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2002年01月30日(水) きれいなのは壁だけ

最近何を考えて生きているのか。何も考えてない。本当にそれが答えのような気がしてくる。

今日も昼過ぎてから活動。近頃特に恐れているのがハウスダスト。
潔癖症とは言えないまでも、目に見えないような汚れなんかには耐えられない。石鹸を使いたがらないのと、公衆電話、公衆トイレ、中古の名のつくものを好まないのもそのあたりが理由なのかも。それと部屋が片付いていないのとは別の問題であると思っている。散らかしたのは自分であるし、それほど几帳面でもないので。開き直るんじゃなくて改善すべきですね。 それに、整理整頓が苦手でもない。あらゆる書類やファイルの整理、バイト中でも売り場なんかは整理し始めると止まらない。

完璧にやるか、全く手をつけないかどっちか。いつも、何でもそう。

とはいえ今日は埃を恐れて部屋ごと掃除というのを決行。掃除機だけじゃなく窓も玄関もテレビの後ろも。というのも、確実に一番回数の多い訪問者K氏に爆弾のような指摘をされたため。あらゆるものが床に散乱しており、足の踏み場もない。彼にとっては初めて(らしい)部屋が片付いていたという日に聞いた感想。

いやいやお恥ずかしい限りである。

本当に何も考えていない毎日なので、ぴかぴかキレイな部屋で、なんでもないことを書いてみるだけである。

すでに、世間とういよりごく一部の人々に私の生存を示しているだめだけ日記にすぎない。

夕方バイト。
90210の最終回(ドナの結婚式の場面)で聞いた歌が流れていた。
ラストを飾るにはもってこいだ。そう思ってここでバイトの日々を振り返る。
今月末で退職である。最後のご挨拶とか、どういう思いを浮かべてここを去ろうかとか明日でいいこと、明日になればわかることとかを黙って考えていた。

それでも今日のニュースはショックだ。こんな形で真実に蓋をしてしまうの??


2002年01月25日(金) Die Abwesenheit

今日は午前中に編入学のカウンセリングを受けるため、いつもより早く起きて、京都駅前にある日本編入学院というところに行った。時間短かったけど、在学中の成績はどのくらい関係するかとか、おおまかな勉強法、英語がいかに重要視されるか、専門分野に関する参考文献等、疑問だったことはだいたい解決し、最低限かつ重要な情報も得られた気でいる。
後は実際に勉強に取りかかるのみ。

思わず口を閉ざしてしまうことだってあるわけです。今日は・・・

よく、友達と過ごしている時が、最も孤独を感じる時だというのを聞いたことがある。私も今日たぶん初めて、そう感じたのかもしれない。今ここに集まってる人たち、おのおのの、心の目はどこを見てる??そして私も。家に帰れば一人なんだっていうのはもう慣れてる。寂しいのには慣れてる。だけどどうしても、いたたまらない気持ちになる時がある。一人の時は、思いもしなかったような感情が現れる。

そして、次に映るのは自身の姿。私は、自分に自信があるとはいえない。いつも、どこか卑下する自分がいる。頭が良くないのもそうだけど、ブスだとか、そういう外見的なことも含めて。

何かしら美しいものを愛すると、どんどん自分が惨めになる。自分の醜い姿が見えてくる。それを隠そうとするために、私は黙ってしまうのかもしれない。

だけど、そんな私の欠点も何もかも包み込んで、見守ってくれる人、それは私の全てであり、生涯好きでいられると信じている。一番私らしい私でいられる時。ありのままの私を見てくれる人がいるとき、私は初めて自分を好きだと言えるようになる。

「君が僕の生き方愛す度に 少しずつ自分を好きになれた。」
(CHAGE&ASKA『僕は僕なりの』) 

Wishing you were somehow here again.


2002年01月23日(水) 信じるということ−信心−

何もない水曜日。
昼過ぎに起きてバイトである。

今日は仏教における信について。
仏教における信心とは、師に巡りあい、仏に照らされて人間的に成長することを意味する。それは自己が明らかに知れてくる心である。(N.Nabeshima)

ここで、法然の歌が紹介される。「松風の 暗きは月の光かな」
1本の松の木、それを照らす月、そして木の影を想像してほしい。光があるから、そこに影は現れる。光がなければ、そこは闇。木は、自分自身である。影は自分の悪いところ、醜いところ。仏が自身を照らしてくれるから、自分のそんな影の部分も見えるということだ。

「自分の暗さを知ってこそ、また本当の意味で相手を思うことができる。
自分を知ることが深ければ深いほど、人はいきいきとしてくる」(ハイデガー)

私自身も、先生をはじめたくさんの人と会ううちに、自分の色々な面が見えてくることがわかった。自分を照らしてくれる場所で、自分の姿を見る、鏡を見るように。そこには嫌な面もたくさんあるし、それを認めるのは怖い。
しかしそれを冷静に見つめることが、人間成長の上で重要なことなのである。

自己の罪悪性を知り、ありのままを受け容れること(機の信心)から始まる。
そして自己を見捨てない(法の信心)。

「真実に出会うとは自己の愚かさに出会うこと。」

自分の全てを包みこむ。私には今までできなかったことである。


2002年01月16日(水) 信じるということ−愛憎同根−

最近は本当に何もない日々を過ごしている。
これもまた抽象的だが、ただ生きてるだけなのだ。

本日は仏教のテスト。全部持ち込み可とはいえ昨日からの体調不良で、起きてるのもやっとなくらい。字を読むも疲れる。なんとか書くことはできた。

そのあとモートン英語。Thank you noteというのを結局書いていなかったので、実際今日が最終ということを忘れていたため、授業中に書いていた。
あまりよろしくない。どっちもおろそかになるからだ。

こんな風に、いつも時間に間に合わないで、中途半端なものしか仕上がらない。原因はやはりグズだから、それだけである。bad habit

人間関係における信について突然話したいと思う。以下は「仏教の思想(N.Nabeshima)」に基づく。

誰かを信じる、それはある程度の交流をもってその証拠に基づいて信じる、つまりわかっているから信じる、のである。同時に、相手の不確実な部分をなお認めようとする。わからないから信じるのだ。

もともと、他人同士なんだからわからない部分をもっているのである。信じるというのはどこかに疑問点がある。自分自身にもわからないことがあるように。

愛と憎悪とは言葉の意味こそ逆であっても、実態は別個のものでないというのは事実だろう。どれだけたくさん愛しても、一度裏切られると、同じくらいの憎悪に変わってしまうのだから。

「信のなかには常に疑いや心配が含まれているのである。それは蓋然性の問題である。相手に対する是認の態度であり、あてたよりにはしているが…。」(N.Nabeshima)

信。
信愛のひたむきさと悲しさ、裏切りをも恐れないことを意味するものだ。


2002年01月07日(月) 凛とした窓の外

今日から学校が始まった。
遊ぶときは遊ぼうと開き直ったせいで、
すっかり休みボケ。
おかげでNHKの副音声が理解できなくなったのと、
択一、しかも一回やったやつを、立て続けに間違うようになってる。
記憶が飛んで、頭が回っていないためだ。

2こうなかったので、みきと図書館でお勉強。
といっても簿記だけ。手使うだけでできるようなとこだけ。
ちょっとした目覚まし、にもならんかったが。

目も頭もボケボケ。
早く元に戻らないと。


川村 |MAIL