心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年04月22日(月) ありのまま願望の落とし穴

アスペルガー症候群(ASD)である狸穴猫(まみあなねこ)さんが、当事者の視点で書いている「アスペルガーライフblog」を時々読んでいます。

最近読んでいて「おおっ」と思ったのが、この二つのエントリ

定型者の自己イメージとASD者のありのまま願望
http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-572.html
定型者の自己イメージとASD者のありのまま願望(2)
http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-573.html

この二つのエントリに目を通して頂いた前提で話を勧めるのですが、エントリ中の図

定型発達者の自己表出構造

で、「根っこの自己」と表現されているのは、むき出しの本能のことでしょう。(この本能とは12ステップで言う本能で、人間の持つ様々な欲求・欲望のこと)。

その上に載せられている「切り替えられる自己」の多層(複数レイヤー)構造は、「社会性」というものでありましょう。

私たちはこの複数のレイヤーを、場面ごとに切り替えながら使っています。その切り替えはかなり自動的に行われているのであまり意識されません。職場、家庭、趣味のサークルなどで、それぞれ別のレイヤーを使い分けているでしょうし、同じ職場でも上司相手と部下相手では違うレイヤーを使うでしょう。

社会性について少し掘り下げてみます。以前、自閉症協会の会長さんの講演を聴いたことがありますが、その講演の中で会長さんは

「なぜこの部屋の中に歌を歌う人がいないのでしょう?」

と問いかけました。50人、100人と集まっていれば一人ぐらい歌を歌うヤツがいてもいいはずだ。・・・いや、そう言われても、僕がここで歌わないのは、講演を聞いている最中に歌い出して「変なヤツ、頭のおかしなヤツ」と思われたくないからです。それが社会性です。

僕だって、部屋で一人でご機嫌なときはふんふんと鼻歌ぐらい歌っているかも知れません。そのようにどのレイヤーを使うかは意識せず自動で切り替えられています。

僕らは苛立ちをモノにぶつけたくなるときがあります。イライラして椅子を蹴ったり、紙を破いたりしたくなる・・でも、そうしない理由は、自制心の足りない未熟なお子チャマだと思われたくないからです。

人には共存の本能があり、社会に属したいという欲求があります。人から認められるという承認欲求を満たさないと、私たちは生きていけないのです。だからこそ私たちは社会性を身につけます。上の図はそれを多層のレイヤー構造として表現しています。

発達障害を持つ人(中でも自閉的特性を持った人)は、シングルレイヤーと言って、このレイヤーが多層構造しておらず、単層(あるいはせいぜい数層)になっていて、しかも、そのレイヤーは意識的な努力によって維持されている、というのです。

シングルレイヤーの人でも共存の本能があるので、一人は淋しい。だから人付き合いに外に出かけていくのですが、ぐったり疲れたり、あるいは失敗して傷ついて帰ってくる・・・一人のほうが楽で良いけど、一人は淋しくて・・これの繰り返しが多いんじゃないかと思います。

定型発達の人は多層構造を無意識に維持しているがゆえに、「根っこの自己」との乖離は意識することはあまりありません。しかし、シングルレイヤーの人は、そのレイヤーを意識的に維持しているからこそ、乖離を強く意識する結果になるのではないか。だから、疲れない付き合いや社会参加を求めて「根っこの自己」を受け入れてくれる人間関係を求める。それが「ありのままの私を認めて欲しい」という希求につながるのではないか、という洞察が、上記のエントリの主張ではないかと思います。それには僕も同意します。

では、この「ありのままの私」が周囲に受け入れられる可能性があるかと言えば、答えはノーだと思います。「ありのままの私」とは社会性を伴わないむき出しの本能であり、そのままで行動すればわがままで未熟な存在と見なされてしまうため、他者と衝突することになり二次障害のうつでも引き起こすのがせいぜいだと考えられます。

だからと言って、レイヤー数を増やそう、とか思わずに、自分があまり無理せず維持できるレイヤーを維持しつつ、「変人枠」を活用して社会の中に活路を求めなさい、という話でありましょう。

