心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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2011年01月25日(火) ふたたび心の理論

発達障害の話。

「注意欠陥・多動性障害」とうのはその頭文字の「ADHD」という略語が使われる場合がほとんどです。ただ、「えーでぃーえっちでぃー」というのは略語として音節があまり減っていませんね(TNP27と同じ)。

発達障害の話題を取り扱ったブログなどを読むと、アスペルガーに「AS」という略語をあてている場合があります。これは Asperger の先頭二文字だとずっと信じていたのですが、実は「自閉症スペクトラム(autism spectrum)」の頭文字のようです。

ASについて気がついたことがあります。
これは本に書いてあったとか、だれぞ先生の講演で聞いた話と違って、僕が観察と帰納的推理によって導き出したものなので、ほとんど自分用メモのレベルです。

ASの人は

・人の気持ちが分からない
・空気が読めない
・話の流れが分からない

という特徴があります。これはAS関係の本を読めば書いてあることです。

けれど、ご当人は、自分にそんな特徴があるとはまったく思っていないものです。つまり、ご当人は「自分は人の気持ちが分かる」「空気も読める」「話の流れも分かる」と思っているということです。できないことの自覚がありません。

「心の理論」については以前書きました。
(参考リンク:http://www005.upp.so-net.ne.jp/ma2ma3/kokoro.html

前回の雑記で、最も基礎的な Perspective Taking の能力を身につけるのは3〜6才となっていました。
Perspective Taking というのは「他の人が何を考え、感じているかを想像する能力」です。

心の理論の課題を再掲します。
子供(A君)にチョコレートの箱を見せます。「何が入っていると思う?」と質問すると、答えは当然チョコレートです。箱を開けて見せ、中身が実は鉛筆であることを示します。箱を閉じたところへ、B君が部屋に入ってきます。そこでA君に再度尋ねます。「B君にこの箱を見せて、中に何が入っているか聞いたら、なんて答えると思う?」

正解はチョコレートです。B君は中身が鉛筆であることを知りません。箱だけ見て「チョコレート」と答えるでしょう。

3才の子供にこれを試すと、ほとんどが「鉛筆」と答えます。Perspective Taking の能力がまだ発達していないので、B君の気持ちが想像できないのです。4才、5才になるとほとんどが正解します。ダウン症の知的に遅れのある子供でも、この課題の通過はあまり遅れません。しかし自閉症児の場合には10才ほどにならないと、この課題が通過できません。

アスペルガー症候群の場合には、心の理論の課題通過はこれほどの遅れがないようですが、質的な違いが指摘されています。それはつまり、心の理論の課題通過は、心の理論の獲得を意味しないということです。以前掲示板でブログを紹介した狸穴猫さんは、彼女が定型発達者とのコミュニケーション手法を、外国語講座のシチュエーション場面を丸暗記するように憶えていったのだそうです。

ASの人はパターン学習のような丸暗記が得意だということを踏まえると、「答えはチョコレート」と記憶することで先ほどの課題を通過できます。

つまり自閉症に限らず(アスペルガー、PDDNOSの別を問わず)AS全般に「人の気持ちが分かる」能力がそれほど発達することはなく、その代わりにパターン学習・観察・記憶しているパターンへ当てはめという戦略によって「人の気持ちを推理している」のではないと思うのです。

アスペルガーの人が心の理論の課題に取り組むとき、定型発達者とは脳の別の部位が活発になっていることが確かめられています。

だとするならば、ASの人の「人の気持ちを分かろうとする」努力は、知的作業である(のかもしれません)。

定型発達者にとって見れば、「人の気持ちを読む」ことは必ずしも知的作業ではありません。「空気が読める・読めない」ということが挙げられていますが、この場合の空気(雰囲気)とは圧力のようなものです。例えば、会議で延々一つのテーマについて話し合って、もうみんながウンザリしてきている時。そろそろ結論を出したい(それが最善の結論でなくても)。もはや新しい視点や意見など歓迎しない。そこで「もう何を言っても無駄だし、言わない方が良い」と感じるためには、何も知的な作業は要りません。相手の顔の表情や声のトーンが雄弁に物語っているからです。この時、雰囲気とはまさに「圧力」です。

これをASの人は知的作業、つまり考えることによって推理しているのではないか。それは幼い頃から獲得された能力なので、半ば無意識に行われており、推理しているとは本人も自覚していないのかもしれません。そしてその能力を「これが人の心の読み方だ」と思っているのではないか、というのが僕の考えです。

それが知的作業であるならば、知能の高低と関係あるはずです。
社会性の障害が重くないアスペルガーやPDDNOSの人で、知的に高く、社会適応に意欲的な人であれば、この代替能力を磨いて自覚なく社会にとけ込んでいることは十分考えられます。しかし、それは本当の Perspective Taking とは違う作業なので、より濃い人付き合いを求めるほどに「疲れ」を招きます。また、なまじ能力が高いだけに、より深刻なシチュエーションで過ちを犯します。

(四輪駆動車は普通の車より困難な場所で立ち往生する)。

その結果、人間不信に陥ったり、意欲を失いうつになったり、激しく傷ついたりしているのではないか。

ASの人たちは寂しさを抱えた人たちです。寂しいからこそ人との触れあいを求めるものの、人付き合いは(知的作業を伴うので)疲れるし、時に理解できない人間関係のトラブルに巻き込まれてうんざりし、やっぱり一人がいいと思うものの、一人は寂しい(最初に戻る)。

ASの人たちは自分に能力がないことにまるで自覚がない・・それが悲劇の原因の一つではないかと思うようになりました。

類似例を挙げます。アルコール依存症の人は、酒を正常に飲む能力を失った人たちです。しかし、教えられるまでは、もう正常に飲めないという自覚がありません(僕もそうでした)。能力がないのに、正常に飲もうと要らぬ努力を重ねているうちは、悲劇が増えるばかりです。「君にはその能力はないよ」と教えられたとき、酒をやめる方への努力が始められ、解決へと向かいます。

ASの人が「あなたのその能力は普通の人とは違うし、限界もある」と指摘されればショックかも知れません。しかし、それによって悲劇を防ぐこともできるし、代替能力をさらに育てる方向へと向かえる。そう考えます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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