ケイケイの映画日記
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2004年11月29日(月) 「Mr.インクレディブル」

昨日の先行ロードショーで観てきました。ディズニー配給のピクサー作品というブランド映画なので、さぞやいっぱいと思いきや、入りは半分。もっとも朝イチの9時半の回。それに吹替え版というのがミソをつけたか?しかしこの吹替え版が実に絶妙でした。黒木瞳のような大女優が、何で今更ディズニー作品など引き受けたのか?と思っていましたが、やっぱり彼女は賢い人です。ハラハラドキドキ、健全な楽しさ満開の中、家族愛を軸にしながらの倦怠期の夫婦ものの秀作だとは、私も思ってもいませんでした。

かつてスーパーヒーローとして活躍したMr.インクレディブルは、やはりスーパーヒーローだった妻・ヘレンと結婚し、3人の子の父親です。引退後は保険会社にに勤め真面目なサラリーマンであり、家庭では良き父良き夫です。家族全部が持てる特殊能力を隠しながら生活している中、彼は昔の栄光が忘れられないでいました。そんな時ヒーローとして復活出来る話が舞い込むのです。喜び勇んでOKする彼でしたが・・・

ピクサーのCGアニメの技術は、素人の私でも一作ごとに飛躍的にアップしているように思えます。特に私が好きなところは、決して人間に見えるようなリアル感ではないところ。手書きアニメの暖かさや血の通った趣があり、今作では顔の表情がとても上手に描かれていました。数々の特殊能力を発揮するアクション場面では、アニメであることをフルに活用。実写CGを超えるパワフル感とスピーディさに、大人の私もワクワクでした。ストーリーの危機また危機や、その凌ぎ方やアイテムも、「007」シリーズや「スパイキッズ」シリーズより、私には面白かったです。

私が一番感心したのはアクションアニメでありながら、きちんとドラマが描けていること。ピクサー作品では、いつも親として子供にどう接したら良いかのヒントが散りばめられています。この作品でも母へレンは、絶対絶命の危機に怖がる子供達に「お母さんを信じない!」と力強く言い切ったり、自分の能力に自信のない長女・ヴァイオレットに、「あなたなら出来るわ」と励まし、無理な注文に答えられず謝る子供に「お母さんが悪かったわ。」と、素直に謝ります。観ていて当たり前の親としての接し方なのですが、これが中々難しい。人生の岐路よりこういう切羽詰った場面で見せられると、とても心に刻めるものです。

家族の絆・愛は、アニメでも観たことはありますが、夫婦としての心の機微を描いたものは初めて観ました。インクレディブルは、自分が一番輝いていた頃が忘れられず、家族は愛しているが、自分だけの時間や幸せも求めたい。妻は家族の幸せを望んでいるはずと思い込み、夫婦単位で物事を考えません。
ヘレンは家庭の安定と子供の成長が一番大切。昔スーパーヒーローだったのなんて忘却の彼方。どうして夫はいつまでも昔の夢を追い求めるのか?もっと大人になって欲しい。誰にも頼まれないことに一生懸命にならずに、もっと出世のことも考えて頂戴と思っています。

それが夫が事件に巻き込まれるや、そんな不満はどこへやら。「気づかなかった私が悪かったのよ。」とヘレンは泣き崩れます。。普段は好き勝手する夫に不満がいっぱいなのに、そのことで家族全員が危機に巻き込まれようが、それ見たことかとはなりません。自分を責め、危険を侵しても夫を救おうとします。それが妻の情というものです。対する夫も、初めて自分が好きな夢を追えたのは、暖かい家庭があってのことと気づきます。そして夢を追いかける世の夫たちにため息をついている私たち妻は、それは夫達にとって必要なものであって、決して家族を愛していないと言うことではないと、インクレディブルを観て思います。

夫婦けんかの場面、それに心を痛める子供達、精神的には少々かかあ天下、しかし生活上は夫婦不平等感などを織り込む細かくリアルな描写を、大笑いとハラハラとの中にしっかり観る者に刻ませ、ラストの家族の明るい未来に終結させる手抜きのない脚本には、とても感心しました。

吹替えの三浦友和と黒木瞳は、子供を持つ良き家庭人の側面も表の出す俳優なので、役柄に違和感がありませんでした。特にヘレンの母親にとても共感を呼ぶキャラクターは、黒木瞳の一層のイメージアップに貢献していたと思います。家族揃っての映画鑑賞はお金がかかり、お子様映画では大人は損をした気になるもの。でもこの作品に限っては、絶対損な気分はないとお薦め出来ます。家族揃って敵に向かう姿に、まだ子供達が小さくて車で旅行へ行く時に、もしここで事故に合って死んでしまっても、家族全員いっしょなら何も心残りはないと思った10年前を、懐かしく思い起こした作品でした。まだ親が世界一好きな年齢のお子さんをお持ちのお父さんお母さんに、是非見て欲しい作品です。


2004年11月25日(木) 「コニー&カーラ」

今日観て来ました。大好きなトニ・コレットがドラック・クィーンに化け歌い踊ると聞き、ものすごく楽しみにしていました。「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」で脚本・主演をこなしたニア・ヴァルダロスが、この作品でも脚本・主演です。もうー、とってもとっても楽しかった!ミニミニ「ザッツ・エンター・ティメント」風の楽しさです。

ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」をご覧になっていなくても、ストーリーはご存知の方は多いはずです。この「コニー&カーラ」も設定はとても似ていて、さえない幼馴染のショーガールコンビ、コニーとカーラが、ひょんなことから殺人現場を目撃し、やくざに追われる身となります。逃げ延びたのはロスアンジェルス。そこでたまたま入ったクラブがオカマバーで、女でありながら男のドラッグ・クィーンになりすまして受けたオーディションがバカ受け、一夜にしてそのバーの人気者となります。次々と客は増え続け、その噂はついにギャングの耳に入る事に・・・。

二人が本当に歌い踊るショーは、「オクラホマ」「キャッツ」「キャバレー」「エビータ」などなど、往年から近年まで作品は観ていなくても、歌はどこかで聞いたことがある名曲ばかりで、ノリやすいことこの上なしで、選曲がバッチリでした。若干ニアの踊りのキレが鈍く感じるくらいで、大口開けて気持ち良さそうに歌う二人は、本物のショーガール並みの上手さでした。ワーワーキャーキャー、二人で掛け合うシーンもとても楽しく、女同士の気楽さと親密さとが、よく出ていました。

トニ・コレットは、本当に七変化の女優さんで、頑張るシングルマザー役でも、生活に疲れながらも子供を人生で一番大切に思う、「シックスセンス」、神経症気味で子供に世話をかけるダメ母さんながら憎めない、「アバウト・ア・ボーイ」と見事に演じ分けし、「めぐり逢う時間たち」ではまさかのグラマー美人主婦と、今度は何を演じてくれるのか、いつも楽しみな女優さんです。ニアは、私は彼女の出世作「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」は未見なのですが、カーラの「人生は一度きりよ。自分を信じて頑張って何ががいけないの?」というセリフは彼女自身と重なります。決して恵まれた容姿ではなく、至って平凡な外見の彼女が、脇役でも難しいでしょうに、ハリウッド娯楽作で堂々主役を張る姿は、私を含めた世の平凡な女性達に、それだけで勇気がもらえるってもんです。

彼女達を軸に、兄がオカマになって絶縁状態になった兄弟の修復を織り込んでほろっとさせたり、追いかけるやくざの手下が、追いかけているうちにショーマニアになって愛嬌を感じさせたり、ストーリーとの絡ませ方も上手く生かされていました。ラストにやくざが彼女達を見つけるドタバタ場面も、スピーディーで大笑いするのに、とてものどかで、古臭いという意味ではなく、昔はこんな楽しい作品がいっぱいあったなぁと、とても懐かしさを覚えました。

こんなに楽しいのに、大阪は一週間だけフル上映で、後は一日一回、それもお昼だけの上映です。ナビオTOHOの第7スクリーンは小さめで、階段状の客席の大きなスクリーンで観たかったです。それに充分耐えうる、家族でもデートでも安心して楽しめる、質の高い娯楽作だと思いました。

それにしても二人とも、オカマの時の方が綺麗でした。これから厚化粧バッチリで出てくればいいのに・・・。


2004年11月24日(水) 「盲獣」(日本映画専門チャンネル)

再見です。でも以前観たのは高校生の時、当時大阪の朝日放送で朝9時半頃からやっていた、「奥様お茶の間劇場」です。この時間帯は今考えればお宝がざくざくで、古い邦画の名作・珍作をたくさん放送していていました。昔はお昼でもよく昔の作品を放送していて、夏休みのバイトが休みだったり、クラブをズル休みした時などよく観ていました。自分では清く正しく青春を送ったつもりでいるのですが、こんな作品を喜んで観ていたことを考えれば、何だかそれも怪しいです。

新進モデル・アキは、好評の自分がモデルの写真展で、アキがモデルの裸体の彫刻を、粘着質に撫で回す男を目撃し、気分が悪くなります。ある日マッサージを呼んだアキは、マッサージ師に拉致・監禁されます。それは写真展の男だったのです。盲目の彼は母親と結託して、女を拉致してきては、気に入った部位をモデルに、彫刻を作っていました。

アキを演ずる緑魔子は、私が子供の頃はよくテレビでも見かけ、サイケで小悪魔、そして少々はすっぱな印象がありました。しかし今回久しぶりに観ると、初々しく子猫のような愛らしさがあるのです。(でもやっぱりはすっぱ)。増村作品では、いつもは絶妙に胸やお尻など、女性の性的な部分を隠して、足や背中やウエストの曲線を強調し、より以上に大人の女性のエロティシズムを表現していますが、今回初めて主演女優の胸の露出を目にしました。でもエッチな感じより、緑魔子の薄い胸は、少女のような可憐さを強調していたように感じました。この少女っぽさがのちのちの展開に、いかにもスキ者といった女性より、女性の性の不可思議さがより強調されていたと思います。