ここで話は「アスペルガーライフblog」から離れます。

なぜ発達障害の人がAC(アダルトチルドレン)の文化にあこがれるのだろうか、それは彼らのシングルレイヤー特性が理由なのではないか、という話をします。

アダルトチルドレン(AC)とは、アルコール依存症の親の元で育った子(ただし成人したもの)の中に、社会に適応しながらも心の中に大きな不全感を持った人たちが目立ったことから生まれた概念です。

人間は誰しも「家庭」という一番小さな社会の中で「社会性」を子供の頃に身につけ始めます。それが社会性の一番の基盤をなします。しかし、アルコール依存症の親がいる家庭の場合、その「一番小さな社会」は世間のスタンダードとは大きく外れた基準がまかり通っています(つまり歪んでいる)。子供はその家庭に適応しなければ生き残れないので、その家庭の(歪んだ)スタンダードを身につけつつ大人になります。しかし、その社会性は、その子が大人になって出ていった一般社会では通用しません。そこで、適応に齟齬をきたしたり、過剰適応に至った結果、大きな不全感を抱くことになります。

AC概念は定型発達者を前提としているでしょう。社会性イコール前述の多層(レイヤー)構造です。ただ、そのレイヤーが現実に適していない、ということです。

ACは新しい社会性を身につける必要がある(その点では回復の手法はアル中と変わりない)のですが、そのためには、古い役に立たなくなったレイヤーを捨て、「ありのままの自分」をいったんは明確に意識する必要があるのだと思います。

赤子のような本能むき出しの自分を意識しつつ、新たな社会性を身につけていく(現実生活に適した多層構造を再獲得する)のが、ACの回復であり、まさに「回復と言うより成長」なのでしょう。ACというのは、分厚いレイヤーを構築する能力が元々あるわけですから、再獲得にも見込みがあります。

しかしここにシングルレイヤーの人が乗っかってしまうとどうなるか。彼らは「ありのままの自分を取り戻す」というアプローチに魅力を感じます。なぜならそれは単層レイヤーで社会適応に苦労してきた彼らにとって魅力的な出口に見えるだろうからです。

しかし、分厚いレイヤーを獲得する能力を持った元来のACとは違って、この自称ACのシングルレイヤーの人たちは、本能むき出しの状態に留まってしまうか、あるいはせいぜい再獲得できてシングルレイヤーに戻るぐらいです。結局「ありのままの自分を取り戻す」アプローチは、彼らにとって出口ではなく、むしろ社会性を減じてひきこもりや無業にしてしまう落とし穴になっているのじゃないでしょうか。

AC概念がアルコール依存症の子供に限られていた時代は、このようなミスマッチは少なかったのでしょうが、概念が機能不全家庭の子供にまで拡大されたことが、AC誤認を可能にしたと言えます。

それが僕がAC概念を使わなくなった理由の一つです。

ではシングルレイヤーの人には「ありのまま」アプローチの代わりにどんなアプローチが考えられるのか。僕はそんなに経験があるわけじゃありませんが、一つのことは言えると思います。

それは、上に書いたようにシングルレイヤーの人にも当然に共存の本能があることです。彼らは他者からの承認を強く求めています(その希求がありのまま指向となって現れているとも言える)。その承認欲求を満たすことが彼らが自己実現へ近づく道なのだと考えます。

具体的手段は、個別のケースごとに異なるでしょう。例を挙げれば、無業の人の場合には働くことが自己実現であり、承認欲求を満たす一つの手段です。一般雇用が可能なら普通に働けば良いし、場合によっては障害者雇用でも、時々バイトするぐらいでも良いのですが、働いて金銭を稼得することは、一般的に認められやすい、つまり承認を得やすいことですし、それが本人の自信や生きる喜びにつながっている例は多数あります。もちろん、働くことは多様な策の中の一つに過ぎないことは強調しておきます。被災地のがれきの片付けに行くことから充足を得る人だっているのですから。

他者の承認を求めるのは、人間の重要な欲求の一つであり、それを否定してはならないのです。しかし「ありのままの自分」が他者の無条件の承認を得ることはありません。赤ん坊ならいざ知らず、大人にはその可能性は与えられていません。「ありのままの私」は自分一人だけが認めてあげれば十分であるはずです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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