。


2009年07月05日(日) 「それでも恋するバルセロナ」




いや〜、面白かった。ずっと重量級の作品ばっかり続いていたので、気楽に観れて出来の良い作品というのは、本当にありがたいです。最近イギリスを舞台にした作品ばっかのウディ・アレン監督ですが、今回舞台は情熱の国スペインはバルセロナ。あるわけないよ〜、というくらいの複雑な恋愛関係を描いていますが、細かいところの演出が妙にリアルだったり実感こもってたりするので、ニヤニヤクスクスしながら、面白く観てしまいました。ペネロペ・クルスが、この作品でオスカーの助演女優賞を獲得しています。

堅実でフィアンセのいるヴィッキー(レベッカ・ホール)と、奔放で恋愛体質のクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)は、まるで考え方が違うのに、気の合う親友同志です。二人はヴィッキーの親戚ジュディ(パトリシア・クラークソン)のいるスペイン、バルセロナまでバカンスに来ました。そんな二人の前に現れたのが、画家のファン(ハビエル・バルデム)。興味津々のクリスティーナに対して、最初は警戒心いっぱいだったはずのヴィッキーさえも、彼に夢中になります。そこへ別れたファンの妻アンナ(ペネロペ・クルス)まで現れ、ことは四角関係に発展します。さぁどうする?

てな感じで、小粋なラブコメです。こんなあり得ない設定なんですが、バカンス、それも舞台は情熱のスペインというだけで説得カ大。そこへ恋愛の達人(?)アレンの、奇想天外な設定での小技のリアリティが全開。あぁこの場面はこうなるわなぁ、そりゃそうでしょうよ、と全面的に納得。それを深刻ぶらずに、本当に笑いながら気楽に観られます。

主な登場人物のキャラが素晴らしく立ってます。キャストもドンピシャ。アレンの描き方は、俳優たちが如何に素敵に見えるかを重点的に撮っていて、それが作品の値打ちをう〜んとアップさせています。

この作品でオスカー取ったペネロペは、美貌のエキセントリックな天才アーティストという設定ですが、そんな生易しいもんじゃなく、何とかと天才は紙一重の人おまけにはすっぱです。しかしこれが、恐ろしくチャーミングなんですねー。相手に与えるインスピレーションが絶大なんでしょう。痴話げんかの果てに包丁持ち出すような女なのに、何でファンは離れ難いのかが、理解出来ます。書いていると抽象的なマリアの造形なんですが、スクリーンに映るペネロペの演技が、他を圧倒してしまうくらい圧巻なんです。難しいマリアのキャラに命を吹き込んだのは、ペネロぺだったと思います。

クリスティーナは小悪魔的で奔放なんですが、決して魔性の女じゃないんです。それどころか、人からは美人なだけで空っぽのくせに、自分は人と違うと勘違いの自分を探しをしていると思われている、ある意味可哀想な子です。本当は賢くもなく、才能のない自分に自信がなく、勘違いではなく本当に人生を模索しているんですね。才能がないから、才能あふれる芸術家のファンに言い寄られると嬉しくて、恋人の立場で安住したくなる。これって結構自然体で普遍的な、若い子の感覚なんじゃないでしょうか?今回いつもよりフェロモン過少気味のスカヨハは、むせかえるような女のフェロモンを出すペネロペと比べたら、本当に小娘の愛らしさです。でもこれって、クリスティーナのキャラを際立たせるため、意図的に監督が撮ったものだと思います。やっぱ彼女のこと、お気に入りなんだね。

初登場シーンからスペイン式情熱のプレイボーイぶりが素敵なハビエル。女なしでは生きていけない人なんですが、意外と誠実なんですね。一人一人の女性に誠意を尽くす結果、向こうも合意の上でのセックスなので、女の方が忘れ難くなるのがよーくわかる。気がなくなった女には、相手の自尊心を重んじて、「僕とあなたは結ばれない運命だ。この関係は辛すぎる」と語る姿なんて、嫌われるより難しいですよ。アタシに飽きたのね・・・とはわかっていても、そう言われると信じたくなるのが女心。ここで信じたくさせるのに肝心なのが、男としての押し出しなんですが、ハビエルは太鼓判で合格でした。

でも私が一番感心したのは、こんな濃くてドロドロのメンツを相手に、大健闘していたレベッカ・ホール。彼女が一番身近にいそうなキャラですが、きっちりばっちりの存在感です。何でも見事に演じるパトリシア・クラークソンとともに、教養があってお金も苦労しない人妻の、バカバカしい寂寥感を、これも実にチャーミングに演じています。彼女たちの始末の付け方も大変俗っぽく、ハイソでない私なんぞ、有閑マダムなんて所詮こんなもんだよーと、溜飲を下げたのでした。

しかし見事だと思ったのは、レベッカ・ホール、他三人と比べると大変地味な容姿です。なのに本当に可愛らしく映っている。エッチシーンは情熱的を超えた、濃厚なキスシーンだけで表現していましたが、これがアルモドヴァルなら、ペネロペのおっぱい全開なはず(スカヨハはブレーンがNG)。破壊力絶大なはずなんでね、レベッカは霞んでしまったかも?アレン監督の女優みんなへの気配りは相当なもんで、老いてますます女性への関心と敬意が増しているようで、何よりでございます。

というように、気楽に肩も凝らず、楽しく職人芸が見られる作品でした。


ケイケイ |MAILHomePage