ケイケイの映画日記
目次過去未来


2005年04月29日(金) 「バッド・エデュケーション」

ひえぇぇぇぇ!火水と「阿修羅城の瞳」「ハイド・アンド・シーク」と観て、3れんちゃんの昨日の木曜日、一番すごいのがきました。一昨日3時間しか寝ていないのにこのヘビーな内容、身も心もヘロヘロです。あぁまいった!前二作の高評価により、カルト的人気監督から巨匠の誉れも高くなったアルモドヴァルなのに、「トーク・トゥ・ハー」に比べて劇場数が減ったのは何故かなぁと思っていましたが、なるほど人を選ぶ映画です。お腹いっぱい謎もいっぱい、でも幻惑され魅せられた作品です。

1980年のスペイン。新進監督のエンリケ(フェレ・マルティネス)の元に、少年時代の同級生で初恋の相手であるイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が16年ぶりで訪ねてきます。今は俳優をしているというイグナシオは、自分の書いた自伝的脚本を携え、これを元に映画を作ってくれと言います。条件は主演を自分にすること。彼のあまりの変貌ぶりに、本当にかつて自分が愛したイグナシオか疑心暗鬼になるエンリケですが、撮影は開始。順調に作品が作られる中、ある人物の登場でイグナシオの秘密が暴かれます。

ゲイテイストの作品は意外と多く、古くは美青年オンパレードだった「モーリス」「アナザー・カントリー」、ちょっと前では「ウエディング・バンケット」「ハッシュ!」などは、ゲイを主題にしながら容易に自分の立場に置き換えて見ることも出来、また戸惑い偏見を持つ人も描くことで、性を超えた人間性の尊重を訴えていました。が!!!この作品はかけらもそんなところはありません。首尾一貫、愛だ、男だ、セックスだ!で貫かれ、ストレートな性的嗜好の人の理解など、皆目気にしていない感じがします。猥褻だし仰天もしますが、ある意味崇高ですらありました。

お話は現在、過去、そして映画の中の虚構とが入り乱れますが、わかりずらさはありませんでした。戸惑うのではなく幻惑された感じは、時空をいじっていたからと感じます。これが理路整然と過去から現在なら、毒が強すぎたかと思いました。性的場面は刺激を軽く通り越した生々しさで、結合部分こそ写していませんが、なんだか裏ビデオを観ているよう。しかしあの手の物にはない、官能性と淫靡さが漂っています。そして攻撃的。ガエルが眠っている男性にまたがりセックスしてしまう場面がありますが、女性の場合は、「抱きたい」のではなく「抱かれたい」が強いと思うので、女装していてもやっぱり男なのだと妙に感心してしまいました。

しかしその性的場面なのですが、少年時代の同性愛は甘美的で幼く描き、神父による性的虐待の少年愛は痛々しく、大人になってからはズバズバあられもなく描いていますが、これには全部誰が見ても美しいガエル絡み。観客に受け入れられ易いよう、細心の注意を払って描いています。ですから世間が言うほど、アルモドヴァルはこの作品を好き勝手に作ったとは思いませんでした。イグナシオは何故主役を演じるのに執着したか、彼の秘密と共に哀れや切なさも感じ、作品に深みも与えるので、興味本位のゲイ作品と取られる事を避けるのを助けたと感じます。この辺は商業監督としての彼の力量でしょうか?

ただやっぱり私にはわからないこともあり。息子がゲイであるのに、全然母親や身内の嘆きや葛藤が出てこない。私はゲイのお友達はいませんが、人間的に好きになれば仲良く出来ると思っていますが、息子たちからもし告白されたら、これは別問題です。矛盾していますが、まぁ「招かれざる客」と同じです。それともそういうのを描く必然性がない映画だったから?あんまり身内が普通なので、私には返って不思議でした。

それとエンリケにはイグナシオと再会する前、公私とものパートナーがいたはずですが、あっさりイグナシオが取って代わったのに、どうして揉めないんでしょう?これも筋に関係ないから?これが男女ならそういう場面の一つは絶対出てくるはずですが、男性同士は別の人に愛が移ったら、あっさり引き下がるのでしょうか?

そしてこれはネタバレ疑問(ネタバレ終了後にも書き込みありです)













エンリケはファンがイグナシオ殺害に手を染めたことを知り、彼に別れを告げますが、なんか冷たい。ファンがイグナシオに成りすましていたのは、とうに知っていたのに彼と同棲していたのは、好奇心ではなく愛だったんじゃないの?言葉に出して真実を告げたら壊れてしまうからでしょう?確かにファンは殺人者かも知れませんが、その動機には同情できるものもあります。それにエンリケはイグナシオがエンリケを終生恋焦がれていたほどには、イグナシオを愛していなかったはず。昔の甘い思い出だった人より、寝食をともにし体を何度も重ねたファンに対して、あんなにあっさり一瞬で決断出来るんでしょうか?




















ガエル君のファム・ファタール(いや、オム・ファタールか?)ぶりを堪能しつつ、男同士の愛の濃厚さに目眩がしそうです。レズビアンを描いてここまで魅惑的な作品にはならないでしょう。やっぱり男の人には勝てないのかと、別に意味で思った次第です。「バッド・エデュケーション」なんですから、そこに留まったイグナシオの姿を通してこれは彼らが通った神学校を指しているのでしょうか?そういえば一番の「悪役」も哀しく破滅しちゃったしね。観たこともない作品を観て、圧倒されまくって終わりの巻き。のんけの男性には辛い作品でしょうか?ゲイの男性は良くも悪くも「とても男らしい」がよくわかりました。


2005年04月27日(水) 「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ」


画像はいつもの愛らしさから打って変わったハリウッドのチャイルド大女優ダコタ・ファンニングちゃん。目の下にクマを作り、生気なく不気味な様子はやはり演技派、今回も子供とは思えぬ好演でした。父親役はロバート・デニーロ。最近でこそ普通の俳優になった感がありますが、かつてはハリウッドの若手俳優からこぞってリスペクトを受けたカリスマ俳優です。そんな二人が共演のホラーなんですから、期待しますよね?ところがもうええかげんにして!系の、十羽一からげのハリウッド量産型サスペンススリラーでした。

心理学者デビッド(ロバート・デニーロ)は、妻(エイミー・アービング)が自殺したのち、心を閉ざした娘のエミリー(ダコタ・ファニング)の療養を兼ね、郊外に引っ越します。しかしデビッドが友達を見つけて家に招いても一向に心を開かないエミリー。いつしか彼女は空想のチャーリーという少年と遊ぶようになります。心配するデビッドですが、やがて彼の家では、奇怪なことが起こり始めます。