男を演ずるのは船越英二。もう怪演です。不気味だし変態だし気持ち悪いし、すごく上手いです。なのに妙に好青年で、「めくらの僕を、母は普通の人間に立派に育ててくれたんです。」などど言いますが、あんたこんな事して、ちっとも普通と違うやん、お母さん子育て失敗してます。

母親は千石規子。あんまり年が変わらないはずなのにと調べてみると、当時45歳と46歳。でも絶対親子に見えてしまうこの不思議。私は千石という名を聞くと、どうも昔事件を起こした千石イエスを思い出してしまい、ストイックなバッタもんのイメージが頭をよぎり、規子氏のいつも変わらぬ薄気味悪さ(褒めているつもり)にプチ白石加代子を感じ、この名前はマッチしているなぁと思います。

男が創作活動に使い、アキが監禁されている倉庫には、女性の足、手、鼻、おっぱいなど、巨大なオブジェで占領されているのですが、シュールと言うか何と言うか。正直今観ると笑えてしまいます。盲目のはずの男が、倉庫で逃げるアキを全力疾走で追いかけ捕まえるシーンなど、巨大オブジェをかき分けかき分け、さながら大人のポンキッキのような様子です。公開当時はどんな反応だったのでしょうか?

誤まって母を殺してしまった男は、彼に愛を感じ始めるアキと愛欲の深みに落ちていきます。盲目の彼と暮すうち、光の必要のなくなったアキの目は段々と光を失い、代わりに彼と同じく異常に触感が働くようになります。そして普通のセックスでは物足らなくなり、SMの深みへ。寝食を忘れて肌を重ねるうち、段々二人とも体が衰弱し、ついに死を覚悟する時、最高の快楽をと、両手両足の切断をアキは男に懇願し、叶えてもらいます。

すんごく強引な二人の愛の道行きなのですが、有無を言わさぬ力強さで語られるので、全然不思議さや嫌悪感がありません。特にアキと結ばれてからの男は自信に満ち溢れ、自分の障害を卑下していた以前と大違いです。同じ監禁ものの名作では、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」があります。この作品では、女性とセックスしようとしない(出来ない)テレンス・スタンプは、監禁したサマンサ・エッガーを尊重しているように見えて、結局大切なコレクションの一つ以上には感じない異常さから、人と心から交流したことのない人間の孤独や哀しさが透けて見えましたが、「盲獣」の船越英二は執着の愛であっても母に愛され、好きになった女性と結ばれ、運命共同体で死んでいけて、幸せだったろうなぁと思いました。

めくら、きちがいなどバンバン出てくるので、地上波では今の時代ではまず放映は無理な作品です。私も生活している中で「、チョーセン」など耳にしたら不快に思いますので、言葉には気をつけた方がいいと思いますが、昔の作品の訴えていることを正確に伝えるには、あまり言葉狩りをしない方がいいかなぁとも思える作品です。


2004年11月22日(月) 「ハウルの動く城」

テレビでも大盛況のニュースが流れていましたので、ちょうどラインシネマのポイントが貯まっていたので、平日ならましだろうと、今日12時20分の回を観てきました。宮崎作品には、私は特別思い入れがあるわけではありません。「もののけ姫」は壮大に説教されてイヤ、「千と千尋」は積極的に好き、初期の頃の作品は結構好きという程度です。

散々公開前に叩かれていた木村拓哉のハウルの吹替えですが、私は充分に合格だと思います。少なくとも「シュレック」で浜ちゃんの吹替えに脱力したようにはなりません。「笑の大学」でも、稲垣吾郎が演じるというだけで嫌悪感を持つ方もいらっしゃるようですが、とてももったいないことだと思います。先入観を持たずに観ることをお薦めしたです。倍賞千恵子はさすがにとても上手でした。確かに少女期の声には、多少違和感がありますが、物語が進むに連れて、演技力で気にならなくなります。他の吹替え陣も好演でした。

ただ私はアニメの吹替えは、プロの声優にお願いするのが良いと思っています。俳優や歌手など使うと、どうしてもイメージが先行してしまいます。「東京ゴッドファーザース」の梅垣義明のようにピッタリはまる例は少なく、(というより、あれは当てこんでいたのか?)この作品でもキムタクよりむしろ倍賞千恵子のイメージが、ソフィーより強く私には感じました。

前向きで利発なソフィー、ハンサムだけど弱虫でナルシストなハウル、俗っぽさの権化のような荒地の魔女、悪魔なのに愛嬌のある火のカルシファー、可愛い弟子のマルクル、謎の呪いをかけられた案山子・カブ、そして一番の黒幕・サリマンまで、キャラクターがきちんと描かれていていました。

男所帯だった「ハウルの城」に、たとえお婆さんだとしても女性のソフィーが住み着くことによって、みるみる潤いのある居心地の良い空間になり、その明るさと勇気と女性らしい愛情は、マルクルやハウルの心を捉えます。対照的に国を動かす力をも持つ存在として魔女のサリマンは堂々と描かれ、女性の柔らかさと強さ、ヒステリックではない怖さを表現していると思いました。映像は文句なし。玄関の回転盤を回すと、瞬時に別の場所に行ける城の趣向などとても楽しく、相変わらずに美しさと映像美でした。

