ケイケイの映画日記
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2005年01月30日(日) 「エレファントマン」

生誕25周年でリマスター版のこの作品を、「エイプリルの七面鳥」の前に、同じテアトル梅田で観てきました。誰もがタイトルぐらいは知っている不朽の名作です。当時、デビッド・リンチはまだ「イレイザー・ヘッド」一本撮っただけの新人監督で、これで一気に世に名前が出ました。製作はメル・ブルックス。社交界のリーダー格ケンドール夫人役で出演の、アン・バンクロフトは夫人です。初見当時は、人間の尊厳の描き方に感動して泣きまくった私ですが、どこをどう感動したか思い出せず。それで今回は思い出すだろうと思っていましたが、だいぶ感想が違うのです。180度とは言いませんが、90度くらいは絶対違います。それは何かと言うと・・・

初見の時この作品を観たかったのは、障害者の人間の尊厳を描いて、ヒューマニズム溢れる感動作と謳われていたからです。しかしそれと同じくらい、エレファントマン=ジョン・メリック(イアン・ハート)の姿形がどうなのか、俗人丸出しでとても興味がありました。そう、見世物小屋に集まる観客といっしょです。当時はそれは恥ずかしいことだから、自分の正直な気持ちを見ないようにしていました。

何故その事を思い出したかと言うと、彼を一見助けるように見える人たちが、私と同じ視線の偽善者に見えるのです。ケンドール夫人など、初見の時は純粋な心でメリック人に接する人に感じました。しかし今回は初めて会うとき、自分のポートレートをプレゼントしたり、いくらメリックの文学的教養に感激したとしても、あれほどの容姿の彼に、初めて会ってキス出来るでしょうか?トリーブス教授が、学会で彼を標本扱いして、医学者の前で彼をさらす時、生殖器は完全であるとセリフにあります。21歳の若者であるメリックに対し、何か弄んでいるように感じるのです。一人の人間としてではなく、可哀相な奇形の障害者という気持ちが高じてのキスではなかったか?彼女にとってメリックは、自分がいかに崇高な人間であるかを感じる道具に過ぎないように見えます。そしてその事に全く無自覚でもあるのです。

トリーブス教授(レクター博士になるずーーーと前のアンソニー・ホプキンス)も、婦長(ウェンディ・ヒラー、立っているだけで英国女性の沽券と頑固さを感じさせて最高!)に、「あなたは見世物小屋の親方といっしょだ。」と言われ、思い悩みます。妻にはメリックの知らない世界を見せ、劣悪な環境から救ったではないかと慰められますが、家にメリックを招く時、彼は子供達のショックを思い図って、外出させます。本当に心の底から彼を受け入れているなら、そうするでしょうか?確かにメリックに対し、偽善だけではなく情も愛も感じられる教授ですが、演劇の舞台を観た時、ケンドール夫人がメリックを親友と紹介して自己満足(と私には見える)した時、「立てばいいんだよ。」と彼を促し、自分も満足していました。

これがメリックの幸せ?、私は彼を差別していないと勘違いしている人たちの、好奇と憐れみの目に曝されることが幸せ?清潔な部屋と暖かいベッドと食べ物、そこには確かに情も愛も介在していますが、やはり見世物小屋と変わらないのではないでしょうか?

病院の雑役夫が、夜な夜なメリックを見世物にして小金を稼ぎますが、何故彼が教授や婦長に訴えなかったのか不思議でしたが、きっと自分に対する扱いは、全て受け入れることで彼は今まで生きてこられたのでしょう。そんな彼が追い詰められて発する「僕は動物なんかじゃない、人間なんだ!」の叫びには、やはり慟哭してしまいます。

メリックは、教授やケンドール夫人やその他の人々の偽善にも気づいていたのではないかと思います。ラストの行為は、本当の人間としての尊厳は自分の手で、というメリックの行動にも現れています。しかし無自覚であったり、思い悩む質のものであっても、周囲の人々の彼に対する気持ちは、善意には間違いありません。メリックは偽善を捨てて、感謝しながら善意を受け取ったのだと思います。その心がメリックの手作りの塔ではなかったでしょうか?半分だけでも塔の見える場所に連れて来てくれた人たち。下半分は想像で作られましたが、本当にメリックが過ごしたかった生活は、その下半分にあるように思いました。

教授の家にメリックが招かれた時、必死で同様を隠し彼と握手する夫人に、美しい自分の母の写真を見せるメリックが、「こんな美しい母が、自分のような子供を産んで、さぞ失望させてしまったでしょう。」と言った時、夫人は心の底からの涙を見せます。そして私も泣きました。こんな体に生んでしまってと自分を責めても、母親は絶対そんな事は思いません。メリックだけでなくその言葉から、息子と生きられなかった彼の母の悲しさまでも感じてしまいました。

私の今回の解釈があっているのか、間違っているのかわかりません。ただ人間として尊厳を持って生きるとは、とてもひとことでは言えないのだと思います。そして生半可な同情や憐れみは、きっとそうされる側の人には見抜かれるのでしょう。私は末っ子が20歳になれば、障害者の方たちを手助けするボランティアがしたいと思っていますが、何故そう思うのか、今一度自分にしっかり問いかけたいと思います。


2005年01月27日(木) 「エイプリルの七面鳥」

昔から仲の悪いママ(パトリシア・クラークソン)と長女エイプリル(ケイティ・ホームズ)。今娘は家を出て誠実そうだが黒人の男性と同棲中。しかし母親は病気で余命いくばくもない。そうと知ったエイプリルはママのため、感謝祭の日に家族全員をディナーに招待し、七面鳥を焼くのに奮闘します。と、ただこれだけの映画です。本当にこれだけ。それもたった80分。しかし私は観終わったあと、電車の中までしばらく涙が止まりませんでした。今日は先にリバイバル公開の「エレファント・マン」を観たのですが、個人的に軍配はこちらに。私の好きな「ギルバート・グレイプ」「アバウト・ア・ボーイ」の脚本を手がけたピーター・ヘッジズが、今回初監督で脚本も担当しています。

冒頭の演出が上手いです。エイプリルは早くディナーの用意をしなければならないのに、いつまでもグズグズしてベッドから出てきません。家族に会いたいのに、今までのことを考えると、本当に来てくれるのか気が重いのです。ママはみんなまだ着替えもしていないのに、身支度を整え車の中です。後のシーンでは散々エイプリルの悪口を言ったり、悪意のある言動をするのですが、この冒頭のシーンがあるため、それは彼女の本心ではなく、娘に対する愛情の裏返しだとわかります。