いやもう何というか。今日び2時間ドラマでももう少しまし。ラスト15分のことは絶対話さないで下さいって、話1/3で結末がわかります。伏線を一応張っているのですが、妻の秘密などもっと引っ張ってもいいのに、見せ方が悪いのでしょっぱなの映像でわかります。「チャーリー」の存在を謎にして恐怖を煽らなければならないのに、「チャーリー」に見せかけたい人物より、本当の「チャーリー」の方が何倍も挙動不審なので、もうバレバレ。他の伏線も、伏線が伏線のまま墓場まで持ち逃げ。筋がバレバレなのでとにかく観ていてしんどいです。盛り上げるはずの恐怖場面も、ゆるゆるぬるぬるなので、ちっともドキッとせず。猫のような不吉で使えるアイテムも、出がらしのお茶状態です。

しょっぱなエイミー・アービングのあまりの老け様にびっくり。年恰好からしたらデ・ニーロと合うので、高齢者カップルが孫のような子供を授かったことに秘密があるのかと深読みしてしまいました(予想×)。エリザベス・シューの役どころは離婚直後で、デビッドの家に招かれてミニで胸の谷間見せまくりのワンピースを着ているのに、不思議と清潔なのは彼女の持ち味なのでしょう、綺麗でした。でもシューみたいな人を持ってきても仕方のない役です。ファムケ・ヤンセンは同じ心理学者で、むかーしむかーし、太ももでボンドを圧迫死させようとしたゼニヤ・オナトップとは別人の、知的で行動的な役で、頑張ってんなぁと思いました。保安官のディラン・ベイカーは、私は第二のウィリアム・H・メイシーだと期待している人。これまた見せ場なかったなぁ。余談ですが、私はトッド・ソロンズ作品「ハピネス」のショタコンおじさんの彼が印象深いです。

昨年某人気俳優の同じ手合いの作品は、ゆるゆるでも彼の魅力で損をした気になりませんでしたが、この作品は本当に無駄に時間とお金を使ってしまった。デ・ニーロって本当に普通の俳優になってしまいました。その昔は彼の出演作ははずれなしだったのですが、今は脚本選べや状態。ダコタちゃんは、ゴスロリ風?ファッションも見せ、取り合えず出ずっぱりです。彼女の演技は○でした。個人的に上半期ワースト作品候補です。誰にもお勧めしませんが、これは私の感想。この作品を観て良かった方、どうぞお許しを。


2005年04月26日(火) 再び「阿修羅城の瞳」(ネタバレ冷静編)


この染様、ちょっと雷蔵様にも似てません?まっ「市川」つながりですから。「バッド・エデュケーション」も「海を飛ぶ夢」も「シャル・ウイ・ダンス」もそっちのけ、「阿修羅〜」の2回目を鑑賞せねば、明日へは進めん!ということで、今日2回目鑑賞してきました。これではっきりしたのですな、染五郎萌えであるということが。出門ももちろんいいんですけど。でもお客さんすっくなーい!ラインシネマのスクリーンも微妙に小さい方に移っておった。だいたいミナミ地区での上映が角座でなく小さいパラダイススクエアというのが、卑しくも松竹110周年記念作品というのにどういう了見?愛がないのよ、愛が。宣伝が悪いのではなかろうか?あたしなんか今日は2回も泣いちゃったのに(←泣く人は普通いません)。

今回観ると色々?が湧き、前回冒頭から萌えが始まったことが発覚致しました。前の感想文で「カーテン越しに出門さまが」などどデタラメをのたもうておりましたが、あれはお着物がいっぱい吊るしてあったのでした。お声がしただけでドキドキしてたんでしょう、うんうん。どうせ時代考証なんかへの河童の作品と、高をくくっていた己を反省。いや別に大した時代考証でもないですが。

花魁役の土屋久美子、中村座で舞台を見ている姿はなかなか美しいですが、花魁姿はあんまり。花魁て客も選べる女郎さんの最高ランクでしょ?当代一の歌舞伎役者が贔屓にする女郎さんは、もっと綺麗でなきゃ。それかもっと歯切れよく喋れる演技力のある人が良かったかと思います。寺島しのぶとか(絶対引き受けません)。

歯切れよくと言えば、渡部篤郎。台詞回しが舌足らずなのは、時代劇では致命的。彼は実力があるのに、絶対一番になれない男の哀しさや怨念を表現するのは上手い人ですが、この作品のかぶきっぷりはちょっといただけません。槍を片手に殺陣も頑張っていたのですが、彼はこの役にあわなかったようです。それと出門へのメラメラの執着がどこから来るのか疑問。これは「鬼御門」時代に何か匂わせるシーンを挿入することで、クリア出来たのではないでしょうか?

他にはつばきが阿修羅に変身後、何がどうのように強くなったのか、これまた?。あれでは巨大になっただけです。邪空を蘇らせていましたが、あれは美惨だってやってたし。僕の鬼たちがどう変化したかも描かれていません。

出門VS阿修羅の場面は美術がちゃっちいです。どこかのテーマパークのアトラクションにあるような安もんの感じ。私は潰れたフェスティバルゲートの「洞窟探検」みたいなアトラクションを思い出しました。それにやっぱりなぁ、染様とりえちゃんでは立ち回りの実力が違い過ぎるのに、互角に戦うってのはどうかと。飛んだり跳ねたり工夫してましたが。そう思うとマギー・チャンやチャン・ツィイーは剣さばき上手ですね。

以上冷静な感想ですが、それでも私はノープロブレム。ちょっと脱力するところもありますが、恋すると鬼になるつばきの哀しさ、出門の指から出る運命の赤い糸、地獄に落ちてもの二人の心情はよく描けていたと思います。

しっかしなぁ、私は染五郎は嫌いだったんです。まず髭剃りあとが青いのがいや。時代劇だとドーラン濃いのでわからないのね。それと隠し子騒動。どんなに遊んでもいいけど、身分違いだかなんだか知りませんが、一旦結婚すりゃええだろうと、梨園の体質もいやでした。極めつけは寺島しのぶとの一件。私は彼女はすっごいご贔屓です。よってほとんど「敵」みたいに思っていたのに。とにかく江戸前の粋が炸裂、存分に歌舞伎役者の底力を見せられちゃぁね。この作品の出門は、彼にとっては極めつけの当たり役なのでしょう。