しかしストーリーに説明不足と強引さが目立つのです。何故ソフィーは老い若さを行ったり来たりするのか、ハウルとカルシファーとの謎など、観るものの想像力に委ねられています。映画に想像力は不可欠ですが、宮崎映画はいまや国民的に注目を集める存在です。小さなお子さんも観られる中、もう少し説明が欲しかったです。強引さでは、自分に呪いをかけた荒地の魔女の面倒を苦もなくソフィーが看たり、ハウルがソフィーを守りたいと思うまでの心模様が描きこみ不足、案山子のカブの呪いの理由と、解かれた後のあまりにもあっさりした様子に拍子抜けしました。展開にコクが不足しているので、無理無理大円団に持っていった感じがし、ハッピーエンドにあるはずの、解き放たれた開放感が希薄です。

個人的にはまぁまぁというところ。宮崎駿に何を期待するかで観方が変わる作品ではないかと思います。私は大人から子供まで楽しめる、良質の家族ムービーです。今日も平日お昼の回に、ラインシネマの一番大きいスクリーンがほぼ満席でした。当分大ヒットが続くと思います。


2004年11月15日(月) 「砂と霧の家」

「本当に求めていたものは、家ではなく家庭だった。」のこの作品のコピーを目にした時、必ず観ようと思いました。私にはこのコピーに、強く心当たりがあるからです。

日本の高度成長期に生まれた私には、時流に乗って事業を拡張していき、どんどん家に居つかなくなる父がいました。そして家内工業のような時は、鶏より早く起きて、夜は次の日付にならないと眠ることのなかった母は、父の会社が大きくなるにつれ、職人さんたちの世話を賄いのお手伝いさんに頼み、段々と奥様然としていきす。両親の不仲に気づき始めたのは、幼稚園に行く前だったでしょうか?物心ついた時から自分の部屋にテレビがあり、何でも好きな物を買い与えてもらえる環境だった私は、親から「何が欲しい?」と尋ねられて、いつも「何もない」と答えていました。家族皆が笑いながら食卓を囲む、そういう暖かい家庭が欲しいとは、望んでも仕方ない事だとわかっていたからです。

嵐のような壮絶な夫婦喧嘩の後の、氷つくような冷たさを行ったり来たりしていた両親は、私の結婚を期に正式に離婚しました。財産分与として母に渡されたのは、私が育った家です。何度も増改築を重ねた、母と妹の二人暮しには不相応な大きな家。時はバブルの頃で、売れば大金が母に転がり込んだはずです。何度も売って小さな家に移り、小金を持って暮せば良いと薦めましたが、母は一向に耳を貸しません。母の事を虚栄心の強い人だと思っていた私は、見栄っ張りもほどほどにして欲しいと思いました。しかし母が亡くなって1年経ち2年経ち、あの家は母の心の拠りどころではなかったかと、私は思い始めます。この家で町工場のおかみさんから社長夫人と言われるようになり、地域やPTA活動に華やかな自分を見つけた母。何より私と妹という、母にとってかけがえのない者を育てた家です。「砂と霧の家」は、一つの家を私の母のように心の拠りどころにした女性と、人生の最後の逆転をこの家に賭けた男性との、家を巡る心のぶつけ合いを描いたドラマです。

離婚して8ヶ月の女性・キャシー(ジェニファー・コネリー)は、たった500ドルの税金の滞納で、思い出のつまった父親の残してくれた家を競売にかけられます。その家を買ったのは、イランから亡命してきた元政府高官・ベラーニ(ベン・キングスレー)。彼は市価の1/4で買った家を転売し、今の肉体労働でしのぐ底辺の生活から脱けだそうとしていました。しかしこれは、税金免除の申請をしていたキャシーの届出を知らなかった郡のミスでした。郡が払う購入価格を受け取り、ベラーニ一家にすぐにでも出て行って欲しいキャシー。市価のお金をもらわなければ、絶対出て行かないというベラーニ。一歩も譲らない二人の確執が、やがて家族や大切な人をも巻き込む、取り返しの付かない悲劇に向かって行きます。

キャシーは弱い女性です。しかし私は彼女の弱さを責める気にはなりません。夫に出て行かれた荒れ果てた家からは、彼女が心の傷から立ち直れないと感じ、アルコール依存症でもある彼女は、外の世界で働くのが怖かったのだと思います。それは甘えだと思う方もおられるでしょうが、実母との不仲も感じられるキャシーには、支えてくれる人はいません。売れば17万ドル以上の家を、たった500ドルが払えないキャシーが売らないのは、自分の幸せだった時間のいっぱい詰まったこの家を持ち堪えることで、立ち直りたかったからではないでしょうか?

