毎日読んで感心している天声人語だが、 四川省の地震とミャンマーのサイクロン被害に関するものを残しておこう。 簡潔ながら、何と、痒いところをしっかり掻いてくれるのだろう。
四川省の死者はきょうで3万人を超えた。 ミャンマーの方は8万人ほどに及んでいる。 中国は数日前から海外からの人的支援を少しずつ受け入れ始めたが、 ミャンマーの方は人的支援はあくまでも拒み続け、 物資も横流ししている疑いさえあり、被災者に届いているとは限らない。 「天災が人災に変わりつつある」という批判が出始めているほどだ。
(5月15日) 中国・四川省の地震被災地から、生々しい、悲しみに満ちた報道が届く。 きのう本紙に載った一枚の写真に、とりわけ心が痛んだ。 2人の手が大写しにされて、 「学校倒壊で亡くなった犠牲者の手を握りしめる家族」と説明があった。
泥のついた幼げな手は、なお体温をとどめているかのようだ。 母親なのだろうか。いとおしむように指をからめている。 だが、小さな手が握り返すことは、もうない。 慟哭(どうこく)を聞くような手の表情が、胸に突き刺さる。
学校がずいぶん倒れたという。あの地方を取材した13年前を思い出す。 経済開放が進み、教師らが 「投資効果がすぐ出ない教育は肩身が狭い」と嘆くのを、どこでも聞いた。 校舎の老朽化や、安普請が林立した理由の一つだろう。
経済はその後加速し、貧富の格差はさらに開いた。 現地に入った本紙記者は、貧しい地域や人への被害が大きいと伝えている。 土壁や、日干しれんがを積み上げた粗末な建物は、 激しい揺れにひとたまりもなかった。
自然に厚薄(こうはく)なし、と中国で言うそうだ。 自然は人を分け隔てしない、と。 地震の揺れもしかりだろう。 だが、自然は公平でも、人間の側に様々な不公平がある。 そのひずみを、天災はあぶり出す。
人に過酷な自然の営みが相次ぐ。 ミャンマーで起きた水害の死者、行方不明者は6万人にのぼっている。 死者の4割は子どもだという報告もある。 軍事政権はいまも各国の人的援助を拒み、 被災者の苦難に追い打ちをかけている。 こちらは天災があぶり出したひずみの、最も愚かな一つであろう。
「だが、自然は公平でも、人間の側に様々な不公平がある。 そのひずみを、天災はあぶり出す」 「こちらは天災があぶり出したひずみの、最も愚かな一つであろう」 というまとめに感動してしまった。
(5月17日) ミャンマー(ビルマ)の水害被災者を思いながら、 あの国の短編小説の翻訳集を読んだ。 物語はどれも、イラワジ川のデルタ地帯が舞台である。 豊かな水が漁労や農耕を支える。 その一帯に今回のサイクロンは牙をむいた。
小説には、迷信にとらわれた人々も登場する。 諭しても聞き入れない。 その頑迷を「水牛のそばで竪琴を奏でる」ようだと嘆く場面があった。 日本なら「馬の耳に念仏」だろう。 国際社会の働きかけに聞く耳を持たない軍事政権が、 現地のことわざに重なる。
「モノはほしい。人はいらない」という頑迷を、軍事政権は崩さない。 その救援物資も横流しがはびこっているという。 飢え、脱水、さらに伝染病。 天災から逃れた命が、人災に脅かされる。 いたたまれない様が、閉ざされがちな現地から伝わってくる。
大地震の中国からも痛ましい報道が続く。救援ははかどらない。 「妹を救いたい」と泣きながら、震源の町へ歩く男性を、 本紙の記者が伝えていた。 妻に止められたが、遺書を置いて出てきたという。 被災地を覆う悲しみと絶望に、言葉もない。
その地へきのう、日本の国際緊急援助隊が入った。 9年前のトルコ地震での活動を思い出す。 がれきの中から老いた女性を救い出した。 固唾(かたず)をのんでいた住民から、歓声と拍手がわき起こったという。 たとえひとりでも、死地から救い出された命は、 多くの人に希望と勇気を分け与える。
「命の竪琴」の奏でる調べを、ミャンマーの為政者にも聞いてほしい。 水牛ではないのだから、聞く耳はあるはずだ。
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