私は男性の目は絶対一重派、それでノーブルな感じの端正な顔が好きなので、それも染様はクリア。そういえば去年「スキャンダル」を観たとき、一瞬ヨン様にも萌えました。でも私の好きなのは、あの映画のスケベヨン様だったので、あっという間に「微笑みの貴公子」の戻ったので、私のパッションも沈下。だいたい私は男性はたんぱく質は植物性で取り、血が薄そうでテンション低く、毒にも薬にもならない誠実だけが取りえみたいな人が昔から好みでした。要するにフェロモンが全然欠如しているのが好みだったのですが、30歳頃から実はむっつりスケベというのが好みにプラスされ、もっと年がいった今では目で妊娠させるような男もOK。この年になると女性ホルモンの分泌は著しく低下、忍び寄る更年期に恐れつつある今、萌えはバカ高いクリームやサプリメントより、よっぽどホルモン活性化に役立つと思われ。誰に迷惑をかけるわけでもないのだから、年にいっぺんくらい発情せにゃ。もう一度観に行こうっと。


2005年04月24日(日) 「コンスタンティン」


今日息子と観てきました。先週観る予定が息子の風邪で順延。おかげで「シャル・ウイ・ダンス」やら「ハイド・アンド・シーク」やらの上映開始と重なってしまい、またイケイケドンドン状態です。(その前に染様に会わねば!)。予告編を観て、こりゃホラー版マトリックスだなと思ったのは私だけではありますまい。しかしあれは嘘つきなのだ。娯楽作の形を取りながら、真面目にキリスト教の宗教観を前面に持ってきて、地獄を恐れる信者さんの心理を深ーく描いておいででした。

ジョン・コンスタンティン(キアヌ・リーブス)は、ヘビースモーカーがたたって肺がんで余命1年。幼い時から悪魔が見える彼は、そのせいでしょうか、20年前に自殺を図り命を取り留めています。今はその能力を生かして悪魔祓いをしています。それはキリスト教では大罪である自殺を犯したため、地獄へ行くことを避けたい彼の贖罪の意味も含まれています。ある日双子の妹イザベルの死が自殺とは信じられない姉の刑事アンジェラ(レイチェル・ワイズ二役)が彼を訪ねます。今生の世界の微妙な変化に気づいていたコンスタンティンは、その秘密がアンジェラにあると確信し、彼女と行動を共にします。

冒頭こそ謎の剣を手にした男、「エクソシスト」ばりに、悪魔が取り付いた少女をキアヌが追っ払うシーンや、それを彼に依頼した神父が、恐れ多くも自分をジョン・キューザックだと思い込んだ「アイデンティティー」のおっちゃん(プルイット・テーラー・ヴィンス)だったもんで、てっきりど派手にCGを使いまくって、面白おかしく見せてくれるのだと思いきや、教会での懺悔、自殺は大罪などなど、キリスト教の教えをかいつまんだシチュエーションがてんこ盛り。罪を犯した者はどうすれば天国に行けるか?などの宗教哲学的な問答などもあり、こりゃキリスト教の知識に乏しいと、作品の描く世界観に乗り遅れるかもと危惧してしまいました。

実際、欧米人には常識的な事柄なのでしょうが、日本に住む身にはわかりにくいところも多々ありますが、常識的な知識で上っ面くらいはクリア出来ます。やっぱりそのわかりにくさと辛気臭さを救うのはキアヌのかっこ良さ。「スピード」「マトリックスシリーズ」など大ヒット作にも恵まれ、貫禄とカリスマ性をも感じさせるスターのオーラがあります。40歳を過ぎた現在は渋さも加わった感があり、この作品でも役どころによる不健康の中のセックスアピールも感じさせ、彼を見ているだけでも元は取れます。キアヌ大根説は根強いですが、私はたとえ大根でもこれだけ人を(女性か?)惹きつけるもんがありゃ、それでOKだと思うのですが。

ただ世界観のスケールは大きいのですが、至って地味な作りです。予告編以上のアクション場面はなく、それを期待する方にはがっかりかと思います。最初キアヌを慕う若い運転手君がどう絡むのかと思っていましたが、なかなか好感の持てる描き方で良かったです。レイチェル・ワイズは大ヒット「ハムラプトラ」シリーズは、バカバカしくてもう出たくないそうですが(私はいいと思うけどなぁー)、五十歩百歩だと思っていたこの作品に出たのは何故かしら?と思っていましたが、なるほど題材と作りの真面目さが気に入ったのね。やっぱりインテリは違います(ケンブリッジ卒)。体張って頑張っていました。もうひとりのケンブリッジ卒のティルダ・スウィントンは、天使ガブリエルを彷彿させる役柄で(役目もガブリエル)、確かガブリエルは中性のように描かれることが多いと思いますが、胸にさらしみたいなのを巻いたり、男物のスーツを着たり、とってもそれらしい雰囲気です。彼女の存在は作品を盛り上げていたと思います。

ツッコミではワイズは刑事役ですが、必然性はなかったかと思いますし、キアヌが愛煙家のため肺がんは、もっと必要なし。あんなに煙草をくゆらして決まっているのに、こりゃ酷だと思いました。劇中15歳から日に30本と出てきますが、これは悪魔を見てしまう辛さからの逃避が煙草だったのかなと思いました。アル中になるよりましだと思いますが、アメリカの嫌煙運動を垣間見た気がします。

結論の「神の御心のまま」をしっかり受け止めるのに、キリスト教の人は日々修行されているのですかね。そこには煩悩も葛藤もありということで。私は新東宝の「地獄」を観たばかりですが、どんな宗教も天国or極楽浄土に行くには大変なようです。ちょっと期待した向きとは違いましたが、面白いというより興味深く観られました。いっしょに観た末っ子@中1にわかったかと聞くと、「わかるわけないやん。」と当然の答え。でも悪くはなかったそうです。エンドクレジットの後に映像あり。続編は作られること必死と感じましたが、次はきっとド派手の予感。


2005年04月21日(木) 「阿修羅城の瞳」


まずは画像をご覧アレ。素敵でございましょう?りえちゃんももちろんですが、染五郎様ですわ!全然ノーマークの男がですよ、突然目の前に現れてですね、ありったけの粋さと水も滴る男ぶりを魅せてくれたのですからあなた、今私の頭はピンク色のハートだらけなわけですよ。染五郎32歳、こんな「若い男子」に萌えるのは久しぶりです(やや老け専のきらいあり)。

時は文化文政の江戸。一見平穏に見える町は、人間を滅ぼさんとする鬼達が暗躍していました。邪空を中心とした人間と鬼を瞬時に見分ける剣豪を集めた「鬼御門」が結成され、日々容赦なく鬼を切り捨てていました。そんな彼らの前に尼僧姿の鬼・美惨(樋口可南子)が現れ、間もなく鬼の王・阿修羅が現れるだろうと告げます。病葉出門(市川染五郎)は5年前まで「鬼御門」随一の腕利きでしたが、ある事を境にそれまでの一切を捨て、今は人気の歌舞伎役者になっています。ある日町を騒がず謎の盗賊団”闇のつばき”の一人、つばき(宮沢りえ)と出会い、二人は運命的な恋に落ちます。しかし実は阿修羅はつばきで、彼女自身それを知りませんでした。彼女が阿修羅になるのには、人を愛する力が必要だったのです。

