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2010年12月06日(月) 発達障害とAC概念の混同

境界線の問題と発達障害について考えています。

境界線(バウンダリ)というのは、他者と自分の間の境界です。健全な境界線を保つことは、健全な人間関係に必要なことです。これがきちんとしていなければ、対人依存や共依存の問題を抱えることになります。また、他者が自分の心の中に土足に踏み込んできたり、不当な要求をされたときに、ちゃんと「ノー」と言えなければ、自分を犠牲者にすることになります。精神の健康のためにも、健全な境界線を保つことは必要です。

ビッグブックのステップ3のところ(p.89〜)に書かれている「何もかも仕切りたがる役者」の話も、基本的に境界線の問題なのでしょう。回復とは「常に自分の頭の上のハエを追う」作業なのですが、自分の問題から目を背けて、人の問題にクビをつっこみたがる傾向はなかなか拭えません。

境界線というと考えるのは「甘え」の問題です。ここで言う甘えとは「他者に対する不当な要求」です。

例えば僕はAAにつながったばかりの頃、人間関係が荒廃して寂しい状態でした。そんな僕のことを相手にしてくれるAAの「先ゆく仲間」の存在をとてもうれしく思い、毎晩のように電話してウザがられました。相手が迷惑している(自分が不当な要求をしている)ことに気づかなかったのです。健全な境界線を保つ方向に努力すれば、こうした形で人を傷つける(やがて自分も傷つく)ことは避けられます。

では境界線はどうやったら保つことができるのでしょうか?

(おそらく)健全な境界線を保っている人の多くは、「どうやったらそれができるか」なんて言語的に考えずに自動的に行っているのでしょう。つまり「場の空気を読む」というやつです。この場の空気を説明しみろと頼んでも、論理的にうまく説明してもらえるとは限りません。

前述の例で言えば、僕からの電話を相手が迷惑に感じていることが、相手の言葉やトーンから「それとなく」感じられれば、もうあんまり電話しない方が良いなと判断がつきます。

広汎性発達障害やADHDを抱えた人は、「空気を読む」「それとなく察する」ことが苦手です。人の気持ちを想像するという能力に障害を持っています。当人は自分がそれができない自覚を持っていません(空気は読めると思っている)。子どもの頃からの成長の過程で、周囲を観察し、ふさわしい行動を考えて導き出す訓練を積んでおり、それによってなんとか社会に適応しています。(彼らの「人と同じようにできる」の根拠はこれだ)。

しかし、それは「肌で感じる」ような自動的なものと違って気苦労も多いし、どんなに考えることに長けた人でも時に手痛い失敗をします。四輪駆動車が普通の車よりより困難な場所で立ち往生するのと同じで、能力の高い発達障害者ほど、より手痛いミスを犯します。結果として自己評価は下がり、自分はできない人だと落ち込むことになります(いやできないのは確かなのだが、だからとて人として劣っているわけではない)。

電話の例を続ければ、相手が迷惑がっていることに気づかずに電話を続けたとすると、やがて相手はやんわりと電話を断ってくるし、それにも気づかずに電話を続ければ、やがて怒り出します。その時になって初めて気がついたとすると、あんなに親切だった人がなぜ急に手のひらを返したように冷たくなったのか、と裏切られた気分になり、人間不信や自信喪失を味わうことになります。

発達障害の人は、自分の何が悪かったのかもわからないまま大変に傷つき、寂しい思いをし、自己評価を下げています。発達障害の問題を指摘し、納得してもらうことは、その人が子供の頃から持っていた「努力すれば人と同じようにできるはず」という偽りの完全性を突き崩すことになるので、一時的にはその人にマイナスです。しかし、やがてその人の自己評価を持ち上げ、自信を持つ結果へとつながるでしょう。

「場の空気をそれとなく読んで、ふさわしい行動を選択する」ことができないのは、何も発達障害の人に限りません。ふさわしい行動とは「見えないルール」のようなものです。人は育った家庭の中で、このルールを身につけていきます。しかし、原家族内のルールが世間一般と全く違っていたらどうでしょうか。育った家庭の中では通用したルールも、学校へ行き、やがて社会に出るようになると通用しなくなります。

アルコール依存症や薬物依存症の親がいる家庭では、世間とは違った「見えないルール」が適用されています。そこで育った子供たち(AC)が、社会に出たときに、いままでのルールが通用しないことでトラブルを起こ、人を傷つけ、自分も傷つきます。これは、

「ジャングルの中で育った人が、生活に必要なものだからとサバイバルナイフを片手に街角に立っているようなもの」

だと例えられます。ジャングル(原家族)で学んだルールではなく、街角(社会)でのルールを学びなおす必要があります。

こうして見直してみると、空気(見えないルール)が読めない人には二種類いることがわかります。ひとつは、発達障害に起因してもともとその能力を欠いている人。他方は、能力はあるのだけれど間違ったルールを覚え込んでしまったACです。適応障害という観点から見ているだけでは、この二つは区別がつきません。

こう考えてみると、AC概念に対して感じているモヤモヤ感が晴れます。つまり、自分をACだと言っている人の中には、実は原因が原家族(環境因)ではなく、発達障害(素因)による人がたくさん混じっていると考えられます。

クラウディア・ブラックの提唱したAC概念はスッキリしたものでした。ところが日本のAC論を読むとどうしても「霧が晴れない」印象をぬぐい去ることができません。この違いはどこから来たのでしょうか。おそらく、日本においてACの概念を、ACoA(アルコールや薬物依存の親を持つ人)から、ACoD(依存症でなくても機能不全の家庭で育った人)へと拡張された結果、症状が似ている発達障害の人たちがAC概念に飛びつき、問題をややこしくしてしまったのだと思います。

なにせACoAであるためには、親が依存症でなくてはなりません。そうでなければACoAにはなれません。ACoDの場合は、原家族が機能不全であればいいわけです。機能不全であるかどうかは(DVや虐待と同じく)外から観察することが難しく、性被害と同じで当事者の申告を重視せざるを得ません。「自分をACだと思えばACだ」との言葉の通り、発達障害の人がACを自認するにはなんの障害もありませんでした。

依存症の人の中に発達障害を抱えた人がかなりたくさんいます(実は依存症でなくて、発達障害の二次障害で乱用状態になっているだけの人も相当いるでしょう)。同じように、ACを自認する人の中に、実は別の問題=発達障害という人がたくさん混じっている、という印象を強く持っています。

境界線の問題は古くからあるものです(昔から人間は人間関係で悩んできたのですから)。それがACの概念を確立させる中で、ACの特徴の一つとして取り上げられました。境界線の問題についてのセミナーなども開かれています。しかし、本質が発達障害である人が、境界線のセミナーへ行ったり、本を読んでみても、得るものは少ないでしょう。それどころか、かえって傷ついてしまったり、トラブルを拡大する方向に行きかねません。本来のACである人は見えないルールを学び治すことができても、発達障害の人にとっては場所を変えて同じ間違いを繰り返すことになり、自己不全感を拡大するだけに終わるのですから。発達障害には発達障害に合わせた支援が必要です。

もちろん、ACoAの問題と発達障害の両方を抱えた人もいるし、さらに親ばかりでなく自分も依存症になってしまった人もいるので、話はややこしくなるばかりなのです(重ね着症候群という言葉を紹介しておきます)。

依存症、AC、発達障害の入り交じった問題を、きちんと整理しなおす必要があるのでしょう。ACの問題を取り扱おうという人は、ぜひ発達障害のことにも目を向けて欲しいのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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