心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2003年12月23日(火) 単なる知識

ことわざに、喉もと過ぎれば熱さ忘れると言いますけれど、酒を飲んでいたころの苦しさというものは過去のものになりつつあります。あの絶望感であるとか、孤独感であるとか、一日の長さ短さとか、肉体の苦痛の連続だとか、それはもう言語による記号でしか思い出すことができなくなっています。
「飲めば必ずトラブルになる」ということも知識としても経験としても覚えてはいるのですが、それでも「ひょっとしら今度はうまく飲めるのでは」とか「治っていても不思議でない」という完全に非科学的な考えが頭の隅っこに顔をだすことだってもちろんあります。
まるで普通の人のように生きているような気になってしまえば(つまり自分がアル中でなくて、普通の人だと思うようになれば)機会さえ訪れれば飲んでしまっても不思議ではないでしょう。でも、飲めば破滅です。

「俺はもったいないから酒を止めてるんだ」と言った仲間がいました。せっかくお酒が止められた数年間があるのだから、それを無にするのは、あまりにも「もったいない」と。

悪いことが重なって「運悪く」スリップしてしまったという話を聞きますが、まあ「後から考えれば、ほとんどのスリップには原因があったことがわかる」と書かれていますから、スリップに偶然はないのでしょう。

でも、ソブラエティが始まるのに「運良く」ということはあるのかもしれません。たまたま良い条件が重なったために、しばらく酒を止めることができたという場合です。僕の場合もそんな僥倖のソーバーだったのかもしれません。あとは、そのしらふの生活をたまたま少し大切にするができただけなのかもしれません。
ソブラエティを大切にする人もいれば、粗末にする人もいます。粗末にしていれば、運の悪さに耐え切れない。それは僕も同じ条件です。

生活環境が安定しているほど、ソーバーを粗末に扱ってもドライは続いていくものです。変化にとんだ人生を送っている人ほど、きちんとプログラムをやっているなぁ、とソブラエティ評論家みたいなことを言ってみたり。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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