冒頭ケレンの利いた鬼が暗躍する江戸の風景が出てきます。少々CGはしょぼいものの気になるほどでもなく、この手の妖気ファンタジーが見せてくれる美術が目当てだった私は、豪華で猥雑なビジュアルが気に入り、BGMもノリよく一気に映画に吸い込まれてしまいました。

病葉出門=わくらばいづも、と読みます。正直こんなに染五郎に萌えるとは思っていませんでした。時々現代劇で見かける彼はどうということもなく、印象すら残らないのに、時代劇となったらこの艶やかさと色気はどうざんしょ!というくらいです。本物の歌舞伎役者に歌舞伎役者の役はちとずるいのですが、台詞回しや立ち回り、キザでいなせな言葉が立ち姿も見目麗しい彼から発せられると、もうぽぉ〜となってしまいます。やっぱり歌舞伎役者はモノが違うわいと感激してしまいました。

例えば、大切なかんざしを奪い戻したに来たつばきに、カーテン?越しから現れ、「夜這いに来てくれたとは嬉しいねぇ。」という彼の髪にはかんざしが。あぁ〜ん。邪空からつばきを連れ戻しに行った時「なんで?」というつばきに、「待ってたわ、とは言えねぇかねぇ。」キャーーー!!!!阿修羅になったつばきに会うためバッタバッタ鬼を倒しながら、「悪いな、女待たしてるもんでな。」いや〜ん!!!と、もうほとんど「染五郎さま」だけを途中から追っていました。

だから筋での穴なんてあなた、そんなもの、例えばつばきは盗賊だったが何故?とか、鬼って何を悪さするのさ?とか、鬼のくせにヘタレ過ぎとか、鶴屋南北がうざいとか、そんな重箱の隅をつついていたら、映画って面白くないですよね?(←普段と言っていることが違い過ぎます)だって萌えてしまったのだから仕方ない。愛なんてそんなものよ。だからつばきが恋する過程が描けていないという感想には、相手が出門だったからですで充分(きっぱり)。つばきは見る目があったんですな。

この作品の元は「劇団☆新感線」の舞台で、いっしょに観た友人によると舞台でも出門は染五郎(観たい!)。つばきは天海祐希、美惨は夏木マリ。夏木マリと言えば東映の「里見八犬伝」での妖気溢れる美貌で感嘆させた玉梓役が印象に強いですが、映画の樋口可南子も艶っぽく貫禄があり良かったです。東映・玉梓はオールヌードありでしたが、こちらお上品な松竹、若い頃はタコと戯れたり(「北斎漫画」)、レズッたり(「卍」)、日本発のヘアヌード写真集を発刊したりの樋口可南子ですが、今回脱ぎはなし。いや今でも脱いだら充分きれいと思いますよ。際物的な仕事も多かった彼女ですが、不思議と不浄感のない品のある人ですので、妖しさが返って際立ちました。

りえちゃんは綺麗でしたが、何故かつばきの時はお肌の荒れが目立ちました。阿修羅になった時と対比させたいためでしょうか?でも染五郎がむき卵のようにお肌ツルツルなんで、これはいただけません。それと結構な濡れ場もあるのですが、ここでもフェロモン全開は染五郎。もうちょっとふっくらした方がエロティシズムが出たと思います。でも堺正章の「西遊記」の高峰三枝子@お釈迦様を思わすビジュアルで、りえちゃん登場のシーンがあるのですが、これが天海佑希ならまんま御釈迦様ですが、りえちゃんの美貌でセーフだったので、彼女で良かったです。

途中で外道に成り下がる邪空は、いつどんな役をやってもいつも同じの渡辺篤郎。でも噛ませ犬の役なのでこれで上等。いや私が言ってるんじゃありません、自分で言ってます。舞台版・伊原剛史は、もっと役が膨らんでいるとか。

とまぁ、感想になってるんだか、なってないんだか。花魁が言う「主さんがたとえ鬼でも、好いておりますわいなぁ。」が私には全ての作品。ミーハーにならずして何の映画ぞ、今日は幸せ。


2005年04月19日(火) 「インファナル・アフェア掘―極無間」


今日観てきました。友人情報ではラインシネマは、初日4人、次の日6人だったそうで、平日の今日は私一人かと思いきや、お客さんは10人ほど。まっ、寂しい入りなことに変わりはないですが。私は1は劇場で鑑賞、2は未見です。ですから疑問点は2を鑑賞していないためかも知れませんので、どうぞお含み下さいませ。今回役名と俳優の名前がいっしょだったりするので、全て役名ではなく俳優名で書きます。

1から10ヵ月後、アンディ・ラウはトニー・レオン殺害の一件で一時的に庶務課に移ります。その間、潜入マフィアを突き止め始末していくラウ。内部調査科へ移動になったラウは、保安部の警視レオン・ライもマフィアの手先ではないかと疑い調査します。そんな折、追い詰められ張り詰めていたラウは、次第にレオンの幻影を見るようになるます。

悪くはないです。しかし傑作だと言い切ってよい1から観ると、少々脚本がぬるいです。時空が入り乱れて、主に1の回想シーンが多いので、これは観ている私にはわかりましたが、あっちこっち飛ぶ間に整理するのに忙しいです。わかりにくくはないのですがなまじ1を観ているため、今回のマフィアのボス・エリック・ツァンのトニーいじめに、え〜、1では寵愛してたがなと腑に落ちず。「お前だけは俺を裏切ってくれるな。」って言ってたよなぁ?2を観ればわかるんでしょうか?