心暖まる筋立てだけかと言うと、これがスリルとサスペンスたっぷりです。どんなサスペンスかと言うと、エイプリルは七面鳥を焼こうとするとオーブンは壊れており、必死になってアパートの各部屋を回って、オーブンを貸してくれる家を探します。どの家が貸してくれるか、ハラハラドキドキ。各々住人が個性たっぷりで楽しいです。神経質で理屈っぽい人、情の厚い黒人夫婦、菜食主義の青白い婦人、仲の良い中国人家族など、アメリカの縮図のようです。そしてスラムのど真ん中です風外観の汚いアパートも、ひとたびドアを開ければ、その家の住人の温もりを感じます。アメリカの中流家庭であるエイプリルの家族をフィルターにし、柔らかく差別感をたしなめているようです。

家族の方も中々エイプリルの家までたどり着けません。道がわからなかったり、途中でリスを轢いてしまい、きちんとお葬式?したり。そしてママの体は絶不調。大丈夫だと言いながら、車を止めてはトイレに駆け込み吐いています。最初は何の病気かわからないのですが、何回目かに吐いた時、頭がずれかつらだとわかります。そうか、抗がん剤を打っているのか・・・。そしてアルバムの中の胸を切除した写真を映し、乳がんだと観客に知らせます。ずっと娘の悪口を言い立てるママは、余計病気が悪くなるからエイプリルには会いたくないと言い出しますが、本当はいやいやを装っているだけです。

ママを演じるクラークソンが素晴らしい!こんな風に接していたら娘がひねくれても仕方ないような、憎々しげに娘を語る彼女ですが、上の空で他の子供と接する様子、気味悪いほど冷静だったり感情を爆発させたりの繰り返しの中、一度たりともエイプリルを褒めたり愛しているとセリフにないのに、誰よりも彼女に会いたい気持ちが伝わってきます。

年の近い子供3人、小さい時は育てるのに大変なんです。母親だって、子供を生んですぐパーフェクトな親になれるはずもなく、段々親になっていきます。一番上のエイプリルは我慢することも多かったでしょう。厳格だけれど賢いママは、きっとその事に気づいているはず。私が悪かったと。しかし娘のタトゥーやピアスだらけの姿を見るとカッとなるのです。他の子はちゃんとしているのに、何であんただけ!と。この辺の微妙な母心を、クラークソンは絶妙に演じていました。

ケイティ・ホームズは、ハツラツとした明るいアメリカ娘の雰囲気がいつも好ましいです。この作品では家族と相対するシーンはほとんどないのに、ママに対する素直な気持ちを表せない様子がとても切なく、何としても家族に会って欲しい願わずにはいられません。人気急上昇中のホームズは、愛らしいだけでなく実力も兼ね備えているようです。

その他家族と会うのをためらうエイプリルを、ずっと後押しして支えていたであろう恋人ボビー、良妻賢母の妻まかせだった家庭を、死期の近い妻のため大黒柱として踏ん張ろうとするパパ、息苦しさが包む家庭を、風通し良くする飄々とした弟、優等生で頑張り屋なのに、ママの愛を独占出来ずエイプリルに嫉妬する妹など、エピソードや細かい描写などで、よくも80分の中にきちんと整理出来たなと、本当に感嘆してしまいました。個人的にはママの実母が痴呆気味という設定に切なさと優しさを感じてしまいます。子が親より先に逝ってしまうほど、親不孝はありませんから。

サスペンスの後のラストは予測通りですが、その様子が一枚一枚スライドのように表現され、あざとさがなく好感が持てます。それはやがて亡くなるママとの思い出になるだろうと理解出来ます。

映画は時間やお金ではないなあと、今日は本当に思いました。私も母親がガンで亡くなっているので、今日はちょっとしんみり。勝手に離婚して、親兄弟と縁を切って、まだ幼児二人を抱え夫に気兼ねしながらの私に、難題や世話を全てしょいこませておきながら、口に出して心配するのは結婚していなかった妹のことばかり。襟首掴んで、あんたそれでも母親か!と言いたかったのを何度飲み込んだことか。上の二人が何とか大人になった今、もし私がガンになったら、私の頭は末っ子の心配だらけのはず。今になって母の気持ちがわかります。夫に抱かれてたしなめられるクラークソンを見て、夫のいない母の心細さを、察してやれなかった自分を悔いています。本当に襟首掴まなくて良かった。


2005年01月21日(金) 「約三十の嘘」

昨日観てきました。大阪の公開は今日までなので、ぎりぎりセーフでした。最近は公開後すぐか、ぎりぎりかが多いです。公開前は割りと期待していましたが、評価がさほど上がらず期待値が下がってしまいました。でもそれが良かったようです。ちょっと息抜きに気楽に観られました。

かつてチームを組んでいた詐欺師達。落ちぶれてしまった元リーダー志方(椎名桔平)、才色兼備の宝田(中谷美紀)、アル中の若手佐々木(妻夫木聡)が、メンバーでは目立たなかった久津内(田辺誠一)に声をかけられ、又仕事を組む事になります。今回は現在の宝田の相棒横山(八嶋智人)と、チームが分裂してしまった原因を作った今井(伴杏里)も加わって、総勢6人。小ざかしい詐欺商法を企んでいます。しかし、仕事を終えた帰り、トゥワイライト・エキスプレスの車中、現金七千万円の入ったトランクがすりかえられます。そして犯人探しが車中で繰り広げられます。

面白いっちゃ、面白いです。まず登場人物のキャラが全て立っている。志方と佐々木がもう一つわからないですけど、椎名桔平とブッキー(と呼ぶらしい。相変わらず良い)が演じるので、きっとこういう人なんでしょうと、検討が付けやすいです。私の御贔屓中谷美紀は、今回もクールな美貌で知性も感じさせますが、やっぱり温かく女らしいし、軽薄で一番詐欺師っぽく見える八嶋も、鬱陶しいお調子者を演じて良かったし、頭良さそうだけど実践はダメ、気弱でどこから見ても詐欺られそうな田辺誠一が、私は一番良かったです。ミルキーちゃん・伴杏里は棒読みでヘタクソ。でもちょっと鼻が天上を向いた男好きする可愛いお顔と巨乳と、男に媚びさえすればほとんどOKの役なので、気になりませんでした。と言うかこの子覚えておこうと、私は結構気に入りました。でもなぁ・・・。

