TENSEI塵語

2015年03月05日(木) この半世紀(5) 音楽 -その2-

私はオーケストラの音楽が好きだったのですが、中学校にあったのは合奏部、、、アコーディオンをメインとしたいわゆるリード合奏部でした。
中1の夏休みに音楽に夢中になった私はそこに入ってコントラバスの練習を始めましたが、それと並行して、2年上の先輩が指揮をみっちり教えてくれました。
また、オーケストラスコアを見ながら、主旋律以外のパートの役割とか魅力とかに着目することを教えてくれました。
2年生になってからは部活では指揮するのが主になり、コントラバスの練習はほとんどできませんでした。

高校に入ったら、ギターアンサンブルしかありませんでした。
後に高校の教員になってから気づいたのですが、まだ野球部もなかったのです。
野球部がなかったから吹奏楽部もなかったのですが、当時は吹奏楽部がないことについてもまったく気に懸けていませんでした。
私はそこで少しはギターも教えてもらいつつ、時にはコントラバスも弾きつつ、主に合奏指揮をしていました。
合奏用に編曲して楽譜を書いたり、できるだけ演奏効果の上がる工夫をするのはあたりまえの習慣になっていきました。

大学ではいったんオーケストラに入ったものの、お金がかかり過ぎるので3週間ほどでやめて、ギターアンサンブルに入りました。
そして、2年間みっちりギター合奏に取り組みました。
ギターアンサンブルは表現の可能性が非常に乏しいと思いつつ、いろいろな表現方法を模索しては楽しんでいました。

大学の3年目が終わって引退したとき、もう自分がおおぜいで音楽活動する機会なんてないんだろうな、と思いました。
それでも、OB アンサンブル活動の試みをやってみはしたのですが、うまく続きませんでした。


そして、教員になって3年目、2校目の学校に赴任した時に、吹奏楽部が存在し、希望すればその部の顧問になることもでき、顧問は合奏指導をすることもある、、等々のことを知ったとき、とても驚きました。
こんな風に音楽を続けることもできるんだ、という驚きです。
国語の教員になったのに、国語を教えるだけでなく、生活指導、、だけでなく、音楽を教えることもできるのだ、ということはまったく予想してなかったのです。

実際最初の10年ほどは、音楽の先生と間違えられそうなほど、身の回りに五線紙が散らばっているような生活をしていました。
そうして吹奏楽の顧問をするようになって数年ほどしたころ、市民バンドの指揮者として誘われました。
ちょっとしたバイトになるわけでもありません。
報酬どころか、私自身の希望で、団費も他の団員と同じように納めて、団員のひとりとして扱ってもらっています。
週1回、たった1時間半の合奏練習ですが、部活動とは別に、本当に趣味としてできる音楽活動の場を与えられたということは、とても幸せなことだったと思います。
中学時代に指揮したくて堪らないと思っていたオーケストラの曲も、吹奏楽という形ではあれ、何曲か演奏することができました。

こんな風に、素人がわりと自由に音楽を楽しむことができる、、、これも、この半世紀ならではの現象ではないでしょうか?
市町村の文化活動には、民謡や和太鼓や邦楽、、、は案外戦前にもあったのかもしれませんが、ギターやハーモニカやコーラスなど、さまざまなジャンルの音楽団体が、それほど上手でもないリーダーのもとであっても活動しています。
こういう傾向は、今後もまだ続くのではないかと思いますが、、、残念なことは、こういう活動に対する市町村の補助金はだんだん減っているように思われます。
そんなところにまで金を回せなくなっている、という傾向が強くなっているようです。


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