精神科医ケリー・チャンとトニーのロマンス場面に時間をさいているのですが、息づまる心理戦に一服の清涼剤というより水をさす感じで、どこにも心の持って行き場がないトニーの拠りどころと言うより、ただの男女の愛の芽生え風で、返って緊張感を間延びさせた感じがしました。

トニーの幻影に自分を観るラウですが、これがどうも私には安手のサイコもの風の演出に感じます。クローネンバーグのような不条理っぽい幻影にとは言いませんが、トニーとケリーの恋愛模様をばっさり切って、ラウの心理をもっと掘り下げてくれていたら、印象は違ったかも知れません。

一番私がダメを出したのは、ケリーがラウの心の治療をしようとして、本心を話さない彼に、過去の自分の万引きの経験を話す箇所です。ストーリーに絡んだものではないので、以下セリフを書きます。「子供の頃スーパーでチョコを万引きしたの。店長に見つかって泣いてばかりいたわ。そうしたら店長は警察に言わず家に帰してくれたの。そのスーパーに母と行った時、店長を見てドキドキしたわ。母は万引きを知らなかったから。私の様子を不審がって母からどうしたのかって聞かれたわ。だから『あの店長にいたずらされたの。』と言ったら、母は警察に通報したの。その日から店長はスーパーからいなくなった。私はこのことをずっと黙っていたけど、学生の時友人に話したらすっとしたの。人間は生まれ変われるのよ。」・・・・・・・・・。

ちょっとケリーさん、あんたアホやろ?人に話してあんたはすっとしたって、その店長はどーなるねん!すっとして「なかったこと」にするくらいやったら、ず〜と罪の意識抱えて生きてたほうがましってもんさ。だいたいケリー・チャンは顔の表情が乏しく、以前から整っているけど味気ない女優と思っていたので、それが相乗効果を伴って、ここは非常に怒ってしまいました。そしてずっと観ながら抱えていた違和感はここで発覚。1は登場人物全てに繊細な心の描写があり、善悪両方に感情移入出来るような心理描写が本当に上手く、こんな無神経な表現の仕方はありませんでした。

出演者で出色はレオン・ライ。優しげな雰囲気の彼ですが、銀ブチメガネをかけ、切れ者で冷徹な謎めいた警視を好演。私はこんなライは初めて観ました。彼の本心は最後まで読めず、それは映画全体をひっぱったと思います。これ単体として謎解きサスペンスと思ってみれば、それなりの面白さだったと思います。



2005年04月15日(金) 「いぬのえいが」


昨日動物好きの友人と観てきました。終了直前だったので劇場は6人だけでしたが、全員泣いていたと思います。私は特別犬好きではない、というより正直動物は苦手。嫌いではなく怖いのです。だからながめる分には全然大丈夫だし、素直に可愛いと思うのですが、抱っこしたりするのは怖くって・・・。でも犬好きだけに好評の作品のように言われていますが、私のような者でも充分楽しめました。ただ一点を除いては。

オムニパス形式と聞いていたので、全編犬にまつわる全然違うお話かと思いきや、リレー形式でお話はつながれ、主役はノラ犬のポチ。ポチは柴犬で、元来柴犬は賢い犬と言われていますが、この作品のポチもその特性(?)をいかんなく発揮、うちの子供より賢いぞ、と感心することしきりです。そしてひとたび自分のご主人様と決めた相手に対する忠義心には、本当に胸が熱くなります。それはご主人様だけでなく、一宿一飯の恩義を受けた相手にも向けられます。新進気鋭の映像作家(犬童一心、黒田秀樹など7人)が集まって作った作品にしては、気をてらわずひねりもなく、真正面から人間と犬の愛情と信頼関係を描いていて好感が持てました。

軸のポチのお話以外には、ミュージカル仕立て、犬の恋、バウリンガルについてなどお笑いを交え、そして最後が画像の飼い主美佳ちゃんとマリモの幸せで切ない犬との共生を描く「ねぇマリモ」で締めくくられます。この「ねぇマリモ」は、ポチ以上に泣けて泣けて。友人は子供の頃犬を飼っていて、「ほんま、あの通りやで。」と肯いていました。

私は病院の受付という仕事柄、たくさんの方を接する機会がありますが、犬を飼っている方の「うちの子自慢」は微笑ましいものです。皆さん本当に家族として大切にしていらっしゃいます。口を揃えて「子育てと同じやで。大切にして愛情を注いでも、甘やかしたらあかんねん。」とのこと。この映画でも共に生き、人生を豊かにさせる対象として描かれても、「お犬様」はありませんでした。

だから最初書いた一点が残念で。その一点とは山田君の病気の扱いです。山田君は転地療養で転校してきた設定ですが、雨の中発作が起こった時にシューとスプレーしていたのは、「メプチンエアー」という気管支拡張剤です。これは簡単に言うとぜん息の発作止めで、ぜん息以外の疾患で使うことはありません。使い方も正しく一回だけシューと使っていました。私はただの受付兼診療助手なので、今日先生に確認しました。

そして救急車に運ばれた後、東京の病院へ移送される際看護婦さんが一言、「手術すれば治るから大丈夫よ」。???ぜん息に出術なんかあったかなぁ。これも今日先生に確認したところ、ぜん息で手術は自分は聞いた事がないとのこと。これはどう理解すればいいのか?辻褄が合わないとか演出が未熟だとかそういうことではなく、明らかに間違いな描き方です。どちらか一つだけ挿入すれば良かったのに。

この描写でぜん息の人が差別されたりするシーンではありませんが、ぜん息は珍しい疾患ではありません。過った認識が広まると患者さんの心理に微妙に影を落とすのではと、老婆心ながら危惧しています。病人の心理は本当に繊細なもの、健康な人のたかがこのくらいで計れるものではありません。仕事柄どうも気になって。これはやっぱり脚本が安易だと思います。その他は特別何もなくほのぼのした作品で気に入ったので、余計残念でした。私は素直に観て良かった作品でしたが、ちょこちょこ見かけるこの作品に嫌悪感を持つ方は、私が見つけた「安易さ」を、他のシーンで感じたのかもしれませんね。


2005年04月13日(水) 「コーラス」


2004年度フランス最大のヒット作。愛らしい子供達の笑顔のチラシに釘付けになり、絶対観ようと思っていた作品です。昨日は女同士の遠距離友情を育んでいる心の友のともこさん(名古屋在住)と、ほぼ同じ時間帯に鑑賞、終了後速攻で携帯メールで感想を語り合い、かしましくて楽しいひと時を過ごしました。二人とも感想はほぼいっしょ。穴もツッコミもあれど、心の底から好きだと言える作品です。

世界的指揮者のモランジェは、母の葬儀のため故郷に戻って来ていました。そこへかつて「池の底」と呼ばれる寄宿舎に、共に暮していたペピノが訪ねます。再会を喜ぶモランジェに、ペピノは一冊のかつての恩師マチューの日記を形見として彼に手渡します。時代は遡り、中年の教師マチューが「池の底」にやってきます。そこは親の亡くなった子や、素行の悪い子供達が集められた吹き溜まりのような寄宿舎です。体罰至上主義の校長の元、殺伐とした空気が学校を支配しています。しかし無秩序で悪さばかりの子供達の善なる心を信じたいマチューは、かつて自分が挫折した音楽で、子供達に目標を持たせられないだろうかと考えます。マチューは合唱隊を作ろうと決心します。やがて学校一手を焼かせる問題児モランジェが、天性の歌声を持つことを、マチューは知るのです。

もう子供達が可愛くって!年の頃なら7〜13、4才くらいまででしょうか。同じような境遇の子供達を描いたスペインの「デビルズ・バックボーン」は、スペイン内戦を描いていたためか、子供達には生きる執念と哀しさを感じましたが、この作品の子供達は折檻や体罰で支配しようとする校長何するものぞ、と元気いっぱいの明るさで悪さをします。合唱隊はレジスタンスと表現されるセリフが出て来ますが、権力に対抗するフランス人の気概は幼き時から、ということでしょうか?