全体にメリハリにかけ、誰が犯人か、各々疑心暗鬼になる様子も薄っぺらく、心理作戦で目星をつけて追い詰めることもなく、各自自分の内面を見つめるようにはなるのですが、それも詰めが甘いので、こちらに届きません。
テーマは二流賛歌とでも言うか、生き馬の目を抜くような世界で、人を蹴落として一流になっても孤独が待っているが、二流でも好きな事に熱意を傾けられて、仲間も友情もある方がいいぜ!みたいな感じだと思うのですが、でもこの人たちって、ちんけな詐欺師なんです。それはちょっと無理があります。

市井の人々を騙して、不良品の羽毛布団を売って一儲けして喜んでいるような輩に、宝田に「もう一度みんなで頑張りましょう、私たちなら出来るわ!」と熱弁ふるわれても、あんたこそ美貌と知性の無駄使いだよと思ってしまいます。これが悪徳政治家や会社を相手に詐欺をする、社会的弱者を救う詐欺なら共感出来たんですが。ぬるくゆるくちょっと笑わせて終わりの感じです。役者はみんな良かったんで、脚本をもうちょっと練って欲しかったです。

どんな手口で詐欺をするのか語られていませんでしたが、そういうシーンや語りがあれば、ふんふん、気をつけようとなるので、あっても良かったかなと思います。エンドクレジットの最後にまたもでかでかと出た、「支援・文化庁」。「恋の門」の時は、おぉ〜やるやんと思いましたが、この作品ではあんさん、大きな勘違いでっせと思いました。


2005年01月19日(水) 「ネバーランド」

うーん、うーん・・・、うーん!!良い作品です。間違いありません。私も何度も涙ぐみましたし、万人にお薦め出来ます。ですが、巷で噂される大傑作とは私は思えませんでした。期待しすぎたかなぁ。今日はネタバレ含みますので、御注意下さい。

1900年初頭のロンドン、劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)は、新作の出来を酷評され憂鬱です。そんな時散歩の出た公園で、無邪気に騎士ごっこに興じる4人兄弟とその母シルヴィア(ケイト・ウィンスレット)と知り合います。彼女は未亡人で、現在は社交界では名が知れた実母デュ・モーリエ夫人(ジュリー・クリスティ)の庇護の下、暮しています。兄弟たちと親交を深めていく夫に、妻メアリー(ラダ・ミッチェル)は疎外感を感じますが、バリはそれには気づきません。やがてバリとシルヴィアたち親子は、世間からよからぬ噂を立てられ、ますますメアリーの孤独は深まります。そんな時幼い時の自分を、空想することを拒絶する三男ピーターに重ねるバリは、新作のタイトルに君の名前を使っても良いかと尋ねます。喜びに顔をほころばすピーター。バリが新作の準備に追われる中、シルヴィアたち親子の身の上には、重大な問題が起っていました。

ストーリーの流れに問題はなく、観客に向けてのメッセージも心温まるものです。「信じれば嘘のことも真実になる。」は、私の大好きなジョージ・ロイ・ヒルの「リトル・ロマンス」の中でのローレンス・オリビエの言葉です。それに通じる心で考え心で目の前の物を観ること、そして強く願う心が人生での糧になる、と言う描き方には肯く事が出来、素直に共感出来ました。

子供達とバリが遊ぶシーンは、想像のファンタジーシーンがふんだんに使われ、とても楽しいです。子供が遊んでいるのを見て、何て楽しそうで豊かな想像力だろうと、感じた大人はおおいはずです。ですが自分だってそうだったはず。それをとっくの昔に捨て去っているだけです。だから、最初は好奇心から(に見えた)彼らと遊んでいたバリが、いつしか良い脚本が書けない憂鬱から脱出し、触発される過程は、観ていてこちらもときめき、バリは「自分が遊んでもらっている」と語ります。

新作の舞台「ピーターパン」に、25人の孤児を招待し、ハイソな大人たちの間に座らせる趣向も良いです。空想する楽しさを失った大人たちには、子供達の無邪気に喜ぶ姿は、大いに子供だった頃を思い出させるはずと言うバリの読みは大当たり。これも兄弟たちとの交流から学んだことです。

4兄弟は、大人の入り口に立ち母を支えようとする長男、感受性が強く育てるのに苦労はするけど、誰にもない個性を持つ三男ピーター、ひたすら愛らしい四男と、それぞれお行儀の良い描き方で好感が持てます。次男に一エピソードが欲しかったですが。と、物語の本筋は文句がありません。私が傑作と思わなかったのは、以下に書く言わば枝葉の部分です。

クリケットの試合に招待された時、バリとシルヴィア親子の関係が噂になっているのは、二人は知らなかったとします。しかしその後、狭い世間のこと、バリだけではなく、シルヴィアの耳にも入ったはず。なのに「奥様は御承知なの?」と一応聞きますが、バリの別荘に招かれ夏中過ごすのは、かつては夫のある身であった人としては軽率です。そして重篤な自分の病気に対しての考え方も疑問があります。入院しても夫は治らなかった苦い思いがあるので、このまま命が尽きるまで子供達といたいと言うのは、描写からわかります。ただ母親まで死なれたら子供たちは?と思います。どんなに低い可能性でも、普通は根治に気持ちは向くのではと思いました。バリに「私にふりをしろと教えたのはあなた。あなたが本当の家族だと信じたい。」と言うセリフは、女心を切々と訴えて心に残りますが、ならば何故死と隣り合わせの病気を、治ると信じなかったのでしょう?聡明で豊かな母性愛を感じさせるシルヴィアを、ケイトが好演していただけに残念に思いました。

バリにも疑問が残ります。普通他人の子が愛しいと思うなら、妻がいるのだから、自分の子供を欲しがって当然ですが、彼にはそんな素振りは見えません。彼には子供がありませんでしが、望んでも叶わなかったのか、いらなかったのか、その辺の描写はありません。夫婦は寝室を別にしていましたが、真っ暗な寝室に入るメアリー、明るい野原のような情景に入っていくバリの対比は、二人の心を映しているだけではなく、セックスレスも表していたように思います。ラスト近く、唐突にシルヴィアを愛していたと語るバリですが、男性として彼を愛していたシルヴィアに対し、女性としてより友情を感じます。妻メアリーもシルヴィアも、バリにネバーランドは連れて行ってもらうのが願いでしたが、実現したのはシルヴィア。何故メアリーではなかったのか、私には明確に答えが見出せず不満でした。

そして一番重要なのは、確かに手堅い演技でしたが、この役のデップにあまり魅力を感じなかったのです。あんな駄作の「シークレット・ウィンドウ」ですら、彼の魅力は際立っていたのに、この役は彼でなければとは感じません。トム・クルーズでもディカプリオでも、ニコラス・ケージだって想像出来てしまいます。彼と相性の良いティム・バートンならどうだったろうと、作風も相まって、少し思ってしまいました。

