Silent Song
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2005年11月12日(土) 「結婚」という選択肢も考えられるように…。〜自分の育った家庭を振り返って〜






・・・・私は十代の頃から、

「自分は絶対、一生結婚なんてしない。
だから一生働ける仕事につかないといけないんだ。」


…って、

すでに自分の人生の選択肢から、
「結婚」なんて選択肢は、ありえなかった。

世間では「結婚は幸せ」というイメージが
蔓延してるけれど、
私は自分の両親の”現実”を見てきたので、
とてもじゃないけど、そんな風には思えなかった。

・・・・。

・・・私の両親は、
私が子供の頃、仲が悪くケンカばかりしていて
(…といっても、お母さんがお父さんに一方的に
文句を言い、お父さんは母に向き合わずに黙りこんじゃう、
って感じだけども・・。)
その後も日常生活に、会話がほとんどない、
「冷え切った夫婦関係」だった。

父は朝から深夜(0時過ぎ)まで仕事、仕事で、
ほとんど家庭や私のことに触れる時間はなかった。
("ワーカーホリック"だったと思う。)

・・・ううん。たとえ時間があっても、
”自分の家庭”なのに、”自分の子”なのに、
「全く、我関せず」な態度で、
全く私のことについても「無関心、不干渉」だった。

だから私は父に対して、
「他人」と同じようにしか思えなかった。
それどころか、「苦手」だった。
私は家族なのに、「実の父親」なのに、
父に酷く「人見知り」をしていた。
ただ、お給料を稼いでくれるだけの存在だった。

居間で母と二人でコタツを囲んで楽しく談話していても、
父が会社から帰ってくると、
二人ともササッと自分の部屋に戻り、
散り散りになった…。

だからといって、別に父が嫌いだったわけじゃないけれど・・。

気の強い母はお父さんを卑下する悪口を、
たまに機関銃のように浴びせていた。

お父さんはひたすら黙っていた

ただ会社を往復する人生で、休日はほんとど寝て過ごして、
家族にも見捨てられた、【孤独なお父さん】・・・。


だから、私は父を「憐れ」に思っていた。

私は父にも母にも心を開けず、孤独だった。

大学時代に通ってたメンタルクリニックで、
医者に”両親のイメージ”について聞かれた
時の受け答えを、未だに覚えている。


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私:「私と母の間に”防弾ガラス”がある感じ。」

医者:「”防弾ガラス”?(苦笑)どっちが”銃”をもってるの?」

私:「うーん…、そういう意味で言ったんじゃなくて、
   透明だけど、お互いの間に、決して壊れない壁がある
   っていう感じで言いました…。「強化ガラス」でもいいかな…。
   ”銃”をもってるとしたら、「母」の方かな…。
   私は母が怖いから。心が開けないから…。」

医者:「お父さんについては?」

私:「…【可愛そうな人】【孤独な人】。
   会社で働くだけの人生で、なんのために生きてるのかわからない。」

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・・・こんな受け答えだった。

メンタルクリニックで母子で通うよう医者に言われ、
母子で通ってるうちに、
母は自分の娘が

「自殺しか考えられないくらい、
精神的に酷く辛い状態の日々を送っていること」、

「若くして、自分の人生に悲観と失望しか抱いてないこと」
等、

自分の娘の「現実」と「心の闇」、「苦しみ」に、
ようやく気づいて目が覚めた母は、
私に向き合うようになった。理解しようとするようになった。
私を一生懸命、受容しようとしてくれるようになった。

何度も”修羅場”を経て、ぶつかり、母が私を受け止めることで、
ようやく私にとって母は、
(精神的にも心を許せる存在の)【母】になった。


私は物心ついて初めて、
【母に甘えられる安心】
得られるようになった。

…でも父はダメだった。

1度だけ、家族3人で診察を受けたこともあった。

…でも父は変わらなかった。

あくまで私のことは無関心、不干渉で、
母に家庭の全てを任せていた。


・・・・・。

・・こんな環境に育った私は、
「恋愛」や「男性」に対して、すごく【否定的】だった。
「結婚」なんて”人生の墓場”いいことなんてない”」
って、自分の両親の夫婦関係を直に見ていて痛感していた。