ベラーニは、有金をはたいて買ったこの家を転売することで、昔のような上流の暮らしをする糸口を見つけたいと願っています。彼のゴネは卑屈な性質のものです。しかし最初に人知れず肉体労働からの帰り、ホテルのトイレで背広に着替え、何食わぬ顔で妻子の元に戻り、高級ホテルでの生活を続けさせるシーンを見せられたは私は、ベラーニに「男の沽券」を感じます。昨今は男の沽券など、愚の骨頂のように扱われがちですが、私はそうは思いません。彼一人ならこんなゴネなど通さなかったはずです。もう一度妻子から名実ともに尊敬され、安定した良い暮らしをさせてやりたい。主婦としての愛情に溢れた妻、真っ直ぐな心の正しさを感じさせる息子の面差しに、ベラーニは良き父・良き夫であると感じます。やはり私は、ベラーニの卑屈さも責める気にはなりません。

出演者は総じて好演。特にジェニファー・コネリーは、ホームレスまがいになっても透明感を失わず、大変美しいです。保安官レスターが妻と上手くいかなくて、離婚を切り出そうか迷っている時に出会ったキャシーに、今までの自分を見失ってしまうのも納得でした。少々強引なレスターの造詣ですが、ジェニファーの好演で説得力が出ました。

キャシーが頼る保安官・レスターに至るまで、心の弱さ・悪意が感じられますが、みな寂しく心優しいものです。何故ならそれらは欲得ではなく、底には自分の愛する者(物)を命懸けで守りたい、そう願う心が透けて見えるから他なりません。完全な人などいるわけがなく、彼らの弱さは自分にも当てはまると感じる人は多いのではないでしょうか?

元々善良な部類であった人たちです。少しずつ和解の道が開かれようとしていたときに、最大の悲劇が訪れます。その時のベラーニの行動に、「本当に大切なのは家庭」の気持ちが溢れ、涙が出ました。救いようのないお話に見えますが、最後に「ここはあなたの家ですか?」と聞かれたキャシーの答えは、放心しつつも依存心の強かった彼女が、新しい心の拠りどころを見つけようと決心したように、私には思いたいです。たとえこの解釈が間違いでも、私はこの物語を悲劇では終わらせたくありません。「大切なのは、家ではなく家庭」。子供の前で醜態をさらし、親に憎しみに似た気持ちを抱いたこともある私ですが、人生で一番大切なこのことを、私に身を持って教えてくた両親です。皮肉ではなく、この人たちの間に生まれて良かったと、今はそう思っています。


2004年11月12日(金) 「笑の大学」

昨日観て来ました。三谷幸喜の作品と聞いて、彼の監督・脚本だと思っていましたが、原作と脚本だけで監督は星譲。映画は初めてですが、長く「古畑任三郎」や「いい人」など、ドラマを手がけています。元は東京サンシャインボーイズの舞台劇で、検閲官・向坂に西村雅彦、「劇団・笑の大学」の座付き作家・椿に近藤芳正だったそうです。

第二次大戦の開戦も近い浅草。軽演劇の盛んな当地で上演される作品の台本は、警視庁によって内容が検閲されます。削除を飲めば「許可」のはんこが押され、抵抗すれば「不許可」のはんこが押され、上演出来ません。ただの検閲で終わるはずだった検閲官・向坂と「笑の大学」の座付き作家・椿の、意外な方向へ転ぶ楽しくも考えさせられる7日間が描かれます。

役所広司が演じる向坂は、今までお腹の底から笑った覚えがないという人物です。普通のスーツがよく似合う俳優NO.1だと、私が勝手に思っている彼は、実直さと仕事に対する優秀さが伝わってきます。鉄仮面で冷静に仕事をこなしていく彼が、椿の脚本の才能に触発され、段々「笑い」に楽しく翻弄されていく姿を、おかしみのある絶妙の演技で見せてくれます。役所広司の作品は色々観ていて、いずれも文句なく上手ですが、近寄りがたかった向坂が段々観客に近づいてくるのを感じ、私は今回が一番上手に思いました。

評判はイマイチの椿役・稲垣吾郎ですが、私は良かったと思います。スマップの中で気がつけば一番後ろに下がった感のある彼ですが、人気のキムタクより役者としてのイメージは、彼が一番に思います。座付き作家として演出家としての苦労を表に出さす、一人飲み込んで仕事に励む椿の、気弱な善人ぶりと反比例のように見える「笑い」に対する熱い情熱は、私にも届きました。

難点はラストに向かうに従ってくどくなること。二転三転する展開は、一度で良かったと思います。その分削れば時間も1時間45分で済んだはず。浅草のレトロでモダンな当時のセットや雰囲気は、心を弾ませました。

笑うことのなかった向坂が、笑わせることに使命感と喜びを感じる椿との出会いで変貌していく様に、笑うとは心を潤すこと、心に余裕を持たせること、そして生きるエネルギーをも得ることなのだと感じました。

私が観たのはナビオTOHOです。この劇場は大阪市内ではここでしか上映しない作品を観るために行くだけなので、いつもは単館系の作品が多く、100席あまりのスクリーンばかりで観ていましたが、今回は450ほど座席のあるスクリーンでびっくり。木曜日初回に入りは1/3と上々のようです。関東と関西は笑いが違うと言われますが、場内は爆笑とクスクスの連続でした。今から50年以上前が背景なので懐かしさのある笑いで、私が特に気に入ったのはエロでもなく、誰かを貶すのでもない、上品な気持ちの良い笑いだということ。それでいてきさくでわかり易い。そしてオチにしみじみ暖かい感情が優しく心に広がっていく、ちょっとチャップリンを彷彿させる作品でした。