この二人に比べて、妻メアリーは理解も共感も出来ます。妻と言うより夫のマネージャーの如く、表立って内助の功で尽くすメアリーですが、それも変わりゆく夫婦関係に、夫にとっての自分のベストの立場を模索してのことで、本心はシルヴィア親子のように、笑いと安らいだ気持ちを夫と分ちたかったと思います。そして家でもいつも寸分なく着飾っている。乾いた心を隠すようです。演じるのが、安定した演技を見せますが、華に欠けるラダ・ミッチェル。洗いざらしの服をまとっても、今回も白百合のような清楚な美しさのあるケイト相手では、バリの心も揺らぐだろうと思わせます。しかし、夫の気持ちを掴みあぐねて、彼の日記を盗み読むシーンでの、普段着姿のメアリーは、とても美しいのです。シルヴィアのような日常を送っていれば、彼女も豊かな美しさを放つ人ではなかったか、そう感じました。バリと別れた後、「ピーターパン」の初日に駆けつけたメアリーが、「あなたにこの話をかかせたのは、あの人たちよ」と、そっとバリにキスするシーンは、妻として自分では果たせなかった無念さより、心よりバリを思う気持ちが現れ、良いシーンでした。私の疑問は、メアリーを的確に演じたラダ・ミッチェルから引き出された部分が多く、「マイ・ボディガード」での意外な好演と相まって、すっかり彼女のファンになりました。

こういう枝葉の部分の良し悪しが、作品の印象を左右する場合が多いと思いますが、あくまで私が引っかかっただけのこと。多くの方は、返って胸に沁みたり取るに足らない部分かと思います。何故私は映画が好きなのだろう、映画を観るのだろう、そんなぼんやりとした思いが、そうなのか、生きる希望やくじけない心が欲しかったのかと、ラスト、信じれば亡くなった母が見えると答える、ピーターから教えてもらいました。良き作品であることは間違いありません。どうぞたくさんの方、ご覧下さい。


2005年01月16日(日) 「夫婦善哉」(日本映画専門チャンネル)

昨日夫婦(めおと)で観ました。(いやホンマ)。本当は「ネバーランド」を千日前セントラルまで観にいく気だったのですが、土曜日が来てとホッとしてしまい、何も初日から行かんでもええか、とグダグダしていてケーブルテレビをつけると、ちょうどこの作品が始まるところでした。そうや、ビデオに撮ろうと思って忘れとったんや、今日はしんどくて得をしたと、たまたま家にいた夫と共に鑑賞しました。

北新地の売れっ子芸者蝶子(淡島千景)は、船場の大店の若旦那柳吉(森繁久弥)と熱海へ駆け落ちします。柳吉には病に臥せった妻、13の一人娘光子もおり言わば不倫。中風でやはり臥せっている柳吉の父親は怒り、柳吉は勘当されます。ぼんぼん育ちの若旦(わかだん)さんの柳吉に生活力はなく、かつての先輩芸者の下、蝶子はヤトナと言われる雇われ芸者になります。一所懸命働き貯金をして、二人で店を開こうとする蝶子ですが、湯水の如く使ってしまう柳吉。いつまでも親の金を当てにする彼の情けなさに、怒ったり泣いたりしながら、蝶子は晴れて妻となる日を夢見て尽くします。


昭和30年度の作品です。当時の大阪弁が良いです。今の少々ガサツな大阪弁ではなく、浪速言葉とでも言いたいような風情です。ユーモラスでありながら品良く柔らかい、耳に心地よい言葉で、それを使うのは大阪に馴染みのある俳優さんばかりで、方言を使う作品は、御当地のものにとっては白けることも多々ありますが、この作品では古き良き大阪弁のはんなりさに、大満足出来ます。

森繁がとにかく素敵。とんでもないダメ男で、特別ハンサムではありませんが、ユーモラスで愛嬌があります。柳吉の育ちの良さと、潤沢に遊びに使えるお金があったはずで、それで身に付いた華やかさを感じさせました。遊び癖を責められたり、宙ぶらりんの自分の立場をどうしてくれるのかと、蝶子に責められ逃げ惑う姿など、当たり前やでとはならず、こんなに女に尻に敷かれて、この人優しい人なんやわと、私まで煙に巻いてしまうほどで、蝶子ならずとも魅かれてしまいます。所々これはアドリブではないかと思う箇所があるのですが、それが絶妙な間で、本当におかしいです。

蝶子は健気に柳吉に尽くすけれど、柳吉に冷たい彼の実家に「あの人は私が立派な一人前の男にしてみせます!」と啖呵を切る気の強さも魅力です。演じる淡島千景は大変美しいです。蝶子は柳吉の妻が亡くなったら後釜に座ろうと思っていたわけではなく、柳吉本人を愛していた、というより惚れていました。だからパンツ一丁で放り出されたみたいな柳吉に、身も心も尽くせたのでしょう。柳吉にとっても、自分の後ろの財力をあてにしない女など、素人玄人問わず、今までいなかったのではと思います。心から妻と呼ばれる日を切に待って柳吉に尽くす蝶子が切なくて、時々涙ぐんでしまいます。

こんな別嬪さん、この親から生まれるかい、というような御面相の蝶子の両親ですが、如何に蝶子を育てる時気を使ったかと柳吉に語る姿に、貧乏な家の器量良しの娘にかける、経済的な期待が感じられるのが切ないです。しかし、柳吉の実家にいつまでたっても嫁と認められない娘を不憫に思い、心だけでも暖めてやりたい親心が滲みます。それに対して、柳吉が病気をしようが蝶子が息子にどんなに尽くそうが、一切無視する冷酷な柳吉の実家は、体面を全面に重んじ、使用人に対してのみみっちい態度や、蝶子の父に「相手は船場や。どうしようもない。」と語らせるなど、当時の大阪の庶民の特権階級だった船場の大店を、批判していると感じました。

そんな中で司葉子扮する柳吉の妹筆子は、初対面から蝶子を「姉さん」と呼び、「今では姉さんがよう尽くしてくれてはると、お父さんも喜んではります。」と、嘘をついて蝶子をねぎらいます。母親と兄嫁に死なれ、家を継いだ兄は放蕩、婿養子をとるはめになった筆子に、今では忘れられがちな、家を守る女性の美しさを感じました。船場の大店だって、男だけが仕事をしていたわけではなく、筆子のような気配り利かせる女性の存在は大きかったはずで、見習いたいと思いました。