「”家族”って”夫婦”って、こんなもの…」だと、
既に諦めていた。

・・・・・。

こんな家庭環境に育ったからか、
「結婚」にも当然【夢】なんてもてなかった。

「幸せ」どころか、むしろ「不幸な選択」だと思っていた。

だから「独身主義者」だった。



・・・・・・。


…でも、
それが最近、徐々に変わっていくのを感じる。


まず、
連れとの関係が私の「冷めた恋愛観」を変えた。

生まれて初めて「恋愛の幸せ」を知った。
「愛される幸せ」を感じた。

そして、私がこの年になり、
父が定年を(実際はまだしてないけど、
生活自体はもう「定年」した状態
)迎え、
常に家にいるようになって、

父もようやく自分の娘の「現実」を自分の目で見られるようになった。

両親は(私の心の病を二人で支えなきゃいけない
と思ったことも大きく影響してると思うけれど)、
「諦め」→「静かなお互いへの理解」へと変わり、
日常生活でも(多くはないけれど)会話をするようになった。

・・・・・。


そして父は、一つの「修羅場」を経て、母に

「私にはどれだけ冷たくてもいい。
でも静花さんだけは自分の子供なんだから、
もう少し接してあげて!優しく理解してあげて!」

「○○さん(連れの名前)の存在、○○さんという”心の支え”なかったら、
あの子、とっくに自殺してるよ!」

…と、泣かれながら、こっぴどく叱られて目が覚めたようで、

父もようやく最近になって、
「私を理解しよう」と努力してくれるようになった。


私が人生に悲観して泣いたり、
家族に感情的にぶつかったりしても、
以前みたいに逃げないで、向き合おうとするようになった。

日常生活でも、
私のことをとても気を配ってくれるように
目に見えて、優しくなった。

あんなに
「もうあの人(父)は(感情がないから)、変わらない。
愛情や理解を求めても、しょうがない。」


…と完全に諦めてたのに、
ようやく今になって、変わってくれた。
(遅かったけど…)

・・・・。

そうして、
母、父、連れ…と3人で、「家族」で、
私を支えて理解してくれるようになった。


…だから、私は今、
有る意味、とても「幸せ」だと思う。

だから、
ようやく最近になって「家庭」や「結婚」「夫婦」にも
いいイメージがもてるようになった。

…そうして、

あくまで「逃げ」としての選択ではなく、
一つの”自分の人生の選択肢”として、
「連れと結婚すること」も選択肢として、
考えられるようになった。


それを「幸せ」なことだと
気持ちから思うようになった。

・・・・・。

この気持ちの変化は、昔の自分にはとても考えられない。
かつての自分には、”予測”すらしなかったのに。

「人生って本当、どうなるかわからない。」

…とつくづく思う。

どれだけ緻密に自分の人生の「プラン(計画)」をたてて、
その通りに生きていこうと思って努力しても、
そう思い通りにいかないのが人生。

先に何が起きるかなんてわからないから…。

その時(過去に)は本気で、
「もう自分の人生は終わり」だと思ってても、
生きていたら意外に価値観が変わったり、
経験や環境の変化を経て、視野が広がったり、
道(選択肢)が開けたりするもんだな
、と
自らの人生を振り返って思、シミジミ思う…。

・・・・こんな長々と長文を書いて、
何が言いたかったというと、


私の「結婚観」が変わったこと。

そして、

絶対に”ありえない”と思ってた
「結婚」という選択肢も、
連れならばありえるかな」と

最近、考えれられるようになったこと
だ。

そういう生き方もアリだと思うし、
もし失敗して”バツイチ”になっても
それはそれでいいかなって。
”失敗”も一つの大きな「人生経験」だと思うから。

(…ただ”子供”だけは、自分が精神的に「大人」「自立」
できるようになったという”自信”がもてない限り、
作ろうとは思わないけれど…。
「子育て」の大変さを、自分の人生で知ってるからね…。)

まぁ、でも、もちろん、

本当に「結婚するかどうか」は未定だし、
(第一、連れが今後、どんな仕事につくか、
就職できるかどうかも未定だし)

もし「結婚」という選択肢を選択することになったら、
【清水の舞台から飛び降りる】覚悟と決断と勢いが
必要だけどね…。


・・・・・。

もし、

もし、だよ?

私が誰かと「結婚」することがあったら、
一生懸命、パートナーを支え、理解し、
愛する努力をしていきたい。



そして・・・・、

もし、

もし、だよ?

将来、「子供をもつ」ことがあったら、

精一杯”愛して”あげたい。
子供の全てを受け止め、包んで守ってあげたい。



私の育ったような「家庭」ではなく、
「愛」のある、夫婦もお互い理解しあった、
「優しく」「暖かい」家庭を築きたい。

自分が育った環境や、自分が子供として感じてきたことを、
糧(かて)として。

自分の両親を(こういったら悪いけど)、
「反面教師」として・・・。



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