心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年07月05日(月) 大阪とコロンバイン

トラウマを扱った講座の話をもう少ししてみます。

池田小事件を覚えているでしょうか。
大阪の附属小学校に刃物を持った男が侵入し、児童を殺傷、8人が死亡、15人が重軽傷という大事件で、メディアにも連日大きく取り上げられました。講師の先生は、この事件のときに被害があった小学校の子供たちや、その親のメンタルケアをするために派遣されており、その経験を話されていました。

被害者の親たちは、非常に怒っているわけです。犯人だけでなく、事件を防げなかったという理由で学校・警察・社会全体に対して激しい怒りを抱いています。人間は傷つけられるからこそ、怒る(恨む)わけですが、ではその傷をどうやってケアしたらよいかを考えねばなりません。

調べてみると、アメリカでも似たような事件が起きています。コロラド州でコロンバイン高校銃乱射事件というのがありました。いじめを受けていた高校生二人が学校で銃を乱射、死亡12人・重軽傷24人という大事件です。当然そちらの親たちも、激しく傷ついて怒ったわけです。

しかるに事件から1年後、事件のあった図書館を取り壊すのか、それともメモリアルホールとして残すのか、学校と親を交えて話し合いが行われました。その記録を読むと、親たちは感情的にならずに、実に冷静に話し合いをしているのだそうです。しかし、池田小の現場にいると、とても1年や2年でそんな落ち着いた状況になるとは思えない、この日米の違いは何なのか、アメリカの親たちはどうやって傷を乗り越えられたのか、それを調べたのだそうです。

コロンバインの親たちは、この事件は私たちに与えられた mission であると考えたのだそうです。つまり事件や子供の死は神から与えられた試練であり、(その意味は人智を越えているのでわからないものの)試練を乗り越えることが自分の人生の目的・目標であるという理解に至ったというわけです。だからそれに負けてしまっては、生きる意味が失われてしまいます。

その親たちが、特に信心深いとか、宗教に熱心というわけではなかったのですが、いざ人生の危機が訪れたときに、最終的に頼りになったのは心の奥底にあった根源的な信仰でした。

日本人は非宗教的な国民だと言われます。しかし、日本人がもともとそうだったわけではありません。第二次世界大戦では、宗教が戦争に協力をしました。宗教ばかりではなく、政党も新聞も戦争協力をした時代だったのですから、宗教ばかりを責められません。しかし、戦後日本が戦争を否定するときに、戦争に協力した宗教も捨て去ろうとしたわけです。

無宗教化、総中流化、単一民族化によって(実際にはそのどれも実現していないのですが)日本には理想的な市場が誕生し、それが戦後の経済復興を助けたのは言うまでもありません。得たものも大きかったものの、その過程で失ったものも少なくないはずです。危機のときに人生に生きる意味を与える根源的な信仰心もその一つだったのではないかと思います。怪しげな宗教に引っかかってしまう人が少なくないことも、それを裏付ける事実です(つまり人には信仰心が必要なのだという)。

アルコール依存というのも、人生のなかでは大きな危機です。なぜ自分が(他の人はならない)この病気になったのかという悩みを持つ人は少なくなりません。しかし、それをミッションと捉え、乗り越えることが神が与えた試練であり、人生の目的であるとする人の生き方は力強いものになります。

人間の心の奥底にある信仰心は、危機に働いて人を助けてくれる、人間の健康の一要素です。

なぜこんな話を書いたかというと、虐待による複雑性PTSDは、この心の奥底にある健康な信仰心を破壊してしまうのです。危機にも意味があり、それを乗り越えることに生きる意味がある、と信じられなくなってしまいます。しかし、そうした健康を失ってしまった日本人に、それを説明することは骨が折れるのである、という話です。

(神戸の連続児童殺傷事件と取り違えて記述しており、指摘を受けて訂正しました。ありがとうございました)。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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