芸者とは芸のある者、すぐ元の売れっ子芸者になる蝶子に、そうか手に職なのかと私は思い、女に甲斐性がありゃあ、少々頼りなくても甲斐性なしでも、好きな男を選べるのだと私は妙に感心しました。時代が時代だけに、直接的な濡れ場やラブシーンはありませんが、二人が着物からはだける足をからめながら、開く店の相談をするシーンや、久しぶりに蝶子の元に帰ってきた柳吉に、さぁ今日はと蝶子が迫る場面など、描写にユーモアと艶があります。蝶子が毎日のようにお参りする法善寺横町は、昔はあんなんやったんですね。大昔観た時には感じなかったことを、たくさん感じた再見でした。近いうちに、夫婦で法善寺横町でぜんざいを食べてこようと思います。



2005年01月14日(金) 「五線譜のラブレター」

有名なアメリカのショービス界の作曲家コール・ポーターの伝記を、妻リンダとの夫婦愛を中心に、ミュージカル仕立てで描いた作品です。劇中数々のポーターの作品が歌われますが、ポーター役のケビン・クライン、リンダ役のアシュレー・ジャッド(二人とも上手い!)も歌っていますし、他にナタリー・コール、エルビス・コステロ、シェリル・クロウなど、有名どころがカバーして楽しませてくれます。ポーターの曲は、どこかで耳馴染みがある曲が多く、それをしっかりした歌唱力の人たちが歌うのですから、歌の場面が出てくると、画面に引き込まれてしまいます。

二人はパリで知り合います。当時パリ社交界随一の美女で、離婚直後だった大富豪のリンダは、まだ海のものとも山のものとも知れないコールと結婚。オマケに彼がゲイだと知ってのことです。前の結婚で傷ついているリンダは、コールの才能を開花させることに自分の人生を賭けます。見込まれたコールは、献身的に,しかし自分の思い通りに手綱を締めるリンダの元、才能を開花させ、ブロードウェーでミュージカルの舞台、ハリウッドで映画音楽を担当し、次々成功していきます。しかしその間も彼は、夜毎のように男たちとの快楽の時間を慎みません。

私がびっくりしたのは、実際のリンダはコールより8歳年上だそうで、キャストを聞いた時、ケビンが一回りくらい上なのにと危惧していたのですが、実際はケビン1947年生まれ、アシュレー1968年生まれと、実に21歳アシュレーが若いです。それがケビンが年下夫の妻に対する傲慢さや甘え、華やかな世界での若々しい姿、若い男に溺れる様を的確に演じていて違和感なく見せ、とても上手いです。

でももっと感激したのはアシュレー・ジャッド!とにかく美しいのです。晩年まで演じていますが、段々としわが増え、髪に白い物が混じりだしても、最後までエレガントで芯の強さを失いません。年上妻ということで、常に美貌と貫禄を漂わせ、コールに話かけるとき、必ず「ダーリン」と入るのですが、この後に続く言葉は、「何を迷っているの?」「さぁ、ここからはあなたが頑張るのよ」と、「ダーリン」が手のひらで孫悟空を遊ばすお釈迦様の如しを思わす効果がありました。正直彼女がこれほど演技力のある人だとは思っていませんでした。必ずアシュレー・ジャッドの代表作になると思います。

夫婦の愛情と葛藤に重きを置いているので、作曲家としての産みの苦しみ、華やかなショービスの世界で生き抜く厳しさや孤独などがあまり描かれないので、少し深みには欠けるかと思います。夫婦の描き方については、私のような結婚歴の長い者には、少しの描写でビンビン来るものがありますが、大喧嘩をするわけでもなく、お金持ちなので豪華な暮らしぶりに悩みが霞み、耐える妻の描写が希薄に見える方もいるかと感じました。

しかし普通の夫婦の暮らしを望むリンダが、一向に性癖の変わらないカールに「音楽なんか・・・」となじる場面など、あれほど彼の才能の開花に一生懸命だったのに、自分の内助の功にあんたはいつ報いてくれるのだ、と言う気持ちが込められていたと思います。夫の不貞に声を荒げず、「私が好きにさしたのだから、私にも非がある。」と一見落ち着いて見えるリンダは、バツイチ、年上の上流社会の女性の、必死のプライドが感じられます。派手に夫婦げんかした方がわかり易いですが、コールとリンダの関係を表すには、こちらの方が的確だったと思います。

生涯同性愛者だったコールが、一番愛したのは妻のリンダだった、という結論は、夫婦とは、たとえ夫は妻の援助が欲しい、妻は夫の才能に惚れた、という最初の結びつきの二人でも、親より長くいっしょに暮らし、血も男と女と言う垣根も越えた、人生の半分以上を共にする唯一無二の存在であるということを印象付け、素直に胸に沁みました。

パリ、ベネチア、ニューヨーク、LAと舞台が移り、様々な形で上流階級の暮らしぶりが伺えます。特にヨーロッパ時代は、華やかですがけばけばしさがなく、ゴージャスというよりエレガントという言葉がぴったりです。アメリカの暮らしに移ると、エレガントさが影を潜め、刺激的で変化のある暮らしぶりになるのがわかります。

作品全体に品があり、男同士の色っぽいシーンも、エロティックではありますが、汚らしさや嫌悪感を持つ感じではありませんので、ゲイに対する偏見を助長することにはならないでしょう。

少々の難点は、主役二人の見事な演技と、楽しいミュージカルシーンで気にならなくなります。監督はアーヴィン・ウィンクラー。手堅くまとめた感がありました。


2005年01月12日(水) 「ブレッド&ローズ」(ムービープラス)

今日ケーブルテレビで観ました。この作品の監督ケン・ローチは有名な社会派監督とは知っていましたが、観たのは「セブテンバー・11」の中の一作品だけ。邦画「あぁ野麦峠」のような、暗くて救いのない内容なのかと思いきや、軽やかでユーモアがあり、底辺の人のエネルギーが感じられる作品で、尚且つ大変感動もさせられるという、ほとんどパーフェクトな出来の作品でした。

メキシコから不法入国してきたマヤは、子供の頃から出稼ぎに来ている姉ローサを頼って、アメリカに出てきました。清掃員の仕事についている姉は、年中休みも取らず、病気の夫と二人の子供を養っており、必死で踏ん張っていました。ローサのコネで彼女といっしょの、LAの中で有数のビルの清掃の仕事に就けたマヤは、過酷な労働条件(ピンハネ、保険なし、労働時間無視)に耐えるしかない、多くのマイノリティの人々を目の当たりにします。そんな時、労働組合の活動家サムと知り合います。彼に好意と関心を持つマヤは、次第に労働者の人権について考えるようになり、解雇と強制送還の危険と隣り合わせの、デモや組合の活動に没頭していきます。マヤと同調する仲間も増える中、ローサは彼女達と距をと置くようになります。