日本でいうと管理作業員の存在の老いたマクサンスは、子供達のいたずらで大怪我をするのですが、「ここの子は可哀相な子ばかりだ。本当は皆良い子ばかりだ。」と語ります。この言葉に後押しされて、子供達の懐に入り同じ目線で物事を見ようとするマチュー。彼が子供達にしてあげたのは、かばうことと秘密を守ること。それは愛情と人格の尊重です。そして目的を持たせて達成させること。最初子供達に歌わせると、男女の愛や軍歌などで子供らしい歌は誰も歌えません。みなしごになったペピノなど、歌も知らない。彼らのいた環境がわかるというものです。

そんな彼らがマチューの指導の元、変声期前の少年でしか出せない澄み切った天使の歌声を聞かせてくれるのですから、以前との対比に、聞く者が胸を熱くするのは当然です。彼らの歌声を聞いていると、心が洗われる気がして自然と涙がこぼれました。ちなみにコーラスは残念ながら吹き替えです。リヨンに実在する「サン・マルク少年少女合唱団」の子供たちが歌っています。人生になげやりになっていたマチューが、子供達と出会い、本来の明るさや素直さ、子供らしい笑顔を見せるようになった時、マチューもまた人としての希望を取り戻します。同じようなシチュエーションは、他の映画の中でもたくさん観ましたが、何度観てもこの手の筋はやっぱり観る者の心にも希望と明るい光を届けます。

しかし最初書いたように脚本が甘く、演出も雑な場面が見られます。モランジェがソロを取り上げられて、また与えられるシーンなど理由が説明不足で唐突過ぎるし、モランジェの母にマチューが恋心を抱く寅さん的場面は不要、途中から登場する粗暴なモンダンの扱いも、子供性善説的なこのお話にしては不可思議な扱いですし、子供性善説なら大人たちも皆良い方向に変化して欲しいものですが、校長の扱いが終盤ドタバタして消化不良でした。そして一番気になるのは最後の紙ヒコーキ。ここは全部拾わなきゃ。これでカクンとなりました。

文句もあるのですが、それが愛すべき未熟さに見えるのですから不思議。これが長編初監督の脚本も担当したクリストフ・バラティエは、この作品のプロデューサーで指揮者となったモランジェを演じたジャック・ペランの甥だそうです。自分も両親の離婚で親元を離れた時知り合った、一人の音楽教師との出会いをモチーフに作ったそうです。だからでしょうか、自分の人生に光を射した事柄を誠実に心暖まる作品にしたい、そんな気概が伝わってきて、大変好感が持てます。次が本当に楽しみです。

主演のジェラール・ジュニョは風貌こそ冴えませんが、愛嬌と誠実さを醸し出し、子供達から慕われるマチューになりきっての好演。モランジェ役を演じたジャン=バティスト・モニエは、実際に現在も同合唱団のソリストを務めているそうです。美しい容姿と澄み切った歌声は神々しささえ感じました。そして私が一番愛してしまった可愛い可愛いペピノを演じたマクサンス・ペランは、何とペランの実子とか(孫にあらず)。こんな素直に作った作品がフランス史上に残る大ヒットになるとは、辛口で厳しいという私のフランス人感が覆ってしまいました。人の善なる心は万国共通、映画を観て幾度も感じたことを、また改めて感じた作品です。






2005年04月11日(月) 「地獄」(新東宝・チャンネルNECO)

私の生まれる前の1960年度製作の作品。エログロ路線突っ走る頃の新東宝作品ですが、その傾向もふんだんに観受けられますが、観た後の感想は意外というか、とてもまともで格調高い感じもしました。それもそのはず、監督は和製ホラーの巨匠「東海道四谷怪談」「生きている小平次」などの中川信夫ですから。

学生清水四郎(天地茂)は、恩師矢島の娘幸子(三ツ矢歌子)との婚約も整い、幸せの絶頂にいましたが、気になるのは何かというと四郎の周りを徘徊する背徳的な友人の田村(沼田曜一)。今日も幸子宅からの帰り道、田村は酔っ払いをひき逃げして死亡させます。同乗していた四郎は良心の呵責から、警察へ出頭しようとしますが、乗っていたタクシーが事故で大破、同乗していた幸子は亡くなります。自暴自棄になる四郎は、ひき逃げした相手の恋人洋子とそうとは知らず、ふとしたことから一夜を共にしますが、洋子に事実を感ずかれ、洋子は恋人の母親と四郎に復讐を誓います。そんな時郷里から母が危篤との電報が入り、四郎は急いで帰郷します。そこでは「天上園」という老人施設を営む父親が余命いくばくもない母親を省みず、妾を同居させていました。「天上園」には過去のある訳ありの医者や新聞記者など、胡散臭い人間ばかりでしたが、幸子に瓜二つのさちこという女性がいて、それだけが四郎の救いでした。そんな「天上園」へ田村も矢島夫妻も、引き逃げた男の愛人や母親までもがやってくるのです。そして・・・。

とまぁ、お楽しみの?阿鼻叫喚の地獄絵図の前に、四郎の良心の呵責にさいなまれ続ける苦悶の姿をながーく演出します。確かにそんなアホな、都合よすぎですという展開もなきにしもあらずですが、偶然の連鎖なんて映画ではつきもの、この作品は次々自分がかかわる事によって人が死んでいくという、人間らしい四郎の辛い苦悩と、メフィストというか死神というか悪魔に魂を売り渡したかのごとく、人間の善なる心などかけらも感じない田村との対比が重要だと思うので、これくらいパンチの効いた展開の方が納得もしやすいというものです。それくらい魑魅魍魎が住み着いているかのような、大なり小なり皆罪を犯した胡散臭い人々が出てきます。

主演の天地茂は、私が若い時は「非情のライセンス」や土曜ワイド劇場枠の明智小五郎ものなどの印象が強く、ダンディでクール、眉間の皺も渋い印象が強いのですが、若かりし頃のこの作品ではなんと純情可憐なことか!洋子との行為の後、横で女が下着姿なのに、彼はもろ肌ですがピチッと布団を胸までかぶり、まるで処女喪失のようでした。ウジウジもがくも、これでもかの不運のつるべ打ちになすすべもない姿は、少々阿呆ですが同情と共感も湧いてきます。