可哀相なのは星監督。きっと観た人は「やっぱり三谷幸喜って才能あるなぁ」と、思うのでは?実は私もです・・・。


2004年11月10日(水) 「オールドボーイ」

今年のカンヌ映画祭グランプリ作品。タランティーノが絶賛と聞いて、きっと暴力描写に迫力がある、バイオレンスの色濃い作品だと思っていましたが、確かにそんな描写もふんだんにありますが、その奥の奥に、深くて哀しい世界が広がっていました。

主人公オ・デスは、娘の誕生日に理由もわからず監禁されます。以来15年ホテルの一室のような部屋に閉じ込めれます。ある日突然解放され、犯人ウジンから5日以内に自分が監禁された理由を捜せ、さもないと命がないと言われます。ふとしたことから知り合った若い女性・ミドといっしょに、デスは理由を探ります。

昨日観ました。逆恨みのような通らない監禁の理由に首を捻ったり、、嫌悪感をもっと感じてもいいはずなのに、何故か切ない気持ちや、登場人物に感情移入出来てしまうのが不思議だったのですが、一日経ちよくよく考えてみると、伏線やちょっとした演出が冴えていて、知らず知らずに頭に入っているのですね。だから倫理観や常識など取っ払って、素直にこの作品に感嘆してしまうのです。

デスとミドといっしょに、観客も監禁の理由を探っていきます。これが上手い筋運びで、一向にわからない。脚本がとてもよく練られていて、途中デスとミドの間に横たわる、2重3重の秘密の一番最後の部分に気づきましたが、すぐに否定してしまいました。出会いにもっと理由を求めてもいいのに気にならなくて、それほど二人の出会いは必然に感じ、疑惑を力とスピードのある演出が払拭してくれます。

監禁の理由と言うのが、誰にでも一度や二度心当たりのあるようなことです。したことも記憶にないような出来事。たかがそんな理由で、とも思う反面、自分には大したことではなくても、相手には人生を左右するくらい大変なことなのだ、という思いも抱きます。

デスを演じるのは、いつもながら芝居巧者のチェ・ミンシク。平凡なサラリーマンだった監禁前と、体を鍛えて”モンスター”なったデスを、別人ではなく、ちゃんとつながって同じ人間に見えるよう演じて、相変わらず上手いです。ミドはカン・へジョン。信じられないくらいの愛らしさです。この幼い可愛さが、のちのち痛々しさを増す役柄です。出色はウジンを演じたユ・ジテ。好みの容姿ながら、「春の日は過ぎ行く」の情けないネチネチ男ぶりに憤慨していた私ですが、今回は内面に隠された狂気じみた孤独と怨念を、キザないやらしさで不気味に包み、若造だった「春の日〜」から格段に大人になっていて、すっかり惚れ込みました。

原作とは違う、監禁が15年間であるというのが鍵。「何故監禁されたかではなく、何故解放されたかが大切なのに、お前は問わない。」という、ウジンの言葉が全てです。韓国公開版にあるラストのあるシーンが、日本版ではないそうですが、それによって解釈が全然違ってきます。日本版の解釈より、韓国版の方が罪の重さを自覚して生きる辛さがあると思います。

デスを自分と同じ立場にして、苦しめ恨みを晴らすように見えるウジンですが、そうでしょうか?デスの行為がなくても、行き着く先は同じだったように思います。彼にはそれがわかっていたから、生きていくエネルギーを得るため、誰かを恨み復讐を遂げようとしたのではないか?その誰かがデス。彼の「孤独だ・・・」の言葉が胸に残ります。ラストはウジンの呪縛ではなく、生きる力を与えてくれたデスに、自分と同じ至福の喜びを(大変間違ってます)、ウジンは与えたかったのではないでしょうか?この作品が大ヒットとは、儒教の国・韓国も、価値観が多様化してきたのですね。


2004年11月08日(月) 「血と骨」(2)

昨日書いた文章に、書き足りないものがあったので追加です。年老いて病に倒れた俊平は、それでも自分の過去を省みて反省することなく、強気に生きます。人間誰しも老いれば普通の年寄りになっていき、今までの好き勝手のつけが回ってきたのだと、悔恨や反省が生まれるはず。段々自分より腕力が勝ってくる息子にも脅威を感じ、自分の人生のドアが、ゆっくり閉じられるのを感じるはずです。しかしそんな描写は希薄です。ここは平凡な年寄になった俊平を描き、どんな人間でも平等に老いは来るのだと表現し、俊平に哀愁を感じさす演出であれば、観る者の心を揺さぶるものがあったと思います。

唯一良かったのは、オダギリ・ジョーが演じた、若かりし頃俊平が人妻に生ませた武の描き方です。顔も見た事のなかった父親に、ありったけの反抗と憎悪をむき出しにすることで、切っても切れない親との深いつながりを感じさせ、それと正反対に腹違いの弟の正雄を可愛がる様子は、今まで孤独に生きてきた武の、兄弟がいたことに対する嬉しさを上手に表しています。極道とわかりきっている武に対し、尊敬と嬉しさの入り混じった想いで慕う正雄にも、血を感じることが出来ます。壮絶な父子喧嘩の果て、別れ際に「しっかり勉強せえよ。」と、平凡ですが自分を省みるような言葉で弟を抱き寄せる武は、とても兄を感じさせました。