ブレッドとはパン、すなわち生きるために食べること。ローズとは食べるためだけの生活ではなく、豊かに潤いをもって生きる尊厳という、労働者階級の移民の人たちがスローガンに掲げた言葉だそうです。

どうしても私の祖父や祖母の時代、過酷な条件で日本に暮していただろう、在日一世の人たちが、マヤたちに重なります。そして不遇を託つ彼らの上司が、同じマイノリティだというのも、とてもリアルです。何故なら以前彼らの側にいた人であり、彼らが何に弱いか何を欲しがっているのか把握でき、決して元の場所に戻りたくない人だから、雇い主を裏切らない人でもある訳です。「敵は身内にあり」、実感することも多い私は、国や場所が変わっても、この言葉は本当だなと思います。

ですが彼らの身の上話が披露されても、確かに胸が詰まるのですが、聞くに堪えない辛さはないです。そのおかげで、返って彼らの視線に同調でき、自分の身の上と重ね、共感を呼びます。

それが一気に胸がかきむしられるのは、ローサの告白です。デモに手を貸した同僚を会社に売ったと、マヤになじられるローサは、子供の頃からアメリカで体を売って国へ送金していたと、反対にマヤに食って掛かります。家族は見て見ぬふりをしていたというローサ。知らなかったというマヤの言葉は本当でしょう。たとえ休みがなくても、毎日16時間働きづめでも、彼女にとっては清掃の仕事は娼婦よりずっとずっと有り難い仕事なのです。そして客との間に出来た子の父親になってくれた夫は、彼女を明るい昼間に出られるようにしてくれた恩人なのです。だから入院した夫のため、子供のため、彼女は会社に密告しました。これでもかこれでもかと泣きながらマヤに詰め寄るローサに、同性として私は号泣してしまいました。

汚いことはいつも私、生きているのがイヤと言いながら、彼女が必死で踏ん張るのは、若い時は母や兄弟、今は夫や子供と、自分より大切だと思える「愛する人」がいたからではないかと思います。愛されることもとても大切です。しかしそれ以上に、心から愛する人がいるかどうか、人生ではこのことが大切なのだと、ローサを見て思いました。

仕事の合間に黙々と勉強し、大学入学を目指す同僚のルーベンも、ローサと同じく組合の運動に参加しません。解雇されて入学金を払えなくなると困るからです。解雇された同僚を見て、「母と同じだ」とつぶやく彼は、ローサと同じく、生きるために辛酸を舐めたのではないかと思いました。そういった境遇に育つと、どうしても危険と隣り合わせになる行動は出来ないものです。対するマヤは、苦労はしても彼女たちほどの辛さはなかったのではと思いました。そのほどほどの苦労が彼女の心を自由にさせ、不当な労働条件に怒りを感じさせたと思いました。

とばっちりを受けたルーベンが解雇され、大学の入学金が払えなくなります。そのため盗んだお金を彼に差し出すマヤ。知らないルーベンは喜んで受け取り、同胞のために力になれるよう、立派に学ぶと約束します。が、私は納得出来ず。気持ちはわかりますが、盗みはいかんだろう。汚い出所でも綺麗に使えば良いといいますが、やっぱりこれはダメ。ずっと引きずって観ていたら、デモに参加して逮捕されたマヤは、指紋から盗みが発覚しメキシコへ強制退去となります。それと同時に、会社から労働者側に権利を与えるという連絡が入ります。そうくるかーと、唸るような筋運びです。

別れ際マヤを見送る同僚達が、自分のしたことに引け目を感じているローサに声をかける暖かさが良いです。台風娘のようにアメリカに来て、我慢するしかなかった同じ境遇の人の心に火をつけたマヤ。二度アメリカに来られなくなった彼女も、束の間の滞在で、きっと人生で指針になるようなものを持ち帰ったはず。イギリス人のケーン・ローチが、他国アメリカの労働者階級の苦境を、鋭いですが辛らつではなく、温かい目で見守った後口の良い爽やかな作品でした。他人から見た自分と、自分から見た自分は温度差があるものです。ローチは他国の問題点を描いて、不躾さと土足感がなく、とても好感を持ちました。サム役で、「戦場のピアニスト」の前のエイドリアン・ブロディが扮し、無精ひげで愛嬌があり、飄々としたサムを好演していました。


2005年01月07日(金) 「ターミナル」

昨日布施ラインシネマで観てきました。大好きな「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」と似たテイストの作品と聞き、大いに期待しての鑑賞でした。宣伝にあるような大きな感動や涙はありませんが、観ている間中ずっと心がポカポカするような作品です。私は「キャッチ〜」より、同じトム・ハンクス主演の「フォレスト・ガンプ」に似た味わいの、素敵な大人の寓話だと思いました。

東欧のクラコウジアからニューヨーク空港に来たビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、到着後すぐに祖国にクーデターが起こり国が消滅。書類上無国籍となり、パスポートは無効。入国も帰国も出来なくなります。空港警備局主任のディクソン(スタンリー・トゥッチ)から、このまま空港で待機するよう言われます。当初すぐビクターは逃げ出し、自分の管轄外で不法入国で捕まるだろうと思っていたディクソンに対し、ビクターは「待つ!」と宣言。お金もなく言葉も通じない空港での、彼の生活が始まります。

冒頭、ビクターの身の上に起った事柄を説明するディクソンは、言葉のわからない彼にまるで子供扱いです。そして政治状況の不安的な小国の人である彼に、言葉は丁寧ですが、食事を取りながら説明するなど、横柄で侮蔑の気持ちも感じられます。状況をきちんと把握出来ないまま、ターミナルに放り出された彼は、空港内のテレビを見て状況を把握するのですが、この時のハンクスの芝居がとても上手です。自分の国が亡くなってしまう、その嘆きと哀しさが痛いほど伝わり、ビクターの純粋さも感じさせます。そして彼は何のためにアメリカに来たのか、その謎も追いかける事になります。

ターミナルで働く底辺の訳ありの人々と、徐々に交流を暖めて仲間入りするビクター。この辺は昨年観た「ゲート・トゥ・ヘブン」にも描かれており、
人種もインド系、ラテン系、黒人とマイノリティが多数というのもいっしょで、無国籍になり窮地に追い込まれたビクターに手を差し伸べる姿も自然です。少々やぼったいですが、観ていて思わず顔がほころんでしまうようなエピソードがちりばめられ、好感が持てます。そして愚直なまでに正しくあれと、知恵を捻り一心に「約束」を果たそうとする彼を、応援したくなります。