対抗する沼田曜一も素晴らしい名演技で、これを怪演と称しては申し訳ないくらい。観客に忌み嫌われる役のはずが、ピカレスクロマンの主人公のように魅力たっぷり。人間の欲望と本能のまま生きる田村をデカダンスに演じて軍配は彼に。最高でした。白髪頭でない沼田曜一も久しぶりに観た気がします。

ヒロイン三ツ矢歌子は、私が子供の頃「ハイミーの綺麗なおばちゃん」として、こんなに美しい中年女性はいないと思わす美貌でしたが、この作品の若い頃より中年期の方が美しいです。なんと言うか、若い頃は艶が不足しています。しかし純白の汚れのない掃き溜めに鶴のような役ですので、世間知らず風の美しさはマッチしていました。

つり橋を逆さまに撮ったショットは一瞬めまいを覚え、恐怖心を煽りました。地獄の様子はさすがに今見るとチープですが、当時は少ない予算の新東宝でこれだけのものを見せるのは、やはり美術がしっかりしていたのでしょう。今でも充分鑑賞に耐えます。閻魔大王にあの嵐寛寿郎、ナレーションに若山玄蔵を持ってきたので、ケレンさの中に重厚さがありました。無意味に出てくる半裸の女性は、やっぱり当時の状況を考えると、単なるサービスショットかな?

他の人はわかるのですが、鶴の三ツ矢歌子まで地獄に落ちるその理由に、そんな不可抗力で地獄行きなら、人類皆地獄行きだなと思わせます。私が以前聞きに行った講演で、「知って犯す罪と知らずに犯す罪はどちらが重いか?」というお話があり、正解は知らずに犯す罪。例えば熱い物を熱いと認識して持てば火傷も軽いが、知らずに持てば重傷の火傷になると言うことらしいです。聞く以前は、知らんかったんやから、しゃあないやんと、半ば開き直り気味に逆の解釈をしていた私は、当時このお話にとても感心したものです。なるほど、この作品でも人間としての善や誠を見捨てなかった四郎と、それに背を向けた田村を人として無知ととらえれば、最後の三ツ矢歌子の成仏する姿は、納得がいきます。何度も出てくる傘の演出がセンスが良くて印象的です。地獄絵図より生きている人間の方が怖いと印象に残る、なかなか見応えのある作品でした。




2005年04月07日(木) 「大統領の理髪師」

昨日心斎橋のパラダイススクエアで観て来ました。シネマ・ドゥの閉館以来、ミナミで映画を観るのは久しぶりです。ここは好きな劇場ですが、おばちゃんには気後れするアメリカ村にあるのが玉にキズです。レディースデーと言うのに館内は20人ちょっとで、2週間で上映打ち切りらしいのですが、それもやむなし。暖かい笑いの中に時代を時には鋭く、時には柔らかく風刺した、味わい深いええ作品やなのになぁ。

1960年代の韓国の大統領官邸のお膝元のとある町。そこで理髪店を営むソン・ハンモ(ソン・ガンホ)は、強引に結婚したミンジャ(ムン・ソリ)と一人息子ナガン(イ・ジェウン)と共に、慎ましくですが平穏に暮していました。ある日大統領側近が彼の店に現れたのがきっかけで、ハンモは大統領の理髪師として、官邸に出入りするようになります。庶民では考えられないような出世に、町の人々も彼に一目置くようになります。しかしそんな彼らにも政治の渦は容赦なく襲い掛かり、ハンモ一家も、不幸な出来事に巻き込まれてしまいます。

時代はおもに李王朝の流れをくむ李承晩(イ・スンマン)大統領の末期から、軍事クーデター後大統領選に出馬、のちに独裁者と言われた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺されるまでの時代が描かれます。ハンモが散髪をしたモデルも朴大統領です。私は朴大統領が側近のKCIA幹部に暗殺された日をよく覚えています。私の18歳の誕生日である1979年10月26日だったからです。ちなみにKCIAは朴大統領が創設しました。彼が在任時の1976年に渡韓した事のある私は、昼はそれなりの賑やかさの町が、戒厳令発令の12時前後は水をうったような静けさで、確かに物々しさを感じたものです。11時過ぎにタクシーに乗っていて、運転手さんが「早く着かなくちゃ」と韓国語で父に語り、スピードを出してホテルまで届けてくれたのを覚えています。

私がびっくりしたのは、この時代の軍事政権を批判する作品は、押しなべて強烈に弾圧したり皮肉ったりする感じを受けたのに、コメディ仕立てにしてあるにしろ、とても優しいのです。町の人々も大統領のお膝元に暮すことを誇りに思い、国に対する忠義心のあまりの愚かさも、ユーモアに包んであるのでむしろ実直ささえ感じます。それでいて「韓国は民主主義の国だ。学校で教えてもらっただろう。」と警官に言わすのに、密告を強要したり、たとえ小さな子供だろうと容赦なく拷問にかけたりします。大統領官邸に両親とともに食事に誘われたナガンが、父を馬鹿にする他のエリートの子達を負かせたのに謝るシーンも、階級の違いによる理不尽な怒りに耐えた庶民の姿を的確に表現しています。

しかしその怒りもどうも人に向いているのではなく、時代に向けての怒りのようです。その証拠に、この作品で描かれる朴大統領と思われる人物は、端正な容姿に聡明さと温厚さを持ち合わせているよう描かれ、キャスティングも容姿端麗で押し出しもきくチョ・ヨンジンです。近年今の韓国の経済的発展は朴大統領の功績という歴史の再認識があると聞きましたが、この作品で描かれる限り、それが見てとれます。そういえば在任中は独裁政権と悪評ぷんぷんだった朴大統領ですが、人となりは高潔だったようで、彼以降に大統領になった人たちのように、金銭スキャンダルはないようです。

大統領を間にはさみ反目する側近二人も、高圧的ですが権力者の小賢しいいやらしさより、やり方は間違っていても真に国を憂いて良き国にしたいとの熱い思いは伝わってきます。大統領の葬儀の際、膝を着き深々と頭を垂れる韓国式の死者への弔いをするハンモ。このシーンなのですが、前にお焼香した人はお辞儀をするだけだったと思います。韓国式のお辞儀を求める時は、靴をはいての場所の場合、下に敷物があるはずなので、それがなかったということは、服を汚してまで自分の中での精一杯の哀悼の念を示したかったハンモの、大統領への偽りのない真心のこもった敬愛が感じられます。

