心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年11月01日(火) 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

日経バイト誌が休刊だそうであります。bit誌もすでに休刊。これからやってくるソフトウェアエンジニアたちは、いったいどこから情報をえるのでしょうか?

さて10年前。

農夫であった父の晩酌は決して贅沢なものではありませんでした。
ビールがあればビールを、日本酒があれば日本酒を、焼酎があれば焼酎を飲んでいました。その日の飯はまずくても、酒さえあればという飲み方でしたから、多分にアル中的ではありましたが、夕に酒を切らしていることに気づいても、決してあわてて買いに出ることもなく、仕方なさそうな顔をして寝てしまう人でありました。

金がないときはホワイトリカーをお湯で割って飲んでいました。梅酒などを造るための酒で、そのまま飲むためのものではないので、アルコール臭い、ただ酔えるだけの液体でした。父にとって酒は体を温め疲れを取るためが第一で、味を楽しむのは二の次であったようです。僕は自分で酒を買いに行くのが面倒になると、父の酒を盗んで飲んでいたので、ホワイトリカーにもずいぶんお世話になりました。

なるべく父の酒を盗むのはやめて、自分で酒を買ってこようとは思うのですが、夜中に酒を切らすとやむなく台所の父の酒を失敬するのでした。翌日の夕になって酒が減っているのを見つけると、父は「夕べは台所に頭の黒いネズミが出たようだ」とつぶやくのでした。

「頭の黒いネズミ」と呼ばれるのはとてもバツが悪いものです。浅知恵を働かせた僕は、失敬したぶんだけ瓶に水を入れ、父の酒を薄めてごまかすようになりました。焼酎やホワイトリカーはともかく、日本酒は水で薄めるととたんに味が変わります。おまけに、薄めすぎると燗をつけるときに沸騰してしまうのでした。
これには父も母も怒りあきれたものでした。
聞けば、兄は高校生の時に同じことをしたそうです。それを30才を過ぎた自分が毎晩やっている愚かしさです。

息子が精神病院に入院するようになっても、父は夕食の席で酒を飲むのをやめませんでした。別に僕もやめてくれとは頼みませんでした。

だが、10年前のあのとき、父はふっつりと晩酌をやめてしまいました。
何日か経ってそれに気づいた僕は、母に尋ねました。
「親父が晩酌をやらなくなったのはなんでなんだ? やっぱり俺に原因があるのか?」

それを聞いた母は、「お前は自分の言ったことを覚えていないのか」と僕をしかりました。
なんでも、母は「どうやったらお前の酒が止まるのか」と自分の部屋で飲んでいた僕に尋ねたそうなのです。そのときに僕は「毎晩毎晩目の前で親父に酒を飲まれて、俺の酒が止まるわけはないだろう」と答えたそうなのです。

それは単に酒が止まらない言い訳に過ぎなかったのでしょう。だが、母は真に受けて、父に「息子の前で酒を飲むのをやめてくれるよう」頼んだのでした。なんと言っても、息子はあと1ヶ月ほどで結婚式を迎え、この家を出て行ってしまうのですから、そう長い辛抱ではないと父も思ったのかもしれません。

「親父は別に酒をやめた訳じゃないだろう。晩酌の代わりに寝床でウィスキーを飲んでいるんだから。こそこそ飲まないで堂々と晩酌をしてくれればいいんだ。冷たい酒は親父も好きじゃないだろう」

僕は父母の寝室から偶然のぞいた光景を、僕は言葉にしてしまいました。

寝室で酒を飲んでいることを息子に知られたと知った父は、その日から寝室で酒を飲むことすらやめてしまいました。

完全な禁酒に入った父とは対照的に、息子の僕の酒は止まりませんでした。

数日後、野菜を出荷しに行った市場で、父が意識を失って倒れたという報が母の元に入りました。珍しく僕は朝から仕事に行っていて、夕方までそれを知りませんでした。市場の人は救急車を呼んだそうですが、その到着より早く意識を回復した父は、運ばれるのを拒み、駆けつけた母の車に乗って自宅へと帰ってしまいました。

しっかりした検査のできる大きな病院に行こうという母の意見を聞き入れず、父の行こうとした医者は近所に開院したばかりの内科診療所でした。後年になって母が言うには、父は大きな病院に行って入院するのが嫌だったのだろう、野菜の世話ができなくなるのが嫌で、入院施設のないところにこだわったのに違いないというのです。僕もそれは父らしい考えだと思います。
結局夫婦は意見を譲歩し合い、それなりの検査設備のある個人医院にかかりに行きました。

診断は心筋梗塞。入院すべきかどうかは自宅で安静にして数日様子を見てから、必要なら大病院に紹介する。たばこは厳禁。お酒は血行を良くするので一日一合までならよし。という話でした。

これで父も一合だけ酒を飲んでくれるだろうと思うと、自室で隠れて酒を飲んでいた僕の罪悪感も少し軽くなりました。しかし、翌日起きてみると、父は酒は飲んでいなくて、かわりに灰皿に何本かのたばこの吸い殻がありました。「医者の言いつけを守っていない」と母は父を責めました。

その日の晩は、母は僕の息が酒臭いことはとがめずに、僕と二人で父を入院させた方がいいか、させるのだったらどこの病院がいいか相談していました。寝室で寝ていた父が起きてきて、どうしても体が冷えてしかたないので今夜は居間のコタツで寝ると宣言しました。僕と母はコタツを明け渡して、それぞれ寝室に下がることにしました。

「親父、一合だけだったらいいんだ、一合だけなら体にいいって医者も言ってるんだ」

記憶はすでにぼやけて曖昧ですが、おそらくそれが父と交わした最後の会話になりました。

翌朝、体から酒が切れて苦しくなって不必要に早く目が覚めた僕は、すでに明るくなっているものの酒を買いに酒屋まで出かけるか、それともお勝手から父の酒を失敬するか、迷いながら廊下へと忍び出ました。
どっちにしても、居間のコタツで寝ているはずの父にばれるとバツが悪いです。父が起きていないか、確認しないといけません。そっと居間の戸を開けて覗き込んでみると、父がおかしな姿勢で寝ていました。前の年に祖母が亡くなったときもそうでした。そんな格好で寝ていたら苦しいだろうという姿勢で人が寝ているときは、もうその人の寿命が尽きた後なのです。

コタツの脇の灰皿には数本の吸い殻が残されていました。
母を起こしに行きながら僕は、禁断症状で体は苦しいけれど、これからまた飲んで寝るというわけにもいきそうにない、どうやら苦しい一日が始まったようだと感じていたのでした。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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