私が一番びっくりしたのは、ビクターの憧れの人の客室乗務員アメリア役のキャサリン・ゼッタ・ジョーンズ。ゴージャスな迫力ある美貌、気が強そうで少々ビッチなところもまた魅力の彼女が、清楚でとても可愛いのです。男性には年齢をサバを読み、仕事柄港港に男ありを匂わし、不倫に身を焦がしているとビクターに告白しても、彼女自身が言う「私は近づいてはいけない女」には、とても見えません。むしろ読書好き歴史好きな、教養豊かで上品な女性に感じました。誠実・愚直が売り物のハンクスとはミスマッチな共演だと思っていたのに、どうしてどうして。キャサリンはとても素敵でした。

対するハンクスは、やはり観客の心を掴むのが上手で、この手のキャラはお手の物の感じがしました。それだけに安心して観られますが、これと言って新しい魅力は発見出来ませんでした。

あの手この手でビクターを追い出そうとするディクソンですが、これをいたちごっごのように、ビクターがすり抜けていきます。その様にクスクス笑いながら安堵したりビクターに喝采したりする私がいるのですが、ビクターに感情移入しながら、どうもディクソンも憎めないのです。

もうじき警備局長昇進間近のディクソンは、仕事も有能であるシーンも描いてあります。当初は裏の手を使おうと提案する部下に、「彼は嘘ではめたくない。」と語り、終盤ビクターの大切な友になった人たちの小さな不正をちらつかせて、彼と取引しようとしますが、それだってビクターが現れるまでは、知っていても知らん顔をしていたのです。そして上司から昇進を告げられる場面では、「良く17年辛抱してくれたな。」のねぎらいの言葉もかけられる、彼こそ「待つ人」だったはず。

悪役に見えるディクソンですが、本当は善良で、立場が違えばビクターを応援するような人に感じました。彼は多くの観客と同じ場所にいる人ではないかと思います。「ビクターに学べ。」上司がディクソンに助言する言葉は、観客にも向けられたように感じました。

こんなに上手く行くわけないよ〜、と言うなかれ。小さな奇跡や今日はついていると、生活していてしばし出会う出来事は、きっと自分自身が引き寄せているはずです。少々やぼったい作りですが、そのやぼったさが気後れせず、物語に素直に溶け込んで行けます。「フォレスト・ガンプ」に出てくる「人生はチョコレートの箱のよう。どんな味がするか開けてみないとわからない。」というセリフが、私は大好きです。さしずめこの作品は、セミスィート・チョコに、所々スィートが混ざっている感じです。ビクターの「約束」も、少々とってつけたようですが、万人に理解出来るような理由です。
頭で観るより、心で観ると納得出来る作品です。


2005年01月04日(火) 「カンフーハッスル」

映画に影響された、人生が変わったと言う経験を持つ方も多いと思います。私の場合は「少林サッカー」がそれ。当時フルタイムパートで小さな会社の事務をしていましたが、時給の割り増しもなく土日祝も遠慮なく出勤させられ、残業も当たり前。「悪いね。」の一言もなく、お金を払っているのだから当然と言う態度の社長夫人。おまけに意地まで悪いときている。それでも足にぶらさがっている息子3人を育てるために、経済的に夫を支えねばの一心で我慢していました。

そんな時「少林サッカー」を観たのです。笑って憂さ晴らしをしようと思っていたのに、私の心に強く残ったのは、恵まれない環境でも自分を信じて夢を実現しようとする彼らの姿でした。思い切り笑って泣いた帰り道、あんな会社絶対やめたらぁ!と強く誓ったものです。毎日楽しく感謝しながら働けて、雇い主にも認めてもらえ、家族にも迷惑のかからない職場が絶対私にもあるはずだと、紆余曲折したのち働きながら見つけたのが今の職場です。あの映画を観ていなかったら、こんなにたくさん映画が観られる環境にもいず、ストレス溜めまくりながら以前の職場にまだいたかもわかりません。ですからチャウ・シンチーは私には言わば恩人。恩人の映画は絶対観なくちゃと、末っ子を連れての鑑賞でした。

舞台は1930年代の上海。のし上がって行くには悪になることだと、暴力団「釜頭会」入りを目指すチンピラのシンは、頼りない相棒とチンケな悪行を繰り返していました。ある日貧民窟のようなアパート・豚小屋砦で恐喝をしようとして、逆に叩きのめされてしまいます。そこを通りかかった釜頭会の一党も加わりましたが、返り討ちに。このアパートの住民は、かつてカンフーの達人として名を成した人たちが、人知れず住んでいたのでした。面子をつぶされた釜頭会ボスのサムは、何としてもこのアパートをつぶそうと躍起になります。そんな折シンは、自分でも知らない眠っていた力が目を覚まそうとしていました。

私が子供の頃、シンチーが尊敬してやまないブルース・リーの「燃えよドラゴン」が公開されるや、雨後の筍のようにカンフー映画が公開されて、私は中国の人は老若男女全てカンフーが出来るのだと思い込んだものです。その記憶が甦るような、えっ!この人が、うっそー、あの人も!と出るわ出るわの意外なカンフーの達人たち。CGやワイヤーも使っていますが、昨今流行の感じではなく、流麗さより力強さを全面に出しています。

シンチー映画に付き物のくだらないギャグは、今回も満載。来るぞ来るぞと思わせてやっぱりの垢抜けなさが、大ヒット映画の後でも観られると、何だか嬉しくなってしまいます。ただお下劣ギャグは、今回のは一瞬ですがゲロ吐きより強烈。私はこの手は苦手なのですが、恩人ですからシンチーだけは可ということで。

ラスボス的扱いの敵に、70年代カンフー映画のスターだったブルース・リャン(全然わからんかった)初め、出てくるカンフーの達人たちは、かつてカンフー映画が全盛だった頃の俳優達で、本国でのタイトル「功夫」でもわかるように、シンチーの並々ならぬカンフー映画へのオマージュがいっぱいの作品です。セリフよりカンフーの技や試合に挑む姿で、登場人物の心情を語らせていました。ラストの対決場面で、上半身裸のブルース・リーそっくりのいでたちには、思わずオッと、顔がほころんでしまいました。

面白さや熱く血がたぎるのは、「少林サッカー」の方だと思います。いつも美少女を不細工にしてヒロインにするシンチーですが、今回その役を担うアイス売りの少女は、可憐なままで役も小さいです。しかしこの少女が2度出ている場面は、何故シンが悪の道に入ったか、そして元の正しい心を取り戻したかの重要な場面です。