出演者は私の個人的感想では、たけしは(1)に書いたようにダメ。鈴木京香は健闘していましたが、一世女性の、怖いほどの性根の座った心意気は表現出来ていません。この役は亡くなった金久美子に是非演じて欲しかったです。彼女の死がこの作品を観て、本当に悔やまれます。オダギリ・ジョー、松重豊、正雄役の新井弘文など、他も概ね好演でした。

松重豊演じる高信義は、俊平とは対極にある温厚・誠実な男性で、原作では同輩です。少々気弱いところもありますが、理性的で男性として充分な器を感じさせる彼を、この物語できちんと演出して欲しかったです。

原作からの?な変更は、俊平が二人の甥から、「クナブジ」と呼ばれていたこと。字幕では「叔父」でしたが、韓国語は同じ叔父でも「クナブジ=父親の兄」「チャグナブジ=父親の弟」など、言葉一つでどんな間柄かわかるようになっています。他にも叔母は、「コモ=父の女姉妹」「イモ=母の女姉妹」などです。原作では俊平は「チャグナブジ」です。養豚所を営む彼らからも、かまぼこを作った後の捨てるようなあらを払い下げ、お金を取っていた俊平でしたが、より吝嗇さを強調しようと、「クナブジ」に変更になったのでしょうか?でも日本の方にはわかるはずもなく、とても疑問に思いました。

どうしようもない極悪人の俊平ですが、長老婦人の叱責には口答えせず、映画では出てきませんが、高信義の妻には(原作では晴美ではありません)、絶対言葉を崩さず、ずっと敬語で通します。これは人の妻は一段高い位置になることを表します。事実夫と結婚した当時、弱冠21歳だった私に、倍の年齢の夫の先輩が、今もってずっと言葉を崩さず対応して下さっています。このような儒教の良き面も持ち合わせている俊平の善とも言える描写があれば、何故あのように彼の憎悪が家族に向かうのか、自分以外を一切信用しないのか、彼の抱える深い心の闇を解く鍵にはなったと思います。

私が日本に生まれたことには、自分にはわからない何か意味があるはずです。それは崔監督や鄭義信とて同じこと。ヒット小説の映画化、松竹系拡大公開と、せっかく一世を深く掘り下げることで、日本の方にも在日を理解してもらう絶好のチャンスだったのに、これでは誤解されないかと案じてしまいます。それとも人口の1/4が在日の生野区に生まれ育ち、今も住む私は、そのことで返って井の中の蛙になっているのでしょうか?


2004年11月07日(日) 「血と骨」(1)

冒頭朝鮮半島から出稼ぎにくる船に乗った人々を映す映像が流れ、薄汚い鶴橋の蒲鉾工場の描写から始まる原作のとの違いに、これは梁石日ではなく、崔洋一の「血と骨」なのだとすぐ思いました。あの長尺の原作のどこを拾い、どこを捨てるか、一気に期待は膨らみました。何せ原作・脚本・監督と、全て在日の三位一体の攻撃です。それがここまで落胆しようとは。

主人公・金俊平は、極道でも裸足で逃げ出すような凶暴な男です。並外れた大きな大きな体、気に入らなければ暴れてカタをつけ、気に入った女は強姦しても手に入れるのに、妻子を養う気持ちは皆無、たとえどんな理不尽な願望であっても、なんとしても叶えてしまう。加えて吝嗇。無頼・粗野という表現では、あまりに軽い人物です。

原作は約80年前に日本に渡ってきてからの、在日の歴史にも多く触れていますが、それは大幅に割愛。怪物のような金俊平の半生を描写することに徹しています。それは良いのです。しかし金俊平が得体の知れない怪物ではなく、ただの暴力的な男にしか見えません。原作では数々の彼の理不尽な蛮行の影に、この男の不器用さと孤独が透けて見えます。幾人かの愛人に向ける愛情に比べ、尽くし続ける妻を虐げる姿の後ろにも、一番懐に抱かれたかったはずの妻の、自分に対する心の底からの愛がないことを、敏感に感じ取る彼の寂しさも感じられます。でも映画では息子の正雄が言う、「頭のおかしいオッサンや」。これしか感じられません。

この作品は、金俊平を理解も共感も出来なくてよいが、何故こういう人間になったのか興味を持ったり、哀れを感じる事が出来なければ、成り立つ話ではありません。ビート・たけしは評判も上々ですが、私には一世の持つ生きる事に対しての迫力と執念、したたかさが表現仕切れているとは、思いませんでした。

妻・英姫の扱いもあまりに軽すぎ。映画では経済的力もなく、夫の理不尽な暴力に耐え忍んで神頼みで乗り切ろうとする、ただただ哀れな妻としか映りません。原作では、飲み屋・行商・闇市、果てはヒロポンの製造にも手を染める、たくましい生活力です。それはやり手というのではなく、自分からお金を搾り取っていく夫とひたすら子供を養うため、という健気な理由からです。