「フォレスト・ガンプ」を彷彿させるシーンが出てきますが、「〜ガンプ」がアメリカ史を寓話的に描いていたのと同じ香りを、この作品にも感じます。そしてそれに拍車をかけるのが、数々の懐かしいエピソード。ハンモが息子の名前をつけるのに占い師に診てもらいますが、韓国人はとても名前を大切にし、ちゃんと親の名前や本人の生年月日を入れ、大半の人が専門家につけてもらうのです。私や夫、子供達もそうです。ナガンも飲まされた怪しげな煎じ薬ですが、これは私にも思い出が。よく腹痛を起こす私に、ある時期日本で暮らしていた曾祖母は、何やら半紙にまじないを書いたかと思うとそれを燃やし、何かで煎じてコップ一杯飲まされました。それで本当に治ってしまうのです。そんな非科学的なこと、今は韓国でも在日でもないのでしょうが、当時の韓国は健康保険制度が確立しておらず、昔からの漢方薬は元より、まじない・祈祷がまかり通っていたはずです。今の発展した時代からは考えられないようなことですが、韓国で大ヒットしたのは、こういったエピソードの数々に、当時の怒りだけではない、良きこともあったのだという懐かしさを、観客に思い起こさせたからに感じました。

ガンちゃんとムン・ソリは言わずもがなの好演ですが、ナガンを演じるイ・ジェウンがとても良いです。父の愚かな忠義心のため歩けなくなったナガンですが、一度も父を責めません。父に背負われ治療法を求め全国を歩いたナガンですが、二人のお互いを思う愛の深さを感じさせ、父と息子の人生での一番の日々のような、柔らかな光を感じさせました。

竹島問題で日の丸を燃やす韓国の人をテレビで見ながら、やっぱり私は韓国では暮せないなと苦笑いしていましたが、この作品のような成熟した過去の振り返り方が出来る民族なんですもの、あの放送はきっと一部の人だけ、マスコミが誇張しているのかもしれない、そんなことを思わせてくれる作品です。監督・脚本はこれが初演出のまだ36歳のイム・チャンサン。次もとても期待出来そうです。



2005年04月03日(日) 「エターナル・サンシャイン」

才人チャーリー・カウフマンが脚本です。カウフマン作品は、この作品の監督ミッシェル・ゴンドリーが携わった「ヒューマン・ネイチャー」以外は全て観ています。大変話題になり高評価だった「マルコビッチの穴」は、才気溢れる作品だとは理解は出来ましたが、どうもツボが私と合わず楽しめませんでした。しかし次に観た「コンフェッション」は、胡散臭さ満点ながら妙な魅力のある作品で、煙に巻かれてやろうじゃないかと、楽しみました。そして「アダプテーション」は、前半退屈でやっぱ合わない人かなぁと思っていたら、後半の怒涛の展開に、おぉそういうことかと感激。段々と私の中で評価の上った人です。今回は芝居巧者のジム・キャリーとケイト・ウィンスレットの共演の恋愛ものということで、すごーく楽しみにしていました。結果今まで観たカウフマン作品の中で、初めて大好きだと言える作品でした。

バレンタインデーを目前に、ジョエル(ジム・キャリー)とクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)のカップルは、ケンカ別れしてしまいます。仲直りしたかったジョエルですが、ふとしたことからクレメンタインが自分の記憶を消したと知ります。カッとしたジョエルは、自分も彼女の記憶を消そうと、彼女ど同じラクーナ医院を訪れます。一晩で彼女の記憶は消え去るはずでしたが、彼の脳は、必死になって彼女の記憶を守ろうとするのです。

最初大まかなストーリーだけを頭に入れて臨んだので、二人の出会いから描くのかと思いましたが、ちょっと「メメント」風に、時間を遡って描いています。時々「現在」が挿入されるのが味付けです。わかりにくければ、個性的なクレメンタインの髪の色で見分けられます。合計三色ですが、それで彼と彼女のその時の関係がわかるようになっています。

ジョエルの脳からクレメンタインの記憶を消し去る装置から、彼の脳が逃げ回るシーンに半分以上費やしています。この辺りがカウフマンの真骨頂と言う感じで、ユーモラスだったりドキドキしたり、意表をつく表現が満載です。「マルコビッチの穴」でもこのような表現方法はありましたが、あまりに才気走った感じが馴染めなかったのですが、ちょっと冴えなく感じていたファーストシーンの二人が、どんどん生き生きする様子に、今回は好感を持ちました。

設定にしてはいくら演技に定評があるといえ、主役二人はちょっとトウが立った人ではないかと思いましたが、その後描かれるラクーナ医院の若い受付嬢メアリーのエピソードは、切なさを越えて心がうずく痛さを感じます。恋愛に付きものの切なさ愛しさには、年齢などまるでないのだと感じ、恋愛ものと言うと、どうしても若い人向きという概念を払拭してくれる脚本とキャストでした。

そのキャストですが、ジム・キャリーが渋く落ち着いた感じで、とても印象が良かったです。またしてもオスカーのノミネートすらないのが不思議なくらいの好演でした。ケイト・ウィンスレットは、私はこういう不思議チャン系の役は不似合いだと今でも思っています。それでも破天荒なのに純粋さを持ち合わせるクレメンタインを絶妙に好演して、改めて上手い人だと感心しました。メアリー役のキルスティン・ダンストは、「スパイダーマン」シリーズでは、失礼なヒロインブス説があちこちで聞かれましたが、この作品ではとても魅力的でした。最初のイマドキの若い子風から、恋に疲れた女心を見せる終盤まで、キルスティンだからこそアピール出来た役だったと思います。

特筆はラクーナ医院の助手役イライジャ・ウッド!ストーカーまがいの青年で、客のクレメンタインに恋します。ちょっと気持ち悪い男の子役を、あの「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズの後に選んだ彼にびっくりするやら感心するやら。フロド役はホビットなので小柄な彼も引き立ちますが、綺麗だけど濃いお顔と小柄な体からは、年齢からはいささか未成熟な感じがする彼が、その自分の個性を逆手にとっての怪演は好感すら感じ、自分を良く知るクレバーささえ感じました。今後もすごーく期待してます!

記憶は消えても、人の感情は消えるものではないという結論に、月並みですがとても胸をうたれました。ラスト再会する二人が、お互い相手の罵詈雑言を吹き込んだテープを全部聴いて選択した結果には、反省して学習した二人がいました。

あんまり書くとネタバレになるので、これ以上は書きませんが、今までのカウフマン脚本では、一番万人向けの作品ではないかと思います。多くの方に観ていただきたいです。とても大好きな作品です。


ケイケイ |MAILHomePage