この少女がいなくても話は成立しますが、彼女は観客のためではなく、シンチーが昔を忘れないため、自分のために作った人物ではないか?そんな気がします。「少林サッカー」までは、知る人ぞ知る存在で、マニアックな人気はあっても一般的に知られる人ではありませんでした。聞けばこの作品に出てくる豚小屋砦のようなアパートでシンチーは育ったそうで、大好きだったカンフーも、貧しくてきちんと教わることが出来ず、独学で学んだそうです。そういえば大スターになり、お金持ちになったはずの今も質素な身なりで、同年代のアンディ・ラウやトニー・レオンに比べ、格段に華やかさには欠けるというより、自分から縁遠く身を置いているようなシンチー。ラストの子供の姿に戻ってキャンディー屋に入るシンと少女は、自分の映画人生を賭けた入魂のこの作品で、成功しても自分を見失うまいと誓っているように思えました。この作品では、男前度もグッとアップしていたシンチー。これからもついて行きます!


2005年01月02日(日) 「マイ・ボディガード」

2005年の初映画です。昨年は3日の日に、十三のナナゲイまでフェリーニ特集の「カビリアの夜」を張り切って観に行くも、正直めでたさも中くらいの感じでしたが、今年は近くのラインシネマでお手軽でしたが、これがスマッシュヒット。初映画から涙がこみ上げ、縁起がいいんだか悪いんだか。でも泣ける映画が大好きな私ですから、今年も良い作品にめぐり会えそうです。

クリーシー(デンゼル・ワシントン)は、16年間米軍のテロ対策の特殊部隊に所属し、暗殺の仕事に従事していました。そのため心を病み希望のない日々を酒で紛らわし、辛うじて生きています。ある日今はメキシコで妻子と暮らす部隊の先輩レイバーン(クリストファー・ウォーケン)から、誘拐の多発するメキシコで、実業家の9歳の娘・ピタ(ダコタ・ファニング)の護衛の仕事を紹介されます。無邪気で愛らしいピタと接するうち、人生から消えうせていた笑みや希望を見出すクリーシー。穏やかな日々がずっと続くと思われていたある日、ピタが誘拐されてしまいます。

原作はA・Jクィネルの「燃える男」(「man on fire」)。
私は未読ですが、多分長尺の原作なのでしょう、前半のクリーシーとピタが心を通わせる部分が、駆け足で描かれているように感じます。しかし初めてクリーシーがピタに笑顔を見せる場面、水泳大会のため、ピタを特訓する様子など要所は丹念に描く心得た演出です。それにデンゼルとダコタの演技が上手く重なり、二人が信頼関係を築くのに無理を感じさせません。

同様にクリーシーの特殊部隊時代のトラウマも、具体的に何があったとは出て来ません。その苦悩から自殺しようとする場面も出てきますが、ピタの護衛を勤めている初めの頃で、順番とすればそれ以前に見せて欲しかったのですが、デンゼルの演技力でそれをカバー。直後に電話を受けるウォーケンの暖かみのある演技が心に染み、これもそれほど気になりませんでした。

クリーシーを暖かく見守るレイバーン役のウォーケンですが、ケレンのある悪役で名を馳せている彼には珍しく、捻りも何にもない好人物。上に書いた電話の場面でも、レイバーンは子供を妻と川の字にはさんで寝ているシーンを映し、孤独なクリーシーと対比させています。彼に演じさせることで、レイバーンもクリーシーと同様の苦しみから抜け出し今があると感じさせます。眠っていたのにもかかわらず、それを気にするクリーシーに、「まだ起きていたよ。テレビを見ていたんだ。」。たったこれだけのセリフで、レイバーンがクリーシーに対して、いかに心をかけているかを感じさせます。これはひとえにウォーケンの力です。彼の立ち振る舞い、セリフの一つ一つが、クリーシーの造詣にまで深みを与えているかのようです。柔和な表情と厳しい表情の使い分けも自在で、小さな役なのに存在感たっぷりで、腕のある役者は違うなぁと、とても感心しました。

老境に差し掛かった刑事役・ジャンカルロ・ジャンニーニも、主役を数多く張っていた頃を思い出させる枯れない渋さがありました。その他いつも手堅い新聞記者役・レイチェル・ティコティン、意外な好演だった両親役のマーク・アンソニーとラダ・ミッチェルなど、出演者の健闘が印象に残ります。ミッキー・ロークはまぁそれなりです。

後半ピタが誘拐されてから、壮絶で残虐なクリーシーの復讐劇が展開され、この誘拐にも二重三重のからくりがあり、二人の心の交流を描いた前半とは一転、バイオレンスタッチのサスペンス劇となります。軽いタッチで前半を描いていたので、このクリーシーの変わり様に少々戸惑うのですが、考えてみれば彼は元特殊部隊所属のいわば殺人マシーン。やっと訪れた穏やかな日々をプレゼントしてくれたピタを奪われ、閉じ込めていた当時の感情が露になったと思えば納得です。犯人逮捕を警察に委ねず、自分の手で処刑していく「俺が正義だ」に、嫌悪感を持つ方も多いようですが、誠実さを常に感じさせるデンゼルが演じることで、爽快感とまでは行きませんが、私はあまり嫌悪感はありませんでした。何より誘拐という行為は、子供を持つ者にとってこれほど怒りを感じる犯罪はありません。その事が私の感想に影響しているかも知れません。

ラストは少々強引で消化不良が残ります。ちょっと調べたところ、このラストは原作とは違うようです。しかし映画的に考えればアンハッピーともハッピーとも取れる、あいまいなラストは良かったのかも知れません。この作品でのダコタちゃんは、賢く愛らしく子供らしさも感じるのに、どこか寂しげで、「スゥイート・ヒア・アフター」で初めて見た、少女の頃のサラ・ポリーを彷彿させました。そして父を愛しているのに、クリーシーに父を感じているように見えました。その後の展開でこの父親なら頼りなく思うよなと、納得しましたが、若干10歳の彼女がここまで役を理解していたのでしょうか?やっぱり只者じゃないぜ感がいっぱいのダコタちゃん。次もとても楽しみです。

監督は水準以上の娯楽作を常に提供しているトニー・スコット。今作でも手堅い演出で、クリーシーに観客が感情移入しやすく作られています。素直に上手いなぁと思いました。BGMもメキシコが舞台ということで、ラテンのダンスミュージックや哀愁のメロディ、私が大好きだったリンダ・ロンシュタットの歌声も効果的に挿入されています。アルバムジャケットがチラッと映ったのも嬉しかったです。


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