何故離婚しないのかというと、逃げ切れる相手ではない言うのもありますが、一度婚家を飛び出し私生児を産んだ英姫は、帰れる家がありません。当時離婚した女は家の恥とされ、二度と実家には戻れない境遇でした。それと夫のいない子供を抱えて女は、韓国人社会では大変軽く見られ、これまた蔑視の対象です。たとえ名前だけの夫であっても、自分のため子供達のため、我慢して耐えた方が良いの彼女の判断があったはずです。

しかしこの演出では、彼女も持つ一世の女性の根性も感じられず、事情のわからない日本の方では、不可思議に思っても仕方ありません。ここは臨近所と独特な濃密な付き合い方をする、韓国人社会を丁寧描き、長老格の人やオカミさんたちに、彼女の立場を語ってもらえば良かったのではないかと思います。

「血は母より、骨は父より受け継ぐ。」という韓国の言い伝えが、タイトルの由来。これからは、どんなに業の深い汚い血であっても、その血から逃げ切れることは出来ない、そういう意味があるように思います。それを一番表現するはずの長男・正雄の、自分の血に対する葛藤の描写が希薄。暴力は暴力で対抗する場面の果ての息子からの縁切り宣言では、彼に対する共感も薄らぎます。

今日はもう一度ざっと原作を読み返したのですが、私が一番腹が立った、自殺した俊平の娘・花子の通夜で、喪主の花子の夫が、遺体のそばで麻雀をする場面は、やはり原作ではありませんでした。確かに韓国人・朝鮮人の冠婚葬祭はどんちゃん騒ぎになるきらいがあり、遺体とは別の部屋で宴会のようになる通夜もありますが、年若い妻に先立たれた夫である人が、通夜の席で遺体の横で麻雀をするなどどいう蛮行は、聞いたことがありません。確かに在日社会は昔々の本国の価値観をひきづるきらいがあり、一世の男性の頭には、女はボロ雑巾くらいの感覚があるかも知れませんが、花子も夫も二世の設定です。誤解を与えるような表現はやめていただきたい。

事情を知らない日本の方が観れば、こんなに韓国の女は可哀相で男はひどいのかと思われてしまいます。確かに夫から理不尽な目にあった一世の女性は多いですが、大半はよく尽くしますが、気の強い人が多く、なぶられものだけで一生を終えた人は少ないと思います。

原作を読んだ時、ここまでではありませんが、やはり破天荒に生きた私の父、そして夫から聞く舅が重なりました。映画の俊平からそれは全く感じませんでした。一緒に観た夫も「あかんかったな。」と、概ね同意見。これが日本の人が作った作品であったなら、私もこれほど落胆はしなかったと思います。同じ血の通った人たちが作った作品で、これほど原作からの取捨選択、膨らまし方・しぼまし方にギャップがあるとは思いませんでした。ただしこれに書いたことは、完全に私の個人的な感想です。この作品は是非、他の方の感想を読んでみたいです。


2004年11月02日(火) 「ソウ SAW」

今日はナビオTOHOまで、この作品を観てきました。チラシに「『セブン』+『CUBE』の味わい」とあったので、この手の作品が大好きな私は、期待大での鑑賞です。

二人の男が目覚めると、そこは老朽化した汚いバスルーム。片足には鎖がはめられ、部屋の端と端に対極につながれています。中央には、頭部を打ち抜いたと思われる血だらけの死体が。何故ここにいるのか、皆目検討も付かない二人。ここから生きて出られるのか?・・・

といったストーリーです。予告編で「一人でストレスを溜めながら観てください。」みたいな文句が書いてありましたが、なるほど、もうちょっとであそこに届くのに、もうちょっとで連絡がつくのに、などの連続で確かに観ていてイライラします。しかし監督の言葉の、「疲労困憊になって欲しい。」というほど、息づまる感じではありません。

私は練りに練った脚本で、寸分の隙もない展開かと思っていましたが、結構ほころびもあるのです。特にオチは、サイコ物なら夢オチや多重人格で辻褄合わせしても良いのですが、これはシリアルキラーに理不尽に命を狙われた小市民のお話なので、観念的には理解出来ても、実際はとても無理なお話です。その直前までが手に汗握ると言う感じだったので、本当に惜しい!

狭いバスルームでの閉塞感・不条理感、生命の危機を前にしての露悪的な人間性の描写は、確かに「CUBE」を思わせましたが、描き方の詰めが今一歩甘い感じがします。「セブン」を思わす、堕落・罪・それを罰する殺人鬼の狂気の道徳観や哲学なども、無理なオチのため軽く感じます。

とはいえ、ラスト20分くらいの二転三転する展開は見応えがあります。グロさや生理的嫌悪を感じる場面も、これ以上見せると悪趣味になる手前で節度があり、視覚より心理的な痛さや怖さを感じさせる作りになっており、猟奇的な部分もありながら、品格は保っていました。

監督は弱冠27歳のジェームス・ワン。初監督作だそうです。脚本・主演はリー・ワネル。巷で聞くほど、傑作スリラーとは思いませんでしたが、若々しいエネルギーを感じ、面白く観られる作品でした。


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