心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年12月12日(水) 上から目線

上から目線についての話をする前に、世の中の序列について話をしなければなりません。

世の中、何にでも序列ができるのは避けられません。例えば、あなたがスイミングスクールに入って水泳の上達を目指すとします。スクールの会員は全員平等です。しかし、目的が水泳の上達なので、そこに優劣が生まれます。泳ぎのうまい人は、このようなフォームだと早く泳げるとか、息継ぎやターンのやり方、トレーニングの工夫など、いろいろなスキルを持っています。ビギナーにはそれがありません。だから、ベテランはビギナーに教えることができます。

世の中、どこへ行っても、こうした何かの基準で序列や上下関係が生まれることは避けられません。

けれど、例えば会員が集まって忘年会をやりましょう、という話になったとき、ベテランの意見が重視されるとは限りません。むしろ親睦を深めるために、新しい人たちの都合にあわせて日取りを決定することも十分あり得ます。これが平等性というものでしょう。

目的が序列や上下関係を作り出す。しかし、目的とは無縁な評価基準はここに持ち込まないのが集団の平等性、民主制ということでしょうか。

泳ぎがうまくなりたい人は、コーチやベテランから教えられても「上から目線が気に入らない」とは思わないはずです。思わないのは、教えてくれる相手の持つ技量への敬意があるからでしょうね。自分もそれを欲しいし。

一方、初心者が別の初心者の泳ぎを見ながら「あいつは息継ぎが下手だなあ。具体的には××が○○で・・」などと言っていたとすれば、「お前も初心者で、自分もできてないのに、上から目線で何を言っておるんじゃ!」となるでしょう。

つまり「上から目線」と感じるかどうかは、相手の態度の問題というより、自分が相手をどう評価しているかにかかっています。自分が相手を高く評価していれば「上から目線」とは感じないし、相手を低く評価していれば「上から目線」と感じる、というわけでしょう。「上から」という表現そのものが序列を前提とした言葉です。

ところで、最近ネット上では「上から目線」に対する批判が目立つような気がします。

確かに「上から目線」は気持ちの良いものではありません。しかし、そう感じるかどうかは自分の問題ですから、「上から目線は良くない」と主張するのも何かしっくりきません。

そこで言われている「上から目線」は、上の例で言えばベテランに教えてもらっているのに、それが気に入らないという怨嗟の声です。(会社の新人教育担当者の態度が上から目線で気に入らないので、入ったばかりの会社を辞めちゃった、みたいな)。

「上から目線」への抗議は、ルサンチマンなのではないでしょうか。

ルサンチマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3

上に書いたように、社会の中ではどこでも序列が発生しうるため、人は誰でも何らかの序列の下位に置かれることを避けられません。その人に能力や意欲があり、周囲の状況が許すのであれば、その序列の上を目指すことができます。しかし、それができない時に、人はルサンチマンによって自分を正当化します。

貧乏から抜け出せない時に、金持ち(資本家)を敵と想定して、「あいつらは悪人だ、だから俺たちは善人なんだ」という正当化がなされるわけです。これは想像上の復讐です。

努力しているのに貧乏から抜け出せないとか、何らかの制約によってその努力すらできない、という人がルサンチマンに一時の慰めを求めるのは理解され、同情されるべきことなのかもしれません。

しかし、「上から目線」への抗議は、同情されるべきルサンチマンとはどこか異なっている気がします。自らの無気力や怠惰に気づきつつ、それを自己正当化するために、問題を相手に転嫁する独善的な臭いが漂ってくるのです。「あいつは上から目線だから良くないのだ。だから私のこの反感は正当なのだ」という論理です。

では、自分がその類の自己欺瞞に陥らないためにはどうすればよいか。その答えは平安の祈りの中に見つかるのではないでしょうか。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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